第一一話 敗北と別れ
「むっ、このレープクーヘン、美味しいです」
ミユキは差し出された焼き菓子をバリバリという音を立てながら咀嚼する。畳の居間で彼女は村の女衆から餌付けされていた。
建物は神州国から伝来した造りの木造建築物ばかりであるが、差し出される焼き菓子は皇国で考案されたものばかりで、畳の居間で食す感覚は他国民からすると新鮮かも知れない。
ミユキは全力で餌付けされていた。村の女衆……特に高齢の人間種からしてもミユキはまだまだ精神的に子供であり、感覚としては帰郷した息子に連れられてやってきた孫に御菓子を与えるものと然して変わらない。
外では村の男衆の半数、直接的な戦闘に耐えられないとされた高齢者や中年達が、女衆が避難している村内で一際大きな建造物を警護している。
物見櫓から既に匪賊が相手の戦 闘が残敵掃討に推移しつつあるという報告が流れてきている為、周囲の者達の表情は一様に明るい。弛緩した空気が流れる中、新たな焼き菓子に手を伸ばしつつ
も、ミユキは匪賊の行動に不信感を覚えた。外で警護している男衆に差し入れを渡した際に聞いた話では、匪賊が纏まって決戦を希求したとのことで、トウカが 口にしたリディアの戦闘能力を考慮すると文字通り鎧袖一触となることは疑いようもない。
だが、果たしてそうなのかという疑問が、彼女にはあった。これは仔狐としての勘である。ミユキの獣としての部分がどうしても現状に納得しない。動物とは 元来、人間とは異なる感覚を頼りに危機を察知するという説があるが、皇国に於いてはその推論が半ば肯定されていた。
動物の感覚はヒトなどより遙かに繊細で鋭い。そして何よりもミユキは感じていた。粘着質な、それでいて何処か生暖かい悪意を。それは、匪賊が全滅したという報告を受けても尚、健在であった。
「でも、主様が何とかしてくれる……と、思うんだけど……」
どうしても、トウカとリディアが敵に引き付けられた気がしてならない。狩りの基本程度ならミユキも知っているが、その中に目標が複数であった場合、これ を分散させて脆弱な一方を狩るというものがあった。問題は目標の集団が釣られるような囮が必要となるが必要となることで、トウカたちの場合は匪賊の全戦力 と思われるこれに釣り上げられた。
確かに匪賊の全戦力……或いは“限りなく”全戦力に近い戦力を叩かないという手はない。しかし、トウカ達が撃破しつつあるという匪賊が全戦力だという証拠はない。
ミユキは何を以てして、トウカが打って出たか分からない。きっと深い考えがあるのだろうというという確信はあったが、ミユキの理解の及ぶところではなかった。
実は、トウカは村人の村にやってきた戦力を示威行為として捉えており、これが全ての戦力だと考えていた。匪賊という真っ当ではない集団が、然したる抵抗 手段を持たない村人に対して、目標達成の為に複雑な手段を用いないという前提で敵の撃滅を図っている。現に匪賊は最大戦力と思われる兵力で攻め寄せてきて いる事からも、これは正しい判断と言える。
だが、もしも匪賊の狙いが別にあるとしたら?ミユキはそう考えていた。匪賊が匪賊であるならば、匪賊らしく正面から攻め寄せて力ずくで奪えばよいのだ相手に時間を与える意味が分からない。尊厳を。金銭を。そして何より生命を。
――あの時みたいな風にしちゃうのが普通なのに。
異邦人と仔狐の邂逅は、濃密な血の匂いと物言わぬ屍が散乱する寒村であった。あの時、ミユキは匪賊の無作為な暴虐を目の当たりにしていた。計算された動 きではないことは一目瞭然であるが、攻撃時に非武装であった寒村の領民は抗う術を持たない。魔道国家の呼び声高い《ヴァリスヘイム皇国》臣民であっても咄 嗟に命を奪い合う展開に対応できる訳ではなかった。
――うぅん、何か凄い目的でもあるのかな?
