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第五話    緩やかな一時

 

 

 




「それで、この少女は一体、誰なのですか?」


 クレシーダがややゲンナリした調子でトウカに尋ねる。


 有翼の少女――カエデは大きな医療用のベッドの上で静かな寝息を立てていた。ベットの両端からは黒い羽が少しだけ飛び出している。普通であれば小さな騒ぎになっただろうが、クレシーダが気を利かせて人払いをしたので、その心配はなかった。


《名は、カエデ。見ての通り天魔族じゃ》


 黙ってカエデの手を握っているトウカに代わりベルセリカが答える。


《昔、トウカがとある国の反乱に手を貸していた時に助けたのだ。あの頃は幼くて、親を失ってすぐだったらしくてな。しばらく共に旅をしておったのだ》


 天魔族というのは人間でいうところの二十歳程度の姿になるまでは同じように育つが、それ以降は人間などより何十倍も長命だった。カエデも外見とは裏腹に何十年と時を重ねていた。


 だが、それは不幸も悲劇も人間と比べて何十倍も経験するということになる。いや、魔族であれば報われぬ事のほうが多いだろう。


「私の騎士の既知の者であれば無碍にする訳にもいきません。しかし、何故戦ったのですか? その、あれなのですか……」


「???」


 言いにくそうにしているクレシーダを見て、トウカは首を傾げる。


《別に三角関係でも痴情の縺れでもないぞ。愛しすぎて殺し合った訳でもない。まぁ、姫が思うようなロマンス溢れる展開でもないがな》


 愉快そうに笑うベルセリカを尻目に、クレシーダは顔を真っ赤にして黙り込む。


 クレシーダは、二人がどこかの神話のような愛したり憎しみ合ったりする複雑かつ特別な仲であると思ったのだが違うようだった。


《まぁ、カエデの嬢ちゃんはどう思っておるが分らんがな》


「むぅ、それは確かに……」


 再びゲンナリするクレシーダ。長生きして女神の身体を手に入れたトウカでも乙女の内心を読み取ることはできなかった。ベルセリカなどは最初に出会った時 は美しい女性の姿をしていたが、実際は強大な魔神の一柱であったし、スオメタリアなどは正義と断罪を司る女神だった。普通の女性などトウカの周りにはいな かったし、例えいたとしても死という別れは直ぐにやってくる。


「で、では、トウカにとってカエデ殿は大切な者なのですか?」


「ああ、大切だ」


 間髪入れずに即答する。当然のように答えるトウカにクレシーダは思いつめたような顔をする。ベルセリカに限っては声をあげて楽しそうに笑っている。


 そこで、カエデがベットの上で呻き声を上げる。


 眩しそうに眼を開けたまま、天井を見上げている。意識が判然としないのか、黙ってトウカの手を握り返すだけだった。


「カエデ…起きれるか?」


「ん……」


 黙って頷くとカエデは緩慢な動きで身を起こす。トウカもそれを横から支える。その自然な動作に二人の親密さを見た気がしてクレシーダは益々不機嫌になる。


 それに気付いたのはベルセリカだけだが、何も口にはしなかった。


「……トウカ?」


 ゆっくりと振り向き、トウカの顔を見つめると安心したような笑顔を浮かべて寄りかかる。トウカもそれを黙って抱きとめると頭を撫でてやる。


《で、聞きたいことがあるのだが、慣れ合うのはあとにしてくれぬかの》


 ベルセリカの一言で、カエデは何かに気付いたかのようにバッと素早く距離を開ける。


「な、な、なに? ベルセリカ?」


 カエデは、トウカから視線を外して壁に立てかけられた剣に意識を向ける。


 二人は、特に仲がよかったので昔は名前だけで呼び合っていた。一時期は、トウカではなくカエデがベルセリカの剣を振るっていたこともあるほどだった。元 が誇り高き魔神の一柱であっただけにベルセリカは持ち主を選ぶ。当時、子供だったカエデをそれほど気にかけていたのだろう。それが、将来の才能を期待して か、母性本能か、もしくは友人として認めていたのかトウカにも分らなかったが、大切な仲間であった事には変わりなかった。


《とうしてトウカの命を狙った? 御主と言えどもトウカの命を狙うなら容赦せんぞ》


 平坦な声だが、伝承に伝わる魔神だけあって声だけでも凄まじい貫禄を持っていた。


 ベルセリカは剣の形になっているのは本人の意思によるもので、決して封印されたわけではない。よって、その意思さえあれば元の魔神の姿に戻ることができる。そうなればカエデだけでなく王都が吹き飛んでもおかしくない。


