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第一話     少年と大御巫の決意

 

 

 



「ええい! さっさと打ち込んでこんか!!」

 轟音の如き怒声が響く。少年は仕方なく刃落としされた現代刀を正眼に構え直した。

 対する怒声の主である老人は、無駄に戦意を漲らせた動作を以て刃落としされた太刀を右上段に構えた。

 少年は祖父の出方を窺う。

 上段の構えを取っている場合、相手を斬る為に必要な動作は極論すれば剣を振り下ろすだけであり、斬撃の中に限って言えば全ての構えの中で最速にして最大威力の攻撃が可能である。そして、太刀という刀剣を用いた攻撃に()いて、その射程を最大限生かす事のできる構えでもあった。

 しかし、その反面構えている間、胴は敵対者に対して露出している状態であり、防御には致命的なまでに向かない欠点を持っていた。無論、攻撃は最大の防御という言葉遊びを前提とすれば、最大の防御力を誇っているとも言えなくはない。つまりは非常に極端な構えと言えた。

 だが、それでも眼前の老人に隙は窺えない。

「殺す気で掛かってこい、糞孫ッ!」

 無形にして裂帛の戦意が少年を襲う。

 何も剣術は技術だけが全てを決する訳ではない。生まれ持った反射神経や直感、基礎体力、視力、意志なども勝敗に多大な影響を与える。原始的な武器とされ るが所以であった。意志に限っては精神論と取れなくもないが、歴史上、一人の蛮勇が戦局を変えたことがない訳ではない。その意味では精神論も無意味ではな いのだ。

 少年が踏み込む。その歩みは練達の域に達し、相手に距離感を誤解させる歩法である。道場の床に紛れる色の漆黒の袴を穿いている事もあり、足の動きも視覚的には最小限にしか読み取れない。本来の袴の目的とは正に(これ)だ。

 一手目は、首元を狙った刺突。

 剣道とは目的が違う剣術であるからこその技……業。少年の剣術の流派は剣道などの“道”ではなく“術”なのだ。

 其れ即ち人を殺す“術”。

 傍目には、得物を振り回しているだけに見える為、両者は同じであると誤解される事が多々ある。しかし、その目的とするところは対照的と言える。

 剣術に於ける目的。即ち、人を斬るということ。それはあくまでも人間関係の形成という競技(スポーツ)の範疇でしかない剣道と、相対した敵を斬殺すことを目的とした剣術との明確な差異はその点にある。

「喝ぁぁぁつ‼ お主ぃ気合が足りておらんぞぅ!」

「爺さんは気合いが有り過ぎだろう……」

 刃落としされた現代等であるが、鋭い鋼鉄の棒であることに変わらず、喉を狙った刺突であれば相手に致命傷を与える事も容易い。そして、技量差が明白であ る以上、祖父に少年の刃は届かないのだ。だからこそ慢心しているであろう間に、祖父の喉元を自らの最速の剣技で狙った。それでも尚、祖父にその刃が届くこ と(あた)わず。

「儂は慢心してなどおらぬよ……」

 祖父は幾分か醒めた目で、こちらを見てきた。

 剣術は相手との駆け引きを含めてこその剣術。剣技やそれを補助する体術と歩法などを総合して剣術と呼ぶのだ。

「英雄は……引かぬ躊躇わぬ驕らぬ……そして諦めぬものよ」

 そうだ。それでこその英雄。英雄の称号は、それ相応の理由があってこそ冠されるのだ。目の前の御老体は紛れもない英雄だった。自身にとり、そしてこの《大日本皇国連邦》にとって。

「来い、孫よ! 下らん駆け引きなぞ圧倒的な敵の前では無用、無意味、無駄‼ その戦意のみを以て抗って魅せぃ‼ それこそが武士の戦いなりッ‼」

 裂帛の意志に少年は後ずさる。何という精神論。それは、半世紀前の大戦で皇軍が無用の被害を出した元凶とも言える思考かも知れない。その考え方に嫌悪感を示す者は現在でも決して少なくはない。

