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第二四六話 過信と推測
「足手纏いもいない。状況は及第点。撤退あるのみだ」
ユーリネンは夜の帳が降りる中、ドラッヘンフェルス高地北の森林の端……偽装した師団司令部に身を隠していた。
師団司令部と称しても、実質的には低く建てた天幕に過ぎない。天幕は木々の枝葉で目立たぬ様に擬装されており、周囲に展開する師団将兵も低姿勢……座り込んで待機している。
「防禦陣地も総崩れを始めています。夜間とはいえ、規模が規模なので……」
「露呈するのは早いだろうな」
リーリャの言葉を肯定したユーリネンだが、ミナス平原に於ける皇国軍の被害と、広範囲に渡って敗走した〈南部鎮定軍〉の敗残兵に対する残敵掃討に陸上戦力を裂かれていると推測できた。皇国内の政治情勢をユーリネンは相応に学んでいる。その結果として、陸軍が皇国中央部へ侵入される事を酷く恐れていると理解していた。
内戦中の軍事行動にもそれは見られる。
征伐軍という統帥権から逸脱した存在が“黙認”された背景もそこにあるとユーリネンは見抜いていた。表層は違えども皇国も帝国も本質的には権威主義国であり、統帥権という権威の象徴がある種の不可侵性を帯びている点に差異はない。皇軍相撃に否定的であった……そもそも政治の失態による叛乱であることから陸軍は初動が遅く、それに対して焦燥に駆られた中央貴族はアリアベルの提案を黙認してしまった。
結果として、大御巫であるアリアベルを制御できる貴族は父たるクロウ=クルワッハ公爵のみである事が内戦中に証明された。中央貴族は叛乱鎮圧に於ける主導権を失うだけに終わる。それが皇国の内戦に於ける大まかな政治的折衝であった。
そこから読み取れるのは、中央貴族が自前の戦力……領邦軍主力を最後まで投入せず、陸軍の戦力を頼ったという点である。純粋に勝算がないとみたとも取れるが、それ以上に自領防衛を重視したからとも取れる。そして、内戦中、征伐軍も中央部への進出を阻止する目的と思しき軍事行動を幾度も展開していた。ベルゲン強襲時の混乱は帝国にも聞こえていたのだ。
病的なまでに中央部への侵攻を、中央貴族は恐れている。
主要な工業地帯や穀倉地帯を抱えているが故に、皇国政府も中央部を重視しがちである。
――こんな形で皇国の研究が役に立つとはな。
ユーリネンは獣系種族の多い自領を統治する都合上、皇国の動向には常に目を光らせ、そして研究や調査を欠かしていない。多種族国家を弾圧以外の方法で何千年に渡って統治し続けている点には目を瞠るものがある。統治の参考にした点は少なくない。
だからこそ、ユーリネンは理解できた。
統帥権侵犯という事態を黙認してまで、中央貴族は陸軍の兵力を当てにし、皇国政府もそれを黙認した。
それは偏に中央部への被害を恐れたが故である。そう考えなければ整合性の取れない政戦が内戦中にはよく見られた。
正直なところ、ユーリネンはトウカが帝都空襲を行ったように皇都空襲を行って皇国政府に譲歩を引き出さなかった時点で端倪すべからざる軍略家であると認めていた。
ただ航空優勢の原則を発見しただけの軍人に留まらない。内戦後の帝国軍の侵攻を見越した上で民衆に生じる遺恨を抑制するべきだと考えたのだ。軍人の視点しか持ち得ないのであれば、間違いなく皇都空襲は行われた。軍事力を以てその意思を相手に押し付ける事で決着を付けられたのだ。無論、アーダルベルトの留守を狙う必要性があるが、誘因と伏撃を戦略規模で行った実績のあるトウカが行えない筈もない。
皇国が中央部への敵軍侵攻を恐れているのは、政治家の選挙や貴族の対面という部分よりも、中央部を確実に防衛する為、周辺領土を拡大して縦深を確保したという歴史的経緯がある。
故に中央部は工業地帯と穀倉地帯を複数抱えて単独で皇国を維持できるだけの機能を備えていた。他地方に国力を司る施設や設備などを建設する事をせず、国防の為にあらゆる要素を中央部に集めて集中防禦を実現しようとしたのだ。
それは何時しか、ある種の不可侵性を帯びた。
分散しての被害軽減ではなく、国家規模の集中防禦の結果、中央部への侵攻を受ける事に皇国臣民は酷く過敏になっている。陸海軍だけでなく政府までもが遺恨を抑えて皇州同盟と協力し、中央貴族も黙認している程に過敏なのだ。
残敵掃討は熾烈を極めるだろう。それは多くの戦力が割かれる事を意味する。
少なくとも中央部に帝国軍人が足を踏み入れたというだけでも政権交代が起こる程度には過敏であるはずである。その証拠にリディアによる皇都侵入以降の皇国政府は、帝国軍の軍事行動の動きに対して精彩を欠いていた。陸軍との軋轢が顕在化したのだ。国土防衛の観点から責任追及に動いた政府に対し、陸軍は予算削減による軍備縮小という理由を以て反発。故に機能不全に陥ったからこそ征伐軍に従軍する部隊が相次いだ。国防に対する焦燥感に突き動かされた彼らは愛国者として内戦に突入した。