「ごめん……」


《よかろう。で、何故トウカを狙ったのだ? 恨む気持ちは分らんでもないが》


 名前を忘れていたことを根に持っているのではないのか、と首を傾げるトウカを尻目に話は続いてゆく。


「トウカは私を見捨てたもん……」


 顔を強張らせ、トウカを睨む。


「それは気になります。伝説の”神奪者”が人を見捨てるとは聞き捨てなりません」


 クレシーダが興味津津といった風に身を乗り出してくる。


 トウカにも理由があったがそれを言い訳にするつもりはない。一つ言い訳をしてしまえば、今までしてきた事すべてに言い訳をしまう気がしたからだ。他人がどう思っているかは別として、少なくともトウカはそう思っていた。


「言い訳はしない。俺が全て悪い。すまない」


 謝罪を口にしながらも、カエデが生きていて良かったとトウカは考えていた。


 トウカは無数の命の灯火を守ってきた。だが、守れない命はそれ以上にあった。そして命の灯火を守ろうと多くの者を斬ってきた。


 人を助けるために、人を殺めねばならない事に思い悩んだ時期もあった。今でも答えを出せたわけではないが、スオメタリアの約束を守るために刃を振り下ろすことを躊躇いはしなかった。


「伝説の”神奪者”は随分と卑怯なのですね」


 クレシーダが、トウカに軽蔑の眼差しを向ける。


 それはトウカにも予想外の言葉だったし、今までそのような言葉を掛けられたこともなかった。


 ベルセリカもカエデも唖然としている中、クレシーダは言葉を続ける。


「それ以外になんと言えばいいのです。自分の主観だけで物事のあり方を決め、他者の意見を聞こうともしないし、理解を求めようともしません。それではずっと孤独のままではないですか。……愛する女神も、そんな貴方に愛想を尽かしたのではないのですか?」


《お、おい、姫よ。それは》


「黙っていてください、魔神ベルセリカ」


 一言でベルセリカを沈黙させるとクレシーダはトウカの前に立つ。


 ベルセリカを黙らせたことも驚かされたが、それ以上に魔神であるということに気付いた事に驚愕する。ラルフが漏らすとは思えない。一人で答えにたどり着いたのだろう。


「答えられませんか? ならば私が答えてあげます」


 目の前に立ったクレシーダがトウカを見上げる。身長はトウカの方が高かったが、威圧感はクレシーダが圧倒していた。


 小さな人差し指でトウカの胸を指す。


「貴方は、自分に言い訳しているのです! ましてや最愛の女神を言い訳の理由にするなど不愉快です」


「――ッ!」


 トウカは珍しく感情を表に出した。


 その感情は憤怒であり悲哀であり嘆きでもあった。無数の感情が複雑に絡み合い、クレシーダだけでなく長年連れ添っていたベルセリカでさえも見たこともない表情になっていた。


 だが、次の瞬間には立ち上がりクレシーダの横を通り過ぎ、部屋を出ていく。いつもなら足音一つしないが、今は部屋に大きな残響を残して消えていった。


 部屋には種族すら違う三人の女性が残された。






 大きなため息とともにクレシーダは、カエデが身を預けているベットに大の字に倒れる。


 ベルセリカも呆気にとられていたし、カエデは頭がついてこないのかポカンと口を開けて黙りこんでいた。トウカを正面から堂々と罵倒する人間などそうはいない。そして”神奪者”と知ってなお罵倒を続ける人間は、永劫を旅していても皆無と言ってもよかった。


「いや、お姫さん、だっけ? 私の言いたいこと全部言ってくれちゃったねぇ」


《ふん、あやつに説教できるのはスオメタリアだけかと思っておったぞ。まぁ、悪い気分ではない。無礼を働いた事は許してやろう》


「それは助かります。伝説の魔神に暴れられると王都も危ういでしょうし」


 安心したようにクレシーダが呟き、両手を上げて降参のポーズを取る。


 魔神ベルセリカと言えば、一時期は中原一体のほとんどを制覇し魔族達の国家を建国した張本人でもあった。都市どころか幾つもの国家を蹂躙し滅亡させたはずだった。それを考えると自分はなんて危険な事をしたのかと、クレシーダは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。


