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第一四話    疑問と矛盾

 



「という事で図書館に来た訳だ」

「主様は皇国の歴史に興味があるんですか?」

 ミユキの疑問にトウカは鷹揚に頷く。正確には、この異世界にであり、余りにも歪で謎の多いこの世界に対する興味は尽きない。特に文明と科学と思想の進歩 の仕方が極めて異常であった。魔術や無数の種族がある為だとも考えたが、それにしては科学分野の一部が異常に進み過ぎている。

 そもそも、中世の文明規模で図書館が存在すること自体が不思議でならなかった。日々を余裕なく生きている民衆に、そのような発想が出てくるとは思えない。書物を綺麗な状態で保ったまま扱う程に人々の道徳(モラル)が高いとも考え難い。

 本の(ページ)を捲り、溜息を吐く。

「しかし、これ程の書物があるという事は、活版印刷技術がかなり以前に発明されていたということになるが……」

 技術というのは発案されなければ発明される事は決してない。そして発明に成功したとしても、広く普及するには膨大な時間が掛かる。特に情報伝達手段が劣弱な時代であれば尚更であった。

 活版印刷技術があり、図書館を作れる程に書物が普及しており、遊底動作(ボルトアクション)式 小銃が軍に正式採用されているにも関わらず、歯磨き粉や照明機器……白熱電球などが発明すらされていない。前者が発明されているのならば、後者も発明され ていて不思議ではない。その様なものがこの世界には数多くあった。最初は思考や環境の違いだと思っていたが、それにしては多すぎる。特に遊底動作(ボルトアクション)式小銃などは近代に入ってから発明されるものであった。製造に魔術が使われているらしく、量産は不可能ではないかもしれないが、製造できるとしてこれ程に早く発明されるものなのか。しかも、ドライゼ銃やジャスポー銃などの機構ではなく、挿弾子(クリップ)を備えた装弾五発の近代的な機構をしている。

 トウカの疑問は尽きない。

「主様、主様~、暇ですよぅ~」

 骨董品(アンティーク)に足を踏み入れつつあるであろう机に突っ伏したミユキが低く唸る。

 トウカは凄まじく高い書棚を見上げて、資料になりそうな本を探す。北部の中でも大都市に分類されるベルゲンの図書館だけあって蔵書数はかなりのもの。ト ウカが見てきた如何なる図書館よりも大きく、貯蔵している書物の種類も多かった。魔導書などの禁書類は奥の施錠された一室に死蔵されているらしいが、トウ カの知りたい事は歴史と常識、生態系などであって、そもそも使えもしない魔術などに興味はない。

 何冊かの目ぼしい書物を書棚から抜き取り、机へと置く。

 周囲には二人以外に誰もいない。見上げても果てが見えない無数の書棚が等間隔で立ち並び、遠く先は薄暗いほどで全く見えない。そんな中で、トウカとミユキが座る席の周囲だけは天窓から差し込む光で明るかった。

「何日かは、ここに留まりたいと思っているんだが」

「え~っ! 暇です! 観光しましょうよ~」

 机に突っ伏したままのミユキが暴れるが、黙って頭を撫でてやりながら本を読み進めた。実はトウカは書物を読み漁り出すと周囲の雑音が全く耳に入らなくなる。暫くするとミユキもそれを理解したのか、机に身体を預けたまま寝息を立て始めた。

 机に積み上げられた書物を次々と消化する。トウカは知識欲が人一倍強い。勿論、学者の様に傾倒しているわけではなく、主に歴史や文学を好んでいた。軍事 に関連のある科学や物理などは祖父との座学で教わっているが、やはり興味の対象は歴史が一番である。そして、文学とは執筆された時代や世相の影響を受ける ものであった。

「……成程な。だから科学技術に(むら)がある訳か」

 中世に見合った技術だけでなく、近代以降の技術が時折見られた原因は意外なものだった。いや、想像力を十分に働かせれば分かっていたかも知れない事であ る。トウカは未だに異世界を自らが居た世界の基準を無意識に当て嵌めていた。人の思い込みや固定観念というものは容易く拭い去る事はできないということに 他ならない。

