第二二話 其々の覚悟、其々の岐路
「何故ッ!! 何故、逃げるの帝国主義者ッ!!」
大御巫は叫ぶ。
リットベルクから受け取った報告書を宙へと投げ捨て、アリアベルは執務椅子に深く腰掛ける。そして氷雪の如く舞い落ちる書類を眺めながら、今後の情勢を考え始めた。
――帝国を退けた実績を以て、軍を黙らせる事はできなくなった……なんてこと
この動乱は軍の協力なくして解決する事は叶わない。
中央貴族の中には、先代天帝陛下の意思に沿うよう帝国と和平を結ぶべきという意見も出ていたが、それは国是を考えれば不可能である事は想像に難くない。 隷属など断じて認められない。その様な意見が主流となれば最悪、皇国内で貴族の擁する領邦軍と皇軍が衝突する事すら有り得た。帝国の脅威は認識できたであ ろうが、内憂は以前にも増して増加した様にすら思える。
戦火が、戦果が必要であった。
「今代の天帝陛下がいらっしゃればこの様な事には……」
ないもの強請りだと分かっていても、そう思わずにはいられない。
貴族、国軍、臣民。その三つを纏め得る存在は、神聖にて不可侵たる天帝陛下ただ御一人。
皇国という国家に於いて天帝とは国家指導者以上の意味を持つ。あらゆる意味での象徴であり、全てに恵みと安寧を与える絶対者。それ故に皇国に住まう全て の者が仰ぎ、尊び、畏敬の念を抱く。アリアベルもその一人であるが、やがて現れるであろう次代の天帝は、自らの暴挙をどの様に判断するか不安でならなかっ
た。確かに許される事ではないが、皇国を短期間で纏める可能性のある方法はこれ以外にない。軍主導の軍国化も、貴族の傍観に巻き込まれる形での滅亡も、何 としても避けねばならなかった。
だが、それでも愛を騙る女性を忌避するのではないか、という可能性が頭から消えてはくれない。幸いにして天帝招聘の性質上、聡明でない天帝は皇国の歴史 の中で誰一人として存在し得なかった。それを踏まえると、この暴挙も止むを得なかった、と赦されるのではないかという思いも、アリアベルの心の内に確かに 存在した。
――何て卑しい女なのかしら……
アリアベルは、そう思わずにはいられなかった。
天帝という存在は、アリアベルにとって憧れでもあった。幼少の頃から、歴代天帝の勇戦と英断の数々を父や祖父から聞いてきたアリアベルにとって、天帝と いう存在は如何なる英雄にも勝る人物であった。建国の父たる初代天帝は無論の事、先代天帝とて武勇は歴代天帝に劣るものの、内政に関しては極めて優秀であ り、臣民や貴族からは絶大な支持を得ていた。
国政に携わる立場でさえなければ、天帝に恋い焦がれる一人の貴族令嬢であれたかも知れない。クロウ=クルワッハ公爵家の姫君という立場であれば、天帝の政治権力を確固たるものとする為、皇妃に迎えられる事も珍しくはない。大御巫という立場である必要すらなかった。
だが、時代はアリアベルに一人の恋い焦がれる乙女であり続ける事を許さない。
「もう、嫌……白馬の王子様が私を連れ去ってくれたらいいのに……」
それは幼い頃の夢。自由のない孤独な大御巫としての生活に嫌気が差していた頃、先達の大御巫が語ってくれた英雄譚。そして、その英雄とは、アリアベルにとって次代の天帝だと信じて疑わなかった。
だが、それすらも奪われた。
たった一つの縋るべき希望を奪われて尚、祖国の国体護持の為に外道に甘んじようとしているにも関わらず、その献身の悉くが報われない。或いは自身が世界に嫌われているのではないかと錯覚させる程に、アリアベルの策は思い通りに捗らない。
「いっそ全てを投げ出して、北部で陛下を御探ししようかしら……」
貴族の御歴々の前では、次代天帝生存の可能性が低いと断じたが、アリアベルには生きているという確信があった。皇主招聘の儀に失敗した後、皇都中の巫女と魔導士を集め大規模集団探査魔術を用い、辛うじて北部へと顕現されたと知ったあの時、アリアベルは確かに感じた。
――途轍もなく強い意志と……儚い優しさ……
冷たくとも温かい。そんな印象を抱く今代天帝は今何処におわすのか。
「それは勘弁して欲しいのぅ」
「ッ!! レオ……帰ってきていたのね」
背後を振り向くと戦塵に汚れた軍服の獅子姫が佇んでいた。
軍装は塗れていたが、その表情に翳りはない。寧ろ、今のレオンディーネの顔は生き生きとしていた。佳き戦争をしてきたのか、清々しいまでに笑顔であった。刃を振るうだけで満足できるのならば、今この時代では、極めて得な性格と言えるだろう。
思わず笑みを零す。
「エルライン要塞の防衛は成功した様ね」
「あれは敵が逃げたのじゃ!」
獅子姫、唸る。
敵味方入り乱れた総力戦や、圧倒的速度での突破戦こそがレオンディーネの兵科たる装虎兵の本領であった。人虎一体の戦闘能力は一騎で一個小隊に勝る戦力となる。その力を十全に発揮できなかったのだ。
「聞いているわ。逃げる敵を一個中隊で追い掛け回したそうね」
「うむ、楽しかったが……やはり逃げ腰の敵を追いかけ回しても詰まらん」
アリアベルは執務机に置かれた一枚の報告書を手に取る。
此度のエルライン要塞攻防戦に於ける推移を纏められた報告書には、レオンディーネが行った破壊神の如き所業が記されていた。
