第二二三話 天使達の政戦
「リディアか……やってくれる」
捨て石を積極的に用いる事を望む女性ではないが、軍事に於いて何を犠牲にしても勝利を希求する事を厭わない女性でもある。
皇国大返しとでも言うべき皇国全土の陸海軍の再配置は、後一ヶ月は必要とする。それでも尚、六割は再武装と再編制が未完了のままである。重火器を放置し ての大規模鉄道輸送と大規模船舶輸送なのだ。後続と貴軍官民が総力を挙げて生産を続けているヴェルテンベルク領の重火器を装備させる予定であった。無論、
それでも総数は不足するが、不足分は他地方の軍需工場や領邦軍、軍倉庫から順次、前線に車輛輸送で集積されつつある。輸送可能な車輌を民間からも根こそぎ に重用し、既に皇国は総力戦体制に入った。
皇国中央を窺いかねない帝国〈南部鎮定軍〉の侵攻は、国内情勢に一石を投じた。皇都擾乱が帝国の策略であるという皇州同盟の主張を補強する流れとなった が、最大の理由は非難を受ける複数の左派政党が対帝国戦役に賛成する立場を取ったからである。彼らもまた批難の矛先を向ける“敵”を探していたのだ。皇国 人の誰もが批難して懐と心の痛まない相手を望んでいるのだ。
そして、主要政党の全てが戦争を否定できなくなった。政府は民意が二つに分断される事を怖れ、政党は党利党略の為に身代わりを求めた。結果として、転がり落ちるように戦時体制への意向が始まった。
選挙で選出された政治家というのは、何時の時代、何処の世界でも長期的視野など持ってはいない。対する貴族院の議員は幾分か冷静であるが、彼らの多くは清廉潔白にして公明正大であるが故の問題を内包している。一部が議員を辞して領邦軍士官として従軍するなどという高貴なる精神を拗らせているのだ。青臭い自尊心だが、そうした建前こそが民衆を惹き付ける。奇しくも同等の権利を与えられたはずの参議院の議員達を差し置いて。少なくとも、その程度の者達が参議院で多数を占めるのだ。
民衆出の参議院に対する国民の不信感が増せば、台頭するのは貴族出の貴族院なのだ。長期的視野があるならば、対応して然るべきなのだが、それすら行わない。
「リディアの鼻薬は好ましいが、やはり口先の人気だけで議員を選べばこの有様か」
トウカは報告書を暖炉に投げ捨てると、リディアの浸透突破を称賛する。
そう、帝国〈南部地鎮定軍〉総司令官が〈第三親衛軍〉の三個魔導騎兵師団を直卒して騎兵突撃で戦線を食い破ったのだ。二万を超える魔導騎兵の突撃は未だ造成の最中にあった複数の防衛線を食い破って、ベルゲンに迫ろうとした。
旧シュトラハヴィッツ領邦軍の軍狼兵を主体として編制された〈第三〇五軍狼兵聯隊『ヴァナルガンド』〉が側面攻撃を行い遅滞防御を実施しつつ、〈ドラッ ヘンフェルス軍集団〉隷下の〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr-Panzerkorps)〉から〈第一武装親衛軍装甲師団、親衛部隊『サクラギ・トウカ』《SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Touka
Sakuragi》〉を抽出して応戦。陸軍の三個装甲擲弾兵師団も加わり、大規模な迎撃戦へと発展した。
リディアが直卒した事で士気が高い三個魔導騎兵師団の進出は熾烈を極めた。幸いなことに、他の帝国〈南部鎮定軍〉師団は余りの進撃速度に、戦線の破孔を 拡大する間もなく攻勢は頓挫した。リディアも自身も後続への配慮を踏まえず、突破を優先した事で戦線全体の崩壊は免れた。無論、帝国〈南部鎮定軍〉の後背
