第四・五話 御狐様が見てる
「では、往きましょうか」
トウカは、ミユキの背に言葉を投げ掛ける。
力なく揺れる尻尾がミユキの心情を如実に表しているが、トウカは努めて感情の宿らない声音を意識した。トウカは少なくとも、彼らに対して胸を張れる立場 でもなければ、謝罪を受け入れられる立場でもない。だが、同時に彼らに対して責任を負う立場にないことに心底、安堵している自身がいることを、トウカは明 確に認識していた。
それを卑怯だとも卑劣だとも、トウカは考えない。トウカは《ヴァリスヘイム皇国》の臣民に対し、何ら義務を負ってはいないのだ。冷酷だとも残酷だともヒ トは言うだろう。だが、少なくとも法的義務を有さないのは事実である。拘束力のない道義的義務を声高に叫ぶ無能もいなければ、無意味な挺身を強要する風潮 とも無縁となったトウカは、その言動と心情を偽る必要性を感じない。
だが、ミユキには慰める事はせずとも、その心を抉る現実を振り翳す真似はしなかった。
その点こそを、トウカは驚いていた。
――この俺が配慮している? 出逢って間もない少女に?
確かにトウカは殺人という行為に手を染めた事は未だにないが、殺人教唆という点は経験している。その結末も見届けた。何千回、何万回と。それが祖国たる《大日連》に必要だと判断したが故に。
トウカは己が“特別”であることを理解している。祖国の繁栄を実現する機構の 一点部品として“作製”されたと自認しているからこそ、彼は個人の悲劇や他国民に同情することは在ってはならない。ましてやそれに行動が引き摺られるなど
論外である。少なくとも、そうした思考をする様に教育された自身が、出逢って間もない少女に心底同情している事実は解せないものがあった。
トウカは早々に思考を放棄する。感情由来の思考に理由付けをする不毛を、トウカは良く理解していた。そうした言葉遊びは哲学者と共産主義者にでも押し付ければよい分野である。
彼女を、ミユキを慈しむべきだと本能が囁くのだ。
総ての枷と基準を祖国に置き去りとしたトウカは、今この時ばかりは救国の理論を行動の基準とする必要はない。無論、帰還を急がねばならないのは確かだ が、ミユキの知識がなければ、そう遠くない内に野たれ死ぬ事とてあり得る。もし、これからの行動に於いてミユキの助力を得られないとなると、トウカは何処
かで自らの生命を賭けた博打に身を投じねばならなくなるかも知れない。生きるという行為は、酷く資源を消費する行為であり、同時に絶やすことのできない行 為でもある。金銭や食料などは何処かで必ず定期的に入手せねばならない。
この世界について余りにも無知な異邦人は、安全を担保する術を知らない。それも、あらゆる行為に於いて、である。
尚も動かないミユキの背に、トウカは背負った背嚢を下ろす。旅路でも生活していく以上、必要な物資は持ち歩かねばならない。よって寒村で生活必需品や食料を漁った。大半は匪賊が収奪していたが、床下収納や天井裏には少なくない食料が保存されていた。無論、見つけたのは異様な嗅覚の鋭さを持つミユキである。
トウカは、背嚢の中央に割れぬよう保管していた蒸留酒の酒瓶を抜き取る。匂いを嗅ぐ限り、穀物を幾度も蒸留させたであろうそれは、消毒に十分な酒精度数を有している。台所の戸棚の奥に転がっていた。料理の為のものかも知れない。
トウカはミユキの横へと並び立つ。
ミユキは、その愛くるしい顔立ちに厳粛な気配を湛えて祝詞を上奏している。目を瞑った姿に狐耳という点は、酷く正視し難いものがある。あの愛くるしくも純真無垢に見える少女が、清冽な佇まいを魅せるのだ。女とは斯くも多面的な生物であるのかと、トウカは頭を振る。
「だが……稲荷大神秘文とは、な」