そして、トウカの立身出世の踏み台にされたのだ。
踏み台とするには過大な規模であるが、それを踏み台として扱えるだけの才覚を持つ相手を敵として、今のユーリネンが駆け引きを行わねばならないのは歴史の皮肉である。
「閣下、定刻です」
「……現刻より作戦行動を開始する」
リーリャの指摘に、ユーリネンは鷹揚に頷く。
周囲に響き渡る無数の号令は、どこか人目を憚る感情が滲む。撤退戦であるという心理状況がそうさせるのか、航空戦力に怯えているかまでの判断は付かないが、少なくともユーリネンはどちらもであった。
「〈ラヴリネンコ戦車軍団〉は待機させておけ。二日後には〈南域征伐軍〉と合流できるだろう」
「貴族も噂の戦車が六〇〇輌近くも合流するのですから喜ぶでしょう」
リーリャの皮肉にユーリネンは失笑する。
帝国陸軍が保有する戦車は機甲戦で役に立たないと推測された。そもそも踏破性が低く実証の機会を得る程に前進できなかった以上、泥濘の上を移動しながらの砲戦など不可能である事は容易に推測できる。敵軍の戦車は、履帯幅が広く、回転式砲塔を備えており、踏破性と即応性に優れている。
挙句に戦車は航空攻撃に酷く脆弱である。
皇州同盟軍が運用している襲撃騎という騎種は、翼下に大口径機関砲を搭載しており、これは明らかに対戦車戦闘を前提としたものである。戦車という脅威が将来的に顕在化する可能性を見越しての事であろうことは疑いない。故に有効な対策として取り入れたいが、戦闘に耐え得る龍の不足している帝国は防空任務の戦闘騎育成以外に選択肢がなかった。尤も帝国陸軍が襲撃騎を運用しても、皇国軍の航空優勢は圧倒的で攻撃目標まで辿り付けるとは思えない。戦闘騎の保有数拡充は基本方針としては間違っていなかった。
現状では戦車戦を行う以前の問題なのだ。
旧態依然とした大軍であるが故に移動の容易な地形を選択して大きく分散する事もなく前進を続ける〈南域征伐軍〉を皇国軍は航空偵察で補足している事は間違いない。若干の航空戦力も保有しているとの事であり、攻撃目標としての優先順位は高い筈であった。
「しかし、征伐軍という名前を付けるとは思いませんでした。軍神に蹂躙されそうな名前です」
「語彙が不足しているのだろう。尤も実力も不足しているだろうが」
それでも増援として戦車軍団の合流を“依頼”した。
〈南部鎮定軍〉隷下の〈ラヴリネンコ戦車軍団〉だが、その人員には貴族将校が多い。装甲のある車輛であれば生存率が高いと踏んだのであろうが、実情として強固な目標は集中攻撃に晒される確率が高い。彼らは多くが戦死した。
〈グローズヌイ軍集団〉の運用面で、貴族将校が目障りであると見たのか、帝国陸軍総司令部からの軍集団編制命令では、〈ラヴリネンコ戦車軍団〉は戦闘序列に含まれなかった。ユーリネンを頂点とする上での配慮である事は疑いない。
故に〈ラヴリネンコ戦車軍団〉へ〈南域征伐軍〉に合流する事を提案した。
命令ではなく依頼や提案であれば、最終的な責任はユーリネンにはならず、〈ラヴリネンコ戦車軍団〉の貴族将校も知人が多い〈南域征伐軍〉への合流を望んだ。より大規模な戦力と合流する事は軍事的に見て妥当であり、〈南域征伐軍〉は若干の航空戦力を保有している。防空も期待できた。
それらを匂わせる事でユーリネンは〈ラヴリネンコ戦車軍団〉に己の提案を認めさせた。
〈ラヴリネンコ戦車軍団〉はエルライン要塞攻略戦に於いて移動する特火点として活躍したが、当時は二〇〇〇輌を超える規模であったにも関わらず、現在は六〇〇輌近くにまで数を減少させている。エルライン回廊に於いて要塞砲や野戦砲と熾烈な砲戦を経た対価であるが、整備不良による放棄や部品流用による稼働数低下も少なくない割合を占めていた。
それでも数だけを見れば有力な戦力であり、戦車である事に変わりはない。貴族は大いに励まされるだろう。
ユーリネンとしては、前線に近付くにつれて怖気づいて行軍速度が低下する事を恐れていた。
〈南域征伐軍〉に敵主力を誘因させている間に〈グローズヌイ軍集団〉は撤退に移るのだ。
それ故に戦車軍団が合流して強大化した大軍を用意した。
撃破する優先順位を明白にするという理由もあって両軍の合流を、ユーリネンは望んだのだ。
「防御陣地の撤退はどうか?」
「順調です。航空攻撃が下火になった事もありますが、度重なる爆撃で兵力が大きく減少した事が大きいかと」
副官の指摘に軍集団司令官は、航空優勢は戦況に直結するのだと思い知る。隷下の兵力が極短期間に師団規模で喪われたからこそ理解できた。
「防御陣地も貫徹能力の極めて高い爆弾に晒された様です。主要経路付近の防御陣地は全滅に近いとの報告があります」
帝都空襲の詳細な経過を知らないユーリネンは、それが帝城に投下された地上貫通爆弾と同種のものであるとは知らないが、皇国軍の準備の良さと航空攻撃の汎用性に辟易とした。
――まさか、広範囲の歩兵を殺傷する爆弾もあるんじゃないだろうな?