ミユキは新たに差し出されたクラップフェンを頬張り、首を傾げる。クラップフェンとは、揚げ洋餅や砂糖天麩羅の一種である。一口食したトウカはその食感を、餡ドーナツのようだと評した通り、柑橘類などの果実によって作られた柑橘果醤が詰められている事から食感だけでなく、甘さも比肩するものがあった。
そこで、ミユキの嗅覚が何かが焦げる臭いを嗅ぎ取った。
「これは……誰かが料理に失敗した……なんてことはないよね?」
木々の燃える匂い。料理に失敗して台所まで燃やす者がいるならば話は別だが、それならばもっと大きな騒ぎになっているだろう。
「焦げ臭いです。女将さん、何か燃えてると思うんですけど」
「何だって? それは一大事じゃないかい! おい、誰か若いの村長を呼んできとくれ!」
ミユキを一際可愛がっていた、女将と呼ばれている女衆の纏め役が声を張り上げる。それに顔を見合わせた女衆の中から幾名が慌てて外に飛び出す。
暫くすると村長が慌てて駆け込んでくる。
「火事じゃ! それも一か所ではないぞ! 早う逃げる準備をするのじゃ!」
その声に女衆が慌て、入ってきた男衆も其々に、家財を持ち出そうとする。
乾燥した冬場とはいえ、全員が一か所に集中して避難している状況で火事など起きることはなく、自然現象とも思えない。それも複数となると話は変わる。
ミユキは立ち上がると、走り出す。木製の扉を開け放ち、外に出ると天狐の脚力で近くの一番高い木造家屋の屋根に飛び乗る。
そこには火の海が広がっていた。村の中心に近い事もあって村を一望できるが、どの方位にも火の手は上がっており最早、手の付けられる状態ではない事は一目瞭然であった。
目を凝らすと、火の手が上がり黒煙が漂う中、蠢く人影が散見された。明らかに村人の風体ではなく、武装を見ても匪賊に思える。
「主様……どうしたらいいの?」
仔狐の呟きは、火に焦がされて爆ぜる木材や、轟々と燃える炎に掻き消される。
「ミユキっ! くそッ! 誰だ、匪賊などと言った奴は! 殺してやる!」
トウカは雪原に斃れ伏している匪賊の亡骸を蹴り飛ばす。
死者の侮辱など気にする程の余裕がトウカにはなかった。リディアが相手の人体を破砕するような体術を扱っていた以上、周囲もトウカを咎める真似はしない。
――匪賊が村の破壊を主目標にするものか!
恐らくは何者か……或いは何処かの組織の意向を受けた集団なのだろう。
トウカは悟る。相手の目標は金銭や食糧ではなかったことに。
こうなると指揮官が匪賊である事すら怪しくあった。無論、戦力は匪賊である可能性は高いが、第三者の意向を受けているならば目的は別にある。最早、己の欲望を満たす手段として弱者を襲うことを考えず、この戦闘行為自体を材料として何かを得るつもりなのだろう。
前提そのものが違えていた以上、打って出たこと自体が間違いであったのだ。
激昂するトウカの襟首をリディアが掴む。
「ええい! 男が取り乱すな! 己の義務を果たすが良い!」
揺さ振られたトウカ。
自らリディアに義務を果たす事を強制しておいて情けないが、ミユキを護ることが大前提であるトウカにとってこの状況で取り乱すことは止むを得なかった。 トウカは今一度、己の迂闊さを呪う。戦野で得られた情報が不確定で不確実なものに過ぎないという基本すら忘れていたのだ。
良くも悪くも、トウカの実戦経験の不足が浮き彫りになった形であった。
「くそッ! 総員、走れ! 火災の延焼を防ぐ!」
トウカは走り出す。
リディアや男衆も後に続く。
男衆は焦りの表情を浮かべているが、トウカは鬼気迫る表情であった。
「しかし、何とする! あれでは最早……」
「風下の家屋を破砕し、延焼を防ぎつつ村中央にいる者達と合流する!」
最早、風下の延焼を防いで村内の者達を救出するしかない。目に見える限りでは既に延焼は押し留めることは不可能であるが、村人の救出は断じて行わねばな らなく、リディアがいれば不可能ではないとトウカは判断した。村人に故郷である村の家屋を破砕しろと命じるのは気が引けるが、躊躇いは許されない。
「急げ! 風下の家屋を手当たり次第に潰して延焼を遅らせろ! 村人を救出する!」
軍刀を振り翳したトウカ。
そして、火災を相手にした解囲戦が始まった。
「風下に逃げましょう!」
ミユキは大声で提案する。
幸いにして風下の方向は、トウカ達が戦っていた方角であり、炎は他の方角と比しても弱かった。これは、トウカ達に蠢動が露呈することを恐れた匪賊が、そ の方角での放火を躊躇った事が大きい。無論、ミユキにそこまで考えが及ぶはずもなく、何よりも匪賊と遭遇する可能性が低くなるという事だけを見ていた。
他方に比して弱い火の回りを見て、ミユキは上手くするとこれを突破できるかもしれないという淡い期待を抱いた。
――むぅ、尻尾が焦げたら一大事です。
