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第一二話    ベルゲンと情勢

 

 

 



「ここがベルゲン、か」

 巨大な石造りの城壁を見上げ、トウカは声を上げる。

 一五mを超えるであろう全高の石造防護壁は、幾つもの巨大な砲眼から砲身が突き出ており、単純に石を積み上げただけのものではないという事を証明している。砲兵陣地としての側面も有した永久陣地と都市機能が併存している事を窺わせた。

 石造防護壁の前には、幅と深さのある人工に形成したと思しき川が流れて堀の役割を果たしている。城塞都市の外周を石造防護壁と共に防御効果を期待でき る。ただの内堀と違い流れがあるので、内部に水を供給する目的や、火災を消火する際の放水にも使えることを考えると、発案者は中々に巧妙だと言える。年代 を感じさせるが、決して近代戦に対して無力な都市ではない。特に目を引いたのは、石造防護壁の最上部に展開している武装であった。大仰角の掛けられた銃身 が見えることから、その目的が対空目標……航空戦力への対抗を考慮していることは一目瞭然である。

「対空砲があるということは、航空戦力が少なからず存在するという事になるが……ミユキは空を飛ぶ戦力を知っているか?」

「………………………………………」

 地面に視線を落としたまま、横を歩くミユキ。どうもリディアとの遣り取りが気に入らなかったのか、朝からこの方、一度も口を利いてくれないので、トウカは困り果てていた。トウカとしてはやましいことなど何一つなく、(むし)ろあれ程に毅然(きぜん)()つ紳士的に断ったというのに機嫌を損ねられるとは思わなかった。一層のこと猥褻行為でも働いて、平手打ちでも受けていれば慰めるくらいはしてくれたかも知れないとすら考えてしまう。

「……主様は――」

 何処か必死な表情のミユキに、トウカは歩みを止める。何が原因かは良く分からないが、ミユキが酷く落ち込んでいるということだけは理解できた。ミユキは 優しい娘であることは、出会ってから然して時間の経っていないものの良く知っていた。単にトウカの行いに怒っているだけではなく、自身の心の内にも何か思 うところがあるのかも知れない。

「――やっぱり、リディアさんに付いて行きたかったんですよね」

「そう、かも知れないな……」

 ミユキの言葉に、トウカは思案する。実はトウカも良く分からなかった。この世界の歴史の証人となることが魅力的だったのか、己の戦技と軍略を試す機会が得られるかもしれないからか、或いは……。

 だが、理性は危険を感じて拒んだ。リディアを不幸にしてしまうというのは単なる詭弁であり、一番恐れたのは自身の存在がどれ程の影響を周囲に与えるかという事だった。

 ――歴史の証人? 無双の英雄? 笑えない冗談だ。俺には過大な看板だ、全く……。

「私がいたから、ですか?」

 泣きそうな表情のミユキ。トウカは彼女の内心を察した。自身の存在を心配して、リディアとは行動を共にすることができないとでも思っているのだろう。確 かにミユキは寒村の一件で大きな心傷を受けているかもしれないが、トウカは既にミユキと離れる気などなかった。これ程までに良くしてくれた少女を理由が あったとしても見捨てる程にトウカは非情にはなりたくはない。

「どちらにしても俺はリディアの申し出を断っただろう。それに、ミユキには沢山の勇気を貰った。命と心の恩人の御前は俺にとって大切なヒトだ」

 そっと頭を撫でてやる。

 それはトウカの心からの本音であった。ミユキがいなければ、当面の目標すら立てられなかった。最悪の場合、匪賊達の様に生き抜く為に他者に理不尽を振り翳さなければならなかったかも知れない。そして何よりも、共に在るだけで荒んだ心が癒えてゆくことは一番の救いだった。

 あの寒村で村人たちを犠牲にトウカは生き残ったが、一人であれば冷静であり続けることはできなかっただろう。ミユキには犠牲者達を埋葬するべきではない と言ったが、実際はトウカも如何すべきか悩んでいた。冷静に行動し続けられたのは、ミユキを危険に晒し、心配をかける訳にはいかないという思いがあったか らこそ。