「でも、ベルセリカって本来の形に戻れないんでしょ?」


《し、失敬な。一度くらいなら戻れるぞ? そのあとはどうなるか知らんが。たぶん自我を失うじゃろうな》


 それはそれで怖い とクレシーダはため息をつく。だが、ベルセリカの口調はそんな気は毛頭ないと言っているように感じたのでひとまずは問題ないのだろう。


《トウカが危機に晒されれば出ざる終えまい。もしあやつが死ねば我は全力で報復するがな。我もあやつを愛しているのでな》


「わ、私も愛してるよっ!」


 カエデも負けずに答える。


 先ほど殺し合ったばかりの相手に愛してると言われても、トウカも返答に困るだろうとクレシーダは苦笑する。


《姫はどうなのだ?》


「そうだね、気になるね」


 二人は興味深そうにクレシーダを見る。


「そ、それより、カエデ殿は何故トウカに見捨てられたのですか?」


 慌てて話を逸らす。別に何か特別な感情があるわけではないと思っていたが、気付けば別の話題を振っていた。だが、姫はその意味を認めるわけにはいかないと心を落ち着ける。


「そうだよっ! それを聞きたかったんだよ! ていうか見捨てられたのっ?」


 カエデが話に乗ってくる。


 トウカがいない以上、本人に聞くと事はできないので、知っていそうなベルセリカを見る。


《あの時はな……、フロイアの独立戦争で負けた反乱軍を他国へ逃がすための撤退戦のさなかであった。トウカは動ける者たちを率いて後衛戦闘を指揮しておった》


 フロイアとは極東の島国・神国の最も近くに存在する国家で、広大な領土を持つものの永久凍土や極寒の地が多く、年中の多くが雪風に閉ざされている国だ。 それ故に、民は餓え多くの者が貧困に喘いでおり各地で内戦が続いていた。トウカが戦っていても不思議ではないほど戦乱に明け暮れる国家であった。


 しかし、後衛戦闘とは……。


 武装集団の行動は大きく分けて三つある。攻撃と防御。そして移動。そして後衛が一番活躍するのが移動時だった。だがそれは勝利に向けての進撃ではない。


 敗北した軍を逃がすために敵を足止めするためだった。


 後衛の戦闘は主力が負けた後の戦いに他ならない。戦意を打ち砕かれ、武装をも失った兵たちを率いて戦わなければならないのだ。対して敵は大抵、一気呵成に追撃してくる。戦意も高く、戦力も勝っていることは確実だ。勝てる要素がない戦い。それが後衛戦闘だった。


 最終目的が主力を逃がす事なので。勝つ必要がないとは言え、少数のため敵中に孤立し全滅する可能性が高い。無論、見逃せば後背を突かれる可能性もあれば、策略ではないかと警戒し敵も殲滅するか兵力を割かねばならない。そしてそれこそが狙いだった。


 一人を見捨て十人を助ける。


 当然その程度の数ではないし、もっと多くの者が死ぬだろう。だが、成功すればさらに多くの者が助かるかもしれない。それが、後衛戦闘だった。


《トウカは後衛戦闘に進んで志願する。より多くの者を助けよ というスオメタリアの最後の言葉に沿う戦だからの。まぁ、悲惨であったな。フロイア軍は反乱に加担した者を片っぱから虐殺していった》


「そんな、酷い……見せしめというわけですね」


 国を治める者が、反乱を起こそうとする無数の民を治めたいのであれば、見せしめは有効な手段だった。だが、怨嗟の声に包まれる事は覚悟せねばならない。それを行ったということは反乱の規模が大きくなり全土に戦火が飛び火して、手が付けられなったのだろう。


《誰が悪いというわけではなかった。フロイア自体が貧困に喘いでいて、王族も苦労していた。反乱が成功したとしても民の腹が満たされることはなかったであろう。だが、あの日フロイア軍が襲っていたのは反乱軍ではない。戦う意思のない民草だ》


「――っ!」「え? え……?」


 カエデはその言葉の意味を理解できない。クレシーダは王族だけあってその意味だけでなく背景までも汲み取った。


 即ち、軍が見せしめとして、非戦闘員――反乱に参加していない民までも虐殺したのだろう。


「反乱を起こす者たちの意思が最後の一片となって砕け散るまで民草を鏖殺すれば良いというわけですか。恐怖による統治……長くは続きません」


《そうでもしなければ、すぐにでも国が滅んでおったであろう。そして、王は民衆に玉座を明け渡す勇気がなかったのじゃ》


 御主がそうならん事を祈っておる と付け加えるとベルセリカは黙り込む。


「それで、逃げる民たちの中にカエデがいた、ということか?」


「えっ? そうなの?」


 カエデにそんな記憶はなかった。馬車の中に押し込まれて、「待っていろ、必ず戻る」と言ってトウカは飛び出して行ってしまったのだ。確かに周囲には難民と思しき無数のいたような気がしたが、あまりにも数が多すぎてカエデは身動きが取れなかった。


 辻褄は合っている。当時、幼かったカエデは詳しく覚えていないが、言われてみるとそんな気がしてきた。


《トウカの指揮は凄まじいものであった。遊撃戦を展開しながら無数の村の民を味方に付け、一月以上も軍を押しとどめ続けた。だが、結局は数に押し切られて負けた。トウカ自身は、人なぞに殺されはしないが、他の者が違う。最後には一人となった》


