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第二一話    対の姉妹





「大尉殿、正面、来ます!」

 堡塁へと続く狭い地下通路から現れた兵の報告に、レオンディーネは表情を引き締める。

 中隊規模の陣地であるが、銃砲は過密と言っていいほどに密集しており、その火力は帝国軍の攻勢を容易く跳ね除けると皆が信じて疑わない。

「射程に入り次第、撃ち方始め! 他の堡塁に遅れてはならんぞ!」

 中隊司令部でもある堡塁に入ると、急に体感温度が下がった。レオンディーネは慌てて塹壕長外套(トレンチコート)の襟を首元に寄せる。急に温度が下がるのは、他の特火点や堡塁と違い、それだけ練石(ベトン)の分厚さが違うという事である。内部には小規模ながら魔導通信設備が備えられており、魔導通信兵も常駐していた。

「雪の所為で視界が悪い……」

 レオンディーネは堡塁に据え付けられた野砲の突き出ている砲眼から、双眼鏡で前方を見据える。砲眼は銃眼に比べ、長砲身の砲を旋回可能な様に左右に広く取られているので、覗き見る事に苦労はしない。

 稜線状の緩やかに傾斜した眼下には、幾つもの特火点(トーチカ)が 見える。一つ一つに網が被せられ、湿地の泥が塗られ、植物が結わえ付けられて巧妙に隠蔽されている。特火点は正面を向いた銃眼以外には、殆ど穴が空いてい ない。視察観測が不能となる死角が多く生じるので、複数の特火点を並べて互いに援護し合い、敵に対して十字砲火を浴びせられるように配置されているのだ。

 縦深のある防御拠点であるのはこの為である。横一列に堡塁や特火点を敷設した場合、一度抜かれた際、後背に回り込まれて爆破される危険が増大する可能性を考慮した結果でもあった。

 後方の城郭から中央部の防護城塞線、最前線である堡塁と特火点(トーチカ)による防衛線を総じてエルライン要塞と呼称し、その中でもレオンディーネの率いる中隊が、展開している防禦陣地は限りなく最前線に近い位置に敷設されていた。

「陣地戦闘では大規模な散兵戦術は使えんしの」

 レオンディーネは獅子の如く唸る。

 皇国と帝国との主戦場はそう多くなかった。これは、考えれば単純な話で、両国の国境線上を貫く様にエルネシア連峰が隆起している以上、直接に面している 回廊であるエルライン回廊に両国の主戦力は集中する。或いは中部大星洋上での海戦となるが、こちらに関しては陸軍軍人のレオンディーネには関わり様のない 戦いであり散兵戦術も意味を成さない。そして、エルライン回廊は狭隘な地形で大軍の布陣に適さず、兵を散開させるほど開けた土地でもなく、レオンディーネ の思うような戦闘が起きる可能性は極めて低かった。その上、要塞戦故に野戦に比して指揮官の見せ場は少ないのだ。

 無論、南北エスタンジア地域という代理戦争の部隊もあるが、峻険な地形が多くを占める事から、エルライン回廊程ではないが、大軍の運用には適していな い。大軍を差し向けても、突破までに、国境付近で即応した部隊が駆け付ける手筈となっている。大軍というだけでの突破は難しい。ましてや地形上、主要な侵 攻路は海岸沿いとなる可能性が高い。制海権確保という手間もある。

 皇国と帝国の海上戦力は拮抗している。

 それが民間での評価だが、実際は前者が大きく有利である事は軍事に携わる者であれば、誰もが知り得る事実である。

 戦闘艦の総数では帝国海軍が優勢であるも、練度と性能に於いては皇国が有利。しかし、最大の差異は防護すべき海岸線の距離と拠点数である。支配地域規模 が通常で、人口密集度が諸国家平均以上の皇国は海岸線の距離も然して長くはない。防護すべき商用航路に十分な哨戒戦力を展開できた。対する帝国は広大な支 配地域を持ちながらも、人口密集度は周辺諸国と比して酷く低い。治安維持には、より多くの艦艇と人員を必要とする。陸軍国家である事もあり、艦艇の更新に 対する予算が限定され、帝国海軍は戦力的優位性を確保できないでいた。

 勝敗が不明確な状況で艦隊戦を選択する可能性は低い。

 海軍は陸軍の様に人海戦術を選択できない。運用は完全に技術職によるものであり、練兵を怠る事もできず、艦艇の建造にも資源と時間を要する。安易な損耗 を決断できる国家は少ない。よって南北エスタンジア地域よりの侵攻の可能性は低い。もし有り得たとしても、先んじて制海権の確保が必要な事から艦隊戦とな る公算が大きい。海軍の動員は、主力艦の動向が各国の諜報によって常日頃より把握されている場合が多く、嗚呼くする事は難しくなかった。陸上戦力の動員が 遅れて突破を許す可能性は極めて低い。

