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第七話    女神の魂

 

 

 



 クレシーダは、部屋に戻っていた。


 執務机に座り、一人で指示を出していた。机上には、結晶のような形をした魔導通信機が複数あり、それぞれの上には透明感のある小さな人影が立っていた。


『火の勢いは収まりつつあります』


『衛兵と一部の魔導士に生存者の捜索を始めさせてよろしいですか?』


『竜騎兵による被害範囲の報告が上がっています』


 複数の人影は次々と報告を読み上げている。


「非常時です。皆が最善と思う行動を取ってください。ですが、誰一人として見捨ててはなりません。助けるのですっ!」


 立ち上がったクレシーダに、全ての人影が肯定の礼をする。


「何とか、なりそうですね……」


 被害はそれほど大きなものではなかった。乾季であれば、もっと大きな被害が出ていただろうが、今は稲作の時期であるだけに火の手の勢いは早くなかった。


 無論、気になることもあった。


 火が起きにくい時期に、これほどの規模の火災が自然に起こるとは考えにくい。最悪、複数犯による放火の可能性もある。


「姫よ。邪魔をする」


 ドアの前に立ったトウカが声をかける。ドアの開く音すら聞こえなかったのはトウカだがらこそ成せる技なのだろう。


「……どうしました? 貴方の出番は……」


 不意に、クレシーダは自分の声を途切らせる。


 トウカの手にある抜き身の小さな剣を見たからだ。


 トウカが自分に剣を向ける時が来ると、クレシーダは出会った日から思っていた。最初に出会った時、クレシーダはその力強い剣技に目を奪われた。だが、それ以上に、その瞳に目を惹かれた。


 他者を寄せ付けようとしない、圧倒的な意思。そして、誰からも真に理解させる事はないであろう孤高の意志。


 初恋だったのか、憧れであったのか。あるいは憧憬であったのか。


 どのような感情なのかクレシーダには分らなかったが、胸が高鳴ったのは確かだった。


 だが…今、感情も分らぬまま、トウカと相対する道に立ってしまった。


 自分はトウカの主君足り得なかったのだ。


「姫よ……すまない」


 珍しくも、申し訳なさそうな顔をするトウカに、クレシーダは複雑な思いを抱く。


 自分に見せてくれる表情は、無表情か負の感情を張り付けた顔だけだった。叶うなら、一度だけでも笑顔を見てみたいと、どうでもよいことを考えていた。


「後にしていただけない…でしょう…か? せめてこの火事が収まってからに……」


「……その願いは、叶えてやれない」


 トウカは首を振る。


 一歩、二歩とトウカの足音は部屋に響く。


 死の足音が近づいてくる。だが、クレシーダは、不思議と恐怖を抱くことができなかった。それ以上に、トウカが悲しげな顔をしている事が許せなかった。


「なら、せめて笑顔で見送ってください。”神奪者”は民草の英雄…貴方の行いには正義あるのです」


「違う」


 トウカが静かな、それでいて刃の如く鋭い声で否定する。


 クレシーダは、己が胸の内にスオメタリアの魂が眠っているという事実を知らない。



「お前の中にスオメタリアの魂がある」



 短い一言。だが、聡明な姫が全てを解するには、それだけで十分だった。


 与り知らぬところもあるが、少なくとも、民草のためでも正義のためでもないことは理解できた。そして、トウカ自身の目的のためにあるということも。


「嬉しいです……」


「な…に…?」


 トウカは絞り出すような声で呻く。


 それを見てクレシーダはますますご機嫌になった。


 正義や忠義などの言葉は聞こえはいいかもしれないが、はっきりとした形をしている訳ではない。父であるゲオルギウス4世は、自分の依って立つところを民 草を率いる立場と定めているが、娘であるクレシーダは違う考えを持っていた。女であれば、認めた男のそばに立ちたい。一国の姫君であっても年頃の少女には 違いないのだ。