 狐耳を小さく動かして見上げてきたミユキの、目尻に浮かぶ涙を自分の袖で拭ってやる。

「御前には笑顔でいて貰いたいと思うのは傲慢か? さぁ、笑ってくれ。何よりも俺の為に」

 我ながら不器用だと、うんうん、と頷くミユキを見て苦笑する。

 異邦人は不器用な笑みを、仔狐は涙ながらの笑みを浮かべて、ベルゲンへと続く石橋を渡った。







「これは凄いな……」

 トウカは感嘆の声を漏らす。市場には活気が溢れており、寒い季節も関わらず、人々の間には日々を精一杯生きているという表情が満ちていた。無論、都市を 覆う遮温障壁によって都市外より体感温度は随分と高い事も影響しているだろう。彼らの表情は余裕がないとも言えるが、トウカには羨ましいことだと思えた。 余裕を持った人間というものは、往々にして碌な行いをしない。下らない権力闘争に終始し、敵と利益を探し続ける事など考えそうにない人々の横顔は、この皇 国という国の治政が優れたものである事を示している。

 民衆を怠惰に過ごさせる事は許されない。

 石材、或いは練石(ベトン)で重厚に作られた建 造物で、中にはかなりの階数と全長を誇るものすらあった。トウカはそれらを見て、考えていた以上にこの世界が、或いは皇国という国が文明の進んだ国である と理解する。近代に限り無く近いと言えるその光景に、想像していた魔法や奇蹟の満ちた世界ではなく、科学と魔導が併存した世界であると嫌でも実感できた。

 通りの左右に隙間なく立てられた屋台には様々な物品が並んでいる。時折、見た目からは用途が想像できない物や、背徳的で形容し難い物もあったが、見ているだけでも十分に楽しめた。

 隣を歩いていたミユキが、何かを見つけたのか一軒の屋台に駆け寄る。

 過程はどうあれ、泣かせてしまったのだから贈り物の一つや二つしてやるべきかも知れない。今まで近しい女性は幼馴染くらいだった為に女性の扱いには悩む ところがあった。幼馴染は奥床しいものの、言うべきことは明確に述べる一風変わった物言う大和撫子である。明らかにミユキとは違った性格なのであまり参考 にならない。だが、他に思い当たる女性と言えばリディアであるが、何かを渡すくらいなら刃を交えろと斬り掛かってくる事は容易に想像できる。

「主様、ぬしさま~。これ買いましょう!」

 無邪気に微笑むミユキに、何か買ってやろうと決意する。

 屋台の隅に置かれたとあるモノを見て目を輝かせる仔狐が一匹。

「猫じゃあるまいし……」

 ミユキと共に屋台の隅の籠の中で元気よく走り回っているそれに視線を下ろす。


 (ねずみ)だった。


 しかもかなりの大きさの鼠で、素人目に見ても子猫くらいの大きさはしている。トウカは思い出す。狐は基本的に肉食に近い雑食性で、鳥や兎、齧歯類などの小動物を主食にしている事を。北狐(キタキツネ)が雪中に飛び込んで鼠を捕まえるという話も聞くので、ミユキが物欲しそうに鼠を凝視していても不思議な話ではない。

「買うか?」

 幸いなことに寒村で調達した通貨と思しき硬貨が大量にある。文明の進展規模(レベル)を見る限り、紙幣の登場はかなり先だろうと予想していたが、貨幣制度に移行しない明確な理由があるのかも知れないと、トウカは考えていた。

「でもっ、お金の無駄遣いはいけないです!」

 ミユキは節約を訴える。背後に垂れている尻尾が忙しなく左右に動いているのは果たして本能なのか、我慢しているだけなのか。大いに気になるところだった。

 トウカとしても買ってやりたいところだが、ミユキが鼠を食べるところを見たくはなかった。狐の耳と尻尾が付いているとはいえ、可愛い少女が鼠を丸齧りしている食事風景を見たくないと思うのは少女に夢を見る男として当然の願いなのだ。

「尻尾が激しく自己主張しているようだが……」

「こっ、これは、あれです。揺らすことで体勢を維持しているんです!」

 尻尾に転輪羅針儀(ジャイロコンパス)の様な機能があるとは初耳である。ともあれ苦しい言い訳を続けるミユキは微笑ましい。その視線の先に鼠がなければ言うことはないのだが。

「油揚げとかはないのですか?」

「アブラアゲ? 鼠は油で揚げますけど……」

 この世界に油揚げはない様子である。日本では狐の好物が油揚げだと認知されていたので、この世界の狐種に連なる者達も油揚げを好んでいるのではないかと考えたのだが、違っていた様だ。

