第一八二話 洋餅と見世物
「なんで主様がいないのっ! 私、聞いてないです!」
ミユキは動転していた。錯乱しているとも取れる様である。
朝起きれば、恋人にして上官のトウカがいないのだ。
しかも、寝台横に据え付けられた小さな机に置かれた手紙を見てみれば、エルライン要塞に航空部隊を率いて進出したと読み取れる。エイゼンタールとキュル テンを共に付けてとの事であるが、何故に副官であるミユキを放置したのかは分からない。否、危険だと考えて置いていったのだろうと、ミユキは見当を付けて いた。
寝台の上に座り込むミユキは、狐耳を揺らす。
――むぅぅぅ、戦術と戦略を教えてくれても実戦には出してくれないって事なのかな?
ならば、面と向かって言えばいいとはミユキも考えない。自身が抵抗すると判断したならば、トウカの判断は決して間違いではない。ミユキは咄嗟に同行を望んだかも知れないのだ。
だが、上官ともなった相手に抵抗するのは外聞が悪い。只でさえ、ミユキの立場は貴族社会と軍組織からは否定的に見られている。職務に忠実でないならば、そうした声や動きは増しかねない。
そうマイカゼからお叱りの手紙が来たのだ。最悪、副官の任を解き、貴族令嬢として扱うという旨が記されているとなれば、ミユキとて慎重にならざるを得ない。剰え、自身の思惑にまで母狐は釘を刺してきた。
エイリヒカイト、ルミナスカイトの両伯爵家の左派勢力の両翼が提唱する共和国との同盟による帝国と膠着状態を演出し、事実上の停戦状態を実現しようとする主張に、ミユキは惹かれていた。
だが、マイカゼはそれに対しても許容できない様である。
戦争などせずに国力を増強し続ければ、やがては経済力で帝国を優越する事ができると、ミユキは考えていた。相対的に帝国の国力が低下し続けている以上、 皇国が積極的な軍事行動を取らずに国力を増強し続ければ、他国が挑んでくる事もない王道楽土が成立するはずであると確信しているのだ。
皇国には潜在的成長力がある。トウカは「他国に戦争の負担を積極的に押し付けるという姿勢には同意するが」と一部容認?してくれたが、戦略爆撃で帝国の 敵愾心を煽った点を見るに一部以外を容認する事はないという明確な意思が窺えた。両伯の語る目標は、帝国との軍事力による均衡と消極的対外姿勢の誘発であ る。トウカの戦略爆撃は後者の可能性を致命的なまでに奪い去った。
ミユキは手紙を握り潰した上で、宙に投げると尻尾で打つ。尻尾に打たれ、握り潰された手紙が屑籠へと吸い込まれた。寝台から飛び退くと、私室の床へと降り立つ。
慣れない執務を第一装甲軍団司令部の女性将校達から教えられていたミユキは、心身共に疲弊していた。第一装甲軍団司令部の女性将校達は北部出身者ばかり で、ミユキには良くしてくれるが、それは軍務で容赦してくれる事を意味する訳ではない。失敗をすれば笑顔で狐耳を抓られ、尻尾を引っ張られる。
慌てて、ミユキは軍装を纏い始める。頭に被った睡眠帽を取り、寝間着を脱いで椅子に投げ置くと、壁際の衣文掛け(ハンガー)に掛けられた軍装を手に取る。
上衣はヴェルテンベルク領邦軍正式採用の軍装で、大尉の階級章よりも情報部を示す徽章と少しきつめなのか張っている胸元が視線を吸い寄せる。だが、それ以上に目を引くのが足回りの裳であった。外観は股下が分れた長袴状の武道袴で、ヴェルテンベルク領軍正式採用の軍装の色に合わせた黒であるが、広がりがある造りの為に戦野に赴く恰好ではない。ついでとばかりに片方の狐耳に引っ掛けた軍帽は傾いでいた。
この軍装は、ミユキにとって自身がトウカにとって特別である事の証である。特注であり、トウカの副官であるミユキの物的象徴とも言える軍装を手早く身に纏う。今となっては手慣れたもので、そこに躊躇いや手際の悪さはない。
その場でくるりと一回転し、姿見に武道袴の端を摘まんで軽く礼をして見せたミユキ。
「うん、ばっちし!」