聞き覚えのある祝詞に、トウカは眉を跳ね上げた。稲荷の八霊五狐を讃え、安寧を願う為の祝詞。トウカが末席に名を連ねる桜城一族の主家たる伏見宮家と伏 見に存在する稲荷神社の総本山には第二次世界大戦を経て深い繋がりがある。よって、トウカも宗教的行事で上奏される祝詞を幾つも知っていた。
トウカは、祖国の神々が異世界でも神威を轟かせている事に妙な諧謔を感じつつ、蒸留酒を無造作に雪原へと撒く。陽光を受けた透明な雫が、雪原へ殺到する様を見届けると、酒瓶を足元へと捨てる。
「選別だ。来世があるかは知らないが、次は我が祖国に招待されることを祈ろう」
平和呆けした国が、世の中には一つくらいあっても良いかも知れないりと、トウカは苦笑を零す。無論、祖国以外であれば尚、好ましいと後に続けねばならないが。
祈りを終えたミユキが、トウカへと尋ねる。
「主様の国は平和なんですか?」
「……戦時か平時であるかという点だけを見れば、間違いなく平和でした」
そうとしか言えなかった。自殺者が毎年、三個師団の兵数程も出ている国家が平和なのか。自国の利益を最大限に拡大する事を怠り、外交的不手際で要らぬ統治費用を生じさせ、富の再分配能力を著しく低下させた祖国が平和だというのか。
自国が戦争状態でないから平和だというのか?
そんな消極的な平和こそ唾棄すべきものであるはず。平和は勝ち取るものに他ならない。勝ち取り続ける為、常に戦い続けるものだ。無作為に享受し、溺れる ものではない。血を流し、護る事が平和へと繋がる。地球の歴史はそれを証明している。幾度も、愚かしい程の回数を重ねて。座視し、傍観する事は平和に繋が らない。維持の為にあらゆる分野で積極的に他国と干戈を交えてこその平和だ。
トウカは総ての義憤と悲観を心の奥底に押し込んで、ミユキの頭に手を伸ばす。狐耳の間に手を置いて撫でる。金糸の如き艶やかな髪に驚きつつも、トウカは尋ねる。
「ところで、先程の祝詞は?」
「私達、狐種をお守りになられている宇迦之御魂神様への御祈りです。ちゃんと皆さんが天霊の神々の御許に召される様にお願いしました」
そうか、とだけ答えてトウカは背を向けた。ミユキの目尻の涙が見えたからである。
しかし、胸中では宇迦之御魂神という稲荷大神の存在まで同一となると、この世界と祖国には何かしらの関連性があるのかも知れないと、トウカは思案した。
背に縋り付いて噎び泣くミユキを其の儘に、トウカは途方に暮れるしかなかった。
「しかし、だ。最近の狐さんは随分と健脚だな」
おじさんは付いていけないとも、トウカは付け加える。ミユキの運動能力には目を瞠るものがある。匪賊の中にも人間離れした跳躍を見せた者がいたが、種族的差異は外観的、魔術的特徴だけでなく、身体能力の面でも生じるのだろう。
実はトウカも気付いていたのだ。寒村で背嚢に 必要品を詰める際、ミユキは自身の背嚢により多くの物を当然の様に詰めようとしていた。男の後ろを三歩下がって続く大和撫子の様にトウカを支えてくれるな
どという健気でないことは分かる。トウカが「それでは男の立つ瀬がない」と嘯いた際の、心底と微笑ましい視線のミユキを見て察してはいたのだ。
ミユキはトウカよりも遥かに優れた身体能力を持っている。あの太くふさふさとした黄金色の尻尾が絶妙な姿勢維持を実現しているのではないかという疑念は、先を往く後姿を見て抱いたものの、それだけでは納得できないものがある。
余りにも尻尾を見つめ過ぎていた所為か、ミユキが己の尻尾を両手で抱き寄せて振り向く。
「女の狐をそんなに見つめちゃダメですよ、主様ッ!」
「いえ、決して邪な感情がある訳ではありません。ただ、尻尾を見ていただけです」
女性の臀部を眺め回している訳ではない。己の持たない相手の要素に興味を抱くのは止むを得ないものである。
「やっぱり、尻尾を見てるんですねッ! そういうのは段階を踏んでからです! もぅ!」
