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第二話     異邦人と仔狐

 

 

 




「くっ! これは……」

 刀華は、背中の刺す様な痛みに、慌てて立ち上がる。驚いて足元を見ると、純白の絨毯が足元を覆っていた。

 白雪。

 氷に背を預けて寝ている様なものであった。背中の刺す様な痛みも納得できる。既に痛覚は麻痺して、冷えより痛みを感じているのだ。一体、何故、と顔を上げると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

 大自然の雪山。刀華のいる場所は川の畔らしく細い河が流れている。

「何処だ……ここはッ」

 やり場のない怒りを込めて呟く。人は本当に感情が昂っている際、大音声を出さないが、この時の刀華は正にその状態にあった。あまり大きくない声だが、川を挟むようにして存在している雪山に反響する。

「《アイヌ王国》? いや、東北か? いや、まさか……」

 今は真夏であり、北日本であっても、これほどの雪が降り積もっているなど有り得ない。地球温暖化が進み、以前の様に真夏にこれ程の氷雪が大地を覆っている事など日本では考え得ないことである。

「外国か? 携帯電話があればな……」

 残念ながら通信機器の類は一切持っていない。刀華が持っているのは一振りの軍刀のみ。服装は黒に染め上げられた戦装束。一族の戦装束と言っても、《大日本皇国連邦》陸軍、特別挺身隊の第三種軍装で実践的な造りをしている。衣嚢(ポケット)が多く、近接戦闘が可能な様に配慮された造りの戦闘服で、当然であるが飾緒(しょくちょ)もなければ略綬(ローゼット)もなく、階級章もなければ部隊章もなかった。代わりに肩章の部分に鋼鉄製の肩当てが装備されている。その様な姿で軍刀を佩用している刀華は、この大自然では浮いていると言わざるを得ない。

「まずは人を見つけるべきか……」

 周囲を見渡し刀華は溜息を一つ。

 分からない。一体、此処は何処なのか。普通の大自然に見えるが、何処か違う。

 だが、違和感は吹き付けた凍える風に飛ばされて霧散する。

「下流を目指すべきか」

 集落などは下流に集中するのが定石。上流になるにつれて標高が高くなることを考えれば、山頂へと近づいてしまうのは必然。対して下流に向かえば海抜が下がり、平地に近づく事になるので人里や街道を発見できる可能性が高い。

「何だ……一体」

 刀華には解る。これは現実だと。刺すような痛みを伴った風が、嫌でも大自然という過酷な現実を教えてくれる。

 全てが尋常ならざる状況。祖父はこうなると予期していた。別れ際のあの表情を見れば嫌でも理解できる。

 ――故意に、こんな状況に陥れたわけじゃなさそうだったが。

 だからこそ身に迫る危険を感じた。祖父は刀華を鍛える為なら喜んで千尋の谷へ突き落す性格だが、同時に老将らしからぬ隠し事のできない一面も持っている。そんな祖父のやりきれない表情が偽りとは思えない。

 ――誰の仕業なのか……

 やり場のない怒りと、それを冷まし得ない寒さを感じながら刀華は下流へ歩みを進めた。










――人の声? 数が多い……だが。

 刀華は咄嗟に呼吸を最低限まで押し殺し、気配を極限まで低減させる。視線も感情も纏う雰囲気も、全てを遮断させて周囲へと同化する。衣服が黒色であるというのは致命的ではあるが、それを解決する術はなく、当然ながらこの極寒の地で服を脱ぐという選択肢もなかった。

 腰を落とし、軍刀へと手を伸ばす。一番安全なのは匍匐することなのだが、雪上で横になれば体温を奪われて、そのまま凍死してしまいかねない。

 ――剣戟……? 時代劇の撮影という訳ではなさそうだが。

 時代劇の殺陣はあくまでも見せかけで、実際に刃を交える訳ではない。斬り結ぶ際の打撃音も鍔迫り合いの際の金属音も、全ては機械で後付けされたものだ。

 だが、今聞こえる音は違う。実際に生命の遣り取りをしている剣戟の音。刀華には経験があった。祖父は修練の際は真剣を使う事すらある。その音を聞き分け る事は、余計な風音と木々の揺れる音以外を退けば遮るものなどない場では至極容易であった。その音は不特定多数。剣戟の音だけでなく、溢れんばかりの怒号 に裂帛の意志を乗せた咆哮すら聞こえる。個人戦ではなく集団戦であろう。