 レオンディーネは、邪魔な前髪を振り払う。

「ふん、あちらの戦線であれば、活躍できたものを。無念じゃ」

 トウカと別れて以降、アリアベルを経由した参謀本部の命令により、レオンディーネは一時的にエルライン要塞の装虎兵中隊指揮官を拝命していた。本来率い ていた中隊はベルゲンの防衛戦力として組み込まれているが、一時的な措置で、帝国軍接近の一報を受けた参謀本部は、部隊指揮官を補充としてレオンディーネ を輸送騎で送り出す決定を下した。無論、そこにはアリアベルの思惑が介在するところ大である事は周知の事実である。

「敵は、また聯隊規模の歩兵か……」

 身を隠す遮蔽物のない雪原を一直線に掛けてくる深緑の軍勢を見据える。同時に、砲撃の腹に響くような重低音が無数に木霊する。


 帝国軍砲兵の一斉射撃。


 帝国陸軍の攻城戦規範通りの戦術であり、目的は歩兵の支援だろう。一昨日前、砲兵による猛烈な制圧射撃が降り注いでいた為に、運悪く破壊された堡塁や特 火点も存在するが、最前列の防衛線は植生を取り除かず、生い茂らせる事で堡塁や特火点を隠蔽していた。制圧射撃により木々は雪中に薙ぎ払われているが、倒 れた木々でも十分に隠蔽物や隠蔽物になるので問題はない。無論、帝国軍砲兵の圧倒的投射量によって早々に喪われる事も想定済みである。

「観測射です。外れます大尉殿」

 報告であるが、自らを落ち着かせる為であろう配慮の滲む言葉に、レオンディーネは鷹揚に頷く。

 堡塁の砲眼からは、砲弾の着弾により巻き上げられた土砂や破砕された木々が降り注ぐ様子が見えるが、レオンディーネの口元は猛々しく歪んでいた。

 自らの口元に手を当てて「いかんな」と反省するが、周囲の将兵達は獅子姫のそうした姿を見て戦意を少なからず取り戻し、敵を見据え直した事をレオンディーネは知らない。

 即ち、獅子姫とはその様な存在に他ならない。同胞に戦意と勇気を与え、怨敵には脅威と絶望を撒き散らす。それは種族としての好戦的な在り方もあるが、それ以上に兵の死を嘆きながらも、戦を好むという難儀な性格に依るところが大きかった。

 ヒトの死を素直に受け入れる事のできない若さと、戦野で武勇を見せる烈士達を好むその姿を、配下の兵士達は好ましく感じている。本来、指揮していた部隊は遠くベルゲンにおり、この場にいる部隊は、そもそも装虎兵ですらない。

 だが、それでも尚、勇敢に戦う事を褒め、自らが散れば涙してくれるであろう存在が貴重なこの時代。信頼に足る上官を得た彼らは意気軒昂であった。

「敵砲兵、効力射に移行しました!」

「友軍砲兵も応射を開始!」

 獅子姫は黙って頷く。

 効力射とは効力を発揮すると判断された砲撃の事であった。

 通常の砲撃では効力射を行う前に観測射を実施し、砲撃が破片や爆風により敵に被害を与え得るかを確認する。敵に対して有効であると確認されれば効力射に 移行し、発揮できないと観測された場合は、もう一度、修正射を行う。修正射とは、その前の射撃の着弾地点が敵からどれ程に外れたかを確認し、砲の射撃基準 諸元を修正して射撃する事である。基本的に火砲の射撃はこの形式で行われ、射撃の呼称は違うが海軍艦艇の砲戦もその点は変わらない。修正射で敵に損害を与 え得ると判断されれば効力射に移行し、被害を与ええないと判断されれば再び修正射を行う。これを繰り返す事で砲撃の精密性を増してゆく。

 レオンディーネは砲兵の分野に詳しくないが、砲兵の一斉射撃の恐ろしさは理解していた。

 突然の衝撃が襲う。堡塁に直撃弾を受けたのだ。

「被害知らせぃッ!」

 獅子姫の言葉に、通信兵が返す。

「被害なし! 砲弾は弾かれた模様!」

 当たり前じゃな、とレオンディーネは鼻を鳴らす。

 皇国は魔導技術に於いてアトランティス大陸はおろか、他大陸よりも一歩も二歩も進んでおり、その肥沃な国土には豊富な魔導資源が眠っている。軍事兵器もその恩恵を少なからず受けており、堡塁には須らく魔導障壁の術式が刻印され、対魔導防御も然ることながら通常の練石(ベトン)製堡塁と比較しても倍以上の物理防御力を有していた。