 だが、少年はそんな考え方と、常にそれを実行してきた祖父が嫌いではなかった。

 常在戦場。

 それが少年の一族の有様だった。だが大規模な戦争がなくなり、世界の三大国の一つとなった《大日本皇国連邦》に赫々たる戦場はない。あったとしても少数 民族による小規模な争い程度。元より、非対照戦争が主体となり、個人の武勇の差し挟む余地が消え失せた事も大きな要因である。

 古臭い考え方。それでも尚、自らの生き様を曲げない意志と戦意。

 心の在り方は無限。戦野で刃折れ、矢が尽きて絶望的な状況で、戦士に唯一残された武器は意志や覚悟に他ならない。それだけはある意味に於いて誰にも奪えない。そして気の持ちよう次第で如何なる武器にも変化して消耗もしない。

 銃器などは手にして使い方を学べば短期間で一定の練度へ至れる。だからこそ刀剣を以て修練させるのだろう。刀剣は扱いが難しく、持つ者によって性能の差 が大きく出る。その能力を扱うには剣技だけでなく精神も鍛え上げねばならない。これは、戦技を鍛える以上に、精神を磨き上げる為の修練なのだ。

「上等と言うべきか? ……桜城刀華、推し徹すッ‼」

 身体を大きく前へと傾け、深く踏み込む。地を這う様な踏み込み。左下から右上に斬り上げる様な袈裟掛けの一閃。

「甘いわッ‼ 成れど――」

 祖父も上段の構えを裂帛の蛮声と共に正面から振り下ろす。

「その心意気や良しッ‼」

 紛れもない双方の全力の一撃が交差する。

 決着が付く。

 剣術の決着は一瞬。考え抜いた戦術も、鍛え上げた剣技も、総ては刹那の為にある。刀華には、どちらもが足りてはいない。

 双方の裂帛の戦意が霧散する。

 周囲に色と音が戻った感覚に、刀華は顔を顰める。自らの刃を見て溜息を吐く。刃落としされた刀身は、半ばから綺麗に寸断されていた。

 文字通りの一刀両断。

 斬り飛ばされた上の刀身は鍛練場の床に刺さっている。祖父の使っていた太刀も、刀華の使っていた太刀と同様に刃落としされたものだが、祖父の刃は折れていない。

 これが、武士としての差である。

 剣術は個人の技量が最も結果に反映される武術に他ならない。故に英雄として凄絶な人生を歩んできた祖父に、10年程度しか修練を積んでいない刀華の刃が届くはずはないのだ。

 だが――

 刀華は思う。

 ――叶うならば、何時か一太刀を入れてみたい、と。

 それは、刀華の人生の目標だ。

 その目標が永遠に叶わない事を、刀華は知る由もなかった。











「御主は本気で儂を殺す気じゃったのぅ」

 祖父がしみじみと物騒な事を呟いた。

 少なくとも本気で掛からねば一太刀を入れられない相手であり、手を抜けば後で拳骨を受けるのは必至。なれば、一刀を無双の一撃と成す事に何の躊躇いもない。

「殺す気で来いと言ったのはじいさんだろう? 遺産は俺が貰うから安心して死んでくれ」

 二人は物騒な会話をしながら朝食を取る。祖父の視線は柔らかい。先程まで文字通りの真剣勝負をしていたとは思えない物腰の祖父は、箸で器用に焼き魚を解しながら刀華を見据える。

「遺産など然して残ってはおらんよ。あるのはこの屋敷と武具の山じゃな」

 快活に笑ってみせる祖父。

「……軍人時代の給料は全部、刀剣を買うのに使った、と」

 たくわんを噛みながら、刀華は呆れた。

 別に刀剣蒐集家という訳ではない事は分かっている。「軍人は武器に拘ってはならぬ、所持しておる武器を以てして如何に勝つかを考えるのじゃ」と常日頃から口にしている通り、修練の際も刀剣以外の得物を含めた様々な武器を扱う。

