第一七話 軍靴の音
「あの若さであれ程の考えができるとは……儂も負けてはおれんな」
レオンディーネは陸軍士官用の軍用大外套を 翻し、雪の舞う大通りを確かな足取りで進んでゆく。時折、その颯爽と歩くその姿に民間人が足を止めるが、それを意識する程にレオンディーネは乙女な生活を
送っていない。既に何百年も城塞都市として時を進めてきたベルゲンでは、軍服姿の者は然して珍しいものではなく、歩いていたとしても歩みを止めてまで見る 程のものではない。故に自身が他者を惹き付けるだけの容姿をしているという事に他ならないのだが、当の本人は気にもしていなかった。
レオンディーネは城塞外へと続く大門を目指していた。
ベルゲンは皇国内でも有数の城塞都市であり、その規模は北部最後の護り神という事もあって極めて巨大であった。
しかし、それでも尚、一個軍、三個軍団の戦力を留め置くことはできない。皇国軍では、軍団とは基本的に三個師団を束ねた戦力であるが、防衛地域の地形や 気候によって、それに対応した特別装備を有した独立混成旅団なども配備されている例も少なくない。そして、これを複数束ねた戦力を軍と呼称する。
九〇〇〇〇を超える武装集団を臣民に不用意に近づけた状態にし続ける事は好ましくないという陸軍上層部の判断である事は疑いない。それは正しい判断であり、目的を失った戦力の道徳低下を看過する事は民衆の軍に対する印象を損なう原因ともなる。
「ふむ……叛乱の鎮圧はまだ先か。このまま待機が続くのは敵わんな」
中央の貴族が北部を蔑ろにし過ぎた結果、起きた今回の叛乱。同情の余地が十分にある以上、安易に武力で鎮圧する事は避けたいのだろう。自領にしか目を向けない中央貴族だが決して無能ではない。
「如何ともし難いのじゃ……」
武断的な対応しか知らないレオンディーネに政治的解決などできはしないし、その機会もない。トウカは、この叛乱をどう捉えているのかとも考えてしまう が、「興味がない。自分で考えろ」と一蹴されるのは目に見えている。鮮やかな解決策を提示してみせるであろうトウカだが、国への愛着や忠誠心など欠片も感 じられない。まず協力などしてはくれない。
そんなトウカを自発的に協力させる算段を付けねばならない。レオンディーネ隷下の装虎兵中隊は経験豊富な先任軍曹に恵まれているが、政治状況までを俯瞰 した上で、作戦方針を提示できる程ではない。元より軍人に政治的な判断を求めようとする自身の姿勢自体が間違っている事を、レオンディーネは十分に承知し ている。
しかし、レオンディーネの立場は単純ではない。大貴族の嫡子であるレオンディーネは装虎兵士官学校の頃より優遇されていたが、卒業後の着任も当初は皇都 近郊で新設された独立装虎兵大隊の新任士官として配置される事となっていた。陸軍総司令部や参謀本部は、明らかに大貴族の末席に身を連ねるレオンディーネ
に配慮していた。戦闘に投入して傷物になった場合、貴族と軍に不和が生じる可能性や、政治問題に発展する可能性を摘み取ろうとした事は疑いない。だが、武 門であるレオンディーネの家系は軍に身内の保身を願う様な軟弱は許されず、軍の指揮系統に介入するなど有り得なかった。それは、例え父であっても例外では ない。
紆余曲折があったものの装虎兵士官学校への入学は父親も承知した事であり、一度、軍に入隊したならば、最優先されるのは国家安全保障に対してであり貴族の義務ではない。
そんな状況であるからこそ、政治的な視野を持ち、それを考慮して方向性を指し示す事のできる参謀的役割に耐え得る人材をレオンディーネは欲した。
彼女は自らが政治に無関係でいられない事を十分に理解していた。
無論、中隊にそれ程の見識を持った人材が配置される事はない。それ程の見識があるならば、師団や軍団、軍集団に配置され、出世街道を歩んでいる事が常である。
故に、トウカの存在は好機とも言える。