ミユキは一際高い屋敷の上から飛び降りると、井戸の水を汲んで尻尾に水を掛ける。冬の時期に行水をする風習は天狐族にはないが、現状では不満は言えな い。魔導障壁には物理的な貫徹とは別に断熱などの温度の透過を防ぐ術式が別にある。実は魔導障壁にもかなりの種類が存在し、一つの能力しか持たない障壁を
単一障壁と呼称し、複数の能力を有したものは複合障壁と呼ばれた。前者と比して後者は魔力消費が著しく増大し、術者への負担が大きい。
「村長さん、急いでください! 命あってこそですよ!」
家財を大八車に乗せている村長の肩をミユキは掴む。
気持ちは分からなくもないが、命を失えば全てが無駄になる。何より鎮火後でも焼け残ったものを拾うことは不可能ではない。
「荷台には子供と老人を乗せて!」
足の遅い者を残して往くわけにはいかないが、自力での移動は難しい。移動させるには荷車に乗せて行うのが一番手っ取り早いが、皆が家財の運び出しや、懸命な消火活動を行おうとしている状況ではそれも儘ならない。
「しかし、この火の勢いでは何ともならん! 地下の食糧保存庫に――」
「ダメです、蒸し焼きになっちゃいますし、全員が入れません! 私が障壁を張って炎を防ぎますから、風下に向かって逃げましょう!」
ミユキの故郷である天狐族の無名都市は密林の中にあり、大火の際の対応に並々ならぬ関心があった。天狐族の無名都市は森の精霊の加護や強力な拠点型魔導 障壁を展開可能な設備が整っている為、火事の起きた区画を素早く鎮火、或いは隔離できるので村ほど貧弱な防災設備ではないが、警戒心の強い天狐達は万が一 を考えていた。
「むぅぅ、止むを得ん! 皆の衆、逃げるぞ!」
村長の言葉に村人たちは躊躇う。
故郷が焼け落ちる事を認められない事はミユキにも痛いほど分かったが、命を護れる機会があるならば自らそれを捨てる事はあってはならない。寒村では命を護る機会すら与えられなかったのだから。
村人達は、尚も逡巡する。燃え盛る炎の中に在って、尚、動こうとはしない村人達。
「……お願いです……死んじゃうんですよ!」
溢れ出る涙を拭うこともなく、ミユキは叫ぶ。生きたくても生存への道を理不尽にも閉ざされた者を知るミユキにとって、村人たちの態度は理解の範疇にない事を通り越して、悲しくすらあった。
――なんで人は短い人生なのに死に急ぐの?
トウカにもその片鱗は見受けられた。自らの生命に執着している様に見えて、人間種は余りにも無謀な、勝算のない物事に進んで身を投じることがある。感情 に引き摺られやすいからこそであり、それはミユキにとって煩わしくも好ましくあった。感情を最優先するからこそ、これほどに温かく迎え入れてくれる。トウ
カですら最初は猜疑の目を向けてきていたが、不平と否定の言葉を放ちつつも、ミユキを決して邪険には扱わなかった。
ミユキは、人間種の本質が善性であることを疑わない。
「ほら、アンタら! こんな小さい娘を泣かすなんてイイ大人が情けないったらありゃしない! 子供と老人を大八車に乗せたら、ずらかるよ!」
女将が村人たちに怒鳴る。村人たちは顔を見合わせると、やがて頷き合う。動き出した村人達。消火活動によって生じた怪我人や、移動が遅い子供、老人を大八車に乗せ始める。
「早よぅせい! 急がねばならんぞ!」
家屋が焼け落ち始めた中、村の中を直線に造られた通路を、ミユキを先頭にした村人たちは駆け始めた。
「打ち払え! リディア、あの右の建物を破壊しろ! 他は左の屋敷の柵を縄で引き倒せ!」
手早く指示を出すトウカに、リディアは唯、感心するばかりであった。
全てをそつなくこなせるトウカの技能の多様性に、リディアは内心で舌を巻いていた。万能とも思えるトウカの技能は、一体どの様にして得たものなのか大い に気になった。当のトウカは発展した教育制度の賜物だ、と薄く嗤うだけであった。その後に、俺の祖国であればこの程度のことは若造でもできる、と言われた 時、リディアは背筋に悪寒が走った。
――少年にまでそれ程の教育を施す国……脅威だ。……正しく戦闘国家と言えるな。
姉であるエカテリーナも臣民の教育に対して改革を行おうとした事があったが、最終的には少数の優秀な者を教育するまでに縮小していた。これは貴族連中が叛乱に対して敏感であり、臣民が学を身に着ける事を恐れたという側面があった。
トウカの国が、その猜疑を乗り越え、臣民に学を与えたという事実をリディアは恐れた。思想的にも軍事的にも遙かに進んでいるであろうことは疑いようもないが、リディアは聞いた事もない《大日連》という国を羨む。
《ヴァリスヘイム皇国》よりも余程、脅威であった。
――多くの国民が心から敬う皇などいるのか? 万人に慕われるなど……帝国では不可能なことだ。……逢ってみたいものだ、彼の国の指導者に。