 ――そう言えば、油揚げの話の由来は宗教の習合に於いての変質が原因だったな。

 日本の稲荷神社に祭られている神は、印度の茶枳尼天(だきにてん)という野干(ジャッカル)の眷属の神なのだが、日本では狐の眷属とされている。実は狐の好物が油揚げと認知されているのも茶枳尼天(だきにてん)に関係があった。印度の茶枳尼天(だきにてん)を奉る僧侶は、栄養価の高い食べ物として重用されていた鼠の揚げ物をお供え物にしていたが、殺生を禁じる仏教に茶枳尼天の存在が取り入れられた際、油揚げで代用した事に由来するのだ。

 ――ただ、ないだけであれば気に入るかも知れない。

 いつか食べさせてやろうと決意する。所詮は油揚げ。硬い豆腐を薄く切り、低温の油で揚げ、さらに高温の油で二度揚げするだけのものである。作れなくはないはずであり、稲荷寿司でも(こしら)えてやれば気に入るかもしれない。

「買ってみよう。これで足りるか?」

 懐から何枚かの硬貨を出し、ミユキの手に握らせる。ミユキが喜ぶなら鼠一匹など安い買い物であるし、通貨の価値を見てみるには良い機会だと考えた。あま り無知なところをミユキに見せては怪しまれるという思いと、年頃の女性に己の無知を知られたくないという年相応の思いがあった。

「ありがとうございますっ!! 後で一緒に食べましょうね!」

「あ、ああ……」

 顔を引き攣らせながらも何とか頷く。確かに鼠を食べる民族も存在するとは聞いているが、勿論、トウカの属する民族は食べない。ミユキは民族以前に種族が 違うので百歩譲って鼠を食べることは仕方ないが、トウカはやはり食べる気にはならなかった。皇国の地方では高蛋白なことも相まって、あらゆる種族に好んで 食べられているが、トウカは大日連が京都の出身であり京懐石に鼠は並ばないのだ。

 胴体を縛られた鼠の縄を手首に括り付け、ぶら下げたミユキの笑顔にトウカは一応の満足をみる。

「今日は、宿でも取ってゆっくりしよう」

 トウカは鼠一匹に支払われた硬貨と、自身の懐の内にある硬貨の種類と枚数を思い出し、宿を取ることは十分に可能だと判断する。まさか宿の一泊よりも鼠一 匹が高価ということはないはずである。もし、それ程に高価ならば屋台の軒先に無造作に籠に入れて置いておくということはないはずであった。

 二人は再び屋台の建ち並ぶ通りを歩き出す。

「なら、私、良い宿を知ってます。そこに行きましょう」

 吊り下げた鼠を揺らしながら、提案するミユキに黙って頷く。

 トウカが初めてやってきたベルゲンで宿を探すのは至難の技と言えた。確かに宿を見つけるだけであれば、周囲の旅人なり街の衛兵にでも聞けばよいが、その 宿が信用できるかは別問題である。悪質な宿を紹介されてぼったくられては目も当てられない。幸か不幸か、然して高価な品は持ち歩いていないが、それでも盗 られれば困る物は多い。

「では、案内を頼む」

 トウカはミユキの勘を信頼していた。旅程の最中にも危険な個所を勘と感覚で避けている節が多分に見られた。寒村でも唯一の生き残りとなれたところを見る と用心深さと気配を察する能力に長けていることは良く分かる。それはミユキ自身の能力もあるだろうが、それ以上に種族的なものではないかとトウカは考えて いた。

 狐とは聡い動物である。夜行性であり、非常に用心深い反面、賢明な動物で好奇心も強い。その為に安全と判断すると大胆な行動を取り始める。ヒトに慣れることで、白昼に旅人に餌を強請(ねだ)る ようになる事もあると聞いていた。そんな遺伝子を持っているであろうミユキならば、人を見る目もあるだろうという確信があった。無論、自身などと共に旅を している事を考えると、その勘とやらも然したるものではないかも知れない。だが、そんな仔狐の信頼を損ねたくはないと考えている自らの心の内を考慮する と、決してそうとは言えないだろう。