尻尾は凝視する事も失礼に当たるらしい。
異世界の常識を知らぬトウカとしては、そんなことを言うのであれば陣羽織の内側に仕舞えばいいものをと考えてしまう。わざわざ、切れ目を誂えて露出させているのだから、寧ろ積極的に強調しようという意図があるのではないのかとすら、トウカは考えていた。
「蒸れるんです! 犬とか猫とかの種族と一緒にしないでくださいッ!」
トウカの心情を察したミユキ。
女心。否、狐心は難しい。
しかし、今の言動を鑑みるに犬猫の種族もあるのだろう。ダーウィンも泡を吹いて倒れるであろう多様性と言える。トウカの知る現代生物学は根本的な見直しを迫られるかも知れない。彼らであれば、生物学賞の機会が増えると歓喜するに違いないが。
「しかし、狐の姿の際は尻尾を梳かされて喜んでいた気がするのですがね」
「わぁ~わぁ~わぁ~、あれは別です! 特殊な例ですぅ!」
ぶんぶんと両手と尻尾を振って、例外を強調するミユキ。
一応、合成弓や短刀によ る背後からの一突きを警戒し、ミユキがさり気無く先頭を歩く様に仕向けていたが、この様子であれば杞憂であったかも知れないと、トウカは考え始めていた。
どの道、膂力と魔術という分野でミユキが遙かに優越している以上、距離を取られれば、トウカは一方的な攻撃に晒される。男女の身体能力という物差しは、少 なくとも《ヴァリスヘイム皇国》では通用しないのだ。
ぷりぷりと怒って再び歩き始めたミユキ。次は二人並んで、である。トウカの体力を気遣っての事であろう。女に気遣われると言うのは神州男児として想うところがない訳でもないが、トウカとしてはこれ程までの差があるならば止むを得ないと納得してもいた。
「もぅ! 乙女への配慮がないですよ、配慮!」
「しかしですね、男の小便を覗くというのは、女性として如何なものかと……」
男の下半身に興味があるのかなどという下世話なことをトウカが考えるはずもない。寧ろ、食事や排泄、入浴、睡眠などはヒトが最も隙を見せる時期である。軍刀は手放さなかった。
「だって、主様。終わった後にそのままじゃないですか。自然に失礼ですよ」
「いや、まぁ……失礼を」
トウカは曖昧な表情で乾いた笑声を零す。魔術というトウカの及びもつかない技術大系が幅を利かす世界では、日常生活でも盛んに魔術が用いられている。寧 ろ、二人の徒歩による旅路が真冬でも可能なのは、魔術の恩恵に依る処が大きく。防寒術式などが編み込まれた外套は冷気を遮断し、仄かに熱を発している。保
温符という札が懐炉の様な働きをすると知り脱帽したものである。控えめにみても世界一薄い懐炉である。決して科学技術に劣るからと、全ての分野で後塵を拝している訳ではないのだ。
「まぁ、環境保全の意識が高い様で何より」
《ヴァリスヘイム皇国》の種族には、環境や自然に対する配慮が根付いているらしく、環境汚染に対しては別段に気を払っている。動物の因子がそうさせるの か、優れた統治機構の指導の賜物かまでは不明であるが、驚くべきことであった。無論、だからと言って魔術で大地と攪拌して土に還る補助までするとは思って もみなかった。
ちなみに女性の場合は、魔術で土壁を形成して囲むことで遮蔽。そこで用を足すらしく、異世界に於ける野外行動の便利な一幕にトウカは感心すること頻りである。
所詮は排便と言うなかれ。第一次世界大戦では、不潔な塹壕陣地で多数の将兵が戦病死した。降雨などの増水時、当然ながら塹壕という溝は河川の如き有様と なった。将兵は汚物の混じる汚泥に身を委ねたままに、敵軍の攻勢に備えねばならなかった。耐えきれずに飛び出しては狙撃の的である。伝染病を始めとした 様々な病は時として多くの生命を奪った。
――大便をする際は、魔術で温水を放水して洗浄するのか?
