第二三話 御国の護り神
――何を……儂は何を間違ったッ!!
レオンディーネは、目の前で狂相を見せた少年の気配に寒気を覚えた。
自身がトウカの在り様を計り違えた事は事実であり、こうも明確に目的を定めている者に対しての言葉をレオンディーネは持たない。本来であれば噴飯ものの言葉だが、引き連れていた中隊の兵士達は、その気配と決して折れる事のない意志に気圧されて黙り込む。
トウカが、ミユキという少女に対して異常な程の執着を見せている事は知っていたが、そうであっても然したる問題にはならないと、レオンディーネは考えていた。
何故なら、条件として自らが持ち得る多くを差し出す事を決意していたから。ハイゼンベルク金貨、爵位、自分自身……
ハイゼンベルク金貨は言うに及ばず、爵位やレオンディーネ自身も千金に値する価値がある。
皇国に於いて短命種やる人間種は基本的に爵位を得ることができないが、条件付きの前例はあった。条件とは、世襲を行わず一世代のみとする事で、特権階級 故の執着や腐敗を防止する為である。そして、レオンディーネ自身をトウカが望んだ場合に関しては、かなり非合法な手段でそれを実現する心算であった。
――アリアベルがなし崩しとは言え、今代天帝陛下と婚約を結べたのだ……今更、神虎族の末姫が素性不明の人間種と恋仲になっても見向きもされんだろう。
レオンディーネには、身体だけ弄ばれて捨てられるという考えそのものがなかった。幼少期は騎士として、箱入り娘として……そして、成人後は騎士として、 軍人として研鑽を続けた。色恋に時間を掛ける暇などなく、また掛ける気もなかった。そして何よりも、神虎族だけでなく、長命種というものは一様に家族や親 族を重視する傾向にある。
そして、トウカもまたミユキに見せる態度から、一度迎え入れた女性を断じて護ろうとする姿勢を見せている。
長命種とは、その少なくない数が一生の内で一人の異性しか愛さない。人間種に数が劣っている理由の一つである。無論、レオンディーネに関しては無知と純粋故に過ぎないが。
「何故じゃ!! 何故、分からぬ! このままでは国が滅ぶのじゃぞ!」
駄目だと分かっていても、言葉が口から迸る。
トウカがミユキに縋っている様に、レオンディーネもまた皇国に縋っている。護るべきモノが違うだけで、その本質に差異はない。ただ、依存の度合いが違うだけである。
「国家? 下らない。祖国でもない……血の通わない政治機構の保身にくれてやるほど、ミユキの命は安くはない」
「皇国が亡国となれば御主らも只では済まんぞ!!」
《スヴァルーシ統一帝国》と《ヴァリスヘイム皇国》では、戦争に対する意識と定義そのものが違う。
皇国軍は騎士道精神を至上とし、国内だけでなく占領地や外征先での強制徴発や略奪すら禁止しており、将兵共に厳しい軍事教練と道徳教育を受けている。そ して、兵卒であっても三年に渡る教育を受けていた。何よりも、志願兵ばかりで構成された軍勢として、戦闘能力や道徳共に常に高い水準を維持する事に成功し ている。戦略、戦術、戦技や素養、道徳の面に於いて大陸随一と言われる所以であった。
対する帝国は、兵卒であれば三カ月程度の速成教育を施したのみで戦場へと送り出す。その上、その大半が徴兵によって動員された兵卒で、戦術や道徳など教 育すら施されてはいない。寧ろ、補給の前提として戦地での強制徴発を奨励している節すらある。当然、倫理など存在せず、強姦や略奪なども兵士の褒美として 考えており、指揮統制や秩序に於ける不備を兵力で補う事を前提としていた。