 無論、悲鳴も聞こえる。

 雪の大地には不釣り合いな多くの大樹が乱立している。その大樹の一つに身を隠しながら、その姿を探す。

 そして、その姿を認めた。

「これは……戦闘……か?」

 眼前では戦闘が行われていた。否、戦闘と言うには一方的なものだ。強いて言うなれば虐殺。この場を見つけた理由も、派手に黒煙が上がっているからであ り、容易ならざる現状であることは予想できたが、やはり情報を得ることと寒さを凌ぐことを優先せざるを得なかったので駆け付けたのだ。

「村か? しかし……」

 顔を顰める。それ程に正視に堪えない光景。傭兵と思われる集団に襲撃を受けている寒村。

 剣戟の音も聞こえるが、今は極僅か。集団で抵抗する暇もなく襲撃されたのだろう。現在、抵抗しているのは個人か少数の防衛戦力だろう。

 ――村人は日本人のようには見えないな。服装はそれらしいのが、着物? 洋服もいるな。

 襲われている村人と寒村を見て刀華は情報を纏める。

 ここは日本ではない。

 確かに建造物等は木造が大半で、服装に着物が混じっていたとしても、村人の顔立ちが大和民族のそれではないし、何より季節も違う。建造物も木造であるが、細部の構造は日本古来からの組み上げ方ではない。

 ――匪賊がこれ程に群れている訳はない。傭兵団? いや、そもそも匪賊など……傭兵でもこんなことは……

 刀華の知る傭兵とはあまりにも違いすぎる。

 カラシニコフ自動小銃(AK―47)を手にし、軽量な装備と大量の弾倉を身に着けた戦士。それが傭兵だ。《大日本皇国連邦》では広大なユーラシアの国境 防衛と治安維持に多数の傭兵を運用している。それ故に国内には育成のための学園都市があり、日本人の傭兵はその専門技術と道徳に於いては世界随一と言って も良い。

 対する目の前の傭兵らしき集団は小銃でなく刀剣を持ち、革製の胸当てを防寒着の上から付けているだけだ。刀剣の扱いも雑であり、連携はしているようだが稚拙極まりない。連携していなければ匪賊と間違いかねないほどだ。顔立ちも大和族民のものではない。

 刀華は、それを無表情で見つめる。そこには焦燥も義憤もなかった。

 目の前で無辜の民が殺されているのは確かかも知れない。だが、その死は刀華の心を動かすことはなかった。あまりにも非現実的な光景に実感が持てなかった事もあるが、自身一人駆け付けたところで何も変わらないという諦観があったからだ。

 潜んで観察する内に傭兵たちが集結を始める。

 ――50人程度か……分散していたとしても分が悪かった……

 上手く忍び寄り各個撃破すれば半数程度は仕留められただろうが、囲まれればそれまでだろう。敵が分散しているという事は中央に飛び出せば包囲される可能性がある。だが、集結を始めた傭兵団相手に突撃して勝てるはずもない。

「そろそろ……か」

 己の欲を満たした傭兵たちは秩序のない動きで一人の女の前へと集っている。傭兵団の指揮官なのだろう。色褪せた枯れ草色をした長い金髪の女性。女性にも関わらず荒れくれものの男達の指揮をしている以上、それ相応の戦技を持っていることは疑いない。

 馬に跨乗した傭兵たちは二列縦隊で村から離れはじめる。指揮官と思しき女性は馬に乗ったにも関わらずその場から動かない。

 ――ッ! バレたッ!

 女傭兵がこちらを見て嗤う。

 浮きかけた腰を慌ててその場に落ち着ける。刀華は動かない。内心ではどうしたものかと悩んでいた。移動して居場所が確実に露呈してまう可能性と、刀華の居場所が既に突き止められている可能性を天秤に掛けるが分からない。何よりも、その女傭兵の視線から目を逸らせない。