不可解な撤退を開始した帝国軍の思惑を推し量る為、要塞司令官の采配宜しきを得て、レオンディーネは装虎兵中隊を率いて後退中の帝国軍へと襲い掛かっ た。一個中隊のみであったのは、降りしきる氷雪に紛れるという理由以上に、大戦力であると帝国軍の過剰な反応を招き、包囲殲滅の憂き目に遭う事を避ける為 でもある。
この一個装虎兵中隊に対し、帝国軍は約一万八千名の一個増強師団と思しき戦力による後衛戦闘を実施。五個の聯隊規模の銃兵を斜交状に布陣し、これの射撃 により拘束を受けるも、魔導障壁による集中防御と射線の間隙を突く事によって最左翼の一個銃兵聯隊へと突撃。これを短時間で壊乱させる。結果、一個歩兵聯
隊を壊乱。損害は軽微なるものの、騎兵砲と歩兵砲の集中射撃により追撃は不可能と判断。帝国軍の真意は不明であるが、勲功抜群。
「レオ……良かったわね」
「良くはなかろう。帝国の戦力を削れなかったのじゃ。負傷を含めても四万前後であろうしな」
レオンディーネは、詰まらなそうに言うが、それこそがアリアベルにとって一番の懸念であった。戦果を挙げる事に成功していれば、軍に兵力の増強の許可と 共に、アリアベルの摂政就任を認めさせる腹積もりであった。軍とは実力組織であり、名よりも実を取るその性質上、国難に晒されている今この時、軍拡を肯定
する指導者の到来を待ち望んでいる。天帝尊崇の念は国あってのものだと現実主義の権化である軍人達は理解していた。
ただ、軍拡を許容するだけでは、軍部の急速な台頭を招く危険性がある。アリアベル自身も傀儡に甘んじる心算など毛頭ない。
無論、軍とて無能ではないが、青年将校の中には血気に逸る者も多い。制御できるのならばそれは比類なき戦意と同等であるが、制御できないのであれば傾国 への起爆剤となる。軍の不満は、貴族達の先代天帝の外交に於ける平和路線を、その死後も維持し続けようとしている点であろうが、その点はアリアベルも解で
きなくもない。無論、国際情勢を考えれば路線変更は止む無しだが、軍の暴走を避ける意味でも貴族は引けないと見ていた。
その狭間でアリアベルは揺れる。
「レオ……私の失脚は避けられないかも知れないの」
それが正直な思いであった。軍と貴族が一定の距離を置き独自の路線を維持しつつも、自らが双方の力に一定の指向性を持たせることで、天帝到来までの時間 を稼ぐことこそがアリアベルの真の目的に他ならないが、その為には自らの勢力が双方の勢力からの独立を維持できるだけの存在でなければならない。それが最 も難しいのだが。
それ故に戦果を求めた少なくとも、アリアベルの失脚を臣民と一般兵士が嘆く程度には必要なのだ。
「……何故じゃ?」
「帝国との一戦に於ける戦果が私達の身を護るはずだったの。戦役が終結すれば、私もエルライン要塞に赴いて終結宣言をする予定だったのだけど……」
決戦地で大御巫が、慰問を兼ねて終結宣言を行う。
戦闘が長期化するようであれば、アリアベル自身がベルゲンに駐屯している戦力と共に増援として赴く腹積もりあった。それが最も理想的な形であり、下士官 や兵士、臣民はアリアベルが主導で防衛戦争を戦ったと錯覚したであろう事は想像に難くない。他者の功を掠め取るような行為であるが、非常に有効である事は 確か。
アリアベルの下に集う戦力は、賛同する貴族から派遣された領邦軍による連合を主体としている。戦後を見据えて戦列に加わった傭兵団も少なくない。陸軍が動かずとも、アリアベルが独自行動を行える余地は十分にあった。
だが、急に帝国軍が撤退した為に戦果が挙げられず、アリアベルがエルライン要塞に駆け付ける暇もなかった。唯一の救いは、アリアベルの盟友と認知されているレオンディーネが一個聯隊壊乱という今回の戦役で、唯一の纏まった戦果を挙げた点である。
「レオの戦果の御蔭で何とか面目を保つことはできたから、直ぐになんて事はないわ。でも、五公爵……特に父上はどう出るか想像も付かないの……」
「構わぬじゃろう。どうせ四方を敵に囲まれておるのだ。一点突破など考えているなら、御主は政争から離れるべきじゃ。我が主足らんとするなら四方の敵全てを噛み殺すくらいの気概は持って欲しいものじゃな」
豪奢な応接椅子へ乱暴に腰を下ろすレオンディーネが、詰まらなそうな表情をする。アリアベルは、その言葉に何も返す事はなかった。
手段を選びすぎたのかも知れない。そんな思いが胸中を過ぎる。
法的には辛うじて合法とは言え、第一皇妃を騙った事に変わりはなく、近い将来に即位するであろう天帝から重い沙汰が下されるであろう。だが、その罪ですら皇国の斜陽を押し留めるには至らない。
ならば、もっと罪を重ねなければならないと、知らず知らずの内にアリアベルの表情と心は沈み込む。
これ程に罪を犯し、汚れた女を次代の天帝が求めてくれるとは思えない。時代がアリアベルという少女と天帝が共に歩む事を拒んでいるかの様な現状。だが、アリアベルは次代の天帝へと国体を繋げる為に外道へと甘んじ、その手を血に穢さねばならない。
その矛盾に思わず一筋の涙が零れ落ちる。
一体、何を恨めば良いのだろうか?
一体、何に縋れば良いのだろうか?
一体、何を行えば良いのだろうか?
