第十話 戦人たるの義務
「トウカの飯は美味いな。良い婿になる」
リディアは黒茶を啜りながら幾度も頷く。対するトウカも囲炉裏を挟んで対面の席に腰を下ろし、同じく茶を啜っていた。
黒茶はトウカも初めて飲むが、番茶の様な味であり、色合いは名が示す通り淡い黒で、木の実を磨り潰して淹れられる様は茶というよりも珈琲に近い。
ミユキは村の女衆と日持ちのする食糧を作っているので、この場にはいない。ちなみにリディアは余りにも不器用である事から台所を追い出され、トウカに与えられた部屋にいそいそと撤退してきたのだ。
「婿か……一応、桜城家を断絶させたくはないが」
トウカの一族、桜城家は武門の家系であり、《大日連》では七武五公や東郷家、高野家などと並ぶ名家であるが、同時に衰退の一途を辿っていた。分家の多くは断絶し、当主であったトウカの父親は行方不明となり、祖父が再度当主に返り咲くという状況に陥っている。
故にトウカは、この異世界で桜城家を興そうかとも考えていた。
――果たして俺にそんな才覚が在るかどうか……いや、時勢に恵まれるか否か。
トウカの戦略や戦術は所詮、焼き増しに過ぎず、この大地で有効か否かは分からない。魔導技術という可能性は、トウカの知る鉄と火力に依る闘争を思わぬ形 で妨げる事も有り得た。ミユキの魔術は火炎魔術しか見てはいないが、それだけでも器具を必要とせず食糧に火を通す事ができる上に、規模を大きくすると歩兵 戦力の総員が火炎放射器を持っているも同然であった。
「御家再興は難しそうだな」
「御家復興か……帝国ならば武勲を立てれば貴族として認められるが……皇国では無理だろう」
リディアは、ミユキがいれば《スヴァルーシ統一帝国》にはいられない、と考えたのだろう。トウカ自身もミユキが迫害の対象となるならば、共産主義思想な り無政府主義思想でも撒き散らして《スヴァルーシ統一帝国》の国体に盛大な亀裂をくれてやるとすら考えていた。腐敗した王政は苛烈な平等主義によって贖わ れると歴史が証明しているのだ。
トウカの笑みに、リディアが顔を引き攣らせる。それ程に悪人顔だったか、とトウカは慌てて表情を取り繕う。
革命の足音をトウカは聞いたことがない。一度、聞いてみたいとは思うが、それは個人の持つ力では不可能であり、夥しい流血によって可能となる悲劇を個人 の願望で行うことは許されない。《スヴァルーシ統一帝国》の腐敗による短期間の犠牲者数が、革命による流血の犠牲者数を上回るならば話は別であるが。
「まぁ、御家再興など機会があればで構わない。今はミユキのこともある。下手に欲を出す訳にもいかないからな」
この不確実で不鮮明で生温い日々も悪くないと、トウカは考えていた。無論、根無し草のままでは金銭的に宜しくないので、継続的な金銭入手の手段と拠点を確保する心算であったが。
だが、リディアは何を思ったのか、うむ、と大きく頷く。
「確かにあの尻尾は鞣すと良い毛皮になりそうではあるな」
「御前を引ん剥いて、奴隷商人にでも売り飛すぞ」
リディアを引ん剥いて首輪を付けて売却する方が遙かに高値となるであろう。武道の修練をかなり積んでいる様に見えるにも関わらず、その手は白磁の如く美 しく、擦り傷や血豆一つない。魔人族は傷の回復が早いと聞いてはいたが、それを差し引いても武と美を両立させているリディアは稀有な存在であろうことは疑 いない。
――例え胡坐を掻いて、熱燗に手を伸ばそうとしている姿であっても美少女は美少女か。
リディアは囲炉裏の隅で温められていた鍋から熱燗を抜き取ると御猪口に注ぎ、一人で宴会を始めていた。黒茶は熱燗の熱が十分となるまでの繋ぎに過ぎなかったのだ。何げに、この流血混じりの時代を楽しんでいるのはリディアの様な者に違いないと、トウカは確信すると共に手中の御猪口を差し出す。
「おお、飲むがいい。これは戦勝祝いの前借りだ」
「慢心極まれりだな……いただこう」
