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第一八話    狐と虎

 







「さて、ミユキは何が欲しい? 鼠以外だが」

 布に包まれた小銃を背負うトウカは、同じく魔導弓を背負うミユキに問う。

 先程、武器を買っている際に、ミユキに持たせていた金銭を見たトウカは(ほとん)ど使われていない事に気付いた。嬉しくもあるが、同時に男としては遠慮されている様で歯痒くもある。それならば、この場で何か買い与えようと思い立ったのだが、ミユキが欲するモノなど鼠しか知らないトウカはどうしたものかと思い悩む。

「私は主様と一緒に居られたら十分ですっ! えへへ……」

 右腕に抱き付いてきたミユキの胸の感触に、血液の巡りが早くなる事を感じつつも、どうしたものかと困り果てる。確かにミユキの言葉は嬉しいものだが、どこか遠慮されている様で、その事が嬉しくもあり悲しかった。

「遠慮する必要はないぞ。それに恩を返させてくれないのは卑怯だ」

 トウカは唇を尖らせて見せる。

 ミユキがいなければ、あの寒村からの脱出は極めて困難であった事は想像に難くない。残虐非道の傭兵か、底冷えする様な寒さか、可能性は低いが冬眠していない魔獣、魔物に襲われるか……死因は違えども高確率で野垂れ死んでいただろう。

 それでも構わなかった。ミユキと出会わなければ。

 もし、あの寒村で祖国への回帰が叶わぬ夢だと知っていれば、復讐に身を委ね、外道へと身を堕としただろう。自身にも理解できる程に心の均衡は危うかった。

 トウカにとって、ミユキの存在は安定を齎す存在に他ならない。これを依存と言うならばそうなのだろう。運命などという詭弁を用いずとも、トウカはその事 象に対して鷹揚に頷いてやる心算ですらある。少なくとも依存という正常とは言い難い言葉を肯定する程には、トウカはミユキを想っていた。

 ――何よりも、何時も尻尾をモフモフさせて貰っている。

 そんな邪な思いもトウカの胸中にはあったが、ミユキの存在の大きさに何ら影響するものではない。

「さぁ、ミユキ。何が欲しい?」

 トウカは、大通りに並ぶ露天を指し示す。

 大通りの露天には食料品だけでなく、衣裳や装飾品も並んでおり、果ては魔獣の頭部など怪しげなものも売られている。魔術的な商品を売る露店も存在し、自身の世界ではない事を嫌でも示していた。

「じゃぁ、主様の愛が欲しいです」

「品切れ中だな」

「じ、じゃぁ、恋が……」

「臨時休業中ですが?」

 ミユキの要求は極めて高度なものだった。知識としては知っているが実体験はしていない。依存している事は認めるが、それが恋愛感情と等号(イコール)で繋がるかと問われれば、「好き……だと思う」としか答えられなかった。書物での知識とは整合が取れない感情と依存に近い感情。恋や愛かも知れない。だが、ともすれば敬愛や忠誠の類ではないかとも思えてしまう。

「…………………………………………………………」
「…………………………………………………………」

 無言で見つめ合う二人。立ったまま見つめ合う二人の姿は雑踏の中では然して珍しいものではなく、足を止めてまで注視する者はいない。

 ミユキの恨めしい視線に、トウカは顔を逸らすしかない。自身が奥手であるとは考えていないが、安易に手を出す事は憚られた。恩人である以上に、ミユキはトウカにとってあらゆる意味で特別なのだ。

「……そう言えば、髪留めが欲しいと思っていたんです。今まで使っていた髪留めの紐が切れちゃって……選んでください」

 ミユキの視線が、近くの装飾を陳列している露天に向く。互いに未だ不明瞭な関係を、取り敢えず維持する為、二人は話題を変えた。

「そうですね……喜んで選ばせていただきましょう」

「はいっ! お願いしますねっ!」

 天真爛漫という言葉が当て嵌まるかの様な笑みのミユキは、見ているだけで十分に温かくなるものであった。

 かつて、同じ様にトウカに髪留めを求めた幼馴染がいた。それは奪われた未来の一つ。幼馴染はトウカにとって多くの意味を持つ存在であったが、恋人や最愛の人とは少し違っていた。強いて言うなれば悪友とでも言うべき存在であろうか。