 堡塁とは一般的に円形や方形などの単純な形状で、特火点に比べ比較的大きく、銃眼となる開口部を除いて強固に保護された防御施設である。特筆すべき点は、練石(ベトン)製の本格的なものでは榴弾砲の直撃にも耐え得る為、排除が困難を極めることだろう。そして、その真価を皇国が築き上げた堡塁群は、砲弾の嵐の中で証明し続けていた。

「敵歩兵の最前列、射程に入りました!」

「撃ち方始めぃ!」

 大音声とも取れる号令に、烈士達は痛烈な銃砲火を以て答える。

 常日頃より苛烈な練兵を受ける兵士達は、命令の是非を問う事はない。反射的にその命令を受け入れる程の練兵を将兵に施しているのだ。

 断続的な重低音と軽快な連射音が響く。

 前者が堡塁に展開されている野砲の砲撃音で、後者が特火点などに配置されている機関銃などの射撃音である。時折、小銃の射撃音も聞こえるが、特火点の兵 士達が銃眼からの射撃を開始したのだろう。防御拠点からの射撃は、安心感を伴っている為か命中率が高く非常に有効であった。

 砲撃により後退する野砲を眺める。砲架の脚の内部に内蔵された撥條(バネ)駐鋤(ちゅうじょ)に固定された反動制御機構が搭載されているものの限定的な効果しかない。予算不足で旧式砲を更新できなかった影響である。軍事費の不足は将兵の苦労と人命で補わざるを得ないのだ。

 小銃の様な連射ができない事をもどかしく感じつつも、レオンディーネは次々と上がる報告に応じる。相手の攻撃方法が単調であるが故に、守り手の対応も単 調なものとならざるを得ない。レオンディーネの兵科は装虎兵であり、虎に跨乗して縦横無尽に戦野を駆けずり回り、敵を蹂躙する事こそが本懐であった。

 望遠魔術の付与された双眼鏡で、敵の一隊が歩兵聯隊の後方に後続していることを確認する。

「ふむ、敵の工兵部隊か。塹壕(トレンチ)を掘られては叶わん。……後方の砲兵陣地に支援要請! 敵工兵部隊に砲火を集中せよと伝えぃ!」

 地面に人がしゃがみ込める程度の塹壕であっても十分に弾除けにはなる。無論、稜線状の地形であるが故に、深さのない塹壕であれば高い位置に展開している 防御陣地からは露出して見えるのだが、人海戦術を得意とする帝国陸軍であれば弾雨の中、塹壕を掘り進める事も厭わないと容易く推測できた。

 爆音が響く。直後に大質量の落下音が響き渡り、工兵部隊のいた一帯に巨大な雪交じりの砂柱がそそり立つ。

 大口径臼砲の一斉射撃。

 臼砲とは大口径の榴弾を放つ短砲身の火砲で、通常は攻城戦などの硬装甲の目標に対して使用される。だが、皇国軍はその広範囲を殺傷範囲に収められる攻撃力に着目した。帝国軍の大兵力を押し留める事が可能なことや、製造費用対効果(コスト)が比較的安価である為に皇国陸軍砲兵部隊はエルライン回廊に集中配備している。

 大質量の重榴弾砲の着弾の効力射で宙を舞った敵兵が、雪を吹き飛ばされた地面に叩き付けられ絶命する。

 正視に堪えない光景に着弾確認を行っていた兵が視線を逸らす。レーンディーネもその光景に冷や汗をかく。

 臼砲が前線に配備されている理由はもう一つある。敵に奪われた特火点や堡塁を処分する為であった。

臼砲の弾種の一つに練石(ベトン)弾という砲弾があり、これは要塞を破壊する目的で分厚い練石を貫通できるように作られた徹甲弾の一種である。別名、破甲榴弾とも呼ばれていた。

 皇国に対する帝国の戦争に捕虜という概念は存在し得ない。

 帝国は国是として、一部の例外を除き人間種以外の種族を認めてはいない。皇国や共和国の領土を自らの領土である宣言しており、皇国では防衛戦争と認知さ れているこの戦争も、帝国にとっては叛乱軍の討伐に過ぎない。皇国への外征戦力を鎮定軍と呼称している理由もそこにある。

 彼らに人道などないのだ。故に助からない堡塁や特火点の介錯を務める役目を臼砲は負っている。

「正面、敵圧力増大! 師団規模の砲兵の模様!」

 砲兵師団を実際に火砲だけで編成する帝国軍ならではの大火力。堡塁(ほうるい)特火点(トーチカ)の魔導障壁や練石(ベトン)の厚みを考えると容易く撃破される事ないが、威圧感はかなりのもので、帝国軍もそれを理解して砲撃しているのだろう。

 不規則に降り注ぐ膨大な数の榴弾に、怯えた様に報告する兵士に対し、レオンディーネは嗤い掛ける。

 ――良い、佳いぞ。これこそ戦じゃ! 