勝利は揺るがないが、犠牲を可能な限り減らさねばならない事には変わりなく気は抜けない。リディアがいる以上、匪賊の大半は圧倒的な膂力と魔導の前に蹂 躙される事実に変わりはないが、三〇〇名近く敵はいるので村内への浸透を許せば女衆にまで被害が及ぶかも知れない。それらへの警護を考えれば、リディアと トウカが使える戦力は一二〇名前後となる。
御猪口を傾けるリディアを見るが、戦への気負いは見られない。寧ろ、必要以上に寛いでいる様にすら見えた。
トウカも黙って御猪口を口に付ける。
リディアは敵の一番大きい集団に単騎でぶつけることになる。対するトウカは余剰の男衆を率いて他の集団を各所撃破していこうと考えていた。本来であれ ば、敵を一か所に集めて包囲殲滅を図るべきであるが、余りにも小規模な村で縦深陣地とするにも難があり、構造的にも長時間敵を拘束できるとは思えず、騎兵 がいたならば突破後に後背を突かれる可能性があった。
口元を袖で拭い、トウカは「儘ならないものだな」と呟く。
弓矢や旧式小銃もあるが、魔導防御はそれらに対しても相応の耐性を持つ。飛来する目標の方向に展開していなければ有効ではないとはいえ、包囲に成功しても方陣を組んで全周防御されてしまえば、やはり近接戦とならざるを得ない。
「難しいことを考えているな。こんな美人との酒宴で益体もないことを考えるな」
「これは失礼。……しかし、美人と言うならばその姿勢は何とかするべきだろうに」
胡坐を掻き、その上で詰襟も大きく開けている様は、トウカの視線に優しくなかった。ミユキには劣るものの、リディアも十分な大きさの胸であり、男性ならば視線が其方へと向いてしまうことも致し方ないだろう。
「なに、減るものでもない。トウカなら見ても金は取らんさ」
「普段は有料なのか?」
「勿論だ。序でに言うと釣りは拳だぞ」
拳を握るリディアに、トウカは頬を引き攣らせる。魔人族であるリディアの身体能力が卓越している事は目撃した戦闘で十分に理解している。木々が圧し折れ る程に叩き付けられても悠然と立ち上がるその様は、人間種でないと思い知らされるには十分だった。まともに交戦すれば普通の人間など容易く砕け散るだろ う。
二人は楽しげに酒杯を交わす。
取りとめのない話……というには少々軍事色の強い話題ばかりであったが、双方共に互いが知らぬ軍事史を知っている為に会話が弾む。トウカは、将兵の逸話や伝統に興味を抱き、対するリディアは《ソヴィエト社会主義共和国連邦》という亡国に興味を示した。
特に《ソヴィエト社会主義共和国連邦》陸軍に於いて赤いナポレオンと称された、ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー元帥が考案した縦深攻撃理論に対して過剰な関心を寄せる。
無論、異世界から訪れたということは口にしない。そもそも、信じて貰えるかすら疑わしく、当人であるはずのトウカですら未だ信じ切れていなかった。朝起 きて揺れるミユキの狐耳を見ることで初めて異世界なのだと実感できるのだ。決して、目覚めると必ず抱き付いているミユキの胸の感触ではない。
ついでにこれからのことも話すべきか、とトウカは重要な案件を切り出す。
「実を言うと村を護る策などない。そもそも、立案しても意味がない」
「……ふむ、しかしそれであれば何とする?」
あまり困った様子ではないリディアを横目に、トウカはリディアという戦闘単位の使いどころを思案していた。
敵が密集して侵攻してきた場合、これに正面から応じるのはリディアだけでよく、トウカや村の男衆はこれの取り零しを遊撃によって各所撃破を図ればいい。尤も犠牲が出ず、更には敵を一挙に殲滅できる最良の策でもあった。
「まぁ、敵は分散するので前提からからして無理ですが」
「分散されると叶わんな。私は遊撃か?」
その言葉にトウカは首を横に振る。
リディアの打撃力と傑出した魔導防御は間違いなく決戦戦力であった。遊撃はあくまでも擾乱や挟撃の為の戦力であって主力ではない。どれ程に勇戦しようとも、それは主力が有利な現状で戦端を開く事ができるようにする為の補助戦力でしかない。