気にはなるが、訊ねる事は勿論、見せてみろと言う程に、トウカは常識がない訳ではない。
介護を受けている訳でもない中、下の世話を女性に任せると言うのは酷く情けないものがある。ミユキへの負債ばかりが増える状況に、トウカは溜息を一つ。 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている以上、そこには善意があるはずである。思惑は在れども、トウカを殺める事など容易く、拘束する事も同様である。明確な 善意をこれでもかと示す必要性は薄い。
取り敢えずは信頼するしかない。それがトウカの出した結論である。無論、信頼できないとしで、以降はどうするのかという問題がある以上、選択肢はなかっ た。何より、トウカという異邦人は、どうしてもミユキという少女を邪険に扱う事が出来なかった。警戒心は人並み以上にある心算であった。少なくとも奇異な 容姿と無邪気な言動に引き摺られる程度ではない。
トウカの胸中で相反する感情が鬩ぎ合う。まるで催眠暗示でも掛けられたかの様に、本能が囁くのだ。今は従え、それはオマエの敵ではない、と。
それが正しい。
そう在るべき。
それしかない。
理屈ではないナニカが、トウカの心を酷く圧迫する。
――まぁ、いいだろう。
或いは、心を惑わす魔術があるのかも知れない。若しくは、何処とも知れぬ雪林に全てを絶たれて投げ出された故の人恋しさかも知れない。それとも、この感 情こそが情念とでも言うのか。トウカは思考の全てを打ち捨てた。言語が通じる事も文字が読める事も不可思議であるが、今となっては詮無いこと。
「主様は、どんな女性が好きなんですかっ?」
隣から大きく寄り掛かってきたミユキ。右腕に当たる柔らかな感触……は残念ながら外套によって遮られているが、トウカはそれよりも抜刀が遮られる事を避ける為に、さり気無く距離を維持する。
ミユキは問答無用で距離を詰めてくる。大きな背嚢を背負っているとは思えない程に機敏な動き。寧ろ、トウカの袖を掴んで離さない。伸びると一大事である。衣服はこの一着しかない。軍用規格の防刃繊維の強度に期待するしかなかった。
いきなりな質問にもトウカは動揺しない。
「大和撫子……と言って分か――」
「――奥床しくてか弱い。でも、凛々しくて清楚可憐な女性ですよねっ!」
私みたいな、と後に続けそうな程に目を輝かせたミユキ。トウカは曖昧な笑みで流す。
大和撫子。皇国史観的な例で挙げるならば、日本書紀で言うところの奇稲田姫の 様な女性。ミユキとは縁遠い。無論、祖国で見えた多くの女性よりも可憐で屈託のない笑顔は、トウカとしても酷く惹かれるものがある。感情をあるがままに表
現できるという点には憧れるものがあった。トウカは余りにもヒトの業を背負い過ぎた。若くして国家の謀略に関わり、純粋な国体護持への熱意など今は昔。
ただ、義務感が突き動かすのだ。自らの指示で葬列に追い遣られた者達の死を意味のあるものとせねばならない、と。
「貴女は眩しい。どちらかと言えば、太陽の様な女性だ」
日本神話や北欧神話では、神格化された太陽の化身は女性であった。その性格が詳しく記されている訳ではないが、弟神の乱暴狼藉に激怒して岩戸に神隠れした女神もいれば、狼に追い掛け回された挙句に神々の黄昏で食い殺された女神もいる。感情的で何処か抜けている女性こそを、男達は古来より真に慈しむのかも知れない。