 胸に痛みが奔るが、最早トウカの短い腕では取り戻す事の敵わない未来である。

「ほぅ、仲が宜しい事で重畳じゃな」

「背後に立つのは止めて貰えるか? レオンディーネ」

 顔を顰めて背後を見据える。そこには銀髪を靡かせた獅子姫の姿があった。凛とした容姿の中にも無邪気さが潜んだ表情と、燦然と輝く黄金の瞳が特徴的なレオンディーネは、背後に兵士二人を引き連れている事もあり大通りの中でも異彩を放っている。

「まぁ、良い手はないか、のぅ? ……ああ、御主らは帰って良いぞ」

 背後の兵士たちに振り向く事もなく告げるレオンディーネ。だが、その掌に現れた金貨が親指に弾かれ、一人の兵士の手中へと収まる。二人の兵士は嬉しそう な顔をしてレオンディーネの背に敬礼すると、そそくさと人混みの中へと消えてゆく。レオンディーネなりの部下への配慮なのだろうが、兵士二人が消えて行っ た方角には色町が広がっている事は知らないだろう。

 トウカの考えている事など気にも留めていないであろうレオンディーネは、装飾品の並ぶ露店の前で尻尾を揺らしているミユキを見て意地の悪い笑みを浮かべる。

「あの狐娘には随分と優しいではないか? (わし)に対する態度とはえらい違いじゃな」

 嫌味であるものの何処か快活な表情で微笑むレオンディーネ。男性的な笑みではあるが、その立ち振る舞いがまた似合っているので始末に負えない。同性に熱烈に好かれるであろう性格とも言えた。

「少なくとも軍事教育に関しては妥協できない。特に無料となると」

 実は善意で教えているわけではない。トウカの読みでは、レオンディーネという軍人は良い将帥になる。

 将帥たる資質とは、実はそう多くもなく難しいものでもない。端的に言うなれば、緊急時の際の即応性と幾多の将兵を統べる魅力。

 極論すれば作戦や戦況の見極め自体は参謀に任せればよく、自らに不足している知識や経験は、参謀や副将を配すれば十分に補えるので必須とは言えない。だ が、緊急時や想定外の状況に置かれた際だけでなく、通常戦闘でも求められる決断は最終的に将帥が下さねばならないものである。他者を死地へと赴かせるだけ の“威”を必要とするのもまた将帥であらねばならない。兵士に笑って死地に赴かせる事のできる才能、それこそが将帥に最も必要とされる資質に他ならないの だ。少なくとも彼女にはある種の威がある。

「後は良い参謀と戦機に恵まれる事、か」

 そして、それを弁えている事も重要であった。

 無論、今のレオンディーネはそれを弁えているとは言い難い。トウカに戦術を学ぶよりも、優秀な参謀資質を持つ者の歓心を買う事に励んだ方が栄達は早い。 そう振る舞えない理由は高貴な連なりにあるか、武門の末席に連なるが故だろうが、トウカからしてみれば無意味な配慮であり誇りでしかなかった。それらを以 て自らの堕落を防ぐ事は良いが、それらがヒトの意志に干渉する事は許されない。

 トウカの知る誇りとは、外道に甘んじて尚も御国の為に戦う烈士の抱く意志を指す。上に立つ者は自らの手を血で穢し、外道の統率以てして迫りくる理不尽に応ぜねばならない。それらに関してレオンディーネは許容できないであろうし、また決断する事もできないだろう。

「若いからこそ戦闘に夢見るのも止む無し、か」

「御主の方が若いじゃろう……。それに儂は武勇を尊ぶ事を良しとしておるだけじゃ」

 耳聡く聞き咎めたレオンディーネの言葉に、トウカは苦笑する。その様に考えているからこそ若いのだ、とは言わない。何も若さが悪という訳ではなく、次代を動かすには若い力も不可欠。無論、歳を経る毎に老獪さも身に着けるだろう。

