第一三話 姫将軍の決意
ランセル伍長は己を乗せて飛んでいる長年の戦友の鳴き声に、微笑む。その笑みに応じるかのように、騎乗している翼龍が何処か愛嬌のある声で鳴く。
大陸に名を轟かす皇国陸軍龍騎兵の一員であるランセルだが、龍騎兵に志願した理由は決して愛国心に駆られてという理由や、子供の頃から龍に憧れていたというものではない。
ランセルは空が好きなのだ。自身の背に翼がないことを嘆いた幼少時代。だが、幼年学校に入って学ぶ内に航空兵という素晴らしい兵科を知ってしまった。そ うして航空兵学校の門を叩き、全課程を終えて仕官したのが三年前。その日から今の今に至るまで、ランセルは空を満喫し続けていた。
「今日は天候が悪い。降下するぞ」
手綱を引き、愛龍を駆ってランセルは降下を始めた。弱めの降雪の為に空は身を切るような寒さをしているので、襟巻き(スカーフ)を口元に当てて、首に掛けていた保護眼鏡を装着する。それでも飛行服の隙間からは冷気が入り込むので寒いが、こればかりはどうしようもない。自身の防寒障壁の練度ではこの程度が限界なのだ。例え戦場の空でも飛び続けられるならば満足だが、この寒さばかりは慣れることができない。
――南部とは言わないが、せめて東部辺りの部隊に異動したいな。
ランセルはそんなことを考える。一年と経過しない内にその夢が不幸にも叶ってしまうことはまた別の話。
ランセルに与えられた任務は哨戒に他ならない。天候が優れない現状では、地上を見渡すことができないので高度を下げるのは当然の措置だった。
「くそっ、視界が悪い」
何時もより幾分か暗い地上を見て、ランセルは舌打ちする。ここはエルライン回廊近傍。帝国側のエルライン回廊に差し掛かる出入り口付近は、龍騎兵と軽騎兵による幾重もの哨戒線が敷かれている。その一端を担っているのがランセルであった。
配属されている部隊は、エルライン要塞の駐屯部隊でもある〈第二五師団『ライエンヴェルク』〉の師団長付航空偵察第三四中隊、第二小隊である。皇国陸軍 歩兵師団の特徴として、長距離航空偵察が可能な一個龍空偵察中隊が師団司令部付の部隊として編成に組み込まれており、これは迅速な偵察を行えるようにする
為の配慮であった。ちなみに現在は、要塞駐留師団なので要塞周辺の偵察が主任務となっている。
「何だ? 何か蠢いて――」
黒々とした地上に目を凝らす。
その時、ランセルは鋭利な気配を感じる。間髪入れずに、両足で愛龍の腹を叩き、手綱を右へと目一杯に引っ張る。長年の友人でもある愛龍はそれに応え、右へと捻り込む様に横転して見せた。体内の血液が急激な機動で左へと集まっていき、一瞬、視界が遠退きそうになるが、軍帯革で固定されていた魔導杖の銃把を握り締めて、安全装置を外す。
「――グッ!」
断続的な銃声が響く。軽快な音。帝国製軽機関銃の発射音に相違なかった。
振り向いた瞬間には、視界の端に移った影に向かって魔導杖の引き金を引く。軽い断続的な衝撃が銃床から肩へと伝わる。
魔導杖は帝国製の軽機関銃と違い、射撃に火薬を使用していないので、銃身がぶれる事がなく、これは空中戦では大きな強みとなるのだが、先手を打たれて背後に付かれた状況では体勢的に攻撃はし難くなる。
「――ッ! 三機編隊か!」
視界に移った三つの龍騎兵の影に、ランセルは不利を悟る。帝国軍の龍騎兵は三騎編隊が基本。皇国は二騎編隊や四騎編隊が基本であるが、今のランセルは哨戒活動中であることから単騎だった。
回避行動に移ったランセル騎の下方を、帝国軍の龍騎兵が高速で過ぎ去る。ランセルはすかさず身体を右に傾け愛龍を半横転(180°)させ、頭上となった位置を通り過ぎようとした二騎目の龍騎兵に掃射を浴びせる。