「我が国の民のために死ぬのはやぶさかではありません。……ですが、誰か一人の男のために死ねるなら、それは女として本望です。ましてや、それが貴方なら」


 胸に手を当て、目の前に立つトウカに笑顔を向ける。


 いずれ”神奪者”に殺された者として、神話に名を連ねるかもしれない。それも悪くない。いや、むしろトウカと共に神話になれるなら望むところだった。


「さぁ、来なさい、トウカ……」


「あ…あっ…」


 トウカは、ふらつきながらも更なる一歩を踏み出す。


 その時、乱暴に扉が開く。


「姫っ! 念のため陛下と共に脱出を! 隠し通路をお使いください!」


 駆け込んできた騎士が、大音声で告げる。


 騎士の髪は炎に焙られ焦げているし、貴族の証である外套も焼け落ちて半分程度の長さにまでなっていた。まさに満身創痍といった状態で、つい先ほどまで民草の避難誘導をしていたという事が窺えた。


「なりません! 民を見捨てて逃げるなど……」


 クレシーダは、騎士に不審な思いを抱いた。


 よく見れば、騎士の視線はトウカに向けられていて、クレシーダには顔すら向けられていなかった。トウカの気配が只者ではないとはいえ、今は同じ近衛騎士なのだ。


 騎士が駆けだす。距離は十歩もない。


 聡明なクレシーダは理解した。


 暗殺者ッ!


 大方、城に迎え入れた民草の中に紛れていたのだろう。その手際の良さを考えると、火災自体が暗殺のための陽動の可能性がある。自分一人を殺すために、王都の民草を巻き添えにしたのだと本能的に理解した。


 自分一人のために、多くの民草が犠牲になったと自惚れるつもりはなかったが、事実と向き合うにはクレシーダは若すぎた。


「死ねッ!」


 騎士が刀を構え走り出す。刺突の構えだ。


 だが、クレシーダには誤算があった。


 狙いは、トウカであったということだ。それだけでなく、向けられた刀は、カエデが使っていた神の祝福を受けたものに他ならないということも。
 トウカを殺せる武器だ。


 騎士が”神奪者”だと気付いた訳ではない。カエデの刀は武器庫に保管していたので、奪ってきたのだろう。避難誘導に武器は要らない。逆に民草を怯えさせ るだけだと、クレシーダが武器庫に集めさせて鍵をかけたのだ。そして、目の前の騎士が、手持ちの武器がないので武器庫に忍び込み、手に取った武器……それ がカエデの刀だったのだ。


 不運が重なった。


 クレシーダは、全てを理解したわけではないが、カエデの刀が、トウカを殺せるという一点だけは理解できた。


 そして、トウカは無言で立ち尽くしている。全てに諦観したような表情で、迫り来る刃を見つめているだけだ。


「――ッ!」


 気がつけば飛び出していた。


 打算も策もない。ただ、そうしなければならないという思いがクレシーダを突き動かした。


 胸に大きな衝撃が走る。


 クレシーダは記憶の彼方へと落ちていった。








「なぜ…だ……何故だ何故だ何故だっ!」


 トウカが叫ぶ。


 その慟哭は、部屋はおろか、城のあらゆる場所にまで響き渡る。そして、後を追うようにして王都全体に広がってゆく。


 その嘆きを聞いた者は空を見上げる。城下町を逃げ惑っている者も避難を誘導していた騎士やこの国の王でさえ……。王都にいる全ての者が、トウカが放つ慟哭を耳にした。


 クレシーダが斃れた。そして、スオメタリアも……。


 カエデの刀は神奪者の剣。女神の身体を持つトウカにとっては極めて相性が悪い武器に他ならない。そして、神奪者の剣は神の身体だけでなく魂までも破砕する。


 即ち、クレシーダの中にあった魂も例外ではない。


 抱き寄せたクレシーダの顔に、トウカはスオメタリアの笑顔を見た気がした。最後であろうその笑顔は悲しげな笑顔だった。


 こんな笑顔を見るために永劫の旅を続けてきたのか?


 否ッ! 断じて否ッ!