少しの時間、会話しただけでも分かる程の軍事的視野に加えて、政治を含めた上で戦略や戦術を立案できる政治的視野は、レオンディーネからすると羨望の的であった。言い様は嫌味と皮肉が多いが、的確であり不足はない。
――だが、容易く靡いてくれる様な男でないじゃろう。
「世の中、上手く行かぬも……」
「中隊長殿! ここに居られましたか!」
脇道から出てきた男が、手を上げてレオンディーネを呼ぶ。
レオンディーネ率いる中隊に所属している軍曹で、レオンディーネの従兵でもあり、長年軍人として過ごしてきた生粋の軍人だ。その実戦で培われた指揮能力は高く、戦野では良き助言者としてレオンディーネは重用している。
「軍曹か……どうした戦か?」
「いえ、取り敢えずは政争ですな」
不満顔の軍曹に、レオンディーネも不満顔で返す。現状に不満を抱いておるのは御主だけではないと存外に匂わせているのだが、軍曹は無精髭の生えた顔を更に歪ませて言葉を続ける。
「大御巫様が国事行為の全権代行を宣言しました。摂政ということでしょう。まぁ、周囲が認めるかは分かりませんが」
「馬鹿な……有り得ん……」
呻くように呟いた言葉は大通りの雑踏に消える。
政教分離の大原則を破った上に、大御巫が摂政を兼任するとなると貴族達が黙っていない。盟友でもある大御巫がそれを理解していないはずもなく、その聡明 さを考えると貴族や軍と正面から事を構える可能性も否定できない。その場合、皇都に血の雨と粛清の嵐が吹き荒れるだろう。最悪、陸軍の一部と憲兵隊が領邦 軍と衝突する事になる。
「その上、帝国軍が侵攻してきた様で、北部は大混乱らしいですなぁ」
「何じゃと!? それでは叛乱どころではなかろうに!」
叛乱軍の展開している北部を通らねば増援をエルライン要塞に送れない。主導権争いなどしている暇はなかった。国内の騒乱だけでなく、国外からの脅威まで軍靴を響かせてやってきたのだ。レオンディーネの耳には周囲の雑踏が亡国への足音にしか聞こえなかった。
「当面は待機のままですが、我らも増援と合流後、エルライン要塞を目指す事になるかも知れやせんねぇ」
「そうか……駐屯地に戻るぞ」
「はっ、了解であります」
レオンディーネは焦燥を胸に大門を抜けた。
「主様、主様! これにしましょう!」
ミユキが銃身に極太の空冷放熱型被筒の付いた軽機関銃を重そうに抱えながら駆け寄ってくる。細身の女性であれば持つのがやっとであろう水冷式軽機関銃を重たそうにしているとはいえ、持ちながら駆け寄ってくるという事は、人間種の女性よりも身体能力は高いのだろう。
「嬢ちゃんは戦争でもする心算かい? 若造もどうにか言ってやったらどうだ? 帝国製の軽機関銃なぞ個人で持つモノじゃなかろうに」
古ぼけた接客机で呆れる店主に、 トウカは曖昧な笑みを浮かべる。戦争を行う気などトウカにもミユキにも当然ながら露程もないが、強力な武装はあって困らない。無論、ミユキが今、目の前で
手にしている様な軽機関銃は重量物に過ぎて旅どころではなくなる。そもそも、水冷式軽機関銃など、機関銃分隊で運用すべきものであり、個人が扱うものでは ない。
「そうだな。小銃とサブマシ……いや、小型の拳銃を二丁欲しい」
可能なら短機関銃も欲しいと 考えたが、帝国製の軽機関銃や店内に所狭しと並べられた小火器を見る限り、その概念すら生まれていない様に見えた。拳銃弾を連射するという発想がなく、速
射や蛮用に耐え得るだけの耐久性を付加できないのかも知れない。無論、拳銃弾が魔術という要素を加えた戦争で、あまり有効な兵器ではないという事もある。 咄嗟戦闘では有効だが、ある程度の戦力の正面衝突などでは魔導障壁によって阻まれるのは疑いない。
「小銃は取り回しと射程、どっちを優先するんだ?」
「射程で頼みます。あと何か……そうだな。逃走に有効な武器はありますか?」
トウカは可能な限り戦闘を避ける考えだった。リディアを助けた際の行動は、思い返せば自身でも赤面する程の合理性の伴わない行動だった。遠目で見ただけ の少女を助ける為に、大きな危険に自らの身を晒すなど正気の沙汰ではないと反省している程である。ミユキと死別するなどあってはならない事なのだ。