「今日は折角の休みだから、どこかに行こうか」

 味噌汁を啜りながら考える。今日は、真田の倅に剣道部の援軍をと呼ばれてもいない。久し振りに街へ繰り出すのも悪くない。幼馴染も買い物がしたいと言っていたので丁度良い。

「そうね。街で買いたいものあるし……いいわね」

「ああ、明日香ちゃん……今日もすまぬのぅ」

 割烹着の前掛けで手を拭きながら台所から顔を出した幼馴染に、祖父が礼を言う。

 刀華も、助かる、と呟く。

 二人が今食べている朝食は明日香が調理したものだ。二人も料理ができない訳ではないが、基本的に面倒臭がりなので限りなく手を抜いてしまう。頑冥な容貌の祖父だが、即席(インスタント)食品の利便性を享受する事に躊躇いはない。使えるものは使うという酷く軍人らしい性格は予備役編入後も健在である。

「良いですよ、おじい様。私も、この屋敷からのほうが学校に近いですし……。大きな部屋を一つ貰えるのも魅力的かな」

「うむ……しかし、今日の外出は控えて貰えんかの」

「……修練ですか? 二人とも修練中は性格が変わるから気持ち悪いの分かってます?」

 明日香の問いに祖父は首を振る。

 なら、何をする気だと思う。一時期は戦史や戦略、戦術の座学をやらされていたが、今では下火になりつつある。何をするか全く想像できない。経済学や工学なども、頻繁に訪れる諸将や官僚達が面倒を見てくれている。

「この国では一五過ぎれば法的に大人じゃ……そろそろ覚悟を固めよ」

「人を斬る事について、と?」

 刀華の問いに重々しく頷いた祖父は、明日香にお玉で殴られる。傍から見れば子供に危険思想を植え付けようとしている老人にしか見えないので無理もない。

「大人……か」

 ぽつりと呟く。

 刀華達が住んでいる国……《大日本皇国連邦》は一五歳を過ぎれば成人であると法的に認められる。それは、東は布哇(ハワイ)から西は烏拉(ウラル)山 脈までの広大な領土を維持するために膨大な軍人と傭兵が必要な為である。戦える大人が多く必要になる。故に大人だけでは足りず、根本的解決を意図して成人 年齢を下げた。東南亜細亜地域では刀華よりも年若い少年少女が自動小銃を片手に生命の遣り取りをしている。三大国による冷戦が継続していようとも、非対称 戦争は未だ世界各地を燎原の火の如く駆け巡っている。宗教問題に民族問題、資源問題に政治問題……人が戦争を決意した時、理由はどこにでも転がっている。 よって、戦争はなくならない。

 だが、内地の高校生に他者に斬り掛かる機会がある訳でもない。

 (ほとん)ど子供は、一五歳で大人になる事 も、人を斬る事にも然して現実感を持てないだろう。刀華もそのまた一人である。成人を過ぎて幾年も経過しているが、感慨の一つも湧かない。先人達は皇国本 土の安寧を求めて戦ったのだ。その目的は達成され続けている。周辺諸国ではその限りではないが。

「まぁ、良い……いざ事があれば、御主の身体は意図せず敵に応じるであろうよ」

 祖父は、構わぬと快活に笑みを零す。

 見ていて清々しいまでの笑み。こんな祖父の一面に憧れてもいるのだが、朝食の席では勘弁して貰いたいのもまた事実。口にはしないが、目玉焼きに唾と御飯粒が飛来するのを全力で阻止する。ばっちぃ。