 トウカは右手を振り払う。トウカの慟哭を聞いて立ち竦んでいた騎士が、大質量の風の塊を受けて壁に叩きつけられる。一瞬で肉片と化した騎士は、壁に巨大な血の十字架を作る。


「俺が、盟約に背いたからか? 神よ神よ神よッ!」


 憤怒に顔を染め、トウカはクレシーダを強く抱きしめる。


《御主は……》


 黙って事の顛末を見ていたベルセリカが口を開く。


 だが、慰めの言葉が紡がれることはなかった。それが無駄であり、意味をなさないと理解しているからだ。何より、トウカの行いにスオメタリアの正義を見いだせなかった。


「なぜだ……」


 天井を仰ぎ、トウカは立ち上がる。


 周囲には、凄まじい量の風が吹き荒れている。トウカを中心とした小さな台風は、部屋に並んでいた多くの本を巻き込み、紙吹雪のように視界を奪っていた。


 だが、トウカは天井に一点だけを見つめていた。


《い、いかんっ! やめろ! 王都を吹き飛ばすつもりかっ!》


 ベルセリカは、トウカが何を成そうとしているか理解できた。


 トウカは人間の頃、風の魔術を得意としていた名残で、今でも風の魔術をよく使っていた。しかし、それは女神の力を使った魔術ではない。それだけでも十分だったし、過剰な力は無関係な者も巻き込んでしまう。


 だが、トウカは今、女神の力を使おうとしていた。全力で、力の続く限りの魔術だ。


 トウカが手を振り上げる。


 巨大な風を凝縮した塊を王都に振り落とすつもりだ。衝撃は勿論だが、吹き付ける風だけでも人間は地面に叩きつけられて肉片となるだろう。そして、その魔術の影響を受けるのは城も…トウカも例外ではない。