 背筋を言い知れぬ悪寒が駆け抜ける。足元の雪からくる寒さではない。ただ単純な予感故だった。

 ――何時か戦う事になりそう……だな。

 刀華は戦慄と共にそう予感した。

 こうして名も知らぬ女傭兵との因縁を感じた刀華だった。









「思いの他、色々あったな……」

 刀華は一際大きい民家を出て満足げな笑みを浮かべる。

 傭兵団が去った後、刀華は幾つかの比較的大きな民家を狙って家探しを決行した。結果としては貨幣と思しき金属の円盤と地図を手に入れることに成功する。ついでに長外套(マント)の様な防寒着を拝借し、身体を冷やさずに済むようになった。足元は戦闘長靴(コンバットブーツ)を履いているので問題はない。これは祖父の方針で、叶う限り実戦に近くするために道場でも履いていたことが幸いした。

 食料や生活品を詰め込んだ背嚢を背負い、刀華は寒村の通りの端を歩く。端を歩くのは遠距離から視認される可能性を減らす為である。

「まぁ、運が良かったって訳だ」

 刀華としては既にこの地が日ノ本……地球ではない事を感覚的に理解していた。いや、少なくともこの《ヴァリスヘイム皇国》という国は地球上に存在していなかった。
 地図を広げて、刀華は嘆息する。

 その中央部に記された天皇大帝を頂点とする《ヴァリスヘイム皇国》。
 北に位置する強大な軍事力を背景に持つ強権国家《スヴァルーシ統一帝国》。
 西に位置する民主共和制を敷く民主主義国家《ローラン共和国》。
 南に位置する自治共同体の集合体である多民族国家《トルキア部族連邦》。
 東の外洋に浮かぶ日の出ずる島国にして海洋国家《瑞穂朝豊葦原神州国》。
 《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》に挟まれた《南北エスタンジア》。
 そして《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》、《ローラン共和国》の狭間の中原に乱立する《中央諸国領》。

 何れもが刀華の知らぬ国々。

 そもそも地形が違った。一つの大陸の東部沿岸部に位置する《ヴァリスヘイム皇国》を中心とした国家しか記載されていない様子であるが、地球上の大陸のど の地形にも当てはまらない。国家が地図を作成する際、自国を中心に作ることが当然であること踏まえれば、この地が《ヴァリスヘイム皇国》である事は疑いな い。これを真実と仮定するならばこの大地は刀華の見知らぬ大地という事になる。

 祖国との繋がりが霧散した気がして、刀華は空虚な気持ちになる。同時に総ての枷が砕けたかのような高揚感が身を包んでいた。

 刀華は、この時慢心していたのかも知れない。

 ――生存者か?

 低い呻き声が耳に届いた気がした刀華は、周囲を警戒する。軍刀の柄へと手を伸ばし、無残な有様の寒村を感情の籠っていない目で見渡す。

 頭部を刀剣で砕かれ判別の付かなくなった男性の遺体。
 激しい凌辱を受けた挙句に雪上に転がされた乙女の遺体。
 喉を切り裂かれ苦悶の表情を浮かべ事切れている老人の遺体。
 腹部を斬られて内臓を露出させ吊るされている子供の遺体。

 正視に堪えない光景であることは確かだが、刀華にとっては風景を構成する肉片に過ぎない。少なくともそう精神が奈辺に引き摺られる。無意識に精神を固定 し、心を凍らせる。故に極限状況に於いても冷静で居続けられるのだ。最も、刀華はそれらを自覚して行っている訳ではない。それは無意識に心を防護している という事に他ならない。

「――犬?」

 それにしては大きい。

 民家の影にいる動物へと視線を巡らせる。木造の民家と民家の間の狭い通路の物陰に隠れている黄金色の体毛をした動物が一匹。

 ――仔狐か? ……可愛い……な。

 刀華は軍刀から手を離し、身体を震わせる仔狐へと歩を進める。雪を踏みしめる音に気付いたのか、仔狐が身体を震わせて此方(こちら)を見つめてくる。耳を動かして警戒の色を瞳に浮かべる仔狐に対して、刀華はなんとか笑おうとする。

 しかし、寒さと極限状況に追い込まれた顔は上手く笑顔を取り繕ってはくれない。仔狐が一層怯える。瞳が潤んでいるのは気のせいではないだろう。

「……悪いな。怯えさせる気はなかった」

 刀華は雪原を気にする事もなくその場に膝を突くと、民家で拝借した背嚢から塩漬け肉を取り出して仔狐の前に置いてやる。仔狐は迷っているのか、匂いを嗅ぐだけで食べようとはしない。