そして、今戦争は皇国にとって、国家興廃を賭した対外戦争であるが、帝国からすると皇国は数ある叛乱軍の一つでしかない。それは帝国の国是である在りし日の大帝国の復古が目的である事が大きく影響している。政治的には皇国は叛乱軍や蛮族として扱われていた。
故に帝国が行う戦争は情け容赦のない殲滅戦争。殺害し、略奪し、強姦し、蹂躙し、薙ぎ払い、粉砕し、破砕する……
――それに巻き込まれれば、御主の可愛い仔狐も只では済まんぞ。
分かっているのか、と言わんばかりの視線を向けるが、トウカは一蹴する。
「国家は皇国や帝国以外にもある。神州国などが良いだろう。差別も少ないと聞いている」
「それでもッ!! それでもじゃ!」
レオンディーネに、トウカを説得する手札は既になかった。
アリアベルの決断の意味するところは十分に理解できる。
北部貴族の叛乱を征伐する事で戦功とするのだ。帝国軍の撃破に比べれば若干劣る様に見えるが、軍は次の防衛戦も見据えている。帝国軍が謎の撤退を行った 事もあるが、それ以上に叛乱軍が北部に展開している為、エルライン要塞への迅速な兵力の移動が難しい事が大きい。今回の一連の戦闘では、結局、陸軍主力は
叛乱を起こした北部地域を通過していない。寧ろ、戦闘が終結した事から移動の黙認理由が消失し、叛乱軍はその矛先の喪われた陸軍主力に多大な圧力を感じて いる。抗する為、戦力の再配置は既に行われていた。
アリアベルは貴族を焚き付けて戦端を開く。国内の不和を放置しての再戦を危険視している。政治的にも軍事的にも正しい。レオンディーネとしては、心情的不満はあったが、親友に手段を選ぶなと発破を掛けた当人が、綺麗事を吐く訳にもいかない。
叛乱軍の展開は、帝国軍との戦争遂行に大きな影響を及ぼす。故に早期の排除は正しい。
皇軍相撃。共に祖国を護るはずの同胞が相撃つという悲劇。
アリアベルや軍司令部とて双方の被害が最小限で済む様に努力するだろうが、努力では足りない。明確な論理と戦略に裏打ちされた方策を打ち出さねばならな い。世間の決戦主義志向は未だに健在で、エルゼリア侯領で待ち構えているであろう叛乱軍主力に対し、如何に最小限の被害で打ち破るか、その一点のみに集中 している。
果たして、決戦は在り得るのか?
トウカの講義を受ける内に、レオンディーネはそうした危惧を抱いた。
彼らは一地方で国家に立ち向かおうとしている。あらゆる面で劣勢であると自覚しているであろう彼らが常識的な戦略を選択するとは思えない。常識的な戦略 であれば、戦力差から常識的な敗北が待っているが、アリアベルの姉であるマリアベルが加わる軍勢が、その様な常套戦略を取るはずがない。新兵器を次々と北
部貴族の領邦軍へと販売し、自らも大量に実戦配備している彼女が、それに合わせた戦術や戦略面での見直しを行わないとは、レオンディーネには思えない。
唯でさえ、内乱という性質上、国内に不和を残す事は避けられそうにない。後の治政に響くであろう事は想像に難くなかった。必ず双方に甚大な被害が出る。
アリアベルは、マリアベルを信奉しているので、姉が北部貴族に拘束されていると思い込んで……思い込もうとしているが、レオンディーネはマリアベルが明確な敵意を以て戦いを挑んでくると読んでいた。
あの優しげだったマリアベルは貴族の排他的な考えに歪められ、異質な存在へと変わってしまった。幼き日に頭を撫でてくれたあの優しき面影の下で、有らん限りの嘲笑を浮かべていると知ったのは、最近に過ぎない。
それらの現実を、アリアベルは理解していない。否、理解する事を拒んでいる。故にアリアベルには“救出”して見せると言ったが、実際は捕らえて幽閉という形になるだろう。