トウカは冷徹ではあるが、決して冷酷ではない。ミユキや自身の身に危険と不利益が及ばない限りであれば手を差し伸べる事を厭わない。だが、この殺伐とし た世界で騒動に干渉して危険と不利益が及ばない可能性が低い事を考えれば、やはり冷酷という評価を受けてしまう事も止むを得ないと納得もしていた。平和が 無料であると勘違いしている売国奴共程にトウカは楽観的ではない。
「ほぅ……賢明な判断だな、若造……少し待ってろ」
老人は店の奥へと下がる。気に入られたのか高額な兵器を売り付けられようとしているのかの判断は付かないが、一先ずは軽機関銃を手にしているミユキに向き直る。
「ミユキ……重火器を持っての旅は難しいぞ」
軽機関銃だけであってもかなりの重量であるが、銃弾や予備弾倉などの総重量を考慮すれば、食糧や日常生活品の入った背嚢よりも重い。後方からの補給を前 提とした軍ならば装備する事は可能だが、旅人に扱い切れる代物ではない。一体、誰が買うのか大いに疑問である。商品として展示されているのは商業戦略の不 備以外の何物でもない。
「それよりも短刀はどうだ? 贈らせて貰う」
「い、いいんですか?」
ミユキが手にしていた軽機関銃を受け取りながら微笑む。その重量に危うく顔が引き攣りそうになるが、仔狐の前で顔に出す真似はしない。男としての矜持である以上に見栄があった。トウカは矜持や見栄よりも利益を優先するが、相手がミユキである場合に限っては例外である。
刃物が置かれている商品棚に駆けて往くミユキの揺れる尻尾を眺めながら笑みを零す。
トウカとミユキがこの武器屋に訪れたのは中、長距離に対応できる武器が必要だと考えていた為であり、ミユキの師の行き付けであるという武器屋をミユキに 案内して貰ったという経緯がある。ミユキも一見であったが、師の名を出すと黙って店に招き入れられたのだ。それ程にミユキの師の影響力というものは大きい のだろう。著名な退役軍人や一線を退いた有力傭兵なのかも知れないと、トウカは考える。
「主様、これが良いです!」
一振りの短刀を手にしたミユキが、魅入られたかのようにその鞘から抜き放った刀身を見つめる。
大日連の鍔のない脇差の様な外見をしたそれは、トウカの知る一番長い刀身を持つ大脇差よりも僅かに長く、反りが幾分か浅く感じられた。主兵装にするには 短く、副武装とするには長いそれは、見ている限りは武器としての作製目的が明確ではない。だが、装飾が成されておらず実戦用である事は十分に感じられた。
「長めの脇差ですけど切羽に魔導結晶が埋め込めるようになってます。属性を付加できるんですよ」
刀身と柄の接合部に翡翠の結晶を指したミユキ。その説明によると魔導結晶とは魔力を凝縮させた鉱石や硝子の名称で、魔術的な機構を備えた武装や機械を動 かす為の電池の様なものらしく、皇国内では民草の中でも比較的容易に手に入る。魔物や魔獣が体内で精製しているものや、魔工技師が人工硝子に魔力を充填し
たもの……精度は落ちるが民間でも製造はされている程で、皇国が世界に冠たる魔導大国であることを印象付ける事実であった。
「魔術の属性を付加……積極的に魔術を軍官民が取り入れているのか。我が祖国では考えられないな」
そもそも魔術という事象が存在しなかった。或いは存在しているのかも知れないが、少なくとも一般的ではない。
「主様の国では魔術は珍しいんですか?」
「そうだな……圧倒的な進歩を遂げた化学を魔術と例えるならば、或いは……」
そこでトウカは気付く。魔術とは科学の系統の一つに過ぎないのではないか、と。宇宙艦隊すらも有する科学力を従えた超国家の存在する世界であった事を考えれば、魔導技術もその時代の科学技術の一端が永い時を経て今代でそう呼ばれているだけかも知れない。
――ならば人間種以外の……ミユキもそれらの産物の名残ではないのか?