を脅かす無数の狙撃猟兵の輜重線遮断により大規模攻勢が困難となっているという理由も想定される。
「しかし、自慢の魔導騎兵も半数以下にまで数を減じた。序でに忌々しい名前の装甲師団も再編制に託けて改名してやる」
自身の名が冠された装甲師団の改名の良い機会だと、トウカはほくそ笑む。想定を超える規模で装甲車輛……特に戦車の消耗が続いている状況は望ましくないが、それだけが唯一の朗報であった。
帝国軍の攻勢を不完全な形で受ける羽目になった〈北方方面軍〉と皇州同盟軍は多大な被害を蒙りつつあるが、同時に帝国軍も脆弱な輜重線に苦しみ進撃速度は酷く低下している。人員と同時に物資や食糧も持ち出されている以上、現地徴発は叶わない。
北部の帝国侵攻地域からは国民だけではなく、食糧なども引き上げられており、帝国軍が頼みとする敵での徴発は然したる効果を上げていない。そこに耳長族の狙撃猟兵や小隊規模の軍狼兵部隊による襲撃は輜重線に甚大な被害を与えた。高速偵察騎による輜重部隊の観測や追跡による効率的な攻撃も効果を発揮している。
「しかし、このマイントイフェル君。実に良い師団指揮官だ。攻守に優れ、理に叶う運用だ」
陸軍から抽出された装甲擲弾兵師団……〈第二三五装甲擲弾兵師団『ノーラ・ヴォルフェンビュッテル』〉の師団長について纏められた報告書を手に取り、目を通したトウカは、素直な称賛を零す。
エルネスティーネ・フォン・マイントイフェル。
高位種である座天使族の女性で、年齢と容姿は当然ながら人間種の年齢基準とは合致しない。人間種の外観で見ると二十代後半であり、トウカの感覚からする と見目麗しい有翼の師団長という存在は思考を狂わせるものがある。能力のある部隊指揮官。ネネカの様な参謀としての作戦立案能力や管理能力も期待できるだ けの理由が同封された戦闘詳報からも見て取れた。
しかし、トウカが彼女に注目した理由は容姿や能力に依る処ではない。
経歴の上では、幾度かの国境防衛戦争に参加しつつも、皇国陸軍少将……師団長としては凡庸な能力という評価となっていた点である。彼女だけはない。複数 の天使系種族の師団長が、この戦況化で急速に頭角を現しつつあるのだ。偶然とは考え難く、そこには理由があって然るべきである。
――ヨエルめ。元より軍内に根を張っていたな。
統治機構への侵食は認識していたが、軍内では消極的であると、トウカは考えていた。政治面で特定種族を優遇することなく、皇国という国家の国力増進と存 続に注力すること幾星霜。天使系種族は政治闘争をせず、ただ国家機構の信頼に値する歯車であった。軍事力を然して有していないことから、他種族の官僚や政
治家も龍種や狼種、虎種などよりも信を置かれていただろう。個人で兵力を保有する有力者など、官僚や政治家からすると潜在的脅威でしかない。天使系種族が 軍内部で威勢を振るう事がなかった点も、そうした感情を補強したに違いなかった。
しかし、軍内に天使系種族が存在しない訳ではなかった。
皇国に於ける平均的な知能指数を大きく優越しているであろうと、歴史上の事象と政治面での活躍から読み取れる天使系種族が、その知能を軍務に於いて適用できない筈がなかった。
現在に至るまで軍内部の天使系種族が大きな動きを見せていないように見えたのは、戦果に乏しかったが故に注目されていなかった事が原因である。軍とは実力組織である。そして影響力と実力が酷く比例し易い。