「撤退したのですよね? いくら”神奪者”でも、軍を相手に単身挑んで勝てるとは思えません」


 ただ一人よりなる常勝の軍勢。それは、誇張ではないだろうが、国家が有する大軍を前にして勝つことは難しいだろう。


《無論じゃ。その後だが、トウカもカエデを追いかけた》


「でも……」


 なら何故、会えなかったのか とカエデは口を尖らせる。


《確かにあやつはカエデを見捨てた。万民を守るためにな。しかし、御主を探すことは続けておった。何年か経てば、ついにフロイアの反乱が成功して共和制が敷かれた。その時、助けた多くの者たちに力を貸してもらいながらな。だが……》


 ベルセリカが沈黙する。気配でカエデの方を見ていることがそれとなく感じられた。


《それだけ成長していれば分かるまい。しかも、その羽ではな》


 トウカと別れるまでは、カエデの羽は他の天魔族と同じく純白の色をしていた。


 だが、それが今では、漆黒の色へと変貌していた。


 身体の成長以上に、羽の色が違えば天魔族とは違う種族と思われても仕方ないし、カエデ自身も見られることを恐れて深い森の中に隠れていることが多かった。移動も夜陰に紛れて行っていたので、人目に付くのは傭兵や暗殺の仕事をしている時だけだ。


「見つからぬだろうな」


「……そうかも」


 最初のうちはカエデも、トウカを探すためにフロイアの各地を飛び回った。だが、人々から恐れられている魔族、その中でも戦闘能力の高いとされる天魔族。 しかも、普通の天魔族と違い羽が黒い。協力してくれる者などおらず、ましてやローデリアや聖騎士に見つかれば間違いなく殺されただろう。少数派、いや同じ 姿をした者がいないということは異端に他ならないのだ。迫害され蹂躙されるのは目に見えている。


 人は他者を差別し、己の立ち位置の安寧を確認しようとする。いつの時代も変わらない悲しい真実に他ならない。


「トウカじゃなくて…私が悪かったの…かな……」


 幾分か元気をなくした様子でカエデが呟く。


 すべてが自分の責任ではないとはいえ、少なからずショックを受けているのだろう。トウカを一方的に責めたことを後悔しているのかもしれない。


「あなたは悪くありません。こんな時くらい殿方に責任を求めたって赦されます、ね」


《うむ、そのとおりじゃ。我儘を言って、あの朴念仁を困らせてやるがよい》


 姫と魔神は男に厳しかった。








「てな、感じで今日はデートだよ!」


 突然だった。


 ぼんやり目を開けると、そこにはカエデがいた。しかも腹の上に馬乗りになられているので窮屈なことこの上ない。漆黒の翼をバタバタと羽ばたかせ、いかにも気合いが入っていますと言わんばかりだった。


「こんな朝早くから何処に行くつもりだ? 店も閉まっている」


 顔だけを動かし窓の外を見ると、地平線の彼方がやっと明るみ始めたといったところだった。


 ちなみに女神の身体とは言え、睡眠は必要だ。


 女神の身体自体は問題ないが、魂は人間のものであるためだ。睡眠や食事などの生活習慣は魂を休息させ、精神を人間の側へ繋ぎ止める。あまりに人間と離れ た行いばかりしていると精神的な負担がかかり、魂(中身)が女神の身体(入れ物)に合わせようと変質する。そうなれば自我を失い、トウカという存在は消え てなくなる。後には、女神の身体だけが残るだろう。


 そうでなくともトウカの魂は、人間とは桁違いの時を生きているせいか劣化しつつある。無口、無表情はそのためだとベルセリカは語っていた。いずれば何も話さない考えない思わない動かないということになるらしい。


 元々、人間の魂とは永劫の時を生きるには脆過ぎるものだ。普通は何十年で肉体と共に滅びるものなので、当たり前と言えば当たり前だった。


 だが、強い意志…確固たる目的さえあれば話は変わる。


 魂とは精神。精神とは心に他ならないからだ。


「というわけで寝る」


「もぅ、どういうわけなのかな! デートだよデート。離れていた分の遅れを取り戻すの!」


「遅れ?」


 一体、何の遅れなのか分からなかったが、聞けば面倒なことになる気がしたので黙っておいた。


 トウカの考えていることなど露知らず、カエデはトウカの上から退くとクローゼットへ向かう。スライド式の扉を開け、緑の騎士服をベットに投げる。


 騎士は常時、甲冑を着ているわけではない。重すぎるし、街の警備などであれば逆に機動力を削がれる場合もある。よって騎士が甲冑を着ることは、意外な事にほとんどない。ということで戦闘時以外に着る制服が、今カエデが投げた服だ。