着発信管の通常爆弾による破片効果と爆風ですら、歩兵には防禦し難い。一般的な建造物では遮蔽物にならない場合もある。今以上に殺傷範囲に優れる爆弾が戦場に姿を現せば草刈りの様に兵士は薙ぎ払われるだろう。
「二個師団規模兵士が戦死したのか……よく壊乱しなかったものだ」
「……断続的な航空攻撃に防禦陣地から逃げ出す事もできなかった様です」
空からの攻撃に身を晒す事が理解できるのならば、遮蔽物に身を隠す以外の選択肢はない。敵前逃亡の誘惑は乱舞する航空騎によって絶たれたのだろう。夜間ですら龍の嘶きが空より聞こえるのだ。
「どうも今回の撤退も督戦隊が銃口を向けながらの様です。前代未聞ですね」
「軍事史に残るな。友軍を撤退させる為に督戦隊が活躍するとは」
撤退の為に防御陣地から這い出さない兵士を督戦隊が銃口を向け、或いは銃剣で尻を突きながら撤退させるのだ。前代未聞の椿事と言える。戦争が終われば、督戦隊が感謝される状況が生じるかも知れない。味方に銃口を向けて感謝される未来など誰しもが予想しなかった。
「まぁ、〈第三親衛軍〉の連中は俺に感謝などしないだろうが」
〈南部鎮定軍〉の残存兵力も二〇万名近く収容できたが、彼らの一部は尚も戦う事を望んだ。大部分は〈第三親衛軍〉であり、リディアを奪還すると息巻いてユーリネンに詰め寄った。気概は買うが、リーリャ達獣人種兵士の腕力の前に彼らは悉くが張り倒された。〈第三親衛軍〉将兵は紛れもない精鋭であるが、〈第二六四狙撃師団〉は狩猟を得意とする獣系種族を主体とした帝国に類を見ない師団である。簀巻きにされた〈第三親衛軍〉将兵を強制的に荷馬車に乗せて後送させる事など造作もなかった。
「我々は念の為に最後尾だ」
「〈南域征伐軍〉に通信。我軍は被害甚大壊乱しつつあり。急がれたし、だ」
ユーリネン通信参謀に命じると、〈第二六四狙撃師団〉隷下の基幹戦力である三個狙撃歩兵聯隊に後方警戒を命令する。軍狼兵の浸透に備えた警戒線構築であった。
「〈第三四〇胸甲騎兵師団〉師団長より通信です。必要に応じて此方が機動打撃を行う、と」
「騎兵で機動打撃とは剛毅なことだ。……承知したと返信しろ」
浸透によって敵情探査を行う索敵軍狼兵大隊の側面を騎兵突撃で付く心算であろう事は疑いない。開けた地形でそれが可能とは思えないが、その準備があると見せるだけでも浸透に対する一定の抑止力になる。
「閣下、車輌に」
「いや、歩ける者は歩く。俺も例外じゃない。負傷者を乗せろ」
ユーリネンはリーリャの言葉を退けて歩き出す。師団司令部直率歩兵中隊も周囲を警戒しながら進軍を始めた。先鋒は索敵騎兵小隊が務めるべき展開であるが、騎兵は負傷者を先んじて輸送する際に荷馬として運用して手元にはない。
「戦後の身の振り方を考えねばな」
〈グローズヌイ軍集団〉の主任務は、〈南部鎮定軍〉残存兵力の収容であり、皇国軍との決戦に参加する事ではない。少なくとも命令書には決戦という言葉はなかった。
しかし、客観的に見て獲得した占領地から撤退する事に変わりはない。
トウカは奪還を約束した上で“転進”という言葉を用いたが、それは奪還の確信があったからこそのものであった事は疑いない。対するユーリネンは奪還の当てなどなく、命令による撤退であるもの責任追及が行われる可能性が高い。
――俺の命で済む話じゃない。封転や領地召し上げなら、領民に危害が及ぶ。
帝国の国是上、獣人系種族が闊歩する状況を次の統治者が許容するとは限らない。先が見える者や領地を取り巻く情勢を理解できる者である保証はなかった。
「小官らは領地へ帰還して原隊復帰するだけかと。それ以外を求める事は筋違いです」
「だと良いが、我が国は帝国なのだ」
論理や道理よりも権力者の思惑や利益が優先される国家である事に変わりはない。
戦力が減少した帝国の現状を見るに、これ以上指揮官を喪う真似をするとは思えない。陸軍を盆暗貴族の玩具にするならばどの道先はないが、〈グローズヌイ軍集団〉の編制を見るに陸軍総司令部は未だ正気を保っている。
「ならば戦うしかないでしょう。幸い帝国は内側にも敵を抱えています」
「御前な……」
叛乱を唆す副官に、ユーリネンは天を仰ぐ。泥濘に足を取られそうになった。
叛乱はユーリネンにとって幾年も前より考えていた事である。帝国の地方に対する搾取を踏まえれば、帝国に属する事は損失の方が大きい。しかし、帝国からの離脱は圧倒的な帝国陸軍と相対する事を意味する。元より帝国という国家が統制を強大な軍隊によって成す事を前提としている以上、当然の帰結である。
だが、現在の帝国は大軍を喪いつつある。
最精鋭を喪ったに等しく、航空攻撃は帝国のより広範囲を射程に収めた。必要とされる兵力が増大したにも関わらず、陸軍の最精鋭や有力な師団の多くが溶けて消えたのだ。
――今ならば……
隙があるのではないのか? 何もかもが上手くいくのではないのか?
