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第八話     月と太陽

 




 リディアは右横から唸る白刃の煌きを感じて戦慄する。

 これ程までに自身を追い詰めた相手は《スヴァルーシ統一帝国》には未だ嘗て存在せず、戦野でも終ぞ相見えることはなかった。例え、魔人としての能力と膂力を使わず、戦技のみを競い合ったとしても、リディアが軍人となって敗れた事など過去に一度としてない。

 大剣の手を離し、自分の持ち得る膂力全てを使って迫る軍刀を叩き払う。魔人の力を使っているのだが、明らかにトウカは刃を止める気はなかったので、こうでもせねば首を斬り飛ばされてしまう。

 リディアは警戒しつつも距離を取る。魔人の脚力にものを言わせて。

「どうやら、私はトウカを侮っていたようだ! 先程の言葉、反故にする! 全力で往かせてもらうぞ!!」

 戦姫は歓喜の表情を浮かべ、地面から抜き放った大剣を肩に担ぐ構えを取る。

 《スヴァルーシ統一帝国》の剣とは力の象徴である。

 ――なればこそ《スヴァルーシ統一帝国》軍人たる私は力の象徴足らねばならない!

 だからこそ負けられない。いや、負けたくなかった。そもそも、魔人の力を使わず、同じ土俵に立って戦うと口にしたが、トウカにその様な侮りを以て挑んだ事が間違いだったのだ。魔人の力は確かに素晴らしいもので、圧倒的な身体能力と潜在魔力は大半の他種族を圧倒する。

 人間など力なき者だ。そう断言する魔人も多い。

 リディアは、そう思ってはいない心算であった。例外も存在するとはいえ、基本的に他種族よりも劣る能力しか持っていない人間種だが、それでも尚、大陸の 人口比で言えばその半数以上は人間種である。現に各国の歴史を紡ぎ、文化を育み、科学を進歩させているのはその人間種ではある事は容易に知れた。

 人間種に与えられた力。それは、未来を切り開く力。

 父にして《スヴァルーシ統一帝国》帝王より教えられた言葉を戦姫は思い出す。

 人は進歩を止めず、子孫へと受け継ぎ続け、永劫の努力を重ねる種族。

 リディアは今この時、その言葉を肌で感じた。トウカを侮っていたことは紛れもない事実。やはり、心の何処かで人間種に対する侮りがあったのだろう。

「はぁぁぁぁぁぁッ!!」

 全力で上段から斬り掛かる。

 一瞬で距離を詰めたリディアにトウカは驚く事もなく、雪を蹴り上げてリディアの視界を奪った。視界の認識範囲外である真下から飛んできた雪に虚を突かれる。顔に当たる冷たい感触に驚きつつも、振り下ろした大剣が感触はないことに気付いて体勢を立て直そうとする。

 その時、聴覚が右下からの唸る剣風を捉える。素早く左に飛んで避けたが、同時に左脇に鈍い衝撃が走る。

 回復しつつある視界がトウカの右脚が戻ってゆくのを認めた。脇腹を蹴ったのだろう。剣術を駆使しての戦闘でこうも手足を扱って攻撃する馬鹿者をリディア は見たことがない。斬り落とされる可能性が高い上に、その恐怖心を押さえつつも、冷静に敵の急所を蹴り上げる事ができる平常心を持つ者などそうはいない。

「面白いな、トウカ!? だが、まだ本気を出していのだろう?」

 本当に欲しい。


 これほどまでに私の心身をも高揚させた男が居ただろうか?
 これほどまでに私の斬撃を躱して見せた男が居ただろうか?
 これほどまでに私の前で曖昧な佇まいの男が居ただろうか?


 やはり、トウカは不思議な若者だった。戦っている最中にすら殺意や気迫がなく、その太刀筋には何一つ宿っていない。殺意がない故に感覚で捉えることがで きず、五感に頼らねばならないのだ。だが、トウカの剣技には個性的で奇抜なものが多く、視界外からの斬撃や体術すら組み込んだ連撃などで、とてもではない が全てを捌ききることはできない。その連撃は魔人の五感すら上回る手数と多彩さを備えた剣技。