「今日は御主にくれてやるものがある。道場に戦装束で来るがいい」

 真剣な瞳で祖父が呟く。

 その瞳に隠された真意に気付ける程に刀華は老練ではない。だが、無駄なものではないだろう。

「遺産?」

「あら、なら今日は豪勢にお鍋にしましょうか」

 明日香と二人で冗談を飛ばす。長年の腐れ縁で息はぴったりの連撃に、祖父も顔を引き攣らせた。

 これが刀華の日常。

 この時の刀華はこんな日々が長く続いていくものだと思っていた。











「あれを貴様にくれてやる」

 祖父は、道場の神棚に飾られた一振りの刃を指し示す。

 刀華は、その言葉を聞いて絶句する。その一振りは一族の護神刀であり、価値の付けられない一振りであった。

「……本気で?」

 ――それ程まで自分に期待しているのか……或いは……

「不甲斐ない政治家を殺れ、と?」

「斬るぞ、糞餓鬼が。その程度なら、儂自ら出向いてくれるわ」

 さも当然だと言わんばかりの顔で言い切った祖父に、刀華は苦笑する。

 左派団体の最大の警戒目標にして、共産主義者(ボルシェヴィキ)と幾多の乱闘騒ぎを演じた祖父の言葉である以上、冗談ではないのだろうが。「宗教は阿片だ」と言い切った普魯西(プロイセン)王国の哲学者の言に対し、祖父は「共産主義は黒死病だ」と言い放った事は歴史に於ける比較として大いに後世の歴史家達を喜ばせるだろうと言われている。

 祖父の瞳は真剣だった。

 その瞳は、何処か悲哀を秘めている気がした。
 その瞳は、何処か憤怒が溢れている気がした。
 その瞳は、何処か寂寥が蠢いている気がした。

 悲観的な感情。それを正確に推し量る為の経験も知識も、刀華は未だに得ていない。そして、相手は国難に政戦両略を以て立ち向かった英雄。その真意を知るには、刀華は総てが不足している。

 祖父は護神刀を手に取り、僅かに抜くことで刀身を見せた。道場に差し込む曙光を受け、神々しく煌めく白刃。

 だが、刀身の大部分を占める平地は漆黒に染められており、白金に輝くのは刃だけであった。

 戦野で不用意に日の光を受けて使用者の位置が露呈する事を避ける為であろうが、実用重視の刀剣であってもそれ程までに徹底している一振りを目にしたのは 初めてであった。陸軍の士官用に量産されている七〇式軍刀であっても刀身への塗装はなされていない。武士の魂や誇りとしても例えられる刀に乾留液(タール)を塗装することは大和民族の武士ならば忌避する程の所業に他ならない。誇りと効率の二択を迫られる状況に陥れば、必ず前者を選ぶであろう民族性から考えれば、正しく異端と呼ぶに相応しい一振りと言えた。

 家訓の一つである常在戦場を体現するかの如く、即座に実戦投入可能な様に軍刀拵えにされていた一振り。

 だが、白金と黒金は不思議と調和している。不均衡な刀だった。流麗さと堅実さを兼ね備えているとでも言うべき在り方をしている一振りに刀華は言葉を失 う。望んだわけではないが、刀華とて末席とはいえ武門に連なる者。その一振りが尋常でない切れ味を秘めている事は理解できた。

「この刃が打たれたのは御主が生まれた直後じゃ」

 随分と最近の話と言える。確かに、僅かに覗いた刀身は年代を感じさせる輝きではない。だが、最近の刀であれば護神刀と呼ばれるには無理がある。桜城家は 伏見宮家守護を司る一族であり、その起源は文献上であれば南北朝時代以前であった。現代刀を護神刀とする程に浅い歴史ではない。

「観賞用としてでも芸術としてでもなく……ただ、日ノ本に迫る驕敵(きょうてき)を斬り払わんが為の一振りとして打たれた……いや、製造されたものじゃ。まぁ、それは建前であるがの」

「軍刀が護神刀?」

 刀華は首を捻る。

 それは余りにも不自然な話だ。

 幼い時から、道場の神棚に置かれていたので、さぞかし歴史のある刃なのだろうと思っていた。

 将校の軍刀には古刀から現代刀まで、旧来の太刀の刀身をそのまま軍刀の外装に納めたものと、試行錯誤の末に軍刀向けに考案し、製造された工業刀の二種類 がある。祖父の話を信じるならば間違いなく後者。工業刀を護神刀にするなど有り得ない。いくら常在戦場を旨とする一族であっても、護神刀に量産品を使うほ ど凋落してはいない。