 つまるところ、トウカの自身に対する評価とは、その程度のものに過ぎなかった。

 実はトウカの一族は戦国の時代より多くの名将を輩出していた。そして、自らが生を授かった時代には救国の英雄たる祖父がおり、それを慕う在りし日に共に 戦った将星達が屋敷に訪れることは良くある日常の一部でしかなかった。そんな綺羅星の如く光輝く英雄達を見続けたトウカにとって、自身は然したる将才も持 たない若造に過ぎない。民族性からくる奥ゆかしさも手伝って、先祖や祖父を引き合いに出して虎の威を借る狐となる事もなかった。

 本人はそれを矮小な事だと自嘲する。英雄たる祖父ならばそのような悩みなど、下らぬわ、とても笑い飛ばすだろう。

 ――詮無いこと……いや、少なくとも、再び祖父に見えたならば、胸を張れるようにはなっていたいが。

 喧騒渦巻く通りを通り抜け、宿が密集する地区へと足を踏み入れながら、トウカは薄く笑う。

 この世界の中に異邦人たるトウカの役割はない。少なくともトウカ自身はそう考えていた。トウカは、現実的な性格をしているが故に、自らが異世界に来た理 由を見つけられなかった。自身を呼びたかったのであれば、それなりの場所へ呼び出すのが普通である。行き成り雪原に放り出されて、下手をすると死んでいた のだ。人の意志が介在していない可能性とて少なくはない。

 トウカがそう思うのも無理からぬことであった。召喚の最中に妨害が入って、顕現させる位置がずれたことを知る者は五公と政府、軍部の高官程度のもので、 実際に天帝招聘の儀を執り行った神祇府の巫女の大部分は死亡している。天帝招聘の儀を行うこと自体が極秘裏に進められていたこともあり、緘口令を敷く必要 性はなかった。隠蔽せねばならないのは、使われた建造物の一室が倒壊した理由についてくらいのものだろう。

 故に、その国体を揺るがしかねない事実は、現状では市井には流出していない。

「主様~、ここですよ~」

 少し進んだところでミユキが手を振っていた。縄で手首に繋がれた鼠も宙を舞い、堪らないとばかりに必死に手足を動かしている。ミユキの無邪気な笑顔と、鼠の必死の抵抗に落差を感じてトウカも思わず笑みを零す。

 トウカはミユキの下へ歩み寄る。ミユキがいるとトウカの心は思考という名の深淵に沈み込むこともない。人は一人でいると碌な事を考えない。

 元来、人の人生には楽観できる要素よりも、悲観せざるを得ない要素のほうが遥かに多いのだ。特に大和民族は物事を悲観的に見てしまうことが多い。トウカ などはその最たる例であり、起き得る最悪の可能性というものを考えてしまう。大勢を率いるのであれば、その性格は有用であるが、小勢を率いるのには全く適 しておらん、とまで祖父に言われたほどだ。

「御前には癒されてばかりでだな」

「???」

 首を傾げるミユキの頭を撫でながらも、トウカは眼前の建造物へ視線を移す。

 一軒の建物の前で止まっているところを見ると、ここが目的の宿だろう。

 二人は宿の扉を開けた。









「で、少年は北部から来たわけか? ウァッハッハ、そりゃ大変だったな!」

 老練の下士官という雰囲気を持つ中年兵士が酒椀(コップ)を手に上機嫌だった。

 ばしばしと叩かれる背中の痛みに顔を顰めつつも、トウカは酒椀を掲げて応じてみせる。このような雰囲気は嫌いではない。むしろ好んでいた。祖父も基本的に上品という言葉とはとは掛け離れており、庶民的に笑い合いながらの食事を好んでいたのだ。

「それで、軍曹殿はその後、如何なされたんですか?」

「そんなもんは決まってる。銃剣突撃だ!」

 酒場の各所で歓声が上がる。

 酒場で情報収集というのは些か古典的ではあるが、文明規模の一部が近代直前のこの世界では十分に有効だと分かった。こうして会話しているだけでも多くの 情報が得られる。特にこの軍曹は酒が入っていると陽気な性格になるらしく、聞いてもいないのに自らの戦歴を語ってくれた。

 軍曹は、一昔前までは北部戦線……対帝国戦線で戦い続けていたらしく、帝国陸軍とは度重なる小競り合いを繰り広げていたらしい。エルライン要塞に浸透偵察などを繰り返していた帝国軍胸甲騎兵との激戦を誇らしく語っていた。