 怯える事は悪くない。人間の根源である感情であり、その感情があるからこそ身に迫る危機を嗅ぎ取る事ができる。蛮勇を振り翳して早死にされると兵数が減 少し、戦線を維持できなくなる事に加え、恐怖を押し殺して刃を振るい続けるその姿こそが真の烈士であると、レオンディーネは信じて疑わない。

「敵歩兵を全力で迎撃し続けるのじゃ! 砲兵? 構わぬ無視せよ!」

 圧倒的兵力に対しての近接戦は自殺行為であり、敵を接近させない事を最優先させねばならない。強固な対弾防御の施された堡塁や特火点の防御力を頼りに、 敵砲兵の攻撃は無視する。攻撃優先順位の選定は、要塞司令部によって定められているので、兵士達も理解しているはずだが、やはり圧倒的な砲撃の前に浮足 立っていた。

 周囲では運に恵まれなかった堡塁や特火点が、大質量を伴った砲弾を大仰角から受けて天頂から叩き潰される。その光景は心胆を凍らせるには十分。

 だが、相手も長期戦を見据えているのか、準備砲撃の時間は短時間であり、密度としては然したるものではない。

 堪え得る。レオンディーネは、そう判断していた。

 火箭に囚われる敵兵の数が減少している現状に獅子姫は歯を食いしばる。そして、機関銃を操作していた兵士の背中を蹴る。

「たわけ、馬鹿者が! なんだ、その撃ち方は! もっと、腰を据えて冷静に撃てっ!」

 獅子姫の叱咤が、堡塁に響き渡る。人すら殺しかねない視線で「命令を徹底せよ」と通信兵を一瞥する。

 帝国軍の戦術は限定されている。既に戦端が開かれて七日経過しているが、過去の歴史を紐解けば三ヶ月近く戦闘が継続した事すらあった。この穴倉に籠ったままの戦いに不満がない訳ではないが、敵を眼前にしている以上、手を抜くという選択はない。

「ふん、戦姫か戦死か知らぬが、目の前に現れたならば斬り捨ててやるのじゃがな」

 犬歯を剥き出しにして、獅子姫は嗤う。

 血煙を上げて雪原に倒れ伏す敵兵の更に先――敵の本陣があるであろう方角を睨む。

 そこで言い知れぬ違和感が襲った。

 慌てて首に掛けていた士官用双眼鏡を構え、帝国軍の本営の方角を覗き見る。その瞬間、展開している幾つもの帝国軍の師団司令部から信号弾が上がった。


 信号弾の色は赤。


「馬鹿なっ! 総退却じゃと!!」

 撤退を意味する信号弾の色に、レオンディーネが怒声を放つ。

 一週間足らずの攻勢で帝国軍が撤退を開始するなど前代未聞であり、最終目的がエルライン要塞の攻略である以上、戦線の変更や欺瞞撤退など無意味。要塞司 令部も追撃命令を下すことはないだろう。要塞という堅牢無比の楯があってこそ、皇国軍は帝国軍の物量に対抗できるという事実を新米下士官に至るまで誰もが 周知している。

「要塞司令部より通信。偵察騎が帝国軍の全戦力が後退を始めた事を確認したとのこと!」

 兵士からの報告に、レオンディーネは堡塁の側壁に右手を打ち付けた。殴られたベトンの壁が抉れ、周囲の兵士達が顔を蒼白にしているが努めて無視する。

 帝国軍の全戦力が後退するという事は、最前線だけでなく後方の司令部や兵站拠点に関しても例外ではないという事である。要塞司令部もかなりの数の偵察騎 を割いてこれの把握に努めている事は想像に難くない。エルライン回廊という限定空間では、十万単位の戦力が上空からの偵察から身を隠す術などない。少数で あれば高位魔導士による遮光迷彩魔術で可能かも知れないが、敵地で貴重な高位魔導士を捨石とする事は有り得ない。ましてや帝国軍の主戦力は銃兵であり、魔 導士の数は極めて少なかった。

