第一三二話 束の間の日常
「おっきな花火です!」
ミユキのそんな感想に、トウカは苦笑を大きくするしかない。
夜空に無数の花火が打ち上げられているが、その理由が中距離弾道弾の発射実験を隠蔽する為の方策に過ぎないと知っているトウカからすれば、素直に綺麗だ とは言えない。ちなみにこの世界に於ける花火とは、火薬式のものと神州国の式神を流用した陰陽式のものが覇を競っている。江戸を代表する花火師で人気を二
分した玉屋と鍵屋のような争いでも起きているのかもしれない、とトウカは現実逃避な思考をしていた。
次々と打ち上がる花火。
だが、一際長い噴炎は恐らく中距離弾道弾によるものだろう。
当初は普通に実験をしていたのだが、領民までが噂する段階になり流石に目立ち始めたとマリアベルが策を講じたのだ。中距離弾道弾の存在を隠蔽しつつも、領民慰撫にも有効な手段を考え付いたマリアベルの柔軟な発想には驚くしかない。
「五月雨打ちとは豪勢なことで。領都防空隊もこの状況での航空哨戒は苦労しているだろう」
「でも、みんな楽しそうですよ? 最近はみんな暗かったけどお祭りのおかげで元気になったみたいです」
トウカは黙って頷くとミユキの頭を撫でる。
聞くところによれば、シュパンダウからもこの花火は見ることができるそうで、シュパンダウの領民達も心待ちにしていたようである。
――共に在れ、か。
トウカは北部貴族の高貴なる義務を思い出す。
領民と同じ場所に立ち、同じ視点から前を見据える。そうすることで不満を抑え、苦楽を共にして皆で問題と向き合う。指導者や指揮官というよりも、文明が成立し始めた頃、多くからの支持を受けてそれらを統率する立場となった酷く原始的な上位存在の在り様に思えた。
ミユキに貴族としての資質を疑問視していた頃もあったが、現在のミユキを見れば北部貴族であるなら問題ないのではないかと思えた。
もしゃもしゃと牛フィレ厚切り肉を咀嚼するミユキ。対するトウカはアインゲヘングターという名前のカクテルで喉を潤す。じゃが芋などの穀物で作られた蒸留酒を良く冷やして縦長の硝子碗に注ぎ、その硝子杯の端に鰯の油塩漬け(オイロペイシェ・スプロット)を引っ掛けてあるという一風変わったものである。
飲み方は、最初に鰯の油塩漬け(オイロペイシェ・スプロット)を口に入れ、一気に蒸留酒飲み、口の中で混ぜるというもので、あまり上品とは言えないが飲み出したら止まらない魅力を持っている。塩分を酒で押し流す風味というのは呑み助からすると堪らないものがあるのだ。
ちなみにトウカは五杯目である。
鰯の油塩漬け(オイロペイシェ・スプロット)は、鰯塩漬けに近い造りをしているのか大変塩辛くて酒が進む。魔性の組み合わせである。
「主様、これ凄く美味しいですよっ!」
牛フィレ厚切り肉に大変ご満悦なのか、ミユキは尻尾を揺らしている。
ヨハニスべーレンという見た目は小ぶりの葡萄のように実が付いたものをたれ(ソース)にしたものが添えられている。本来はコンフィテューレ(ジャム)や 洋菓子に使われるらしく、結構酸味が強いそうであるが、赤果実酒や蜂蜜、酢を入れて潰しながら煮込むことで甘みも演出していた。
トウカも卓上小刀で牛フィレ肉を切り分けると突き匙で口に運ぶ。
好みではないヨハニスべーレンの濃汁を付けずに口に入れるが、塩と胡椒が効いており十分に肉本来の旨味が滲み出てくる。
緩やかな一時。
二人は呑気であるが、周囲の警備はないように見えて途轍もなく厳重である。
揺れる小型客船の露天宴席に二人だけという状況は嬉しいものであるが、実際のところ小型客船自体が貸し切りであり、遠方には軽巡洋艦一隻と駆逐艦四隻の 姿が窺える。勿論、小型客船には情報部の配下の者が乗り込んでおり、戦闘艦には非常時に備えて完全武装の憲兵隊が分乗していると聞いていた。
「有名になったものだ」
