第六〇話 紫苑色の少女
「キュルテン中尉、どう思う?」
紫煙を吐き出し、エイゼンタールはキュルテンに問う。
無論、その問いはミユキに対する印象であった。
実は当初よりミユキとの接触はマリアベルの命令で意図されていたものであった。無論、キュルテンの仕事現場を目撃されたことは偶然であるが、顔を合わせ る切っ掛けとなったのでキュルテンの不始末も許容範囲に収まった。罰は先程の根性焼き程度で見逃されることになる。民間人に目撃されたならば、その対応に
苦慮していたことは間違いないものの、幸いなことにミユキはこの一件を黙秘してくれると約束してくれた。実は領主に関連した人物である為、強引な手段を取 れない相手であるミユキは扱い難い存在でもある。
その上、距離を保ちつつも警護せよという命令を受けていた。
エイゼンタールは情報部の実動戦力の指揮官の一人でもある為、多種多様な情報が舞い込んでいたが、ミユキが何故これほどまでに厚遇されているか計りかね ていた。サクラギ中佐の恋人であり、珍しい天狐族の者であるというだけでは、あの剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムという護衛が付くことなど有り得ない。今
回の出兵ではベルセリカも参加する為、それに代わる護衛として二人は選ばれた。マリアベルは当初、憲兵隊一個分隊による護衛を考えていたが、トウカが「自 由気儘にさせてやって欲しい」との一言で歪な護衛態勢となっている。
大切に思うならば箱入りにしておけばいいとエイゼンタールは考えるが、情動から生じる行動に合理性が伴うなどと期待してもいなかった。
「もしかするとあの御嬢さんは転機なのかも」
「転機? ……成るほど。転機、か」
曖昧な言葉であるが、或いはそうかも知れないとエイゼンタールは思案する。
トウカの到来と共にヴェルテンベルク領邦軍の変化が始まり、何れは大きな流れとなるかも知れないという予感が領邦軍を駆け抜けた。しかし、実際はトウカ から始まった変化ではなく、ミユキという仔狐が発端であったのかも知れない。ミユキがトウカやベルセリカを引き合わせ、北部へと訪れ、マリアベルと協力体
制になったと考えられないこともなかった。トウカの過去が全く掴めなかったことから、多くの原因や遠因をトウカに求める情報部の分析官は少なくないが、真 実は眼前の仔狐にこそあるのかも知れないと、エイゼンタールは唸る。
意外とミユキこそが変化の中心にいるのかも知れなかった。
「まぁ、心配で仕方ないんだろうね。妬けるなぁ」楽しそうに笑うキュルテン。
エイゼンタールはその言葉に溜息を吐く。
キュルテンにとって愛とは死と同列の存在なのだ。だからこそ他者に死を与えることを躊躇わず、寧ろ善意に近い行為と捉えているのだろう。
果ての見えない戦乱と飢餓の中で死は救いだった。キュルテンは南エスタンジア……《南エシタンジア国家社会主義連邦》出身の狼系混血種である。戦乱の続くエスタンジアの大地に在って、孤児であったキュルテンの人格形成の要因が真っ当なものであるはずがない。
或いは、キュルテンにとってヒトという生命は死に続けているように見えるのかも知れない。軍人という進んで死地に赴かねばならない職業にあるエイゼンタールにも思うところはあった。
ヒトは生きている限り死に向かって歩き続けている。寿命に差は有れどもその前提に変わりはない。そして軍人という職業は死という事象に対して銃剣突撃を行うような職業である。
苦痛と恐怖から解放される術としての死。それはキュルテンのなかで“救い”へと昇華したのだろう。
「生きることは緩慢な自殺、か」
どうせヒトは生を受けた瞬間から、結末としての死を選択し続けているのだ。ならば己がそれを手助けしてやることを誰が責められようか、キュルテンの考えはその辺りであるとエイゼンタールは推し測っていた。
軍務に支障がないならばキュルテンの思想……否、哲学をエイゼンタールは非難する気はなかった。寧ろ、その哲学ゆえに汚れ仕事と評して差し支えない防諜 任務を全うし続けることができるので、些事は大目に見る心算ですらある。過酷な防諜任務で精神を病む者は少なくなく、キュルテンの様な強固な自我と自負を 持つ人物は有益であった。
「暫くは我々二人がミユキ殿を当人に気付かれないように警護する。……手を出すことは許さん」