「どうだ? 若者らしく買い物でも。まぁ、腐っても男だ。奢るぞ」

「そこは素直に奢らせて下さいと言うじゃろう普通は。全く……御主は皮肉ばかりじゃな。あの狐娘に対しては紳士の癖に」

「ミユキに対してだけは真摯に接する様にしている」

「その真摯さを儂には向けてくれんのか?」

 そう言ってトウカの腕を抱きすくめるレオンディーネ。その金色の瞳は悪戯心に揺れている。年上である以上、レオンディーネの顔を立ててやろうと考えていたが、性別を楯に悪戯を仕掛けてくるのならばそれ相応の覚悟をして貰わねばならない。

 トウカは卑しく嗤う。ミユキには見せられない異邦人の一面。

「構わない。なら、夜に可愛がってやる方向で」

 レオンディーネの腰に手を回して、その身体を抱き寄せる。無論、ミユキが装飾品に気を取られているからこその行動であり、男の矜持を満たす為の意地でもあった。レオンディーネは自らの戦闘能力と地位故に慢心しているのだ。付け入る隙は十分にあるとトウカは判断した。

「満足させてくれるのだろう? なぁ、レオンディーネ」

 ミユキよりも更に大きな胸にあからさまな好色の視線を向ける。実際にそのような気にさせるほどにレオンディーネの身体は女性らしく、色欲に満ちた表情をして見せることは容易かった。

「むぅ……ま、待て……儂は、そんな……」

「ああ、待つぞ。夜までな」

 顔を朱に染めるレオンディーネを見てトウカの嗜虐心がそそられる。横目でミユキが装飾品に気を取られていることを確認し、自らの欲望を満たす為に動き出す。背後からレオンディーネを一層強く抱きすくめて嗤う。

「悪くない身体だ。授業料を身体で払って貰うのも悪くない」

 レオンディーネを抱き寄せた手がその身体を這う。その感触に身体を竦ませた気配を感じたトウカは満足する。

「そ、それが御主の本性というわ、けかの……ッ!」

 軍服の開襟部から内へと入り込もうとしたトウカの右手を掴み、腰に回されていた左手を払い退け、レオンディーネが距離を取る。顔にはあからさまな羞恥の感情が刻まれており、トウカは一矢報いる事ができたと笑みを浮かべる。

「男を揶揄(からか)うとこうなる。まぁ、気を付ける事だ」両手を上げ、降参、と笑いながら注意して見せる。

「ッ! ……御主は、陰湿じゃな……」

 トウカの意図を察したレオンディーネの顔が更に赤く染まる。衆人環視の中、軍人が無抵抗の民間人を殴る訳にはいかない為にレオンディーネの拳が震えていた。当然だがレオンディーネの愚直な性格を知っているからこその振る舞いに他ならない。

「何時も自分が優勢と思うのは危険極まりない。窮鼠猫を噛むとも言うが、相手の擬態や策略という可能性も考慮してこその指揮官と言える…………相手の戦力を見誤ると痛い目を見るのは戦場ばかりではないという事だ……覚えておけ、レオンディーネ」

 その言葉にレオンディーネは頻りに頷きなからも、複雑な表情をする獅子姫。

 無数の感情が入り混じった表情にトウカは笑う。これほどまでに感情豊かな軍人はそうはいない。感情が揺れれば判断もまた揺れる。それは軍人にとって好ま しい事ではない。戦場で最も不確定な要素とは“ヒト”に他ならない。地形や気象も重要だが、やはり戦争は“ヒト”によって行われる大規模な消費活動なの だ。