 ――まぁ、こんな光景を見て人間を信用できるはずもない、か。

 刀華は嘆息する。

 自分も大概、人間を信用できなくなり始めている気がした。否、元々、極少数のみにしか信を置いてはいなかったが、寒村の無残な光景は、刀華にこの地の人 間に対して不信感を抱かせるには十分なものだった。そもそも道端の仔狐に食糧を分けてやるなどらしからぬこと。効率的に動かねばならないこの状況で食糧を 分けてやるなど何の利点もない。同時に構って不利益(デメリット)が発生する相手ではない。動物は人間のように故意に残虐な事はせず、余計な知恵を働かせることもない。だからこそ手を差し伸べるのだ。

 つまるところ、現状に於いて無条件で心を許せる相手なのだ。

 既に半日以上の時が経過しているが、人間とは一言も口を利いていない。

 行き着く先の分からないという先の見えない不安。
 理由のわからぬまま投げ出された現状に対する不満。
 何よりも、自身を知る者がいないという孤独。

 そして動物は裏切らない。

「別に毒なんか入ってない。食べてもいいぞ?」

 刀華は笑って見せる。次こそは自然な笑みを浮かべられたに違いなかった。塩漬け肉に顔を寄せていた仔狐の頭を撫でてやる。仔狐は気持ちよさそうな顔をする。垂れていた尻尾もせわしなく動いている。

 その後、手を離すと仔狐は塩漬け肉に齧り付いた。余程に腹が空いていたのだろう。刀華も、横の民家の玄関先の石の置物に積もった雪を払って腰掛ける。思 いの他に勢いよく座り込んでしまう。よく考えれば座るのは半日ぶりなのだ。自身が思っている以上に疲労が蓄積していたらしい。

 刀華も背嚢から取り出した塩漬け肉を二軒前の民家で拝借した短刀で切り、口へ運ぶ。本当に保存食としての扱いであるのか嫌に塩辛い。

 暫くそんな時間が続く。

 可能ならばこの場から早く去りたかったが、あまりにゆっくりとし過ぎたのか夕日が見え始めた。思っている以上に疲労は大きく、何よりも夜間の移動は危険 を伴う。滑落の可能性や、近辺の地理を良く知っているであろう傭兵団に出くわす事とて十分に有り得る。見逃した生存者の排除を意図して主要な街道に一部の 戦力を展開している可能性も少なくない。

 そんな理由もあり、刀華はやむを得ずこの寒村に泊まる事を決意した。











「今代天皇大帝……天帝陛下となられる御方はまだ見つかりませんか?」

 アリアベルは、近衛軍大佐の階級章を付けた男性に尋ねる。

 近衛軍大佐は落ち着いた所作と表情を以て、残念ながらと答えた。他の将校が相手であれば怒鳴り散らしていたかも知れないが、この近衛軍大佐に於いては呆れる程に泰然としており、心をささくれ立たせてている此方(こちら)が矮小な存在に思えてしまう。そんな人物。だからこそ救われた。

「まぁ、姫様。焦っても結果は変わりません。ここはハーネット産の紅茶でも如何ですかな?」

 優雅で、それでいて無駄のない動作で黒檀の執務机の端に置かれた急須(ティーポット)に手を付ける近衛軍大佐。撫で付けられた髭と白髪の髪は老練な執事を思わせる佇まいで、柔らかな物腰と相まってとても軍人とは思えない。だが、こう見えても防勢に定評のある将校でもあった。

「爺やは、見つかると思う?」

 アリアベルは普段の口調で訊ねる。訊ねずにはいられない。

 爺やという呼び名は、アリアベルの幼少の頃からクロウ=クルワッハ公爵家令嬢御付武官でもあった近衛軍大佐をそう呼んでいたので癖になっているのだ。そして、ある意味において爺やという呼び名も、風貌だけを見れば(あなが)ち間違いとも言えない。

「姫。私は執事でもなければ、爺やでも御座いません。御付武官に御座いますぞ。……まぁ、お転婆な姫を幼少の頃から手を焼かされていたので『爺や』と呼ばれるのも吝かではございませんが」