軍内の派閥でも、戦功によって栄達した者が中心になる例が多いが、天使系種族は守勢主体の戦術展開に定評があった。挙げ句に戦果拡大にも消極的な以上、昇格や戦功という面では他種族に劣り、武名としての知名度も無きに等しい。
だが、今この時、彼女達は頭角を現しつつある。
武名を求め、或いは軍内部での派閥形成を意図したのか。戦火に惑う組織。派閥形成を阻害する要素は平時よりも少ない。無論、遣り過ぎれば戦時下で身内争いに熱中していると批難を受ける為、軍政や軍令の命令系統に一人でも多くの天使系種族を近付ける事のみに留めるだろう。
――さて、困ったものだ。敵ではないが……しかし、悪くはない。
天使系種族は数の上では九種が存在し、系統個体数としては少数派に分類される。龍種、虎種、狼種という軍内部で威勢を振るう三大種族に抗するには要職を占めるだけの数を投じる事は難しいだろう。ましてや、トウカとの約定で航空歩兵部隊の編成にかなりの数を裂いている。
――どちらにせよ、三大種族が天使系種族の派閥形成を容認するとは思えないが……
組織内の力学を踏まえると、確かに容認し難いものの、軍隊という実力組織となると一概にそうとも言えない。軍隊とは、武名こそが総てを退けるのだ。武名による名声を軽く扱えば、それは将兵の不満となる。
――何より、天使は飛行種族だ。龍種や他の飛行種との連携も有り得る。
空での主導権を求めて相争うのではなく、陸上を主戦場とする種族に質と量の上で抗するべく大連立を望む可能性はある。アーアルベルトもフェンリスやレオ ンハルトとの協調にある程度の犠牲を生じても、航空戦略に於いて一日の長がある皇州同盟との連携を深めたのだ。種族的な孤立を回避すべく、或いは主導権を 獲得できずとも、飛行種の連立により数の上で影響力を確保するのは組織運営の上では正しい。
「これは巻き込まれるな……戦時下に派閥争いに頭を悩ませねばならんとは」
多種族国家であるが故の問題という訳ではない。
米帝でも海軍と空軍の軋轢は深刻な規模で存在する。予算配分を巡って現役将官の首が飛ぶ事件すらあったのだ。軍人とは己が戦場に理想と幻想を抱く。それ は自負心であり矜持でもあるが、過ぎれば軍隊という巨大な諸兵科連合編制の均質性を損ねかねない。予算が一部に偏ることは避けねばならなかった。
「まぁ、積極的に飛行種の背を押すとしようか」
武名を得たトウカ隷下の皇州同盟が後ろ盾となるのだ。主導権は取れずとも同等の勢力となる程度は期待できるだろう。フェンリスとレオンハルトに、アーアルベルトとヨエルが劣るとは思わない。無論、派閥形成に手間取る可能性はあるが。
ぱちぱちと暖炉で弾ける薪に、手にしていた全ての書類を投げる。
焦げて纏まりを喪った紙片暖炉内で舞い上がり、炙られて再び炎へと抱き込まれる。
天使達もまた戦火という炎に囚われつつある。白の紙片が炎に焦がされて黒となる様に、彼女達の純白の翼も焼け焦げて黒に染まるだろう。
トウカは動乱という名の炎に薪を焼べる。
仔狐から戦火を遠ざける為に。
彼の良心は、歴史の彼方に置き去りにされて久しい。
「糞っ! なんて数だ! こうも多いと戦果にもならんぞ! 数えるのも面倒臭い!」
雑草を刈り取っても戦果とは言えない。
曹長の階級章を付けた白熊種の下士官は、塹壕内で対戦車小銃の弾倉交換をしながら毒付く。
鯨波の如く攻め寄せる帝国軍部隊は、極短時間の支援砲撃の後、早々に銃剣突撃へと移行する。背後に督戦隊が存在する為か、その突撃は狂気に満ちたものである。明らかに酒類や麻薬の類で恐怖心を低減させているであろう上気した表情は狂信者と呼ぶに相応しい。