いや、自身は答えを見つけている。もう既にアリアベルの決断は多くの者達の運命に絡み付き、静かに、そして確かに胎動を始めているのだ。異論の余地などない。
そんなアリアベルの心情を察したのか、或いは奮起を促す為か、獅子姫が言葉を紡ぐ。
「リットベルク大佐と儂の知り合いの会話を盗み聞きしたのじゃがな……そこで面白いことを聞いた」
レオンディーネは、窓から差し込む月光を眺めて呟く。
足を組み、何処か物憂げなその姿は様になっており、自身よりも遙かに年を重ねたかの様な風格が滲み出ている。重厚な精神と、それを制御し得る余裕。アリアベルにはそれが羨ましく感じられた。ならば自分も政争を楽しんでやろうと思う程には。
「祖国を護りたいなら手段を選んではならない。勇敢に戦って護れるのは誇りだけ、とな」
同性からも言い寄られる野性的な横顔。それでいて美しさと気高さを同居させたその姿は戦姫に相応しい。
レオンディーネは間違いなく成長している。それが時代に依るものか、出会いに依るものかは分らないが、頼もしく感じずにはいられない。そして、今のレオンディーネであれば自身が考えている策に十分に耐えられる精神を有しているとも判断できた。
我が往く途は外道なれば、せめ国家だけでも護らねばならない。次代天帝の愛を授かることはなくとも、拝謁の栄に浴する機会くらいならば得られるだろう。だが国体が損なわれれば、それすらも叶わない。
「実はあるの……一つだけ。私の権勢を盤石にできる一手が」
「……儂が聞いて良いのか?」
レオンディーネの問いは多分な意味を含んだものであると想像できる。
情報漏洩や自身の行動によってアリアベルの望む未来が別のものとなる懸念を抱いているのだろう。だが、それは無用な懸念であり、同時に意味のないものでもあった。
「私たちは一心同体でしょ? 敵に向かって一緒に喚声を上げてくれる同胞がいてくれるだけでも十分に助かるわ、獅子姫さん……私も覚悟を決めるとします」
「う、うむ……」
レオンディーネが姿勢を正し神妙に頷く。その顔は少し気まずげであった。親友に手段を選ぶなと、外道に堕ちろと言っている以上、友情を踏み躙っているとでも考えているのだろうが、無用の心配であった。寧ろ、アリアベルが決意を固める一因となった。
立ち上がるアリアベル。
その瞳には毅然とした意志が宿っていた。
意を決し、《ヴァリスヘイム皇国》に新たな騒乱を齎す一言を告げる。
「北部を占領している叛乱軍を征伐するの」
時代は、未だ流血を求めている。
「それで、ミユキの御師匠様がいる北部に行きたいと?」
「はいっ! 主様を紹介したいですし、これからの事も相談しないと……」
トウカは形容し難い山菜の入った乳煮と思しきものを口にしながら、ミユキの言葉に応じる。
二人は宿の一階の片隅で遅めの朝食を楽しんでいた。無論、暖炉が焚かれているが、寒さを完全には払拭できないので、二人は大外套を身に纏っている。魔術による断熱効果もヒトの出入りが激しい施設では限定的なのだ。
ミユキも空腹だと言うので、一階に下りて朝食を取ろうという話になったのだが、料理の名前など知らないトウカは料理選びをミユキに任せるしかなかった。 鼠の丸焼きが出てこないか気が気ではなかったが、幸いにして露骨に動物の形状をした肉類が出てくる悲劇とは遭遇しない。成る程、神々は実在するのかも知れ ない。実際、この世界には神々が実在するのだが。
「これから、か。確かにそうだな」
トウカは考える。
金銭に関しては今暫くの余裕があるが、旅を続行するか何処かに拠点を求めるかで迷っていた。
既に祖国への回帰は諦めている。個人の、例え国家が努力したところで如何ともし難い壁が複数ある以上、不可能な話なのだ。
悲観に暮れることはない。
諦観に身を沈めることはない。
絶望に心を満たすことはない。
自分の腕の中に愛しの仔狐がいるのだ。それは祖国を失っても余りあるものだとトウカは昨夜、確信した。
誰がどの様な理由で、トウカを死が溢れる大地に呼び寄せたかは知らないが、その点だけは感謝してやっても良いと考えていた。心残りは、祖父が不甲斐ない政府に腹を立てて武装蜂起を起こさないかという心配と、怒り狂っているであろう幼馴染である。詫びを入れる事すら叶わない現状に申し訳ない気持ちもあるが、その二人は自身の心に折り合いを付ける術を身に付けている。心配はしていない。
「ミユキ」
「はい、主様っ」
元気な返事をしてくれたミユキに微笑みながらトウカは考える。
異邦人は仔狐との距離を測りかねていた。物理的な距離でもあり、精神的な距離でもある。
朝起きた時からミユキは自然な……さも当然であるかのようにトウカの横に寄り添っていて、時折、肩がぶつかれば顔を赤く染めて慌てて距離を取る。照れているのだろうが、そのような反応を返されれれば、トウカも気恥ずかしくなる。
そんな感覚もまた、堪らなく嬉しかった。
「まず、恋から始めようか」
「こ、恋ですか? それは一体…………っ!」
初めは気抜けしたミユキだが、言葉の意味を理解すると一瞬で頬を赤く染め上げて、もじもじと照れているような可愛らしい仕草でトウカを見上げる。
――何だ、この可愛い生き物は。
赤くなった瞬間に擬音すら聞こえた気がする。
その姿を見ているだけでトウカは十分に微笑ましい気持ちになるが、ミユキのように顔に朱を散らして慌てたりはしない。あくまで表面上の話ではあるが。
「別に他意はないぞ。ただ、可愛い仔狐と恋をしてみたいと思っただけだ」
「か、可愛いですか?」
ミユキの背後で尻尾が激しく自己主張に、そのまま笑みが深くなりそうだったので慌てて表情を引き締める。