「…っ…ぁッ……」


 トウカが力の過負荷に耐えられず、呻き声を上げる。


《――っ! もはや自我すらないか! かくなる上はッ!》


 ベルセリカも剣の状態を解き、魔神の姿に戻ろうとする。


 だが、間に合わない。


 詠唱すらなしで魔術を行使しようとしているトウカに、ベルセリカの魔術は追いつけない。


「っぁ…ト…ウカ…やめな…さい…」


 声がトウカを押し留めた。



 クレシーダだった。



 ベルセリカは、死んだはずのクレシーダを見て絶句するが、トウカは黙って抱き締めた。


 理屈ではない。クレシーダが生きているというだけで効果は絶大だった。


 魔術が止まり、クレシーダを抱き締めたままのトウカは床へと倒れた。


 その日、王都の大火災は、神風によって鎮火した。









「……っ!」


 頬を草の匂いのした風が撫でてゆく。


 気が付けば、大樹に背を預けて座っていた。見上げると、木漏れ日の光がトウカの顔を照らした。その光に顔をしかめながら、まどろみの中を漂っていた。


 これが、夢幻であるとトウカはすぐに思い当たった。人間だった頃、こんな日常が生ある限り続いてゆくのだろうと確信のない考えを持っていた。


 周りは、一面の草原だった。遠くに木々が見えるが、後ろの背を預ける大樹以外は何もない。


 あまりも気持ちの良い気候だったので、寝てしまっていたようだ。


 不意に、差し込んでいた木漏れ日に影が差す。


「となり、いいかしら?」


 赤い髪の女性が、トウカを覗き込むようにして立っていた。柔らかな微笑を浮かべる女性は、長い衣装と赤い髪を草原の風に揺られるその姿に、思わず見とれてしまう。


 スオメタリア。トウカは長いのでスオミと呼んでいる女性だ。


 いや、古の女神の一柱。断罪と正義を司る女神。そしてトウカの愛した女神。


 彼女は死んだはずだ。これは夢であり、現実ではないと理解していたが、それなら永劫と醒めないでほしいと切に願う。


「あ、ああ、いいぞ」


 声を震わせて応じるトウカの内心を知ってか知らずか、スオメタリアは横に座る。


 差し込んだ木漏れ日がスオメタリアの身体を照らし、人間離れした美しさを際立たせていた。同時に、集まってきた小鳥たちと戯れている姿は、儚さや可憐さも垣間見せていた。


「ねぇ、トウカ?」


 首を傾げ、顔を覗き込んでくるスオメタリア。


「何だ? 夕飯までまだ時間はあるぞ」


「もぅ、違うわ。もっと大事なこと。私と貴方の遥か未来の話よ」


 女神は、遥か未来を語り始めた。


 自分の死に様。トウカの行く末。混沌としはじめる世界。


 そして、何百年後かに生まれてくるであろう、自分の遺志を継ぐ辺境の姫君。


「……そうか」


 思い出した。全てを。何故、忘れていたのだ。いや、忘れたいと願っていたのだ。


 だが、この後に及んでまで目を逸らそうとは思わない。


「新しい希望……」


 トウカは立ち上がり、光の彼方へと歩き出す。


 最後に一度、振り向くとスオメタリアが笑顔で手を振っていた。


 もう、この場所には、二度と戻ってこれないと、トウカは直感した。だが、歩みは止めない。自分も手を振り上げ、別れを告げる。


「貴方は、貴方の途を行きなさい。愛しい人よ」


 最後に聞こえた言葉にトウカは、涙で頬を濡らした。


 それは”神奪者”が何百年振りに流した涙であった。








「あ、起きましたか? 涙と鼻水で凄い顔ですよ」


 ベットの上で目を覚ましたトウカの顔を、クレシーダがゴシゴシとタオルで拭く。相当汚れていたのか、かなり強引だったので痛かった。だが、その顔は疲労の色が濃かったので、長い間看病していてくれたのだと容易に想像がついた。文句は言えない。


 クレシーダに支えられ、身を起こす。


 周囲を見回すと、本ばかりが床に積み上げられていた。クレシーダの部屋らしい。トウカが起こした風で撒き散らされた本を無造作に端に寄せたのだろう。


 ベルセリカとカエデの姿は見えない。


「お二人は、外で軍の手助けをしていてくれます」


 察したクレシーダが二人の行方を教えてくれる。


「お前は……佳い女だな」


 気が付けば、そんな言葉が出ていた。


 正義の意味と、それを成そうとする覚悟。他者から恨まれても、断じて物事を決める覚悟。まさに幾千の覚悟を背負った姫君。その覚悟の数と大きさは、スオ メタリアにも負けていないだろう。それでいて、心は年頃の少女の夢を追い求めている。王族として許されない事だとしても、諦める気はないだろう。


 中には我儘な姫だと言う者もいるだろう。トウカ自身も最初はそう思った。


「え? え、ええっ? イイ女で、ですかっ?」


 頬に手を当てて絶賛混乱中のクレシーダ。だが、トウカの顔を見て真剣な表情をする。


「そうですか。大切な過去――愛する者の死に向き合ったのですね。それでこそ我が騎士です」


「ああ、スオメタリアは死んだ。姫を生かすために」


 女神は死んだ。魂を破砕され、魔力の露と消えた。だが、最後に消えゆく魂の灯火を振り絞り、希望を残した。


「クレシーダ。我が希望よ。俺の為に生きてくれるか?」


「ふふっ、いいですよ。でも、それだと、私が女神の代わりみたいですね」


 片目を閉じ、膨らませた頬に人差し指を当てるクレシーダに、トウカは慌てる。


「そんな事は……」


「冗談ですよ、我が騎士。良い表情をするようになりましたね」


 普段の無機質な表情からは想像もできないほど、今のトウカの表情は目まぐるしく動いていた。少し頬が赤く染まっているのも、決して病み上がりという理由だけではない。


「私の夢の為に、戦ってください。私が倒れそうになったら支えてください。心が挫けたときは、黙って抱きしめてください」


「ああ、無論だ。姫の夢の為に戦ってやる。俺も昔はそのために戦っていた」


 その夢は、クレシーダの願いでもあり、トウカの願いでもある。そして、スオメタリアの悲願にして、見果てぬ夢でもあった。


「私の夢を……知っているのですか?」


 クレシーダが驚いたように目を見張る。


 トウカがラルフと共に、自分とカエデの会話を盗み聞きしていたことを知らないのだ。



『人魔平等』



 二人の口から同じ言葉が紡がれる。


 それは、多くの人や闇夜の眷属、果ては神までもが唱えた一つの理想。だが、あまりにも高い理想であったが故に成功した者はない。大陸の北には、人魔平等を謳った国が存在するが、実態は権力者たちの連合統治でしかない。


「叶うでしょうか?」


 叶えば、人も闇夜の眷属も、あらゆる生命が平等を約束されるだろう。だが、全ての種族の垣根を取り除くことは難しい。特に人間族に限っては、同じ種族内で血を血で洗う戦いを神話の時代から繰り広げている。