トウカを起こす為に起床喇叭の音より早く起きるミユキの朝は早い。当初は同じ部屋で寝泊まりしていたミユキだが、軍紀の乱れを嫌ったリシアやクレアによって別々となった。信の置ける友軍であるトウカも、〈北方方面軍〉司令部付情報参謀と皇州同盟軍憲兵隊総監からの意見具申では流石に無視できない。
トウカがエルライン要塞に進出した事は、取り敢えずはベルセリカに訊ねれば良いと、ミユキは考えた。
リシアとクレアは、北部各地で行われている避難誘導に関わる任務を言い渡されているので、ドラッヘンフェルス高地にはいない。
北部各地では帝国軍によるエルライン要塞陥落に備え、大規模避難が昼夜を問わずに行われている。〈第一装甲軍団〉もドラッヘンフェルス高地へと進出する際、多くの避難民と擦れ違った様で、歓呼の声援に送られて士気が高いと、ミユキは聞いていた。
トウカに買って貰った大脇差の小狐丸を軍刀拵えにしたそれを佩用しつつ、ミユキが廊下への扉へと歩を進める。
そこで扉を叩く音が響く。
「某ぞ」
「ど、どうぞお入りをッ!」
短く告げられたベルセリカの名乗りに、ミユキは大尉として応じる。所属は違うが、〈北方方面軍〉と皇州同盟軍は事実上の連合軍と言っても差し支えない。軋轢は避けるべきである。
扉を開けたミユキ。廊下にはベルセリカとその背後に三人の従兵と護衛が佇んでいた。
「今、良いか? まぁ、要件など察しておるで御座ろうが」
ベルセリカは、従卒と護衛を廊下に残し、ミユキの私室へと躊躇いなく足を踏み入れてきた。二人だけでなければならない会話という事である。
ベルセリカはのしのしと歩を進めると、女気の欠片も感じさせない所作で椅子に腰を下ろす。精神的疲労によるものか、ベルセリカからは何時もの凛々しさは感じられない。
「主様は?」ミユキは尻尾を揺らす。
言葉少なでもあっても通じると確信したミユキの考えは正しかった。
「某も置手紙で気付いた。じゃがな、一応、筋は通っておる」
分かるな? 分かるが良い、と半ば引き攣った笑みで呟くベルセリカは、ミユキに書類を投げて寄越す。
トウカの筆跡で書かれた書類の概要に目を通し、ミユキは尻尾を力強く振る。
「エルライン要塞で不倫!?」
一大事。
尻尾に火が付いたとは正にこのことですっ、とミユキは焦る。最近はリシアだけでなく、クレアもトウカの周りを徘徊している。リシアは上昇志向が強く、ト ウカとの関係も利用している節があり、クレアもまた権力闘争や治安維持にトウカの名声を利用していた。信愛や恋心が総てではない女に、ミユキは負けたくな い強く思っている。
「ええい、話しを盛るでないぞ! 挑発行動と書いておろうが!」
ベルセリカがミユキの尻尾を引っ張る。尻尾の付け根に奔る痛みに耐えかね、ミユキは尻尾を涙目で抱き寄せる。
挑発行動。
言うは易しであるが、挑発というのは狩りでも多大な危険の伴う行為である。大型魔獣の駆除などでは挑発や誘導を買って出た天狐族に死傷者が出ていた。魔 導障壁と言えど、恐怖に惑う者が咄嗟に展開したところで大質量を阻止し得る訳ではない。元来、貫徹は阻止できても衝撃の大部分は防止し得ないのだ。
匙加減が難しい行動にトウカが挑もうとしている。
ましてや、エルライン要塞は陥落寸前であり、その兵力も当てにはできない。増援に〈第一装甲軍団〉の投入を決定したとなっているが、三個装甲師団で総兵力一〇〇万を超えるとされる帝国軍、南部鎮定軍に抗するのは困難である。
ミユキは、リディアの為人に付け入る心算であると察した。
マリエンベルク城郭付近は、エルライン回廊終端地点であり兵力差を完全に是正できる地形でなく、兵力も圧倒的に少ない。付け入る部分は、リディアしかな い様にミユキには見えた。まさか、再度の大規模な航空攻撃ではないはずである。流石にこれ以上、陸軍との軋轢を生じさせる事はないであろう。
「リディアさん……なんか嫌な予感がします」
確たる理由はないが、あの乱を好む二人が軍勢を率いて相見えるとなれば、それは最早龍虎相見えると称しても差し支えないとミユキは考えた。無論、双方共に龍でも虎でもないが、軍勢を率いれば龍虎に勝る悲劇と暴力を撒き散らすだろう。