「リディア! 疾く実行しろ! ミユキが……ミユキはこんなところで死んでいい娘じゃない!」
トウカが叫ぶ。軍刀を振り翳し、叫ぶトウカの姿は狂信的と評して差し支えないものであった。精神的な余裕など最早、何処かに置き忘れたその姿は鬼神のものであった。
村人はそんなトウカに気圧されながらも、家屋を打ち崩して延焼を止めんと動き回る。
「こらぁ! そこっ! 人がいるかもしれないんだぞ!」
「縄を持ってこい! この支柱が邪魔だ!」
「トウカさん! 怪しい奴を見つけました! きっと、これが放火犯ですよ!」
若い村人が黒ずくめの人間種を突き飛ばす。
その数二人。
男衆に囲まれて怯える男二人にトウカは近づく。今更、表情も己の意志も取り繕う気などないのか、トウカは軍刀を手に男二人に歩み寄る。
「死ね。仔狐を危険に晒した罪、万死に値する」
無造作に振り払われた軍刀。
リディアが止める暇もなく、男二人の首が宙を舞う。一瞬の出来事にリディアは止める暇もなかった。一瞬で宙を舞う男二人の首に、ディアは呆れ返る。証拠な ど、トウカには然して興味を引くものではないのだ。また軍人でもなく《ヴァリスヘイム皇国》臣民に義務を負う立場でもない以上、犯罪者相手に人道的な対応 をする必要もない。
「下らない。己の義務を果たせ。……馬鹿者が」
下らぬことを持ち込むな、と言わんばかりにトウカは血糊を払う。トウカにとって然したる意味を持たないのか、男二人の命は容易く掻き消えた。トウカは安易な殺生をしないと考えていたが、ミユキが関わるとなると話は別である。
トウカは、リディアを尻目に匪賊と思われる男の屍に軍刀を突き立てる。
人の命などこの戦乱の世に在っては容易く散る儚きものに過ぎないが、それでも尚、トウカは人の命を安く見積もっていた。匪賊と思しき男の亡骸に軍刀を突き立てて、早く命令を実行しろ、と鋭い眼光で見据えるトウカにリディアは戦慄する。
現世には怒らせてはならない者が存在するのだと、リディアはこの時知った。
炎混じりの風に黒の装束が踊る。脆弱なる者達を睥睨するかのような鋭い視線と、炎舞う中にあって尚、冷厳な気配を纏い続けるその姿は、リディアすらも気圧された。
魔王(Вельзевул)。
その異名が相応しい。
リディアは大剣で家屋の支柱を薙ぎ払う。通路を確保する為であり、村の外縁にこれ以上の延焼を防ぐ為であった。トウカが率いていた男衆は既に村の中へと 進み、全方角で延焼を防ぐ為に家屋を打ち払っている。対するトウカ達は、村の中央に取り残されたと思しき者達の救出の為、一心に中央を目指していた。
「トウカ……御前は少し下がれ。家屋の倒壊に巻き込まれる」
「後ろで指示していては示しが付かない。人を率いるにはそれ相応の勇気を示さねばならないからな」
匪賊の亡骸を蹴り飛ばし、トウカは燃え盛る木材へとくべると再び前進を始めた。
炎が舞う中、進み続ける漆黒の装束の異邦人。
リディアはその後ろ姿に言い知れぬ恐怖を抱いた。
ミユキは己が限界に近いことを悟る。
魔導障壁はその特性上、長時間攻撃に晒される事に対して脆弱であった。炎の場合、常に炙られ続け、急速な魔力消費が続く為に消耗が大きいという理由もあ るが、炎の精霊が密集することによって術式の不安定化を招くという理由もあった。無論、ミユキが展開している魔導障壁の規模を考慮すれば、寧ろ極短時間の
展開であっても高位魔導士が意識を失うほどであり、決してミユキの魔導資質が低いわけではない。
脂汗を流すミユキ。それは炎の所為だけではなく、急激な魔力消費による精神的な消耗という理由があった。
「みんな、早く逃げてッ!」
障壁を押し出して倒壊してきた家屋を押し返し、ミユキは叫ぶが、村人達の移動は遅々として進まない。
怪我人に手を貸して必死に歩く女将に、村長は子供達の手を引いて歩いている。そんな姿が散見される中、ミユキは煤けた顔を拭う事もなく、右手を翳して前進する。
そんな中、一人の少女が尻餅を突く。ミユキは咄嗟に空いている左手で、それを受け止める。
「ッ!」
魔導障壁が歪む。
意識が疎かになった代償。そして運悪く倒壊してきた家屋の重圧が、魔導障壁を瞬間的に蝕む。そして、鈴の鳴る様な透明感のある破砕音を立てて魔導障壁が砕ける。
迫り来る家屋の倒壊に、ミユキは慌てて少女を抱き締める。反射的な行動であるが、幼き者を護らねばならないという意志は、ミユキを突き動かした。
トウカは憤るだろう、とミユキは場違いなことを考えた。少なくとも己の身の保全を最優先として、余裕があれば助けるという判断を下すであろうトウカは、 ミユキの行動を短慮の一言で斬り捨てるかも知れない。否、そもそもミユキですら思い付かない奇策を以てして、この炎舞う危地から切り抜けて見せるだろう。