背後を森林地帯とした塹壕線を構築する事で後背の野砲や迫撃砲を隠蔽している。木材を切り出して塹壕設営に利用できるという利点もあって、彼ら中隊規模の歩兵が展開していた。
「前の塹壕は限界だ。おい、そろそろ崩れる。誤射するなよ」
前方の塹壕に展開している友軍は最早、限界である。既に一度、塹壕内で近接戦を繰り広げているのだ。損耗率は銃火の数を見れば一目瞭然である。
「曹長。実は」
「おう、どうした一等兵」
近付いてきた馴染みの一等兵が、曹長へと顔を寄せる。
平時では、中隊腑諸官として中隊庶務全般を取り仕切る都合上、多忙な曹長は眼前の目端の利く若年兵である一等兵を助手として重用していた。故に、その表情を見れば禄でもない事であると察した。
「先の砲撃で小隊長が戦死なさいました。中隊長は臨時で曹長に指揮を一任する、と」耳打ちする一等兵。
中隊付き曹長に一小隊を委ねるというのは、本来の指揮統率の序列から外れた命令と言える。曹長は弾火薬の消費確認の為、塹壕内に飛び込んできたに過ぎないのだ。丁度、そこにいるから指揮を任せるというのは些か筋が通らない。
しかし、小隊は次席の小隊軍曹も戦死しており、他は余りにも実戦経験に乏しいと見たのだろう。何より、曹長は種族的に大柄であり野戦部隊の若造共を抑え付ける威容を持つ。臨時の判断としてやむを得ないものと言える。
曹長は天を仰ぐ。火炎魔術で流入した雪解け水を蒸発させた塹壕内の泥濘が再び足元を捉えたかのような錯覚を受ける。
「あの坊ちゃん……そうか」
あどけなさの残る新任少尉の戦死報告を聞き、曹長は野戦帽の上から頭を掻く。隙間から零れた雲脂が肩を彩り、長くなった爪の隙間に入る。既に仕草の一つや二つを周囲が気にする状況でもなく、響き渡る砲声は個人の仕草や声音など容易に掻き消す。
曹長は、この状況に妙な可笑しさを覚えた。
代々山奥で川魚を養殖して生計を立てていた一族の己が、気が付けば故郷から離れた地図に名前も記されない雪原で夷荻と血の饗宴に興じているのだ。ただ、 山奥での生活に飽いて都会に出てみれば、何をするにも金銭を必要とし、学もない彼は体格と体力を金銭へと変えられる職業の中でも安定した陸軍兵学校の門を
叩いた。決して、愛国心や郷土愛があった訳でもなく、ただ都会という未知が多分に潜む土地で多くを体験するべく日銭を稼ごうとしたに過ぎない。であるにも 関わらず、気が付けば寡聞にして聞かぬ雪原で帝国主義者という未知を体験している。
「そいつは愉快だ。なぁ、おい」
対戦車小銃を横に置き、長く邪魔な曹長剣を鞘諸共に塹壕の地面へ突き刺すと、曹長は緩む襟元を正す。座したままでは些か動き難いが、立てば流れ弾か狙撃の洗礼を受けかねない。
曖昧な返答を零す一等兵の鉄帽の唾を叩いて目深にする。軍では曖昧な返答は許されない。無論、小隊長の戦死を喜べと言われて素直に喜ぶ人格者であるならば、有事下で昇進を繰り返す有望株であるが、一等兵は彼が見込んだ通りの不器用者だった。
曹長は撤退を始めた帝国軍部隊の雑踏を遠くに、頃合いと見た。
受動的な塹壕戦では指揮官の有無よりも士気が戦況に影響を及ぼす。
未知を求めた末に、禄でもない体験を得た彼は一層の事、できる体験は全てしてやろうと、摩滅した思考の中で思い至ったのだ。
「諸君、羨ましい事に小隊長殿は、先に天霊の神々の御許で戦乙女の下で性的接待を受けているそうだ」