 全く以て理解できない。

「馬鹿な……此方の被害は?」

 敵の動向は不可解であるが、被害の詳細を聞けば敵の出方が判明するかも知れないという期待からの問いであったが、返答は芳しいものではなかった。

「我が部隊への被害は殆どありません。ですが、重砲などの火砲が配置されている堡塁や特火点が集中的に被害を受けました。損傷した火砲も多く、全損した砲を合わせれば二割は即時の運用が不能です」

「くっ! ……撤退中に背中を撃たれんようにする為か!?」

 元々、帝国軍は、エルライン要塞への攻勢に対して積極的ではなかったのかも知れない。国内の政治的な理由に依るものか、何かしらの策謀の一端としての撤退なのかは、レオンディーネの想像の及ぶところではなかった。

「要塞司令部に打電するのじ!! 儂が装虎兵と騎兵を率いて敵の策を暴く、と!! 期限内に返答なき場合は当方で独自に動くとも付け足すがよい!」

 レオンディーネは、壁に立て掛けられていた戦斧(ハルバード)を肩に担ぎ、大音声で命ずる。

 戦場では上級司令部からの命令が届かず、刻一刻と変化する戦況に対応できない軍勢が大損害を被ることが多々ある。特に最前線の部隊はその傾向が大きく、ある程度の現場の独断が黙認されている。

 独断専行は戦場の華であるが、要塞戦の防御側が敗走したとはいえ、圧倒的戦力を保持したままの敵軍に、限定的であっても野戦を挑もうというのだ。通常であれば、無謀極まりない、と笑われるだろう。

「要塞司令部より返信! 予備隊から装虎兵中隊を差し向けるので、これを指揮せよ、とのこ!!」

 通信機から顔を上げた兵に鷹揚に頷き、レオンディーネは戦姫の笑みを浮かべる。

 要塞司令官も撤退する帝国軍の動向を強引に推し量ろうとしていたのか返答は速かった。己が配下である勝手知ったる装虎兵中隊とは違うが、これから行おうとしている戦闘の戦力としては最適であった。


「是非に及ばず、じゃ!」


 背後から駆けてくる猛虎達を見て、レオンディーネはその戦意と練度に不足なしと判断する。その姿に、軍用長外套(ロングコート)を翻し、獅子姫は砲眼から外へ飛び出す。

 背後から駆けてくる猛虎達と一体となったその姿は、正に獅子を束ねる血族の姫君のものであった。









「そうか……帝国が動き出したんだね……」

 気弱な老人といった風体の男が、溜息交じりに呟く。

 怯えた表情に小柄な身体の老人。その手は小さく震えている。その手を逆の手で無理やり押さえ付け、北方の守り神たるエルライン要塞の存在する方角を見据 えた。だが、その瞳だけは爛々と輝いており、霞むことなき戦意を湛えている。臆病者でありながら、気高く有ろうとする貴族。


 レジナルド・ルオ・フォン・エルゼリア侯爵。


 皇国北部に於ける主要な貴族にして、天龍族に連なる龍である。聡明にして明朗を旨とする龍族だが、レジナルドが数少ない例外だった。

「怖い……怖くてたまらないよ、僕は」

 正直に恐怖の感情を吐露するレジナルド。感情を揺らす事が少ないとされる龍族にあって、他者の前でこうも不安を述べる程に気弱な者は間違いなく異端であ ろう。高齢であるという免罪符があったとしても尚、その姿はあまりにも滑稽だった。だが、それでいて瞳だけは峻烈な輝きを放っている。

 レジナルドは有能ではないが、民には優しく、慈愛に満ちた領主だと慕われていた。

 アーダルベルトなどの五公爵……他の貴族は、神秘性や神聖性を重視し、民に敬意と畏怖を与える事で領地の強固な政治基盤を築いているが、レジナルドはそ の気性からそれが叶わなかった。そして、他の龍族から軟弱者と謗られようとも、領地に関しては内政干渉が原則として禁止されているが故に、レジナルドはそ の誹りを気にすることはない。