嘲笑に歪む口元を隠したユーリネン。
帝国が混乱する期間次第であろうと冷静な部分が告げているが、最大の脅威であったリディアという陸軍元帥は行方不明となり、アレクセイエフやアンドロポフを始めとした東部出身の軍人達と友誼を結ぶに至った。〈グローズヌイ軍集団〉の一部を糾合する事とて提案内容次第では可能かもしれない。
「労農赤軍と手を組んでも良い筈です。彼らは平等を謳っています」
魅力的な提案であった。
帝国の国是の下で生まれ育った者達が構成している事に変わりない以上、獣人系種族に対する姿勢も変わりないのではないかという懸念はあるが、彼らは現状で勝利する為、生き残る為により多くの兵力や資源を欲している。
何より労農赤軍は、脱走兵と民兵が主体となって構成されている。将校や将官は少ない。そうした部分での協力は無視し得ない筈であり、将来的に労農赤軍内部で主導権を握る切っ掛けとしては十分なものがあった。
「副官は何時から赤い狐になったのだ?」
「平等を謳う分、相対評価としてマシであると判断しただけです」
相対評価であれば致し方ないが、両者が共に沈む船ではないという保証はなかった。両雄並び立たずと言えど、その戦争が遠因となって勝者もまた廃滅する例は歴上で枚挙に遑がない。
――そもそも、労農赤軍は信用できるのか?
強権的統治に定評のある帝国を相手にし、致命傷を負わず抗戦を続ける点は評価できるが、あまりにも鮮やかに過ぎる手腕は情報優越がなければ不可能なものである。明らかに国家、或いはそれに準ずる組織の支援を受けている事は間違いない。
最たる候補は皇州同盟であり、その場合は使い捨てられる可能性が増大する。無論、本国に帰還して調査せねばわからない事であり、野戦指揮官に過ぎないユーリネンが得られる限定的な情報での決め付けは危険であった。情勢の固定観念化は滅亡を招く。
「皆も戦う覚悟はできていますよ。そうでなくては侵略戦争にまで付き合いません」
リーリャが周囲を一瞥する。
参謀達が漣の様に笑声を零す。
「仕方ありませんな」「義理がありますゆえ」「いやいや、我らならばいいところまでいけるのでは?」「神州国を引き込めばいいのです」「軍神にできて若様にできぬ筈がない」「徹底的な不正規戦で抵抗しましょう」
参謀将校の楽観意見は、本来であれば叱責せねばならないものの、戦況と立場を踏まえれば難しい。ユーリネン自身もどうした表情で応じればいいか判断に迷う。鋼線を抜いた縒れた軍帽を握りしめて絞るしかなかった。ひさし(バイザー)がぱきりと音を立てて割れる。
リーリャは尻尾を大きく振って、いざとなればと意気込む。
「白の帝姫が後ろ盾になって下さるのではないのでしょうか? どうもこちらに好意的のようですから」
〈グローズヌイ軍集団〉編制に当たっての数々の配慮に基づく所感を口にするリーリャだが、ユーリネンは腹違いの妹の犠牲を許容して残存部隊の保全に走ったエカテリーナに背を預ける事に忌避感があった。政戦の上で正しいのは間違いないが、それ故に利益が上回るならば容易に将兵を消耗させるだろう。ユーリネンはそう考えていた。
労農赤軍とエカテリーナ。
己を生かし得るやも知れぬ不確定要素を脳裏に描き、ユーリネンは或いはという可能性を感じていた。撤退が許されたのは共和国戦線や労農赤軍による叛乱をより重視した結果……或いはそれを理由として撤退が許可された経緯を彼は知らねばならないと確信する。
「壊乱したか……合流する心算か?」
ノナカは報告を受けて眉を顰める。
ドラッヘンフェルス高地で勝利を収めつつある皇国軍であるが、帝国軍が予想外の速度で壊乱した為、掻き集めた十二個師団で奪還を開始していた。残敵掃討は終息したが、再編制の途上にある部隊は少なくない。ミナス平原に於ける包囲殲滅戦は皇国軍にとっても多大な負担を齎すものであったのだ。
「相手の貴族軍に合流されると相当な戦力にならぁな」
帝国軍が柔軟に撤退する光景というのは珍しいものである。ノナカは驚きを禁じ得ないし、アーダルベルトの険しい顔は周辺の士官を怯えさせていた。
無論、航空優勢の前には蟷螂の斧に過ぎないが、残敵掃討に多大な時間を要する事は間違いない。敗残兵が匪賊化した場合、北部の失地回復は延長する事になる。トウカが当初考えた包囲殲滅戦に失敗した結果であるが、本来ならば敗北してもおかしくない戦争であった事を踏まえれば決して不手際とは言えない。帝国主義者の挺身を皇国軍将兵の誰しもが軽視していた。特に撤退支援の為、最後まで攻勢を選択し続けた〈アルダーノヴァ軍集団〉などは九割を超える戦死者を出している。
夜の帳が開けつつある中、シュパンダウ航空基地は慌ただしさを増している。
内戦中に空襲を受けた結果、大規模な都市改造が進行中であるシュパンダウであるが、同時に都市計画の為……石材切り出しの為に切り崩された丘を利用する形で航空基地が造成された。地面を慣らし、練石で固めた滑走路と、その端に木造の駐騎場が併設されただけの粗末なものであったが、離着陸に支障がない全長は確保されている。