「それは性的にも?」
楽しそうに笑うキュルテンだが、今回の命令だけは失敗する訳にはいかない。マリアベルの勅令であることもあるが、それ以上に帰還したトウカが、恋人の不
遇に黙っていることもない、とベルセリカから直々に脅し……助言を貰っていた。下手をするとマリアベルという権力者と、ベルセリカという最強の個人戦力単位、そしてトウカを擁する戦闘団の三者から恨まれることとなりかねない。予算割り当て以前の話となりかねなかった。
「もし、ミユキ殿に不遇を強いれば、剣聖に斬殺されるか、戦車に轢殺されるかすら選ばせては貰えないだろう」
「それもいいね。剣聖と戦車も魅力的だ」キュルテンは無邪気な笑みを浮かべる。
対するエイゼンタールは深い溜息を吐くしかなかった。
「総員、傾注! これより参謀からの今作戦全般の説明がある」
ザムエルの一言に、天幕にいた各隊の指揮官達が一斉にトウカへと向き直る。
指揮官達の剣幕にトウカは苦笑する。それも無理のないことで、この場で作戦計画を知る者は数人しかおらず、陣形から目的を推察することを避ける為に曖昧 な進撃序列で前線へと向かっていた。明確な作戦行動を知らされずに戦野に近づくことに対する不安と、トウカに対する不信感に満ちた視線が突き刺さる。
トウカは、異論を唱えることを封殺する為に目的を端的に述べる。
「今回の作戦目標は大御巫の殺害です」楽しげに嗤うトウカ。
《ヴァリスヘイム皇国》神祇府が大御巫アリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ。
その存在は余りにも強大だった。
アリアベルは単なる宗教的象徴ではなく、同時にクロウ=クルワッハ公爵の娘であり、現在では征伐軍の総司令官も務めていた。容易く近づけるはずもなく、 例え害することに成功しようともクロウ=クルワッハ公爵であるアーダルベルトから恨みを買う可能性があった。そして、宗教的象徴を害するというある種の禁 忌に対する忌避感。
想定すらしなかった作戦目標に天幕内がざわめく。
無論、指揮官であるザムエルや作戦の要所で協力して貰わねばならない指揮官達には事前に伝えてある為、全員が驚きと困惑を示したわけではない。
「その様な事が許されると思っているのでしょうか?」
少佐の階級章を付けた少女の声に続く様に幾名かが頷く。
領邦軍は正規軍とは違い階級による規律が絶対的とは言えない上、郷土師団と同様の特性を持つことから、幼い頃からの友人や近所の知人がいることが普通で あった。それ故に結束を喚起し易いという利点があるが、付き合いの長い者が多い為に正規軍の様な堅苦しい組織風土ではなく、階級差を無視した言葉が飛び交 うことも珍しくはない。
「姓名と階級を」事務的に応じるトウカ。
トウカは部隊の指揮官達の名前を全て知っている訳ではなかった。信頼関係の構築は確かに急務であるが、戦闘団司令はザムエルであり、トウカは参謀でしかない。信頼を集めるのは戦闘団司令の任務であり、トウカの任務は策を献じることである。
「リシア・スオメタル・ハルティカイネン少佐です、中佐殿」
直立不動で敬礼するその少女に、トウカは視線を投げ掛ける。
そこには美しい少女が立っていた。
美人で身体付き(スタイル)も悪くないが、ミユキと比べると抑えられた胸囲で、きりっとした釣り目に整った顔立ちは生来の性格を示しているように感じら れる。そこで、リシアの履歴書を思い出したトウカは、マリアベルが推薦した装甲大隊指揮官であることを思い出す。履歴書が正しいならば、実力だけで陸軍軍
士官学校で首席を取る程の秀才であり、士官学校生時代の成績は常に最上位で、腰に佩用している短剣は首席卒業した証の「恩賜の短剣」である。
だが、何よりもその少女を惹きたてる要素は紫苑色の長髪であった。
流れるが如き紫苑色の腰まで伸びた長髪は、しなやかにして艶やか。
トウカは紫苑色ではないと心中で否定する。本当の紫苑色とは自身の紫水晶の如き瞳を指すのだ。
そこでトウカは己の内心に根差した紫苑色への固定的な感情に眉を顰める。可能な限り自らを取り巻く事柄について公平な視線を心掛ける様にしているが、 “紫苑色”に関してはそれが当然であるかのように己の瞳こそが“紫苑色”だとトウカは感じ、それ以外に思考が続かなかった。
――俺は紫苑色に固執している?