 不安を滲ませているクレシーダをよそに、トウカはベットから降りて、上着を羽織る。


「だ、大丈夫なのですか? 無理は」


「姫よ」


 心配の言葉を遮り、”神奪者”は姫君の前に片膝を付く。


 クレシーダも、その意味を察して背筋を伸ばす。


 それを見て、本当に佳い女だと改めて思ったが、口には出さなかった。


「我は、いつ如何なる時も姫君と共にあると誓約する。この身は御身の楯に、この忠誠は御身の往く手を切り開く一振りの刃とならん」


 騎士に任命される際、クレシーダへと述べた誓約。


 あの時は、その誓約の為に力を振るう気などなかった。


 だが、今は違う。


 例え嫌われたとしても、クレシーダの為に刃を振るい続ける。そしてクレシーダの全てを守る。そんな事を心の内で誓いつつ、誓約の言葉を紡いでゆく。


「我が騎士よ。その身は我が為に……」


 クレシーダも柔らかな笑みと共にトウカの誓約に答える。


「この身は、ただ姫君のために」


 それが誓約の最後の言葉だった。


 だが、トウカは口を開きかけたクレシーダを制して立ち上がる。


「お前の全てを守ってやる。お前のが望むなら何だってしてやる。お前の為だけに俺は存在してやる。お前は前を見て走り続ければいい」


「あ……はい……」


 クレシーダを優しく引き寄せ、抱きしめた。姫君も黙ってトウカの胸に顔を埋め、”神奪者”を受け入れる。


 どれだけの時間そうしていたか分からなかったが、扉を激しく叩く音に二人は素早く離れる。


「は、入りなさい」


 乱れた髪を整えながらクレシーダがノックに答える。


 その声を待って、甲冑を着たラルフが入室してきた。


 ラルフの姿は、脇に剣が吊るされていて、何時でも戦野に赴ける出で立ちだった。


 甲冑と剣を装備している事自体は、閲兵式などの式典などであれば不思議ではない。だが、ラルフの甲冑は汚れていた。火事や煙によるものではない。血や刃物の傷によってだった。


 戦場を駆け抜けた者の印だ。


「どうでしたか? 戦況は」


「戦力差は不利です。ですが、火事が急に消えた御蔭でハーケンハイムの防備が間に合いました。これで王都の護りは万全です」


 意気込むラルフにクレシーダは「そうですか……」とだけ答える。


 その表情は暗い。流石のトウカにも、相当に良くないことが起きたのだと理解できた。


「何があった? 王都に戦火が迫っているのか? そんな気配はなかったが」


「オマエが寝てる間に色々あったんだよ。大変だったんだぜ? 全くよぉ」


「そうです。三日間も……心配したんですよ」


 そんなに寝ていたのかと愕然とする。だが、同時に三日程度で王都に戦火が迫るとは思えなかった。農民の反乱は北部の国境付近で起きているので、遠く王都 に飛び火することはあり得ない。しかも、この国一番の名将である一番姫が北の戦線の指揮を執っているので、易々と突破されることもないだろう。


「貴族の反乱か……」


 あるとすればそれくらいだった。


「良く分かったじゃねぇか。アウレリア候の派発だ。この火事の原因は王族にあるから現王に退位を求めるだとよ。ったく、ふざけやがって! 火事だって奴らが起こしたに違いないだろうよ」


 トウカには、貴族の派発や火事の原因など分からなかったが、クレシーダが強く握りしめる手を見て、事実なのだろうとおぼろげに理解した。


「アウレリア候は数少ない王権主義者だったのです」


 床を見つめたまま、クレシーダは呟く。


 王権主義とは、全ての権利を王族に集約させ貴族間の衝突をなくそうと考えている者のことであった。少数の者に権力が集中することは危険でもあったが、現王であるゲオルギウス4世が賢王足り得る器を持っているのでその心配はない。