不安要素は無数にあった。純軍事的なものから政治的、個人的なものまで……果ては帝国軍の再侵攻まで考慮せねばならない。レオンディーネはおろか、皇国内を見渡しても、その全てに対応できるであろう人材などそうはいない。
――いや、これは言い訳……儂は縋り付きたいのじゃ、トウカに……
トウカであれば良き打開策を思い付くという打算も確かにあったが、それ以上に寄り掛かる、自分を支え得る要素を持ち合わせている男を、彼女はトウカしか知らなかった。
立ち上がり、手を見下ろせば机を叩いた拳が赤く滲んでいる。
説得としては下策であり、トウカも内心では呆れていたのだが、レオンディーネは気付けない。最初に全ての手札を前面に押し出してしまえば、自らが譲歩で きる限界を教えるようなもの。特に表情を昂らせ感情のままに叫び、自身の目的に近い部分まで吐露してしまうのは致命的な失点でもある。
それが何よりもトウカを失望させたのだが、武断的な性格をしたレオンディーネは、困り果てていた事も相まって既に判断を放棄していた。
――アリアベルだけに手を汚させるわけにはいかん……じゃから。
それ故の兵士達なのだ。
「残念じゃ……本当に」
レオンディーネは、椅子へと座り込むと、小さく頷く。
背後の兵士達が動き出す。
銃火器は装備していないが、虎種の者が大半な為、体術だけでも十分に人間種と狐種を圧倒し得る力を秘めている。身体能力だけで目の前の二人を押さえ付け る事が可能であった。抵抗しても可及的速やかに無傷で確保するだけの質と量を有する兵士達の前では、舌先三寸の抵抗など無意味。武力で押し潰してしまえ ば、悲願を遂げる事が叶うのだ。
トウカの意思を無視して。
捕縛してしまえば、後の“説得”は難しくない。
目の前の少年からは、歴戦の戦士達ですら身を竦ませる程の憎悪が溢れ出ている。無論、トウカが望むならば、レオンディーネは如何なる事でも応じる心算であった。
「お主が望むなら――
煉獄で業火にその身を焼かれよ、と嗤うのならば喜んでそうしよう。
この身を護れと言うならば、我が生涯をお主の騎士として過ごそう。
金銭を望むなら娼婦となり、喜んで見知らぬ男と一夜を共にしよう。
――じゃから……だからッ!!」
武門に連なる身として、望まぬ者を戦の舞台へ駆り出そうとする事は慙愧に堪えない。民草を楯に軍人が戦闘を行う程に外道であるとすら考えていた。
「済まぬ……後で儂の事は如何様にしてくれても良い……だからッ!?」
レオンディーネは殺気を感じて机を蹴飛ばす。
空になった料理の皿や椀が宙を舞い、浮き上がった机。トウカが自身の座っている椅子に立て掛けていた軍刀を左手で掴んだ事を認めたからこその対応。斬撃を防ぐという意味ではそれは正しい。限りなく反射的に近い回避行動を取ったレオンディーネは称賛されて然るべき。
だが、相手は異邦人。
周囲の兵士達もそれを見て、一拍の間を置いたものの、素早く二手に分かれて駆け寄る。一方はトウカを拘束する為、一方はレオンディーネの楯となる為に。
蹴り上げられた机によってトウカの姿が一瞬、遮られる。
「ミユキ、貴女の師とやらに逢いに往こう」
平坦な声。
机が落下し始め、再びトウカの顔が覗いた時、レオンディーネは己の身体から血の気が引いてゆくのを感じた。
トウカの右手には一丁の輪胴式拳銃が握られていた。
トウカは、躊躇いもなく引き金を引く。
極至近距離の対象相手に然して狙いを付ける必要はなく、懐から出す動作と共に撃鉄は起こしていた。軍刀を左手で掴んだのは逃走を考慮した事と、室内で太刀を振り回す事が困難であると理解していたからこそ。室内……閉所戦闘であれば大威力の拳銃や散弾銃に軍配が上がる。
轟音と閃光が場を支配する。
強装弾が装填されているので、その発砲音と発砲炎は通常弾よりも大きい。