「科学文明が一度、滅んだ後に形成された文明が今の文明ということか?」

 地図と歴史書、旧文明の解説書などを交互に見ながら、興味深い、と唸る。

 一度、この世界は滅亡しているのだ。

 原因は断言できないが、まず間違いなく多数の勢力による大質量を伴う兵器の応酬での環境の激変だろう。大まかでしかない地図を見てみても皇国だけでな く、周辺諸国には幾つかの不自然なまでに円形の湖や、半円形の湾が存在していることが確認できる。その湖と湾は自然の産物では有り得ない綺麗な曲線を描い ていた。明らかに人為的要因によって生じた現象だろう。一つや二つならば偶然や隕石の衝突で済ませられるが、これ程に多いということは間違いなく人為的現 象によるものだ。旧文明の科学技術の推察を読む限りでは、隕石程度なら余裕をもって迎撃できるだけの戦力を持っているので隕石の集団落下の可能性も薄い。

「星の海を往く戦船達、ね……宇宙艦隊まで持っていた訳か……」

 古ぼけた『旧文明兵器の考察』という本に目を落とし、遣り切れない思いに目を背ける。トウカの元いた世界でも十分に有り得る可能性に他ならない。

 旧文明は技術大系を見るに、完全に二つの勢力に分かれていた。技術というものは似たものであっても国毎に差異が出る。例えば自動小銃の部品などだろう。 同じ国の分隊支援火器などに転用はできるが、他国の武器にはそれができない。兵器の外観であっても国毎にある程度の同一性が見られる。

 それらを察すると、旧文明は大きく二つの陣営に分かれて争っていたということになる。

「圧倒的な国が二つ……確かに一度、戦いになれば止めるに難し、か」

 トウカの世界では《大日本皇国連邦(大日連)》と《Imperial Americana(米帝)》、《欧州国家社会主義連合(EFU)》によって大まかに三つに分かれていた。古の天下三分の計などの策がある通り、三勢力が 鼎立し均衡を保った為に第二次世界大戦以降、本格的な戦争に至ることはなかった。

「二大勢力の台頭程に危険なものはない……」

 下手をすれば核戦争。否、この世界の旧文明はそれぞれの勢力が宇宙戦力を有していたことから、平和を謳歌していた宇宙まで戦争に動員した事を考えるに、 余計に始末に負えない。文明が滅び、寄る辺たる寄港地を失った宇宙艦隊もやがては補給が尽き、衛星軌道上で壊滅したのだろう。時折、旧文明の兵器と思しき ものが落下してくるらしく、多過ぎる流れ星の正体はそれらであるという。衛星軌道上には星河という光り輝く環が存在する。若しかすると、星河は岩塊に混 じったそれらの残骸が恒星の光を反射している為かもしれない。

遊底動作(ボルトアクション)式小銃は旧文明の発掘品の模倣(コピー)か」

 旧文明の科学力を以てすれば熱線(レーザー)兵器が主体であるはずだが、局地的、或いは何らかの理由で遊底動作(ボルトアクション)式という機構を持つ兵器が生き残ったのだろう。

 他の兵器や日常品や小道具に至るまで、旧文明の発想を取り入れたものは数多い。使われている技術が理解できなくとも、発想が(もたら)される事で、それに近いものは作られるということだろう。

「旧文明の遺産か……」

 気になる事は多いが、それ以上は余りにも想像で補わねばならない部分が多すぎる為、推察に意味を感じない。元より今までの推察すらも、かなりの部分を想 像で補っている。その手の想像を好んでいる身としては苦ではないが、現実と想像の境界線を曖昧にする事は避けるようにしていた。

「まぁ、俺の発想が異質なことに変わりはない……まぁ、旧文明の発掘品を参考にしたと言えば、新機軸の日常品でも製造してそれなりに楽な暮らしは出来そうか」

 トウカは悩む。 

 ――さて、何を作ろうか……

 手で顔を撫でて思案していると、自らの表情が歪んでいることに気付いた。嗤っているのだ。確かに、この世界に来て一番楽しい発見かも知れない。

 机に突っ伏したミユキの尻尾をモフモフと触りながら思案する。最近はミユキの尻尾を触ることが日課になっていた。中々の触り心地なので無意識に触ってしまうのだ。

燐棒(マッチ)の代わりになる点火機(ライター)が良いかもしれない。便利で悪用される可能性も少ない……いや、魔術で火を付ける方が速いか? 流石に発明されているか?」