翼を圧し折られた敵騎が姿勢を崩すが、ランセルは脇目も振らずに急降下に移る。地表に近い高度で飛行すれば少なくとも龍騎兵にとっての死角である下方に潜り込まれることはない。無論、練度の低い者であれば地面や木々に接触して墜落する可能性を孕んでいる。
背後から再び断続的な銃声。三騎目も急降下で追尾してきているのだろう。
騎体を揺らして敵の銃弾を躱しながら、地表へと迫る。その間にも背後からの銃声は途切れない。
帝国軍の軽機関銃は火薬式であるが故に速射性に優れていた。銃本体上部に装着された特徴的な九七連発型の皿形弾倉は上面のみ被筒が装備されていて、下から見ると先端を弾倉中心に向けて装填された銃弾が見える。発砲時には弾倉自体が右回転した。
また、銃身を極太の空冷放熱外装が取り巻いているのが外見上の特徴のひとつで、これは銃身の前方まで覆っており、発射時の瓦斯により周囲の空気も前方に吹き出し、後部から新たな空気が流れ込んで冷却効果を高める為のものである。最も、龍騎兵仕様ではこれは取り外されていた。
ランセルや皇国の龍騎兵が扱う魔導杖は、実体弾ではないので弾道低下率は低いものの速射性は劣る。
「贅沢に撃ちやがって――ッ!」
帝国の物量の一端を見たランセルは不幸に唸るが、それ以上の不運と衝撃が直後にランセルを襲う。
反射的に手綱を引っ張り、騎体を引き起こす。眼下を見渡すと、エルライン回廊に深緑の波が押し寄せていた。
深緑の軍勢――帝国陸軍、南部鎮定軍。
《スヴァルーシ統一帝国》による侵攻が始まったのだ。最後に起きた帝国軍の侵攻はランセルが生まれる前後なので、少なくとも二〇年ぶりの襲来となる。
背後に友軍の龍騎兵がいる為か、エルライン要塞の皇国軍に知られたくない為かは不明だが、対空砲火が撃ち上げられることはない。だが、代わりに南部鎮定軍の上空を旋回している多数の龍騎士達が翼を翻すのが見えた。
ランセルは愛龍を急かし最大速度で離脱をしようとする。幸運な事に皇国の龍は、他国の龍よりも優秀で速度に優れていた。
視界が悪く、ランセルの目には帝国軍の全容は見えない。だが、地面に敷き詰められた絨毯の如き深緑は視界の続く限りに切れ目がなかった。
小型擲弾銃を脚部拳銃嚢から引き抜き、上空へと向けて引き金を引く。内蔵された信号弾が悪天候の空に放たれ、真紅の閃光が輝く。
エルライン回廊の中央部に位置する要塞まではかなりの距離があったが、周囲には多くの友軍龍騎兵が展開しており、中継式に信号弾を放つ為に要塞司令部へと届いてくれるはずだった。案の定、要塞の方角の空からは、幾条もの赤い閃光が輝いている。
任務を果たしたランセルは、長居は無用とばかりに空域からの離脱を始めた。
「敵龍騎兵、遁走!」
双眼鏡を構えた偵察兵の言葉に、兵士達から歓声が上がる。
リディアはそんな兵士達を、指揮装甲車の指揮所の開け放たれている視察口から横目で見やる。
帝国陸軍の深緑の第一種軍装に身を包んでいるものの、口元を尖らせて両腕を組んでいるその姿は年頃の少女の姿であった。無論、信用の於ける者達の前でし か見せない表情であり、指揮装甲車の指揮所にはその資格を十分に持つ者しかいないからこその態度であったが、長年、リディアの参謀を務めている老将は短く 嘆息する。
「小官は姫様をその様に育てた覚えは……」
目尻に白い手巾を当てて悲観に暮れる老将に、指揮所にいる帝国陸軍南部鎮定軍司令部の将官の面々が苦笑する。リディアも渋い顔をしてみせるが、そんな様子を一瞥もせずに老将は口撃を継続する。