「そうですよ。私達、有名人です。記者さんがシュパンダウにもいっぱい押しかけてきてますよっ。……一度も捕まったことはないですけど」
付け合せの茹でた野菜と青豌豆のすり身が混ぜ合わされたじゃが芋のすり身を食べるミユキが絶対の自信を見せる。確かに狐を捕まえるのは容易なことではない。ましてや何千年単位で隠れ潜み続けた一族となれば尚更である。
「それは良いことだ。まぁ、暫くは安全だが、フェルゼン近郊での防衛戦が始まればヴェルテンベルク伯と共に……」
「……それは駄目ですよ、主様。私だって貴族なんですから領地にいないと義務を果たせないです」
「ミユキの口から義務という言葉が出るとは……いざとなればマイカゼ殿に子爵位を移譲しても構わないぞ?」
ミユキの汚れた口元を卓用布で拭きながら、トウカは告げる。
もしもの場合に備えてそうした準備と想定は成されている。マリアベルは計画を詰める段階では、ミユキよりもトウカにある程度好意的なマイカゼが子爵位を 拝命するという案を押していたが、シラヌイやマイカゼの腹の内という不確定要素の前に次善の策として準備するに留まっていた。
「むぅ、主様はおとさんと仲良くしてくださいよぅ」ミユキが困ったと狐耳を折って呆れた声を上げる。
子爵位の移譲の相手が天狐族の族長ではなく、マイカゼであることからトウカがシラヌイを避けているとミユキは判断したのだ。ある意味間違ってはいない。蟠りのある者に権力を与えるほど今の北部統合軍に余裕はないのだ。
「まぁ、孫の顔でも見せれば頑固義父殿も軟化するだろうな」
「ええっ、孫ですかっ!? えっと、頑張ります!」
狐耳をぴんと立てたミユキが両手を握り締めてやる気?を漲らせる。
トウカは苦笑しつつも、横に座るミユキの肩を抱き寄せた。
実際、自身に子供ができるなど想像すらつかないことだが、もしもできたならばと不安にならないでもない。子供ができればそのヒトとしての在り方が変質す るという話は巷にも転がっている。それが自身を戦えなくするのではないかという思いと、或いは愛することができないのではないのかという懸念が胸中で渦巻
いていた。ミユキと情を交わした時から考えることを避け続けていた至上命題であり、マリアベルという護りたいモノが増えた状況では目を逸らし続けることが できない問題でもある。
「急がなくても良いだろう。子供ができれば暫くはこうして二人で外へ食事に行くこともできないぞ? こうした緩やかな日々を満喫してからでも遅くはない」
「そ、それは確かに一大事です。……考えてみれば子供は授かりものだから運ですもんね」ミユキは、むぅ、と唸りながら悩んでいる。
そう急ぐ必要などない。ゆっくりと、だが確実に進んでい往けばいい。
「さぁ、ミユキ。最後の花火は大きいぞ」トウカは夜空を指し示す。
最後の花火の数と規模が大きいのは、中距離弾道弾の打ち上げを誤魔化す為なので当然のことである。反発しあう二つの属性を付与された魔力による作用で高 高度に打ち上げ、その時点より本格的に点火という仕組みで、空気抵抗の少ない高高度から滑空するように使用することで射程を延伸していた。
打ち上がる無数の花火。
五月雨のように降り注ぐ無数の閃光に、ミユキが感嘆の声を漏らす。
ふと重みを預けてきたミユキを一層強く抱き止めてトウカは誓う。この日常を護って見せると。
日常のすぐ傍で非日常が併存している今この時代であるが、多くが日常を取り戻す為に戦っている。無論、自陣営が優勢のままに平和を謳歌できることが前提であるが、やはり平和や日常という事象は軍事力や暴力によって維持されるものでしかない。
世界は理不尽に満ちている。
一部の指導者層の思惑で戦争が起こり得ることをトウカは知っていた。国民感情や民族闘争などと言っても、所詮は国益や経済に優先するものではなく、それらは方便に過ぎない。
結局、戦争はなくならないのだ。