身体をくの字に折り曲げ吹き飛ばされるレオンディーネ。
魔導障壁が展開されたが、それは弾丸の貫徹を防ぐだけで、その衝撃までは防いでくれない。衝撃を緩和、吸収する術式も存在するが、人体への影響もあって精密さを要するので展開には時間が掛かる。それを理解した上で、トウカは対人阻害威力に優れた輪胴式拳銃を使用したのだ。
対人阻害威力とは小火器から放たれた銃弾が対象に命中した際、その目標となった対象をどれほど行動不能に至らしめるかの指数である。
身体能力の優れた虎族の血縁ならば死にはしないが、至近距離からの突然の衝撃に即応する事も難しい。しかし、極短時間、行動不能にできればそれで十分。
「ミユキ!」
トウカは、叫ぶと同時に駆け出す。横目で確認すれば、ミユキも頷いて走り出していた。
ここは撤退あるのみ。
輪胴式拳銃を脇の下に銃を吊るす脇下拳銃嚢へと素早く戻し、軍用弾帯に吊り下げられている雑嚢の一つから発煙手榴弾を三つ取り出すと、予備動作を最小限に留めて近づいてきていた兵士達の顔面に投げ付ける。
驚いて倒れた兵士達が体勢を崩し、三つの発煙手榴弾が食堂の床を転がる。
痛みに呻く兵士達の横を、トウカとミユキは駆け抜ける。陸軍の兵士とは言え、視界も低下している。ヒトの捕縛は容易くない。これが憲兵などであれば離脱は不可能であったが、所詮は正規戦の為の兵力である。対象を傷付けずに制圧する事に馴れているはずもない。
次いでとばかりに、トウカは兵士達の足を払う事も忘れない。
噴き上がる白煙。背後から迫る催涙効果のある煙幕に巻き込まれない様にしつつ、二人は出口を目指す。
途中ですれ違う兵士を足払い、或いは首を掴んで引き倒すトウカに対して、ミユキは鞘に収めたままの大脇差で腱や神経の集中している個所を殴り付けてい る。二人の動作に無駄はなく、互いに攻撃範囲を分担して隙を補い合っていた。無論、レオンディーネが撃たれた事による動揺から、有効な、組織的な対応がで
きない兵士達には体勢を立て直す余裕がないからでもある。奇襲効果ゆえであった。レオンディーネが室内戦に素人なのか、個々の動きを阻害する程の兵数を展 開した上に、民間人までいるとなれば積極的な応戦はできないという理由も大きい。兵士の少なくない数が民間人の楯となるべく行動している。
扉の目の前に立ち塞がる兵士を、トウカは軍刀の石突きが付いた鞘尻で小突き倒し、ミユキと共に大通りへと躍り出る。
案の定、そこには分隊程度の兵士が待機していたが、発煙手榴弾を投げつけて再び目を眩ませる。
「燃やします!」
「はいっ!」
トウカは、食堂の入り口に右手を翳し、ミユキは両手で印を結ぶ。
二人の周囲に魔導の気配が満ちる。トウカは魔術を行使できないが、ファウスト(魔導出力機)と呼ばれる小型魔導機構によって一部の魔術を行使できる様になった。
「火炎破砕弾!」「狐火!」
振り払われた二人の手から、圧倒的な熱量が溢れ出る。
指向性も持った二つの炎は、一つに纏まって食堂内へと撃ち込まれた。
容赦も慈悲もない強大な炎の塊は、食堂の出入り口に飛び込み、その熱量を解放する。大通りに面した食堂の窓や扉が、吹き飛び炎が噴き出る。
民間人もいるが、それは兵士達が護るはずであるという打算からの行動である。相手の欠点や失点に付け込むのは軍事行動の基本であった。
それを確認したトウカは、ミユキの手を引いてその場から離脱を始めた。
「国境警備隊より報告! 王国側より大規模な攻勢! 奇襲です!」
突然の報。
駆け寄ってきた宣伝省大臣の報告に、少女は金色の長髪を振り乱して顔を上げる。何時もの癖で執務机に突っ伏したままに熟睡していた少女は、慌てて執務机の端に転がっていた軍帽を手に取る。次いで、顔と執務机の涎を袖で拭いた。