「小官は、小官はッ! 陛下に御世話を仰せ付かり、姫様が幼少の頃よりその情操教育に励んでまいりましたが……その成果は実らずこのような有様にッ!」
これでは皇帝陛下に申し訳が立ちませぬッ、と慙愧に堪えないと言わんばかりの顔をして見せる老将に、リディアは顔を引き攣らせる。小言に皇帝陛下の名を出す参謀も大概だが、それを止めない司令部要員も大概良い性格をしていると言えた。
――帝国中から優秀な将校を集めた結果がこの司令部なのか……
リディアはこの大規模な南征に於いて総司令官を務めるに当たり、軍中央に対して幾つかの条件を突き付けた。外征戦力となる南部鎮定軍の増強、魔装騎士、
魔導砲兵、戦車などの打撃戦力の増強に加えて、強く……半ば脅しに近い要請で司令部の人員の再配置を行ったのだ。貴族出の盆暗将校を、外征する司令部に配置し続けることに激怒したリディアの一喝によって決まった司令部要員再配置。能力に不満はないものの人格的には大いに問題のある者ばかりが集まる結果となってしまった。
「ブルガーエフ参謀長……将校に上品も下品もないのだ。残念だったな。私は豪奢な衣裳より勇壮な軍装を好んでいる」
ムスッ、として腕を組むリディアを、名立たる帝国陸軍の将星達が意地の悪い笑みを浮かべて見ている。そこに今回の大戦に対する気負いは微塵も感じられない。これこそリディアの求めた司令部。ただし、将官達の性格を除いて、であるが。
リディアは、帝国という国に遣り切れない思いを抱いていた。腐敗する帝族と軍部。幸いなことに、どちらも最高位に立っている者が思慮深く、優秀である為 に最悪の状況は避けられているが、人間種の寿命は短く、次代の者が優秀であるとは限らない。無論、競争の激しい帝国内で、それ相応の地位を得るには優秀で
あらねばならないので悲観する頬ではないかも知れないが、リディアの目には不安定な体制に映った。寿命の短い人間種を主要な民草とする国家にとって、体制 の変動が激しいことは至上命題に他ならない。
そして、現在は腐敗が激しいが、それに気付く者は余りにも少ない。
皇帝の老いが目立ち始めると同時に継承権争いも再燃を始めた。リディアは継承権などに興味はなく早々に放棄したいと考えていたが、共和国と対峙している 中部戦線での勇戦や、大規模な内乱鎮圧などの功績もあり、帝国陸軍元帥へと上り詰めた。無論、姉であるエカテリーナの強力無比な後押しがなければ、齢一八 にして元帥に上り詰める事はできなかっただろう。
「まぁ、要は兵の練度が低くて叶わんという事だ、うむ」
軍も政争の道具にされ、腐敗が著しい。只でさえ低い練度が更に低下しているのだ。皇国軍の龍騎兵は飛び去って歓声を上げる兵を見れば良く分かる。あの航 空騎の目的は偵察であって戦闘ではない。任務を達成し飛び去っただけなのだが、それすらも気付かない兵士と、練度と龍の性能で劣るとは言え、数では圧倒的 優勢でありながら主力上空への侵入を許した友軍航空騎の体たらくに呆れるしかなかった。
「姫様、話を逸らさないでいただきたい。そんな事はとどうでも宜しい!」
「いや、参謀長が自軍の練度をどうでも良いというのは……」
リディアは怒れる参謀長閣下の攻勢に後退を続ける。
ブルガーエフの機嫌が宜しくない理由は、リディアの皇国への破壊工作であり、その当事者であるリディアとしては下手な言い逃れはできない。皇国への侵攻作戦を立案した白い女帝、エカテリーナの責任であると言い逃れしようものなら、本人に出会った際に筆舌に尽くし難い思いをする事になるだろう。