 予想すらしない一撃の連続に、リディアは防戦一方となった。

 《スヴァルーシ統一帝国》の剣技と違い、トウカの剣術に単体の技は少ない。全ての技が複数の斬撃の集合体であり、一つの剣技であっても幾度も太刀を振る うことは不思議ではなかった。対して《スヴァルーシ統一帝国》……この大陸自体に剣術という概念すらあまりなく、修錬も身体能力や反射神経を高めるものが 大半で技を鍛えようとする者は少ない。威力ある斬撃を繰り出す、剣を振るう速度、そして戦闘を続ける為の体力、それだけを重視している為である。

「ふふふっ……これほどとは思わなかった……楽しい! 楽しいぞ!」

 リディアは歓喜に打ち震える。トウカが同じように魔人であれば、リディアは間違いなく負けていただろう。そして、トウカは自身の様に魔人の力を得る事はできないが、逆はその限りではないことをリディアは理解していた。

 欲しい。凄く欲しい。

「私を殺せるかも知れない男と出逢うのは久方ぶりだ!」

「此方も貴女が相手なら、万が一殺してしまうなんて事がなさそうなので本気を出せる」

 リディアが横一閃に振り払った大剣の剣風に押し戻されながらも、トウカは肩を竦める。

 やはり殺す気できていたのか、とリディアは嗤い飛ばす。そうでなくては斬り結んでも何もわからない。いや、トウカに関して言えば、その戦闘能力以外は何も分からなかった。切り結び、死を感じながらも尚、普段通りの表情なのでその内心を推し量ることはできなない。

「なぁ、トウカ」

「嫌ですが?」

「……まだ何も言ってないだろう」

「俺の剣術は一朝一夕で教えられるものではない」

 即決で断ってきたトウカに苦笑する。

 叶うならトウカの剣術を指南して貰おうと思ったのだが、やはり断られてしまった。確かに剣術だけでなく体術や体捌き、軍刀に至るまで全く既存のものとは 違う事を考えれば、今までリディアが積み上げてきた戦技全てを捨て去らねばならないことは想像に難くない。無理に会得しようとすれば、今使っている戦技に 悪影響を及ぼさないとも言い切れなかった。

「つれないな、トウカは……よし、私の婿になれ」

 剣術を手に入れられないなら、まずはトウカ諸共手に入れてしまえばいい。

「暴力的な女性は好みじゃない」

 引き攣った顔でトウカは乾いた笑みを漏らす。

 大和撫子を理想の女性像とする大和民族の男としては、正々堂々と正面切って「婿になれ」と指差をして満面の笑みで言い切ってくる少女に尻込みするのは当 然であるが、リディアはその様なことは知らない。寧ろ、帝国人は自らの欲に忠実であったからこそ、比較的短期間で広大な領土を手中に収める事が叶ったの だ。

 そういう意味ではリディアという少女は、まさに生粋の帝国人であった。無論、トウカはそれを知らない。いや、知っていたとしても対応は変わらなかっただろう。

 剣戟の応酬。そして、時折の足技。

「こう見えても容姿には自信があるのだが、な!」

「頭と女を磨いて出直してこい!」

 当然のように言い放つトウカに、リディアは笑みを零す。

 二人は会話の間にも刃を交わす。トウカはリディアの斬撃の桁外れの破壊力を理解しているので避けるか往なすのみだが、対するリディアも幾重もの魔術的、物理的防御の成された魔導甲冑すら切り裂いて見せた軍刀を警戒して胸甲や手甲で受けることはできなかった。

「失礼な男だな、トウカは!? 身体には自信があるのだが!?」

「そうですね! それには同意します! 一夜だけなら婿殿になっても構いわないが!?」

 その言葉に、リディアは危うく大剣を滑り落としそうになる。未だ嘗て《スヴァルーシ統一帝国》第十三位帝位継承者にして陸軍元帥のリディアに、この様に 正面切って失礼な台詞を投げ掛けてくる者はいなかった。例え、リディアの正体を知らずとも太陽の如き存在感を放つ少女に気後れする者は少なくない。

 だが、トウカはリディアという少女を特別視することはない。出会った時こそは心配してくれたが、それは少女としての範疇であった。そして今は年相応と言 うには無礼な言葉遣いのままであるものの、色欲に塗れた言葉を平然と言い放ってくる。中性的な外見から優しげな人物だと最初は思ったが、戦い方や言動はか なり強かで陰湿であった。