「敵は前回、村の中央にまで踏み込んで食糧と金銭、若い女の全てを要求したらしい。リディアはどう思う?」
トウカの見たところリディアは武装集団を率いた経験、或いは率いる為の教育を受けている。村人に対する対応で武器の扱いだけでなく、その精神を気遣う一面を見せていたが、ただの流浪の騎士がそこまでに気を配ることなど有り得ない。
「村の道や建造物の配置の確認だな。旅人に扮して行わなかったところを見るに、相手も戦わずに済ませることを望んでいるのだろう。敢闘精神が不足していると見える。どれ、私が教育してやろうではないか」
詰まらん奴らだ、とリディアは舌打ちを一つ。最早、女性を捨てているとすら思える風体である。対するトウカは、リディアのそんな姿に、御淑やかにしていれば蝶なり花なりと持て囃されるだろうに、と呆れながらも匪賊の目論見を限定的ながら評価していた。
匪賊は三〇〇名ほどが隊伍を組んで村の中を行進。中央にある村長の家屋前で声高に要求を述べて撤退した。期限は三日後……即ち計算すると明日であるが、 これは村人が軍の駐留している都市に駆け付けても間に合わない時間であった。その上、街道に伏兵でも配置されていると、軍に永遠に危機を伝えることは叶わ なくなるだろう。つまり、村人は外部からの増援、支援を期待できない。
しかし、食糧、金銭、若い女性の全てを差し出せと明言している以上、村は冬を越せず、子を成して次代へと希望を繋ぐこともできず、新たな安住の地を求めることも出来なくなる。
「全てを渡せと言っている時点で底が知れよう。頭が切れるならば、食糧と金の半分程度を村の外に積み上げておけとでも言うだろう?」
「確かに。それなら村人は冬を越す最低限の食料と金銭を残しつつ交戦も避けられる。女性の相場は知らないが、この深い雪の中で連れてゆくのは手間が掛かる。移動速度が下がれば軍の追跡に遭うかも知れない。匪賊などという仕事は欲を出せば早死にするからな」
「匪賊が仕事とは言うじゃないか。皇国では職業選択の自由が認められているらしいが、随分と個性的な職業を選択したものではないか、匪賊共は」
もし、食糧と金銭を未だに多く隠しているように見えたならば、匪賊は今から奪うという姿勢を見せるはずである。非武装の相手であれば、慌てて差し出すことは容易に想像できた。長く匪賊などという犯罪者を続けたいならば、必要以上の恨みを買うことは得策ではない。
「まぁ、馬鹿なのだろう。頭が良ければ匪賊などにはならんさ」
「それは確かだ。真理だな」
トウカは、リディアの言葉に苦笑して、手にした盃の酒を一息に飲み干す。
犯罪者を己の物差しで推し測ること程に無駄なことはないが、リディアの言葉にも一理ある。頭が良いなら裕福な者相手に詐欺でも働けばよい。或いは胡散臭い新興宗教の開祖とでもなるか。
「では、その様に手配しよう……村長殿」
視線を巡らせたリディアの先にある襖から、小さな慌てた様な音が響く。そして、一人の老人が静かに開けられた襖の先で一礼する。
「気付いていなすったか。こりゃ、驚いた」
「トウカも気付いていたがな」
リディアは詰まらなさそうに呟く。
確かに気付いていたが、個人の特定まではトウカにもできなかった。何せ、襖の先で座したままの相手の個人の特定は難しい。祖父は息遣いで他者の特定が可能であったが、トウカにそこまでの技能はない。トウカはヒトを辞めた心算はなかった。
「できれば村を少ない被害で勝たせてもらいたいのじゃが」
「善処はしますが、数で劣る上に分散されると最早、手の打ちようがありません」
大前提は分散させない事であるが、敵もヒトである。思考し、機動する敵集団の動きを完全に予想する事など不可能であり、何より相手の思考についてトウカ には大きな不安があった。この大地の基本戦術をトウカは知らず、リディアから一端を耳にしたとは言え、実戦の面では大きな不安があった。特に魔導障壁によ る影響で銃火器の運用規定が曖昧である事が痛い。
「では、此方も集結して敵に決戦を強要しましょう」