実際のところ、皇国内での破壊工作に関しては当初、リディアが往く予定ではなかった。だが、帝城内で行われる予定の天帝招聘の儀を妨害するには、幾重も の魔導障壁を貫徹する魔力を放射せねばならず、並みの魔導士では魔力量に於いて絶対的に不足することが予想された。しかし、潜入活動である以上、魔導士の 数を増員することはできず、質を求める以外に道はなかった。
故に、リディアが向かった。エカテリーナもそれを是とした。
本来は、成功の確率を下げてでも魔導士を分散潜入させて行う予定であったが、リディアが成功確率を上げる為に志願したのだ。司令部能力の向上により、司令官不在でも十全に隷下の軍勢を統制できると判断したからでもある。
「いらぬ苦労を背負われて……老けますぞ?」
「作戦上、必要だったのだ。皇国の政治的混乱が、な」
余計な一言を無視して断言する。嘘ではない。現に天帝招聘に失敗した皇国はかなりの政治的混乱を生じている。民にこそ露呈していないものの、貴族や高級将校の狼狽ぶりは他国にも伝わっていた。そして、政治的混乱は軍事的混乱に繋がってゆく。
「別に皇都での破壊工作だけでも十分でしょうに。それならば、魔導士や工兵だけで十分だと思いますが?」
「通常であればな。だが、やはり軍事なのだ」
軍事に振り回される《スヴァルーシ統一帝国》、政治に振り回される《ヴァリスヘイム皇国》。
今回の一件に於いては、武断的な対応を取った帝国に軍配が上がる形となったが、この第一六次エルライン要塞攻略戦での勝敗こそが要点である。天帝招聘の 阻止は皇国軍や貴族内部の動揺を誘発する為であった。その上、皇国北部の叛乱を誘発させる為の策略や、北部の治安の不安定化を謀って傭兵団による破壊活動 まで行わせている。
無論、その全てが、リディアの策ではなかった。
「姉上の策は相変わらず有効であり……慈悲も涙もない」
リディアは、姉である一番姫の横顔を思い出し苦虫を噛み潰したような顔をする。純白の衣裳を身に纏い、扇子で口元を隠して淡く微笑む姉の横顔に、リディアは戦慄した。いや、リディアだけではない。周囲の百戦錬磨の将軍達も恐れ……畏れをその顔に刻んでいた。
帝国が第三帝位継承者、エカテリーナ・グローズヌイ・アトランティス。またの名を、白き女帝。
リディアが士官学校に籍を置いている際に帝国東部で起きた大規模叛乱……エストランテ僭帝大乱の速やかにして無慈悲なる鎮圧もあるが、何よりもその策略と計略を多くの者達は畏れた。
白磁の如き肌に、足元へ届かんばかりの白金の金髪。そして女神とも称される美貌。その白き肌は多くの異性を魅了し、宝冠が
なくとも輝きに満たされた長髪は同性すらも羨む。だが、その表情を見た者は一様に言い知れぬ感情を抱く。皇帝が絶対的権威者であるにも関わらず、その異名 に公然と“女帝”という権威者としての地位を示す言葉が含まれているだけでも十分に異端にして異質なのだ。やむを得ない畏怖と言える。
考え込むリディアを見て、ブルガーエフが笑みを浮かべる。
「考える事は誠に宜しいことです……ですが、今の帝国には必要なのです」
「分かってはいる。だが、納得はできない。武人として弱き者を叩くということは特に、な。例え、それが純軍事的に正しかったとしても、だ」
エカテリーナは策略に於いて成功の確率が上がり、尚且つ見返りが求められるのであれば自らの手を血に汚すことを厭わない。為政者としては正しいかも知れないが、リディアには流血を求めすぎている様にも思えるのだ。
「姉上にその様な策を求めねばならない今の軍部に腹が立っているのだ。そして、それを止める事ができない自身にも腹が立つ。だが、既に始まってしまった以上、軍人としての本分は尽くす心算だ」