「アウレリア候? 任命式で突っかかってきたセドリックとかいう騎士の一族か?」


「いえ、あの者はローレンツ候の息子です」


 ルクセンベルク王国の貴族は主に三つに分かれている。


 ローレンツ候、アウレリア候、ハイゼンベルグ候のそれぞれに無数の貴族が付き従い、水面下で三つ巴の権力闘争を繰り広げているのだ。近年では権力闘争が 激化し、表面化してきているので、ゲオルギウス4世も対応に苦労している。何より、権力闘争の皺寄せを受けるのは、名もなき民草や兵士たちなのだ。


「何とかしなければ……」


 アウレリア候は数少ない王家の理解者だった。それが反乱を起こしたとなれば、他の貴族たちもどのような反応をするか分からない。


「俺が往こう」


 即決だった。


 クレシーダの為に己が力の全てを使うと決めたのだ。すぐに出番がやってくるとは思わなかったが、大きな戦果を残せばクレシーダの近衛騎士として多くの者が認めざる終えなくなるだろう。


「分かりました、我が騎士よ。編成の終わった騎士団を預けます。ラルフと共に現状を打開してください。ここで負ければルクセンベルク王家が終わってしまいます」


「承知した」


 肩に掛けた外套を翻し、トウカは部屋の扉に手をかける。


 どうかご無事で……と、微かに聞こえた気がしたが、ラルフもいるので聞こえないふりをしようと思った。だが、肩越しのクレシーダの儚げな笑みに思わずトウカは頷いてしまった。


「あのワガママ姫と随分、仲がいいじゃないか。何かあったのか?」


 クレシーダの部屋を出ると、すぐ後を追ってきたラルフに声をかけられる。


 長年一緒にいるだけあって、クレシーダの心の機微を察したラルフが、トウカの肩に馴れ馴れしく手を回す。その顔には砕けた笑みが浮かんでいる。


「なぁ、どうなんだよぉ。イチャイチャするのはいいけど、王様に見つからないようにしてくれよ? バレたら俺まで首が飛ぶ」


「忠誠を誓っただけだ。イチャイチャなどしていない」


 憮然として答えるトウカに、ラルフはおかしそうに笑う。


 部屋で見たクレシーダのトウカを見る目は、明らかに騎士を見る主君の目ではなかった。ラルフはそれに気付いていたが、人の恋路を邪魔して蹴り回される(主にクレシーダ本人)のは勘弁願いたいので何も口にしなかった。


「まぁ、いいさ。トウカならワガママ姫を預けられる」


 確証はないがラルフには、トウカがクレシーダの為に最善の途を突き進んでくれると信じていた。小さい頃からクレシーダに振り回されていたラルフにとっては有難い話に違いない。


 だが……


「アイツを悲しませたら俺はオマエを許さないぜ?」


 鋭い殺気がトウカを襲う。


 ラルフは笑顔もままだが、目元は笑っていない。


 それ程にクレシーダの事を心配しているのかと思いつつ、トウカは黙って頷く。


「無論だ。辺境の全ての国を滅ぼしてでも幸せにしてやる」


「あ、いや…そこまでは…うん? いいのか?」


 トウカの底冷えするような声に、今度はラルフが後ずさる。


 正面にいる”神奪者”なら一人の姫君の為に無数の国家を滅ぼしかねないと気付いたのだろう。実際、クレシーダが望むなら辺境どころか中原諸国まで制圧してみせる気であった。


「まぁ、それはそれとして……。数だけは完全編成の騎士団が一つ指揮下に入る。他に何か必要なものはあるか?」


 騎士団は、トウカが倒れている間にクレシーダが再編成したもので、何とか数だけは常備戦力ほどまで集められている。だが、個人の戦闘能力に関しては他の騎士団より低いだろう。


 それを踏まえてトウカは策を考える。


「そうだな……。外に並んでいるバリスタを準備してくれ。騎士団は全員軽装備で。だが、大量の矢を準備してくれ」


「お、おう、分かった」


 ラルフは首を傾げながらも先へと走ってゆく。


 バリスタとは、固い城壁を相手にする攻城戦や、拠点の防衛戦にしか使えない。重量があり軍の進撃速度が落ちるので、平原での運動戦では使えず、騎兵に弱 い。今回の戦いは、拠点の防衛であるので、騎兵の攻撃を受ける心配もない。だが、巨大な鋼鉄の矢を撃ちだすバリスタが、広範囲に散らばっている歩兵に大き な被害を与えられるとは思えない。