最早、そうするしかなかったが、相手が有能であれば分散し、村の破壊による村人の士気崩壊を優先するだろう。しかし、恐怖心に駆られて此方の撃滅を図ろうとすれば、正面決戦を挑むことができる。
「良いのか、トウカ」
リディアの問いに、トウカは唸る。
良い訳がない。もし分散したまま村内に突入され、ミユキと遭遇したらどうしてくれるという思いがあったが、ここで揉めても解決策はない。失敗して敵が分 散した場合は、リディア個人とトウカ率いる男衆で各所撃破と残敵掃討を図るしかない。各所撃破になるので被害は少ないが、時間が掛かる上に村内で籠城する 女衆に被害が及ぶ可能性が増大する。
「致し方ない、か。では、私の剣の出番だ。磨いてこよう」
いそいそと立ち上がるリディア。
戦じゃ出会え出会え、と御機嫌に部屋から飛び出したリディアに呆れつつ、トウカは村長に向き直る。この場に現れたという事は言いたいことがあるはずであった。
「それで、他の御用は?」
余計な問題を持ち込んできたのではないか、という疑念の視線をトウカは無遠慮に振り翳す。匪賊退治を頼み込まれた時も泣き落としであったことを考えると、また碌でもないことではないかと警戒してしまうことも致し方ない。
リディアは退室しても尚、座したままの村長は、トウカに何かしらの用事があるのだろう。
「……この村に残って欲しいものじゃが。奥方二人も優秀な御方に見えるしのぅ」
うんうん、と激しく頷く村長。
無論、あの二人とはそうした相手ではない。確かに親しくは接してくれるが、どちらも底の知れないナニカを持っている。
何より、二人は苗字を名乗ってはいない。この寒村にて気付いたが、少なくとも《ヴァリスヘイム皇国》では戸籍制度があり苗字も存在する。そうであるにも関わらず、二人は名前しか語ってはいない。つまり名乗ることに何かしらの不都合があると見るべきである。
「あの二人は俺の腕に収まる娘ではありませんよ」
「む、違うと言いなさるか。あれ程に健気なのに報われぬのぉ」
なんと贅沢者よのぅ、と村長が唸る。面白くない冗談であった。ミユキは兎も角としても、人の部屋に転がり込んであられもない姿で胡坐を掻いて飲酒した挙句、戦が始まると逸って部屋を飛び出したリディアは欲望に忠実なだけで決して健気ではない。あれを健気というならば、トウカは自身の女性に対する価値観を見直さねばならなくなる。
「兎に角、この村に残るという選択肢はありません。あの二人にも目的があるので」
この長閑な村を拠点にするというのは魅力的であるが、戦乱の時代、寒村に取り残されて世界情勢を読み違えるという恐怖があった。
――否、取り繕うのは止そう。……俺はこの世界を知りたい。
この不可思議にして、多くの者が懸命に生きる世界。未だ見たこともない理想と思想を掲げて刃を振り翳す烈士達の姿を目にしたい。この世界は如何様な歴史を歩んできたか大いに興味があった。
「申し訳ないが――」
「主様っ!」
リディアが開け放ったままの襖の先からミユキが飛び出してくる。
豪奢な着物に身を包んだ仔狐。複数の色の袿を重ね纏った姿は豪奢の一言に尽きる。色については季節感を取り入れた組み合わせなのか淡い色が多いが、それでも尚、艶姿と呼ぶに値するものであった。
「見てください、主様! 村の女の人達が結納の衣裳をくれたんです!」
嬉しそうにはにかむその姿が眩しいミユキに、トウカは引き攣った笑みを返す。横では村長がうむうむ、と激しく首を縦に振っていた。
――外堀から埋める気か。……用意周到だな。
無邪気な笑みを見せるミユキに、トウカは頬が緩むのを堪える。その姿に頬を綻ばせぬ者がいるとは思えない花の咲く様な笑みで、純真無垢な喜びようは見ていて心が温かくなるものであった。
そんな出来事があった一夜は過ぎてゆく。
「さて、闘争だ」
「うむ、戦日和だな」
トウカとリディアは頷き合う。
結果、匪賊は馬鹿であった。
村の東端にある物見櫓から二人は正確に見え始めた匪賊の影を眺めていた。
その数、凡そ三〇〇。