「ふふっ……相変わらずの軽口ね、本当に」

 思わず口元を綻ばせるアリアベル。

 何時もと変わらない佇まいで、軽口まで言ってのけるもう一人の親と言ってもよい老人にアリアベルの沈み込んだ心は幾分か軽くなる。

 気を使っているとは思えない様にも見える会話だが、アリアベルが気を使われることを嫌がる事を見越しての軽口なのだろう。最近になってアリアベルもこの 老人の迂遠な優しさと深い配慮に気付けるようになった。そして、それでも尚、そんな軽口に救われてしまう。それは今尚未熟な証拠なのだろうと嘆息する。

「優しいのね、爺やは」

「できますれば小官の優しさは、美しき御嬢様の方々全てに向けられることをお赦し願いたいものですな」

 茶化した様で、それでいてどこか品のある表情で赦しを乞う近衛軍大佐に、アリアベルは「大いに赦します」と笑って見せる。そうして一頻(ひとしき)り笑い合った後、アリアベルは表情を引き締めた。

「近衛の戦力だけで捜索は可能でしょうか?」

「不可能に御座いましょうな」

 近衛軍大佐も軍人然とした表情を以て応ずる。

 近衛軍大佐……クラウス・セム・リットベルクという老人はこのような人物なのだ。

「姫様は勘違いなさっておいでですな。陸軍の野戦憲兵隊や偵察騎を、追加動員したとしても捜索は不可能なのです」

 それは単純な数の問題ではないという事に他ならない。当然と言えた。今回の天帝招聘の儀は完全に失敗した訳ではないが、肝心の天帝は北部の何処かに顕現した。それは顕現された瞬間を見た者がいない、或いは見た者を捜索側が知っていないという事に他ならない。

 アリアベルや近衛……いや《ヴァリスヘイム皇国》に住まう総ての者が、新たな天皇大帝……天帝の顔を知らないのだ。その状況下で探せと命令する事自体が酷である。幾ら将兵を動員したとしても顔を知らない天帝を探す事はできない。

「唯一の手掛かりは紫水晶(アメジスト)の瞳に御座いますが……」

「皆に教える事はできないわ」

 この国に於いて紫とは神聖にして不可侵な色なのだ。天帝を表す色であり、完全で混じり気のない紫を持つものは当代に一人しか現れず、それこそが天帝。紫水晶(アメジスト)の瞳を宿す者を探せと多くの者に伝えれば、何処かで情報が洩れて隣国や臣民にまで天帝が行方不明であることが知られてしまう。第一に、両目という小さな判断基準しかない以上、容易くその痕跡を隠すことができる。紫水晶(アメジスト)の瞳の意味を理解し、自らが天帝にならねばならないことを知った次代の天帝は、敢えて厭離穢土(おんりえど)と決め込む可能性とて少なくはない。今この時代、《ヴァリスヘイム皇国》を取り巻く状況は極めて厳しく、正確に国情を察しているものならば拒む可能性すらあるとアリアベルは踏んでいた。

 事実、《ヴァリスヘイム皇国》の歴史上に於いて名君や名将が何らかの理由で失踪した事が幾度かあった。一六代目天皇大帝、エルヴィーラ・クライネルト は、政戦共に優れた才覚を持つ名君であったが、今は亡き《フィクシオ統制国》との戦争後に世を儚んで姿を消した。在位してから一年に満たぬ短期間であり、 歴代天帝の中で最も短い在位歴である。天帝ではないものの、約五〇〇年前の《旧連合王国》との戦争で抜群の勲功を示し、文字通り救国の英雄となった天狼族 のベルセリカ・ヴァルトハイム卿なども敵対する事になった自身の主君を斬り、《ヴァリスヘイム皇国》への忠義を示した後、行方知れずとなった。噂には自害 したとも、結果的に主君を殺めねばならぬ原因となった貴族に対する憤怒を胸に雌伏の時を過ごしているとい噂もある。

 結果として、天帝の捜索にその身体的特徴などを教える事はできない。そもそもアリアベルも知らない。目にしたことすらない次代天帝の容姿などアリアベル が知る筈もない。寧ろ、アリアベルの場合は大御巫の感応力もあって、近づく事さえ叶えば天帝だと知ることができるだけ恵まれている事に対し、通常の憲兵や 将兵では目視だけで見極めることは困難である。アリアベルでも魔術的な妨害や混乱がなければという前提が付く。神殿騎士団の戦巫女などを派遣しての捜索活 動を行えば、可能性は低いものの発見できたかも知れないが、勘の良い者は天帝行方不明の事実に行き着く可能性があった。同様の理由で紫水晶の瞳の者を捜索 せよという命令も出せない。