「対応は? 作戦計画通りか?」
最近、皇国のヴェルテンベルク領邦軍で流行という軍帽を傾いだ形で被ると、少女は小さく小首を傾げる。
小柄な体躯に、強烈なまでの気配と威厳を示す感覚を示す姿に、先程までの年相応の佇まいは見受けられない。
ヴィルヘルミナ・グリムクロイツ。
《南エスタンジア国家社会主義連邦》、初代総統に選出された才女である。国家社会主義を提唱した“彼”が好んだとされる北方人種然とした容姿。その中で も、特に秀でたものを持つヴィルヘルミナは、容姿に似合った清らかな色香も兼ね備えていた。少女から女性へと成長を遂げる最中にあるが故の、形容し難い甘
さを残した声音に、瀟洒な金髪の長髪を整えながらも、彼女は何処か余裕を持った面持ちを見せる。
私は支配者ではない。指導者である。
その思想を全面的に継承したヴィルヘルミナにとり、国民を率いる事とは皆が仰ぎ見る価値のある存在であり続ける事であった。
「総統閣下。皇国には、協定に基づいて伝達済みですわ」
「ゲッベルス……帝国軍の総数はどうなのだ?」
流麗な黒髪を持つ国民啓蒙・宣伝省大臣、ヨゼフィーネ・ゲッベルスへと、ヴィルヘルミナは問う。緩やかな表情は戦時下となった今となっても尚、損なわれてはいない。
南エスタンジアに於いて、社会主義の双翼の一翼である彼女は、建国以来の名家であるゲッベルス家の生まれである。初代総統を政治面で支え、国民の支持を忽ちに取り付けた扇動家の血縁だけあり、その手腕は演説や宣伝方針などで多大な貢献をしていた。
初代総統より、政略面で最も信を置けると評され、姓を与えられた血縁だけはあった。
その動きは、即決即断である。
他国であれば越権行為も甚だしいが、この南エスタンジアでは、それが許される。否、各々が最善を尽くすことでしか、この小国を生かし続けること叶わないと理解しているからであった。
「我が総統。ボルマンです入室許可を」
「どうぞ、なのだ」
そこで、続報を携えた長身の女性が総統執務室へと入室してくる。
入室を求める声もなかったゲッベルス……ヨゼフィーネとは対照的であるが、彼女もまた南エスタンジアに於ける双翼が一翼である。
肩で切り揃えた黒髪に、雫型眼鏡に、些か鋭い眼光を持つ彼女は長身を以て圧倒するかの様に、執務席に収まったヴィルヘルミナの前へと立つ。ヨゼフィーネと並び立てば、その雰囲気の差異が嫌でも分かろうというもの。
マルティナ・ボルマン官房長官。
初代総統を支えた一翼、ボルマン家の秀才である。ヴィルヘルミナの側近であり、多大な権限を有する彼女は政敵の排除に、国内統制と八面六臂の活躍を内外へと示していた。
「我が総統、国防軍より五個山岳歩兵師団を以て遅滞行動に移るとの事。皇国側への連絡は既に。派遣軍の編成を終え次第、再配置を行うと確約を得ました」
ヨゼフィーネが簡潔に述べた報告に対し、ボルマン……マルティナの報告は、一段と踏み込んだものである。それ故にヨゼフィーネの後塵を拝したのだ。
帝国軍が北エスタンジア軍と連携している事は明白である。戦力的には、最近の経済政策によって国力を増した《南エスタンジア国家社会主義連邦》に、《北エスタンジア王国》は単独で優位に立つ事は難しい。
事実上、帝国の属国となった北エスタンジアの政治的思惑など意味を成さない。その軍事行動には常に帝国の思惑が最優先されていると見る事が通例であった。
執務机越しに並び立つ二人の盟友から視線を逸らし、ヴィルヘルミナは、椅子を揺らして窓からの月夜を見上げる。