世界から戦争を撲滅するなど不可能であり、戦争とは人類が模索し続けた末に見いだした一つの経済活動であり政治的手段である。トウカはそれを否定する心 算はなく、それに勝る経済活動と急速な強制的文化交流の手段を知らないので、それに頼らざるを得ない状況は必ず生じると見ていた。
だが、自身の身の回りの大切なヒトたちが、その様な理不尽に押し潰されるのは願い下げである。
なれば、何とすればよいか。
北部という地域は何故、勝敗に乏しい戦争へと突き進んだのか。
そう、力がなかったからだ。
他勢力と同等、或いは優越し得る軍事力を有していなかったからである。
平和という状態は周辺勢力の軍事力が均等な場合での事象こそを指すのであり、少なくとも非武装においての平和は歴史上存在しない。それらは必ず外交面や経済面、そして精神面での不均衡を生じさせ、最終的には軍事衝突に発展するのだ。
故に北部は己の立場と権益を維持する手段として内戦を選択した。軍事力で劣るならば主導権を得て優位に戦局を推移させようという判断は間違ってはいな い。ただ、アリアベルの権力掌握の手段の踏み台にされるという点が、それに致命的な誤差を生じさせたのは北部貴族にとっても痛恨の失態であったことは疑い ようもなかった。
兎にも角にも、力がないから内戦は起きた。
周辺勢力に優越した力を持っていれば北部は侵略されなかった。帝国との戦争も起き得ないだろう。
マリアベルの傷が癒えずに爛れ続けることもなかった。フェルゼンが空襲を受けて領民が犠牲になることもなかった。在りし日に傷付いたベルセリカを再び戦野に赴かせる必要もなかった。何気ない日常が壊れたりもしなかった。
総てはチカラが足りなかったからだ。
軍事力に政治力、経済力あらゆるチカラが足りていない。
――力がなければ何一つ守れはしない。だからこそ俺は……
ミユキを一層強く抱き締める。
「チカラが欲しい」
「ちょっとトウカ! 今は非番でしょう? 書類を離しなさいよっ!」
リシアは自身の紫苑色の髪を振り払い、あまり整理の成されていない自室で書類決裁に勤しむトウカを襲撃していた。
色々とトウカに対して借りのあるリシアは、それらの取り立てに現れたのだ。
ミユキが北部貴族間での会議の場に出席している状況を最大限に利用してトウカを独占しようとしたリシアの動きは当然ながらミユキも警戒していたが、マリ アベルに引き摺られて連れて行かれたのでミユキに選択肢はなかった。実はマリアベルがミユキを阻む……リシアが有利となる行動に出たのは自身がリシアを煽
り、トウカに楔を打ち込もうと目論んだ結果、リシアがトウカに懸想するという木乃伊取りが木乃伊になるという現在の状況を知っていたからでもある。
トウカを気にする様に仕向けておいて、自身が先に関係を持ったという事実に対してマリアベルは後ろめたい感情を持っており、罪滅ぼしという側面もあった。無論、リシア当人は知らぬことである。
「出かけるわよ。準備しなさい、早く」
ミユキには時間が開いていると口にして余裕を見せているトウカであるが、実際のところは少なくない量の書類決裁が皺寄せを受けて睡眠時間を削っている。 特にトウカは終戦後を見据えた軍事組織変更や部隊編成の想定の叩き台を作ることまで行っており、次の闘争を見据えていた。参謀本部もフェルゼン周辺で行わ
れるであろう征伐軍との決戦の勝敗は然して重視しておらず、帝国の介入を前提とした停戦協定の成立を重視しており、優勢時と劣勢時の停戦条件の策定は既に 終了している。
戦闘時ほどではないものの、トウカは決して余裕がある訳ではないのだ。
しかし、状況は変わった。
帝国軍、南部鎮定軍が先のエルライン要塞攻防戦での被害補充や再編成を終え、行動を開始したとの報が届いたのだ。
帝国内に数多くの間諜を放ち、その上で長距離偵察騎まで運用している北部統合軍がその動向を掴むのは相手の規模からも容易く、そして征伐軍よりも早い段 階でであった。征伐軍は短期決戦を意図して北部統合軍との決戦に持てる総てを投じており、エルライン要塞の防禦力を前提とした作戦計画の下に動いていると 思われている。