大和撫子という有り様は、一種の妖精なのだ。男の理想を女に押し付ける為の方便に過ぎない。存在するか否かも不明確な存在を、女性に追いかけ続けさせる為の魔法の言葉なのだ。努力を求め続ける事の成否を、トウカが判断するのは難しい。
ただ、隣のミユキが大和撫子という言葉で御淑やかになるとは思えない。妖精ではなく狐なのだ。
「……大和撫子という言葉もあるのか」
その音程は祖国で聞き馴れたものである。
《ヴァリスヘイム皇国》。独逸語に近い言語を扱いながらも、その多くの部分に日本語や風習などを息衝かせた魔法の国。想像の埒外であった。ミユキやその家族の名前からして祖国のものなのだ。まさか何時の間にか祖国の政治的影響力が異世界にまで及んでいたとは考え難い。不明確な現実が、眼前に横たわる不快感は言い知れぬ圧迫感を持つ。トウカは肩を落とした。
「私、主様のお嫁さんになります!」
そんなことを口にする狐娘も隣にはいるのだ。もしや、中央亜細亜付近の国家にある、年頃の娘を誘拐して結婚を迫るという風習染みたナニカがあるのかも知れない。
「困るな。激しく求められると言うのは」
これは若しかすると誘拐されている最中ではないのかという懸念すら出てくる。
ミユキは、トウカの言葉など聞いてはいない。びしっ、とトウカを指差すミユキ。
「その口調、変です! もっと砕けた感じで、本音がいいです。女の子は建前なんて聞きたくないんですよ」
出逢って間もない相手に対する過度な要求に、トウカは曖昧な笑みを引き攣らせる。大和撫子云々などという先程の言葉を聞き入れる心算がないことは明白であった。だが、厚かましいや失礼という感情は抱かない。その表裏を窺わせない天真爛漫な笑み故である。
「我が祖国には、親しき仲にも礼儀ありという言葉がありましてね」
「ありのままがいいです!」
「出会って間もない女性に馴れ馴れしく話しかけるというのは……」
「本音が良いです!」
「そもそも恩人の女性を相手にぞんざいな口調というのは……」
「女の子のお願いなんですよ!?」
両者一歩も引かず。ミユキを相手に幼馴染の如く語り掛けるというのは、どこに不興を買う要素があるかわからぬ状況では避けたいと考えるトウカだが、これ以の抵抗こそが不興を買うと判断して溜息を一つ。
「……これでいいか? ミユキ」
気安い口調を続ければ、気が抜けてどこかで失言が零れるかも知れないと、戦々恐々のトウカ。何処とも知れぬ雪の大地でミユキが生命線であることを、トウカはよく理解していた。
ミユキは満面の笑みで頷く。そして、トウカに飛び付いた。抱き着かれて姿勢を崩したトウカ。容赦なく雪の大地へと投げ出される。ミユキの背負う背嚢の重量までもが加算された圧迫に、肺から空気が押し出された。
「主様っ主様っ主様っ!」
倒れたトウカの胸板に、ミユキの大きな胸の感触が強く押し付けられる。トウカはミユキの頬擦りに晒されて、それに気付いてはいないが。幸いな事にミユキ の激しい動きに、二人の背嚢は投げ出されている。背嚢を背にして倒れる痛みも、背嚢の重量に晒され続ける悲劇もなかった。
ミユキの過激な愛情表現。激しく揺れる狐耳と尻尾。本来、狐の尻尾という部位は、自らの意思で精密に動かすことができないのだが、ミユキの大きくも艶の ある尻尾はこれ以上ない程に感情表現を敢行していた。純粋に狐が進化の果てにヒトの形状を得た訳ではないのかも知れない。
現実逃避気味に思考を紡ぐトウカだが、ミユキが唇を寄せてきたので、慌てて頭を押さえる。
「やめろ。女の武器は安売りするものじゃない」
「……じゃあ、主様が高価買取してください!」
