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第四話     不器用な者達

   

 



「困った……」

 それがトウカの本音だった。本来なら女性に対する返答としては下の下であろう一言。トウカは、今までの人生で幼馴染以外の女性と深く関わった事などない。実の母親ですら幼い頃に他界しているので、その女性観は極めて偏っていると言わざるを得ない。

 社交的であり、内向的な性格。時には前者であり、時は後者でもある。猜疑心が強い故に本当の意味では他者を信頼しないものの、それを気付かせずに心地よ い距離を取ることで孤立する事のない人生を送ってきた。優しげな笑みの下では、常に冷徹な計算を働かせ、その身を防護していた。

 祖父がトウカに強くあれ、と与えた武術と史学はトウカに不可侵の防御力と、絶対的な攻撃力を与えた。

 だが、幸か不幸か、トウカは完全にその身を護れるが故に脆かった。

 心が、である。

 他人を慮る事ができない。難攻不落故にその存在は長く健在であり続けた。だが、それは自身すら知らない弱点を永きに渡り、発見できないという事と同義。いつの間にか己を防護する術は陳腐化し、航空機の前に無力となった要塞の如く崩れ去る事になるかも知れない。

 後にエルライン要塞を見たトウカが、俺と同じだ、という感想を抱いたのは後の話。

「何故、俺なんかに付いて行きたいのですか?」

 トウカは問う。

 正直に言えば、自分一人で精一杯なのだ。

 同時にミユキの申し出が有り難い事だとも理解していた。言葉と文字は何故か分かるとはいえ、この世界の事は右も左も分からない。できれば直ぐにこの場か ら発ちたいが、地図はあまりにも不鮮明で、大規模な都市のみしか記入されていない。頼りにするには余りにも雑と言えた。そもそも方位も怪しいのだ。時間や 日照も同様であるとは限らない。

主様(ぬしさま)は契約するに値するお方だと思ったんです! ……直感で」

 ミユキが深く頷いて自身の言葉に納得する。まるで、自身も今、気付いたかのような様子だ。

「契約? それは一体……そもそも、その主様(ぬしさま)というのは……」

 前者は始めて聞く言葉であるし、後者は先程から幾度か耳にしたが、面倒に巻き込まれそうなのでトウカが敢えて聞かなかった事柄である。

 異世界で契約と言えば姫様に忠誠を誓う勇者を思い浮かべるが、この世界の現実的な在り様を見る限り、その可能性は極めて低い。そもそも物語なら許容できるが、現実としては断じて受け入れられない。ただの汚らわしい拉致監禁と奴隷化に過ぎない。

「契約は、男女が結ぶことのできる魔術ですよ?」

 ミユキが可笑しそうに笑う。そんなことすら知らないトウカにとっては、曖昧な笑みを浮かべるしかない。

 ――魔術……か。杖を振ったり空を飛んだりするということか?

 トウカの脳裏には額に傷のある魔法使いと、白衣の魔法少女が思い浮かぶが、慌てて打ち消す。

「契約するに値する人間だから主様、と」

 敬われるのも敬うのも好きではないトウカは顔を顰める。

 ――一体、どんな判断基準なのか……。いや、直感って言ってたな……

 意外と考え方は大雑把なのかもしれない。

「その契約のデメリットは?」

「でめりっと?」

 悪い点だ、とトウカは補足してやる。英語は通じない。

「悪い点……刃傷沙汰とかですか?」

 是非、聞かなかった事にしたい。

 恋愛でもあるまいし……とトウカは思ったが、ミユキの話を聞く限り、その感想も間違いではないらしい。

 亜人種などの人以外の種族が指す“契約”とは大抵、人間との間の魔術的な契約を指す様であった。契約は基本的に互いを認識する際に最も効力を発揮するらしく、人間種に多くの力を与えてくれる。だが、人に対して、もう一方の種族側に利益(メリット)が少ない為、後者の側から結ぼうとする者は少ない。故に他種族側から人に契約を求める事は滅多となく、特に雌となるとさらに数は少なくなる。それはあらゆる種族にとって契約とは神聖にして不可侵、一生を左右するものに他ならないからだ。