 起き上がるとベットの上にある制服を羽織り、髪を整える。


「まぁ、いいだろう」


「じゃぁ、釣りに行こうよ。王都の近くは大物が釣れるんだよ」


「そうか」


 無表情のまま、トウカは剣を腰のベルトに吊るし、スタンドに掛かっていた野戦帽を被ろうとするがやめる。トウカの容姿は良くも悪くも目立つので、クレ シーダと出かける際はなるべく顔を隠すようにしていた。だが、漆黒の翼を持つカエデと一緒にいるなら目立つので意味はない。


「必要ないか……行くぞ」


「うん。今日のお昼は川のヌシだね」


 ――それはデートではなかろう。 


 トウカの腰に吊るされた剣の中でベルセリカは声に出さずにツッコム。


 戦ばかりの生を送ってきた”神奪者”と漆黒の翼を持つ天魔に普通のデートなどを望むこと自体が間違いなのだろうかの、と呑気にベルセリカは考えていた。実際、考えているベルセリカ自体も魔神なので”普通のデート”を知っているのかは甚だ疑問であったが。








 周囲には緑豊かな自然が広がっていた。


 湖の岸に腰を下したトウカは風に耳を傾ける。


 青く澄んだ底の見える湖には魚が群れをなして泳いでいるし、背後に広がっている深緑に覆われた森には様々な植物が群生し、動物もかなりの種類と数がいるようだ。


 水の流れる音と、木の葉の揺れる音、そして動物たちの嘶きが、静かに緩やかな旋律となって周囲に流れていた。


 深緑と清流の国と言われるだけあって、ルクセンベルクは王都から少し歩くだけで自然溢れる場所がある。王都の近くに大部隊が隠れる場所があるのは、攻め込まれた時に厄介ではないかと思ったが、肥沃な国土から生み出される国力は敵を遠く国境で退けてしまうのだろう。


「いい国だ」


 少し離れた桟橋では、カエデが釣竿を持って昼食が針にかかるのを今か今かと待っている。


「釣りは根性。そして、爆発物だよっ!」


 前者は精神論、後者は最早釣りですらない。


 確かに効率だけを重視すれば、爆発物を使って魚たちを気絶させた方が手っ取り早い。釣りではなく漁になってしまうが、カエデは短気なのだ。


 ……何と言うか、雰囲気ブチ壊しだった。


「これだけ釣ってもダメなのか?」


 トウカは湖に浸かっている網に入ったすし詰め状態の魚たちを見下ろす。


 そう、釣れていないわけではないのだ。


 カエデが起こっているわけ…それは


「ヌシが釣れないよ~ぅ!」


 どうしてもヌシが釣りたいらしい。ちなみにトウカが女神の瞳で水面下の気泡の動きを見る限り、それらしい巨大魚は確認できた。


《お得意の風の魔術で水を巻き上げればよかろう》


「どうしても自分で釣りたいらしい」


 もっとも、爆発物を使えば自分で釣る釣らない以前の問題な気がしたが、ムムムッ! と真剣な顔で竿を握っているカエデを見ると口にする気は霧散した。


 昔は、二人…いや、ベルセリカを合わせた三人で各地を転々としていたこともあった。その時代は平和ではなかったが、少なくとも三人を取り巻く状況は今ほど複雑ではなかった。


《懐かしいのぅ。あの頃は一時的とはいえ、我も元の身体(なり)に戻っておったからの》


「そうだったか?」


 複雑な記憶の糸を手繰ってみるが、トウカは思い出す事が出来なかった。


 人間の魂は何百年も過去のことを記憶できるようにはなっていない。女神の身体が覚えていたとしても、人間の魂が永劫を歩んだ記憶の量に耐えきれないためだ。


 何気ない日常というものは、当然の事としてすぐに忘れてしまう。人間であった頃の記憶などほとんど残っていないくらいだ。なので、古い記憶はベルセリカのほうを信頼している。


「その頃は、カエデの翼も白かったか?」


《うむ、純白であったぞ。見事なものであった》


「何故、黒くなったのだ?」


《分からぬ。だが、人間でも精神的に強いショックを受けると白髪なるという話もあると聞いたとことがある。似たようなものであろう》


 精神的なショックに心当たりがあるトウカは、眉を顰めた。


《あの頃は、よく羽ペンの材料に毟っておったのぅ。じゃが、今の羽の色では難しいかもしれぬ》


 随分と酷い事をするなとは思わなかった。ベルセリカは古の時代には、闇夜の軍勢を率いて大虐殺や大戦争などを次々と起こし、挙句の果てにはトウカの身体(そのとき既に女神の身体だった)を奪って暴れまわったのだ。