匪賊の実動戦力を前回の恫喝の際に展開してきた数と同等とするならば、間違いなく敵は眼下に見えるもので全てであった。無論、予備戦力が存在する可能性もあるが、トウカとリディアの指導によって増設された五つの物見櫓が早期発見をするはずである。闇夜に紛れて少数で潜入、物見櫓を焼き討ちするという構え程度は見せるかと考えていたが、威力偵察すらもなかった。よって正面決戦となる。
騎兵が五〇程で、他は全てが歩兵であった。装備も統一性がなく、連携には大いに不安がある様に見えた。元より対軍戦闘など考慮していない、弱者を相手にすることだけを生業とした者達だからこそ気を払う必要もない。
「では、期待している、リディア」
「任せるが良い!」
リディアが飛び出す。物見櫓の木製手摺に足を掛けて勢いよく飛び出すその後ろ姿。背負った長剣を宙で抜き放つその姿は、風に靡く鮮烈な黄金の長髪も相まって神々しく思える。物見櫓の下に集結している男衆もその光景を呆然と見ている。
対するトウカは、それどころではない。卓越した脚力を持つリディアが物見櫓を 踏み台にしたのだ。木製の物見櫓が大きな音を立てて軋み、踏み台にされた足場は砕け、大きく傾き始める。物見櫓と言っても、長い針葉樹を切り出し、三本を
組み合わせて足場や手摺、梯子となる木材をを打ち付けただけの簡易的なものに過ぎない。耐久性は低く、安定性にも欠ける。
除雪されて一か所に纏められた雪の小山に飛び降りたトウカは直ぐに立ち上がり、男衆に指示を出す。些か格好の付かない指揮官ぶりであるが、男衆の苦笑に緊張がほぐれたので取り繕わない。
「総員、前進! 三人一組で、我らが戦乙女の取り零しを撃破する!」
軍刀を抜き放ち、トウカは叫ぶ。
そして《ヴァリスヘイム皇国》の片隅で小さな戦いが始まった。
「三人で一人を攻撃しろ! 不用意に近づくな! 槍襖で刺殺しろ!」
トウカは飛び出してきた匪賊の脇腹を軍刀で斬り裂きながら、大音声で怒鳴る。
斃れた匪賊の脇腹から血と臓物が撒き散らされる。ヒトという有機物の袋に詰め込まれた臓物が勢いよく弾け出すのだ。想像以上に刺激的な光景である。前回 の騎士達の戦闘では軽鎧などによって手足や首などの非装甲部位の中でも主要な血管を集中的に狙った。よって臓物が盛大に自己主張する様を近くで見るのは初 めてであった。
――暫くモツ煮込みは無理だな。
遠目にはミユキと開口した寒村でも目撃したが、特定の料理の食欲を削ぐ光景である。戦場に在っても尚、その様な感想を抱く己の心を嘲笑し、トウカは血振りをしつつも周囲を俯瞰する。
最早、戦場は混戦の状況に陥っていた。元より双方共に軍事教練を受けている訳ではないので、隊列を組んでの戦闘など土台無理な話であった。無論、衝突時 は稚拙ながらも隊列を組んでいたが、容易に間隙が生じ、どちらもそれを埋めることが出来ず、双方共に隊列を引き裂かれる。
既に秩序などない。手当たり次第に敵を討つだけであった。殺人に対する忌避感が薄いのか、或いは村を護ろうという意識が勝っているのか匪賊を討つことを躊躇う者はいない。
何より、リディアが血風と匪賊の遺体を出来の悪い映画の様に巻き上げながら暴れる姿に、匪賊は早くも戦意を喪失して壊乱しつつある。指揮統制も最早、喪われただろう。無論、乱戦である為、トウカも村の男衆に対する指揮統制を半ば喪っているが。
雪を蹴り上げて視界を奪った匪賊に足払いを掛け、首を右脚で踏み砕く。軍刀が極めて強靭な抗堪性を持っていることは証明済みであるが、流派での戦闘形態が刀身に負担を掛けないように戦う事を前提としている為、戦技もそれに応じたものとなっていた。
足癖が悪いと他流派の師範に唸られる程に、トウカは足技によって敵の体勢を崩すことを重視していた。時間がない場合は、匪賊を大地に転がしておけばよ く、後続の者達が短槍で新兵故の執拗さで突き殺す。トウカ自身も三人一組での戦闘を心掛けており、背後には同年代と思しき少年二人が追従していた。
「トウカさん! 勝ってますよ、俺達!」
喜色を浮かべる少年に、トウカは黙って頷く。何せ、リディアが暴れたのだ。