否、詮無いことか、とトウカは思考を止める。所詮は色彩についての固執に過ぎず、状況の変化に何ら寄与しないという判断からであった。
下らないことだと頭を振り、トウカはリシアを見据える。
「ハルティカイネン少佐……残念ながら小官は大御巫の捕殺は欠点を上回ると判断している」
クロウ=クルワッハ公爵の激怒を誘うことも、宗教的象徴を害することも言い訳が立つ。前者の場合は、そもそも大前提として貴族が戦野に赴くのは義務に果 たそうとしたからであった。そこに親としての感情を持ち出す俗物ならば政戦共に付け入る隙は十分にある。問題は宗教的象徴という点であるが、これは政教分
離の大前提を犯したアリアベルの側に問題があり、宣伝次第では宗教家の妄執も払拭できると判断した。それほどに初代天帝の制定した政教分離は重要視されて いるのだ。
「政治的対立への対処は我等の仕事ではないと?」
「我等は軍人だ。軍人が己の与えられた権利と武力の範疇でこれを解決する。これを躊躇う必要はない」トウカは断言する。
そもそも政治的解決が叶わなかったからこそ、政治の延長線上である軍事的解決を双方が図っているのが現状である。宗教問題は正規の戦力単位などに然した る影響を与えない。祈るだけで敵軍を瓦解させることなどできはしないのだ。そして、北部地域の臣民は神祇府に対して不信感を抱き、同様の宗教でありなが ら、別の宗派に近い現状を受け入れている。
「しかし、大御巫が害されれば国家全体の士気が下がる事は……」
「ない、断言しても良い。その上、宗教的熱意は帝国の侵攻を止め得ない。それを軍人たる君達も良く理解しているはずだ。今この時代、武力に勝るということは何よりも正義なのだ……尤も、私は正義など信じないし興味もないが」
尚も食い下がるリシアの言葉を遮り、トウカは再び断言する。
無論、動揺が走ることは避けられないが、それは中央貴族や征伐軍ほどではない。北部はその置かれた状況から天霊神殿の権威は無視し得ない程ではなかった。発展期から他の地方とは違い、その寒冷な気候に苦しめられ、食糧にも精神にも余裕がなかった為に。
「それは極論です。臣民の蜂起の可能性だってあるはず。それに天霊神殿も……」
「大御巫が敵対した時点で天霊神殿は中立ではない。例え大御巫に引き摺られた結果だとしても我らに敵対したのだ。そもそも、なぜ大御巫は声を上げて蹶起軍 を非難しない? 決まっている。政教分離の大原則を犯したことを己が理解しているからだ。その話題を持ち出すこと自体が、己の破滅に陥る可能性を孕んでい る故に、な」
大御巫にとっても兵権の保持は綱渡りなのだ。敵味方問わずその事実に意識を向けさせかねない行為を行うことは危険と言える。
よって大御巫の死後も同様に、天霊神殿は北部を非難できない。それは大御巫の行動を肯定する行為であり、大御巫の専横を止められなかった己への非難となって反転するからである。
例え軍事力の保有を肯定したとしても、天霊神殿に征伐軍を統制し得る人物かいるとは思えない。陸海軍府長官を説得し、正規軍と領邦軍(領邦軍)のなどの混成部隊の混乱を抑え、統制を維持できるだけの人物はアリアベルを置いて他にはいないのだ。
「発展期から今日までを通しての逼迫した状況でも、北部は他地方ほどに天霊神殿への信仰心を持たなかった。その理由は?」
畳み掛けるような言葉に答える者はいない。
マリアベルがヴェルテンベルク領を拝領した後より始まった北部発展期から冷遇は始まっていた。近年の天帝達の左翼的思想による展開兵力の著しい削減。その事態に対応する為に各北部貴族の行った領邦軍軍備拡充に対する規制と緩やかな経済封鎖。
それらに対して天霊神殿は沈黙を守った。
天霊神殿自体が天帝招聘の関係から中央貴族と近しい関係にある。歴代の大御巫の多くが生まれながらに強大な力を持つことが多い高位種……特に七武五公の 血縁から排出されていることも大きい。現在起きている蹶起は”カノッサの屈辱”と同様に横柄な宗教に対する暴発の結果とも言える。彼らは共に責任を負うべ き立場にいるのだ。
それらを考慮すれば政教分離の大原則など内戦以前より破られていたと取れなくもない。政治が宗教の影響を受けて消極的対応になったならば、それは紛れもない干渉である。
「簡単なことだ。北部臣民は神殿の祭壇からの言葉よりも、自らと共に汗水を流す貴族こそを慕ったのだ。天霊神殿への信仰心よりも北部貴族への敬愛が上回った……それは諸兄らこそが理解しているはずだ」
トウカは天幕内を睥睨する。
天狐族の里の防衛の為に領主であるマリアベルが赴いたことを、トウカは長きに渡り疑問に思っていた。それは兵士の職分であり領主の義務ではない。領主が斃れた際の混乱を考慮すると不用意に戦野に赴くことなどできはしない。
何故、その様に軽々しく戦野に赴けるのか?