実に羨ましい事である。妻帯者ではないが、そうした経験が皆無であろう新任少尉は寝台の上で期待と不安に震えているに違いない。未知の体験であろう。実に喜ばしい。
銃火に負けぬよう張り上げた声音は、想像していたよりも大きく塹壕内に響く。
失笑が零れる塹壕内。
狙撃に興じている兵士の小銃の筒先が震えている。弾薬箱に弾帯を仕舞う機関銃手が金属音を立てる。予備の小銃を清掃していた歩兵が槊杖を取り落とす。
その仕草だけで、今は亡き新任少尉に対する信頼の程が窺える。戦死者が相次いで生じている中、指揮統率に優れた指揮官を得るという幸運はそう得られるものではない。
「残念だが、俺はまだ死にたくはない。贈収賄の一環で性的接待を受けるまでは死ねない。死後の性的接待はそれまで我慢する所存である。ところで諸君はどうだ? 御許で受けたいなら俺が送ってやるぞ?」曹長は腰のP98自動拳銃の銃把に手を添えて見せる。
失笑が一際、大きくなる。
「宜しい、諸君。共に凱旋した暁には、どこかの企業か伯爵家の接待を受けようじゃないか」
自らの指揮統率を受け入れたと判断した曹長は、肩を竦めて見せる。
軍人に対する接待攻勢などという各方面から顰蹙を買うであろう手段を大々的に行うのは、北部で勇名を馳せるヴェルテンベルク伯爵家とその影響下にある軍需企業しかいない。彼らもそれを理解している。
似合わない事をしているという自覚を軍装の下に押し込み、曹長は対戦車小銃を手にして槓桿を引いて初弾を薬室に装填する。
雪原という遮蔽物の少ない戦場では、長射程の対戦車小銃や重機関銃が多大な威力を発揮する。至近距離であっても共に大口径高威力の銃弾を使用する為、複 数人を纏めて薙ぎ倒す事が出来る。酒と麻薬で意識の低下した彼らは密集して突撃に移行する事が少なくなく、その有効性は外的要因によって拡大した。
次々と前方の放棄された塹壕から後退してきた友軍兵士が次々と塹壕に飛び込んでくる光景に溜息を一つ。連絡壕を構築できなかった為、彼らは敵弾に身を晒 して後退せねばならないのだ。無論、友軍砲兵が支援している。塹壕からは、誤射を怖れて狙撃兵のみの支援に留まっている。
「小隊長代理、お届けです。こうなると思って、持ち出せるだけ持ち出してきました」
「御調子者め……軽迫の弾か」
一等兵の背後で複数の兵士が木製弾薬箱を塹壕内に並べている。野砲の不運な流れ弾があれば、さぞかし盛大な花火が塹壕内を駆け巡るであろう光景であった。
「曹長も一発どうですか?」
「俺は真っ当な性癖だがな」
軽迫撃砲弾を一等兵より受け取り、曹長は軍帯を緩めて挟む。
皇国軍では膂力に優れた種族が迫撃砲並みの射程で手榴弾を投擲するという行為が少なくない。その為、使用者が手軽に設定可能な時限式信管となっている が、手榴弾だけでなく、軽迫撃砲の砲弾を投擲する者も少なくない。無論、砲弾の底部に衝撃を与えて安全装置を解除するという行為は運用規定外であり、叩き
付けた対象が突起物で運悪く内部の雷管を押し込み、手元で推進薬が炸裂するという事故も時折ある。
着発信管の先端の文字円盤を捻り、大まかな投擲距離を推察し、時限信管を設定する。運用規定外であるにも関わらず、想定していない角度での直撃による炸裂を可能とする時限信管までをも搭載しているのだ。軍上層部の歩兵科も、そうした扱いを黙認しているのは公然の秘密である。
その原因は、予算配分に於いて砲兵科に「直接的に投擲するならば迫撃砲部隊の運用は不要であるはず」との主張を挫く為であり、「これは時限信管付きの迫撃砲弾に過ぎない」という方便の末に現状へと落ち着いたという経緯がある。