「色々あったな」


《うむ、あの頃が一番愉快であった。…戦のない日々も悪くない》


 乱を何よりも好む魔神とは思えない一言に、苦い顔をする。


 共に永劫を生きる盟友ですら少しづつ変わり始めているのだ。自分は立ち止まっているだけで実際、何も進んでいないのではないかと不安になる。


「女神の身体を奪って恐怖を振り撒いた魔神の言葉ではないな」


 そもそも、トウカは無数の教会や神殿の戦士たちに付け狙われる原因となったのは、ベルセリカがトウカの魂を封印し女神の身体を奪い取ったためだった。そ の後、姿はトウカのままで暴れ回るものだから教会や神殿もトウカがベルセリカの闇夜の軍勢を奪ったとでも思ったのだろう。頭の固い宗教団体に弁解などして も無駄だし、紆余曲折を経て女神の身体を取り戻してからは追っ手から逃げるので精一杯だった。


「元の姿に戻らないのか?」


 ベルセリカの元の姿は、人にはない美しさと妖しさを兼ね備えていた。


 下心があるわけではないが、あれほどの美しさであれば別に隠す必要もないだろうと思った。


《神威者の中には、我の姿を知っている者もおるからな。念の為じゃ》


 神から力と永劫の命を授けられたもの、それが神威者だ。


 各種能力ではトウカに及ばないものの、病気や少しの怪我では死なず生も限りなく永遠に近い。だが、トウカと何より違うのは、古神(こしん)現神(げんしん)か、立ち位置はどうであれ神に祝福されて人からなるという一点だった。対して女神の身体を奪ったとされるトウカは忌み嫌われるか、力を狙われるかのどちらかだった。


「聖騎士の十や二十、容易く一蹴できるだろう?」


《戦えば御主の周囲も戦火に晒されかねんからの。今の状態が一番であろう》


 ベルセリカも自分なりに、トウカに気を使っているのだろう。


 永遠を共に生きていれば、相手の考えていることなど簡単に読めてしまうのだろう。トウカには無理だが……。


「キタァァ! 使徒…じゃなくて…ヌシ襲来だよっ!」


 カエデが勇ましい叫び声とともに釣竿を引っ張る。


 引っ張られた釣竿が凄まじい角度でしなる。天魔であるカエデの力と拮抗しているのだから、かなりの大物なのだろう。 


《正体は分からぬのか?》


 ベルセリカが興味深そうに聞いてきた。


「水中が泡立ちすぎて分からん。だが、かなり大きい…それと、翼が付いている」


 明らかに魚類ではない。だが、釣り上げることロクなことにならないのは理解できた。


「待て、カエデ……」


「あちょょょょょょぅ! 釣ったらあぁぁっ~~~~!」


 聞いちゃいない。


 実はカエデが使っている釣竿というのは、世界樹の一部を切り出して作られた特注品だ。特注品といっても、カエデ自身がとある国の国宝である世界樹の枝をへし折って作ったものだった。なので魔力を循環させれば決して折れることはない。


「キタァァァ!」


 ザバァとトウカがいる岸まで波が押し寄せ、水しぶきでカエデの姿が見えなくなる。


 咄嗟に手を上にかざし、風の傘を作って迫りくる水しぶきを回避したトウカの横に何かが迫る。


 ドンッ!


 水分を含んだ岸の砂が撒き散らされ、トウカに襲い掛かる。


 風の魔術で水と砂を防ぎつつ、謎の物体を見上げた。


 水竜。


 一般的にそう呼ばれている竜だった。竜の中でも翼竜と共に比較的人間になつきやすいとされているが、王都の近くに生息しているのは驚きだった。人に危害を加えたりするということで討伐されても不思議ではない。


 キュイキュイッ!


 仰向けになったまま長い首をトウカへと向けて、水竜は思いのほか愛嬌のある鳴き声を上げる。口から釣り糸が垂れているところをみるとかなり間抜けだったが、腐っても竜なので油断はできない。


 トウカが剣に手をかけようとしたその時、水竜の長い首がぐいっと引っ張られる。


 引っ張られた先を見ると、桟橋の上で濡れ鼠になったカエデが水竜の口へと続いている釣り糸を、綱引きよろしく引っ張っていた。


《凄いのぅ。天魔VS水竜…伝承にでもありそうじゃな》


 ベルセリカの呑気な言葉をよそに、天魔と水竜は正面から見つめ合っていた。


 一触即発……という事もなく、ただ見つめ合っている。


 水竜は黙って顔を近づけ、カエデに頬ずりする。顔を舐め始めた水竜にカエデは顔に手をまわしがっちりと掴む。


「昼飯確保っ! 唐揚げだよっ!」


 食う気らしい。


 キュイ~~!


