第一六六話 《エッセルハイム》の一時 後篇
「ミユキ、飯に行こう」
トウカは、自らが悩んでいた理由など意味のない事だと頭を掻くと、ミユキの手を取って引き寄せる。
トウカは、ミユキを大事に扱っていた心算であったが、彼女はそれを望まなかった。
庇護されるのではなく、並び立つ途を望んだ。
勇敢で健気な恋人を、トウカは優しげに見据える。
そう口にするのであれば、トウカも応じねばならない。
トウカの恋人に対する接し方は間違いだった。ミユキは対等を望み、トウカはミユキを上位に置いたものの、それはミユキにとって距離感を感じさせるものでしかなかった。トウカの偽りのない言葉と忌憚なき感情をミユキは求めた。
ぞんざいでいて気安い様を装って語り掛けたトウカに、ミユキはその右腕に絡み付いて応じる。
「はい、主様っ。……あ、あなたのほうがいいかな?」
「それは困る。シラヌイ殿に露呈したら面倒だ。そもそも、公式の場では階級を付けて呼ばねば、副官の任務から外さねばならなくなる。公私を使い分けてくれよ、ミユキ」
この際とばかりに、トウカは公私を使い分ける様にと釘を刺す。
無論、周囲にいるのが陸海軍や皇州同盟軍の将兵だけであれば、トウカ以上の階級を持ち得る者や同階級の先任である者などは稀なので問題は皆無ではないものの少ない。
だが、貴族や政治家が周囲に存在する場合、どの様に揚げ足を取られるか分からないので表面上は取り繕う必要がある。
「今は軍務中じゃないから大丈夫ですよっ。それに、お母さんもヴェルテンベルク伯爵家の家名を売る為に目立ってきなさいって」
「……それは素敵だ」
ミユキは堂々と胸を張り、尻尾も一振り。
恐らくはマイカゼが皇州同盟軍の総指揮官であるトウカとの関係を、娘であるミユキを近くに置き続ける事で周囲に示そうとしている。軍事力に近い立場とい うのは、乱世に於いて計り知れない利益を生み出す。それは予想されていた事であり、トウカが驚いたのは、マイカゼが思惑をミユキに伝えている点であった。 トウカへの漏洩は規定路線ということになる。
「なら、行こう。腹が減った」
トウカはミユキの手を取り高台の光景を一瞥すると、石材で組み上げられた階段へと足を向ける。
戦後、この光景を取り戻すのには一体どれ程の時を必要とするのかと考えると、最善と信ずる作戦計画ですらも膨大な被害が出るのだと改めて実感できる。伝 統と歴史すらも戦争は消費し、喪わせる。それでも尚、敵が希求し、侵略せんと踏み込む意志を明白にしている以上、トウカや皇国軍人には断じて護るという選 択肢しか与えられていない。
足を止めたトウカに首を傾げるミユキ。
不意に龍の嘶きが響く。
驚いたミユキが空を見上げる。
そこには大きな翼を揺らして編隊飛行を行う炎龍の群れの姿があった。
三〇……四〇……五〇騎を超える数の重爆撃騎による編隊飛行に、ミユキが喜色を浮かべて「綺麗ですねっ」と呟いている。
最小単位で三騎の爆撃騎編隊を数個から数十個を、高度差を与えつつ緊密に配置し、一つの編隊とする箱型編隊は、トウカの目から見ても見事な練度であった。
各騎が僚騎の死角を補い合いつつ防御火力を集中。敵迎撃騎からの生存性を向上させる事を目的として《亜米利加合衆国》陸軍戦略航空軍で広く用いられたそれが、異世界の空で炎龍によって再現されていた。発案者も予想だにしない未来であったに違いない。
灰色を基調とした複数の色彩で迷彩された姿は、傍目には美しいとは言えない。
視認率低下を意図したものであり、地上では戦列歩兵の残照が窺える世界に在っては臣民からの評価は芳しくないものの、航空兵は一様に支持している。寒空 を高速で飛行し、銃口を向け合う航空兵は近代に現れた騎士とも言える。集団戦法の有効性が証明されても撃墜王は現れ、臣民と軍人を惑わせる。