二個鋭兵師団をエルライン回廊に航空輸送するべく、シュットガルト湖の複数航空基地には無数の大型輸送騎が到着している。運ばれてきた身一つの二個鋭兵師団はフェルゼンで皇州同盟軍から小銃や短機関銃、機関銃、手榴弾、弾火薬などの武器を受け取り、黎明時に空挺作戦へ投じられる。
運び込みに手間を取られる事を惜しんだ結果、兵員だけを輸送し、フェルゼンの兵器廠で製造された武器を受け取る事となった二個鋭兵師団。紛れもない精鋭であり、現在は一部の将兵が飛行場端で手にした武器の確認をしている。
響く軽快な銃声の連なりは短機関銃である。
ノナカはトウカが良く貸与を認めたものであると驚いたが、それ故に正念場であるとも察した。要塞奪還ともなれば遮蔽物の多い中での近接戦が各所で発生する事は疑いない。短機関銃はそうした状況で猛威を振るう筈であった。元極道であるが故に閉所戦闘での速射性の重要性は理解している。
「おい、ノナカ大佐」
「へぇ、これは神龍様。何か用ですかい?」慇懃無礼に左胸に右手を当てて一礼したノナカ。
アーアルベルトは口にしていた葉巻を離して紫煙を吐く。
無表情のままに視線が新たな武器を手にして燥ぐ鋭兵達を捉えた。
あまり作戦開始前に弾火薬を消費させるな、という意味ではない。弾火薬は十分に用意されており、二個鋭兵師団の空挺後は、往復輸送で追加の弾火薬や軽砲を輸送する手筈となっていた。何より、複数の戦闘爆撃航空団が近接航空支援として参加する。作戦の失敗は考え難い。
「あの男は誰か?」
「……ラムケ大佐ですな。降下猟兵旅団の指揮官……自覚はないようですが」
鋭兵と一緒になって……鋭兵以上に短機関銃を手に燥いでいる無精髭の中年男性を一瞥したノナカの言葉に、アーダルベルトは首を傾げる。
ラムケは編制中の降下猟兵旅団指揮官を務める将官である。戦役の激化により降下猟兵旅団は未だ大隊規模に留まっているが、今作戦への随伴を求めてトウカに認められた。エルライン要塞駐留軍からの合流組を合わせても二個大隊程度の数に過ぎない。少将の階級としては隷下兵力が少ないが、それはラムケの主任務が情報戦に於ける民衆の鼓舞であるからである。粗野な野戦指揮官の勇ましい言葉は、軍事を理解しない民衆の受けが良く、その性格に反して彼の任務は政務の割合が大きい。尤も、当人は政務などと考えておらず。自由気儘に問題発言を繰り返しているに過ぎなかった。それでも自らの立場を致命的なものとしないのは一目に人望と不可思議な魅力によるものである。
声が大きく、勇ましい言葉を口にする者は何時の時代も人気者である。
そうい言えば、とノナカは思い出す。
ラムケは内戦中にアリアベルの首を狙った将校であり、捕虜にされた過去を持つ。アーダルベルトとは全くの無関係ではない。
「呼びますかい?」
「いや、良い。……サクラギ元帥は、ああした人材も登用するのだな」
指揮統制を重視するトウカが指揮統制を率先して乱す様に見える将官を登用する事を不可思議に思う者は決してアーダルベルトだけではない。不良神父として北部では有名なラムケを統率者として不適格と考える者は多い。
二人の視線に気付いたラムケが、滑走路越しに両手を振り上げて存在を誇示する光景に弛緩した気配が周囲を満たす。周囲の鋭兵達は笑っている。
短機関銃を肩に下げて近付いてくるラムケ。その背後には降下猟兵と鋭兵……士官と思しき者達が分隊規模で追従している。
何時の間には空挺戦力の中で中心に近い位置を得ている彼に、ノナカはマリアベルを見た気がした。彼女の破天荒もまた周囲を惹き付けた。
誰しもが望む訳でもないのに惹き付けられ、気が付けばその者の為に苦労を背負い込んでいるのだ。
対するトウカにはそうした部分が全くない。
彼は実績や結果を以て大多数を従わせている。確証などの確かなモノを以て彼は信頼を得た。彼自身の言動にも、周囲を納得させるには数値化できる結果や明文化された実績が不可欠であるという観念が窺えた。
実力を示してこそヒトの上に立つに足り得る資格を示せる。
だからこそ苛烈なのかも知れない。故にマリアベルとは違った酷烈さが窺えると取れなくもない。癇癪に似た暴君として酷烈さと血の通わない効率主義的な酷烈さ。似て非なるものと言える。
「元帥閣下、どぅかなさぁいしたか?」
ラムケが素早い敬礼を以て、アーダルベルトの前で直立不動の姿勢を取る。背後の降下猟兵鋭兵達もそれに倣う。
「要塞攻略後の保持をどの様に行うか貴官と話しておくべきかと思ったのだ」
尤もらしい言葉をさも当然の様に口にするアーダルベルトに、ノナカは系統種族の頂点らしいと喉を鳴らす。
実際、空挺後の要塞保持は難題であった。