姉の思惑通りに進めば、エルライン要塞は陥落するだろう。だが、姉の策略を恐れる者が増えすぎれば、貴族達の風当たりは更に強いものとなる。貴族内での暗殺が横行した時代もあり、世情を鑑みれば再びその様な時代が来ないとも限らない。
「姫はそれで宜しいのです。大いに宜しい。それでこそ我らが姫ですな」
「苦労を掛けるな……」
それは紛れもない本心であった。少々、陰湿な言い回しが多いブルガーエフであるが、リディアの参謀として長年付き添っており、リディアの足りない部分を補ってくれている。普段であれば、皮肉が倍になって帰ってくるので感謝などしないのだが、大戦を控えた今、後悔しない内に口にしておこうと思ったのだ。
「いえいえ、姫様の花嫁衣装を見られるまでは、この老兵、戦野に屍を晒す訳には往きません」
正に好々爺といった表情で頷くブルガーエフの言葉に、将軍達も追従する。思わず顔の引き攣るリディアではあるが、多くの者達とは長い付き合いなので、その程度の権利は持って然るべきかと反論を断念した。少なくとも花嫁衣装を見せねばならない程には苦労を掛けている。
「まぁ、花嫁衣装を誂える前に、婿殿を探さねばなりませんが」
ブルガーエフの言葉に再び将軍達が深く頷く。
「悪かったな! 男が寄り付かんほど戦塵に塗れておって!」
エルライン要塞を落とさんと集められた将星達は、如何なる要塞の攻略よりも難しい難題に唸り声を上げている。失礼を通り越して呆れ返るしかない。
「まぁ、少なくとも私より強い男でなければな」
当分は、その様な気はないと存外に匂わせるよう口にしておく。少なくとも祖国の情勢が落ち着くまでは自らの幸せを願う気などなく、何よりも、帝国内に自身より強い男の存在をリディアは寡聞にして聞かない。
だが、その要求を聞いた将星たちは好き勝手に議論?を始める。
「殿下よりも強い方など……」「カツコフ家の倅は?」「いや、あれはそれ程でも」「しかし、元帥の目に叶う……」「やはり姫様に叶う者など」「このままでは行かず後家に」「やはり教会の嵐神しか」「いやいや、神州国の奥地に住まうという神龍は……」「最早、生物が相手では」
失礼極まりない。帝位継承権を放棄したとは言え、帝族に連なる者であることには変わりない。そんなリディアに対して、こうも失礼な言動を繰り返す将軍達。特に表情が真剣なところが余計に始末に負えない。
何よりも腹が立つ。気になる男はリディアにもいる。
――あの男であれば将軍達の言葉に喜んで迎合しそうだな……いや、もっと性質の悪い毒を吐くか? 初見であれだけ失礼な奴だからな。親しくなると余計に始末におえんだろう。
脳裏を過ぎるのは、黒衣の異邦人。その異邦人は優しげな笑みを浮かべているが、その口から放たれる言葉は彼らと同じく失礼なものであった。
「私とて気になる男くらい居るぞ……」
反射的に口を衝いて出た言葉に、将軍達が一様に驚いた顔をする。
帝国が第十三帝位継承者、リディア・トラヴァルト・スヴァルーシとは武勇を尊ぶ戦姫。愛するは戦野で雄々しく戦う烈士であり決して軟弱者ではない。現に 異邦人は身体能力で圧倒しているはずのリディアを容易くあしらって見せた。顔に似合わない下品な言葉はいただけないが、少なくともリディアという女性と対 等に立てる数少ない者であった。
「姫様に好いている方が居られるとは……この爺や感激です!! ……しかし、皇国で?」
ブルガーエフが「まさか」と唸る。直属の参謀でもあるブルガーエフは、基本的にリディアの傍を離れることはない。ブルガーエフの記憶にないということは、二人が別任務で離れていた皇国での工作時しかなかった。
「祖国に良い男が居ないからといって、敵国にまで漁りに行くのは感心しませんな」