 トウカという少年が分かってきた気がした。

「では、一夜の過ちなどどうだ!?」

「あ、過ちなのか!? 責任は取ってくれないのか!? 酷い奴なのだな、貴様は!」

 剣戟を交えながら二人は叫ぶ。その表情には無邪気な笑みが刻まれており、顔だけを見れば舞踏会で手を取り合っている様にすら見える。

「心外だな! 自信はあるし後悔はさせないが!?」 

「うるさいッ! 黙って斬り合え!!」

 若さに任せた会話。リディアは軍人であり《スヴァルーシ統一帝国》の第十三位帝位継承者であるが、士官学校を卒業後は南部鎮定軍に配属され、それ相応の 戦果を挙げてきたからこそ元帥という階級を得たのだ。そんな叩き上げの軍人でもあるリディアは、性に奔放であり開放的でもある前線の兵士たちの中で同じ釜 の飯を食べていたので、その手の話には耐性があるつもりだった。

 だが、何故かトウカに言われると流すことができない。

「下品な事ばかり……ッ!!」

 自らの内で膨らむ言い様のない不愉快な感情を押し殺し、正面から圧倒的な脚力に言わせた刺突を仕掛けるが、それが間違いだった。

「失礼な奴だ。下半身を中心に健全な生活を満喫している心算なんだが、な!」

 心外だと言わんばかりの顔で、トウカは舞う様に最速の刺突を避け、下段に構えていた軍刀の峰を返し一閃させると、リディアの脚を掬い上げた。

 後先考えずに吶喊した事を後悔するよりも先に、足にあらん限りの力を込めて踏み留まろうとする。だが、二人が激しい斬り合いを演じた足元の雪原は雪が踏み固められ、氷の様に滑りやすくなっており逆効果となる。

 結果として、その試みは失敗した。姿勢を崩した上、念を入れて更に足払いを掛けたトウカと、雪が降る曇天を恨めしく見上げることになる。








「さて、責任は取りませんが宜しいので?」

「女性を組み敷いて言う台詞ではないだろう……」

 トウカは雪原に横たわるリディアの上で、曖昧な笑みを浮かべる。

 あまり緊張感のない遣り取りだが、リディアの首筋のすぐ横の地面にはトウカの軍刀が刺さっており、その様子は剣呑であった。勿論、二人は旧友の様に言葉を交わしているので、声だけを聴くととても殺し合っていたようには見えない。

「俺の勝ちでいいな?」

「まだ、負けていない……と言えば如何する」

 如何にも気分を害していますという表情をしているリディアは年頃の負けず嫌いな少女にしか見えなかった。

「構わないが? どうしてもと言うならば身体に教え込むことになるな」

 トウカとしては、このような不毛な戦いは一刻も早く止めたかった。正直なところリディアの斬撃は、速度は当然として威力が冗談かと思いたくなる程に高 く、受け止める事はおろか回避しても衝撃波で体勢を崩しかねない代物で、避けるだけでも精神と体力が著しく削られる。そのような理由もあってトウカは短期 決戦を目指したのだ。

「結局は暴力的解決ではないか」

「いや、違う。……敗者が勝者に蹂躙されるのは世の常だからな?」

 軍刀から手を離し、リディアの胸甲に触れる。硬い装甲に覆われている事が非常に残念でならないが、リディアが小さく息を呑むのが分かった。このような事 を経験したことはないようだ。実はトウカもその手の経験はなかったが、この場ではリディアの戦意を失わせることが目的で、その点は全く関係ない。

「…………………………童貞のくせに」

 トウカの顔が引き攣る。盛大に。

その様な事は自分が一番知っている。だが、少女に正面から言われるとかなり傷付く。反撃であったとしても聞き逃せない一言だ。なので、少し意地悪をしてやろうという気持ちがトウカの中に芽生える。心身ともに武人であるリディアが狼狽える姿を是非見てみたかった。

「なら、御前が初めての女性ということになるな」

 戦塵に塗れたリディアの顔に、自らの顔を近づける。トウカは口づけをしたことなど一度もないが、出来るだけ余裕を持った動作を心がける。少なくとも無表情だけは得意な心算だった。

「や、やめろ……馬鹿者……っ!」

 顔を真っ赤にさせて小さな悲鳴を上げるリディアの、想像以上に艶めかしいその姿にトウカも内心穏やかではないのだが努めて顔には出さない。

 更に顔を近づける。

 在りし日の一流の彫刻や、神話に連なる麗しき戦乙女にすら勝るかと思えるその顔と、それが色褪せることを許さない程の気高い佇まい。それは、トウカが人生で見てきたどの女性よりも魅力的なものだった。