尚も食い下がるミユキを押し退けてトウカは立ち上がる。対する雪原上で座るミユキは膨れっ面。自身の背嚢を背負い直し、ミユキの重い背嚢を手に取る。
「悪いな。生憎持ち合わせがない。次の機会で頼む」
「……じゃぁ、いつか買ってくださいね?」
自身の背嚢を受け取ったミユキは、引き際だと感じたのか、立ち上がって乱れた外套を直す。尻尾を一振りして雪の欠片を取り払う。
二人は再び歩き始める。
今度は、共に並んでであった。
ミユキは歩きながらも、トウカの横顔から視線を逸らさない。
変わった少年。そう言うには大きな宿命を背負っているが、当人はその意味を知らない。本来であれば、ミユキには皇国臣民としてトウカを然るべき場所へと連れていく道義的義務がある。
だが、それをしてしまえば、二人の縁は途切れてしまうかも知れない。それを、ミユキは恐れていた。
だから自身がトウカにとっての特別であればいい。
そう、ありたかった。
そう、あって欲しい。
そう、あるべきだ。
強く強く、怖いくらいに自身の心が彼を欲している。最初は良く分からなかった。だが、早鐘を打つ自身の心臓が彼への熱意を肯定する。理由などそれだけで十分である。少なくとも、恋心に然したる理由が必要でないことは、ミユキも理解していた。
「主様。その瞳の色、私なら隠せますよ?」
「……やはり目立つか? あまり一般的とは思えないからな」
彼は何も知らない。真っ新で真っ白な存在であった。だからこそ、ミユキに警戒と信頼を示している。敬語であることに拘りを見せたのは、適正な距離を探り、無難な協力を求めようとしていたのだ。
今、彼は多くを疑っている。ミユキだけではない。国家や世界という大きな枠組みにすら猜疑の視線を向けている気がした。何一つ信じてはいないのだ。
しかし、だからこそ分かることがある。彼は、トウカはつい先日、この世界へと降り立ったのだ。基本的な知識すらも危うい姿を見れば容易に想像できる。魔術への異様な興味と警戒心は、彼の故郷が魔導技術との関係性に薄いからかも知れないとミユキは考えていた。
それ以上の事は分からない。ミユキは自身の性格が子供っぽい事を自覚している。高位種の多くが、酷く成熟した思考を以て世の中で成すべき事を成していた。ミユキにそんなことはできない。当人が最も理解していた。
ミユキの視線に気付いたトウカが首を傾げる。その姿は年相応のものである。寒村で垣間見た憎悪と猜疑に満ちた凶相の影は窺えない。
「どうした? 昼食の洋餅屑でも付いているか?」
頬に手をやったトウカに、ミユキは首を横に振る。一瞬後に、取ってあげますと顔を近づけて口付けをするという方法に思い至って後悔した。
男性の心を射止める方法など分からない。だから己の意思を、言葉と行動で明確に示すのだ。
「私、主様の事、大好きです。理由は分からないけど、主様と居ると胸が切なくなるんです。もっと話したくて触れたくて知りたくて……うんと、良く言葉にできないです」
自身の語彙の貧困な様に悲しくなる。そんな容易い言葉ではないはずなのは、ミユキにも分かるが、一体どの言葉は正しいのかまでは分からない。幾つもの言葉が脳裏を過っては霧散する。誰かに恋い焦がれるとは、斯くも難しく、もどかしさを掻き立てるとミユキは初めて知った。
だが、一つだけ確実な言葉がある。
「私は貴方に恋しています」
その言葉だけは、紛れもない真実である。
「哀れな……恋すらも操られる、か」