「帝国が貴方の思惑通り動き出したけど……そうなると情報部が情報を撒いたとは言え、最良の状況だと判断する指揮官が帝国軍にいることになるわね」
「人中の龍だな。やはりエカテリンブルクが怪しいか」
リシアの言葉に、トウカが疑念の声を漏らす。
帝国に意図的に漏らした情報に対して、その確認の為の対応の速度、関連しているであろう言語の盛り込まれた通信内容……これらを精査することで“人中の龍”が隠れ潜んでいるであろう地域をある程度は絞り込むことに成功した。
その結果、通信は白亜都市エカテリンブルクに集中しているとの事実が、情報参謀であるリシアと情報部によって割り出された。
しかし、エカテリンブルクには北部統合軍が確認しているだけでも二〇人近い政府高官や軍高官、貴族がおり、しかも確認できていない者がいても不思議では ない。トウカは、南部鎮定軍の規模からみてそれの運用に関わるにはそれ相応の宮廷序列や軍階級を有しているはずだと踏んでおり、リシアもそれを基準に判断 していた。
「そうなると帝族が最も怪しいわね。でも第十三位低位継承者のリディア姫……トラヴァルト元帥は南部鎮定軍の指揮官として前線に出ている。となると第四位低位継承者のエカテリーナ姫になるけど、そんな人物には見えないのよね」
報告を受けた限り、第四位低位継承者エカテリーナ姫はそれなりに政治ができる深窓の姫君に過ぎない。そもそも、その政治基盤は脆弱であり、国政にまで深く影響を及ぼせる人材であるとは思えないのだ。過去に目立った動きもないことがそれを証明している。
帝国の防諜体制を圧迫し、皇国内に敷かれているであろう諜報網から諜報員を漸減することを目論んで、エカテリンブルクには現在、大量の間諜が侵入して大 規模な諜報活動が行われている。元より防諜意識の低い帝国内での活動ゆえ、障害は少ないものの、重要人物の防備は皇国よりも強力であり重要情報を得るに 至っていない。
「どちらの姫も大層な美人だそうじゃないか? もし、戦争指導もできるなら隙なしだな」
美女が率いるとなれば、若い男性将兵は奮い立つだろう。トウカは女性将兵を奮い立たせる自信などなく、苦笑を零すしかない。容姿一つで士気が上がるならば、それは極めて費用対効果に優れた現象と言える。無論、指揮官としての資質を備えていることが大前提だが、資質などなくとも司令部に優れた人材を揃えていれば補うことはできる。
「何よ、どうせ被虐思考の心の醜い御姫様に決まっているじゃないの」
リシアは帝国という歪な国家を運営する指導者層に対して決して好意的ではない。無論、トウカの興味が他の女性に向いているという時点で不愉快という理由も少なくなかった。
「兎に角、今日は私と一日、過ごすの! 仕事は参謀本部に任せるわ」
トウカが多くを取り仕切っている現状に対して思うところのある参謀は少なくない。軍事全般に於ける知識と能力が卓越したものであり、既存の知識や経験に 裏打ちされた参謀達の能力を凌駕していた。まるで自分達が無能であるかのように思えてしまう程に有能なトウカに対しては反目するよりも尻込みする者が多 く、一様に憧憬の念を抱いているのは変わりないが何処か一歩引いている。
あまり良い兆候ではない。
そもそも、トウカは孤立しがちなのだと、リシアは思う。
何処か周囲を見切っており、政戦に必要な行動は必ず取るが、それ以外の周辺との交流などをお座成りにしている風に見える。決して軽んじている訳ではない が、人間関係の形成に対して否定的で不得手としているように思えた。トウカに近しい女性の話を聞くに出逢いの多くは流動的なもので、トウカが私的な理由で 積極的に行動に出た例は少ない。
「今日は夜に参謀本部の慰労会もあるんだから、むすっとしてないで早く行くの!」