「工業刀だからと舐めてはいかん」

 刀華の内心を察した祖父は釘を刺す。

 確かに悪い事ばかりではない。前者の場合、高価な本鍛錬刀や家伝の刀という事から高品質を誇っていると言われるが、実際には実用性を考慮していない刀も 多く存在する。実戦では運用できない程に脆い鈍刀や、砥ぎ減りなどで傷みと劣化の進んだ刀が、混戦の最中に折れて負傷したという逸話も少なくない。

「52式単分子軍刀……《大日本皇国連邦》陸軍が20年の歳月と莫大な予算を使って作り上げた至高の一振りじゃ」

 聞いた事がない話だ。

 軍事機密なのか、単に目立つ事すらない軍事研究だったのかは分からない。だが、軍刀の開発にそこまで金銭を掛けるのもどうかと思った。それこそ鋳造式の安物でも、今の技術ならそれなりの物は作れる。

「52式軍刀の刃先は、炭素による単分子結晶。言ってしまうとの――」

 祖父の顔が、不敵なものへと変わる。

「――金剛石(ダイヤモンド)じゃ」

「――ッ!?」

 刀華は驚く。

 単分子結合の物質ということは、その切れ味は桁違いということになる。それは学園都市で開発されていた装甲用特殊金属に他ならない。

「まぁ、あまりにも加工し辛いせいで刀の形状にするのがやっとじゃった。しかも、単価も高くて量産できん……だから軍刀にしたのじゃ。贅沢じゃろ?」

「贅沢で済む話とは思えないですが……」

 そう、それならば自動小銃や戦車を多数製造した方が余程に意味がある。現代兵器に求められる汎用性と量産性のどちらをも満たしていない軍刀など予算を割り振る価値もない。

「作らせたのは儂じゃ。御主の運命を知った日に、の」

 正面から刀華を見据える祖父。

 その瞳と言葉が何を意味しているか分からないが、その意志が途轍もない程の覚悟に裏打ちされたものであると理解できた。

 祖父から溢れ出る気配。れは刀華が今まで感じた事のない気配。

 慟哭。嘆き。悲観。諦観。絶望。憤怒……刀華では捉えきれない無数の感情の混合物。祖父は幾多の感情を出すまいとしながら笑みを浮かべるが、その不敵な笑顔には翳があった。

「さぁ、受け取れ、孫よ。……自らの人生、己が刃を以て切り開いて見せよ」

 差し出された一振り。

 受け取らないという選択肢もあったかもしれない。

 己が戦技を未熟と嗤い飛ばして拒んでも良かった。
 優美さのない刃に軽蔑を以て不要と断じても良かった。
 実戦の気構えなど出来ていないと固辞しても良かった。


 だが、刀華はその一振りを受け取った。


 必要だ。


 本能がそう囁いた。



『さぁ、往きましょう――那由他の深淵まで』



「――ッ!」

 この場にいないはずの女性の声に刀華は驚く。だが、警戒行動に移る前に刀華の身体から力が抜けていく。遠のいてゆく意識の中、拳を握りしめて慙愧に堪えないという表情をした祖父の瞳だけが深く印象に残った。



『祖は我らが皇なり。汝、紫苑の御国を救いたまえ』



 そうだ。この声は幼馴染に似ている。

 だが、その声は嘆きと悲しみを孕んでいた。

 ――違う。これは明日香の声じゃない……彼奴(あいつ)はこんな悲しい声で囁かない。

 ――誰だ? 俺を呼ぶのは……

 祖父の無念の表情と一つの疑問を抱きつつ、刀華の意識は暗転した。

 そして、一人の少年の運命は流転する。











 少女はよろめく身体を叱咤し、立ち上がる。

 周囲には無数の巫女が斃れ伏し、大理石に描かれた広大な紋章の周囲には黒煙と、大影石の床の破片が散乱していた。周辺は悲惨の一言に尽き、魔導の気配が濃厚な残留物となって不可視の障害と成り果てている。