「ぬ、主様、くすぐったいです……」

「起きていたのか? 済まない」

 申し訳ないと謝るが、尻尾から手を離すことはない。

「うう~、気持ちいいです……まだ、帰らないんですか? お腹すきました」

 ムスッとした表情のミユキの言葉に、はっとして周囲を見渡す。案の定、周囲は暗くなっており、遠くからは微かな街の喧騒が聞こえ、天窓からは綺麗な月が 覗き、月光が差し込んでいる。ミユキが机上の魔光石の使われた照明器具を点灯させてくれていたので手元は暗くはない。そんな気遣いに感謝しつつ、ミユキの 手に小銭を握らせる。

「これで好きなものを買ってきてくれるか? ここで食べよう。まぁ、司書もいないから問題ないだろう……ああ、他に欲しいものがあるなら買ってきても良いぞ。付き合って貰っている礼だ」

 匪賊の遺体から得た金銭なので、真っ当な市場に復帰させるだけの事である。疾しい事など何一つない。

「え、こんなに貰っても使い切れませんよ!?」

 驚くミユキに「構わない」と頷く。渡した硬貨は宿に一週間は泊まれる程の量だが、トウカとしては金銭を確保する手段を考案しつつあったので、ある程度の散財ならば許容できる上、何よりもミユキには世話になり続けている。この程度はしてやっても然るべきと考えていた。

「なんなら鼠を中隊規模で買ってきてもいいぞ?」

「それは……ッ!! 魅力的ですっ!!」

「あ。いや、冗談――」

 ミユキは、トウカの言葉を聞く前にその場から消えた。疾風の様な速度にトウカの言葉と嘆きが掻き消えた様子を見るに、本当に鼠を一個中隊程に買ってくる かも知れない。だが、今から追っても捕まえられる程に、ミユキの脚力は軟弱ではなかった。実はミユキの身体能力は、魔術による身体強化もあって隔絶してお り、トウカですら遠く及ばない。それでなくともミユキの身体能力はかなりのもので、明らかに武術の修練を積んでいる事が見て取れる。無論、実戦ができるか 否かは別である。人を殺めるには些か以上に優しさが過ぎた。

「只者ではないとは前々から思っていたが……」

 考えればミユキも謎が多い。ミユキもトウカに対して同じ感想を抱いている事をトウカは知らない。トウカとしても、自らの生い立ちを話すならば、自身が異世界から来た事に言及せねばならないので軽々しく言えはしない。

 故に聞こうとは思わない。興味は尽きないが、その問いかけには意味がない。

 ――どちらにせよ、この不安定で不確かな日常を護って見せる。

 それは、ミユキを護って見せるとする決意。
 それは、ミユキを離しはしないとする覚悟。
 それは、ミユキと共に在らんとする盟約。

 仔狐は、異邦人が見つけた異世界という非日常の中で、唯一の日常を感じさせる存在なのだ。大切にすることは当然であり、己を導く存在だとも考えていた。 仔狐が隣にいるのならば、この自分に優しくない殺伐とした世界で、日常を取り戻せるかもしれないという淡い希望と期待も異邦人の心の内にはあったのだ。

 だが、トウカはあの日常……元の世界に回帰することはない。

 勿論、この図書館の禁書庫を漁れば何か分かるかも知れないとは思ったが、魔術に詳しいという司書曰く、帝城府の禁書庫でも漁らない限り多重世界に関する 魔導書は見つからないだろうと明言された。そもそも魔導書とは、魔術の心得がない人間が目を通しても理解できない代物らしく、この場で指南書の類を読んだ が、結果としては元の世界への回帰は不可能という事実が嫌という程に示されたに過ぎない。

 曰く、世界とは無数にあるらしく、その間を行き交うには人の身体は脆すぎるとの事である。しかも、神という胡散臭い存在の力を借りねばならないらしく、その上で膨大な魔力と時間、媒体が必要となるとなれば、今のトウカには絶対に不可能と言えた。