だからこそ自らが騎士だと錯覚し、極限の世界で伸るか反るかの勝負を行う彼らはあらゆる面で極限の生存性を求める。
無論、トウカもそれを支持する。
空は彼らに与えられたもの。
ミユキは空を遊覧する事に憧れているのか、シュパンダウ空襲の際に捕虜にした〈第四二五強行偵察飛行中隊〉、中隊長であるヴィトゲンシュタイン中尉を陸 軍から引き抜き、小規模ながらも航空隊を組織している。無論、それは軍事的な防空任務だけに留まらず、病人の航空搬送や物資の航空輸送などを行う多目的用
途として編制されたのだが、ミユキは当然の如く私的に利用している。底引き網を航空騎で行おうと目論み、結果としてシュットガルト湖に墜落した騎を救助す る為に駆逐艇が“蜥蜴釣り”を行った姿をフェルゼンの新聞社が捉え、紙面を賑わせたのは記憶に新しい。
こうして自らの命令と提案で編制された強大な戦力が上空通過する光景は、壮観であると同時にトウカが戦乱の世に示した精華でもある。
誇らしいものである。
その皇国……世界最精鋭たる戦略爆撃集団という精華が、帝国軍に恐怖を植え付けるとなれば尚更であった。
そんなトウカの分かり難い表情を感じ取ったミユキもまた嬉しそうな表情を浮かべる。
「あんなに大きいなら他大陸だっていけちゃいますね?」
当たり前だ、とトウカは薄く笑う。神州国の海軍基地に渡洋爆撃を敢行する為にこそ編制されているのだから。
トウカは無粋な目的を表面上に窺わせる事もなく、嬉しそうにしているミユキの頭を撫でる。恐らくは他大陸にまで足を伸ばせると皮算用を巡らせているだろう事は疑いない。
魚介類の買い付けや新婚旅行などと言い出せば一大事だと、トウカは素早くミユキの身体に手を伸ばして抱え上げる。俗に言われるところの御姫様抱っこというものであった。
「……最近、主様は面倒になると抱き寄せたりして誤魔化している気がします」そうは言いつつもトウカの腰に尻尾を巻き付けて降りる気など更々ないミユキ。
軍人としての身体能力を遺憾なく発揮して、トウカは風化によって崩れつつある木造階段を、ミユキを抱えたままに下った。
「予の顔を見忘れたか」
「主様、いくらなんでも上から目線過ぎちゃいますよぅ」
――でもでも、確かに主様の階級の方が上なんだけど……
ミユキは誰何してきた視線を気にしつつも、自慢の胸を張ってトウカの腕に身体を寄せて立場を全力で表明する。トウカもミユキも私服である為に一般人にしか見えないが、ミユキは自身が原因で呼び止められた原因であると察していた。
狐種の中でも天狐族は一際大きな尻尾を持つ種族であり、治安維持に携わる者達であれば一目で見抜く事ができるが、今回ばかりはそれが仇となった。高位種 の天狐族の娘を人間種の男が連れ回すというのは《ヴァリスヘイム皇国》という国家……世界であっても珍しい。ベルセリカなどの第三者が居れば話が拗れるで
もなく、フェルゼンであったならば憲兵隊への通達がなされている。トウカは将官であると一目で分かる軍装をしている為に面倒に巻き込まれる可能性は皆無で あった。
眼前の陸軍野戦憲兵隊の兵科を示す襟章に、大尉である事を示す肩章に怯むほどミユキは夢見る乙女ではなかった。ミユキの夢などトウカに出逢った瞬間に大半は叶えられ、残りは爵位を与えられて直ぐに現実主義という名の悪魔に食い荒らされた。
「私は、シュットガルト=ロンメル子爵です。こちらは――」
「――ただの戦争屋だ」
トウカがミユキの言葉を遮って戦争屋であると断言する。
陸軍と皇州同盟軍は国防という同じ分野を担っているが、それは協調体制を取る事を意味しない。無論、双方の上層部で協調体制を取る事が批准されているも のの、現場がそれを受け入れるか否かは別問題である。特にその責務が重なる以上、多くの場面で対立するのは避けられない。だからこそ、トウカが身分を隠す のだ。