二個師団と若干の兵力ではエルライン要塞全体の保持は難しい。奪還目標はマリエンベルク城郭のみであるが、そのマリエンベルク城郭ですら本来は六個師団の駐留を前提にした構造をしている。加えて要塞放棄の際に野戦砲だけでなく要塞砲なども全て後送している為、火力を発揮する兵器が存在しない。帝国軍の野戦砲を鹵獲できるならば幸運であるが、幸運に期待して作戦計画を立案する訳にもいかない。結果として、野戦砲は二次輸送で運び込まれる事となっていた。よって、それまでの保持が最大の課題となる。近接航空支援があるとはいえ、優勢な戦力による奪還が夜間に行われた場合、支援火力は不足する可能性があった。
「弾火薬を投下してくださるだけでぇ十分ぅですぞぉ」
どの道、マリエンベルク城郭も放棄に合わせて爆破処分している。彼らは瓦礫の山を奪還し、そこを陣地として抵抗するしかない。徹底的な陣地防御しかなかった。
「一度、周辺を保持できたのならば追加の師団投入もサクラギ元帥は想定されている」
皇国が戦時体制に移行しつつある中、陸軍は予備役を招集した師団を次々と編制しつつある。予備役将兵を中核とした師団は、未だ練度の上で平時編制の平均的練度には及ばないが、それでも最低限の軍事行動……拠点防衛には耐え得ると判断されていた。
戦時体制への移行によって、皇国は巨大な兵器工廠として機能し始め、機械的に部隊が編制されて戦野に投じられ始めた。
巨大な国家という統治機構は、大いなる唸り声を上げて軍事力という拳を振り上げたのだ。
「なんのぉ! サクラギ元帥閣下であれば、盆暗貴族共など鎧袖一触ぅで御座いましょうぅ!」
多大なる自信を見せるラムケに、アーダルベルトがノナカに視線を投げかける。何を考えたか理解できるが、ノナカは黙殺するしかない。
極道とて狂信者の類を相手にしたいとは思えない。御上品な公爵ともなれば猶更である事は疑いなかった。
しかし、ノナカは貴族の私兵が何十万と群がっている以上、一度壊乱すれば統制を取り戻す事など不可能であると見ていた。進軍経路と部隊編制の無秩序と狂乱を見れば容易に察せる程の酷さがある。航空偵察に出ていた飛行兵は「あれ程に無様な行軍を見たのは初めてだ」と言い放った程であった。蠢く烏合の衆である。
――勝算も理解できぬまま戦場に訪れる盆暗貴族を屠殺するなど……
情報通りであり既定路線に過ぎないが、盆暗貴族を一掃して帝国政治の風通しを良くする結果になるのではないかと、ノナカは懸念していた。極道の世界でも新たな組長が組織体制を一新する為、前組長時代の幹部を死地へと追い遣る行為がある。無論、トウカが八〇万を超える将兵を殺害できるのであれば収支が合うと考えているならば問題はないが、残敵掃討の期間は半年近いのではないかとノナカは危ぶんでいた。烏合の衆であるが故に、無数の小集団となりかねない。軍狼兵部隊の大部分が長期間に渡って拘束される事は疑いなかった。
エルライン回廊を閉塞するのだ。
皇国に侵攻した帝国軍は例外なく退路を断たれる事になる。
貴族による烏合の衆も数千騎による航空攻撃を受ければ、エルライン回廊奪還の為の兵力や指揮統制を維持できるとは思えない。組織的な奪還作戦に移行できるとは思えない。
後背を塞がれたというだけでも恐慌状態に陥る事は疑ういない。
故にトウカも〈南域征伐軍〉に対する航空攻勢の準備を進めている。
〈南域征伐軍〉への航空攻撃とエルライン回廊への空挺作戦は同時進行される。
白み始めた空の下、シュットガルト湖の水面は往時と変わらぬ漣を見せているが、作戦が開始されれば滑走路に刻印された風魔術の合成風力を受けて大きく揺れる事になる。
無論、揺れるのは水面だけではない。
時代が大きく揺れるだろう。
帝国へ攻め入るのか、傷を癒すのか、共和国を支援するのか……その全てはトウカの思惑次第である。戦争という熱狂に国民が駆られつつ状況を最大限に生かしたいと考えるならば、戦火は何処かで燃え盛る事となる。ノナカとしては可能な限り犠牲を抑制して貰いたいと考えていた。
トウカの思惑を察する為、クレアとの連絡は欠かしていないが、トウカがクレアを遠ざけつつある事は朧げながらに察する事ができた。トウカの領域に踏み込み過ぎたのだ。トウカが優秀な人材を遠ざける理由などそうはなく、ヨエルとの関係が明白になった今ならば、寧ろ近くに置いて不審な真似をさせない筈である。よって消去法として、憲兵総監は狐の尻尾を踏んだという答えになる。
「しかし、帝国軍の残存部隊はどちらを目指すんですかい?」龍の大旦那、とノナカは問う。
再び滑走路を駆け抜け、水面浮かべた空缶に短機関銃で掃射するラムケを一瞥し、ノナカはアーダルベルトの言葉を待つ。
「……おそらくは西だと踏んでいる」
「妥当ですなぁ……そうなると〈西方方面軍〉の檜舞台に違いねぇ」