トウカの腕を掴んで立ち上がらせたリシア。
部屋を飛び出し、廊下を進む。
ロンメル子爵邸は空襲により焼失したので、シュパンダウ近郊の古寂びた小さな洋館に居を構えており、雇い入れている執事や侍女も極わずかなのですれ違うこともない。
「フェルゼン行きの連絡船は夕方までなかったと思うが……」
「私の乗ってきた水雷艇があるから大丈夫よ」
連絡艇として水雷艇を利用している参謀本部には、雷装(魚雷)を降ろした水雷艇が八艇ほど存在しており、シュットガルト湖上の移動手段として使用されて いた。しかし、トウカはそうした移動手段を持たず、訓練中の航空騎に便乗するという手段を使っており、水雷艇を使用していない。
「さぁ、まずは私の私服を選んでもらうわよ。何時も軍服だから私、服って全くないのよ」
ヴェルテンベルク領邦軍は領内での飲食などは軍人であると割引される仕組みとなっており、誰からも一目でわかる軍装を非番でも着用し続けている者が大半 である。その為、私服を全く持っていない者も少なくない。リシアもその一人であった。なまじ礼装としても普段着としても使える軍装があるとそうした部分が
疎かになる。トウカも同様であり、マリアベルとの逢引きの際に着用した三つ揃え背広や長外套程度しか持っていなかった。
「俺は流行など知らないのだが……」
「私の流行は何時も貴方よ」
「そろそろ流行も変わり目だろう? 次はザムエルの季節じゃないか?」
皮肉下げに頬を歪めたトウカに、リシアも苦笑を零す。
そうしたトウカの仕草がリシアは嫌いではなかった。そうでもなければマリアベルに好意を持つことは難しい。ある意味で皮肉を正面から受け止めることのできる人材こそがヴェルテンベルク領邦軍では躍進できるのだ。
ザムエルという流行は軟派な女性には受けがいいが、リシアなどのそうした性格を好まない女性にはトウカが人気である。巷では北部統合軍の双璧と呼ばれて いるらしく、北部の女性の人気を二分していた。共に新進気鋭の将官でトウカに関しては二十歳にも満たない。人気が出ないはずがない。
「少しくらい良いでしょう、女と戯れる甲斐性もないと兵も幻滅するわよ」
「そうした風評は戦野で一蹴っ――」
ごねるトウカを水雷艇に押し込み、リシアは最敬礼を以て搭乗を促す艇長に出向を命じる。いざとなれば空の魚雷発射管に詰め込んででも連れて行く心算であると艇長には話していたので、水兵が魚雷発射管の蓋を開けて待っていたが、その必要はなさそうであった。
こうして、トウカは連れ去られたのであった。
「これなんて良いと思うのですが」
狐耳の形をした耳飾りを手にしてトウカは力説する。
帯革に付ける狐の尻尾まで売っている とは侮れない。当初はそうしたものが普通に売買されていることに驚きはしたものの、考えてみれば《大日連》でもそうしたことはあった。欧米系の金髪に憧れ
て髪の毛を染めて近づこうとする現象の延長線上として、他の種族の生物学的特徴を真似する装飾品が売れるのは何ら不思議なことではない。《ヴァリスヘイム 皇国》の人口統計を見るにそうした大きな特徴を持たない人間種や混血種が人口の半数近く占めている以上、決して客層が狭い訳ではないはずである。
ヒトは何時だって優れた者に憧憬を抱く。容姿から近づこうとすることは何ら責められるべきことではない。何かを求め、何かを目指す熱意こそがヒトを美しく見せる。
自身の野心が美しく見えるならば、共に戦野に赴いてくれる者も増えるだろうと、トウカは狐耳の形をした耳飾りを弄ぶ。
多種族国家であるが故の商売。トウカには思いもよらない商業であり、こうした部分は感心するしかない。此処が安易な漫画や小説の世界ではなく、彼らの生存競争の舞台なのだと実感できた。
「狐耳の飾りを付けさせてナニをする気?」
「ナニをして欲しい? これを付けたら叶えてやらなくもないが」