 リディアが力いっぱいに目を瞑る。それを認めたトウカは自らの袖でリディアの戦塵に塗れた顔を拭ってやる。少々荒っぽいが、それほどまでにリディアの顔は汚れているのだ。おそらく、長い期間、身なりを気にしていられる状態ではなかったのだろう。

「ううっ……痛いぞ……」

 リディアが顔の痛みに呻きながらゆっくりと目を開ける。

「乙女なのですから身だしなみを整えないとな。……女性の顔を拭くのは”初めて”だ」

 トウカは、一言も御乱行を働くとは言っていない。そんな度胸ありはしないし、そもそもリディアの怪力で引き裂かれたくはない。

「さぁ、帰ろうか」

 頬を紅潮させる戦姫に異邦人は手を差し伸べる。

 二つの流れは、やがて激流となり一つの物語となるだろう。そして、放たれた幾多の物語は、伝説へと移ろい往き、そして伝説は神話へと昇華するだろう。


 紫苑と陽光。


 幾度も干戈を交え、歴史を紡ぐ英雄達はこの時だけ、手を取り合う。

 歴史は知らない。智謀と戦力の持てる限りを尽くして戦った二人の最初の出会いは、年相応の笑顔であったことを。











 二人が宿泊所に帰ると、ミユキは火を起こして静かに待っていた。

 火鉢で囲炉裏の薪を突くその姿は、暗くなった室内で小さな炎に照らされて幽鬼のようで馬鹿二人が息を呑むには十分だった。時折、囲炉裏の炎が、ミユキの怒りを表しているかの様に爆ぜる。

「で、二人は土塗れになるまで戦っていたんですか?」

 形容し難いミユキの気迫に二人は気圧される。紫苑色も陽光色も正座したまま、黙って何度も頷く。

 その姿は、正に妖狐。実際のところミユキは天狐族という狐種の中でも高位の種族で、神獣のひとつにも数えられている。狐種は戦闘能力などが龍族に劣るものの、地平線の先を見通し、多くの魔術を扱えるとされていた。

「ま、まぁ、待て、狐娘。トウカを付き合わせてしまったのは私だ。そう怒らないでやってくれ」

 リディアがトウカを庇う。

 トウカは内心で素直に感謝する。良く考えてみると、トウカを言いくるめて外へと引き摺り出し、刃を振り被ってきたのはリディアなので、感謝ではなく全面的に同意してやる場面ではないかと気付くのは全てが終わってからだった。

 ミユキは、リディアの言葉に少し臆するが負けてはいない。

「そうなの? ……武装した人間が徘徊している外に主様を連れ出した上、チャンバラごっこですか。それは楽しそうですね」

 リディアには一瞥もくれず、囲炉裏の火を見たまま、ミユキはムスッと(へそ)を曲げている。尻尾がぴんと天を指しており、いかにも怒っていますという雰囲気が出ていた。怒髪天ではなく怒尾天であった。

 最近になりトウカは気付いたのだが、ミユキの感情を推し量るには尻尾の動きを見るのが一番良い。落ち込むと垂れ、嬉しいと元気に揺れる。極めて分かり易い指標と言えた。日経平均より親切である。本来の狐は機敏に尻尾を動かせないはずであるが、彼女は別の様であった。

 トウカは、今のミユキの姿を意外に感じた。純粋で天真爛漫な娘だと思っていたが、やはり女の子なのだ。機嫌を損ねると怖いのは幼馴染と一緒と言える。だが、そんな一面は嫌いではない。

 二人の遣り取りを見てトウカは笑みを零す。

「主様、何を笑ってるんですか!?」

「そうだ、トウカ! 私の弁明を助けるくらいしても罰は当たらんだろうに!」

 口に手を当て二人から目を逸らすが、時既に遅し。少女二人の言葉の砲火がトウカへと振りかざされる。良い女の舌鋒は三個師団の火力に匹敵する、という祖 父の言葉を思い出すには十分な二人の剣幕にトウカは劣勢に陥る。何よりも少女二人は、それ相応の戦技を身に付けているので舌鋒だけでは済まないかもしれな い。友軍と援軍はなく、トウカは忽ちのうちに窮地に立たされた。