「世界は大樹の実のように存在し、枝を通して移動が可能である、ね」

 大樹の描かれた(ページ)を見て、トウカは嘆息する。

 トウカの世界で言われている“エヴェレットの多世界解釈”は、世界に無数の可能性が満ちており、それに応じて無数に世界が分岐していくというもので、つ まるところ並列世界というものが存在するという解釈である。だが、この世界で提唱されている“多世界理論”では、それぞれが独立しており、世界毎の関連性 や繋がりが一切ないとのことであった。しかも、神々の信託を受けた者達の言葉によると、神々は世界間を移動できるらしく、それらの神々から齎された技術や 思想、宗教もあり、ある意味、実証も終えていると言える。“世界”という事象についての解釈は、この異世界に一日の長があると捉えても良い。

「元の世界を特定しなければならないが……」

 一度見失うと二度と同じ世界を発見することはできない。世界の数がそれ程に多く、世界の一つ一つを確認するには実際に訪れるしかないという事も致命的で あった。世界の一つ一つに名前や座標が付いているわけではない為、地名が表示されていない地図から目的地を探す様なものと言える。まず間違いなく不可能で あった。

「魔力と媒体は桁違いの量と質が必要か……」

 ミユキが言うにはトウカに魔術の素養はないらしい。魔力については他者から転用できるらしいが、媒体については個人での収集は完全に不可能とのことで あった。その二つを集める為に、皇国が国家予算として会計に計上しているという噂もある、と司書が言っていたのも納得できる金額である。

 トウカは椅子から立ち上がり、背筋を伸ばす。

「まぁ、予想はしていたが……現象が理由なく起きる道理もない」

 何者かの意思が働いたからこそトウカはこの世界に飛ばされたのだ。

 そうでなければこれ程に成功の可能性が低く、費用対効果(コストパフォーマンス)が 悪い世界から世界への移動など行われるはずがない。次元漂流という偶然の世界間転移も事象として存在する様であるが、トウカにはどうしても偶然と思えな かった。次元漂流で漂着した場所が生存できる地形である可能性は極めて低いのだ。海中があり空中があり地中があり宇宙がある。それらの場所に転移すれば溺 死か転落死か窒息死である。雪原とは言え、座標軸が地表であった事を踏まえると偶然であると片付けるには無理がある。

「偶然であるとは思えないが、簡単な儀式でもはないはず……何かしらの役割を求められている?」

 トウカは眉を顰める。不愉快極まりない。虫唾が走る。腹が(よじ)れ る。もし、そうだとするならば他者の目的でトウカは呼ばれたことになる。その者に真摯な思いや熾烈な覚悟があったとしても、トウカは断じて許容できない。 現に人生を狂わされたのだから。出会ったのならば容姿や性格、地位に関わらず斬り捨てるだろう。許してなるものか。落し前は付けさせねばならない。人の意 志を無視して、自らの意志を突き通そうと言うのだ。殺される覚悟くらいはしていて然るべきであろう。神の悪戯か悪魔の企みか……ヒトでしかないトウカには 分からないが、ヒトの人生を狂わせてくれた存在には、いずれそれ相応の報いを受けさせる。

「どうせ、この世界で護らなければならないのはミユキと自身だけ……ならば」

 手段は問わない。

 トウカは笑みを浮かべる。

 この時、紫色についての伝承を調べなかったことをトウカは後になって後悔する。


     運命という歯車からは逃れ得ないのか……或いは。










「……結果として我らが政戦の(みち)に於いて選び得る手段は、元より一つしかなかったと言うのか」

 龍の長は、遣り切れないとばかりに唸る。

 落ち着いた造りの部屋に置かれた執務椅子から立ち上がり、粛々と氷雪の舞い落ちる様を映し出す窓から外を見やる。

その窓に映る中年男性の顔は、唯ひたすらに暗かった。

 貴族が纏う衣裳としては少々簡素な造りの背広襟をしたフロックコートを着こなした身体は、強靭と流麗という言葉を思わせる程に鍛えられており同時にしなやかであった。表情は厳つくあるが、同時に伊達男(ダンディズム)を連想させるような顔立ちをしている。そして、口髭を撫で思案に暮れるその姿は、思慮深さと人ならざる知性を感じさせた。

 まさに貴族、斯あるべしという言葉を体現した佇まい。

 神龍族の頂点たるアーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ公爵その人であった。

「時代の歩みに二つなし、か」

 在りし日の初代天帝陛下が口にしたとされる言葉を思い出し、その皮肉を噛み締める。時代とは人々の幾多の想いが集結することで紡がれた事象であり、科学 と思想、魔術などの進歩を鑑みても行き着く先に違いはない。過程は関わる英傑や為政者によって変遷するとしても、導き出される時代という結末に違いはない のだ。