「私は皇国に男を漁りに行ったわけではないぞ、全く……」
辟易としながら立ち上がると、リディアは指揮所の端に設置されている舷梯を 上がる。移動司令部でもある帝国軍の大型指揮装甲車は、車体が極めて大きく、帝国陸軍が採用している主力戦車の無限軌道を多数使用し、その上で海軍で採用
されている小型艦艇用魔導機関と魔導炉心を搭載していた。それらの点を踏まえると、装甲車などと呼称するよりも陸上艦という表現する事が適切である。納入 単価と稼働率に大いに問題がある為、帝国陸軍でも戦野に現れることは極めて稀であった。
リディアは上部に特設されている野戦見張り所へと姿を現す。
全周囲に設置された大型双眼鏡に、中央に鎮座する巨大な魔導探信儀が中空線部を回転させている。海軍艦艇の最上艦橋に瓜二つの在り様は、求められる役割が同様であるからと言えた。
野戦見張り所の縁から進撃する深緑の軍勢を見下ろし、戦姫は溜息を吐く。
――諸将に要らん心配をさせてしまったようだ。
祖国の現状に対する不満と、自らの戦術眼のなさに対する弱音を聞かせてしまった。何よりも、皇国に気になる男が居るという一言は宜しくない。今から攻め滅ぼさんとしている国に気になる男がいるなど指揮官の言葉としては落第だ。
――史上空前の軍勢を率いるということは重責でしかない。
帝国軍が戦野で策を弄することは少ない。兵士全てが技能職である海軍という集団は例外であるが、旧文明の技術の一端を利用した武装と、人海戦術を以て押 し潰す事こそが帝国陸軍の基本戦術に他ならない。それを可能とする為の人的資源と武装を有しているからこそでもあるが、それ以上に帝国が抱えている複数の 事情によるところが大きかった。
帝国の歴史とは戦争の歴史であり、外敵との闘争もあるが、それ以上に獅子身中の虫である者達を数多く内包していたが故の内戦の連続は国力を大きく浪費させ続けていた。
エストランテ侯爵が皇帝を僭称したことで発生した叛乱、エストランテ僭帝大乱などの大きな叛乱だけでなく、今も各地で小規模な叛乱が相次いでいる。帝国 の土地は、その多くが一年を雪で閉ざされており、食糧生産量は辛うじて民を養い得る量でしかない。エルネシア連峰により、皇国側から吹き付ける温かな風が 遮られる為であり、それ故に皇国などの温暖な大地を求めて南進を続けることが国是となった。
そして、帝国は現在、大規模な食糧難に見舞われようとしている。貴族の腐敗による民からの過剰搾取や、叛乱による治安の悪化に加えて、例年と比しての低 気温が止めを刺した。無論、民に蓄えなどあるはずもなく、多くが餓死すると軍部でも危機感を募らせている。人海戦術は国民軍であるからこそ可能な芸当であ
るが、民衆からの軍人が大多数を占める軍の屋台骨は大規模な革命となれば早々に圧し折られかねない。
「ふむ……悩み事ですかな?」
後ろからの声にリディアは黙って頷く。ブルガーエフの声は、振り向かずとも分かることもあるが、今の自分の顔を見られたくないという理由もあった。
悠然とした足音で歩き、リディアの横へと並び立ったブルガーエフ。
「陛下や軍部……いや、姉上でさえも民を見ていない。危機感は民の叛乱に対してだ。不愉快だ。不愉快極まりない」
民が飢えるという悲劇を回避する為の侵攻ではなく、その状況から生ずる帝国各地で発生するであろう大規模な叛乱に対しての危機感。双方を回避する策は同じであるが、意識が違えば結果もまた流転する。そして、その先を見据える術をリディアは持たない。
「今は悩まぬが宜しいでしょう。エルライン要塞が陥落してから大いに悩まれるが宜しい」