「でもっ! 主様が魔術を使えたのは驚きました!」
かなり稚拙な話題の振り方だが、ミユキをこれ以上、慌てふためかせて楽しむのも意地が悪いと思惑に乗る。
「それは俺も同じだ。魔力はないと聞いていたが……」
「狐種が魔力を嗅ぎ取れないなんて事はないんですけど……すみませんです」
申し訳なさそうにしているミユキ。その姿もまた愛くるしいのだが、平静を装いつも考える。
自身に魔力が皆無であるにも関わらず、契約の魔導陣はトウカの意志により形成された。通常、魔術というものは魔力が介在しないと発動せず、まず魔術陣自 体もそれ相応の修練を積まねば練り上げる事が叶わないと聞いている。トウカにはどちらも存在しないので、逆立ちしたとしても魔術を扱う事は不可能であっ た。
ファウストなどの魔導発現機構は、魔石という魔力を充填可能な鉱石を使用した魔導杖などの機材を使用する事で魔力のない者でも魔術は扱える。魔術陣も刻 印されているので然したる訓練を積む必要もないが、人が直接運用するよりも非効率で魔力の無駄が多い。その上、高純度ミスリル銀による刻印の耐久性もあ
る。高価な上に限定的な用途にしか使えないなことも相まって軍用の放出品しか出回っておらず、トウカも手にするどころか実物を見たことすらなかった。
「気合です、主様! 愛ゆえに、です!」
耳を揺らすミユキに曖昧な笑みを返す。朝の食堂で、愛などと声を張り上げる天然な仔狐を宥める。周囲の生暖かい視線が痛い。
それに、ミユキの言うことも間違いであると否定できない。魔力とは精神力と密接な関わりがあると低位の魔導書の一節にあった。トウカは魔導士ですらないので詳しくは分からないが、可能性としては考慮しても良いだろう。
故に――
「そうだな。愛だろう」
――としか言い返せなかった。まさかミユキの愛という言葉を否定する訳にもいかない。
トウカは、笑顔で食事を続けるミユキを前に考え続ける。
――若しかすると自分は、この世界にとって規格外の存在かも知れない。
今となってはどうでも良い事だが、世間に露呈するような事態は避けたたほうが賢明とも思えた。ミユキと静かな土地で過ごすのが最良かも知れない。この世 界を見て回りたいという欲求もあるが、死が満ちた世界を放浪するのは危険なので、拠点に近い場所を得て、そこを拠点に生活するのが現実的と言えた。
丁度、食事の終ったミユキに尋ねる。
「ミユキの師匠は何処に住んでいるのですか?」
「え~っと、グロース・バーデン=ヴェルテンベルク領、です」
ミユキは長い名前を言い切り、一息つく。
《ヴァリスヘイム皇国》の国土は大きく分けて四種類存在する。
貴族が治政を取り仕切る“貴族領”。
天帝、或いは帝城府直轄の“天領”。
陸海の軍部が直轄している“軍領”。
大御巫が一切を取り仕切る“霊領”。
基本的に貴族領以外は極めて特殊な例であり、国土の大半は貴族の貴族領である。そしてグロースという言葉が“大”という意味をしている通り、グロース・ バーデン=ヴェルテンベルク領は《ヴァリスヘイム皇国》内でも有数の広大な領地で、北部に於ける鉄鉱資源や魔導資源の一大産出地として皇国を資源の面より
支えていた。それは北部に於いても同様で、経済難に苦悩している北部が叛乱を起こす程の纏まりを維持しているのは、その辺りから溢れ出る資金に依るところ が大きいとトウカは睨んでいる。
「叛乱が起きている場所に近づくことは避けたいですが……」
トウカにとって、叛乱など国内の利権が複雑に絡み合った末、割を食った者達が激発した現象に過ぎない。しかし、追い詰められた権力者の集団であるが故に、危険度は匪賊などとは比較にならないとも考えていた。
何よりも、帝国軍が侵攻してきていると聞いている。エルライン要塞は幾度も帝国軍の侵攻を挫いてきたと文献には記されていたが、今回は叛乱という後方に不安を抱える状態での防衛戦でもあるので、戦況はより厳しいものとなる可能性があった。
「大丈夫ですよ。私、裏道を知ってますから」
「しかし……」
トウカは口を噤む。
食堂の喧騒が波の様に引いてゆく。出入り口の辺りに人だかりができており、他席の者達の視線もそちらへ向かっている。
人々の隙間に天頂に輝く陽光を受けて光り輝く銀糸を認めたトウカは、その正体に気付く。
「レオンディーネ……」
白銀の獅子姫の帰還。
印象的な光り輝く白銀色の長髪に、金色の瞳と精悍さと可憐さが混同した横顔。そして均整の取れた女性的な立ち姿。その身を群青の陸軍士官服に包んでいる佇まいは、異性だけでなく同性からも好まれそうなものがある。
「ん? おお、トウカ! 久方ぶりじゃのう! と言っても一週間足らずか?」
片手を上げて様になった動作で、悠然とした足取りでトウカの席へとレオンディーネが近づいてくる。近づくに連れてミユキの機嫌が悪くなっているのは気のせいではないだろう。トウカとしては黙って去っていただきたかった。
「ふむ、仔狐もおるのか」
「悪いですか?」
むむっ、とあからさまに不機嫌ですという表情をしたミユキにレオンディーネは、大事な御主人様を取りはせぬよ、と苦笑する。精神的年齢に関してはレオン ディーネに分がある様子であった。士官学校を卒業し、世間の荒波に揉まれてきた獅子姫が相手では、仔狐も相手が悪かった。
当然の様にトウカ達の席に座ったレオンディーネは大きく息を吐き出す。
よく見れば群青の軍装の節々が戦塵に塗れている。戦野から帰還したばかりなのだろう。女性なのだから身なりに気を使うべきではないかと思ったが、その正直な感想を口にする気はなかった。殴られたくはない。
「それで、エルライン要塞はどうだった?」
小さな、それでいて良く染み透るトウカの声。