 違うのは新たなる時代への幕開けまでの過程で流した血量のみ。

 既に歴史の彼方であり出会ったことすらない建国の天帝にその真意を問い質す事などできはしないが、初代天帝の言葉をアーダルベルトはそう捉えていた。

「今代の天帝陛下となるべき御方は行方知れず……招聘の儀は救いとはならなかった」

 こうなる事を予期していた訳ではない。

 五公爵……正確には四人の公爵の反対を押し切り、招聘の儀は神祇府の大御巫……己が娘の強硬な主張によって行われた。しかし、謎の戦力によって邪魔され た事で失敗となる。アーダルベルを含めた五公爵が反対していた理由は、時期尚早という意味ではなく、先代天帝への後ろめたさがあったからであった。

「天帝の招聘という機構(システム)を以て国を護持することに意味を見いだすことは私には出来ん」

 先代天帝が崩御する前に吐露した心の内に五公爵は皇国という名の王道楽土の欠点を知った。

 老成し身体が衰弱した先代天帝は寝台(ベッド)に身を委ねて脆弱な笑みを湛える姿を彼は忘れ得ない。。

 自らの死期を悟った先代天帝は皇国の空を一望できる帝城最上階に位置する露台(テラス)に寝所を移し、最期の時を迎えようとしていた。その最中、寝台(ベッド)の横に傅いたケマコシネカムイ公爵を除いた四人の公爵に先代天帝は呟いた。

 ――我は貴様らを最も敬愛する君臣であると思っておる……そして同時に堪らなく憎悪しておるのだ。

 何の感慨もなく、歴史を語るかのように回顧する先代天帝に四人の公爵は言葉を失った。

 先代天帝の治世は然して語る程の繁栄があった訳ではなかったが、温厚であり慈愛に満ちた政治姿勢の下で民が飢餓に苦しむ事もなく、周辺諸国との軋轢を生 む事もなかった。惰弱と誹る者達もいたかも知れないが、民草を笑顔にする事こそが天帝に最も必要な資質。故に四人の公爵は先代天帝を敬愛し、命を擲つ事す らも厭う心算はなかった。

 先代天帝……エーリッヒ・シュタンゼルとはそんな天帝であった。

 四人の公爵はその言葉を計りかねた。そんな四人の公爵の胸中を察する事もなく、或いは興味すら抱いていなかったのか、先代天帝は帝城の最上階から果てしなく続く蒼穹を見上げ呟いた。

 ――そして、この国が斯くも愛おしい。それでいて堪らなく憎いのだ。

 憎悪や悲観、気負いすら感じさせないその一言にアーダルベルトはたじろいだ。他の公爵も同様だっただろう。ケーニヒス=ティーゲル公爵レオンハルトは義に厚い忠臣として名を馳せていただけに今でも慙愧(ざんき)に堪えないと後悔し続けている。熾天使族の頂点たるネハシム=セラフィム公爵は“玉座に侍る者と異名を持つだけに暫くは公務から離れてすらいた。

 その後、エーリッヒは一言も発することもなくこの世を去った。

 先代天帝の心の内の一端を知ることになったのは、それから一月経過した頃。エーリッヒ・シュタンゼルには家族がいたのだ。そして、神祇府による招聘の儀 は家族の仲を無理やり引き離した。通常であればそのことに負い目を感じる必要はない。天帝となった後に使いの者を出し、家族を呼び寄せればいいのだ。

 だが、エーリッヒにはそれができなかった。エーリッヒは《ゲーベン公国》と呼ばれる《ヴァリスヘイム皇国》と《ローラン共和国》の中間に位置する小国の 地方貴族だった。今では共和国に併合されている事からも分かる通り、現在では亡国となった国である。前回の招聘の儀が行われた際は、共和国軍との激戦が繰 り広げられていた。

 そんな小国でエーリッヒは人生を謳歌していた。貧しくも戦火の絶える事がない祖国。しかし、家族や親友が暮らす地を護る事を使命とする騎士として誇りを持っていたのだろう。愛国心などは別としても、家族や友人を護る責務を放棄させてしまった事に変わりはない。