憲兵大尉は得心したと頷いている。
これはロンメル子爵でありましたか、と憲兵大尉が最敬礼で応じる。
良くも悪くも天帝に正式な爵位を授けられていないにも関わらず、大多数の貴族に認められるという曖昧な立場に置かれたロンメル子爵とヴェルテンベルク伯爵は有名な立場にあった。無論、特段の配慮を求める命令が通達されているのはミユキも聞いている。
トウカをロンメル領邦軍軍人の護衛だと判断したのか憲兵大尉は詮索を止める。これ程に馴れ馴れしくしている以上、気付いて尚、見過ごす心算である可能性が高くもあった。
仔狐を侍らせる軍神という表現は、今現在の北部に於いて勇名を馳せている。
貴族を詮索するのは政治を詮索するに等しく、政治を忌避する風潮のある皇国軍人であるからこそ触らぬ神に祟りなしを実行していた。無論、憲兵としては問 題であるが、北部での決戦に備えて間諜摘発と匪賊討伐の激務に参加しており、市内の警備は警務官などに一任されている。関わるのを避けるべきと考えたのも
無理からぬ事であった。部局割拠主義の産物と言えた。
憲兵大尉は背後に従えた部下を一瞥すると、改めて敬礼する。
「では、ロンメル子爵。小官は之にて。もし、何かありましたら憲兵隊本部に御一報ください」
火妖精種と思しき憲兵大尉は、あくまでも憲兵に頼る事を前提にした言い回しにミユキはトウカの様な曖昧な笑みで頷く。
誰も彼もが国家ではなく、それを構成する組織に捕らわれ本質を見失っている。
だが、ミユキの言葉一つで、それが是正されるはずもない。
去っていく憲兵達を一瞥し、トウカが溜息を一つ。
「全く……楽しくなってきたな」
「むぅぅ。主様、仲良くしないと駄目ですよ?」
最近のトウカの攻撃的な姿勢を見れば、ミユキも心配にならざるを得ない。無論、心配するのはトウカの相手が、であった。
トウカは軍神である。
最悪の場合、勝利できずとも痛み分けに持ち込む戦いを演出できる才覚を持つ男である。ただ、それによって生じる双方と周囲への被害が目を覆わんばかりになるのは現状では疑いない。そして、皇州同盟軍は未だに盟主たるトウカが満足し得る規模と能力を備えていない。
だからこそ危険である。ありとあらゆるものを巻き込み、動員するに違いない。
内戦では平和を謳歌していた夜を戦争に引き込み、潜在的脅威である北部貴族の領地が戦場となる様に後衛戦闘を繰り広げ、市街戦では領民の郷土愛を利用して幾つもの義勇装甲擲弾兵師団を編制して投入した。
自らの力が足りないからこそ相対的に敵の力を削ぎ、利用できる各種資源を余す事なく最大限に活用する。
言葉の上では麗しき事であるが、実際にそれを目にすると狂気の産物以外の何物でもない。最愛の戦争屋が持ち得る最大の長所とは、その本質を完全に隠蔽し 得る口先だとミユキは信じて疑わない。大多数はトウカのそうした点を華々しい活躍に目を奪われて気付いておらず、そしてトウカも気付かれるのを避けている
節がある。その口先を利用して恋人に気の利いた言葉を投げ掛けないのは誠意からなのか、或いは信頼しているからなのか、ミユキは大いに気になった。
そんな事を知る由もないトウカは、ミユキの言葉に鷹揚に頷く。
「勿論、仲良くする。何処かの粗暴な衆道者の様に、準軍事組織が国軍に取って代わる夢など俺は見ていないからな」
頃合いを見て国軍に合流せねばならないが、中央貴族や七武五公は獅子身中の虫となるのを酷く怖れているとの事であった。旧北部統合軍の戦力を取り込み国 軍の戦力増強を目論んでいたが、逆に北方方面軍を構成する戦力として駐留した部隊が次々と皇州同盟軍の影響力に浸食されつつある現状を見て気付いたのだ。 旗下に加えるには危険が過ぎると。
トウカから説明を受けたミユキは狐耳を揺らす。