 要は人間の婚儀と同等のものらしい。

「そんな一生ものの契約を俺としてしまっていいのか?」

 曰く、雌の種族から申し出るという事は、それほどに重大なこと、だそうである。実は雌から契約を申し出る事と、愛の告白は限り無く同義に近いのだが、トウカは利益(メリット)がどのようなものか考え続けていた為に最後まで行き当たる事はなかった。

「も、もちろん、悪い事だけじゃないですよ! 相手の大まかな位置と感情が分かるんです」

 直感程度のものですけど、と付け加えるミユキ。正直なところ、トウカは然して魅力を感じなかった。

 寧ろ、このあたりの地理をミユキが知っているかという事がより重要だった。ミユキが嘘を付いている可能性も捨てきれない。下手に受け入れて魔術的に拘束 される可能性とて有り得る。トウカとしてはミユキの人となりを信用したい。だが、話していると忘れそうになるが、今、トウカは極限状況に置かれているの だ。

「君は俺を信頼すべきじゃないと思うが……」

「何故ですか?」

 ミユキは問う。

 これを言ってしまえば全てが終わるかもしれない。トウカを憎むようになるかもしれない。

 ――そんな疑いのない目を向けないでくれ。自分が汚れているように思える。いや、実際、汚れているんだろうが。ええい、教育してやる。世間の厳しさを教えてやる。

 人様の汚い部分を見せてやろう。他の種族は動物に近い故に理解できないかもしれないが、人とは基本的に自分勝手な生物なのだ。

「俺が、村人が襲われるのを見過ごしたとしても?」

 トウカは嗤う。

 自身が交戦したところで集結を始めていた五〇人近い傭兵たちを撃破できるとは思っていなかったが、見捨てた事に変わりはない。後で散策した際も生存者はいなかった。何か手があったかもしれない。

 だが、トウカはその可能性を考えなかった。

 自身の保身と、無人の寒村を誰にも見られず散策し、情報を得られる可能性に行き着いてしまった故に……見捨てる途を選んでしまった。

「赦しは乞わない……弔いを自己満足の理由にはしたくはない」

 ミユキは答えに窮したのか、黙って俯く。

 当然だろう。自身がより良い未来を手に入れる為に、他者の死を黙認したのだ。勝てる数ではなかったという免罪符があったとしても、その事実は消えない。トウカは、自らの為に村人の死を許容したのだ。

 その上、弔うことすらしない。全ての人間を弔おうとすれば何日かかるか分らない。それでは治安維持の戦力や匪賊の襲来に遭遇する事になるかも知れない。

「全ての者を弔えるわけじゃない。そうでないなら弔わないべきだ」

 全てを弔う労力と覚悟、時間がないなら弔うべきではない。死者の亡骸を埋める事で、自己満足するのは武士たれとする家訓に背くことだ。一度、その死を許容した人間に埋葬される事を、死者の魂達が良しとするとも思えない。

 狐耳を垂らしミユキは顔を伏せる。

「君が付いて行こうとする男はそんな男だ。お勧めしかねるな」

 トウカは改めて嗤う。深く。

 今、破綻する関係で終わるのならどうせ長くは持たないだろうし、こんな人を疑う事を知らない少女を巻き込みたくはない。情報をできるだけ教えて貰えば、 トウカは黙ってこの場を去るつもりだった。少女は失望するだろうとトウカは思った。人間不信に陥るかも知れないが、トウカが足を引っ張って死ぬよりかは幾 らかマシだろう。

 だが、ミユキは引き下がらない。

 仔狐は涙を流す。

「……なら、私も同じだよ……だって、だって私だって何もできなかったもん……」

 ミユキは悲哀に歪んだ顔を隠す事もなく、膝の上で両の拳を握り締める。耳と尻尾は力なく垂れ下がり、この純真無垢な狐の少女を酷く傷つけてしまったことをトウカに思い知らせた。

 ――ミユキも同じか……

 注意深く考えれば分かる事である。二人が出会った時、ミユキはどのような姿であったか?仔狐の姿。そして震えていた。それは、ミユキも傭兵の襲撃時に現場に居ながら何もできなかったということではないか?