トウカの世界でも栄養生殖技術や人工授精などの科学の萌芽が存在した点を踏まえれば、この世界の旧文明が人に似た新たな種を作り出す事も可能ではないのか。無論、そうした者達が必要となる状況など碌な状況ではない事は容易に想像できる。
最も技術を進歩させる要素は、戦争なのだから。
「いや、詮無い事です……ミユキ、それを買いましょうか」
「はい、大切にしますッ!」
鞘へと戻した大脇差を嬉しそうに抱き締めるミユキを見て、来て良かったと安心する。女性の贈り物に大脇差というのは如何なものかとも考えだが、ミユキは 喜んでくれたらしい。ミユキの胸の谷間に挟まっている様にも見える大脇差を見て、気恥ずかしさに視線を逸らす。ミユキはトウカの仕草を不思議そうな表情で 見つめている。
「若造……店の中で見せつけるな……不愉快だ」
振り向くと、接客机越しに不機嫌な顔をした店主が小銃を担いで溜息を一つ。見られていたことを察して、ミユキは顔に朱を散らす。トウカはそんなミユキを黙って肩を抱き寄せた。
「済まない。決して不純な心算ではない」
「そう言いつつ抱き寄せて見せつけるな。嫁さんがおらん俺に対する嫌味か、糞ぉ」
心底、悔しいと言わんばかりの表情をする店主。このままでの勢いであれば血涙を流しかねないその姿に、トウカも曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「まぁ、良い……長距離射撃もできる小銃だ。銃身への負荷を考えると銃剣戦闘は避けた方が良いだろうが」
「良いですね。軍の放出品ですか?」
受け取った銃は、銃油で磨き上げられた遊底動作式小銃だった。トウカは小銃を手に取って動作確認を行う。淀みのない手付きを見た店主が小さく感嘆の声を上げるが気付いていない風を装った。聞かれても、祖国の法律で学生の軍事教練が義務付けられているとは言えない。言ってしまうと祖国の事まで言及されてしまう。
箱型弾倉で装弾数は一〇発。トウカの良く知る下から装着する脱着式の箱型弾倉とは違い、弾倉が銃本体に固定され、上面から実包を装填する挿弾子式であった。それ故に遊底動作式小銃でありながら平均よりも多い装弾数なのだろう。
「そいつは陸軍の試験で落選した小銃でなぁ。画期的な機構を取り入れてるんだが、軍人の蛮用には向かんって事で採用試験で落ちたんだ」
「蛮用に耐え得るので?」
軍の制式採用を賭けた採用試験ではかなり厳しい耐久性評価などがなされているので、軍用銃の方が動作性や安全性は高い。それ程の剛性を求める訳ではないが、採用試験に落ちたという言葉は不安にさせるには十分なものだった。
「問題ない。まぁ、上層部が新機軸を盛り込み過ぎたそいつに不信感でもあったんだろ。この国は保守的な人間が多いからな」
「そうですか……ではこれを貰います。実包は100発程お願いします。あと発煙手榴弾も」
「ああ、分かった。それと、御望みの小型の副武装だ」
そう言って接客机に置かれたのは個性的な形状をした輪胴式拳銃だった。銃身の跳ね上がりを抑える為に銃身が輪胴弾倉の下部から延伸し、排莢、装填時に横に振り出される輪胴は上方向に向かって振り出されるという独特の構造を持っていた。
「これは……何というか個性的だな」
トウカの知る伊太利亜製の輪胴式拳銃であるマテバ・オートリボルバーに近い形状であった。つまり照準軸と射線軸が離れており、そのことから着弾誤差が大きくなりがちである点と銃身の跳ね上がりが抑制されているものの、代償に反動は大きくなる欠点も同様なのだろう。
「良いだろう、芸術だ」
「生産性も考慮せねばならない兵器としては致命的。まぁ、芸術は非生産的なものらしいですから……それがまた良い」
「おお、分かるか若造!」
二人は意気投合する。トウカも斬新な兵器というものが嫌いではなかった。正解とされる技術大系の進歩を支える偉大なる失敗。見ているだけでも十分に歴史 を感じることができる代物は心躍るものだった。歴史書を読み漁る事を趣味とするトウカは、歴史を感じさせてくれるモノ達を好ましいと感じてすらいる。
「こいつも軍には採用されなかったんだがな。いい子なんだ! 輪胴式の機構的な信頼性と、命中精度の両立を目指した意欲作だ」
「剛性が低そうですが」
「それは偉大なる芸術品の為の小さな犠牲だ! それにこれは治安部隊向けだからな」
確かに治安部隊であれば銃の剛性よりも操作性や取り回しを取るかも知れない。人質救出や、周囲への被害を最小限に留める為に命中精度が何よりも必要とさ れる場面が治安部隊というものには存在するので、店主の口にする治安部隊向けとしても厳しいのだが、トウカは口にしない。《大日本皇国連邦》東京憲兵隊
も、一丁で高級自動車一台と同等の価格の精密狙撃銃を配備してすらいることを踏まえると、運用の合理性だけでなく企業との癒着や政治的配慮も影響する事は 間違いない。銃の能力だけを論じても採用される事はないのだ。