だが、ミユキは後悔していない。己の提案によって村外への脱出を行っているにも関わらず、その是非を見届けられないということは残念であるが、ミユキは満足してもいた。寒村では何もできなかったが、今回は活路を示すことができた。それは大きな進歩である。
「主様ッ!」
幼い少女を一層強く抱き締め、瞳を閉じる。
納得していると思える結末であっても、やはりトウカを、奇蹟を求めてしまう。そんな自分はやはり弱虫なのだろう、とミユキは思う。
しかし、そんなミユキを異邦人は見捨てない。
「全く、貴女は……無鉄砲も大概にしてくれ」
多分に呆れを含む声。ゆっくり瞼を開けると、そこには漆黒の装束を靡かせた異邦人が立っていた。炎の混じる風を背に立つ漆黒の出で立ちは、多くの者に恐怖を抱かせるものであるが、ミユキには絶対的な信頼の象徴であった。
優しげな表情で手を差し伸べるトウカ。ミユキはその手を躊躇いもなく掴む。
呆れ顔のトウカ。なれど、非難の言葉はない。理解しているのだ。ミユキの誇りと矜持が、村人に犠牲を強いる事を許容しなかったことを。
人は誇りや矜持がなくとも生きていけるが、同時にそれらがなくては輝くことができない。それらが試される悲劇の舞台こそが、人が最も美しく見える瞬間であるという救い難い現実は確かに存在し、ミユキという純真なる優しさを人に無条件で示すことのできる少女を彩った。
「……怖かったです」
「無理をする、全く……」
満身創痍のミユキは、トウカに優しく抱き止められる。優しくも力強い感触にミユキは意識が遠退く事を止められなかった。
「村は半分が焼失といったところか」
トウカは村の惨状を眺めて顔を顰める。匪賊は明らかに村への放火を前提に作戦行動を取っていた。食糧、金銭、女性には目もくれず全てを焼き払おうとするその所業は、匪賊の最初の恫喝内容は元より然して重要ではなかったのだろう。
――村人が籠城すれば村諸共焼き払い、打って出れば防衛が疎かになった村を少ない犠牲で焼き払える……無能ではない。これが唯の匪賊であって堪るものか。
村を焼き討ちして一番利益を上げる者をトウカは推測する。可能性として考えられるのは、皇国内での叛乱勢力と正規軍勢力である。トウ カは勢力争いがどの様になっているか知り得ない為に断言はできないが、敵対側の負担を増大させるために難民を作り出そうとしているのかも知れないと考えて いた。
内戦という縁遠いと考えていた事象が自身に牙を剥いたのだ。対処はできない。そもそも、内戦中である事を知ったのは、リディアとの会話からである。
――しかし、皇国政府がそれを赦すか?
街道に宿泊所を等間隔で建設し、悪意に敏感なミユキが善政を敷いていると断言する皇国の政治権力者達がその様な手段を講じるとは思え ない。逆に叛乱勢力側も事態が露呈すれば名声を大いに傷付けられることとなる。相手の権勢に傷を付ける為の手段とも考えたが、逆にそれは非難する側も村を 護れなかったと認めるも同然であり、手段としてはあまり稚拙と言わざるを得ない。
「下手人は不明か」
「何処かのど阿呆ぅが、下手人を斬り捨てたからな」
腕を組み、呆れ顔のリディアに、トウカは、短気な者もいたものだ嘆かわしい、と肩を竦める。
トウカとしては斬らずに捕縛したところで、末端が事の全容を知るはずもないと考えていた。立案者、或いは指揮官は遠方からの戦果確認を行っているであろう 事は容易に想像が付く。もしかすると、この場にいない可能性すらある以上、匪賊の一人や二人捕らえたところで然したる意味はない。
よって捕縛した匪賊も全員、殺害して村の隅に埋めた。村の半分を焼き打ちによって喪った村人に、軍が到着するまで匪賊を捕縛し続けるという負担を強いる程、トウカは偽善者ではなかった。戦死した村人と村の復興もある以上、労力を割く真似は村人も避けたいはずである。
「まぁ、関係ないことだ。それよりもこれでは路銀は貰えないな」
「復興に金が掛かる。路銀を求める事は酷であろうな」
寄越せと言えば貰えるだろうが、それでは外聞も悪い。遠目に見える復興活動に勤しんでいるミユキを見るととてもではないが、その様なことは言えない。
「心配せずとも外に転がっている匪賊の遺体から金目のものを剥ぎ取れば良い」
得てしてあの手の人間は、中世の自由騎士や傭兵がそうであった様に、その身一つで世間を渡り歩く者であるからこそ、己の持ち得る金銭を装飾品や貴金属に変えて身に纏う様にしている事が多い。場合によっては現地で換金できるという利点は大きい。
問題はリディアが匪賊の半数を挽肉と表現して差し支えない程に解体したことであり、その中から貴金属の回収を行うのは精神衛生上好ましくない。気温が低 い為に遺体の凍り始めていることが救いであるが、それはそれで貴金属の回収が難しいことは容易に想像ができた。捕縛した匪賊の貴重品は殺害前に全て村人が