「御主、よもやトラヴァルト元帥と面識があるのか?」ベルセリカが思案顔を見せる。
「えっ? 主様、言ってないんですか?」ミユキは首を傾げた。
トウカもミユキも、リディアが帝国で要職を担っている事を知っていた。尤も、それは帝国軍による侵攻が激化してからである。トウカですら当初は「帝国の お姫様に同名の者がいる様だな」と敵軍の編制を記した報告書を見て苦笑していたのだ。その後、帝国の帝族一覧の資料に添付された画像を見て気付いた様で酷 く驚いていた。
どこの国家が自国の姫君を敵国に浸透させて破壊工作をさせるというのか。
トウカもミユキも常識的な判断をした。この点に置いては、帝国はトウカの思考さえも優越したと言える。無論、優越した方向は酷く斜め下にであるが。単純 な能力の問題だけでなく、政争も絡んでいるのではないのかと、トウカは推測していた。ミユキには詳しく分からないものの、トウカの政戦に於ける推測には全 幅の信頼を寄せていた。
「えっと……一度だけ会ったんです。主様が手放して褒めるくらい凄い人みたい」
ミユキは、リディアを巡る一連の出来事をベルセリカへと説明する。
ベルセリカは唸り続けながらも、ミユキの言葉を遮る事はなかった。寧ろ、トウカが付け入ろうとしている部分を理解できたと溜息を吐いている。安心はできない様子であったが。
「御主、後を追い掛けぬのか? 今ならば、〈第一装甲軍団〉に便乗できるのでは御座らんか?」
魅力的な提案である。頷けば拘束する気ですよね?とはミユキも返さない。
自身の胸に訊ねてみれば、トウカを追い掛けようという気概は窺えなかった。信頼や信用という事もあるが、軍事について教えを乞う中で、トウカが本質的に軍神であると納得してしまったからである。
ミユキは待つ心算でいた。追い付けない。ならば帰ってくるのを待つしかない。
「史上最大の軍神。国家を救って、国家を滅ぼすヒト……私は見たいのかも。そして、最後には私の前に返ってきて欲しい」詠唱するかのようにミユキは言葉を紡ぐ。
ミユキは気付いてしまったのだ。彼がそれを望み、そうぜざるを得ない状況に自らを追い込んでいる事を。意図しての行動か否かまでは分からないが、トウカ は自らの持ち得る知識と技術を用いて大国に抗うという英雄的行動に恋焦がれている。理想というには残酷で手段を選ばず、無邪気に悲劇と不幸を振り撒いてい
るが、彼にとっては最小限に抑えているという大義名分があった。そして、郷土を救うのは彼しかいないと確信した烈士がトウカの下へ集い、トウカの背を押 す。
賢明な君主とは、常に臣下達に如何なる場合でも自分が必要であると思わせる様に仕向けておかなければならない。そうすれば、彼らは何時までも貴方に対して忠誠でありつづけるだろう。
トウカは、ミユキに貴族としての在り方の大前提をそう答えた。
切なさと愛おしさを胸に言葉を続ける。
「若しかすると、私達は終端に向かって転がり落ちているのかも知れない。でも、主様は楽しんでいる気がします。流される血量に、熾烈な戦争に、そして自らが紡ぐ歴史に」
ミユキは、流される血量に無心を貫く真似はできないが、トウカにはそれができる。そして、それを否定するだけの大義名分をミユキは持ち合わせていない。思想的差異のある国家間の殲滅戦争なのだ。多くの死を忌避する事と、防衛戦争を否定する事は同列に語れない。
ベルセリカ、それに対して眉を顰めた。祖国防衛の為に戦う軍神が残酷であるとは思いたくないのだ。ベルセリカとミユキの残酷の定義が著しく乖離している 事も大きい。何百年から戦野を駆けた剣聖と、閉じられた世界で年齢の大部分を消費した仔狐では、差異がある事は当然と言える。
「事実ですよ? 主様は軍神……英雄で沢山の人間が死に絶える事、悲観に暮れる事を当然の事だと、歴史の一幕だと受け入れちゃっているんです」
だからこそ、内戦では幾つもの義勇装甲擲弾兵師団を編制し、躊躇いもなく前線配置する事ができた。