 ――こんな時、何といえばいい? 俺は女の子を慰める言葉なんて知らないぞ……

 君は悪くない。

 人同士の自己意識(エゴ)の応酬に君は巻き込まれるべきではない。

 恐怖で動けなかった。

 故意に見逃した俺とは違う。抗おうとした。

 そんな言葉が浮かんでは消える。トウカはその様なことを言われれば余計に傷付く。言い訳を他者に与えられるなどトウカは耐えられない。それは赦しの言葉 ではなく、全て免罪符としての言葉だ。そして、二人に赦しを与えられるのは死者だけ。故にトウカの言葉はミユキに届かない。

 トウカは良い。この世界に愛着などないし、他者の死と折り合いを付けようとしている。だが、ミユキはもしかするとこの寒村に愛着があったかもしれないし、村人と会話した事があったかもしれない。

 曖昧な慰めは余計にミユキを悲しませてしまうだろう。何が悪いかと言えば傭兵に他ならない。だが、目の前の女性の涙を止める事の出来ない自身も十分に悪人だろう。そう、トウカには思えた。

「済まないが……俺は君に掛ける言葉を持ってはない」

 トウカは目を瞑る。女の子一人救えない。

 そう言えば自分が力を振るう時は、いつも自分の為だった。他者を護るために力をと言葉を振るった事など一度としてなかったのではないか。

 自分以外を救えない強さに意味があるのか?目の前で泣く愛くるしい少女は、トウカにそんな思いを抱かせるには十分だった。

「済まない」

 そして、初めて他者を護る戦いは刃を振るう事もなく、言葉で行われ……そして負けた。村人を救えず、一人の少女を慰める事すらできなかった。その事実は、この世界に来て抑え込んでいた感情の全てを霧散させるには十分だった。

 異邦人は涙を流す仔狐をただ黙って力強く抱き締めた。

 仔狐が落ち着いたのは太陽が天頂へと昇った頃だった。










「ああっ、鬱陶しい奴らだ!」

 そう言って少女は右手の大剣を振り払う。

 振り払われた大剣の緑色に輝く斬光の軌跡が、延長線上に存在した何本もの大樹を綺麗に切断する。

 少女は、祖国とはまた違った植生の密林を疾駆していた。

 戦塵に塗れ枯れ草色となった金糸の長髪が宙を舞い、色褪せた外套(マント)が翻る。

 未だ北方は遠い。深雪(しんせつ)が大軍の動きを阻害する北部まで逃げ切ってしまえば追っ手は全て撒けるだろうという打算と、その先にある祖国《スヴァルーシ統一帝国》へと帰還するという意志が少女を突き動かす。

 切り落とされた大樹を飛び越えた追っ手に、少女は走りながら舌打ちを一つ。

 追っ手の服装は茶褐色――《ヴァリスヘイム皇国》では旧国防色と呼ばれる色を基調とした軍服の追っ手に追いかけられていた。その数、二個小隊八〇名。軍 服は《ヴァリスヘイム皇国》陸軍正式採用のものだが、その上から短寸の外套を身に着けている。《ヴァリスヘイム皇国》陸軍正式採用の長外套と酷似したもの だが、背後の敵はそれとは異なり短寸で袖無外套(ケープ)に近いものだった。そして、白地に赤色で『憲兵』と書かれた憲兵腕章を左腕に着用している。その出で立ちを見れば正体は嫌でも分かる。


 《ヴァリスヘイム皇国》陸軍野戦憲兵隊。


 多くの戦場で《スヴァルーシ統一帝国》軍のみならず《ヴァリスヘイム皇国》軍の将兵からも恐れられた苛烈無比の憲兵集団。《ヴァリスヘイム皇国》は陸海空近衛問わず極めて指揮統制が高く、その道徳的規範はこの大陸でも極めて高い水準にあると言えた。