剥ぎ取ったが、復興を優先して村外で放置されている戦闘で生じた匪賊の死骸は未だに放置されている。
「……俺は匪賊の遺体を漁ってくる。何か正体を掴めるかも知れない。まぁ、然して気にする程の事でもないが、今にして思えば金になる情報だったかもしれない」
「私も行こうか?」
大剣を手に取り、立ち上がろうとしたリディアを、トウカは片手で制する。リディアが存在しているというだけで村人達は安心する。個人戦力としては無双と 評しても差し支えないリディアの存在感は決して小さなものではなく、軽々と動かしては村人の不安を煽ることになりかねない。
「ミユキが村人に抱き込まれない様に傍に居てやってくれ」
村人が三人に良くしてくれるは打算ゆえである。少なくともトウカはそう考えていた。三人の戦力は、村人からすれば隔絶したものに見えるが故に、それを欲することは卑しいことではない。だが、トウカとしては、この様な場所で燻ぶっている訳にはいかなかった。
――もし腰を据えるとしても、安全なところが良い。
トウカは、先の見えない未来に辟易としつつも席を立った。
「で、御前は早速、懐柔されておるわけか?」
「ひょんなここははふぃふぁふぇんふぃよ?」
焼き菓子を口一杯に頬張った仔狐の反論?にリディアは頭を抱える。トウカが懸念した通り、ミユキは村の女衆にこれでもかと言わんばかりに餌付けされてい た。ミユキとトウカは然して長い付き合いではないとリディアは聞いていたが、トウカのミユキに対する予想は面白い程に的中する。ミユキの性格の単純なとこ ろによるところであろう事は疑いない。
――それ程までに気遣われておることをこの阿呆狐は分かっておらん。
ミユキは未だ幼い。長命種の基準からしても幼く、またトウカの気遣いを理解できていないように思えた。しかし、そんなミユキをトウカは黙って微笑んで眺めていることからも分る通り、自由気儘な姿こそを好んでいるのだろう。
囲炉裏の前に腰を下ろしたリディア。胡坐を掻いたその姿を見て、女将が黒茶を差し出す。酒はないのか、と問うリディアに女将が眉を顰めて拳骨を落とす。
「少しは遠慮せんか、淫乱狐め」
「酒樽を片っ端から空けたアンタが言うんじゃないよ」
女将の言葉に、リディアは、度数が弱い方が悪い、と唸る。帝国では穀物を原料にしたヴォトカという蒸留酒が最も消費されているが、酒精濃度はこの村で作られている物より遙かに高い。成分の内訳でいうと水と酒精が
ほとんどで、戦野では消毒に使われることすらある。寧ろ、帝国でヴォトカが流通した主な理由は、軍部と帝家が汎用性に富むと盛んに振 興した結果であった。風味や香りなどよりも酔う為だけの酒であるが、種族的にも個人的にも酒精に強いリディアにはそれが丁度よい。帝国軍内部での消毒用酒精の購入額と消費量が釣り合わないのはリディアの胃袋に入っているという噂も立つ程である。
しかし、皇国では個性に乏しいヴォトカそのものの生産量が少なく見かけることはそうない。
実は皇国内では、モルト・ウィシュケの製造が過剰なまでに盛んであり、一説には初代天皇大帝の狂信的なまでの振興があったという噂もあるほどである。
ウィシュケとは、皇国成立以前に大陸西部の民族の言語のウィシュケ・ベァハ(命の水)が語源であり、蒸留所内で麦芽の酵素によって糖 化させた穀類の液体を、発酵させて蒸留し、木製樽に詰めて何年もの間、貯蔵庫の中で熟成させたものである。麦芽を乾燥させる際に使用する泥炭や詰め込んだ 木製樽に由来する独特の香りが大きな特徴の酒であった。
本来、娯楽であるはずの飲酒にまで実用性と量産性を突き詰めようとする帝国と、風味や感覚という娯楽的要素を極限まで突き詰めよう とする皇国。前者は確かに効率的な国家運営であるかもしれないが、後者は娯楽を求められるほどに余裕がある国家運営をしているとも取れ る。
どちらが正解なのかリディアには分からない。ただし、酒については種類が多くあることに越したことはない。
諦めて差し出された黒茶を口に含む。ミユキは相変わらず女衆に可愛がられているのか大いに餌付けされている。トウカはミユキが抱き込まれて村に縛り付け られることを恐れていたが、リディアからみればそれは杞憂であった。女衆からすると、無邪気なミユキを見て出稼ぎでこの場にはいない息子や娘を思い出して いる様にしか見えない。
「それで、女将達はこれから如何する? 他の村に身を寄せるのか?」
「まさかぁ! この村を立て直すに決まってるでしょ。帰ってくる馬鹿息子に故郷がなくなったなんて私は言いたかないよ」
快活に笑う女将に、リディアは無言で頷く。
それは現実的な対応ではない。それがトウカとリディアの一致した見解であり、トウカは間もなく訪れるという厳冬の面から、リディアは再度の匪賊襲来を想定してのことであった。確かに村の復興は不可能ではないが、不確定要素が高く現実的とは言えない。