 現在は、苦し紛れに重要人物の捜索として捜索活動を行っている。詳細を知っているのは師団長以上の地位にいる軍人や侯爵以上の貴族のみである。アリアベ ルが捜索の為に各師団長に事情を説明するだけでも、有力貴族の反発は凄まじいものがあり、駆け引きに時間を取られざるを得なかった。

「辛うじて掴んだ魔力の痕跡は北部の何処か、それだけでは探せないですか、やはり」

 アリアベルとて何もしていなかった訳ではない。招聘の儀に失敗した直後に、生存していた巫女と城下に暮らしていた巫女や術者を片っ端から動員し、簡易で 大規模探査術式を組み上げてその痕跡を追った。結果として辛うじて魔力痕跡を掴めた結果、天皇大帝となるべき御方が北部にいることを突き止めた。結果とし て天帝を招聘した場所が皇城から北部の何処かになっただけだが、その範囲は果てしなく広い。しかも現在の《ヴァリスヘイム皇国》北部地域は深雪に閉ざされ ており、一部豪雪地帯は小規模な捜索すら容易ではない。

 何よりも北部は現在、北部貴族の叛乱によって国家の統制の及ばない地となっている。陸軍野戦憲兵隊の一部が、招聘の儀に割って入った賊を北部まで追撃し ていると報告を受けているが、それは非公式な潜入捜査や戦闘行動の戦技を習得しているからこその芸当である。大軍を投入して北部貴族となし崩しに戦端を開 いて、互いに戦力の逐次投入による戦況の泥沼化を招くことは誰しもが望んでいない。

 招聘は失敗したに違いないが、他国の領土に顕現しなかっただけ不幸中の幸いであった。

「いっそ、帝国が攻め寄せては来ませぬかな?」

 リットベルクの軽口に、アリアベルは一瞬の逡巡を見せてしまう。

 《ヴァリスヘイム皇国》の古き伝承にある一節である「我らが御国の危機に紫の(すめらぎ)が現れん」という一節を思い出しての一言である。リットベルクもそれを知っているからこその軽口だったのだろう。或いは、泥沼の消耗戦になれば、天帝たる資格を持つ者は、当人の意志に関わらず姿を現すかも知れない。

「姫様……そこで無言になられるのは少し酷く御座いますぞ」

 冗談で言った軽口が真に受けられたのではないかと思ったのだろう。実際は真に受けた訳はではなく、指導者不在の今でも十分に御国の危機なのだから、明日には顔を出してくれるのではないかと思っただけだ。

「……もぅ、冗談よ。こんな時に軽口なんて言うからですよ」

 頬を膨らませて怒っている仕草をして見せたアリアベルに、リットベルクは乾いた笑みを漏らす。

「ところで天帝陛下の招聘を邪魔した賊ですが、そちらも北部に向かって逃走したという話です。憲兵隊が追っておりますが、その影を掴むには至っていないようですな」

 リットベルクが更に嬉しくない報告を上げる。

 あの天帝の顕現を妨害した憎むべき賊の追撃は陸軍憲兵隊が行っている。賊をまんまと城内に入れてしまった失点を挽回したいのだろう。近衛軍も天帝を見つ け出す事で失点を取り戻そうとしているが、事が露呈してしまう為に近衛師団を動かす訳にはいかないので歯噛みしている状況であった。

「全てが北部に繋がりますね……」

 アリアベルは、ふとそんな事を思った。

 ――偶然なのか、それとも運命なのか。もし運命とするならばこれだけで済まないわ、きっと……

 アリアベルはそう思わずにはいられない。

 傾き始めた太陽を窓から見上げ、「次代の天帝陛下は今何をしているのでしょうか」とアリアは現実逃避を始める。

「きっと刃を振りかざして勇敢に戦っておられるわ」

 アリアベルは知らない。

 科学の粋を集めて打たれた刃を持つ少年が、民草が傭兵に襲われているのを冷徹に観察し続けている事を。

「そうであることを願いたいものですな。意外と北部の風のように冷たい方かも知れませんぞ」

「もうっ、恐れ多いですよ、爺や」

 そう言って二人は笑い合った。

 

 

 

 

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