レオンディーネがベルゲンを去って二週間だが、その行く先を告げる事すらなかった彼女が何処へと旅立ったのか正確に理解していた。
食堂内の軍人が聞き耳を立てている。その事からレオンディーネが帝国軍の侵攻部隊と相対していたと予想できた。帝国の侵攻については市街でも噂になって いた為、トウカも知っている。ベルゲン近郊に展開している大戦力も俄かに慌ただしくなっているところを見るに、北部の叛乱軍とは政治的な解決が成されたの
かも知れない。何かしらの譲歩を引き出して納得したのだと、トウカは推測した。まさか、叛乱軍を鎧袖一触で粉砕し、エルライン要塞へ駆けつけるなどという 分の悪い賭けはしないだろう。
トウカは知らない。北部貴族が帝国の侵攻が終結するまでを期限に停戦協定を申し出た事を。
この辺りの認識の差異に関しては、トウカの貴族に対する読みが甘いと言わざるを得ない。トウカの知る権力者の多くは、その力に溺れ、驕り高ぶっている者 達で、それを基準に貴族の対応を考えていたが故に北部貴族の要求の一部を中央貴族が飲んだのだと考えていた。一週間程度で歩み寄れたのだから優秀なほう か、とすら結論付けていた。
だが、貴族達はトウカの想像を超えて優秀だった。
自領の鎮護に固執しているきらいはあるが、どの貴族も不正を嫌い、公明正大で明朗闊達を良しとしていた。頑固ではあるが優秀。それ故に叛乱を招いたので、一概に良いとは言えないが。
つまるところ、彼らは可及的速やかに妥協点を擦り合わせて、兵力移動までの約定を取り付けた。無論、大軍が移動するには準備期間が必要であり、移動自体 にもそれ相応の時間を要する。未だに、陸軍部隊の主力がベルゲン近郊に展開しているのは、展開が想像を越えて急速に流転した事を意味していた。
困惑するレオンディーネに、トウカは微笑みながら席を勧める。
「気付いておったのか?」
半分、鎌をかけたのだが、レオンディーネは見事に引っ掛かってくれた。
――ここにレオンディーネがいる。つまり、帝国主義者相手の戦争は優勢なのだろう。いや、そのはずは。
襲来した帝国軍の戦力は不明であるが、エルライン要塞に展開している戦力は多くはない。ましてや後背にも脅威がある以上、一方に集中する事はできず、纏まった増援は未だベルゲン近郊に展開している。先鋒ですら数日前に出陣したばかりであった。
笑顔の下で、不自然なレオンディーネの行動を推し量る。
「つい先程、確信した。戦塵に塗れた戦乙女が戦場から帰ってきたのは馬鹿でも分かる。そもそも戦端が開かれたのは帝国とだけだろう? それよりも、直ぐに帰還してきた事が気になるな」
龍騎兵の中に輸送騎という種類があり、少数の人員が移送可能で、軍では将校の移動に頻繁に使われている事は、トウカも知っている。
だが、この辺りの事実はレオンディーネが重要人物であるということを示している。
高々、大尉の為に輸送騎をとばすだろうか?
高々、大尉だけを前線に招聘するだろうか?
高々、大尉を前線から呼び戻すだろうか?
若しかすると杞憂かも知れないと、トウカは頭を振った。
輸送騎が高級将校を乗せてエルライン方面に移動する“序で”だったのかも知れない。これ以上、あからさまな質問をして警戒させる訳にもいかない。どうも、考え過ぎる癖が出てしまったようだ、とトウカは後悔する。
「政治的な判断じゃ……御主ならそれで分かるであろう」
溜息を吐いて深く腰掛けたレオンディーネ。とんだ買い被りである。彼女の中では、トウカは古今無双の名将なのかも知れない。
戦闘による疲れよりも、政治に巻き込まれたが故の精神的な疲れなのだろう。正直なところ判断する情報が少なすぎるので的確な助言はしてやれないし、あまり深く関われば、トウカ自身やミユキも巻き込まれかねない。
「大いに悩むといい。若い内に悩んでおくのは良い事らしいぞ」
「……相変わらず、御主は老成した物言いをするな。女を捕まえて悩めなどと言うとは」
「そうです! 主様は、もっと女性を労わるべきです!」
二人の少女からの非難の声にトウカは、それは申し訳ない、と謝罪する。女性の舌鋒は如何なる火砲支援にも勝る威力である。合理性や理性で防げない攻撃に、トウカは対抗する術を持たない。
「それで? 帝国軍には御帰り願ったのか? 随分と早い御帰りだな」
話を逸らす意味も込め、皮肉を口にする。
帝国軍が撤退したであろうという事は容易に想像ができた。圧倒的劣勢な戦力で帝国軍を相手取って殲滅戦は不可能であるし、もし可能であると言うならば、エルライン回廊に要塞など必要とはしない。
「分からん。三度ほど大規模な攻勢を掛けただけで撤退するなど有り得んはずなのじゃが……」
「面白い話だな。嘗ての帝国軍のエルライン要塞への攻勢の記録を読みましたが、最低でも一ヶ月は断続的な戦闘を続けるはずなのですが……何かしら目的があったのでしょう」
「目的? 御主は分かるのか!?」
期待の籠った瞳で見つめられても困惑するしかない。その点についても判断する為の情報があまりにも不足しているので、安易な言葉を口にするのは憚られた。
「いや、分からんが? 寧ろ、分かってしまうと色々と宜しくないだろう」
あまり話し過ぎると怪しまれる。戦時下の国家であれば、治安組織などが各所で目を光らせている事は確実。迂闊な発言で拘束されるのは、トウカとしても避 けたい。もし、ミユキに万が一のことがあれば皇国を滅ぼさなければならなくなる。恩義すらない国家と可愛い仔狐では価値が違う。
「お腹が空いたんですよ、きっと」
「そうだな。全面的に同意する。食事の時間だから帰ったのだろう」
力説するミユキの尻尾を触りつつ、トウカは深く頷く。