 よって陣地転換を試みる。

「まぁ、この話は止めよう。終わったことだ」

 二人の剣幕に仰け反りながらも、トウカは自らの胸衣嚢(ポケット)を漁る。

「それよりも尻尾の手入れをしよう」

 櫛を取出すトウカ。ミユキの尻尾が揺れる。
尻尾の揺れは感情が揺れ動いている証拠。

 ミユキは尻尾の手入れを常に心掛けているが、自分の尻尾を手入れするのは位置的に難しい部分もあるらしく、道中ではトウカが代わりに行っていた。尻尾を 凝視される事は嫌がるにも関わらず、トウカに尻尾を梳かさせる事には躊躇いがないというのは、些かトウカにも理解できない感性ではある。無論、女性関係の 突破口として有効なものなので、敢えて追求する真似はしない。

「今日は止めておくか?」

 更に大きく揺れる尻尾。この寒い時期に蚤が発生するとは思えないのだが、本当に尻尾を手入れ(ブラッシング)されるのが好きらしい。

「ううっ、主様の意地悪……」

 剥れるが、何処か嬉しそうなミユキであった。









「はうぅ~、気持ちぃ~。極楽~」

 胡坐で座るトウカの上に腰を下ろして寛ぐミユキは、手入れ(ブラッシング)されている尻尾の心地よい感覚と、囲炉裏の炎の染み入るような温かさに顔を綻ばせる。

 ――主様の櫛捌きは至高ですぅ~

 微睡の中でミユキは考える。

 トウカは正体が良く分からないことは、この際、横に置いておくとしても、時折に不可思議な行動を取るのは止めて欲しかった。特に、今回はリディアと行方 不明になったのだ。薪拾いから帰ってきたら、二人とも武器だけを持って忽然と消えていたのだ。探しに行きたかったが、荷物を放置したまま宿泊所を出る事は できないし、入れ違いになる可能性もあったので迂闊に外へは飛び出せなかった。もしや、これが最近、巷で人気の恋愛譚で言うところの駆け落ちかと焦燥に駆 られた程である。

 飛び出したい感情を押し殺して心配して待っていたが、二人は何か通じ合うものがあるような笑みで笑い合いながら帰ってきたのだ。ミユキとしては一言物申したかった。

 だが、そんな意志はトウカの手入れ(ブラッシング)技術で溶けて消える。

 トウカは動物に触れる機会はなかったらしいが、その扱いはミユキの師匠すら遙かに超えて神業だった。至高と究極がここにあると言っても過言ではない。

 ――うう、卑怯です……

 なんという女誑し、もとい狐誑し。他の狐種を近づかせはていけないと心に誓うミユキ。

 そんな不毛にして不埒な決意をしていると、大好きな主の声が響く。

「ああ、ミユキ」

 話しかけられたこと嬉しくて意気込んで振り向く。狐種の女性は男性の前で、あまり尻尾を揺らすのは行儀良いことではないとされているのだが、今のミユキの尻尾は餌を前にした飼い犬のように激しく自己主張していた。

「何ですか、主様っ」 

 トウカの胸板に擦り寄り、精一杯甘える。

 ベルゲン到着以降のトウカの予定をミユキは知らない。契約を結んでもいない以上、ミユキがトウカと行動を共にする理由は表面的になく、またトウカがミユキと共に居続ける目的もない。ミユキとしては意地でも付いて往く心算だが、トウカがそれを許すとは思えなかった。

「リディアの馬鹿が座ったまま寝てるな」

 そう言ってミユキを自分の席に座らせ、トウカは立ち上がった。そして、リディアへと近づき、身体を横にしてやり毛布を掛けている。この一連の流れでリディアの話を持ち出すとは思わなかったミユキは、トウカの座っていた席に呆然と座るだけだ。

「全く……中身は子供だな。まぁ、色々な意味で親の顔が見てみたいが」

 トウカは、若干引き攣った顔で疲れたような笑みを浮かべていた。リディアとのチャンバラごっこは壮絶なものだと聞いていたが、どうやら嘘ではないようだ。

 そんな様子を見てミユキは内心穏やかではなかった。リディアという少女はぞっとするほどに美しい。しかし、愛嬌のある表情や言動も相まってその点を必要 以上に相手に意識させない。無論、容姿や身体付きなどの表面上だけで人を判別する程、トウカが安易な性格ではない事は知っているが、心中穏やかではいられ なかった。

 無邪気であり世間知らず。その癖、戦技と仕草は一級品のそれ。トウカを月に例えるならば、リディアという少女は正しく太陽。前者は浮世離れした佇まいで あるが、後者はその場に居るだけで圧倒的な存在感を感じさせる。陽光は生物と植物を育み、月光は暗闇を進む人々の往く手を照らし出す。故に双方共に人々に は欠けてはならない存在に他ならない。

 では、トウカは一体、何にとっての欠けてはならない存在なのか? 時代か? 国家か? 民族か? それとも自分自身?