 それを横目で見ながらトウカは情報を整理する。

 この国……皇国の現状はあまり宜しくはない。指導者不在が長引き、北の帝国、東の神州国からの圧力を受けており、日増しにその圧力も増大している。地図 を見る限りでは神州国は海洋国家で、噂では大した陸上戦力も持ってはいない。話によると領海侵犯が相次いでいるらしいが、本格的な軍事侵攻となれば最終的 には陸戦になる。よって海洋国家である神州国は不利と見られているとの事である。

 問題は帝国だろう。天然の要害たるエルネシア連峰によって侵攻路が著しく制限されているが、もう一方の侵攻路である南北エスタンジア内の勢力争いは均衡 が崩れつつある。彼我の戦力差もかなりのものらしく、野戦での正面切った会戦では人海戦術の前に圧倒されてしまうらしい。それ故に主要な侵攻路であるエル ライン回廊に巨大な要塞を築き上げ、防衛と主とした戦備を整えているのだろう。南北エスタンジア国境には機動力に優れる戦力を迅速に増派できる態勢が整え られているとの事であった。

「要塞戦だとある程度の劣勢は補えますからね」

「おっ、少年は分かってるな。まぁ、追撃戦になると騎兵に航空騎に魔装騎士、持てる機動戦力全てを投入しての追撃戦もあって壮観だぞ」

 軍曹の言葉に多くの軍人達が頷く。

 この場に居る者の多くは軍人らしく、大半が軍装を身に纏っている。この宿は酒場としての側面も持っており、夜にはこうして酔漢達を大量生産しているらしい。

 軍曹の空になった酒椀に新たな酒を注ぎつつ、聞きたいことは聞き出しておく。

 ちなみにこの場で飲まれている酒は白麦酒(ヴァイツェン)と呼ばれるもので、味も見た目も飲んでみた限りは完全に麦酒(ビール)だった。だが、麦酒(ビール)に比べると芳醇な香りで、苦味も少なく飲みやすい。大日連の様に若者の酒離れとも無縁だろう。

 皇国の法律上では一五歳から大人と認められるが、それ以前に飲酒を年齢によって規制するという文言自体が法律書に記されていなかった。寒冷地帯では体温 を保つために子供に酒を飲ませるという行為が常態化していたこと以上に、自己責任の範疇と考えられている為である。この辺りの考え方は中世らしいと言え た。国家がそこまで配慮すれば民草は育たない。民草にそれ相応の試練を与え、対価を支払わせる事も必要なのかも知れない。否、そもそも多種族多民族国家で ある皇国では、年齢確認など不可能に近いのかも知れないが。

「では、近郊に展開している軍はエルライン要塞への増援ですか?」

「いや、なんでも北部の貴族が連体して叛乱を起こしたらしい。この国難の時にどうかしてるぜ」

 軍曹が、けしからん!と叫ぶ。

 国難と言っている割には周囲からの追従の野次は軽いものばかりであった。国家に対する帰属意識が少ないのかも知れない。文明規模が中世程度であれば中央 集権の権威主義、王権主義が政治の基本姿勢になっているはずである。民衆が政治に関わらないからこそ関心も薄いのだろう。

 ――しかし、叛乱か……いつの世も権力闘争は存在するという事か。

 悪いとは言わない。重要なのは、その権力闘争が国家繁栄の為に行われているのかという点である。個人の栄達のみの為に行われているとなれば悲惨な結末を 迎える事は疑いない。無論、トウカには関係のないことだが、皇国が末期的な状況で国家としての寿命を迎えているのならば、《瑞穂朝豊葦原神州国》なり《ト ルキア部族連邦》なり《ローラン共和国》なりに移動する必要がある。

「叛乱ですか……大変ですね」

「そうか? いや、確かにそうだな。グアッハッハ!」

 緊張感がないというよりも、本当に大変だと理解していないような口ぶりであった。

 《皇国は陸海軍問わず、高水準の教育を施していると聞いていた。士官は三年間の教育があり、通常の軍事教練や戦術、戦略だけでなく、舞踏や作法(マナー)まで教えているとの事である。頻繁に権力者との舞踏会や出会いがあるという事だろう。軍人と権力者の境界線が曖昧なのかも知れず、あまり好意を抱けない状態であった。

 ちなみに帝国は士官でさえも半年程度の速成教育で済ませてしまうらしく、軍の戦力が膨大であるものの戦争による戦死者も膨大であった。無論、帝国にも優 秀な将校は多数いる。それは、軍事的な能力もさることながら、立場が上がるにつれて高度に政治的判断が求められるからだろう。こと帝国に限っては皇国より も軍人と権力者の癒着が激しく、軍人が権力者であり、権力者が軍人であると言える程であった。