 レジナルドに出来ることは、民と共に笑い、民と共に泣くことだけである。民と共に汗を流し、血を流す。それこそが、レジナルドの誇りであり、唯一、成せることであった。

「何故、この時期に……早すぎるよ。いや、この時期だからこそ慌てて仕掛けてきたのかな」

 魂すらも抜けてしまいそうな溜息を一つ。

 時代は流血を欲している。そして、この現状は、その時代の中に自らも身を置いていることを、否応なく実感させた。

 帝国陸軍、南部鎮定軍による大攻勢。推定戦力五〇万近い深緑の軍勢を想像し、レジナルドは自責の念に駆られる。

「私が叛乱など起こさねば、こうも早く帝国が攻めてくる事はなかったはずだ……」

 レジナルドは、不甲斐ないよ、と嘆く。

 エルゼリア侯に続く形で叛乱に同調した北部貴族は多い。皇国中央部が先帝の思想を反映して温厚な政策を重視している為、北部の貴族と民は不遇を強いられ ている。防衛の為の戦力はその多くが引き抜かれ、最大時の半数以下でしかなく、エルライン要塞の駐屯兵力も、前回の防衛戦時に比して余りにも少なかった。 エルライン要塞の防御力への過信と、帝国からの圧力を減じる為の措置であると説明されたが到底納得できるものではない。長年、異国の脅威に晒され続けてい た故に、他の地方の貴族に比べ強固な団結力を持っている北部貴族達にとって、兵力の減少は死活問題である。帝国の侵攻に怯え続けた時代の轍を踏むわけには ないと、エルゼリア侯は次期天帝が招聘された際は、皇都へ赴き嘆願する腹積もりであったが、神祇府の不手際で時期天帝は行方知れずという噂がある。

 だが、それらの問題はあくまで脅威というだけで実害を伴っている訳ではない。為政者の心配は、必ずしも民草の心配と成り得るわけではない。

 しかし、今回の帝国軍侵攻は民の不安を煽る結果となった。

 ましてや北部の治安は兵の減少によって悪化の一途を辿っていた。近年、出没している複数の匪賊は素人集団ではなく、明らかに戦い慣れた者達で、討伐隊を 投入しても、その時点で雲に霞と姿を消しており捕捉する事すらできない。指揮している者も優秀なようで、中々姿を掴ませず、未確認情報ではあるものの非合 法の傭兵団であるという噂もある。

 その様な状態の北部は、年々民衆が他の地方に流出しており人口減少を続けていた。

 貴族達の収入もそれに応じて少なくなり、領地の整備もままならない上、帝国軍の侵攻に応じて、領邦軍増強の戦費も増大するとなれば、貴族も領民も負担に耐えきれない。

 実は、北部の貴族達は帝国侵攻を事前に察知していた。

 中央貴族は帝国の内部で叛乱が続いている事に加え、精度の低い情報だと切って捨てたが、北部貴族達はそうは思わなかった。

 帝国の食糧難の深刻さを知っているからこそである。帝国では民に皇国は蛮族や化け物が住まう辺境だと教えており、多くの民がそれを信じている。だが、例 えそうであったとしても、皇国へ亡命を希望する者達がいる現状はそれを裏付けていた。無論、亡命者は皇国の民衆として北部の領地で受け入れており、人口の 減少している北部にとってはそれが唯一の救いでもある。

「予定だと帝国が仕掛けてくる前に、中央から譲歩を引き出すつもりだったんだけど……」

 レジナルドは執務椅子から立ち上がる。

 簡素な造りの執務室の窓から、雪の降る城下を見下ろす。

 我らの策は敗れた。斯くなる上は、叛乱の為に集結させていた部隊を、中央から増援として進出してくる部隊と合流させ、エルライン要塞に向かわせねばなら ない。決起した北部と鎮圧に臨もうとしていた中央を、少なくとも帝国との戦争が終結するまでは、再び同じ意志の下に集結せねばならないのだ。これは容易な ことではない。容易に事が運ぶとも思えない。

「将兵達には苦労を掛けてしまうね……」

 レジナルドの旗に集い、叛乱に加わった軍勢は元より北部を守護していた三個郷土師団。それ以外は、各貴族が保有する貴族の私設軍である領邦軍であった。

 郷土師団(ラントヴェーア)とは、その地方の者 達を中心に編成される師団の事で、北部を護ろうという気概は他の師団よりも強い。これこそが郷土師団の強みであり、郷土師団の将兵は進んで叛乱に加わっ た。無論、故郷の為とは言え、叛乱を起こすとなると躊躇う者も多いと思えるかも知れないが、実情はそうでもなかった。これは一重にレジナルドの人望に依る ところが大きいが、当人はそれを認識していない。