足元の弾薬箱に集積された砲弾の幾つかの時限信管を続けて調整したところで、帝国軍の陣地から蛮声が響く。
「元気な事だ。戦友諸君、朝敵を彼岸の彼方まで押し返すぞ!」
曹長の声に、塹壕内の兵士達が野太い声で応じる。
塹壕より窺い見る限り、進出する帝国軍部隊の兵力は、受け持ちの戦区だけでも二個大隊規模と推測できる。腰の単眼鏡を使うまでもない。
前方の放棄した塹壕に取り付いて奪取を行う腹心算の部隊に対し、皇国軍は設置した爆薬による爆破で応じる。
轟音を立てて吹き飛ぶ塹壕。運び込んだ爆薬量では、壊乱までは期待できないものの、塹壕の補強に使用された木材が破砕され、破片効果となって殺傷範囲を拡大する。
深緑の軍装を纏う敵兵と木材、土砂、融雪が舞い上がるが、爆炎は全てを黒々と染め上げ、火炎が雪解けの大地を吹き払う。
「神州国では“たまや”と言うらしいな」「はぁ、小官は“かぎや”と聞きましたが」
曹長と一等兵は呑気に言葉を交わしているが、眼前では巻き上げられた敵兵を含む大質量が大地へと叩き付けられ、黒煙と共に視界を遮る。花火と言うには些か汚らしい。神州国の花火は式神によるもので火薬式ではない為、色彩に関わらず煙は生じない。
「突破破砕線に侵入次第、各個射撃に移れ」手にした対戦車小銃を塹壕から構えた曹長。
突撃に移行した帝国軍が人海戦術であるが故に誤射を恐れて後背からの支援を得られない。皇州同盟軍の通信中隊の強化によって広域戦線に於ける情報と命令 の時間差を低減した皇国軍と違い、帝国軍はその通信能力の限界から散兵戦術にも限界が付き纏う。展開能力の制限は未だに銃火を逃れる効率的な規模の散兵化 を現実できないでいた。
つまるところは、ある程度、纏まった間隔の歩兵が突入してくるのだ。
引金を引くと、照星の先に窺える敵兵が足の筋力を失った様に霙の大地へと倒れ伏す。血飛沫は見えない。小銃や拳銃弾での被害は意外と血を飛散させない。距離があれば見えぬのは当然と言えた。
早々に装弾数である八発を撃ち切り、挿弾子が薬室より宙を舞う。曹長は素早く塹壕内に座り込むと、薄汚れた白色の冬季戦用長外套を払う様に捲る。槓桿を引き、遊底を動作させると、薬室に軍帯に吊るされた弾薬盒の一つから新たな挿弾子を取り出して叩き込む。
皇国陸軍では挿弾子による装弾時の引き抜く手間を惜しみ、最終弾の排莢と同時に挿弾子も排出するという機構を採用している。銃口制退器や銃床などに反動抑制機構として魔術的な機構を用いた事から他国では高評価を受けていた。最も、皇州同盟軍では、三〇発入りの箱型弾倉を用いた自動小銃の正式採用が始まっており、陸軍兵器行政本部に多大な衝撃を齎している。
「砲兵隊は対砲迫射撃に忙しいと見える!」
敵の迫撃砲と砲兵隊への対抗すべく応射を始めた友軍砲兵隊に、曹長は儘ならない状況であると溜息を一つ。
帝国軍は野戦砲の中でも中砲と軽砲を重視した編成を行っている。
対する皇国軍は重砲や重、軽迫撃砲を重視した編成となっている点とは対照的である。
砲の口径規模は皇国陸軍の定義として、軽砲は一〇㎜以下のものを指し、中砲は一〇㎜~一五㎜のものを指し、重砲は一五㎜以上のものを指す。それを超える規模のもの……列車砲や要塞砲などを含む大口径砲は超重砲とも呼ばれるは、それは正式呼称ではない。
已むを得ん、と再び対戦車小銃を構える。
未だ距離があるが、暫くすれば塹壕突入を覚悟して銃剣を装備させねばならない。
木材や魔術を利用して補強されているとはいえ、所詮は即席の塹壕陣地である。鉄条網や阻害は不足しており、敵兵流入に対しては脆弱である。