〈西方方面軍〉は《ローラン共和国》や《中原諸国領》との国境を守る方面軍である。その規模は大きく、皇国陸軍中で二番目に強大な規模の編制が為されていた。国境線の全長と面する国家の総兵力を踏まえれば当然の帰結であり、本土決戦となった今でも兵力の引き抜きは殆ど為されていない。現在では、共和国に侵攻した帝国軍が皇国領土に進出する挙動を見せた際、阻止行動を取る目的もあった。
〈西方方面軍〉は一八個師団と複数旅団を基幹戦力とした有力な戦力であるが、長い国境線を防護する都合上、展開位置は基本的に集中していない。無論、最大の脅威である共和国内へ侵攻した帝国軍に対抗するべく、再配置されている可能性が高い。一回の爆撃騎乗りのノナカは与り知らぬことである。
だが、本土決戦に軍人として参加できない口惜しさだけは理解できた。
軍人などという国家の為に人殺しを進んで行う職業を選択した奇特な将兵が、国防に積極的参加を望めない不幸は想像を絶するだろうと、ノナカは苦笑するしかない。
極道の斬ったの張ったのとは桁違いの死に様を知るノナカとしては、新兵の安い愛国心の耐用年数は早々に振り切るだろうと推測していた。そして、生き残った中で尚、戦場の悲劇に順応した……或いは折り合いを付けて軍に留まる者こそが使える兵士となる。
戦場で臓物を撒き散らして泣き叫ぶ戦友を見れば、愛国心が打ち砕かれるのも致し方ない。少なくない数がそうなのだ。愛国心にも限度がある。
「サクラギ元帥は、〈西方方面軍〉の全軍を以て応じるべきと提言したそうだが……最終的には八個師団で阻止線を構築する事になっている」
野戦砲や砲弾などの重量物を喪い、小銃などの個人装備すら手放した者すらいるであろう敗残兵への対処であれば、八個師団は十分な数と言える。
西部貴族の領地を荒らされる事を避けたいという政府の意向もあるからこその阻止線構築であると推測できるが、近接航空支援を過大評価しているように、ノナカには思えた。
練度不足が大部分とはいえ、逐次増強が続く皇国軍航空隊は戦闘騎や戦闘爆撃騎、地上襲撃騎、戦術爆撃騎などの中小騎の数だけでも七〇〇〇騎を超え始めたとの噂がある。皇国各地から龍種や翼龍を扱う業種が志願兵として参加しているのだ。促成訓練とはいえ、元より空を支配する種族であり、空中勤務者達である。武器の扱いさえ可能であれば運用は不可能ではない。無論、命中率は目を覆わんばかりのものであるが、航空参謀達の提案で梯団による複数小型爆弾での爆撃が開始されてからは改善しつつある。命中率を投射量……面制圧で補うという単純な解決策であった。それでも地上襲撃騎などの元より頑丈な騎体が充てられている騎種などは単騎での投射量が重巡洋艦一隻の斉射に匹敵した。
トウカが航空艦隊と名付けた意味を、皇国軍は理解しつつあった。
主力艦隊による砲撃に匹敵する投射量を遥か遠方に提供できる航空戦力。それは正に名前通りの航空艦隊であった。
アーダルベルトの一声が国内龍種を志願に駆り立てている。
忽ちに彼らの言うところの“空軍大国”になりつつある皇国は、帝国を相手に航空戦力という物量で戦線を押し上げつつある。戦史上、稀に見る珍事と言えた。
「実戦経験を積ませる……などとはかの御仁も考えぬでしょうな」
トウカが果断に富む指揮官である事は誰もが認める事実であるが、〈西方方面軍〉の全軍を充てるというのは度が過ぎる。明らかに何かしらの意図がある。
「分らぬか? 挑発しているのだ。共和国に侵攻した帝国軍を」愉快だと言わんばかりのアーダルベルト。
戦争が楽しくなってきたと言わんばかりの声音に、ノナカは世界が平和にならない理由を察する。短期間で劇的に権力を握る手段として防衛戦争は理想的なものがあった。革命とは違い正当性のある防衛戦争での活躍による影響力拡大は、既存勢力による妨害を受け難く、大衆の支持を取り付けやすい。負ければ全てを失うが、圧倒的なまでの航空優勢を確保している現状で最大限の戦果を求める戦略は、長期的視野の面から見ても理に叶ったものがある。
「しかし、私も反対した。流石に手を広げ過ぎている。国内の敵を完全に捕殺して以降、共和国に義勇軍として航空艦隊を派兵すればいいのだ」
確実な手段であり共和国にも恩を売れるという思惑が透けて見えるが、ノナカはそこにマリアベルの血筋の片鱗を垣間見た。そうなれば、副次的な要素も考え得る。
「共和国軍も弱体化させておこうって腹ですかい? そいつは素敵だ」
共和国軍と帝国軍の軍事衝突を引き延ばしたいという意向があるのだ。潜在的脅威の戦力低下を手を汚さずに成せるというのであれば躊躇する理由などない。それが政治なのだ。
「神州国が分不相応の野心を持つ今、火事場泥棒の可能性は減じたいのだ」
共和国系住民の保護を名目とした保護占領という手段は、共和国が一昔前までは多用していた併合手段である。小国を相手にしたものであったが、皇国の崩壊が始まれば可能性は十分にあった。当然、共和国としては東方から帝国軍の侵攻を阻止する為、防衛に優位な土地を確保する意味もある。決して領土欲だけのものではない。