――だが、トウカは口を挟むなと言った。
恐らくは郷土を護るという精神を尊重したのであろうが、同時に説得を諦めているという側面もある様にリディアは思えた。最早、村の復興は理屈ではないという意志をリディアも感じ取ってはいるが、このまま放置しておくことに対して引け目がある。
「心配してくれなくとも私らは大丈夫さね。今まで困難は何回もあった。それでも私達は乗り越えてきた。それが皇国の民さ」
有史以来、多くの戦火を潜り抜けてきた皇国臣民の矜持は、未だ折れていない。それを示すかのように女衆は泰然自若としていた。
「詮無い事を聞いた。許せ」
リディアにはその姿が眩しく映った。
その二日後、三人は後ろ髪が引かれる想いを感じつつも村を去ることになる。村人たちは最後まで好意的であり、同時に三人を無理に引き止める事はなかった。
「では、お別れだな……いや、残念だ」
「そのように嬉しそうな顔で言われても腹が立つだけなのだが、な」
リディアの張り付いた様な笑みを見て、トウカも心からの笑みを返す。
そんな笑みのまま、握手を交わす。ミユキは横で呆れている。
二人の外套は、再び戦塵に塗れていた。実は朝食の前にリディアが朝の稽古だとトウカを連れ出し、再び激しく刃を交えたのだ。無論、トウカも限りなく全力 を出して戦ったが、リディアは魔人の力を出し惜しみせず、最初から全力で挑んできたのだ。刃を交えたという表現も額面通りに捉えるならば、実際のところは
間違いで、圧倒的な膂力の前に押し切られると分かっている為に避けるより他なく、刃が交わる事など一度もなかった。トウカは只管に回避に徹していただけである。
「二人は破壊神なんですか?」
「いや、それはリディアだけだ」
ミユキと共に、砲爆撃を受けたかのように幾つもの大穴が開いた街道横の雪原を見つめる。
――自分のことながら良く死なずに済んだものだ。
トウカは冷や汗を流す。リディアを撃破する際は、砲兵を文字通り師団規模で揃えなければならないだろう。ここまでの戦闘能力を持った人間が相手であれ ば、個人規模の戦闘ではどうにもならない。しかも、当人は重砲の砲弾程度は大剣で打ち返せると豪語しているので、飽和攻撃が前提となるだろう。
「……やはり一緒には来てくれぬか?」
「しつこいな。粘着質な女は嫌われるぞ」
トウカは乾いた笑みで応じる。起きてから何度も行われている遣り取りにミユキも呆れているが、トウカから言わせればミユキも頑として傍から離れないので似たようなものだ。
リディアは、諦めたように項垂れたが、やがて何かを思い出したかのように笑みを浮かべると、トウカを見据える。
「まぁ、良い……御前が私の思う通りの男であれば再び邂逅するであろう」
透徹した瞳で断言するリディア。未来を見通しているのか、運命を感じているのかは分からないが、その瞳には確信が垣間見えた。
もし、運命が背こうというのであれば襟首を掴んででも振り向かせる瞳。
もし、天命が見放すのであれば刃を振りかざしてでも命令させるという瞳。
もし、神が自身に仇なすというのであれば殺めてでも成し遂げるという瞳。
それは、トウカなどに向けて良い瞳ではない。歴史を紡ぎ、時代を切り開く為に正面だけを見据える為の瞳。個人の……それも本来、この世界に居るべきではない自身に向けて良いものではない。異邦人はそう思った。故にこう答える。
「全力で逃げるが?」
じりじりと距離を取りながらそう答える。
「…………………………」
リディアは呆気に取られる。少なくとも真剣な言葉に、その様に返されると思っていなかったのだろう。女の求めに全力で答えるほどトウカは真っ直ぐな性格をしていない。寧ろ今の自身ではリディアの全力の求めを受け止めきることはできないと思っていた。
思考の停止から脱したリディアが食って掛かろうとするが、トウカは片手で制する。
「正直に言わせて貰うならば、御前の求めを心の何処かで、嬉しいと思っている自分がいることも確かだ」
「ならばッ!」
そこまで言うのであれば、共に来てくれても良いのではないか、そう言いたいことは分かる。
リディアと共に在れば歴史の生き証人になれるかも知れない。或いは、時代を切り開く一端を担える栄誉に浴するかも知れないが、異邦人である自身の存在 は、本来、紡がれるべき歴史を変えてしまうのではないかという不安があった。歴史上、たった一人の存在が大勢を左右した事など良くある出来事でしかない。
動乱の時代であれば尚更である。混沌とした情勢と混乱する国家、混迷する民族は複雑に絡み合い異質なものを生み出す。
圧倒的支持を得て総統となり、祖国の繁栄という名の下に全てを喪った男が居た。
革命を父とし、粛清を母とした書記長は何者をも信じず一人孤独な死を迎えた。