義勇装甲擲弾兵とは、各地に避難しているヴェルテンベルク領の領民から有事の際の徴兵基準を合格した者の中でも特に秀でた者を任意で招集。壊乱した部隊 の残存戦力や他貴族の領邦軍の敗残部隊を基幹に編制された集成部隊である。戦意は旺盛であるものの、定期的な軍事教練しか受けていない領民が大多数を占め る為、領邦軍と同等の働きは期待できない。
だが、何よりも領民なのだ。つい先日まで、日常生活を営んでいた者達を戦野へと駆り立てる。
寧ろ、市街戦では地の利があって望ましいとまで言い放ったトウカ。その戦死者は三万名を超えるという。度重なる混乱と帝国軍による侵攻、集団避難で、合同葬儀は未だ行われていないが、集団墓地では今でも遺族で犇めいている。皇州同盟軍憲兵隊による重点警戒地域に指定してあるが、墓前での将兵の殉死や遺族の自殺が多発していた。
誰も彼もが復讐を叫ぶ。トウカは犠牲者である。少なくともその姿勢を貫いている。内戦に関わった時期が開戦後であった以上、彼は開戦の責を負う事はな く、少なくとも北部領民からすると惨めな敗戦を回避した英雄であった。彼らにとり自らの殺意と復讐心を投影するに、トウカは理想的な存在なのだ。
義勇装甲擲弾兵(フライヴィリゲン・パンツァーグレナディーレ)の問題も、編制を指示したのはトウカであっても、侵略行為を行ってきたのは征伐軍であるという名分がある。
トウカは無傷で血塗れの信頼を得て、強大な権力を手中に収めた。その代償に彼らの殺意と復讐心を背負ったのだ。だから過激になる。先鋭化した思想を振り翳す。理論や合理性の伴わない苛烈な感情論を背に、トウカは戦う。それは危険な事であり、悲しい事だ。
非難がましいベルセリカの視線を感じ、ミユキは自らの尻尾を抱き締める。
「非難しているんじゃないですよ? そんな主様が必要な時代なんです。傾国の最中で大多数が不満と不安を胸に生きている時、圧倒的な個人が生み出されて多くの犠牲を代償に救国を実現するんです。この国はいつだってそうじゃないですか」
トウカがそれに選ばれてしまったのだ。
ミユキにとっては、何ものにも勝る悲劇であるが、トウカだからこそ成せる事でもある。知識や技術という表面的な才覚でなく、通常の人間であれば忌避し、挫折するであろう悲劇を躊躇う事なく実行できるからである。
だからこその軍神。
だからこその英雄。
少なくとも、ミユキはそう考えている。
我々の経験は、信義を守る事など気にしなかった君主の方が、偉大な事業を成し遂げている事を教えてくれる。それどころか、人々の頭脳を操る事を熟知していた君主の方が、人間を信じた君主よりも、結果から見れば優れた事業を成功させているのだ。
歴史は残酷な指導者を肯定しているのだ。トウカは、そう口にしていた。
それは、醜悪な自己正当化かも知れないが、ミユキは安心してもいた。
トウカは国を護る為に戦うのではなく、個人的感情の発露として皇州同盟を指導している。血の通わない国家という機構を相手にするには、ミユキは世論にとっての有象無象に過ぎ、端的に評するならば取るに足らない存在である。しかし、トウカが気質や心情として戦争を望むならば救いはある。
共にヒトとして生きてく余地はある。それで解決すると、ミユキは信じて疑わない。長命種であるミユキは、トウカが喪われるその日、その時まで変わらずに隣に在る事ができる。
時間はあるのだ。トウカが政戦に於いて致命的敗北を喫する事がない限りは。幸いにして、ミユキはトウカが一方的に敗北する情景など想像する事すらできない。
何より、トウカは必要とされている。
徐々に皇国は、トウカを必要とせざるを得ない状況下に陥りつつある。
ミユキの憶測は正しい。違うのは、行き着くまでの過程に於いて喪われる人命の数の桁と、自らがトウカと共に在り続ける事が叶うのかという点であった。
そして、何れはトウカに自らが、この世界へと招聘された意味を伝えねばならないのかも知れないと下唇を噛み締める。
――その時、私は主様の隣に在り続ける事が出来るのかな?