 だが、それは決して悪い事ばかりではないと思わせるだけの“ナニカ”がレオンディーネにはあった。

 ――まぁ、怒らせたままも宜しくない。

 次回の図書館の講義で出会った際に拳骨を受けることは回避したい。虎族に連なる者だけあってその膂力はかのリディアに匹敵する。

「どうだ? 貴女も戦野ではその髪は邪魔だろう、何か髪留めを俺に買わせて貰えるか?」

 右手を自身の胸に当て、誠意を見せる。

 獅子姫はその取引に黙って応じた。










「なぁ、狐っ娘。これはどうだ?」

「駄目ですよぉ。そんなに武骨な物じゃ買って貰う人に悪いですよ」

「むっ、そんなものか……どうも、その手の事には疎くてな」

 弱りきった顔をする獅子姫に仔狐が寄り添う姿は微笑ましい。年頃の少女達が騒いでいる様にしか見えない。何処の世界であっても少女たちが集まれば姦しい 事は変わりないのだろう。二度と見る事の叶わぬ光景だと思っていただけに好ましいが、トウカにはやはりミユキに女性の知人が出来たという事が何よりも嬉し かった。やはり同性の知人であれば、トウカに言えない事も気兼ねなく話せるだろう。

「レオさんにはこれが似合いますよ!」

「いや、それは目立ち過ぎぬか? 狙撃の的に……」

「もぅ! そんなことを気にしてちゃ、着飾る事もできませんよ!」

「その様に着飾っても儂は軍人じゃから舞台は戦野じゃぞ?」

 二人の会話は微妙なずれが生じている様だが、弾んでいるので問題ないだろう。女性の買い物と身の上話ほどに長いものはない。それを横目に立ったまま待ち続けるというのは、男にとって苦痛に他ならない。

 トウカは黙って大通りを挟んで対面の飲食店の路外席(テラス)に座り、その光景を遠目に眺める。外套を纏わねば肌寒く、戦火の迫る国の光景とは思えないが悪い気はしない。この光景が続くならば、皇国に腰を据えるのも悪くはないと思わせるに十分だった。

「まぁ、持って一年……急速に傾国へと突き進むのは四カ月後くらいか……」

 それまでに行く先を決めねばならない。ミユキは一度、故郷に戻りたいと言っていたが、状況次第ではそれすら叶わない可能性もある。それ以上にミユキが故 郷を捨てる事を納得するだろうかという不安が付き纏う。無論、ミユキが望むなら、故郷の者達が遠い土地で平穏を掴めるように最大限の努力を払うつもりで あった。

「ほぅ、近頃の若者は悲観的な者が多いというのは本当のようですな」

 視線を横へと向けると、初老の紳士的な男性が佇んでいた。

 優雅で、それでいて無駄のない動作でトウカの対面の席へと座る初老の紳士。余りにも自然な動作でもあった為に、トウカが口を挟む隙すらない。近距離で佇 まれていても気付かなかった自身にも落ち度があると納得するしかないが、トウカとて武門の末席に連なる者であり、リディアやレオンディーネと続いて近づか れて声を掛けられるまで気付かなかったというのは痛恨の失態である。

「失礼ですが、貴官は?」

 撫で付けられた髭と白髪は老練な執事を思わせる佇まいで、柔らかな物腰と相まってとても軍人とは思えない。

 だが、特徴的な近衛軍の漆黒の軍装……そして、肩章は大佐の階級を示していた。トウカがこの世界に招聘されてから出会った軍人の階級の中でも最も高位と いう事になる。無論、祖父が陸軍元帥であり、その在りし日の部下達が良く屋敷に訪れていた事もあり、大佐という階級にトウカが気後れする事はない。寧ろ佐 官でしかなく、脅威度から言えばレオンディーネの拳骨に軍配が上がる。