官僚と軍人達になすがままに国家を操られた天皇はその尻拭いに一生を捧げた。
トウカはそんな異質な者達の葬列に名を刻む積心はない。
異質な者は、その多くが碌な死に方をしないが、その点に関しては自己責任であり、自らの理想を実現するために戦い続けたが故の末路だ。だが、その理想に巻き込まれ、礎となって散って逝った者達には迷惑極まりない話に違いはない。結局のところ異質な者達は理想を実現させることなく、幾多の命と膨大な資源、掛け替えのない時間を浪費するだけなのだから。
「俺はきっと御前の理想の御荷物になる」
「フン、理想などない。ただ、戦うだけだ」
詰まらなそうに言うリディアに、トウカは苦笑する。
異邦人の知っている歴史と技術は、この世界に何を齎すだろうか。それはトウカの予てからの懸念だった。傑出した存在は叩かれる。
トウカの有する知識の一部は、この世界よりも遙かに進んだものだ。この世界は魔導文明の側面を持つが故に、科学の発展が極めて遅かった。最近の軍では遊底動作式小銃などが正式採用されているとミユキは口にしていたが、それすらも旧文明の出土品の劣化模倣品に過ぎないとリディアは笑っていた。
あまりにも歪な科学の進歩。例えるならば小銃があるにも関わらず、照明器具……電球は発明されていない。これは、魔力を流せば発光する鉱石を使っているが故だろうが、その様な事象は他にも星の数ほどみられるだろう。
何も科学分野だけではない。政治や戦略、戦術などに関しても同じで、トウカは一族の政戦両略の軍人たれという言葉通りに祖父から政治なども学んでいた。
それらが、この世界で運用される事となった時、どうなるか。
専制政治体制が民主共和制へと移行する際に流れた血の量はあまりにも膨大で、両者の腐敗によって生まれた社会主義は恐ろしいまでの死を世界中の者達に強制した。
トウカは恐れた。
「今の俺は、御前に良い未来を示せる自信がない」
頭が単純であれば、技術を売って一儲けできると単純に驚喜し、軍略を以てして大陸に覇を唱えてみせようとでも思えたかも知れないが、トウカは聡明であり臆病あった。いや、歴史を知るが故に怖れた。
この世界の道徳が極めて稚拙なことは、あの傭兵達の所業を見ても良く分かる。内戦地帯での出来事であれば致し方ない事かも知れないが、ミユキは皇国が大陸の中でも随一の治安の良さを誇っていると口にしていた。
トウカの世界は、この大陸よりも遙かに進んだ道徳を持っていたにも関わらず、半世紀前には終末兵器を駆使して終末戦争寸前という事態に陥った。幸運な事にトウカはその終末兵器の詳しい製造法を知らないが、そのような兵器が存在しているという事実と基幹理論は知っている。
発想は技術を加速させる。人はいつか夢を叶えてしまう生物だ。空を渇望したが故に飛行機が生み出されたように。
だが、その飛行機も戦争では大量に使われ、軍官民に関わらず夥しい流血を強いた。開発者たちが嘆いているのか、歓喜に打ち震えているのかはトウカには分からないが、少なくとも開発者たちが責任を取るべき立場にないことは知っている。
発想や思想の中には絶対に世界に持ち込んではならないモノは数多く存在する。核兵器然り、共産主義然り、燔祭然り……
特に科学とは人の人道主義を以て制御なされねばならないものだ。トウカの元いた世界でも、科学の進歩に人の人道は追い付かなかった。この世界の道徳は極めて稚拙で、そもそも辺境では道徳という意識があるかすら怪しい。
「……私にはトウカの言っていることが良く分からん……」
「申し訳ない。上手くは言えない。だが……きっと俺は貴御前を不幸にするだろうな」
それがトウカに言える限界だった。
リディアは魅力的な女性だ。自らの持ち得る全てを以てして、助けてやりたいと思う程に。
「縁があるならば、また逢うこともあるだろう。その時までには心の整理を付けておこう」
「良い、皆まで言う必要はない。それがトウカの最大限の譲歩だということくらい分かるゆえ……そのように辛い顔をするな。私が悪者のようではないか」
リディアは、初めて見る優しげな笑みを見せる。その笑みが一番、肺腑へ突き刺さるのだが、同時に惹かれているのも事実だった。
相反する感情を抱きつつも、トウカは正面からリディアを見据える。
「再び邂逅できる日を楽しみにしている」
「私もだ。最も私は短気でな。待ちきれずに探しに往くかも知れぬが」
互いに苦笑しながら背を向ける。そうして二人は歩き出す。
「ああ、そうだ」
何かを思い出したようなリディアの声に、トウカは振り向く。視界に、太陽を受け反射する何かを捉えた。思わず迫ってきたそれを片手で受け止める。
「それを持っていろ。それを持っておれば、少なくとも繋がりは消えん」
リディアは要件を済ませた、と外套を翻し、再び背を向ける。
トウカも手中に収まった宝飾装身具を胸衣嚢に仕舞い背を向けた。