「さぁ、急げ! 速やかに準備をしろ! 暴力姫を口説きに行くぞ!」トウカは魔導士達に発破を掛ける。
麗しの暴力姫との会話を軍神は楽しみにしている。トウカが敵を誘引して見せると断言した点を、要塞司令部の面々は大いに気にしてはいたが、その方法は未だに告げていない。尤も、通信中隊を借り受けた都合上、方向性は露呈していると見て間違いなかった。
背後で胡散臭い表情をしているキュルテンを努めて無視し、トウカはエイゼンタールを始めとした将校達に重ねて幾つもの指示を飛ばす。
電波による通信と違い、魔術による通信はその方法に多様性がある。軍や民間で最も使用される方式は、電波と同様に波形とした魔力の発信による伝導であ る。これは電波と同様の方法であるが故に暗号化などの防護手段も、トウカの聞き及んでいた方式が用いられていた。電波による通信との差異は、早期に妨害手
段が確立された点と、長距離の送受信では大掛かりな設備が必要な点である。野戦での運用に適しているとは言い難い。
だが、今回の方式は違う。
音波振動の減衰を魔術で最小限に止める事で、音声を遠方に投射する方式である。
厳密には、集団詠唱魔術によってある程度の指向性を与えながらも、音波振動の減衰を防止……正確には空気中の魔力による増幅の連続によって音声を減衰で はなく徐々に増大させつつ、目標地点に投射するという方法である。魔導工学と音響工学による成果ともトウカには思えたが、この世界に於ける通信手段として 歴史の表舞台に出たのは此方が遙かに早かった。
利点は、直接に言葉を交わし、決して少数の密談とは成り得ない事である。
将兵の前で直接に敵軍を挑発する。そう、要塞司令部の面々は考えているだろう。
しかし、違う。トウカが望んでいるのは単純にリディアとの会話のみである。
無論、最終的な目的は早期に攻め寄せるように誘導する事であるが、皇州同盟軍総司令部としては、リディアとの会話で帝国の情報を入手したいという思惑もあった。
帝国主義者の台所事情は苦しい。それが皇州同盟軍総司令部の見解である。
陸海軍は十分な余力を残していると判断している様子であるが、トウカは帝国主義に対する猛毒としての共産主義を良く理解していた。未だに一地方の弱小勢 力に過ぎないと大勢には見られているが、共産主義という主義が浸透する時点で民衆の生活基盤が致命的な規模で損壊していると、トウカは睨んでいる。
共産主義とは、財産の一部、或いは全て共同所有する事で平等な社会を実現するという主義である。生活困窮者からすると非常に耳触りの良い主義主張と言え た。共和主義の様に自由と権利を求めるのではなく、有力者の富を再分配しようという明確な主張は、明日の食糧にも事欠く者達からすると抗い難い魅力を秘め
ている。内務省警察部警備局という政治秘密警察が暗躍する帝国主義国家でありながら、その跳梁を押さえ切れていない部分を見るに、民衆の困窮と不満は相当なものと推測できた。
弾圧されても尚、少なくない数の民衆が共産主義に縋り付くのであれば、帝国は命数を使い果たしたと言える。
帝国主義者は民衆に洋餅も見世物も与える事に失敗した。
「いや、見世物(戦争)に関しては失敗しつつあると言う方が正確か」
随分と汚い見世物だが、成功すれば効果は絶大である。無論、トウカが失敗させるのだが。
エイゼンタールが、トウカに準備の完了を耳打ちする。
鷹揚に頷いてトウカは軍装を翻す。佩用した軍刀が揺れ、硬質な音を響かせた。
天気は晴朗だが、風はエルライン回廊を吹き抜けるように吹き荒んでいる。軍帽は飛ばされぬ様に紐で顎へと固定しているが、城郭本丸の中層に設けられた機銃座の縁から辛うじて地平線に窺える帝国軍〈南部鎮定軍〉の威容を見据える。
近くの少佐の階級章を付けた魔導士を呼び止め、「魔導士、敵軍の中央を拡大投影しろ」とトウカは命令する。
魔導杖を手に詠唱による展開準備を始めた魔導士を尻目に、トウカは、エイゼンタールやキュルテンと肩を並べ、背後に並んでいるエルナへと視線を肩越しに投げ掛ける。
「俺の逢瀬を邪魔してくれるなよ? 黙っているならば置いてやる」
「……随分と御機嫌あらせられますね、閣下」エルナが口元を引き攣らせながらも言葉を返してくる。
御機嫌に決まっている。あの祖父と同じ眼差しを備えた少女と軍勢を率いて相対するという奇蹟に、トウカの心はこれ以上ない程に高揚していた。
何千門という火砲の回収やエルライン回廊から駐留軍の撤退という建前もあるが、本音はリディア隷下の〈南部鎮定軍〉の挑発と不完全な状態で迫撃をさせることであった。