ミユキがそう言うならばそうなのだ。他国には理解し難い面子で攻め寄せたのは良いものの、糧秣の不足に喘いで撤退したという筋書きも絶対君主制下では有り得る事である。無能な主君を納得させる為の外征も十分に有り得た。
黙って微笑むトウカに、ミユキは笑みを返してくれる。そんなミユキを見ているだけで、トウカは息が詰まりそうになる。無論、表情に出さないよう努めては いるが、何時も通りの笑みを浮かべられているという自信がなかった。誰かを想うとは、斯くも苦しく、斯くも心温まることなのだとつくづく思わずにはいられ ない。
頬杖を付いて仔狐に微笑む異邦人。
獣耳と尻尾を揺らして微笑む仔狐。
これからの明るい日々を想像できる一幕に、トウカの心は満たされる。そして、愛しい仔狐も自らと同じ想いを抱いていると確信できる事は、無上の喜びに他ならない。
「ここまでくると呆れてものも言えんな……」
「まだいたのですか?」
溜息をついているレオンディーネを見て、トウカは目を丸くする。そもそも、トウカに会いに来た理由が不明瞭であった。帝国軍が撤退したとしても諸々の事 後処理や北部の情勢も不安定の現状に変わりはなく、暇な軍人がいるとは思えない。そして、貴族出身であろうレオンディーネが一般的な酒場に顔を出すとは思 えなかった。部下を労うにしても、朝の酒場は有り得ない。
「本題に入って良いか?」
「お断りする」
間髪入れずにトウカは即答する。
大きくはない、だが、よく透る声音が食堂に響く。
レオンディーネの目的は、トウカの拘束、或いは勧誘。それも穏便とは言えない方法で。
思えば色々と教え過ぎた、とトウカは後悔した。貴族という権威を積極的に統治に用いる階級は、法律や常識よりも自身の意志を上位に置く余地がある。
さり気なく食堂内の者達と、窓から見える大通りを往く者達に視線を巡らせる。城塞都市として機能しているベルゲンだけあって徘徊している軍人は多い。非 番の軍人や治安維持と防諜任務を兼ねた憲兵も同様である。例え、三個軍団が近郊の駐屯地を畳み始めている今この時であっても、ベルゲンには守備隊を含め、 未だ多数の将兵が蔓延っている。
――どれがレオンディーネの配下の兵士なのか……兵士が多すぎるな。
木を隠すなら森の中という格言があるが、これでは兵士を隠すなら城塞都市の中とでも言うべき状態である。これを見越しての行動とは思えないが、裏口にも 兵士は詰めていると見るべきだろう。非正規戦の心得がない兵士達が、あからさまに投げ掛けてくる視線に、トウカが気付かないはずがなかった。ミユキも察し
ているのか、机下でトウカの背中を尻尾でぱたぱたと叩いている。寧ろ、トウカは凝視されている事で落ち着かなかった。
トウカは、多くの知識を見せ過ぎた。戦術規模の話に留める心算が、戦略規模の話にまで膨らんだ事も少なくない。戦術は戦略に従属する。一方を語れば、もう一方が無関係であり続けるはずもない。
「俺にそれ程の価値を見出してくれたようで……光栄だな」
トウカは微笑む。
その好意的とは言い難い笑みに、レオンディーネの表情が歪む。正面から皮肉をぶつけられただけでこうも分りやすい反応をしてくれるのは有り難い。交渉の主導権を得て舌先三寸で安全を保障させ、この場から堂々と歩き去ればいいのだ。寧ろ、武力でどうにかできる数ではなく、膂力に優れた種族が相手では更に分が悪い。
トウカは色々と教え過ぎたのだ。現状の皇国軍の戦力では電撃戦などの戦闘教義を教えても実現は不可能であると踏んで色々と喋りすぎた。有益であると判断されても不思議ではない。
「サクラギ・トウカ殿……卿には我が〈東部第五〇一装虎中隊〉付の中尉として、観戦武官となって戴く」
辞令を机の上に置いたレオンディーネが改まった口調で告げる。
トウカは、無表情となる。
既に手持ちの情報で理解の及ぶ状況ではない。特に観戦武官という微妙な立場が理解できなかった。観戦武官とは、第三国の戦争を観戦するために派遣される武官であって、自軍の観戦を行う為のものではない。その場合であれば視察であり、観戦とは呼ばれないだろう。
――観戦武官か。
その意味するところと、自身の存在がどうしても繋がらない。
トウカの知る観戦武官は、国家による軍隊が必要である事、士官学校や国際法などの制度の成立が不可欠である事から、近代化を目指す国家に於いて確立され たもの。だが、どちらかと言えば、観戦武官を招聘した国が自国の勝利、或いは優勢であることを他国に印象付ける為に呼び寄せている一面が比重として大き い。
どう顧みても自身に関係のある話とは思えないトウカ。恐らくは、トウカを引き止める為の方便を、観戦武官という苦しい形で実現しようとしている。トウカ はそう判断した。皇国陸軍の観戦武官制度を、トウカは詳しく知る訳ではないが、勝手な判断で観戦武官を要請する事ができるとは考えていない。多分に政治的
な要素を持ち得る観戦武官を抱き込む為に要請するとなれば、レオンディーネはそれ相応の政治的立場を有しているという事になる。
「むっ、主様はあげないですよ!」
「そうです。私はミユキのモノですから」
良く分からないので惚気てみようなどとは、決して思ってはいない。適度な会話を以てして、レオンディーネの本音の一端を引き摺り出そうと考えていた。
「では、仔狐……トウカを譲ってくれ」
「幾らですか?」
「そこで金銭交渉か? 酷くないか、ミユキ」
出来る限り焦った表情で叫ぶ。
ミユキは言葉と共に、尻尾でトウカの太腿を叩いてきた。仕官の話は別としても、その真意は知りたいと感じているトウカの意思を汲んでくれたのだろう。その心遣いに感謝して、その尻尾を膝の上でモフモフしてやる。