「そんな……」

 大規模な複合術式は、この巨大な円筒状の部屋の至る所に描かれている。それ程に大規模な術式の運用は国家規模の一大事であるという事実に他ならないのは明らか。そして何十人という巫女が斃れ伏している事を考えれば、並々ならぬ事態である事が分かる。

「誰かっ……誰か、無事な者は居りませんかッ!」

 白衣と緋袴――金の刺繍が施された重厚な意匠の巫女服を纏った少女は叫ぶ。

「うぁ……っ! 巫さ…ま……」

 崩れた祭壇の木材の支柱に下敷きになった一人の巫女が息も絶え絶えに少女を呼ぶ。

 少女は崩れた木材や破片を避け、巫女に近づこうとする。だが、身に着けている儀式用の巫女服は重く、思うように避けられない。

「もうっ! 急いでいるのに……」

 少女は焦りの声と共に自らの頭に乗った黄金の前天冠を床に打ち捨て、更に飾り紐を解いて巫女服の上に纏っていた千早を脱いでしまう。千早も置いて行こうかと一瞬だけ逡巡したが、止血術式や延命術式などが織り込まれているので使えると思い至り小脇に抱える。

 身軽になった少女は障害物と成り果てた祭壇を避け、一人の巫女に駆け寄る。

「無事ですか!? 今、助けます!」

 巫女の身体の上に横たわる支柱の残骸に手を掛ける。だが、無慈悲な事にその残骸は少女一人の細腕では僅かに動く事すらない。軍事教練を真剣に受けていれ ばよかったと少女は後悔しながらも更に力を入れる。身体強化の術式もあるが、大規模複合術式が暴発した直後で周囲の残留魔力が複雑に混じりあっており、術 式の使用は危険だった。

「何か使える物は……」

「アリアベル様ッ! 御無事に御座いますか!? 御願いです! どうか……どうか御返事ください!」

 少女……アリアベルの言葉を掻き消す程に大きく、それでいてこの阿鼻叫喚の場で不釣り合いなほどに良く透る声が響き渡る。その声にアリアベルも持てる限りの大音声を以て応じる。

「エルザですか!? 私は此処(ここ)ッ! 負傷者がいます、手伝って!」

 己が近衛騎士にして最も信頼の置ける友の声に、大御巫は涙混じりに助けを乞う。

 この失敗は自分によって引き起こされた事かもしれない。

 貴重な術式媒体と膨大な時間を掛けて形成した術式……そして何よりも《ヴァリスヘイム皇国》各地より集った素養の高い巫女を数多く失ってしまった。


 前日には故郷の話をした成人すら迎えていない巫女も。
 前日には緊張する自身を励ましてくれた練達の巫女も。
 前日には共に弛まぬ研鑽を誓い合った同門の巫女も。


 全てが《ヴァリスヘイム皇国》の礎となることすらなく露と消えた。それは《ヴァリスヘイム皇国》の大御巫(おおみかんなぎ)……アリアベルが至らなかったからに他ならない。《ヴァリスヘイム皇国》の行く末に活路を見出す儀式の失敗。どれ一つとして償えるものではない。

「ぅ…巫…さま……」

 呻くように呟いた巫女。

 何かを伝えたいのか、その表情は鬼気迫るものがある。

「何も話さないで! 傷に響く!」

 必死に首を振るアリアベルを無視して、一人の巫女が言葉を紡ぎ続ける。

「この儀式……妨害者が……外より…魔術が……」

「今は、その様な事は良いのです! 喋ってはなりません!」

 脇腹に刺さった破片を抜き取り、自らが纏っていた千早を掛ける。本来なら破片を抜き取る事は出血量を増やすので好ましい事ではないと知っていたが、止血術式の作用を使用者に齎す千早があるからこその行動であった。