「ううぅ……」

 普通の人間種の様に初等教育を受けていないミユキは思考を早々に放棄する。仔狐にとって勉学などしたこともないという事実は、思考を止めるに当たっての無敵の免罪符なのだ。

 だが、そんな仔狐にも分かることがあった。

月とは太陽の輝きを受けてこそ輝くもの。

 何のことはない。トウカにとってリディアと共に在る時が、一番輝いているのではないかと思ったのだ。トウカには自分よりもリディアのほうが相応しいかもしれない、という感情が心の内で大きくなるのを必死に押さえ付ける。

「主様はリディアさんのことが好きですか?」

 単刀直入に尋ねる。回り諄い表現をミユキは知らないし、弁の立つトウカはのらりくらりと追求を躱してしまうだろう。迂遠な言い方では真実を知る事はできない。

「……………は?」

 トウカは虚を突かれたような表情で固まる。ミユキもそれを見て固まる。どうやらトウカにとってこの言葉は予想外であり見当違いであったらしい。

「ははははははははっ! 俺がリディアを!? それはっ……!」

 一頻り笑うと、笑いすぎて腹が痛くなったのかトウカは蹲る。これ程に笑うトウカを見るのが初めてであるミユキは戸惑う。ミユキはその様子に呆気に取られた後に顔を赤らめる。自分が果てしなく見当違いな考えを抱いていたのだと気付く。

 そんなトウカの様子に、ミユキは安心と疑問を浮かべる。

「こんなに笑ったのは久方ぶりだ……まぁ、リディアと俺がどうこうなるなんてことは有り得ない」

 心からの笑みを浮かべて否定するトウカ。あまり感情を発露させる事のないトウカが笑ってくれたのは嬉しくあった。真剣に悩んでいた事まで笑われた気がしたので頬を膨らませて抗議してみるが、席に戻ってきたその顔は笑顔のままである。

「でも、主様は初対面のリディアさんに警戒心がなさすぎです……」

 トウカとの旅は未だ一週間程度だったが、それでも為人はそれなりに推し量ることができた。友好的であるものの、基本的に初対面の相手に無条件で気を許す ような性格ではなく、道中でも他の旅人には気付かれないように警戒していた。この御時世ではある意味当然かも知れないが、心身共に一定以上の距離には踏み 込ませないように配慮している様にも見える。

 だが、リディアは例外だった。薪の代わりに少女を拾ってきたと思えば、次はそのリディアとチャンバラである。突飛過ぎるが、応じたという事はやはりリディアを信頼していたのだろう。

「かも知れないな。強いて言うならば……リディアは歴史だろうか」

 その言葉にミユキは混乱する。少女が歴史であると語るトウカの顔は穏やかなものだった。まるで事象を解説するかのような雰囲気で、そこには好意の感情は一切感じられない。

「???」

 トウカの言葉をミユキは理解できないでいた。それを察したトウカが、ミユキの尻尾の手入れを再開しながら内心を吐露し始める。

「どこか似ている……俺の祖父と」

 実は、トウカは己の過去を語りたがらないので、ミユキも全く知らなかった。気になっていたので千載一遇の好機と聞き手に回る。トウカの独白に狐耳を揺らして聞き入った。

「祖父は英雄だった」

 第一声はそんな言葉だった。

 英雄。それは国家の護持に大きな貢献を果たした勇士の称号。

 《ヴァリスヘイム皇国》の戦史にも英雄は幾人か存在する。初代天帝……天皇大帝はその最たるもので、それに仕えた初代七武五公も軍神と称される程の勇戦 を演じて見せたからこそ英雄の称号を得た。初代天帝と初代七武五公は大陸を統べていた《大帝国》の崩壊の後、虐げられた人々を種族、民族の垣根を越えて助 け続け、その末に《ヴァリスヘイム皇国》の建国に漕ぎ着けた。群雄割拠のあの時代。早期に国家を築き上げて多くの命を救ったその行動は正に英雄の名に相応 しいものだ。

「大東亜戦争末期、祖国が《大日本皇国連邦》ではなく《大日本帝国》と名乗っていた半世紀前。国家間で互いに終末兵器の応酬を繰り広げたあの時代。関東方面に敵前上陸した連合国軍の大軍を前に本土決戦軍……神武軍を率いて戦った祖父」