 初老の近衛軍大佐は、席に悠然と腰掛けて様になった動作で会釈する。

「これは失礼した。小官はクラウス・セム・リットベルク近衛軍大佐です。以後……はあるか分かりませんが御見知り置きを」

 初老……と表現するよりも、小父様(おじさま)という言葉が合致する雰囲気を漂わせるリットベルクに、トウカは祖父とはまた違った意味で豪胆な人物ではないかと予想する。

 確かに温厚で、好々爺とも思える容姿と雰囲気であるが、その瞳は冷厳と苛烈の二つを持ち合わせた輝きを放っている。

 ――英雄に連なる者、か。

 これ程の者がいても尚、皇国は斜陽を迎えているのだ。最早、助かる事はないだろう。

「サクラギ・トウカです。リットベルク大佐……殿はこの国の軍人の敬称としては不適当でしたか。しかし、天帝陛下の御楯がこのような場所にいて宜しいのですか?」

 大日連陸軍では、上官に対して階級の後に“殿”を付ける。だが、皇国陸軍では効率化の為か、大日連海軍の様に階級のみで相手を指した。

「天帝陛下の御楯、か。成程、在りし日であればそうであったやも知れませんな」

「在りし日、ですか……」

 聞きたくもない事を聞いてしまったとトウカは顔を顰めてみせる。これ以上、機密に近いことを聞かせるなと存外に含みを持たせたのだ。それを理解したのか、リットベルクは表情を崩して好々爺然とした笑い声を上げた。

「はっはっは、トウカ殿は慎重ですな。心配なさらずとも軍機など口にはしないですぞ」

「小心者とも言えます。その辺りに関しては些か自信があります」

 苦笑するトウカに、リットベルクは珍しいモノを見たような顔をする。どの世界であってもトウカ程の年齢の若者が謙遜や自らを卑下する事は少ない。だが、奥床しさを美徳とする大和民族の中であっても、トウカのそれは度が過ぎた。

 異邦人は、自らを信じる事を恐れた。慢心は死に繋がるという歴史の必然を知っているという理由もあるが、やはり偉大な祖父と先祖の存在に依るところが大 きく、劣等感を掻き立てるには十分な英傑達はトウカの心に大きく影を落としていた。容姿も才能も取り立て目立つものはなく、唯一の救いである剣術も祖父に は遠く及ばない。

「自分より頭の良い人も、才能のある人も、心身ともに強い人も数多くいます……私を純粋な意味で求めたのはただ一人だけでした」

 そこに後悔や未練はない。いや、してはならないのだ。

「だから現状には満足しています。無論、成すべき事も」

 求めてくれた仔狐がいる以上、後悔など許されないのだ。故に自身の能力の有無に関わらず、全力で護らねばならない。これは異邦人のたった一つの矜持であり意地に他ならない。この目的の為には、あらゆる手段を講じる心算でトウカはいた。

「自らの存在を卑下しながらも、成すべきことを理解しておられる。良い事です。他の若者ではそうはいきませんな」

 店員に紅茶の注文(オーダー)し、リットベルクは好意的な視線をトウカへ向ける。

 その好意の中に潜む冷徹な意思をトウカは朧げながらに感じ取った。人の悪意や悲観的な感情に敏感なトウカは、リットベルクの視線が単なる好奇心や興味の産物だけではないと理解している。

「ところで……この国が急速に崩壊する理由を御聞かせ願えますかな?」

「若造に聞かずとも大元の原因は分かるのでは?」

 リットベルクの物腰と近衛軍大佐という階級を見れば無能という事は有り得ない。特に近衛軍はトウカの知る歴史を紐解けば、その多くが政治闘争の道具であり、指導者達の装飾品であった。その様な軍に所属するリットベルクが皇国の欠点を理解できないはずはないのだ。

「権力の分散……ですかな?」

「そうなりますね。他にも国家弱体化の理由はありますが、大元を辿ればそこに行き着きます。まぁ、四カ月というのは主戦力の瓦解と、それに伴う士気の急速な低下までの時間と考えれば良いと……まぁ、帝国軍の出方にもよるでしょうが」トウカは無表情で告げる。

 権力の分散。

 それが悪いかと言えば、実は『否』とも『是』とも言えない。文民統制(シビリアン・コントロール)の 観点からすれば、確かに権力を分散させておく事は正しいと言わざるを得ないが、有事の際に権力の集中運用を行わねばならない時、その対応は致命的なまでに 遅れる。軍とは統制する事も運用する事も、また困難な組織に他ならない事も踏まえると、どちらに傾倒することも許されないのだ。