ミユキの与り知らぬところで勢力争いが行われている。
それも皇州同盟の急速な勢力拡大を見るに、トウカは“戦況”を有利に進めいている。勿論、セルアノやマイカゼという二枚看板による硬軟織り交ぜた交渉の 成果であると、トウカは口にする。無論、仕事に追われてセルアノとマイカゼがトウカに近づけないというのであれば、ミユキとしては言う事はない。万々歳で ある。
「さぁ、昼にしよう。あそこが開いている様だ。とは言っても選択肢はない様だが」
トウカが視線を向けた先には、大通りに面した露天客席を持つ大衆食堂であった。
卓上作法に明るくないミユキとしては、高級料理店よりも大衆食堂に近い雰囲気に胸中で一安心していた。《ロマーナ王国》の様式料理の流入でそれを模倣した雰囲気を持つ料理店が近年では多いが、ミユキはやはり自国の……特に北部のものが最も好みであった。
ミユキはトウカと共に大衆食堂の露天客席に設えられた席へと腰を下ろす。それを見た執事の様な服装に身を包んだ店員が満面の笑みで近づいてくる。やはり客の出入りが少ないのだろう。御客様が神様に見える心境なのかも知れない。
「えっと、主様……どうします?」
ここで海産物を主体にした料理を注文するなどいう真似はしない。いい女は男を立てるのだ。自分の意思ばかり押し付けるのは恋ではないとマイカゼに講釈を垂れられて以降、ミユキは寛容性を持つ様に心掛けていた。
二人で注文する料理を決めるが、最終的には何故かミユキが望む海産物を使用した料理ばかりとなってしまった。トウカはミユキの事などお見通しであった。
「顔、いや尻尾に出るな、ミユキ」
「はっ、尻尾ですね! 尻尾の所為です!」
この悪い子さん、と自らの揺れる尻尾を捕まえて両手で締め上げるミユキ。尻尾は項垂れて反省している様子であった。
料理の献立表を目にしている最中に尻尾の動きを見ていれば一目瞭然だと、トウカは大きく苦笑して見せる。
「ロマーナの料理は食材に多様性があるからな。問題ないだろう」
「な、成程です……もぅ、皮算用じゃないですか」
剥れたミユキ。言葉遣いと同じくトウカが配慮してくれているのではないかと考えたが、トウカが続いて肉料理を注文したので本当に遠慮も止めたのだとミユキは納得する。
満面の笑みで厨房へと消えていく店員の後姿を尻目に、ミユキは尻尾を抱えたまま机に上半身を投げ出す。尻尾が座布団代わりになって心地良い。天狐族の大きな尻尾だからこそできる芸当と言えた。狼や虎などにはできるはずもない。
ほどなくして運ばれてきた料理は全てがロマーナ料理であり、皇国の郷土料理よりも多様な食材を使用して調理された料理は視覚にも楽しめるものであった。他に客がいない為か随分と早く運ばれてきた料理に、トウカは早速と突匙を手にする。
対するミユキは両手を胸元の前で組み、天霊の神々へと祈りを捧げる。
この場合、祈りを捧げる神は倉稲魂命で、初代天帝が異世界より齎した一柱でもありながら狐種を使いとする神として知られていた。
実はミユキも信心深い訳ではないが、貴族となった以上は体裁を整えねばならないとマイカゼに注意されたからである。
天狐族の者が突然、有力な伯爵位を得た事に対して多くの狐種の反発を受けていた。幾度もの国難に際して厭離穢土を決め込んでいた天狐族が、狐種の中でも 主導的な立場を形成しつつある事実に寛容でない勢力が存在するのは致し方ない。義務を果たさない、或いは義務を厭うた者に肯定的な権力者など存在するはず がなかった。
今はトウカが盟主を務める皇州同盟という強大な武装勢力の後ろ盾を得ている為、直接的な行動を行う狐種はいないものの、それは付け入られる可能性を見せる事が赦される訳ではない。
という経緯もあり、ミユキは貴族らしくしていた。