「皇軍相撃の真似事などしている暇はない……」

「ほぅ、ではやはり叛乱は中止かのぅ?」

 妖艶な、それでいて何処か優しげな声が響く。

 レジナルドが振り向くと、開け放たれた扉にもたれ掛った一人の女性が煙管(キセル)を燻らせていた。

「マリアベル殿……来ていたんだね。気付かなかったよ」

 妖艶さと厭世的な雰囲気を纏ったマリアベルに、レジナルドは頬を引き攣らせる。

 レジナルドは、マリアベルを苦手としている。無論、それは本能的なもので確たる理由がある訳ではないが、見ているだけで自らの不甲斐ない性格や容姿の劣等感を掻き立てる事に加え、その退廃的な思考に危険を感じていたからでもあった。

 だが、同時に同情してもいた。


 マリアベル・レン・フォン・グロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵。


 紫苑色の長髪を纏め上げ、それでも尚、垂れる程に長い長髪。着崩した神州国の豪奢な着物に煙管(キセル)。 そして、”少々”派手な化粧は貴族の姫君ではなく、高級娼婦の如く見え、目にする者によっては嫌悪感を抱くだろう。性格や雰囲気も出で立ちが示す様に厭世 的であり退廃的でもあった。マリアベルは、家臣に領地の運営を任せ、自らは怠惰を貪っている。その立ち振る舞いも在り方も、皇国ではレジナルドとは別の意 味で異端であった。

 そして、何よりも幼少より多大な不遇を強いられていた。

 父は神龍族の長にして七武五公の五公爵が一人、アーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ。そして、母は素性の知れぬ人間種の女性であった。皇 国は異種族間に生を受けた者に対して寛容とは言えないが、常に軽蔑の視線を向けられるほどではない。基本的に人間種以外は社交的とは言えないが、異種族間 に生を受ける者が存在しないわけではなく、例外というものは何時の時代も往々にして存在する。

 だが、それでも尚、憎悪は深い。

 龍族の間に産み落とされたのであれば、その能力が減ずる事はないが、人間種との間に生まれた故に単純計算でも能力は半減している事は確実。だが、母が人 間種であったこと以上に、それが原因で龍族特有の病に掛かってしまった点が致命的に過ぎた。子を成せない身体と、龍族の象徴でもある黄金の瞳を行使する行 使ができない。それは、貴族の令嬢として致命的な失点なのだ。

 前者は、龍族の後継者として政治的に致命的過ぎる欠点。
 後者は、龍族の武人として軍事的に致命的過ぎる欠点。

 その二つを満たしてないマリアベルは、龍族の都であるドラッケンブルクから追放される形となった。暗殺の危険に晒されず、伯爵位と領地まで時の天帝に嘆願し、授けたのは、アーダルベルトの優しさだったのだろう。

 今回の叛乱も計画の大筋はマリアベルが立案したものである。

 人間種の血が流れているということは“明日をも切り開く力”を有していることに他ならないと、レシナルドはマリアベルを高く評価してもいる。それ故に苦手であり、単純に同情してもいる訳なので、その感情は当人すらも容易には整理できない程に複雑怪奇なものであった。

 そもそも彼女の怠惰は擬態なのだ。陰でどれ程に苛烈な政治と経済闘争を繰り広げているか、目端の利く者であれば気付いている。

「国が滅ぶのが恐ろしいかえ?」

「ああ、怖いさ。堪らなく怖いよ。領民を護れず卑怯者の誹りを受けることが、ね」

 正直に内心を吐露する。

 マリアベルはクロウ=クルワッハ公爵アーダルベルトを憎悪している。一度としてその様な感情を見せたことのないマリアベルだが、レジナルドはそれを確信 していた。五公の領地の中でも、北部に比較的近い龍族の都、ドラッケンブルクを攻撃する事を叛乱の最終目標に据えている点を踏まえれば明らかである。無 論、北部の嘆願が受け入れられない場合、軍をドラッケンブルク近郊に進出させる事も止むなしとは考えているが、レジナルドは明確な理由もなく他者を蹴落と せる程に為政者ではなかった。それ以前に北部貴族が高度な紐帯を見せたとしても、龍の巣を突けば只では済まないだろう。

「君は戦いたいのかい? 僕は叶う限りは避けたいよ」

 レジナルドは、煙管(キセル)を燻らせるマリアベルを見据えた。

 自らの復讐心を満たす、この千載一遇の好機を座して見過ごす程、諦観の海には沈んではいないはずだと、レジナルドは確信していた。最悪、レジナルドを暗 殺などの非合法な手段で排除し、傀儡でも立てて叛乱を継続するかも知れないという不安もある。まさか独り言を聞かれているとは夢にも思わなかった。