「では、何時、討伐に?」

 白麦酒(ヴァイツェン)を口に含み、トウカは尋ねる。近郊に張られた天幕を見ている限り、かなり長期間滞在している雰囲気の部隊があった。軍人も人間であるので、同じ場所に滞在し続ければ生活の跡を見ることはできる。設営状況もかなりの時間を費やさねば不可能な頬になっていた。

「さぁ? それは分からんなぁ。 なにせ、これ程に大規模な叛乱など開闢以来の珍事だからなぁ」

「そうだぜ、坊主。叛乱を起こすとは……とんだ怪奇者だ」

「叛乱なぞするくらいならば、俺らに金でも寄越して欲しいもんだ」

 口々に不満を漏らす軍人達。率直な意見を聞けるのは良いことだ。生来の気質なのか、酒精に依るところなのかは極めて判断し難いが、どちらにせよ情報収集はしやすい。

 ――大規模な叛乱が建国以来初めて? 貴族の道徳(モラル)の水準が高かったからか? いやそれにしても叛乱が初めてなんて事は……

 権威主義国であるにも関わらず、今まで大規模な叛乱とは無縁だったというのは不自然に過ぎた。内容が内容なので迂闊には聞けない。後で調べるべきだろう。隠蔽することに長けた集団がいるのかも知れない。

「では、明日にでも出撃ですか? それなら飲み過ぎはいけない」

「出撃? 俺らがこの地にやってきて一週間。叛乱軍など容易く捻り潰せる戦力がある癖にお偉いさんが揉めていて出撃命令が下らんのだ。けしからん!」

「「「「「「「「けしからん!」」」」」」」」

 酒場の軍人達が合唱する。トウカは苦笑いするしかない。聞いている限り、国が傾いているのは確かなようだが、あまり危機感が感じられない。貴族の揉め事に自分達も巻き込まれる程度にしか思っていないのだろう。

「確かに、けしからん話ですね」

 トウカの空いた酒椀へと白麦酒(ヴァイツェン)を注いでくれた軍曹に応じる。正直なところ飲んだくれている兵士のほうが大いにけしからんと思うのだが口には出さない。軍とは理不尽なところなのだ。息抜きをしたくなる事も無理からぬことである。

 ――俺も息抜きをするべきかも知れない……

 酒盃を掲げた軍曹に応じながら、自らも兵士達の会話に加わる。

「そういえば、あの狐っ子はどうした!? それなりの仲なんだろう?」

 馴れ馴れしく肩を組んでくる軍曹が野性味に溢れた笑みを浮かべてくる。

 聞くところによると先任軍曹らしく、見た目もそれに納得できるだけのものがあった。

 陸軍に於いて先任と付く階級は、部隊の下士官の最上級者を意味しており、部隊での勤務歴も入隊以来の軍歴も最も古いことが通常である。部隊の最古参であ る先任は、部隊長の補佐として特別な存在感を持つ存在であった。そして何よりも、新米士官や兵士達にとって下士官の先任とは精神的な支えでもあるのだ。

「俺も若い頃は恋の先任軍曹とだな――」

「――結局、今の今まで結婚できんかったくせに言いよるわ」

 すかさず野次が飛ぶ。 

 各々が、それぞれ近い者と話し始める。

 再び喧騒に包まれるなか、トウカは今後の事を考えた。特にミユキとの関係は目下のところ一番の懸念である。トウカとしては、ミユキが望む事は叶う限り叶 えてやりたいと思っていたが、自身の身勝手で振り回すことはできないとも考えていた。この世界では根無し草の上に、収入があるわけでもないトウカには女性 とその様な関係になる心算はない。

 トウカの中では既に答えは決まっていた。

「良い娘じゃないか? 胸とか胸とか。ええ、何が不満なんだ?」

 軍曹とトウカはカウンター席の端で視線を交わす。大きな空の御碗二つを胸板に当てて、主様~と言っているが、その辺りは務めて無視する。胸よりも尻尾が重要である事を理解していない。