当初はマリアベルの気性がそうさせるだけであると考えていたトウカだが、それは前線配置された部隊の将校の一覧を見て払拭された。
呆れるほどに貴族を示す称号の多いことか。
何のことはない。北部貴族にとって戦野に赴き、兵と共に戦塵に塗れることは当然のことに過ぎないのだ。北部発展期には兵力と指揮官の不足の為に領主自ら 兵を率いて出陣することが日常茶飯事であり、その伝統が今日に至るまで連綿と受け継がれているのだ。無論、皇国という国家の貴族はその傾向が強いが、北部
はその中でも傑出していた。一族全てが前線配置など珍しくなく、全滅による御家断絶など恐れていない様にすら思える。
その主たる原因は、銃火器が決定的な打撃力と成り得ず、砲兵に匹敵する性能を有する砲撃魔術が存在したからである。個人が銃弾という圧倒的貫徹力を防ぎ 得る障壁と、扱える人間に制限はあれど、銃以上の威力と射程を実現できる砲撃魔術があるがゆえ。銃や砲に武士の誇りや騎士の伝統を奪われることはなかっ
た。対魔導障壁武装として対魔導術式を面積的、強度的に刻印可能な武装が刀剣であることも拍車を掛けた。何たる皮肉だろうか。魔導文明国であるからこそ皇 国は未だに古き佳き戦い方と高貴なる義務に固執している。
北部貴族とは、ある意味近代史に於ける奇蹟の指導者層であるかも知れない。
その多くが、その身一つを以てして、指導者の何たるかを体現している。
「この大地に赴いて然したる時を経ていない小官ではあるが――」
トウカは呆れるしかなかった。戦国時代の指揮官先頭の伝統が、現代戦が行われる時代まで受け継がれるなど。
だが、桜城家もそれを是としていた。実行するか否かは状況によるが、その精神なくしては軍神足り得ないことを誰よりも知っているからである。後方より攻 勢を命じ続けるだけの指揮官は、例え勝利を重ね続けたとしても名将とは称賛されない。将兵の損耗を最大限に減らすように努力し、散り往くはずの者にも叶う
限りの可能性を持たせ、そして何よりも共に刃を振り翳し死地を共にする者であるからこそ名将と呼ばれ、軍神と称されるのだ。
適度な称賛と罵倒を織り交ぜつつ、トウカは今作戦に於ける効果と可能性を説明する。作戦内容に関しての疑問が次々と提議されるが、トウカは暈かすことなく応じた。無論、成功体験を知るトウカと、士官達の認識の差は如何ともし難いが、技術的には可能であるという事実と、実証実験では成功しているという結果を以て取り敢えずの不満と不信感を押さえる。
新規技術と新規戦術は、何時の時代も現場指揮官には忌避される。
結果を証明していない理論や武器に命を預ける彼らの不運と不幸はトウカが持ち込んだ。可能な限りの義務を果たすことは避け得ない。
トウカは参謀である。
それは本来、指揮官であるザムエルの職分であるかも知れない。
だが、征伐軍の将校の多くはそれを職分に関係なく実行している。伝統と言ってしまえば其れまでであるが、トウカはそれほどに気高き意志を持つからこそ信用に値すると判断した。
「――この北の大地に住まう者達の凛冽なる郷土愛を信じている」
今一度、異邦人は天幕内を睥睨する。
異論を唱える者はいなかった。
「何なのあの男は……あんな戦争屋に全てを賭けるなんて危険すぎる……」
紫の長髪をした少女は、改修型Ⅵ号中戦車の車体側面を力強く叩く。
参謀となったサクラギ中佐は異端の一言に尽きた。
機動力を最大限に生かした戦術を展開し、戦線を瞬間的に突破。短期間で敵の策源地に侵攻し、これを破壊する。
これは納得できる。