だが、レオンディーネも待っていたと言わんばかりに応じる。
「これで良いか?」
重たげな音を立て机の上に大きな麻袋が置かれる。それを取り出したレオンディーネは、どうだと言わんばかりの顔をしていた。
高位種とは、誰も彼もが人間関係を金銭で済ますのかと思わずにはいられない。
獅子姫と異邦人は睨み合う。横では仔狐が尻尾を揺らしながら麻袋の中の硬貨を漁っていた。
その展開にトウカは頭を悩ませる。
だが、ミユキのとんでもない発言もあって、食堂内の兵士が全員、レオンディーネの配下である事は分かった。話に聞き入り過ぎていて素人でも分かる程に目 立つ仕草をしている。諜報畑や治安畑の者達ではなく、レオンディーネ隷下の〈東部第五〇一装虎中隊〉の面々なのだろう。実戦経験が豊富であったとしても盗 み聞きは専門外というわけか、とトウカは眉根を寄せる。
「足りないです……」
ミユキが呟く。
「「はい?」」
トウカとレオンディーネは間の抜けた声を上げる。周囲の兵士達もポカンと大口を開けていた。最早、隠す気すらないのだろうか。
「せめて国家予算くらい貰わないと主様と釣り合わないです!」
狐耳を立てて、怪しからん、という表情をしたミユキに、トウカは唖然とし、レオンディーネは犬歯を剥き出しにして机を叩く。
「馬鹿な! ハイゼンベルク金貨五〇〇枚! それだけあれば一個増強師団を新設できるのじゃぞ!」
大音声で叫ぶレオンディーネ。
ハイゼンベルク金貨。
大帝国時代の通貨と噂されているそれは、金銭的な価値のみならず、魔術の触媒としての魔術的価値をも有していた。形状としては黄金で作られた外周と、中央には幻種の魔導結晶が嵌め込まれており、全体を見ても精緻な魔術刻印がなされている。
自分の価値が一個増強師団に匹敵するという事にもトウカは驚いたが、それ以上にレオンディーネの鬼気迫る表情に恐れを感じた。
人間とは感情や本能に作用される脆弱な存在だが、その際の行動力は侮れない。神風特別攻撃隊然り、コラー河の奇蹟然り、キスカ奇蹟の撤収然り……。
だが、軍人になる事は断じて許容できない。何より、正面切った戦闘に関してだけならば、一個増強師団を新設する金額を出すとは考え難い。そして、レオンディーネは自らの甘さに流される程、脆弱な者ではないと、トウカは十分に理解している。
「理由は聞かない。“面倒事”に巻き込まれたくはないからな」
縋るような瞳で、口を開きかけたレオンディーネを片手で制す。今、レオンディーネは本来の目的を告げようとした様に見えた。それはトウカにとって好ましい事ではない。
あまり正確に“面倒事”を聞いてしまうと逃げ辛くなる。無論、感情的な問題ではなく、軍事機密や政治的な問題を聞いてしまえば、この場から逃げ出しても 必ず追っ手が掛かるという意味であった。確保や捕獲から暗殺や抹殺へと命令が変更されてしまえば、余計に始末に負えないという打算もある。多分に抽象的な
物言いで暈した“面倒事”を告げてくれる事を期待していたのだが、レオンディーネの瞳はその“面倒事”を大声で叫びかねない様に見えた。
「どうしてもか? ……例え、儂や爵位であっても足りんか?」
切羽詰まったその物言いに、助けてやりたいという思いも脳裏を掠めるが、ミユキの身の安全を保障できる要素がない以上、首を縦に振る訳にはいかなかった。
――自身の身体や爵位まで差し出そうと言うのか……
トウカは、冷静であっても冷酷ではなかった。
自身の予定と、最愛の仔狐の安全が保障されるならば助けていただろう。だが、レオンディーネが武力を背景にしているので、いざとなれば手段を選ばない事 は明白。軍人が武力に頼ることを悪と断ずる気はなかったが、真摯な態度とは言い難い。軍事力に頼るという事は、元来信頼を得難いものがある。軍事力の行使
とは、古来より政治の失敗からとなる事が多い。つまりは、他に選択肢がない最終手段として行使される。それは、自身がそれ以外の選択肢を持たないと宣言し ているに等しい。
「足りる足りないではない。貴女達の面倒に巻き込まれたくはないだけだ。何せ、俺は脆弱な人間種だからな」
人間種から天帝が選出されるという一点を以てして、皇国の人間種の立場は護持されていると言っても過言ではない。低位種の中でも特筆すべき要素を持たない人間種が潜在的可能性として多くの場面で配慮されている。だからこそ皇国は致命的な場面で失敗しない。
才能と技能、能力で所得と職業は変化する。よって、膂力と魔導資質に優れ、容姿や寿命の面でも優位に立つ種族と、その全てを持ち合わせる事のない種族が 経済的に同様の利益を受けるはずもない。資本主義社会に於ける鉄則として、そこには労働条件の差が明確な形で生じる。それを是正する事は不可能であり、過 剰な救済措置は労働意欲の減衰などを招きかねない。
提示した結果に差が生じる以上、対価に差が出る事は当然である。そうした部分の調整もまた天帝に求められる要素であると、トウカは睨んでいた。
貴族の一部などは、高位種と中位種、低位種として分けられた総ての種族が“適正”な距離を保って国家を形成すべきであると信じて疑わない。
「……儂は人を脆弱な種族だとは思っておらん。特に御主を見た時から、な」
ある意味に於いて、その言葉は正しいが、人は脆弱であり、欲望があるからこそ無限に躍進する。いずれは科学という刃と思想という楯を以て武装し、幾多の種族の頂点に躍り出るだろう。善悪については別として、トウカはその点を信じて疑わない。
「光栄と言うべきだろうな。貴女程の女性にそこまで想われているというのは」
皮肉と受け取ったレオンディーネが、トウカから視線を逸らす。