トウカが付匙に刺した雑魚の油で揚げを、ミユキの鼻先で揺らすという暴挙に出ているので極めて鬱陶しいが、これは試練である。地味に長い祝詞が呪わしい。
祝詞を終えたミユキは、眼前の雑魚の油で揚げに喰らい付く。
小型の甲殻類や魚類……雑魚に衣を付けて油でからっと揚げ、盛合せにした雑魚の油で揚げは、 揚げたてであるだけあり、さくさくとした食感を演出していた。些か油分が多いが、順番が決められて一品ずつ用意される料理よりも無造作に幾つもの大皿が並
べられる料理をミユキは好んでいるので問題はない。前菜を丁寧に口に運ぶなど面倒である。共和国の上品な晩餐など悪夢であった。
当人は気付いていないが、食前の祝詞を唱えようとも卓上作法を無視しているのでは意味はない。
だが、トウカもまたそうした点を気にしない。
軍人という肉体労働の側面を持つ職業では、料理というのは味が濃く手早く食べられる脂肪分の塊でしかない。塩胡椒と香草で食材の匂いと味を誤魔化し、高 栄養であればよく、成人病に配慮するなどという考えはなかった。そもそも成人病などという概念自体が体系化されていない。無論、戦野の話であるが、それで も他国軍からみれば皇国軍の食糧事情は優れている。
詰まるところ、トウカも酒以外はあまり頓着しない。
茸と香草、牛酪の蝶結麺を突匙で巻いて口に運ぶ姿は、然して気負う様子もない。
二種の茸を香草と牛酪を炒めて汁物にし、蝶結麺と絡め、削った乾酪を混ぜ合わせて胡椒を挽いたであろうそれもまた茸の薫り高く、ミユキは尻尾を揺らす。後で貰おうと心に誓う。
「いずれはロマーナも版図に加えたいものだな」
「もぅ、仲良くしないと駄目ですよ」
トウカが口にすると冗談には聞こえない。
演説の場で頻りに大陸統一に関する発言を繰り返すトウカは、大陸内でも名を知られつつある。無論、“危険な国粋主義者”や“権力に餓えた独裁者”として であるが、その手元に強大な軍事力があるからこそ無視する事もできない。トウカが何時までも皇国内の一勢力に収まっていると見る程に楽観的な者はいないの だ。
「う~ん、リルカちゃんも連れてきたいです」
花咲くが如く可憐であり、同時に儚さを感じる歌声。それでいて野山を駆けるかの様に利発な気配を乗せた音色を持つ女性。流れるような空色の長髪に、藍色の簡素な晩餐衣裳に身を包んだ少女の祖国が《ロマーナ王国》であった事を思い出し、ミユキは尻尾を揺らす。
「そう言えば、彼女をロンメル子爵家の侍女として雇ったのは何故だ?」
トウカが硝子碗に白葡萄酒を注ぎながらも問う。
軍務中ではないが、エルライン要塞に戻らねばならないので深酒は止めねばならない。だが、トウカもまた激務で疲労しているので、ある程度の事には目を瞑るのが女の役目である。
「なんかリルカちゃんって、訳ありなのか周囲の目を気にしているみたいだし、私が後ろ盾になったら大丈夫かなって。友達を護れるなら爵位を貰った事も誇らしいかな」
子爵位を有しているという事実をミユキが利用する機会は意外と少ない。
爵位で押し切る政治的場面であれば、母であるマイカゼのヴェルテンベルク伯爵位の有効性が遙かに優越し、武力で押し切る軍事的場面であれば、恋人であるトウカの皇州同盟軍最高指揮官という肩書の有効性が遙かに優越する。
ある意味、子爵位をミユキがこれ以上ない程に利用したのは、リルカの保護が初めてと言えた。
トウカは思案の表情を浮かべる。思うところでもあるのか。
「リルカ……リルカ・オクタヴィア・レイ・アウレリアは、《ロマーナ王国》で政争に敗れたアウレリア侯爵家の最後の血縁だ。正直なところ、露呈すれば外交問題に発展するな」
政治的冒険は感心しない、とトウカが眉を顰める。
軍事的冒険の連続であったトウカにその台詞を言われるのは甚だ癪であるが、政治に詳しい訳でもないミユキは、現時点でそうした部分に足を踏み入れる心算はなかった。