《ヴァリスヘイム皇国》軍は占領地や現地徴発などを行わない伝統と仕来りがあったが、《スヴァルーシ統一帝国》軍にはそれらは適用されない。寧ろ、元々が 劣悪な糧秣や弾火薬の事情を考えると現地徴発は必須であり、広大な領土を維持し、国是を肯定し続ける為には兵数を揃えなければならないのだ。

 《スヴァルーシ統一帝国》の国是とは、嘗てこの大陸を統一した《大アトラス帝国》の復古。そして、それは大陸統一を実現するという事に他ならない。故に 《スヴァルーシ統一帝国》が周辺諸国と激しい闘争を繰り広げている事は納得ができるだろう。特に《ヴァリスヘイム皇国》は最大の脅威であり、その肥沃な大 地は領土の過半を氷雪に閉ざされた《スヴァルーシ統一帝国》にとって渇望して止まないものだった。

 故に少女は《ヴァリスヘイム皇国》の新たな主君の到来を阻止する任を負った。結果、少女は皇都で行われた天帝招聘の儀を妨害することには成功したが、現在は熾烈な追撃を受けていた。少数に分かれて皇都に侵入した部下たちも全てが斬殺、或いは拘束されただろう。

「くッ! 来たか……遅い!」

 少女は、木々の隙間から現れて並走する男へ怒鳴る。男は「遅参の段、平に御容赦を」と呟き少女に追従する。

「ベルゲン近郊に纏まった兵力を伏せてございます」

「……そうか……大義であった」

 少女は、短く答える。そうとしか答えられなかった。

 纏まった兵力……即ち、少女が北部から脱するための足止めという事に他ならない。地形を利用して追撃戦力に伏撃を実行して混乱させた後は、その場に留ま り最後の一兵まで戦って敵戦力を足止めする気だろう。多方向への偽装退却 で敵の追撃戦力を分散させもするだろうが、ここは敵国の只中。全方位から出現する敵戦力に包囲殲滅されるのは目に見えている。

 皆、少女を逃がす為に死兵となろうとしているのだ……そして、この場でも。

 黒衣の男たちが正面から現れる。黒衣の上から軽鎧を着込んだ騎士達は、不正規戦闘を行うための名も無き騎士達。


「御元気で、姫様」
「武運長久を祈念致します」
「お()らばです、閣下」


 すれ違いざまに放たれる言葉に少女は敬礼を以て答える。

 十名足らずの黒衣の騎士達の目的は追撃を続ける野戦憲兵隊の足止め。そこに作戦はない。少女を囮とする形にして左右から挟撃するのが理想だろうが、それを実現するには数が圧倒的に足りない。そして双方共に精鋭となれば、相対的に敵側に付け入る隙はないということになる。

 精鋭同士の衝突。なれば《スヴァルーシ統一帝国》は《ヴァリスヘイム皇国》に勝利できない。

 基本的に人間種のみの世界を目指す《スヴァルーシ統一帝国》には例外を除いて、一部の亜人のみしか存在しない。故に《スヴァルーシ統一帝国》の軍勢は人 間種のみを主戦力とした編制をしている。だが、対する《ヴァリスヘイム皇国》軍は他種族をその長所に応じて各部隊に配置し、その能力を十全に生かせるよう にしていた。そして野戦憲兵隊は、俊足を誇る銀狼族や、嗅覚に優れた剣虎族の混成であり、追撃戦や残敵掃討でその真価を発揮する。

 《ヴァリスヘイム皇国》軍は積極的に他種族を軍事序列に組み込み、戦力としている。武装が同じであれば、人間種より遙かに潜在能力が高い種族を多数有す る《ヴァリスヘイム皇国》軍に《スヴァルーシ統一帝国》が勝利を得るには、物量と大兵力を以て圧倒するしかない。実際、失敗したとは言え、リディアが生を 受ける前に行われた《ヴァリスヘイム皇国》に対する大侵攻では物量を前面に押し立てた人海戦術でこれに無視できない損害を与えた。

 《ヴァリスヘイム皇国》に対して一〇倍近い国力を有する《スヴァルーシ統一帝国》だからこそ可能な戦法。だが、《ヴァリスヘイム皇国》国内にあって非正 規戦闘中の騎士達にはどちらも望めない。しか も、少女たちは人目を避ける為に、二国の国境付近に横たわる極寒の高山、エルネシア連峰を越えてきた。戦車はおろか重火器すら持ち込めない上に、その時点 で半数近い脱落者という名の遭難者を出していた。