凄まじく悩んでいるリシアを余所に、トウカは狐尻尾の装飾品をもふもふする。
店員の説明通りならば、狐種の季節の変わり目にある毛が生え変わる時期……毛変わりの際に出た毛を使用しているとのことで本物とのことであった。仄かに獣の薫りがする。匂いを嗅ぐトウカに、汚らわしいと言わんばかりの視線を向けるリシア。
ちなみに今のリシアは認識阻害魔術で髪を黒に染めており、トウカも領民に正体が露呈しない様に軍用大外套の階級章を外してもいた。
「これなんてどうだ? 御前はすらりと凛々しい佇まいだからな」
膝下までの交差柄の全襞筒衣に、赤い膝上靴下は、
リシアの長い脚が映えることは疑いない。問題は上衣だが、胸がミユキやマリアベルと比較するとつる~んぺた~んなリシアの胸囲を隠せるような服装が良い。 露骨にそうした服を勧めると激怒される気がしたので、トウカは明言を避けた。上品な貴族の御嬢様の外出服のようなものがリシアには似合う。対するミユキは 可憐さを重視した服が似合っているが、意外と着物も着こなしている。
リシアがトウカの指し示した服を見て女性店員と何かを話している姿を見つつ、トウカは女性の買い物は長いと嘆息する。ミユキの場合は食料品に集中し、そのまま胃に収まることが多いので買い物の時間は長くなく、衣服に拘ることも少ない。
女性店員に案内されて試着室へと入ったリシア。
トウカは携帯酒筒を軍用長外套の脇衣嚢から取出し、そのまま煽る。中にはウィシュケの樽出し原酒が入っており、喉を焼く様な感覚にトウカは満足げな表情を浮かべる。
完全に戦時体制に移行したフェルゼンは魔力の備蓄を開始しており、巨大な城塞都市内の上空を薄く障壁を展開することで温度調整を行っている機構も魔力節 約の為に出力を限界まで低下させ、魔導炉も出力を上昇させている。肌寒いフェルゼンでは、こうしてトウカの様に酒を持ち歩いて身体を温める者も少なくな い。
トウカは結局、新しい服を買わなかった。
手に入れても意味はなく、喪服の意味も含めて選ばれたという漆黒の軍装こそが自身には相応しい。尊敬される立場にあっても、或いは軽蔑される立場にあっても軍装を纏い続け、自らの指揮で命を掛ける将兵達と共に在らねばならないのだ。
―――という建前でリシアを説得し、軍装のままで良い様に仕向けたのはいいが……
ウィシュケの樽出し原酒を口に含みながら、店外へと視線を向ける。
情報部の影が窺える。
トウカは、このリシアとの外出を誰かに口にしたことはない。にも関わらずこうして尾行が付いているということはあからさまに囮にされていると取れる。尋 常ではない数を見れば護衛よりも他勢力の間諜に対する示威行動や、それを捕獲する為の戦力として見る方が自然と言えた。専門職が本気で隠蔽した場合、トウ カなどが気配を掴めるはずもない。
――参謀総長を囮にするか。あの棺に片足を突っ込んだ陰険爺ぃめ。
情報部を統括するカナリスの策略であろうが、間諜の排除には苦労していると見えた。
中央貴族の各領邦軍の間諜に陸軍情報部の諜報員に加え、帝国の諜報員もいるはずであり、それ以外にも皇国内の内戦に興味を持っている諸外国の諜報を意図 した人員が送られているのは間違いない。それらの排除と利用を意図し、ヴェルテンベルク領邦軍情報部は多忙を極めていた。
――エイゼンタール少佐とキュルテン中尉はミユキの護衛……とすると指揮しているのは対外諜報を担うシェレンベルク中佐か? 帝国が動き出すことが確定したと見て諜報部隊の主力を帝国から引き揚げていたな。もう帰ってきていたのか?
困ったものだ、とトウカは呟く。
遊ばせておく程に人員に余裕がないのは確かだが、了承を得ずに自身を囮にされるのは愉快ではない。無論、放置するしかないが。
トウカとしても大規模な護衛がリシアに露呈しない程に巧妙に展開しているならそれはそれで困ることではない。
――しかし、あの窓から覗く獣耳の群れは何とかならないのか?