 だが、マリアベルは一瞬、呆気に取られた後、盛大に嗤う。堪えきれないとばかりに腹を抱えるマリアベル。

「戦い!? 違えておるの、エルゼリア侯! 目的を履き違えているわ! 戦闘(過程)など如何とでも良かろうて! 重要なのは勝利(結果)であろうにぃ!」

 紫煙を吐き出して嗤うマリアベルに戦慄する。即ち、過程など考慮する必要はなく、結果さえ得てしまえば佳いと考えているのだ。危険な思想だ。

 存外にレジナルドの知る戦闘以外でも結果を得る手段は存在すると言いたいのだろう。だが、レジナルドや叛乱前の北部貴族の会議でその様な事を一言も口に していない。褒められた手段ではないと容易に想像できる。レジナルドや貴族達が納得する手段であれば既に提案しているはずであった。

 だが、レジナルドにはマリアベルを止める術を持たない。

「政府に帰属する宣言はしないよ。でも、エルライン要塞の防衛の為の戦力の移動はこれを認める……それでいいだろう?」

「まぁ、妥当な判断であろうの」

 肩を竦めたマリアベル。

 帝国がエルライン要塞を抜き、皇国国内へと雪崩れ込めば主戦場は北部となる。それだけはレジナルドも貴族も避けたい。無論、マリアベルもこれには反対する理由がないはずであった。帝国に領地を蹂躙されれば、マリアベルも刃と楯を喪うことになる。

「一先ずは、暗黙の休戦であろう」

 帝国の侵攻が、政府や中央貴族の意識を変えるかも知れない。先代天帝が崩御し、嘗ての体制のままでは国体護持は儘ならないと気付く可能性もある。

「国あってこその領地だ。貴族も民も国あるを忘れていたんだ」

 国なくして民も貴族も存在し得ない。逆もまた同様ではあるが、今は国を優先させねばならなかった。貴族と民は後回しにせねばならない。全てを喪う訳にはいかないのだ。

「僕はね……これ程に国の存在を意識した事はないよ」

「妾も、それだけは全面的に同意してやろうて」

 二人を含め貴族の大半は外に目を向ける事がなかったが、時代は移ろいつつあり、人の営みにも少なくない変化が表れていた。

 政治の在り方、軍事兵器の進歩。思想の多様化……

 挙げれば際限がないが、どれもが今この時も進歩を続けている。いずれは多くの者が飢えと戦火に苦しむ事のない政治体制や、龍族すら容易く薙ぎ払う兵器、万人の心を救済する思想が到来する事とてないとは言い切れない。

 顔を青くしているレジナルドを見て、マリアベルは笑っていた。

 内心を見透かされているのだろう。マリアベルは厭世的な雰囲気通り怠惰な性格をしているが、決して無能ではない。寧ろ、同年代の者達と比しても、先を見 据えるという点に関しては、傑出していると、レジナルドは理解していた。それが復讐の為であったとすれば悲しい事ではあるが、本人の能力に影響を及ぼす要 素足り得ない。

 レジナルドは首を振る。

「本の虫だからか、最近は自分の想像力に驚かされるよ」

 どうも悲劇的な考え方をしてしまう。気弱なせいもあるが、やはり書物の読み漁り過ぎなのかも知れない。

 マリアベルは煙管を指先で弄び、何回転かさせると手品の様に消して、背中を向ける。


「永き(まつりごと)の季節は終わり――」


 両手を広げ、廃嫡の龍姫は謳う。

 妖艶で、それでいて何処か楽しげな様子に、レジナルドは声が出ない。ただ純粋に美しいと思ってしまうが、同時に他者を凶行に走らせる妖うき美しさ。

 他者の言葉に、自らの在り様を変えるほど廃嫡の龍姫は幼くはない。それでも尚、この麗しき龍姫に正道を歩んで欲しいと思わずにはいられない。


「――時は巡りて、流血と(はがね)の季節が到来する」


 右手を振り払い黄金の意匠が施された扇子を手に、レジナルドへと差し向ける廃嫡の龍姫。

「そ、それは誰の言葉だい?」

 そう返すことで精一杯であった。直視すれば魅了されてしまう気がする。他者を邪道へ引き摺り込む危険な美しさ。レジナルドには抗い難かった。


「ふふっ、妾の言葉に決まっておろうて……エルゼリア侯」


 黄金の扇子で口元を隠した廃嫡の龍姫は妖艶に笑う。その笑みは《ヴァリスヘイム皇国》に何を齎すのか。

 今、それを知る者は誰一人としていない。

 

 

 

 

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なんだ、その撃ち方は! もっと、腰を据えて冷静に撃て!

                 《大日本帝国》海軍  戦艦伊勢艦長 中瀬泝大佐