「纏まりのない部族連邦は兎も角、神州国と争う中で共和国に背後を突かれる真似は避けたい」
「……そう、説得為さったんですかい? そりゃ剛毅な」
トウカが神州国の脅威を見越している事は明白であるが、航空魚雷が開発された今、短兵急に攻め入る真似をする可能性は低いというのが皇州同盟の公式見解である。
実際、航空魚雷開発の混乱を見るに、ノナカはトウカが神州国との交戦を確信していると考えていた。
シュットガルト湖島嶼部の一部航空基地に配備されている中型騎主体の一部航空部隊は航空魚雷の研究開発や試験、運用に従事している。攻撃訓練自体はマリアベルの頃から行われていたが、トウカによって齎された技術革新……框板と回転安定制御装置の存在がある。
木製板によって投雷時の浅深度を実現し、回転安定制御装置によって魚雷を荒海でも使用できる様に改良を続けていたのだ。
実際、内戦中は新型航空魚雷として荒海でも使用できると嘯いて皇国海軍や神州国海軍に対する牽制として宣伝戦に利用された。
ノナカはそれが未だ実戦に耐え得る段階ではない事を知る人間である。
トウカは三項(PID)制御による回転安定制御装置を提案したが、それが思いの他難航したのだ。提案された機械式に対し、企業側は開発費用と導入単価の面から魔導式を提案。それをトウカも認めたが、初期製造品の能力は要求を満たすものではなかった。
P(比例制御)、I(積分制御)、D(微分制御)という三要素の計算により最適数を割り出す三項制御は電子回路を使用しない機械式での構築が可能であった。過去実績や経験則により容易に調整を行える為、産業分野への転用も考慮されている。
実際、現状の航空魚雷は、酸素魚雷の改修型として高威力長射程を誇っているが、初期の航空魚雷として避けられない問題を未だ抱えていた
雑に、或いは高速で投雷されると、魚雷は空中で複数回回転する事があった。大波の荒海に突入する際、航空魚雷は激しい衝撃を受け、回転を受ける事があった。
その場合、航空魚雷は疾走の方角が曲がる、或いは浅瀬では海底に突き刺さる事もあった。過剰な水深にまで沈み込み水圧で圧潰する。水中から飛び上がったり、飛び跳ねたりする。挙句の果てには反対の方角に疾走すものまであった。
一部の熟練飛行兵が穏やかな海で行える雷撃では効果も限定的である。
マリアベルがそれでも採用したのは、シュットガルト湖という内海での運用を前提としていたからである。
しかし、回転運動を与えられた魚雷は大凡の場合、制御不能に陥る。
角度計測器や深度計が動作しても、激しい要因が加わった魚雷は、尾部の舵程度では疾走方向を制御し切れない。尾部の水平舵と垂直舵は、あくまでも疾走を補助する為の舵であり、投雷時の姿勢制御までを行う能力は持たなかった。
トウカは眉を顰めたが、三項制御のみでなく、機械式の気泡構造物による姿勢保持まで提案して量産化を推し進めた。トウカは三項制御の産業分野への技術移転を目論んていたが、半年程度で見切りを付けて航空魚雷の確実な戦力化に舵を切った。三項制御は今後の課題となったのだ。
回転を安定制御する角加速度制御機構を航空魚雷は備えつつある。航空魚雷にとって最大の技術革新は、辛うじての実現が成された。
ノナカは試験雷撃を大型騎で担った為、トウカの航空魚雷に対する思惑を良く理解していた。只でさえ低空飛行の難しい大型騎に複数魚雷を懸吊しての編隊飛行は、最終的に高練度を必要とするとして不採用とされたが、トウカの焦りをノナカは感じ取れた。
大型騎が編隊で低空飛行するなど高角砲の的になるが、高角砲の有効射程よりも遥か遠くから望む射点についての統制雷撃は、確かに重雷装艦による飽和雷撃の後継戦術足り得る。汎用性は高い。トウカは輪陣形と対空戦闘の効率化で阻止されると一目見て中止したが、ノナカとしては、神州国の軍港に渡洋雷撃を一度行う程度の奇襲は可能ではないかと考えていた。
「航空魚雷の開発を見りゃ分かるでしょうに」
共和国に対して妥協的姿勢を取れば、神州国に余裕がないと取られかねない。航空魚雷の能力を嗅ぎ回られる可能性もある。
トウカは激怒した筈である。
それを説得したアーダルベルトへの評価を、ノナカは上方修正する。
「こちらも妥協した。北部の戦後復興費用の増額だ」
苦々しい口調だが、資金を投じるという事は、それに応じて発言力が増すという意味でもある。介入の余地と成り得た。
水面下での唾競り合いは、其々が思い描いた戦後に向けて激しさを増している。
作戦開始時刻が近付き慌ただしさを増す航空基地の片隅。
長い戦乱の時代に在って、航空戦力拡充に邁進した二人として後世まで記憶に留められる事になる彼らの邂逅は後に大きな意味を持つ事になる。
北部戦線に於ける失地回復の一か月前の出来事であった。
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