形状や毛並み、色の違う獣耳が窓際に並びひょこひょこと揺れている姿に、トウカは溜息を一つ。店内の集音の為に聴力に優れた獣種が展開しているのか、その光景は中々に笑いを誘う。
周囲の者には見えていないのかと考えたトウカだが、見渡す限り獣耳の群れに意識を奪われている者はいない。恐らくは魔術的に隠蔽されて自身だけが見えるのだろうと納得する。
――この護符の効果か? 正直なところいかがわしいことこの上ないが、ミユキから貰った以上捨てる訳にもいかないな。
つい最近、ミユキが手作りしたと手渡された護符は”諸々”の偽装だけでなく、他にも幾つかの効果があると聞いていたが、トウカにも詳しくは分からない。 能力の向上に加えて、能力の多様化まで行っているというのは色々と腑に落ちない部分がある。そもそも、小さな護符一枚に永続的な効果を持つ術式を複数刻印
することは極めて難しいと聞いていたのだが、ミユキはそれほどに魔術に練達しているはずがない。そうした技術は長い教練は必要であることに加えて、元より 軍事機密として扱われている。
「まぁ、良い。効果があるなら問題はないだろう」
トウカは、紐で首に吊った護符を懐に戻して立ち上がる。
丁度、リシアは試着室から出てくるところであり、トウカは近くの店員を呼び止めると生じた経費を尋ねて手早く支払う。有事下の軍人が金銭を使う機会に恵 まれることなど少なく、トウカに関しては夜の街に積極的に繰り出すこともないので、浪費は酒類に限られている。こうした場面で恩を着せる為に投じることに 躊躇いなどなかった。
「似合っているな。落ち着いて見える」
「失礼ね。それだと普段、私が御転婆な様に聞こえるじゃない……まぁ、でも、ありがと」
満更でもない様子のリシアにトウカは手を差し出す。儀礼的護衛くらいはしても怒られまいと考えたトウカだが、視界の端に揺れる獣耳に早まったかと思わないでもない。狐耳が混じっていないことを祈るばかりである。
差し出された手を掴み、トウカは店外へとリシアを誘う。
組み紐を基調とした朽葉色の前開き上衣は落ち着いた佇まいを演出しており、当然ながら気にしているらしい胸囲はゆったりとした布地で隠されている。残酷な現実である。
「今日も大市場が減税に合わせて開かれているようね。行ってみましょう」
「世知辛い事情とは言え、活気はあるようだな」
トウカとリシアは、人ごみを避けるように大通りを進む。はぐれないように手を繋いでであるが、周囲が混雑している上に立場を示す物を付けていない為に気 に留める者はいない。何時もであれば軽口の一つでも飛んでくるが、今のリシアは思いのほか大人しくトウカに黙って手を引かれるだけであった。
「昼は過ぎたからな……何か見たいものでもあるのか?」
「え、ああ、うぅん」
歯切れの悪いリシアに、トウカは眉を顰める。自分から誘っておいて消極的になられると、トウカも手持無沙汰になってしまう。トウカは然して目的などないのだらから。
俯いたリシア。
覗き込む様な真似をして叩かれた記憶があるので、トウカは周囲の様子を窺いながらリシアから切り出すのを待つ。街角の影や露天の隅から生えたかの様な獣 耳が周囲には散見されるが、それが冗談なのか大真面目なのかトウカには見当がつかない。周囲の者は不審に思っているようには見えないが、謎の魔術でも作用 しているのかも知れなかった。
問題は、この場での発言が記録されるという点である。リシアが迂闊な発言をしない様にせねばならない。
顔を上げたリシア。
頬に朱を散らした華の貌。
恋する乙女。
そう称するに何ら違和感のない表情にトウカは身構える。
衆目の面前で愛の告白などされた日にはどの様な噂が広まるか分かったものではない。この場で身分が露呈した上で、そうなればミユキやマリアベルにも知れ渡る。無論、周囲の情報部員が確実に伝えてくれるであろうことが最も憂慮すべき点であった。
しかし、予想していた最悪の言葉が飛んでくることはなかった。
「髪飾りが欲しい……ミユキみたいに選んで」
トウカの軍用長外套の革帯を掴んで物欲しげな様子を見せるリシア。
恐らく、ミユキがベルゲンでトウカが選択して買い与えた髪飾りをリシアに自慢したのだろうが、欲しいと直接言われるということは、ミユキは相当に大仰な “物語”を盛ったのだろうことは疑いない。実情としては隣にレオンディーネがおり、ミユキも合わせた二人からの“圧力”に負けて贈り物という形でトウカが