現在もリディアは敵を斬り伏せ続けているが、その遣り方は魔導防護を施した長剣を圧倒的な膂力で薙ぎ払うことによる斬撃であった。文字通り横に一刀両断されて、上半身が宙を舞う匪賊もいれば、逆に袈裟懸けに斬り裂かれる者もいる。
最早、戦闘ではない。
素手による攻撃は、頭蓋骨を粉砕して脳漿を撒き散らし、蹴りは身体の臓器を瞬間的に押し潰すだけでなく背骨まで圧し折った。だが、最も悲惨に見えるのは斬 撃によって即死した者である。痛みを感じる暇もなく死に絶えた事は当人にとって幸いであるが、両断されたことによって雪の大地は夥しい血と臓物によって赤 く染まった。これを目にして戦意を維持するというのは極めて困難な事と言えた。
人間の体温が気温よりも高いこともあり、斬り裂かれ内容物は外気に触れて湯気を立てる。夥しい量の湯気がリディアの足元を満たし、血塗れの戦乙女が雲居の上を歩むかの様に見えて幻想的な光景ですらあるが、残酷な佇まいであっても、それを成した者が敵味方のどちらかであるというだけで、その印象は大きく変わる。
味方には幻想を。
敵方には絶望を。
「リディア、敵の指揮官は?」
駆けてきて尋ねるトウカに、リディアは後ずさる。血に塗れたその表情には、隠し得ぬ不安の色が見て取れた。圧倒的な戦闘能力を見せつけた戦乙女が怯える姿にトウカはどうしたものかと唸るが、背後の少年を下がらせる。
「……私が怖くないのか?」
「下らないことを尋ねる暇があれば質問に答えろ」
戦闘中に下らない感傷に付き合う時間はない、とトウカは一蹴する。リディアの戦闘能力が非凡なものである事は初見で理解が済んでおり、今更驚く事も怯え る必要もなかった。確かに魔導騎士との戦いとは違い、今この場での凄惨な戦野は他者を怯ませる要素があるかも知れない。だが、トウカからするとリディアに
対して恐怖を抱いたのは魔導騎士との戦いがより大きかった。能力を最大限に使用していたのは間違いなく前者なのだ。
惨たらしいだけの光景に怯える事はない。モツ煮込みを暫く口に入れる意欲を喪う程度で怒りを露わにしていては、戦野で憤死しかねない。無論、怯えすぎての心臓発作も同様である。そもそも、リディアにはこの一戦で、それこそを期待していたのだ。
既に全滅した寒村の光景の影響もあるが、物事の本質を優先しようというトウカの意識は、既にリディアという少女の異端である部分を理解していた。
――何を今更……拒絶する心算ならばミユキに近づける訳がないだろう。
強力な力は、畏敬と畏怖を呼ぶ。或いはリディアという少女は、魔人族の中でも卓越した能力の持ち主なのかも知れないという予測がトウカの脳裏を過ぎっ た。もし、そうであるならば、リディアという少女は限りなく孤独に近い状況に置かれていたのではないか、とその幻想的な佇まいも手伝って思えた。何者をも
近づけない気高さも持ち合わせているからこそ、多くの者はリディアのありのままを見なかったのだろう。
肩書や能力は、あくまでも当人の装飾品に過ぎない。祖父は英雄という肩書を持っていたが、同時にそれを上回る“我”を持っていた。それ故に英雄という肩 書の重みに押し潰されることもなく、国家という組織や戦争という事象に対してすら己の意志を強制したのだ。真田と桜城ありて、東亜は泰平なり、である。八 重山桜と六文銭はいついかなる時代であっても己を貫き徹す。
――リディアは、そこまで大成してはいない。か。
トウカは拳を握り締めた。莫迦らしい。そんな言葉が過ぎる。何を今更、怯えるのか。怯えられるのが、畏怖されるのが嫌ならば、その本性を隠す術を覚えればいい。戦に猛り、己を統制できないならば戦野に立たねば良いのだ。
「面倒臭い女だ」
トウカは俯いたリディアの頭に拳骨を落とす。余程の石頭なのか鈍い痛みの奔る右手に顔を顰め、蹲ったリディア。身体が丈夫であり、怪我の回復に優れるのだとしても痛覚がない訳ではない。蹲ったリディアの横にしゃがみ込んだトウカは、リディアの手入を怠っていたのか若干色褪せた黄金の長髪の一房を掴み、その顔を引き寄せる。