機動力を生かした戦闘は騎兵や装虎兵、軍狼兵によって戦史上でも度々行われており、単一兵科で統一した装虎兵の|強襲突撃(Sturm Angriff)や、軍狼兵の|対砲吶喊(Kanonenjagd)などは周辺諸国から恐れられている。前者はその打撃力と防禦力で前衛を正面から薙ぎ払
い、後者は優速を利して間隙を縫って迫ることで敵砲兵を噛み砕く。壊乱して逃げ惑う敵歩兵の速度よりも速い機動力を有する双方の兵科にとって、戦意を失い 壊乱した部隊は格好の草刈り場となる。
それは、《ヴァリスヘイム皇国》で戦を生業にする者であれば、必ず一度は夢見る光景。
故に双方の兵科は狭き門でもあるにも関わらず、春先には多くの若桜が詰めかける。無論、魔導資質や身体能力に優れ、その機動力故に目まぐるしく流動する 戦場でも的確な判断力が必要とされる両兵科での任務に耐え得る者は極めて少ない。在学中にも涙を呑んで他兵科や各地の領邦軍士官学校に移籍する者も多い。
だが、紫の長髪をした少女……リシアは少し違った。
装虎兵に憧れて陸軍士官学校装虎兵科に入学することには成功したが、この限りなく紫苑色に近い髪の為に問題が起きた。大商家の倅に言い寄られた事が発端 で、リシアはこれを素気無く断ったのだが、相手は諦めなかった。実はリシアは将来の昇進や立ち回りを考え、大商家の倅に靡いてみるべきかとも悩んだが、同
時に予期せぬ制限が付くのではないかとの懸念から辞退する。恋や愛などという幻想に現を抜かす気にはなれず、基本的に相手が複数の女性関係を持っていたと してもリシアはそれを否定する気はない。ある程度の線引きを弁え、自分に迷惑が掛からないならば問題はなかった。重要なのは大手商家の倅の女性という立場 がどれだけ自分に有利に働くのかという一点のみ。
しかし、大商家の倅はリシアの想像を超えて純粋だった。
それがリシアの心に影を落とした。
この様に純粋に己を慕う者を利用してよいものか、と。
己が冷徹であるとリシアは考えていたが、やはり何処かで冷徹になり切れない部分があった。
マリアベルの様に。
それがリシアの目標であった。
皇国は他国と比してその臣民の多種族性から女性の権利が大きい。ほぼ同等と言ってもよく、強大な種族が多く住まうが故の特徴であった。龍は女でも龍であ り、それは虎であれ狼であれ変わりはない。性別よりも種族などに重きが置かれる為で、陸海軍が女性将兵の登用を積極的に行っているのはそうした理由に依る ところである。
閉鎖的な貴族社会を颯爽と駆け抜けるマリアベルは、リシアの憧れであり遙か高みに存在する目標だった。
だが、大商家の倅を愛することはどうしてもできなかった。
その理由はリシアにも分からない。
しかし、残されていると考えていた時間は、余りにも早く決断を迫り始めた。
大商家の倅の父親が接触してきたのだ。
しかも、別れて欲しいというものではなく、是非結婚してくれとのものだった。これはリシアの紫苑色の髪を利用しようとしたからで、その意図はリシアも察 していた。紫苑色とは神聖にして不可侵の色とされ、その恩恵は例え限りなく紫苑色に近いだけとしても計り知れない。無論、法的な保障が明確に設定されてい
る訳ではないものの、宗教的起源や天帝大権にも記述されている為、臣民にとっては憧憬と敬愛の象徴であり続けている。何よりも紫苑色を象徴する存在の歴代 天帝が四〇〇〇年を超える治政を紡いており、特別視されることは避けられない。
それを利用しての商業活動。
冗談ではないとリシアは思った。
利用してやろうと考えていたリシアであるが、大商家そのものが己を利用するとまでは考えていなかった。最悪、軍など辞めて舞踏会の華となれと言われる可 能性があり、屋敷に軟禁されることも有り得ないとは言えなかった。この大商家が風評で他の商家に押されており、その劣勢を巻き返すための手段としてリシア に目を付けたのだった。