 しかも、弓兵がいないってのに矢を使うときている。奇抜な命令に違いなかったが、副団長(ラルフ)騎士団長(トウカ)に従わないわけにはいかない。


「……ああ、それと! しばらくしたら司令部に顔を出してくれ。騎士団長が司令官に独断で動く訳にいかねぇだろ?」


 少し離れたところで振り返ったラルフは、手を振って大声を上げる。


 対するトウカは頷いた後、こっそりとため息をついた。


「勝てるかどうか怪しいな……」


 王城の最上部、スカイパレスへと辿り着いたトウカは、ハーケンハイムの外周で戦列を組んだ軍団を見下ろす。戦力的には王都にいた近衛軍を遙かに上回っている。


 トウカの手元にある騎士団は、近衛軍や城下町の警備兵を寄せ集めて作った急造の部隊に過ぎない。合同で訓練をしていない状態では、連携も難しい。一度、 敵軍とぶつかれば指揮統制を維持する事もできないだろう。各々の優先に期待するしかないし、打ち負ければ騎兵に追い回されるのは目に見えている。


 決定的な戦況になるまで投入はできないか……。


「トウカ、起きてたの!」


 その声と共に、空からカエデが舞い降りてくる。驚いた警備の兵たちが弓矢を構えるが、カエデの姿を認めると構えを解いて敬礼をする。カエデもそれに応じるとトウカの横に降り立つ。


 カエデは、相変わらず凝った造りをした巫女服を着ているのでかなり目立つ。だが、何より目を引いたのは腰に吊るされたベルセリカの剣だった。


「心配掛けたな」


 天魔と魔神に謝罪する。随分と迷惑をかけたのは想像に難くない。


《なら、腹を切って死ぬがよい》


「ハ、ハラキリは酷いんじゃないかな?」


 ベルセリカに関しては御立腹のようだが、カエデはさして怒ってはいない。


「もう、大丈夫なの?」


「ああ。国の危機に、騎士が姫に看病されて寝てるわけにはいかないだろう」


 肩をすくめてトウカは苦笑いと共に答えた。


 自然と出た動作とはいえ、トウカも自分自身の変化に内心、驚いていた。


 だがそれ以上に、カエデとベルセリカは驚いていた。カエデは、口をパクパクさせているので驚いていると分かるが、姿が剣であるベルセリカは黙っていると何を考えているか分からないので少し怖かった。いきなり抜き身で飛んできてグサッと刺さっても不思議ではない。


「と、と、トウカが笑ったっ!! は、初めて見たよっ! メイドさんは見た! だよっ!」


 言いたい放題だな……。


 対するベルセリカも初めて口を開く。


《……やはり、死んでしまうがいい》


「知っている。自分が死んでしまった方がいいほど馬鹿だってことはな」


 カエデが差し出したベルセリカの剣を受取り、腰に吊るす。


《どうやら、姫は御主を呪縛から解き放ったようじゃな。ふん……気に入らぬ》


「え、え、えっ? どういう意味?」


 共に永劫を生きる魔神は、トウカの身に何があったか理解したようだ。本人は自分でなくクレシーダが、トウカを絶望の淵より助けた事に不愉快な思いを抱いていたが、永劫を共にしてなお叶わなかったことを容易く成し遂げたという一点に関しては頭の下がる思いだった。


《気に入らん、全くもって気に入らぬ》


「そうか……。で、二人は何をしていた」


 話を逸らす意味も含めて疑問を口に出す。


 カエデは、空から戻ってきたので何かをしていたのだろう。クレシーダは、軍に協力してもらっていると言っていたので大体の予想はついたが。


「偵察だよ。ハーケンハイムの外周に展開してる敵の、ね」


「そうか、大変だったな」


 人ならざる二人と魔神の一柱は、歩きながらも会話を楽しむ。


 スカイパレスを出て、司令部となっている部屋へと向かっている。その間にも、トウカとカエデは思い出話を楽しむ。時折、ベルセリカが毒舌(まだ、怒っているらしい)を挟んで、場を大いに混乱させたが、それすらも心地よかった。



 ”神奪者”は、数百年ぶりに笑い声を上げた。





 

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