雲量も少なくない中での夜間侵攻。両軍共に情報が酷く錯綜した中で、視界も限定的な戦場となれば、指揮統制もあってない様なもの。
《南エスタンジア国家社会主義連邦》……南北エスタンジアの国土は特徴的である。
エルネシア連峰程ではないにしろ、南北を遮るかの様に峻険な地形が続いており、大軍の運用は難しいものがある。特に装甲兵器や騎兵などには鬼門と言える。跳躍力などが強化されている魔導騎兵ですら、行軍には多大な労力を必要とした。
大軍であるという優位性の根源とは、潤沢な予備選力と包囲戦の展開に持ち込みやすいという部分にこそあるが、少なくとも地形によって決戦地が制限された南北エスタンジアでは難しい。
だが、ヴィルヘルミナは、この攻勢に疑問を抱いていた。
「帝国海軍主力の出撃は確認していないのだな? ならば、攻勢限界は近いはず。きっと政治的な意味があるのだ」
帝国軍の兵站は極めて脆弱である。
そして、南北エスタンジアの国境は峻険な地形であり、幾度も干戈を交え続けた事によって、集落すら皆無である。徴発なども難しい。よって、大星洋に伸びた幾つかの街道を確保し、帝国海軍護衛の下での船舶輸送に頼る事が常である。
背後から延びた手が、傾いだヴィルヘルミナの軍帽を正す。規律に拘るボルマンである事は疑いなく、振り向けば小言があると判断してヴィルヘルミナは敢えて振り向かない。
「エルライン要塞攻略に連動したもの? ううん、あっちも決め手を欠くはず……戦力を帝国が分割する意図が分からないのだ。まさか、皇国の戦力を誘引して、後背を《トルキア部族連邦》になどという事は」
或いは、脇腹を共和国に突かせるという事も戦略的には魅力的である。無論、幾度も干戈を交え、互いの政体を打ち砕かんとする両国が手を取り合うなど有り 得ない事である。各国も覇権主義を露骨に体現する《スヴァルーシ統一帝国》と連携するはずもない。周辺諸国の全てを敵に回す行為であり、それは外交的孤立 に等しい。
「まさか、皇国での叛乱を育てる為?」
帝国軍と対峙すべく、皇国が戦力を増強すればする程、叛乱軍はその勢力を伸長する事が叶う。大御巫が編成したと噂の征伐軍も形骸化する可能性がある。
有り得る。
この一連の流れを演出したのは誰か?
――大御巫ではないのだ。七武五公も進んで国を危うくするとも……
ヴィルヘルミナは夜月を隠した雲居を一瞥し、思案する。
皇国側の諸勢力が帝国の動きを誘導する事が可能であるとも思えない。各勢力の思惑が入り交じり、軍事衝突が起きたと見る事が自然である。
だが、ヴィルヘルミナの勘が囁くのだ。ナニカがある、と。
己の勘を信ずるならば、恐らくは政治である。
どこかで誰かが利益を望んでいる。それが如何なる形であるかまでは、ヴィルヘルミナも推し量れない。最大の利益を現時点で得る事が出来るのは、鎮圧までの時間に余裕ができた可能性がある叛乱軍であるが、皇国が帝国に敗北すれば、叛乱などに意味はなくなる。
利益の享受者に見えて、実際は最も危うい立場にいるのが叛乱軍である。
――ヴェルテンベルク伯は、どう考えているのだ。こんな冒険をするヒトじゃないのだ。
脳裏に浮かぶ、傾けた恰好のヴェルテンベルク伯マリアベルは答えない。
彼女のヴェルテンベルク伯爵領、領都フェルゼンと、南エスタンジアの首都であるゲルマニアは国境鉄道で連結されている。それ故に共に工業化と経済政策で協調する事ができた。故に、マリアベルの支援あってこそ、ヴィルヘルミナは総統の座に就く事ができたと言える。
ゲルマニアは皇国との国境付近にある。国境辺りが平地であり、農耕に適しているからこそである。よって、近傍のヴェルテンベルク領と密接に関わる事は自 然な流れで、《南エスタンジア国家社会主義連邦》の軍官民は、基本的にマリアベルに好意的である。叛乱発生の際、一部から義勇軍派遣の主張が出る程度に は。