「???」

 高度に機械化された陸海空の戦力が立体的戦闘を行った際の悲惨な戦場。この世界にも銃火器や戦車は存在し、航空戦力という点では龍騎兵が存在する。だが、それを効率的に運用する為の戦術、戦略が確立すらされず、トウカの元いた世界からすれば中世規模のものでしかない。

「歴史に名を刻む者や、時代を動かす者は凄絶な色気を放っている」

「祖父もそうだった」と、トウカは笑う。

 ミユキは英雄に足る人物を見た事がないので、その言葉に頷く事はできない。だが、トウカの表情はどこか誇らしげである。そんな眼差しを向けられる祖父はさぞ偉大な人物なのだろうと、ミユキは撫でられた尻尾の心地良さに目を細めながら思った。

「リディアは祖父と同じ気配がする。きっと時代を動かすだろう……良くも悪くも」

 それは祖父と言う英雄を見てきたからこその言葉だろう。そしてリディアにはそれを連想させる“ナニカ”を見たのかも知れない。ミユキは朧げながらに理解した。リディアはトウカにとって好意の対象ではなく、憧憬の対象なのだ。

「難しい事は分からないです……でも、私にとっては主様が英雄です」

 あの寒村で血に塗れた仔狐の頭を優しく撫でてくれたトウカは、ミユキだけの英雄に他ならない。誰もが認めなかったとしても、それがミユキの中での唯一にして無二の真実。

 確かに、陽光の如き輝きを放つリディアは、月影の如く佇むトウカを照らすだろう。

 だが、異邦人は紫水晶(アメジスト)の瞳を宿している。紫水晶(アメジスト)は闇夜の宝石である。故に月下に在ってこそ耀き、陽光に翳すと美しい紫色が消えていくという。ミユキは、その逸話が事実であることを切に願う。

 しかし、その願いなど消し飛ぶ言葉が、トウカから漏れる。

「俺は、今日、初めて人を殺した……」

 異邦人の独白。

 ミユキは二重の意味で絶句した。何時の間に誰と交戦していたのかという事実と、危機に対してあれ程に冷徹な判断をしていたトウカが初めて人を殺めたとい うことにミユキは愕然とする。驚いて振り向くと、トウカは何時ものようにミユキの頭を撫で微笑むだけだ。見たところ身体に怪我はしていないようだが、その 表情にはどこか翳があった。疲労からきているもの思っていたが、心労からのものかも知れない。

「後悔はしていない。だけどな、それだけに驚く」

 心底疲れたような声音でトウカが呟く。

「この程度の事か、とな」

 ミユキは自分が経験した事のない行為に悩むトウカに、掛けるべき言葉を見つけられなかった。

 彼は殺人という行為にではなく、その行為に一般的な感性を抱けない事に恐れ慄いているのかも知れない。









「この程度の事か、とな」

 それはトウカの本心だった。人を殺すことが法によって悪と定義されていたのは《大日連》に居た頃には想像もしなかったことである。何故、自身は然したる 感情も抱いていないのか。悲観に暮れ、動揺するのがヒトではないのか。口先で死に追い遣る事と、自らの手で殺める事は違う。実体験こそをヒトは重視する。 愚かであるが故に。

 何故、何も感じないのか。寧ろ、やっと経験できたかとすら思う。これで知る事ができる。

 あの将星達の立場を。

 この《ヴァリスヘイム皇国》では法整備はされているが、夜盗や非合法の傭兵団も数多く存在しており、場合によっては自衛や自己防衛以上の戦闘も許容され ている。それ以前に科学が進歩していないので、治安組織の解決能力など知れているであろう事は想像できる。そもそも事件の解決よりも抑止力としての能力を 優先されていることは容易に想像が付く。

 日本では殺人という基本的に高級であった品が、この《ヴァリスヘイム皇国》では条件付であるものの安価な量産品に過ぎない。元の世界との一番の違いはその一点に他ならない。あまり嬉しくない違いだが、人々の道徳心の程度を知るには丁度良かった。

 そして、何よりもトウカが行った戦闘は違法とされない。一つの救いではあったが、それは法的なものであって精神的な救いとはならないはずである。

「人を殺めるという行為に免罪符はない。祖父の言葉です」

 とある宗教では信じれば救われると説いているが、その様なものは西洋人らしい独善的で主観的な考え方の産物でしかない。その死を許容し、赦せる資格のあるものは、その死した本人だけなのだが、死した者に赦しを求める事は現世に留まる者には不可能なことに他ならない。