塹壕内で銃火器の取り回しを考慮して銃剣装着は直前まで避けられているが、その装着を命じれば愈々(いよいよ)と塹壕内での近接戦闘を考慮しているとの緊張と恐怖が兵士達を襲う筈である。
不意に軍帯に吊るされた銃剣が重みを主張し始める。銃剣の収められた銃剣吊りの草臥れた革外装が呪わしく思えた。
「曹長、通信が!」
「なんだ! この糞忙しい時に!」
通信機に齧りついた通信兵を引き摺ってきた一等兵を一瞥し、再び遠方……とは言えなくなる距離にまで迫った敵兵を撃つ。次は脚部に命中する。即死はしない。しかし、後続の兵士達の雑踏に姿を消す。踏み潰されたかも知れない。
「曹長、戦車です! 戦車がッ!」
慌てた口調で一等兵が曹長の肩を掴んで塹壕内へと引き摺り込む。周囲を見れば恐怖に顔を引き攣らせて塹壕内で兵士達が縮こまっている。
不意に巨大な駆動音が迫る。
そして、巨大な影。続く鋼鉄の空。幾つもの鋼鉄が塹壕を覆う。
「戦車ですよ! 司令部め! 報告が遅い!」
罵る一等兵だが、今回ばかりは同意できる曹長も彼を鉄拳制裁する気は起きなかった。寧ろ、一緒になって罵倒したい気分ですらあった。或いは、戦争をやら かし過ぎて、部下に罵倒されるのが好きな人種になった恐れすらあるのではないかという妄想が頭を過る。無論、僅かに頭の片隅に残る冷静な部分は、どこかの 部隊が戦域に勝手に乱入したのだろうと見当を付けていた。
「グレンゲルⅢ型歩兵戦車ですね。皇州同盟のⅥ号中戦車じゃないみたいです。あ、でも、砲塔が載っています」
機関砲二門が搭載されたと思しき砲塔を装備した戦車に二人は注目する。
歩兵戦車として、前部に短砲身の戦車砲二門を主武装として装備しているはずのそれがなく、代わりに車体上面に四〇㎜口径と思しき機関砲を二基搭載した砲塔が窺える。
断続的な重低音。機関銃よりも遥かに重い。間違いなく機関砲であった。
塹壕から頭だけを出して窺い見ると、大口径の機関砲は帝国兵を次々と挽肉へと変えていた。小銃弾や重機関銃とは桁違いの威力で、血飛沫が舞い上がり、人影が姿を喪い、地面が縫われる様に霙雪交じりの土が噴き上がる。
装甲大隊と思しき編制の登場に、曹長は反攻作戦が始まったのかと錯覚する。
塹壕を乗り越えた改修戦車が突撃に移行していた帝国兵を薙ぎ払い、忽ちに総崩れにさせる。両軍にとり想定外の増援は多大な混乱を齎していた。
眼前の口径に呆気に取られていたが、背後で制動装置音に曹長は振り向く。
上面開放式の軍用魔導車輌が塹壕前で停止したのだ。
その背後には夥しい数の歩兵と車輛が続いている。見た事もない自走砲や牽引式野砲、牽引式迫撃砲、輸送車、工作車……魔導短針儀と思しき機構を備えたと思しき車輛も窺えた。既存の編成とは大きく掛け離れたもので、所属部隊は不明確であった。
「曹長、あれは〈第二三五装甲擲弾兵師団〉ですよ」近付く兵士の腕章に所属を見て取った一等兵。
陸軍から抽出された装甲擲弾兵師団……〈第二三五装甲擲弾兵師団『ノーラ・ヴォルフェンビュッテル』〉は〈北方方面軍〉に増強された部隊である。五公爵 の中でも、取り分け強固な愛国心を持つとされるネハシム=セラフィム公爵からの資金援助で編制された為、編制もまた陸軍の基準からは掛け離れている。集成
部隊である為か、傍目に見ても装備に統一感がない。特に車輛の種類が多く、改修されたものも数多く見受けられる。
「でも、背後は森なのに……」
「先の戦車。排土板と回転鋸を搭載したものがあった。森を突っ切ったのだろうな。無茶をする」