ドラッヘンフェルス高地での防衛線構築には今暫くの猶予が必要であり、〈南部鎮定軍〉主力が到達するとされている時間を引き延ばす必要があった。
無論、それはエルライン要塞司令部の面々も理解しているだろうが、マリエンベルク城郭を利用した持久戦であると考えていたはずである。トウカが考えてい たよりも遙かにエルライン要塞司令部の面々の顔色が優れなかったのは、玉砕を前提とした死守命令が陸軍総司令部より齎されるかも知れないという恐怖心から
だったのだろう。要塞防衛に特化した装備の要塞駐留軍は、他の軍編制よりも機動力で遙かに劣る。
帝国軍の長距離偵察部隊によって鉄道路線が寸断されている以上、後退には多くの時間が必要となる。その上に機動力でも劣るとなれば、マリエンベルク城郭に籠城しての持久戦か、ドラッヘンフェルス高地までの後退戦となる。
どちらにしても致命的な被害を蒙るだろう。既に要塞防御戦で軍事学的には全滅判定となる程の被害を受けている彼らであるが、どちらにせよ地獄の様な戦闘 を続ける他ない。だが、機動力の不足を踏まえるならば、〈南部鎮定軍〉の拘束は後退戦によって行われるべきである事は明白である。
無論、大前提として〈南部鎮定軍〉が要塞駐留軍の弾火薬を射耗させ、五個師団程度で包囲すれば、その後は無視されるという可能性が高い。純軍事的に見れ ば、一番効率的な方法である。要塞駐留軍も南部鎮定軍の五個前後の師団を拘束し続ける事ができのであれば、戦意不足の謗りを受ける事もなく、将兵の損耗を 最小限に止める事ができる。
状況の進展次第では、増援の到着後に挟撃できる幸運に恵まれるかも知れない。無論、皇国が崩壊する可能性もあるのだが。
トウカは、その曖昧な状況を打破しようとしている。
何より、全滅は必至と思われていた状況下で増援が確実となったことで、要塞駐留軍の士気は高揚している。
増援兵力は即応性を踏まえた三個軽師団を投入するとなっている。
無論、実際は三個装甲師団からなる〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr –Panzerkorps)〉が投入されるのだが、南部鎮定軍に情報漏洩する事を見越して要塞司令部以外の将兵には実情を低く伝達していた。
皇国に於ける軽師団とは、機動力を重視した騎兵と騎兵砲、魔導騎兵などを中心とした部隊で、随伴する歩兵や工兵を始めとした兵員すらも装甲馬車に搭乗し て移動することから即応性の高い戦力として皇国では編成されている。打撃力と火力に於いて歩兵師団に劣るが、移動力は機動師団にすら優越する為、緊急展開 に優れるという長所を備えていた。
不自然な判断ではない。
皇州同盟軍に軽師団が存在しない為、陸軍が兵力を捻出したという“嘘”も、トウカが輸送騎でエルライン要塞に直接乗り込んだ事で現実味を帯びた。
遙かに火力と突破力に勝る装甲師団とも思わずに応じた〈南部鎮定軍〉は甚大な被害を受ける……かも知れない。トウカもそこまで楽観的にはなれなかった。
「俺が御機嫌だから御前らは助かった。不満でもあるのか、中尉」
無論、トウカとしても自身と皇州同盟の都合として、この場にいるので感謝される謂れはないと考えていた。国軍と皇州同盟はあくまでも別の軍事組織なのだ。
エルナが口を噤む。気分を害しては拙いと考えたのか、或いは深く関わる事を警戒してか。トウカにとり実にどうでも良い事である。
トウカの意識は、来るべきリディアとの会話に裂かれていた。
「閣下」エイゼンタールが、トウカへと耳打ちする。
トウカは鷹揚に頷く。
「之より敵軍指揮官との交信を試みる。諸君、口を挟むなよ」
トウカは、魔導士達が拡大投影した先に窺える南部鎮定軍前衛の姿を見据え、口を開いた。
洋餅と見世物(サーカス
「我々の経験は、信義を守る事など気にしなかった君主の方が、偉大な事業を成し遂げている事を教えてくれる。それどころか、人々の頭脳を操る事を熟知していた君主の方が、人間を信じた君主よりも、結果から見れば優れた事業を成功させているのだ」
「賢明な君主とは、常に臣下達に如何なる場合でも自分が必要であると思わせる様に仕向けておかなければならない。そうすれば、彼らは何時までも貴方に対して忠誠であり続けるだろう」
《花都》共和国外交官、ニッコロ・マキャヴェッリ
パンとサーカスは、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して使用した表現で、権力者から無償で与えられる「パン=食糧」と「見世物=娯楽」によって、ローマ市民が政治的盲目であることを指している。愚民政策の例えとして用いられる名言であり警句である。