不穏な空気を察したリシアだが相手も引き下がらない。陸軍士官学校装虎兵科の首席であった事も相まって、リシアの利用価値には期待の装虎兵士官という肩 書も卒業と同時に追加され、大商家の影響力を背景に急な昇進も可能となる。しかし、それは安全な銃後で司令部の椅子を温めて得た階級。
あのマリアベルならばそのような状況を良しとするはずがない。
無論、リシアも戦野での華々しい活躍に憧れており、その様な思惑に乗る気はない。不透明な未来を選ばずに保守的な現状維持を優先したとも取れるが、大商家も引き下がれなかった。好敵手である大商家は見目麗しい長女を中心にして精力的に纏まっていたが、此方は衝撃がない者ばかりで求心力に劣った。リシアからすると舞踏会や商業取引如きでそれほどに熱心になる理由が理解できなかったが、それらを長きに渡って強かに続けていたからこそ大商家は商業分野に於いてその大きな勢力を誇ることに成功した集団である。
結果としてリシアは逃げた。
目を付けられたのが運の尽き。極めて執拗に婚約を迫る大商家の当主に、リシアは己が不安定な立場に置かれたことを自覚した。下手に断われば軍の人事に介 入して昇進を遅らされる可能性や、財力にものを言わせた恫喝などが待っている可能性もあり、それらに対して一装虎兵訓練生でしかないリシアに対抗する術は なかった。
特に北部で中心的な存在となっているヴェルテンベルク領出身であるリシアには味方が少なかった。幸いなことに装虎兵兵科学校の校長は武断的な人物で卑劣な行為を嫌う公明正大であったが、正直なところは内心でそこまで大事にしてしまえば将来に響くという諦観もあった。
リシアは生来、他者に頼ることを忌避していた。
孤児であったという理由もあるが、それ以上にマリアベルの孤立主義に憧れていたからであり、颯爽と世間を歩んでいきたいという願望に依るところであった。周囲からすると文句を垂れながらも面倒見が良い素直ではない娘として捉えられているのだが、当人はそれを知らない。
大商家という強大な権力から逃れ得るには、その勢力圏から離れなければならない。
それは皇国内に於いて緩やかながらも経済封鎖された北部しかなかった。
つまりは郷土。
幾つかの大商家も北部の潜在的経済力、資源力を目的に介入を試みたが、それはマリアベルが金銭を奪えるだけ奪うと掌を返すように叩き出した。経済的な圧 力だけでなく、軍事力を背景にした大規模な恫喝に大商家は反抗を考える気力すら喪失し、北部から撤退した。正にマリアベルの独壇場と言える有様であったと 当時の者達は口を揃えて言う。
リシアは北部に逃げた。否、帰郷したと言う方が正しい。
退学届を校長に叩き付けて、夜逃げ同然で逃げ出したリシアは、皇都中で噂になったと風の便りで聞いた。装虎兵科首席が突然、退学するなど前代未聞であ り、大層な問題となったことは容易に想像が付くが、リシアは同時に陸海軍の腐敗も始まっているのだと考えていた。左翼思想の天帝が幾代も続いた為に軍の権
威は低下し、商家の財力による介入などに晒されているのだ。リシアの一件も嘗ての軍の権勢を考えれば有り得ないことであり、商家に対しても強硬手段によっ てこの影響力と介入を排除しただろう。
最早、国軍は皇国を護り得ない。ならば領邦軍しかない。
各貴族の領邦軍は、練度や装備で大きな差異があるが、北部だけは違った。ヴェルテンベルク伯爵であるマリアベルが巨大兵器工廠で兵器生産を一手に引き受 けることでの規格化と、領内に大規模な士官学校を開設し、北部貴族領邦軍の士官の育成を行うことにより、北部貴族という枠組みは巨大な一つの軍勢として機 能し始めていたのだ。