前部に短砲身の戦車砲二門を搭載しない代わりに装備された“武装”を思い出し、曹長は一等兵の疑問に答えた。内戦時のエルゼリア侯爵領に於ける戦闘で ヴァレンシュタイン中将が行ったとされる手段で、その際は想定されていない方角からの攻撃に征伐軍は恐慌状態に陥ったとされる。
全般的に機動力重視の編制であることは疑いない。機動重視というのは軍狼兵科出身の将校が根強く主張する戦闘教義であったが、彼らは攻撃力に乏しかっ た。それは装虎兵も例外ではない。防御陣地や火力集中に弱く、歩兵部隊を随伴させられない為、戦線拡大への寄与は限定的であった。
それらを解決したのが、皇州同盟軍のサクラギ・トウカ元帥であった。
彼の先見の明は航空攻撃や空挺、戦車の集中運用などで明らかであり、軍事に明るい者達の多くがその点を評価する。対するトウカは、そうした点を評価する 者を評価していない事は知られていない。彼は敵戦力の漸減と包囲殲滅に重きを置いた戦略と戦術を展開するが、彼はそれを行う為に、部隊全体の機動力向上を
行った。歩兵を自動車化歩兵にし、野戦砲と迫撃砲を自走化し、一部では馬車も使われていた輸送車を魔導車輌に統一した。
機動力を攻撃力と防御力に加算し、主導権を戦場で希求し続ける。彼は、その為に軍に問答無用の再編制を断行した。
航空攻撃は、障害物のない空から迅速に攻撃を予定している地域に航空爆弾を投射する手段として、空挺は後方の遮断と擾乱による敵の機動力低下を齎した。戦車ですら本質は自走する特火点である。
あくまでも、本質は全軍の機動力底上げと、攻撃地点に対する火力投射能力の向上にこそある。打撃力向上は副次効果に過ぎなかった。
そのトウカの思想を理解した編制が眼前に広がっている。
無論、曹長は軍事思想など理解と興味の範疇になかったが、速度に優れた編成であるという点だけは理解できた。
装甲部隊の将校は生意気盛りの若者が基本であるという噂通りなら、曹長はやり取りをするのも面倒であると暗澹たる気分となった。塹壕内での銃剣による近接戦よりかは、幾何かの救いはあるが。
しかし、曹長の予想は有り難い方向に裏切られる。
「我々は、この戦域の敵を破砕して肥料にする。貴様らの部隊は撤退命令が出る筈だ」
流れる様な声音による殺戮宣告。
天使種の女性……階級章を見るに少将であり、曹長は慌てて敬礼する。答礼と共に返された言葉はまたも過激なものであった。
「無論、共に殺戮を楽しみたいと言うのであれば、続いても構わないが」
火車の象意の施された軍装を見るに座天使族であり、天使種の中でも特に戦闘に特化したとされる種族である。尊厳と正義に燃える天使として名高い種族が前 線に姿を見せた事に、曹長は驚きを隠せないでいた。天使系種族の大多数が、天帝の御宸襟を案じ奉る者であるという自負からか、前線で見かける事は少ない。
しかし、彼女はこの場にいる。
要件は終えたとばかりに、塹壕を越えるべく部隊への進撃を命じた座天使。
「曹長……」「分かっている」
半装軌式の魔導車輛が塹壕を越える。次々と装軌式車輛が乗り越える中、空にも純白の翼を羽ばたかせた天使達が姿を見せた。編隊を組んで低空飛行する姿は一瞬で過ぎ去り、敗走する帝国軍部隊を追撃する構えを見せていた。
「航空歩兵? 重装備だな」「機関銃を持っていましたよ」
曹長と一等兵は顔を見合わせる。
彼の知らない戦争が明確な形で姿を見せ始めていた。
そして、北に現れた軍神の影響は確実に皇国に変化を齎していた。