選んで買い与えたに過ぎない。そこには断じて巷で流行している恋愛譚のような物語は一切ない。
トウカはその程度であれば構わないかと苦笑する。寧ろ、その程度のことに勇気を振り絞っている風に見えるリシアは大層魅力的であり、否とは言えなかった。
「……元の髪の色に合わせた方が良いな」
思案の表情でトウカは、リシアに優しげな視線を向ける。
普段は軍人らしく果断に富み、明朗闊達な印象を受けるリシアだが、本来はこうした少女であるのかも知れないとトウカは思う。軍人として多くの部下を率いる立場になれば、それ相応の振る舞いを要求され、それが長く続けば続く程に自身の本質も変質させていくものである。
右腕に絡み付いてきて微笑むリシアに曖昧な笑みを浮かべて、トウカはたまには普通の少女に戻ることも許されるだろと邪険に扱うことはしない。
「これなんてどうだ?」
「なによその花魁の簪みたいなのは。真剣に選びなさい」
どこかの仕事人のように簪で相手を刺殺できそうなリシアには最適だと、近くの露天の簪を指し示したが不評であった。世知辛い世の中である。髪飾りの趣味に於いては、マリアベルとは相いれな様子であった。
代わりに選んだ髪飾りは桜を模した髪飾りであった。桜と花弁があしらわれた精緻な銀細工は些か高価であるものの、その値段に似合うだけの象意と上品さを 兼ね備えている。祖国の事実上の国花である桜をリシアの髪に添えるというのは気障な気がしないでもないが、流麗な紫苑色の髪には銀桜が良く映えるに違いな い。
トウカは店主に銀貨を三枚渡すと、リシアの髪へと手を伸ばす。
少し後ずさる気配を見せたリシアだが、トウカは下唇を噛み締めて思い留まったのを苦笑しつつ、銀桜の髪留めを付けてやる。
「俺の祖国では桜は事実上の国花だ。物の哀れ……永遠の根源的な思慕という意味が含まれているという見方もある」
物の哀れ(もののあはれは)、日本の平安時代の文学を学ぶ上で重要な概念であった。敢えて端的に表現するならば、染入る如き情緒や無常なる哀愁を示す言 葉でもある。苦悩と不安に満ちた王朝女性の精神から生じた思想であり理念でもあった。とある哲学者は“永遠の根源的な思慕”若しくは“絶対者への依属の感
情”が本質的に潜んでいるとするとしており、多角的捉えることのできる実に祖国らしい表現である。
王朝女性の苦悩……つまり恋の有様を示す桜。
それは長き時を経て民間へと広がり、散って行く儚さや潔さは、諸行無常といった感覚に喩えられて、瞬で咲き乱れ、一瞬で散り往く姿は儚き人生を投影する対象ともなる。
武士道を美徳とした旧日本陸海軍 では、潔く散る桜が自己犠牲の象徴として各分野で多用され、兵器に命名されることもあれば、華が散るという言葉は戦死や殉職の暗喩であり、軍人達の死は桜
の散り様として重ね合されることもある。当時の歌詞にその表現は非常によく使用されていることからも、そうした表現が軍人からも支持を受けていたことが窺 える。
ならば、軍人であり、恋する乙女だというリシアに桜は相応しい華だと言える。
――散って桜と呼ばれるほど潔い女じゃないが……
「あら、口説いているの? 私は何時でも貴方を拒まないわ」
銀桜の髪留めを右手で触れて微笑むリシアに、トウカは肩を竦めるに留める。
儚い恋であるという側面を知らないからこその笑みであろうが、これはミユキに対する“弁解”を含めた意味で選択したのであり、決してリシアの自身に対す る恋心を肯定的に捉えている訳ではない。しかし、情報参謀でもあるリシアの機嫌を損ねることは得策ではなく、邪険に扱うことも気が引けたという折衷案の産 物に過ぎなかった。
しかし、喜んで貰えたなら幸いである。
今は認識阻害魔術で髪色を偽っているが、元の紫苑色の髪色に戻ればさぞかし映えるであろう銀桜の髪留め。銀には邪を払うという伝承もあり、その点も軍人には適している。
「ふん、俺を振り向かせたいなら狐耳を付けるんだな」ついでに尻尾も。
結局、あの狐耳と尻尾の装飾品は、獣の真似事なんて不愉快よ、とリシアが一蹴した為に購入されることはなかった。
その後、二人は市場を当てもなく歩き回り、興味を引いたものに手当たり次第手を付け、気に入ったものを購入していった。
何気ない日常であるが、こんな日も悪くない、とトウカは口元を歪める。
非日常ばかりが人生ではない。
日常があるからこそ非日常は輝くのだ。