北部へと舞い戻ったリシアは領邦軍士官学校へと転入した。
マリアベルと陸軍士官学校装虎兵科が衝突したとは聞いていたが、最終的にリシアの転入は認められた。経緯は不明であるが、マリアベルが中央の軍官貴に対 して妥協するはずもないことから喧々赫々の遣り取りがあったことは想像には難くない。或いは気に掛けてくれていたのかも知れないという思いもあった。
そしてリシアは士官学校でも首席となった。
ヴェルテンベルク領邦軍士官学校には各兵科が一纏めにされ、他の北部貴族の士官候補生も受け入れていたが正規軍の各兵科士官学校と比して規模も小さいも のの、それは卒業後の部隊での教練を前提にしていたからでもあった。これは実践的技術習得に重きを置いているからであり、座学を中心とした正規軍の各兵科
士官学校とは正反対の練兵方法を実行している。特に匪賊討伐に新兵や訓練生を参加させ、実戦経験を積ませるという程の力の入れようで、マリアベルの危機感 と意気込みが感じられた。
そして卒業後、リシアは機甲部隊に配属された。これは蒼天の霹靂であり、リシアはマリアベルの意図を計りかねた。
しかし、この〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に配置された際の言葉で全てを察した。
――確固たる技術大系に裏打ちされた安定的な戦力が皇国を救うのよ。
全ての陸上戦力の頂点に立ち得る装甲兵器こそが、これからは軍事作戦の主体になる。
マリアベルは装虎兵や軍狼兵を装甲兵器の性能を向上させ続けることで廃れさせようとしている。考えてみればその生い立ちから種族の差異によって成立する モノ全てに否定的であるマリアベルが、双方の兵科を領邦軍内で拡充することに肯定的であるはずもない。兵数に於いて圧倒的に勝る陸軍相手に同等の装虎兵と 軍狼兵を揃えることなど不可能である。同様の手段で応じる事を早々に放棄していたのだ。
そして装甲兵器でそれらに応じた。
未だ海のものとも山のものとも知れぬ装甲兵器の運用を危惧する者も少なくなかったが、皮肉なことにそれはこの蹶起で払拭された。防禦戦に於いて数と主 砲、装甲にものを言わせた安定的な火力を提供する戦車は歩兵と共に粘り強い防禦戦を見せた。蹶起軍では兵器工廠で量産された装甲兵器が順次、前線へと輸送
される。対する征伐軍の装虎兵や軍狼兵は定数を割りつつあった。戦車は魔導車操縦技術と火砲を持った者を登場させれば稚拙ながらも運用が可能であることに 対して、装虎兵や軍狼兵は育成に年単位の時間が掛かるので補充は容易ではない。
無論、その損耗を見逃せるならばであるが。
内戦が始まって既に二〇〇輌近い戦車が破壊、或いは破棄されており、甚大な被害を蒙っている。
だが、過去の戦訓や皇国軍の基本方針を元に乗員の生存性を第一に設計されているⅥ号中戦車は頑健な防禦力を持っていた。その思想が顕著に現れているのは 機関の搭載位置である。皇国陸軍で正式採用されているクレンゲルⅢ型歩兵戦車や周辺諸国の戦車が機関を後部に配置しているのに対し、Ⅵ号中戦車では機関が
前部に配置されている。被弾時に走行不能になる可能性が上がる代償として、機関を装甲の一部とする事で防禦力の向上を図っているので乗員の損耗は比較的少
ない。最終的に戦域を維持できる防衛戦であればこそ乗員の回収も容易であり、搭乗員には搭乗車輛を撃破された経験がありながらも、撃破王となった者も少なくない。
マリアベルは、リシアに言った。
――彼奴を戦野で見続けるが良い。御主も“戦争”を理解せねば成り上がれぬぞ?