 そして、エーリッヒが故郷を離れざるを得なくなったその一時が明暗を分けた。共和国軍の大戦力の強襲により《ゲーベン公国》は成す術もなく併合された。 同時期に帝国軍との大規模な捕虜交換があり、一時的に浮いた戦力を再編成した結果、小国の実に十倍以上の戦力が大攻勢を掛けてきたのだった。

 そんな最中にエーリッヒは皇国に招聘された。奇しくも家族や親友を祖国に残し、自分だけが助かる形となって。勿論、唯の人であったエーリッヒが一人増え たところで大勢が変わる事はなかっただろうが、人生の終焉に至るその瞬間まで悔いなく生きることができたはずだ。戦士達の園で胸を張り、最愛の者達を護 り、雄々しく戦ったと誇れたはず。

 家族や最愛の人の楯となり……或いは最期を看取ることができたかもしれない。

 親友と、大切なモノを護る戦いに、肩を並べて馳せ参じることができたかもしれない。

 先祖や血族を育む大地への感謝に、挺身を以て答えることができたかもしれない。

 《ヴァリスヘイム皇国》がエーリッヒから奪ったものはそんな可能性なのだ。

 ヒトにとって己が命を差し出してでも成し遂げねばならない事は決して多くはないが、だが確かに存在する。そして、ヒトとして最低限であるはずのその権利すら奪う事を前提に国営を行う皇国の治世は果たして正しいのか。

 己の主君が演技を不得手と知っていたアーダルベルトには、その事実を死後の世界まで心の内に隠し続けたエーリッヒの一世一代の大芝居だと思えた程であった。

 結果として、エーリッヒの家族や友人は皆、散ってしまったのだろう。皇国へ呼ばれた《ゲーベン公国》の者は居らず、エーリッヒはただ只管(ひたすら)に臣民の為に尽くした。その心の内を知ることは今となっては叶わぬことであり、また覆しようもない事実だった。今思えば全てを失って尚も皇国に尽くし、運命に逆らわなかった主君のせめてもの死に際の反撃だったのかも知れない。

 そして、四人の公爵達は知ってしまった。皇国は、天帝という不運な生贄を差し出す事によって国体護持を続けている脆弱な体制の国家でしかないことを。

 代々、一人の人間を生贄に捧げなければならない国家の存続に意義があるのか?

 その孤独や憤怒、諦観までをも歴代の大御巫たちは輔弼できていたのだろうか?

 歴代の……天帝となった者達は一体、誰に救いと赦しを求めていたのだろうか?

 政治と軍事に於いて全てを満たす答えが存在しない事があるという事実を理解できない程に四人の公爵は若輩ではない。皆が五〇〇を超える時を生きた生ける歴史なのだ。

 それでも尚、迷わずにはいられない。我らは天帝陛下に全てを押し付け逃げていただけではないのか、と。

「陛下も我らが救わねばならん対象であったはず……」

 アーダルベルトは曇天の空を仰ぐ。歳を取ると涙もろくなっていかん、と言っていた同僚でもあるレオンハルトのことを笑っていたが、アーダルベルトもまた同じであった。

 公爵が公爵足り得るのは、天帝の為に望んで死地へと赴こうとするからである。

 貴族が貴族足り得るのは、天帝の為に望んで全て失う覚悟をしているからである。

 騎士が騎士足り得るのは、天帝の為に望んで自己犠牲の挺身となるからである。

 であるにも関わらずエーリッヒを救うことができなかった。公爵であり、貴族であり、そして何よりも騎士である自身の不徳と不義理を悔いるばかりであった。

 しかし、それでも皇国は胎動を続ける。そこに住む数多の生命を護り、国を次代へ継承する責務を至上とする五公には、皇国の国益を著しく損なうであろう天帝招聘の否定はできない。故に大御巫の言葉に是非の判断を下すことはなかった。いや、下すことができなかった。

「御国の護り神たる我らの矛盾……」

 その矛盾に対する答えをアーダルベルトは知らない。

 皇国という歪な政治体制を持つ国の至上命題にして、断じて許容せねばならない犠牲。その矛盾に対する答えをアーダルベルトが知るには、紫苑の瞳を持つ新たな指導者の到来を待たねばならなかった。

 

 

 

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