「そんな気はなのですが、ね」

 軍曹は理解に苦しむと言わんばかりの様な表情をする。実際に理解に苦しんでいるのだろう。動機は極めて不純だが。

「俺は食い扶持を稼ぐ当てもない。それに……」

 機会があれば、いずれ帰るのだ。ミユキを連れて帰ろうとも考えたが、それはこの世界を捨てろと言っているに等しい。

 ――俺は原因の分からないままこの世界へと飛ばされたからこそ割り切っている。だが……

 ミユキを連れて行くということは、過去の全てを捨てろと言っていることに他ならない。

 なんという傲慢。
 なんという身勝手。
 なんという卑劣。

 己でなければ斬り殺してやりたいとすら思う。

 つまらぬ選択はさせたくはない。

 トウカか過去か。

 トウカを選べば、郷愁の思いを胸に涙を流すだろう。
 過去を選べば、トウカがいないことに涙を流すだろう。

 ミユキはそんな少女だ。そんな優しさに救われたこともあるが、この問題に関していえばその優しさは重荷になってしまう。どちらも一生ものの傷になる。

「そうですね……軍曹は軍人ですから死を身近に感じた事があるはずです。自分は何時か死んでしまうかも知れない。それでも尚、愛してくれた女性の想いに応えられますか?」

 幸せにしてやるにはヒトの命はあまりにも脆すぎるのではないか。こんな惰弱な身体を与えた神を恨みたいとすら考えてしまう。

 トウカが死ねばミユキは悲しむだろう。深い仲になればなる程その思いは強くなるはず。軍曹に対する問いかけは、それと同義であった。命懸けで敵と刃を交 える軍人にあまりにも不敬な問いかけであるが、このあまりにも人の命が軽い戦乱の世界では、同時に至上命題でもあるはずだ。

「……そうだな。難しい問題だ。だが――」

 軍曹は顔を歪めて考える仕草になる。先任軍曹ということは、かなり長い軍歴を有しているということに他ならない。軍曹が今まで最愛の人を作らなかったの は、そんな諦観があったからのではないかとトウカは考えていた。そして、この世界から去るであろうトウカも、ある種の戦死が決まっているに等しい存在なの だ。

 つまるところ、二人は女性を幸せにできる可能性が限りなく低い男という点では同じなのだ。

「貴様は勘違いしている……そんな考えは、いや、そんな考えこそが傲慢だ」

「なぜですか? 真に愛するならば手を引くのも一つの手段だと思います」

 軍曹は唸る。言葉を纏める事に苦労しているようだ。丁度、良い言葉が見つからないのだろう。

「……幸せってのはな……結局のところ個人の主観だ」

「それは……そうですが……」

 トウカはその言葉の先を察した。ミユキが幸せかどうか決めるのはミユキ自身であってトウカではない、そう言いたいのだろう。確かにそれは紛れもない事実 だ。だが、それでも尚、納得できないのだ。両親を失ったトウカは、一番居て欲しい時にその人が隣に居てくれない辛さを知っている心算だった。

 軍曹は笑う。

「まぁ、貴様は若いんだ。まだ、そんなことは考えなくても良いんだよ。想いのままに相手を求めろ。不安なら押し倒してしまえ。大抵の悩みは、男女の仲になれば数ある不安の一つになり下がるもんだ」

 軍曹の言葉にはどこか確信の響きが感じられた。過去にこのような悩みに直面したことがあるのかも知れない。とするとトウカは軍曹が過去に思い悩んだ道を歩いているということになる。

「不確定要素ばかりですね」

 今までの人生で降りかかってきた懸案事項を、叶う限り理詰めで解決してきたトウカには、危険な行為にしか思えなかった。

「すぐに相手の身体を求めるのは……」

 そもそも恥ずかしい。口説き文句などトウカは知らない。

「身体の繋がりを求めるのは悪いことじゃないぞ。幾ら言葉を重ねても、人はやはり形に残る繋がりを求める。結局は何かしらの形に残る証が欲しいんだ。口先だけの愛より、行動で示す愛がより信用できるものさ」

「そんなものですか……」

「そんなもんだ。と、言うかだな、貴様は若いんだ。いきなり愛なんて言葉を持ち出すな。まずは恋から始めろ」

 軍曹が白麦酒(ヴァイツェン)を一気に煽り、酒椀を机に叩き付ける。

「まぁ、好きに進むがいい”性”少年! 意外と道は最初から一つしかないかも知れんしな!」

 快活な笑い声にトウカもつられて笑みを零す。

 少し気が軽くなった気がした異邦人だった。

 

 

 

 

 

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