 複雑な顔をするリットベルク。若造に見抜かれるほど脆弱な権力基盤に対する嘲笑か、或いはトウカの考えに対する否定か。

「フム……否定はできませんな。ですが、国があるから臣民がいるのではなく、臣民がいるからこそ国があるのですよ」

「良い言葉です。初代天帝陛下の言葉と聞きます」トウカは無表情で讃頌する。

内心では同意しかねていたが。天帝は民草がいなければ皇を名乗る事は叶わない。誰もいなければ指導者の条件は満たせない。だが、民草は天帝がいなくとも民草を名乗れる。

「民草が存在し得るからこその国家であり、民草がいるからこそ国家は成り立つのです……でしたか?」

「そうですな。その言葉を是とするからこそ、暴力の体現者足る軍隊は幾多の枷を掛けられておるのです」

 トウカ個人としては甚だ同意しかねるが、この世界の文明規模を鑑みるに文民統制とは言えないまでも、軍への統制を高度な次元で成功させている政治機構を持つ皇国は、極めて思想や法治の進んだ国である事は疑いようもない。

 リットベルクの表情は誇りに満ちたものだ。その様な考え方を将兵一人ひとりに教育できる国家の軍勢は強い。亡国となるその瞬間であっても、将兵達は死を恐れずに戦うだろう。

「国家を支える基盤となるのは、貴族でも皇でもなく民草である、と」確認を求めるような口調でトウカは尋ねる。

 リットベルクはそれに鷹揚に頷いた。

「民の為に戦えるからこそ死ぬその瞬間まで、我が皇軍の神兵達は全力で戦い続けられるのです。無論、小官もその点については自信を持っておりますな」

 店員が運んできた紅茶の茶碗(カップ)に手を伸ばし、唇を濡らしたリットベルク。

 素晴らしい軍人。トウカのリットベルクに対する評価はまさにそれだった。

 だが、それ故に理解しがたい。

「なれば、貴官は直ぐに軍服を脱がれるべきだ」

 それは軍人を辞めろと言っているに等しい。

 リットベルクが紅茶の茶碗(カップ)を置き、興味深げな表情でトウカを見据える。その瞳に憤怒の感情は見られない。純粋に疑問の色が、その瞳を支配していた。だからこそ、皇国が斜陽を迎えているのだ、とトウカは確信する。危機感を抱いていても、内心ではやはりこの日常が続くのだと思っているだろう。

 纏う雰囲気は空虚な微笑から、嘲笑へと変質する。

 トウカは西洋人の如き独善的な考え方を唾棄していた。自身の主観の為に、他者を巻き込んだ結果など断じて許容できない。それでも尚、断行すると言うので あれば、その犠牲に報いる価値のある行いでなければならない。少なくとも犠牲に似合うほどのナニカを掴みとらねばならないのだ。

 トウカとて、何かしらの理由で呼ばれたからこその異邦人(エトランジェ)なのだ。

 呼び出しておいた時点で、それを許容する気などトウカには毛頭ないが、呼び出しておいて何の接触もないという事も許せない。

「理想で国防は儘ならない。この世に不変のモノなどありはしないのです」

 トウカは知っている。例え生命の宿らぬ政治機構たる国家であったとしても例外ではない、と。

 如何なる大国であり、万人を引き付け得る体制の下に統治されていたとしても、やがては崩壊する。それが国家というものだ。だが、往々にしてその国に住ま う者達は亡国の足音を聞き取る事ができない。トウカが聞き取ることができる理由は、幾多の歴史を知っているからであり、祖国が幾多の国々を武力で併合して きた歴史を知っているからであった。加害者であるからこそ、自らの行いが返ってくる事を最も恐れる。

 だが、それでも尚、自らの日常は崩壊しないと高を(くく)るのだ。

 リットベルクにもその傾向は見られた。

「祖国を護りたいなら手段を選んではならない、御老体。勇敢に戦って護れるのは誇りだけだ」

 その意味を違えれば国は廃滅する。トウカの祖国がそうであった。辛うじて亡国となることは回避できたが、各地の終末兵器投下による被害に加えて、連合軍の史上空前の強襲上陸によって壊滅した関東地方。民間人の被害は後の復興の妨げになる程に甚大であった。