「主様、調べたの?」
「無論だ。御前に近しい者は総て過去と思想、交友関係を洗っている」さも当然の様に、トウカが告げる。
情報部のエイゼンタール少佐やキュルテン大尉をミユキの護衛にした理由は、恐らくはそうした理由も占めているとミユキは見ていた。直接的な手段に対する 護衛であれば鋭兵科の将兵を護衛とすれば良く、情報部を身辺警護に付けるのは、ミユキの身辺の情報を漏らしたくはないという意図によるところなのだ。
――私、丸裸にされちゃいました……
情報部という公的機関に自らの動向を詮索された以上、ミユキが必死に隠蔽する一点以外は露呈したと見て間違いはない。無論、ミユキは自らの過去や現在の行動に然したるものがあるとは考えていなかった。
実際、ミユキの過去については情報部ですらも不明確な部分が無数とあった。
天狐族の隠れ里……ライネケは天狐族という極めて閉鎖的な感表で調査は困難であった。ライネケを飛び出して放浪していた時期は、その無軌道な珍道中故に 断片的な情報しか得られてはいない。よって、ミユキの過去もまたトウカ程ではないにせよ謎に包まれている。各地の大食い大会での健闘や漁業への従事、狩猟
での活躍と、情報部が困惑する情報ばかりが集まり、情報部の書架を埋めるだけに終わった。一人楽しげであったのはカナリスのみである。
ミユキは身辺を探られた事など気にしていない。
「御前……おまえ……」
「またそれか。望むなら幾らでも呼ぶが……」呆れ顔のトウカ。
話の腰を折る様で申し訳ないものがあるが、ミユキとしてはこれ以上ない程に恋人であると認識できる瞬間であった。ある意味に於いては、その腕に抱かれる 瞬間より尚もそう強く感じる。言葉とはそれ程に大きな意味を持つ。特にトウカは、そうした言動に気恥ずかしさを覚えているのか、或いは行動で語る事こそが
至上であると考えているのか。兎にも角にも恋愛的感情を口に出す行為を憚る。言葉を費やせば費やす程に、軽く薄いものとなると考えている節があった。
困ったものです、とミユキは尻尾を一振り。
「う~ん、リルカちゃん駄目だったのかな?」
「まぁ、問題はない。ロマーナはトルキア南部から突き出した半島を国土とする国家だ。地政学的に見て直接、害意を示すのは難しいだろう。商船改造空母が就役し始めれば何とでもなる」
トウカが、そう口にするならば間違いはない。
遠方の潜在的脅威よりも、目先に迫る帝国軍を脅威とした戦略を取るトウカからすると、《ロマーナ王国》など然して興味を惹く対象ではないのかも知れない と、ミユキは尻尾を一振り。国境が面していない以上、双方共に直接的な介入は難しく、性急に自体が進展する状況は考え難い。
つまり心配はないと言える。リルカは自らの預かり知らぬところで安全が保障されているという事実に、後で驚くかも知れない。
もしゃもしゃと雑魚の油で揚げ……青い甲殻類を齧るミユキは、リルカに後で伝えようと心に決める。彼女も、さぞかし不安な日々を送っているに違いない。フランカに関しては放置しても問題はなさげであるが、リルカには後ろ盾が必要である。
「食うか?」
茸と香草、牛酪の蝶結麺を突き匙で巻き、トウカはミユキへと向ける。世間で言うところの「はい、あ~ん」というものであるのかも知れない。
「あ、あ~ん」
少し照れながらも、ミユキは差し出された茸と香草、牛酪の蝶結麺を口に含む。
これが幸せの味に違いないとミユキは確信する。甘い訳ではないが、牛酪と乾酪、胡椒に仄かに香る香草の薫りが幸せの味であるのは間違いない。
幸いにして周囲には、人影は殆ど見受けられない。