 水竜もカエデの言葉の意味を察したのか暴れようとするが、カエデの凄まじい力に岸へと押し倒される。食料の事になると容赦がなくなるところは、昔と全く変わっていなかったことにトウカは少し安堵した。


「お願いだから食ないでください! 私の友達です」


 後ろから、いるはずのない少女の声が響く。


「あ、クレアちゃんだ。一緒に食べる~?」


 振り向くと、そこにはクレシーダがいた。


 一国の姫君をちゃん付けで呼んだこととか、食べるなと言われたのに水竜を食べる気満々なところなど、ツッコミどころは満載だったが、話が面倒な方向に進んでは困るのでなにも言わなかった。


「どうしてここにいる?」


 トウカはクレシーダに詰め寄る。


 クレシーダは、書類仕事が溜まっているということで、何日かは忙しいと聞いていた。だから護衛の仕事は休みだったのだ。そうでなくてはカエデと釣りになど行けない。


「カエデにこの場所を教えたのは私です。そしてそのエルクは私のペットなの!」


 水竜を指さし、クレシーダが怒鳴る。


「エルクって言うんだね。じゃあ、今から昼飯に名前を変更!」


「そこまでして食べたいのか……」


「もしかして、と思って転移の門で飛んできたの」


 クレシーダの足元には五芒星の描かれた石板が鎮座していた。


「そんなものがあったのか」


 ならば歩いてくる必要はなかった。転移の門を使えば一瞬で目的地まで移動できるのだから。


「王家がいざというときの脱出用に作ったのです」


 転移の門というのは、指定された石板同士を魔術的に繋げ、瞬間移動する装置のことだ。設置には資金と時間、そして魔術的な手間が掛かり、なおかつ移動距離にも制限があるのであまり使われてはない。


「まぁ、んなわけで王城から一瞬で移動できるって訳だ」


 続いて石板の上に現れたラルフが言葉を締めくくった。


 二人とも質素な服に身を包んでいる。身分がバレないように一応は配慮しているようだ。どちらにせよ周囲に他の人影はないのでさして問題はないが。


「昼飯にするが、オマエらも食うか?」


「食べるわ。朝から何も食べてないの」


 クレシーダが即答し、ラルフも頷く。仕事が忙しかったようだ。


「ヌシはお預けだね……」


 カエデは、しばらく水竜=エルクを眺めていたが、やがて諦めて湖から魚が大量に入った網を引き揚げて、トウカの元へと走ってくる。エルクを引き揚げた際に濡れ鼠になったようだが本人は気にしていない。


 トウカもそれを見て、近くの小さな木の元まで歩いて行くと剣を一閃させる。すると無数の木の枝が切れ、地面へと向かい始める。剣自体はなにも斬っていないが、生み出した風刃が斬り落としたのだ。それらを落ちる寸前で掴み取ると戻ってくる。


 対するカエデは岸に腰を下ろすと、置いてあった背嚢から鉄製の串を取り出す。


「どうするのですか?」


「丸焼き、味付けは塩。素材本来の味を引き出すんだよ」


「丸焼きしかできないだけだろ?」


 集めた枝に魔術で火を付けながら、トウカが口を挟む。


 可愛く口を尖らせながらも、カエデは魚を宙に投げる。


 そして、落ちてきたところを真下から串刺しにする。軽業師にような芸当を、クレシーダとラルフは茫然と見ているだけだ。


「久し振りに刺身が食べたいかな。というわけでヨロ」


 一番大きい魚を網から取り出し、トウカへと投げる。それを片手で掴んだトウカは近くの切り株の上に魚を乗せる。


「サシミとは何ですか?」


 クレシーダが興味津津といった様子でトウカの前の魚を覗き込む。


 刺身とは東の島国神国の魚料理だ。調理の方法は簡単なもので、小さく切った魚の身を醤油という調味料をつけて食べるだけだ。大陸では魚を生で食べるという文化自体がないので、大陸生まれのクレシーダとラルフは疑わしげな目線を向けてくる。


「生で食べるだけだ。……醤油がないぞ」


 一大事だ。


 わさびがないのは我慢できるが、醤油がなければ刺身とは言えない。それなら、そのまま魚に齧りついている熊と変わらない。置いてあった背嚢から取り出した先の鋭い包丁を手に、神をも殺した男は真剣に悩む。