もどかしい。
ヴィルヘルミナは有能であった。少なくとも、自らの思考と才覚に対し、祖国の国力が追いついていないと理解できる程には。
だが、彼女は祖国を愛している。
祖国を選択する様では愛国者とは言えない。郷土の為に挺身を成す者を愛国者と言うのだ。
だから、戦わねばならない。
「総力戦態勢を整えるのだ。義勇軍の編成も並行する。あと、叛乱軍に皇国政府との和平交渉を斡旋する用意があると伝えるのだ」
皇国の諸勢力にとり、南エスタンジアが併呑される事は断じて避けたい事である。前線が増えるからこそ、皇国政府は南エスタンジアという緩衝地帯を望んだのだ。
ともあれ、今よりは鉄火の季節。
ゲッベルス家とボルマン家は、南エスタンジアの双翼と呼ばれてはいるが、軍事の専門家ではない。
「予定通り、モーデル将軍を国防軍最高司令官に任命するのだ。国防に関わる一切の権限を与える」
ヴァイクセル・メルヒオール・モーデル。
初代総統閣下の治世下で、“火消し屋”や“防御の職人“の異名を奉られた彼は、皇国系天狐族の名将である。実際に初代総統の軍事行動を支えた将軍で、防御戦闘の名手である。
彼は平時より実質的な最高司令官であったが、有事に於いて嘗ての救国の名将を大抜擢する事で、国威発揚を図るという目的の為でもあった。
「やれやれ、私には祖国に妻子がいるのだがね」
そんな枯れた声音に、ヴィルヘルミナは溜息を一つ。
片眼鏡に軍帽から突き出た狐耳を持つ老将……モーデル将軍は、羽織った軍用長外套を揺らし、ヨゼフィーネとマルティナの肩を同時に叩く。
枯れた声音に比して、その仕草や佇まいには絶対的な力強さが窺える。
皇国に妻子を持つモーデルだが、長きに渡り祖国へは帰っていない。初代総統の遺志を受け、南エスタンジアを護り続けていた。
本来、女性であるヴィルヘルミナが総統となる事は、初代総統の提唱した教義の上では好まくない。だが、並み居る候補者を退け、ヴィルヘルミナが総統の座を掴み得たのは、モーデルという英雄の強い支持を取り付けたからに他ならない。
モーデルは、肩を竦める。
「ここからは我々、軍人の時間だ。初代総統閣下の悪癖を踏襲するのは止め給えよ?」
ヴィルヘルミナは、頬を引き攣らせる。ヨゼフィーネとマルティナは、苦々しい表情。
初代総統は、極めて優秀な政治的手腕と大衆扇動能力を持ち、外交面では神懸った指導力を発揮した。《エスタンジア王国》……現在の《北エスタンジア王 国》よりの分離独立にを成功させた手腕からも、その能力は窺い知れる。緩衝国として安全を積極的に担保される状況を作り出す為、敢えて分割する事で、皇国 からの各種支援を取り付けた点は現在でも各国より高く評価されていた。
長所と活躍ばかりが後世には伝えられているが、当然ながら短所もあった。
それは、軍事分野に対する度重なる介入であった。
嘗ては軍人であったとされているが、伍長で退役した者に軍事的視野があるはずもない。度々、軍は介入によって混乱を生じている。以降、今日に至るまで、政府による軍への介入は”ちょび髭の祟り”として表現されていた。
「分かっているのだ。防衛戦の一切合切はモーデル将軍が取り仕切って欲しい」
「宜しいでしょう。ライヒェナウとディートルは、既に派手な山岳戦を展開しておりますからな」
下手を打てば、前線が混乱すると言うモーデルに、ヴィルヘルミナは鷹揚に頷く。
祖国興廃を賭けた戦いは、こうして唐突に始まった。
私は支配者ではない。指導者である。
《独逸第三帝国》総統 アドルフ・ヒトラー