 軍人達は誇りの為に戦い、国家を存続させることに成功した。だが、民草を護ることはできなかった。

 護ったのは誇り。失ったのは民。その後悔の念を英雄たる祖父の口から聞いた時、トウカは思わずにはいられなかった。

「綺麗事では民と国体を同時には護れない。何時か必ず、どちらかを選ばなければならない日が来る。まぁ、それを決断するのは英雄の仕事だが」

 この国の英雄たる天帝は不在。故に軍人はその不在を己が血で贖わねばならない。国家とは軍人の屍の上に成り立つ組織なのだ。

「勇敢に戦う事が許されるのは兵士のみ。将校は外道の汚名を背負う覚悟で冷徹に指揮し続けねばならない。そして、大佐という階級の貴官に求められるのは後者に他ならない」

「トウカ殿は……いや、失礼した。続きを」

 リットベルクは深く息を吸うと吐き出すように話の先を促した。

 その表情には遣り切れないという思いと、疑問の色が浮かんで見えた。トウカの考え方は、ある意味において否定しようもない事実であるが、武勇を尊ぶ軍人 達には断じて許容できない言葉であるはずなのだ。だが、否定の言葉を口にしないということは薄々、その事実に気付いていたのだろう。

「結局のところ戦争は勝たなければ意味がない。負ければ蹂躙され全てを失うのみ。例え外道の誹りを受けようとも、勇ましく散って全てを失うより、汚辱に塗れてでも生き延びて遠き勝利への礎となるを選ぶのが軍人。そう俺は思う。貴官はどう思う?」

 武勇を尊ぶリットベルクに対して、貴官は国の為に外道になる覚悟があるかと聞いているのだ。斬り掛かられても不思議ではないが、リットベルクの気性からしてそれは無いという打算もあった。

 ――さぁ、如何する御老体。

 トウカは、この会話を楽しんでいた。一国の激動の時代に生きる軍人の言葉はトウカの興味を十分に惹くものであった。だからこそ、リットベルクと言葉を交わしている。トウカですらリットベルクの返答を予想できない。

 だが、リットベルクの返答は、トウカの望んだ苦悩に満ちたものではなかった。

「小官も同意します。ですが、多くの軍人には理解されぬでしょうな。トウカ殿の言葉とて、話す相手によれば血を見る事になりましょう」

「……貴官は、武勇を諦めるのか?」

 それは、皇国の存亡にとって好ましい返答であるが、トウカには不満であった。さも当然の様に同意されてしまうと面白みがない。後に歴史の一つとなるよう な苦悩を求めていたが、リットベルクは平坦な表情で当然の様に告げた。トウカの内心など見透かしているとでも言わんばかりの態度であった。

「残念でしたな。小官は武勇を尊びはしますが、外道を否定する気もありません。好ましいとは思いませんが」リットベルクが苦笑する。

 二つの考え方を自らの心の内に留め置く事ができる者は稀有と言える。生物とは元来、思い込みが激しいものであり、高度な知性を有する者であればある程にその傾向は強い。その考えを超越できた者は、二つの視点から物事を見据えることができる。その優位性(アドバンテージ)は計り知れない。

 武勇と外道の併存。

 リットベルクの場合は、武勇を尊びながらも、消極的という条件付きであったが外道の統率を肯定している稀有な存在であった。無論、凡人らしい皇国軍人としての在り方を聞きたかったのだが、良い意味で裏切られる。

「併存、か……それは」

 トウカは口を衝いて出そうになった言葉を飲み込む。

 無節操だ、とは口が裂けても言えない。トウカとて、ミユキを大切に想っていながらも、リディアを助ける際には邪な感情がなかったとは言い切れないのだ。 ミユキには、リディアに対してその様な感情は抱いていないと笑って否定して見せたが、命懸けであった以上、心の何処かにそのような気持ちが潜んでいたのか も知れない。そうでもなければ限りなく死地に近い場所へ、刃を振りかざして吶喊する事などできなかっただろう。無論、その辺りの感情は自身にもよく理解で きていなかったが、トウカがミユキに対して恋から始めようと言った理由もその辺りに起因する。