「うう~、狐には解らない会話です……」
「嬢ちゃんも持つんだぜ?」
同型の輪胴式拳銃をもう一丁さし出して店主が不安げな顔をする。銃に疎い人間に持たせて暴発でもすれば目も当てられないとでも思っているのだろう。トウ カもそう言えばミユキが銃を扱えるかどうかまでは聞いていなかった。皇国軍は志願制であり、《大日本皇国連邦》とは違い国民皆兵を旨とした国是でもない。 銃火器に触れたことがなくともおかしくはない。
「扱えますけど……銃は苦手なんです。魔術と長弓が得意だから……」
「そうかい。まぁ、人間種以外は大抵、内包魔力が大きいからな。銃より射撃魔術を連射してる方が早いってわけか。魔導拳銃もあるが、あれは安定性に欠けるし、重いからな……」
何とかならんものか、と唸る店主。
魔導技術の長所を最大限に生かしているからこその皇国。特に魔導兵器の長所は物理的反動が極めて少なく、大気中や人体の魔力を扱う為に実弾兵器と違い弾 火薬の消費で戦闘継続が不可能になる可能性も低い。欠点としては魔導触媒の消耗や、複雑な機構に依る稼働率の低下が問題であったが、皇国は魔導大国と呼ば
れる所以だけあって高度な魔導技術を保有している。その上、高純度の魔導触媒、鉱石が産出するという好条件もあって他国と比しても欠点の大半を軽減できて いた。
「私は魔導弓が欲しいです……あと主様はファウストが必要だと思います」
「ファウスト?」
首を傾げるトウカ。戯曲を思い浮かべたトウカに、店主が、知らんのか、と言いながら説明してくれる。
ファウスト。
それは皇立魔導技術研究所のヴォルフガング・ファウストによって開発された魔導出力機の名称であった。魔術とは術式に魔力を送り込むことによって発生す る現象であり、巷ではその現象を指して魔術と呼び、魔力を保有している生物や魔導結晶などに内包された魔力を消費する事によって発現する。その過程を最小 限の動作と魔力消費に留めることを目的で作られたのが魔導出力機であるファウストであった。
掌ほどの懐中時計の様な形状をした装置を店主から受け取る。ファウストの蓋を開けると、中には精巧に切り出された(カッティング)された幾つかの魔導結 晶が埋め込まれており、内部の機構である歯車の一部が覗いている。かなり精巧な造りの様だが、この世界の工業規模では量産は実現不可能ということも見て取
れた。魔術を駆使しながらの手作業による一点物なのだろう
「内部の魔導結晶が魔力を供給して、機構が組み合わさり幾つもの術式を内部で形成して魔術を発生させるんだ。魔力が少ない奴でも魔導結晶を取り替えれば何度でも使えるし、魔力のある奴でもファウストを使えば詠唱なんてしなくて済むしな」
「魔術は何種類使えるのですか?」
「あぁ、そうだな……装備する魔導結晶の系統やファウストの種類にもよるが、普通は20種類くらいだな。組み合わせ次第で色々と魔術が使えるぞ。まぁ、職人か魔工師が手作業でしか作れんが」
その言葉に、トウカは感心する。魔術という眉唾物の現象が平然と存在する世界だが、物事を効率化しようという考えも厳然として存在してもいるのだ。職人技であるとは言え、技術の躍進が完全に停滞している訳ではないと暗に示していた。
「では、ファウストを買いましょう。魔術は一番威力のあるもので」
「なら、火の魔導結晶だな。火炎魔術が一番いいだろう」
そう言って差し出された一見すると紅玉の様な紅い輝きを放つ魔導結晶を受け取る。
魔導結晶は属性によってその色を変えるので不思議ではないが、元は硝子に属性を付加した魔力を封入する事によって作られた人工魔導結晶が一般的とされて いた。純度や能力に関して言えば魔獣や魔物が体内で精製した天然魔導結晶に一歩譲るものの、安価で量産性に優れることも相まって一般では人工魔導結晶が主 流となっている。
「合計で幾らですか?」
「3万……いや、負けてやる。そこの狐娘曰く、剣聖の縁だからな。アレの大太刀もそろそろ手入れしてやらんと」
トウカはミユキを促す。少しの小銭を残して他の硬貨は全てミユキが持っているので、大きな買い物に限ってはミユキにお伺いを立てねばならない。これは、 トウカが皇国の世間に明るくないという理由もあるが、それ以上に欲しいものがあるならば自由に買ってくれて構わないとい考えていた。トウカには理解しかね
るが、「女性は色々と物入りなのよ」という幼馴染の言葉が脳裏を過ったので、ならばミユキもという理由が大きい。そして何よりも、ミユキが無駄遣いをしそ うにない良い子だと思えた事もそれを手伝った。
「むっ、高……す……負け…ださい……」
「いや、嬢……しかし……」
「あの帝国の……銃、違法……です……ね……」
「鬼……嬢……。分かっ……なら……」
仔狐と店主が、激しい駆け引きを繰り広げている。
そんな様子を見ながら、異邦人は束の間の平和?を噛み締めた。