「なぁ、俺達は闘争の最中にある。残念だが貴様の任は俺の指揮に従うことだ。怯えることではない。義務を果たせ」
冷酷に言い放った異邦人。
対する戦姫は……
リディアは小さく唸る。
頭を襲う鈍痛の中でトウカの憤怒の言葉は、リディアの心を揺さ振った。
義務を果たせ。
その言葉は軍務に携わる多くの者にとって、呪縛であり祝福であった。
義務とは己に課された使命。そして、それを他者や組織の命によって実行する場合、その責任が当人に帰属することはない。己の陣営に最大限の利益を齎す為に動き、当人は命令から生ずる義務の遂行に於いてはその行動に対して責任を持つ必要性がなくなる。
軍務に於ける殺人という行為の責任を負わずに済む祝福。それが義務という言葉である。悠久の大義も正義と自由も生存圏拡大、民族自決、民族的優位性の証明……言葉と実態を別にしても、それらは所属組織が掲げる理想であった。
そして将兵は、その理想を実現する為に義務の履行を求められる。己の精神と信義に反する事であっても、体制の歯車としての己を優先させねばならない。個 人である前に組織の一人であることを念頭に置き、事があれば己の心身の犠牲すら許容する覚悟を求められる。それが軍という組織である。だからこそ義務とい う言葉が大きな意味を持つ。
己の望まない殺人という行為から逃れ得ないという呪縛。リディアは、それを悪いとも良いとも言えなかった。個人としても姫としても己の生き方を決め得ないリディアにとって、《スヴァルーシ統一帝国》陸軍元帥という肩書は苦しくも楽なものであった。
「優しいな、トウカは……」
義務とは卑怯な言葉だ。己が今やらねばならないことを嫌でも認識させる。リディアは彼の指揮の下で戦列を形成したのだ。
それは分かり難い優しさと言える。
「さぁ、立ち上がれ。その様子では敵の指揮官はいなかったか」
差し出されたトウカの手。顔には詰まらなそうな表情が張り付いていた。貴様の心の内など興味はないという苛烈な態度。そして、彼女の懸念と恐怖は、トウカにとって痛痒を与えるものではないという確固たる意思表示。
「酷い奴だな。トウカは」
「酷いのは匪賊だろう」
面白くなさげに呟いたトウカの手に引っ張り上げられたリディアは、血の付いた黄金色の長髪を振り払うと、地面に突き刺さった大剣を抜き放つ。
リディアは血染めの雪原を歩く。背後を進むトウカの気配。それが堪らなく心地良かった。
信頼とは違うかも知れない。
信用とは違うかも知れない。
だが、確かにそこには絆があった。
戦人としての絆。
真に己が戦野で背中を預けるに値する相手は、リディアにはいない。信用できる者の有無ではなく、己の能力が卓越している為、リディアの戦技に追随できる 者がいないのだ。《スヴァルーシ統一帝国》陸軍元帥としてリディアの相棒は直属魔導砲兵聯隊であり個人ではない。リディアの戦闘能力は制限さえ無視すると
一個歩兵聯隊の火力と同等と判断されており、一個騎兵聯隊の騎兵突撃に匹敵する突破力を有しているという評価を受けていた。然るべき装備があってこそであ るが、対《ローラン共和国》戦線では、単騎で一個師団を壊乱させている。単騎でありながらそれ程の戦闘能力を持つリディアの相棒は個人では成し得ず、面制 圧すら可能な直属魔導砲兵聯隊という名の集団しか存在しなかった。
無論、トウカが剣術に優れているとはいえ、リディアの基礎身体能力には遠く及ばない。その上、魔導資質を考慮するとその差は絶望的なまでに開く。しか し、それでも尚、トウカが己の背後に曖昧な笑みを浮かべたままに寄り添う姿を、リディアは何故か想像できた。生まれてこの方、リディアを拒絶しなかった者
は数える程しかいない。最たる者は腹違いの姉に当たる人物であるが、双方共に得意とする分野が違う為、共に戦野に立つ事はない。個人としてリディアと共に 戦野を掛けた男はトウカが初めてであった。
「全く……酷い奴だ」
万感の想いが籠ったその言葉に、異邦人は沈黙を以て応じた。