壮年に差し掛かろうかという容姿の男神は、痛ましいもの見たと視線を逸らす。女の初恋を神聖視する訳ではないが、少なくとも当人にとっての掛け替えのない思い出とする者は少なくないだろう。そして、大地で一人の少年に恋をする狐娘は、間違いなくそうした女性であろう。
「恋に総てを投じる事のなんと甘美なることか! 男たる汝には分かるまいな」
巫女服を着崩した退廃的な有様の狐神は嗤う。両の肩が大きく見える程に着崩された姿からは、その主張が実体験に基づくものであるとは思えないが、男神は狐神の初恋によって《アイヌ王国》建国が生じた事を識っている。《大日連》最古の同盟国たる《アイヌ王国》の神話の一部は狐神の恋愛譚なのだ。
狐娘はヒトであれ神であれ、厳しい恋をしている。宿命か宿業か。無論、男神に神造りの悲劇を非難することなどできない。この一件に在っては、男神と狐神の立場に然したる違いはない。
「……そう言えば、些か天使共の動きが気に入らぬの」
狐神が扇子で口元を隠して、ふと口にする一言。男神は眉を顰めた。天使という種族は、特定の神々の使役種族である。
男神や狐神が分類される東神は、神獣や精霊などを使役する多神教を主体とした神々である。対する天使に連なる種族を使役する神々は西神と呼ばれる一神教の神々である。
一つの神話に、一柱の神。彼らは果断で苛烈。男神もまたヒトであった頃は軍人であった為、武断的である。しかし、そうした意味ではない。
純粋に残酷なのだ。ただ、恐怖と権威を体現するだけの一方的な神々。
神々の成立を考慮すれば、いかなる神話の創生自体が虚言であることは疑いない。とするならば、何一つ人類に齎さなかった神すら存在する。ただ生命と信仰を収奪するだけの神。時間と歴史、技術と発展を奪う神々に対し、人類もまた無知蒙昧であり続けるはずがない。
「西神も割れておる。強権的に振る舞い続けた挙句に、信仰を欠き、統制すら及ばぬ有り様ぞ」
狐神は鼻で笑う。笑い事ではない。神々の統制が及ばなくなるという事は、宗教は政治的手段の一つとなり下がる事を意味する。
解釈を変え、権益を拡大する為、無垢なる者達を異教徒と戦わせるべく戦野に駆り立てるのだ。男神は知っている。あの荒れ果てた砂漠の大地での悲劇を。 神々が不在となった信仰など取るに足らない妄想になり果てると。ヒトであれ神であれ、他者の妄想に付き合わされた者の末路に然したる違いはない。
許容性なき一神教。
「そんな様だから科学技術の発展如きで蔑ろにされるのだ」
信仰なき神など無と変わらない。信仰とはヒトの祈りと願いからなる混合物。確かに悲劇があれば、ヒトは神々に縋るだろう。
だが、悲劇の連続ではヒトは神々への畏敬を失ってしまう。神々が悲劇を抑止し得ないのであれば、自らの決意と技術によって成すしかない。例え、幾星霜の時を経ても。
「ヒトが神々に絶望してみろ。もう一度、人造の女神を造りかねん」
嘗て、絶望した幾多の世界のヒト達は、人造の女神を作り出した。それは、幾多の世界を砕き、神を殺し、次元に大きな爪痕を残した。
人為的に他の生物と遺伝子を掛け合わせて幾多の種族を造り、神々との戦列に加えた悲劇。
「天使共が妨害するのであれば致し方あるまい」
「神魔大戦、再び、かのぅ」
神々ですら争う事を止めない。ヒトが争う事を止めないからか、或いは神々が争うからヒトも争うのか。どちらにせよ愚かしい事には変わりない。
神々が思う程にヒトは美しいだけの生物ではない。ヒトが想う程に神々は全知全能な存在ではない。共に根拠なき信頼と可能性を相手に抱いている。
つまるところ、誰も彼もが動乱を望んでいた。