その表情は苦痛と悲観、遣る瀬無さに彩られており、見るに堪えない有様であった。トウカも、やり過ぎた、と後悔する。レオンディーネは、迂遠な物言いを好まない。武断的な性格であることは分かっていたが、交渉であっても変わりないとは思っていなかった。
ただ、トウカの言葉は、レオンディーネの心を抉っただけだった。それ程に思い詰めねばならないナニカがあったのだろう。
「サクラギ殿。失礼を承知で言わせていただく!!」
接客台席に座っていた男が立ち上がり、レオンディーネの背後に立つ。その男は、トウカがベルゲンに立ち寄った初めての夜に酒を酌み交わした者だった。
「……軍曹、貴方もか……敬語は結構」
ミユキとの関係で思い悩むトウカに、的確な言葉を投げ掛けた軍曹は、レオンディーネ隷下の〈東部第五〇一装虎中隊〉の者だったのだろう。軍曹と出会ったのは、レオンディーネと図書館で出会うより以前であった事を踏まえると偶然に他ならない。
「アンタの言ってることは正しいぜ? でもな、こっちにも事情があるんだ。話だけでも聞いてくれねぇか?」
「軍曹にそう言われると断りにくい。借りもある」
軍曹はその言葉に首を傾げるが、トウカには十分すぎる程の貸しを作っている。
ミユキに対する負い目は、トウカ一人では解決できない類のものであった。少なくとも、トウカはそう考えていた。結果として軍曹の言葉を生かせず、ミユキを泣かせてしまったが、それはトウカの落ち度であり、軍曹の言葉の価値が損なわれる事を意味しない。
しかし、それでも尚、頷く事はできない。
「それは政治的な問題だろう?」
「――ッ!!」
レオンディーネが目を見開き、その後に歯を食いしばる。その表情は事実と認めているに等しい。
トウカが政治的な問題だと見当を付けた理由は、実は大したものではない。つまるところレオンディーネの性格によるところが大きく、武断的な性格であるが 故に、軍事的な問題に関しては自ら戦野に赴いて解決を図ろうとするに相違なかった。そして、個人的問題に関しては、その高潔たらんとする在り様から他者の 力を借りようとするとは思えない。ならば政治的な問題が妥当である。
それが事実であると仮定すると、レオンディーネの立場がそれ相応だという事を示しているに等しいことになる。爵位を他者に授けると口にした以上、大事を 成す事が出来るだけの権力を有する、或いは背後に控えさせている事は間違いない。そして、何とかできる可能性……即ち、自身が政治に介入できる手段を有し
ているからこそ、解決の糸口を探ろうと蠢動するのだ。政治に介入できる手段がないのであれば、レオンディーネは躊躇うことなく武を以て正そうとするだろ う。
――それなりに高貴な身分? いや、高官に仕える立場か?
どちらにせよ政争に巻き込まれる事は避けたい。異邦人でしかないトウカに政治的な追求から逃れる術はない。軍事的な脅威も脅威には変わりないが、目に見えるだけに対処し易く、政治的脅威に比べれば脅威度は低い。
「政争は恐ろしいものだ。特に文明の規模が低い国であれば尚更」
「暗殺や傀儡になるのが怖いと? 御主なら……」
「無理だな。特権階級が掌握する政治は魔窟だ。そして、ヒトの身は儚くも脆い……まぁ、俺自身だけなら何とでも逃げるが、ミユキがいるとなれば話は変わる」
「ならば――ッ!!」
「その中隊とやらで身柄を保障して見せるとは言ってくれるなよ?」
嘲りを多分に含んだトウカの冷笑に、場の空気が凍り付く。
武勇を尊ぶ軍人には理解できない考えであろうが、政治とは右手で握手を求めながら、左手で刃を隠し持つ事を至上とする卑怯者達の戦場なのだ。巷に流布し ている『政治とは流血を伴わない戦争であり、戦争とは流血を伴う政治である』という格言は全く以て間違っており、知性ある生物は政治であれ、戦争であれ日 常生活であれ、血を流さずにはいられない。
特に特権階級同士の政争は、身内が背後から刃を突き立てる事すら珍しくはない。効率と能率に裏打ちされた行動であれば、情報の質と量が伴えば推察できるが、人の感情が多分に左右する特権階級の政争は到底、読みきれるものではない。個人の柵や過去まで調べ上げるのは、高度情報化社会であっても困難に近い。
レオンディーネは、政治には大凡、向かない性格をしている。
「どうしても俺を失望させたいらしいな、レオンディーネ」
獅子姫の背後で立ち上がった軍人達を一瞥し、異邦人は嗤う。
トウカは皇国も、この世界の行く末にも然して興味はない。要はミユキさえ隣にいてくれれば良いのだ。この望まずして引き摺り込まれた世界で、ミユキに出会えた事が、トウカにとって唯一の救いに他ならないからこそ。
――亡国となろうが、世界が業火に包まれようが、俺には関係ない。
依存?
傾倒?
大いに結構。ミユキ以外は不要。
トウカの行動原理は至って芯の徹ったものであった。それが大勢に受け入れられるか否かは別として。
「ミユキが笑顔であればいい……それ以外に求めるものなどありはしない」
その上で、自身の身が安全であれば尚良い。ただ、それだけなのだ。一振りの刃のみで異郷の地へと招聘されたトウカには、他に守るべき者も縋るべき者もありはしない。
「皇国が滅びようが、世界が戦火に包まれようが知った事ではない」
護るべきものは、ただ一つ。
国家という血の通わない統治機構や、国民という名の顔も知らぬ有象無象の為に命を賭けねばならないという側面を持つレオンディーネや軍人達には理解できない。
異質なモノを見据える瞳に、トウカは一層、凄絶な笑みを更に深くした。
政治とは流血を伴わない戦争であり、戦争とは流血を伴う政治である。
《中華人民共和国》初代国家主席 毛沢東