「ふん……貴様もか、ブルガーエフ。本当に要塞を落とせば全てが一段落すると思っておる。違うのだ……違うのだ。全てが始まるのだ」
皆があの禍々しい要塞を陥落すれば、当面の問題が解決すると思っている。だが、皇国を自らの目で直接見てきたリディアにはとてもそうは思えない。あの肥沃な大地から生み出される豊富な資源と、その大地に祝福された強大な幾つもの種族。
「何よりもあの男が問題なのだ」
「噂の気になる御方ですかな?」
ブルガーエフの言葉に頷く。戦姫は異邦人と刃を交えた時、その瞳に言い知れぬ感情を抱いた。自らと互角の戦いを演じて見せたその技量に高揚し、歓喜に打ち震えたことは事実。同時に、こうも感じたのだ。
「あの男は、とんでもない化け物だ」
「それは……」
ブルガーエフが絶句する。リディアはその珍しい光景を無視した。リディアは敵味方問わず、化け物と罵られることがある。人が武芸に秀でたところで覆しよ うもない力をその身に宿していれば当然の言葉と、リディアもその言葉を投げ掛ける者達に鷹揚に頷いてやっていた。その程度の言葉で心を沈ませるほど、リ ディアは“人間”ではない。
だが、そのリディアを以てしても異邦人は異質だった。
「何故、そう思ったのかは私にも分からない。だが、あの瞳を見たとき思ったのだ……。強いて、だ。強いて言うなれば、姉上と同じ人種なのだ」
「……それは、末恐ろしいですな」
「軍人でないことだけが救いだ」とリディアは笑う。
旧文明が崩壊する最中にあって、尚も覇者であり続けようとした人間種の遠い子孫である帝国人たちも、また自らの欲により混乱の渦中にあった。その欲を否 定することなく、一つの方向へ誘導することで帝国は築き上げられた砂上の楼閣。あの瞳は帝国の致命的な欠点を見透かし得る。
リディアは、異邦人が自身よりも遙か高みにいる者だと考えていた。魔人の力を使えば戦技に於いては異邦人を圧倒できるだろうが、戦術や戦略に於いては遠 く及ばないだろう。落ち着いた言葉遣いの割に、苛烈な物言いの異邦人だが、性格は思慮深く、その知識は異常な程に先鋭化されていた。
「姫様はその御方を欲しますかな?」
「ああ、無論だとも。初見から私を小娘として扱ったのは彼奴が初めて……だが、心地よい」
異邦人の知識などは帝国の役に立つが、リディアにとってそれはさして重要な事ではなかった。異邦人が自分と同じ目線で言葉を交わしてくれることが何よりも嬉しくあるのだ。
「ならば帝国軍人らしく奪えば宜しい」
ブルガーエフは不敵に嗤う。どの道、衝突し、憎しみ合うのだ。男一人奪ったところで我らに向けられる憎しみの多寡は然して変わりない。ブルガーエフは、そう言いたいのだろう。
占領地域での略奪暴行も、士気の維持のため黙認されているどころか推奨すらされている。全てが敵である以上、帝国にとっては何の痛痒も感じず懐も痛まな い。リディアは、その様な行為を嫌悪しているが、将兵の士気を考えると戒める事はできない。そして、黙認する自分もやはり同じ咎人であると理解していた。
ならば奪おう。同じ憎悪を受けるのならば、せめて望みのモノは己が手に。
「良いぞ。佳いぞ。奪おう。我が往く途は外道。ならば屍山血河の中より、我が悲願を掬い上げるのもまた一興」
一歩下がり、リディアの横から去ったブルガーエフが言葉を紡ぐ。
「それでこそ帝国が“銀輝の戦帝姫”に御座います……御命令を」
リディアが振り向くと、ブルガーエフの背後に何時の間にか現れた諸将たちが、戦意に満ちた表情で命令を待っていた。
「では、戦争だ。諸君、現刻より状況を開始する!!」
リディアの声に応じる諸将。そして猛り、狂信的なまでに咆える眼下の将兵。
二大国の戦争が始まろうとしていた。