愉快にウィシュケの注がれた水晶碗を手に御機嫌のその様子からは泥酔者の戯言にしか聞こえないという有様であったが、リシアは酔いが回った状態のマリアベルこそが本音を語ると知っている。
己の権勢への執着を知られていた事にも驚いたが、何よりも呆気に取られたのはマリアベルのトウカに対する並々ならぬ期待と悔恨であった。
期待と悔恨。
相反するかのようにも思える二つであるが、マリアベルからするとトウカこそが現状を打開する切り札であるが、同時に自分の戦争に巻き込んでしまった事を 後悔もしていた様子であった。領主というある意味、部下を公平に扱わねばならないにも関わらず、マリアベルはトウカを重用している。それは何も期待だけが
理由でなく、戦争に巻き込んでしまったことに対して心咎めるものがあることも手伝った結果なのだ。
「自分がどれほど恵まれているか……あの男は分かってない」
気が付けば孤児だったリシアにはそれが腹立たしかった。自分は青春の全てを犠牲にした努力の結果として現在の少佐という階級を得た。領主の采配如何で指 揮官や階級が大きく左右される領邦軍にあっても、リシアほどに若い佐官は稀である。最前線で装甲部隊を率いて火消し役を務め、野戦昇進を繰り返したヴァレ
ンシュタインは例外であるが、それ以外で佐官の階級を持つ若者はヴェルテンベルク領だけでなく北部全体でもリシアとトウカくらいのものであった。
リシアのトウカに対する不信感は当然のものであり、血の滲む様な努力の末に得た少佐と言う階級よりも、上位の中佐という階級をトウカは何の努力も功績もないままに得た。
断じて認められることではなかった。
例え、強力な兵器を発案したのがトウカであっても、それは技術者の本分であり軍人の職務ではない。特に士官学校を出ていないという事実以前に、身元も定 かではない者を登用することに対する反発心もあった。実情としてそうした感情をトウカに持つ者はこの戦闘団にも多いが、将校に関しては先程の舌先三寸の宣 言で大きく変わった。少なくとも悪感情は持っていない。
「電撃戦……確かに有効だけど、それを運用する将校がそれを理解しているとは言い難いじゃない」
自らが駆るⅥ号中戦車の側面追加装甲に背を預け、リシアは溜息を吐く。
確かに〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に配属されている将校は優秀な者が多く、騎兵などの突破力を頼みに戦闘を行う兵科から引き抜かれた者達を中心として いた。だが、敵の防禦縦深よりも装甲部隊の突破縦深の深さを利用した長躯侵攻という初めての試みに対する不安は少なくないはずであり、リシアも正直なとこ ろは成功するか否か、分からなかった。
前線突破とは耳触りの良い言葉だが、それは同時に敵中に食い込むことと同義である。故に常に孤立と包囲の可能性を内包していた。戦域の規模に対して一個 聯隊規模での突破は余りにも危険であるが、トウカの作戦では機動力を最大限に生かして敵の包囲が行われる間もなく更に敵中へ踏み込む予定で、前線から離れ るほど戦力配置は疎らになるので、敵中にあっても容易に包囲され難い状況となる。
そもそもトウカの基本戦略が、相手が防禦行動を取る前に中枢を直撃することを目的としていた。
正直なところ不確定要素が余りにも多く、リシアにも結果がどの様なものになるか想像できなかった。
不愉快よ、と戦車の側面装甲から背を離そうとする。氷雪舞う中にあっては鋼鉄の装甲に触れ続けるのは体が冷える。頭を冷やすという意味合いもあって、天幕外で思案することの多いリシアだが流石に限界であった。思考が冴えることを通り越して凍り付き始めた。
雪の大地を踏み締めようと足を出したリシア。
「ハルティカイネン少佐」突然の声。
だが、慌てて振り向こうとしたリシアの首筋に冷たい感触が伝わる。
カノッサの屈辱
聖職叙任権を巡ってローマ教皇グレゴリウス七世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世が、三日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門で裸足のまま断 食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願って、何とか教皇から赦しを願った逸話。後年、今度はハインリヒ四世が軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを 包囲した。教皇は包囲から逃れたが逃走先で死亡。
驕った宗教が後年に痛い目に合うという面では、比叡山焼き討ちと類似していると言えなくもない。くたばれ生臭坊主。まぁ、阿漕な銭儲けをしていた日吉大社も焼き討ちしているので、ノブさんは神仏関係なく宗教が銭儲けをしたり自前の戦力を有するのを嫌ったのでしょう。