「まぁ、トウカ殿の前だからこそ言える言葉ですが」

 一般的な皇国軍人の言葉としては、異端な考え方であるとリットベルク自身も理解しているのだろう。

「それは似た者同士という事で?」

「いや、トウカ殿は外道となって実を取るだろうが、私は分かっていても、やはり武勇という名を取ってしまうでしょうな」

 トウカは、リットベルクの言葉に自らの予想を超えた考えを持つ者がいるのだと理解した。

 往く先に己と国家、民草の死滅を見ても尚、軍旗の下に集うであろうという決意。

 今、この時もリットベルクという初老の近衛軍大佐は、後悔しながら人生を歩んでいるのだ。なんと不器用な事かと思わずにはいられないが、トウカはその人生を憐れむことも悲しんで見せる気はなかった。それは、覚悟を決めた者に対する最大の侮辱に他ならない。

「貴官の覚悟に敬意を、リットベルク大佐」

「では、小官は狐と獅子の攻勢に晒されるであろうトウカ殿の身を案じさせていただきましょうかな」

 リットベルクの視線が、異邦人の背後へと移る。

 そして、トウカの左右の肩が凄まじい力で掴まれる。

 振り向くと、そこには不満ですという雰囲気を撒き散らししているミユキとレオンディーネが静かに佇んでいた。

「主様、女性を放置して老人とお茶なんて不潔です!」

「全くじゃな。女性に贈り物をすると囁いておいてそれは無いと思うのじゃが?」

 威圧感を多分に伴った二人の笑顔。リットベルクは我関せずと言わんばかりに、優雅な動作で紅茶を嗜んでいる。実際、トウカを支援してくれる気はないのだろう。目線で助けを求めるが、一瞬、視線を交わしただけで目を瞑る。

 ――敵戦力増大! 増援ヲ!
 ――本隊ニ余剰戦力ナシ。戦死サレタシ。

 二人の視線が交差した一瞬に、トウカとリットベルクの間ではそれに類する思考が交わされていた。武勇は尊ぶ事はあっても、女性関係にまで勇ましく立ち向かう必要はないと考えているであろうことは容易に想像できる。

「なぁ、トウカ。言い訳はあるか?」

「言い訳はさせないですからねっ!」

 トウカとしては、二人に買いたい物を選ばせて金銭だけ出せば良いと考えていたのだが、その考えは甘かった。女性関係に限って言えば、効率的な行動が最良 の結果に繋がるとは限らない事を、トウカは理解できていなかった。物だけ与えて満足する者は、トウカの極めて見え難い好意を理解できる程に長い付き合いの 者だけなのだ。

「二人の握力は人間種の肩には……」

 更に強まる二人の握力。トウカは、痛みに顔を引き攣らせつつも唸る。

「ど、どうだろう? 俺が二人の髪飾りを選ばせていただくと言うのは?」そう答える事で精一杯だった。

 この期に及んで物で乙女心を釣ろうとしていると言うなかれ。形に残らない謝罪の形より、何かしらの形をした謝罪のほうが良いという打算的な発想であった。無論、乙女心の前には何ら意味を成さないが。

「「それは当然です(じゃ)!」」

 レオンディーネの背後からミユキも猛烈に同意する。

 正に虎の威を借る狐であった。

 肩を掴まれたまま、大通りを挟んだ装飾店に向かって連行されるトウカに、悠然と茶碗(カップ)を受け皿に戻したリットベルクは黙って敬礼を捧げる。その、死出の作戦へ赴こうとする烈士に捧げるが如き敬礼は無駄に様になっており、尚のこと腹立たしく感じられた。


 《ヴァリスヘイム皇国》の落日は未だ若者達の目に映ることもなく、表面上は太平であった。

 

 

 


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