エッセルハイムという芸術都市を独り占めしている気分である上に、二人で料理に舌鼓を打ちながら緩やかな一時を過ごすというのは乙女としてこれ以上なき 憧れである。本来であれば、幾ら金銭を積んでも叶わない機会は偶然の産物であった。しかし、この状況を作り出した当人が眼前のトウカであると思い当り、ミ ユキは複雑な感情を抱いた。
内戦後の困窮する北部が再び戦野になる事を前提に動くトウカによって、エッセルハイムは軍人が徘徊するだけの都市となった。帝国軍の侵攻が始まれば略奪や放火によって都市は荒廃するだろう。場合によっては灰燼に帰すかも知れない。
喪われつつあるが故の輝きを、ミユキは今、目にしているのかも知れない。そう考えると素直に美しいとは思えなくなる。
「あと半年は戦争が続いちゃうから、ここにヒトが帰ってくるのはまだ先ですよね」
だが、この光景の為に多くの者が戦野に身を投じるべきなのだと断言する事もできない。それは、ミユキの領分を越える行いであり、エッセルハイムに住まう者達が判断すべき事柄であった。
戦争は続く。きっと、これからも。
長年、周辺諸国に譲歩を続けていた皇国は精神的な余裕を喪いつつある。特に北部は、その反動を対帝国戦争にぶつけようとしていた。それを利用したが故 に、トウカは急速に支持を拡大する事ができた。それの是非は別にしても、トウカは既に進み続けねばならないところにまで来ている。
「ミユキ……俺は御前が望む世界を作る。五年だ。五年あれば帝国は力を喪い内乱状態になる。世界最大の内戦地帯となるはずだ。それを利用する形で富を築き、皇国は発展するだろう」
他者の不幸を踏み台にした理想の実現。
ミユキは、それが悪いとは考えない。
帝国が仕掛けてきた戦争なのだから、軍事力という手段で応じる事を悪いと考える程にミユキは売国奴ではない。
「待っていろ。御前が誰憚る事なく手を取り合える世界を作ってみせる」
突匙を置いて、ミユキに微笑み掛けるトウカ。
何時も通りの優しさに満ちた佇まいだが、何故だろう。
その瞳に宿る決意や凛冽という言葉すら凌駕する感情を、ミユキは見抜けないまでも察していた。
しかし、ある種の狂気であるという考えは意図して避けていた。
権力の奥底で、夢が息衝いている。
権威の彼方で、愛が芽生えている。
権勢の渦中で、死が渦巻いている。
それらの中央で舞い踊る異邦人が、どの様な感情を抱き行動するのかをミユキは知らず、結果など予想すら難しかった。幾つもの軍事作戦と政治闘争の混合物の結末が一体、皇国にどの様な未来を齎すのか。
「……私、待っています」
ミユキには分からないが、信じると決めたのだ。
自らの恋心の為に皇国の指導者到来を歪曲し、その“神意”を退けたミユキは、トウカの齎す結末が如何様なものであっても寄り沿い続ける心算であった。
「この身は貴方と共に……那由他の果てまで、です」ミユキは緩やかに微笑む。
その頬を斜陽の輝きが優しく照らす。
血涙と硝煙に霞む非日常の最中に垣間見えた緩やかで優しげな日常。二人は斜陽の中で互いの笑みに、更に笑みを深くする。
なれど、歴史は加速を始め、混迷を深めつつある。
時を同じくして、遠く帝国へと飛行すべく、戦術爆撃航空団が龍の嘶きと共に出撃を始めようとしていた。
「勿論、仲良くする。何処かの粗暴な衆道者の様に、準軍事組織が国軍に取って代わる夢など俺は見ていない」
トウカ君のこの発言は、ナチス突撃隊のエルンスト・レームに対する皮肉です。踏み込まれた際も男性同士でやらかしていたらしいです……
祝詞という言葉の使用は神道的には正確ではないのですが、初代皇王による国家神道的要素も加わった天霊神殿の宗教的背景を窺わせるために使用しています。またウカノミタマという神の名称も、天霊の神々という多世界的な神々の集合体としての部分を強調したものです。倉稲魂命は伏見稲荷の主祭神ですね。勿論、狐に所縁のある一柱です。