 勿論、トウカに赦しを乞う気など在りはしない。それではリディアが納得しない。最初に斬った騎士達は別にしても、少なくとも魔装騎士に関してはリディアを助ける為に斬った。後悔をするという事は、リディアを助けた事を後悔するということとなる。

「後悔はしていない……だが、それで良いのか? それはヒトと言えるのか?」

 ミユキの髪を梳かしながら、トウカは思考の海に没する。

 より良い歴史の為に刃を振るった祖父に、初めての実戦は歴史を作った少女を護る為に行ったと胸を張って言える様になれるかは分からない。その為にはリ ディアには是非とも時代を動かせる様になって貰わねばならないが、トウカの意志をあからさまにリディアに押し付ける気はない。

 ヒトを理解できぬ己は、あの将星達と並び立てるのだろうか?

「この程度で揺れるとは思わなかった……武門に連なる者として情けない限りだ」

 祖父は笑うだろう。他者の意見など気に掛けるに値せず。ただ護国の武士の本分を果たし続けよ、と。

 護国の武士。よく祖父が口にしていた一言。

 だが、断じて守るべき日ノ本はこの世界に無く、仕えるべき主君たる天皇陛下すら存在しない。何を護り、誰を主君と仰げばよいのかすら分からない今この時。

「自分が何を成すべきか分からない……正義や悪という安易な基準で物事を計る気はないが……やはり分からない」

 それは紛れもない本音だった。正義や悪などは自身を正当化する理由であり、他者を貶める理由でしかない。正義や悪は結果の是非でしかなく、手段と過程の是非に何ら寄与するものではないと祖父から学んでいた。

 だが、それでも尚、正義でありたいと思うのは傲慢だろうか。

「祖父やリディアに追い付こうとは思わない。……だが、斯く在りたいとは思う」

 万人にとっての正義など存在しない。人の数だけ正義があり、同時に悪も存在する。万人を納得させることは神でもない限り不可能。それでも万人の……大和民族の正義であろうとした祖父の様になりたい。それが、トウカの偽りなき本心だった。

「分からないなら……私はそれでいいです」

 ミユキの暖かな感触がトウカを包む。

 抱き締められていると遅ればせながらに気付いたトウカは動けなくなる。

「何を成すべきかなんて私には分かりません。でも、時代とか歴史なんて関係ないです」

 優しげに呟やかれたその言葉。トウカは唇を噛み締めた。この世界にきて心の奥に押し留めていた感情が図らずとも溢れ出しそうになる。あってはならない事だと波打つ心に蓋をする。

 正面から抱き締められているのでミユキの表情は見えない。代わりに暖かな感触で頭を撫でられる。まるで、トウカがいつもしているかのように。

「どれ程に時代が移ろい往こうとも、私が主様を好きなのは変わりないですから」

 根拠のない理屈ではあるが、自然と納得できるものがある一言。万事に理由と理屈と真理を求めてこその武士であると祖父は語っていたが、それらでは相反する感情を押さえ付ける事はできない。所詮、トウカの行いも人々の営みの一幕に過ぎないのだ。

 それが、如何にヒトの道を外れていたとしても。

「私は知っています」

 抱き締められているので見えないが、きっとミユキは嬉しげな笑みを浮かべているのだろう。

「主様は主様です……だから、好きに生きていいんですよ?」

 そこまでが限界だった。異邦人の瞳から涙が溢れ出す。一人だけであれば泣くことはなかっただろう。だが、ミユキの優しさはトウカの荒れた心に沁み渡る。

 嗚咽を漏らすトウカ。

「俺は好きに生きていいのか?」

 ――俺は在りし日に帰れないかも知れない。

 こんな世界が自身に配慮などしてくれるはずもないという確信である。見知らぬ異世界に堕とされ、謀らずとも実戦を経験する事になった。トウカに優しくない世界であることは確か。しかし、ミユキだけは優しかった。そう、彼女だけだ。

 女の前で泣くのは恥ずかしいという思いはある。だが、抱き締め合ったままであれば、少なくとも情けない泣き顔を見られることはなく、それがトウカのできる限りの妥協点であった。

 そして、トウカが意識を取り戻したのは早朝になってからであった。


 

 

 

 

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