 第一に、敵と正面切って衝突する前提の戦力ではなかった。本当は少女一人で予定していた任務だった。

 だが、優しくも厚かましい馬鹿な部下たちは少女の身を案じて付いてくると言って聞かなかった。その熱意と強引さに押し切られる形で同行を許可したが、結果はこの有様だ。

 少女は後ろを振り向かない。

 剣戟と銃弾の風切り音、魔導の波動。火薬の爆ぜる音なき戦場は、正に戦場音楽の旋律だった。その結末を将として見届けたいが、ここで足を止めれば騎士たちの挺身を無駄にすることになる。

「何れ、煉獄で会おう……」

 少女は駆ける。


 泣きはしない。それはその身を以て自らを逃す為に死地へと赴いた騎士たちに対する侮辱。
 怒りはしない。敵国の主君の到来を防ぐ事は祖国の国是を叶え、民草を護る事に繋がる。
 嘆きはしない。少女も闘争を好んでいる上に、自らの意志を以ての挺身を好ましく思った。


 つまるところ、《スヴァルーシ統一帝国》、第一三帝姫、リディア・トラヴァルト・スヴァルーシとはそんな少女だった。









「主様、主様っ! 鹿を取ってきました!」

 ミユキが無邪気な笑顔で、小柄な鹿を引き摺ってくる。

 鹿の身体には三本の矢が刺さっており、ミユキの手には弓矢が握られている。弓矢はミユキの私物らしく、気が付けば既に背負っていた。

 短い総髪(ポニーテール)を揺らしながら、手を振ってくるミユキに引き攣った笑みを返す。

「獲ってきたのですか……食糧に余裕はありますよ?」

「念のためです。昔、遭難して食糧に困ったことがあるんで、これでいいんです」

 狐であっても大自然で遭難するらしい。ミユキの土地勘を頼りに大都市へと赴こうとしていたトウカにとっては不安でならない一言だ。

「よく、射れたものだ。ふむ……合成弓ですか」

「今は冬なので腐らないから安全です♪」

「え、生で食べるんですか?」

 狐ならば問題ないかもしれないが、人間でしかないトウカにはいろいろと問題がある。腹を下すかも知れないし、寄生虫に身体の中を動き回られるのも遠慮し たい。確かに生肉の美味なる事は大和民族のトウカもよく理解している。しかし、それらを口にする事は、確かな鮮度と殺菌が大前提となる。

 ――いや、そもそも狐にも寄生虫があったような……

 人間の臓器を長い歳月を掛けて食い荒らす類の。

一晩、泊まった民家の庭先で、鹿の解体作業を始めたミユキ。

 普通の者であれば正視に耐えない光景なのだが、この寒村は少し歩けば死体が散乱している状態であり、それと比較すればどうと言うことはない。

「ねぇ、ミユキ」

「はい、なんでしょう主様!」

「俺がします……ミユキのやり方は雑すぎます」

 ミユキの鹿の解体の仕方は刃物で無暗やたらに抉っている気がしてならない。そうでなければ顔に血など付かないだろう。狩った後は直ぐに血抜きなどの処理 をせねばならない。血を抜かなければ、かなり早い段階で腐敗が始まる。一番血液の腐敗が早く、それが身体中に巡っているので当然と言えた。

 トウカは鹿の傍らに膝を突き、受け取ったミユキの短刀で鹿の胸元に突き刺した。そして肺動脈や大動脈などの主要な動脈を自らに血が飛ばない様に切る。周 囲には血の臭いが立ち込め、手は血で真っ赤になるが、本来、肉はこのような過程を経て食卓に並んでいることも理解していた。

 トウカは大抵の動物ならば捌くことができた。祖父の偏った教育の賜物と言えばそれまでだが、陸軍の基本教練と同じ内容なので異質だとは思わない。腐って も軍人家系であるし、蛇も馬も解体しようと思えばできる。幸いな事に、トウカの知る鹿と体の構造に変化はなく、解体は容易だった。