「生で……」「か、神よ……」


 大陸生まれの二人が、神をも恐れぬ所業だと喚くが、トウカが包丁ごと振りむくと小さな悲鳴を上げて沈黙した。


「醤油ならあるよ。こんな事もあろうかと、前にいた住処で作ってたんだ」


「自家製か……」


 カエデが取り出した竹製(大陸にも生えているのか?)の容器を見ながら少し不安になる。一体、どんな材料で作ったのか大いに疑問だが、それを聞く勇気はなかった。


「まぁ、ないよりマシか」


 手慣れた手さばきで魚を解体していくトウカの横に座ったカエデは、集められた枝に魔術で火を点けると、魚を焼き始める。


 トウカとカエデは生活の為に魔術をよく使うが、普通の人間はそうはいかない。そもそも魔導士を含めても魔術を使える人間自体が少ないことに加え、闇夜の眷属や光の者たちに比べて魔力の容量(キャパシティ)のケタが違うのだ。生活に魔術を使えば、いざというとき魔力が切れるかもしれない。無論、例外もあるが、クレシーダとラルフは魔術を使うことはできない。


 そんな人外魔境の者たちの所事情にクレシーダは目を丸くする。


「便利ね…カエデも早く服を乾かしたら?」


「トウカだけなら裸でもいいんだけどね」


「俺は気にしないからババッと脱いじゃっていいぞ」


 ラルフが鼻息荒く、全身を使って脱いでくれというオーラを出している。女性二人は逆に死んでしまえというオーラを出しているが、ラルフは気付いていない。


「騎士失格ですね」


「変態騎士だね」


「いやいや、なら俺が先に脱ぐから……」


 そこまでして脱がせたいらしい。確かにカエデは美人であったし、胸も大きい。隣にいるクレシーダが可哀そうなくらいだ。別れた頃は、小さな子供と言っても差支えないくたいだったので、トウカにはその変化がよく分かる。


「握り潰すよ?」


 カエデの放った言葉にラルフが内股になる。男にしか分からない痛みだ。トウカも思わず口元を引き攣らせる。


 それを横にトウカは皿に刺身を盛り付けた。


「食うぞ。箸は使えるか?」


 トウカは木製の棒状のような食器を皆に手渡す。


「何じゃそりゃ? フォークの親戚か?」


「ハシですよハシ。東の食器です。私は神国の大使との晩餐会で使ったことがあるわ」


 意外な話だった。一国の姫君だけあって他国の文化にも精通しているのかもしれない。


 だが、神国の大使も大陸の人間に生の料理を出すことはしなかったようだ。神国では動物も魚も生で食べる文化があるが、大陸では必ず火を通す。内陸の地域 だと鮮度を維持できないためだろうが、ルクセンベルクはブレスト海という豊かな海に面している。それでも魚を生で食べる文化はないようだ。


「お腹を壊しそうね」


「釣ったばかりだから問題ない」


 新鮮でないと危険なのは事実だ。だからこそ大陸では生で食べるという発想がなかったのだろう。それを考えると神国の人間は戦闘だけでなく食事でも勇敢だな、と思えた。


「カエデ…そんなに急いで食べなくとも料理は逃げはしない」


「逃げる……ヌシが」


「そう言えば……飢餓の極みにあった戦友が、差し出された握り飯を一飲みした途端、ショックで逝ってしまったこともあったな」


「もぅ、食事中に食欲が失せるような話しないでよ」


 そう言うと、カエデは再び魚の丸焼きを齧り始めた。ヌシを釣ることはまだ諦めていないらしい。釣れるまで居座る気かも知れない。


「脱がないのかよ」


「まだ、言いいますかアナタは……」


 クレシーダも呆れ気味に呟く。


「そんな事を言っているから女に見向きもされない」


「うっせ~! 童貞を守れないヤツに国を守れるか!」


「そんなモノを守りながら国を守ってほしくありません!」


 最近の騎士というのは、皆こういうものなのだろう。ルクセンベルクが今まで戦乱の世を駆け抜けてこれたのは奇跡かもしれない。


 トウカは楽しそうに食事をしている三人を尻目に立ち上がる。


「どこへ行くのですか?」


 気付いたクレシーダが顔を上げる。


「猟だ。新鮮な肉も確保しておきたいからな」


 捕まえた獣を解体し、保存用の食料を作っておきたいのだ。しばらくはルクセンベルクにいることになるが、念のため作っておきたかった。いつ戦闘になるか分からない。いや、トウカ自身が追われる身となれば……。


 表情は変わらなかったが、戦技に疎いクレシーダですら分かるほど張詰めた雰囲気を出しているトウカに、他の者たちは息が詰まってゆくのを感じた。


 複合弓を掲げ、トウカは森へと歩き出した。


 残された三人は互いに顔を見合せ、首を傾げた。


 

 

 

 

 

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