「姫様、ここに居られましたか!」

 近くの破片を飛び越え、近衛騎士の装束をした女性か滑り込むようにして現れる。

 アリアベルにとっての盟友。

 幼き頃からアリアベルを護り続けていた近衛騎士にして、立場上数少ない友人。

「エルザ! 御願いです! この者を助けてください!」

 嘆きの雫を零しながら求める少女に、忠勇なる近衛騎士は応じる。

「ッ! しかし……いえ、分かりました、姫様!」 

 常に正道足らんとする友人にしては珍しく、人を助ける事に逡巡した様子にアリアベルは疑問を持ったが、苦しそうに呻く巫女にその思いは直ぐに霧散した。

「離れてください! その柱、斬ります!」

 エルザが、腰の刀に手を伸ばし、その白刃を抜き払う。

 それの意図するところを察し、その場を離れる。

 軍用の刀身の強度を強化し、その刃を増す為の術式が展開される。刀身の鎬地や樋、平地に刻まれた文様が蒼い光を放つ。

 近衛軍の専用近接戦闘刀剣術式は世界有数の切れ味と強度を近衛騎士が扱う刃に与えてくれる。陸軍の鋳造式の量産型軍刀とは違い、天帝を守護する近衛騎士 のみに与えられる一振り故の術式。公式記録には《スヴァルーシ統一帝国》の戦車の砲身を斬り落とし、理論上は放たれた砲弾を斬り払う事も可能と言われる一 撃を使用者に与えてくれると記されていた。

 なれば木材の支柱など容易く斬り捨てる事が叶うだろう。

 鋭い踏み込み。そして神速の斬撃。その刃は深く喰い込むのみに留まる。

 アリアベルはその理由に気付いた。

 術式とそれを十全に扱える技量。その二つが伴ってこそ無双の一閃と成り得るのだが、その前者が欠けている事に。

 神威の如き一撃とすら思える一閃。裂帛の意志を以てして一閃を放ったエルザの技量は間違いなく卓越したものだ。足りていないなど有り得ない。足りていないのは術式の能力に他ならない。

「残留魔力のせいで力を発揮できないなんて……」

 大規模複合魔術が不発に終わった影響により、魔力が過剰な程に密集して不規則な流れを形成している。魔力の転換効率が極端に低下し、能力が低下したのだ。いや、低下という言葉では生ぬるい。稼働していないと言っても過言ではない。

「巫…様、お逃げ…くだ…さ…い……」

「なりません! 同胞を見捨てて逃げるなど」

 悲鳴に近い声を上げながら巫女の手を取る。

 既にアリアベルの巫女装束は血に染まっているが、そんな事には気付かない。汗と血が混じった手を巫女も握り返してくるが、その力は徐々に弱弱しくなる。

 周囲の石造りの構造物の倒壊が加速する。

「姫様、危険に御座います! 下がりましょう!」

 エルザは巫女に縋り付くアリアベルを背後から羽交い絞めにして、引き剥がそうとする。

 その力にアリアは抗えない。相手は近衛騎士で、アリアベルは巫女に過ぎないのだ。体力には大きな差がある。

 天井を支えていた石造りの構造物が落下する中、エルザがアリアベルの両肩を掴む。

「いいですか、アリア! 天帝の召喚に失敗した今、ここで貴女を失えば御国は滅亡します‼」

 そんなことは、エルザに言われずともアリアベルは理解していた。納得はできない。或いはそれが若さというものかも知れない。

 大国たる《スヴァルーシ統一帝国》の台頭や、《ローラン共和国》、《トルキア部族連邦》の存在は《ヴァリスヘイム皇国》の存亡に大きな影を落としてい る。指導者が居らず、この上、更に大御巫まで失えば政治的な混乱は余りにも大きくなる。付け入られる可能性は十分に有り得た。北部貴族の叛乱も起きている 今この時、《ヴァリスヘイム皇国》には無駄にできる時間など存在しない。

 しかし、目の前の助けられるかもしれない命を見て見ぬ振りをする事はできない。他者の死を割り切るにはアリアベルは若く、そして優しすぎた。

 エルザの瞳が正面から、アリアベルを見据える。

 友人ではなく、大御巫を守護する近衛騎士として。

 そして、次の一言がアリアベルに決意をさせた。


「貴女は民の為に生き恥を晒さないといけないの!」


 それはあまりにも卑怯な言葉ではないか、と思った。

 そう言われればアリアベルに抗う言葉などありはしない。


 《ヴァリスヘイム皇国》の内憂。一体、誰ならばこの腐敗した国政を打破できるのか?
 《ヴァリスヘイム皇国》の外患。一体、誰ならばこの列強諸国の外圧を退け得るのか?
 《ヴァリスヘイム皇国》の斜陽。一体、誰の背にならばこの厳しい現状を担えるのか?


 全てを満たす答えなどない。一つの答えすら満たす事のできない貴族。一つの答えすら満たす事の出来ない軍人。一つの答えすら満たす事ができなくなってしまった天皇大帝(てんおうたいてい)陛下。

 ならば自らが《ヴァリスヘイム皇国》の希望となるしかないではないか。


 大御巫(おおみかんなぎ)


 それは《ヴァリスヘイム皇国》に於いて特別な意味を持つ。霊的脅威から民と国を護り、《ヴァリスヘイム皇国》の全ての巫女を統べるのみならず、新たな天帝をこの地へ顕現させ、それを心身共に輔弼するという国の興廃を左右する存在を大御巫と言うのだ。

「貴女に……家族はいますか…?」

 アリアベルは巫女の手を取り、言葉を紡ぐ。

 例え自己満足であったとしても、聞かずにはいられなかった。巫女は黙って頷く。

「家族には必ず……必ず伝えますッ! 貴女が散るその時まで巫女としての務めを果たし続けたと!」

 それに巫女は嬉しそうに頷く。

 その健気な笑顔が肺腑を深く抉る。巫女達を統べる者としての顔ができない。

「赦しは乞いません……ですが誓います。貴女達の挺身、無駄にはしない、と」

 その巫女の左手を取り、自らの額の前でそっと包み込む。

 目の前の巫女一人だけではない。この場で散った多くの巫女達にも同様に誓わねばならない。祖国の窮地を救って見せる、と。

「では……いずれ……九段で」

 大御巫は立ち上がり、緋色の袴を翻す。

 近衛騎士は無言で敬礼を捧げる。それが騎士の哀悼と決意の示し方。不器用で、それでいて誰よりも優しい無二の友人の精一杯の意志に、アリアベルは心中で感謝した。

 一段と構造物の崩壊が加速するが、この周囲だけは不思議と崩壊する音に穢されなかった。

 その場を去ろうとしたアリアベルの耳に微かな願いが聞こえる。


「この…国を…お願い…しま…す」


 言葉は返さない。

 アリアベルに《ヴァリスヘイム皇国》を救えるかどうかは分からない。純粋な言葉に嘘を以て返せるほどアリアベルは大人ではなかった。

「往きましょう……エルザ」

 アリアベルは走り出す。エルザも黙って後を追う。

 その先に待つのが《ヴァリスヘイム皇国》の佳き未来であることを祈って。



   この二日後、《ヴァリスヘイム皇国》は建国以来初となる内乱を迎える事となる。

 

 

 

 

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宗教は阿片だ

言わずと知れたハグリッド……もといカール・マルクスが宗教を阿片に例えた言葉を指す。


実際は宗教に対する否定的な言動ではないが、ロシア革命以降のソ連や中華人民共和国などの共産主義国家に於いて宗教が弾圧され、聖職者が殺されたり教会が 破壊されたので、「まぁ、間違いではないだろ?」とネガティブに広がってしまった。あの当時、阿片は医薬品としても使用されていたので決して麻薬という側 面だけを有する訳ではなかった。

 マルクスの友人である詩人クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネは著書で「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」と記しており、恐らくはマルクスもそうした意味で記したと思われる。

 おや?君。無神論という”宗教”を標榜する共産主義は麻薬としての阿片だと思うだと? それは反革命的な言葉だ。おっと、誰か来たようだ。