「民家の窯を利用して燻製にします。ミユキは後で木材を集めてきてください」

 小さな鹿だったので食べられる部位は少ない。塩漬け肉にもしようと思ったのだが、口にするには時間が掛かり過ぎるので止めておく。肉を塩漬けにすることで熟成が起こり独特の旨みが出る。その結果として1ヵ月後には生で食べられるという。

 ちなみにこの世界における暦は、かなり変則的だった。一年が長いようで、トウカの人生に於ける正月と聖夜が減ってしまうことは疑いない。最も、この世界に正月や聖夜という概念があるとは思えない。無論、神道国家の国民であるトウカは、聖夜に関しては元より縁がないが。

「そう言えば、魔術はどの様な種類があるので?」

「えっ? そうですね……術式によります。生活に良く使う汎用術式とか、軍隊が使っている軍用術式とか……色々ありますよ。私は精霊術式が得意です!」

 ミユキの言葉を聞くところによると、トウカの思い描いていた魔法とは随分と様相が違っていた。呪文の詠唱は、術式の描かれた媒体や魔導陣を使用するた め、起動には発動条件として設定した短い言葉のみを必要としている。確かに現実として詠唱などが存在すれば時間が掛かり過ぎ、軍などでの使用は向かない。

「なら、火を起こせますか?」

「勿論です! 汎用式の着火から、軍用の炎弾まで、何でもできます」

「狐火は?」

「き、狐火は上位魔術ですし、若輩者の私じゃ使えません」

 狐火は使えならしい。そのことを少し気にしてもいるようだ。実際、狐火があるとは思っていなかったのだが、ミユキの反応を見るに存在するのだろう。

 この炎弾と言われる火炎魔術は、威力だけであればトウカの知る古式銃とそう変わらない。貫徹力では劣るが、魔力密度を高めれば躑弾(グレーネード)のように使用することも可能で、この場合は火炎破砕弾と名称が変わる。

 魔術というものは、魔力は勿論のこと、精神力によって運用する事象らしく、内包するそれら二つが完全に損耗するまで使用可能であった。

 躑弾(グレネード)

 簡単に言えば小型の榴弾を意味している。擲弾は元来、投擲して用いる爆弾であり、擲弾兵(グレナディーレ)が 投げたが、手で投擲するものは一般に手榴弾と呼ばれている。擲弾は投射器を使用して遠くへ飛ばすものと分類されるようになった。その威力は、爆風効果と破 片効果により容易く数人を死傷させることができるほどである。ミユキの火炎破砕弾の説明を聞く限り、軍用術式にはそんな危険極まりない代物まで存在する。

 しかも魔力は兎も角として、精神力となるとトウカも乾いた笑みを零すしかない。

 《大日本帝国》陸海軍の烈士の皆様方が手にしていたら間違いなく古今無双だっただろう。戦艦大和が気合い……精神力で空を飛ぶ事だって有り得る。歩兵の 銃剣突撃で戦車を木端微塵にする事とて不可能ではないかも知れない。文字通り、航空艦隊が本物の神風を吹かせられるならあの悲劇はなかっただろう。

「笑うしかないな」

「???」

 首を傾げるミユキを余所に、トウカは庭の池に張った氷を片足で踏み砕き、血塗れの手を洗う。尻尾を揺らしながら縁側で正座しているミユキの満面の笑みを横目で一瞥し、池の水面へと視線を落とす。

 そこには紫水晶(アメジスト)の瞳をした少年が映っていた。

 先の見えない不安がトウカを襲う。この紫水晶の瞳は途轍もない枷ではないかと思ってすらいた。枷の意味するところはトウカにも分からないが、少なくとも祝福ではなく、呪いの類に思える。トウカ一人で考え込んでいても埒が開かない。悪い方向へと考えが進んでしまう。

「そう言えば、家族はいないので?」

「え? いますよ。大家族です。七人ですよ!」

 確かに大家族と言えなくもない。

 トウカは幼い頃に父母を失い、祖父の手一つで育てられたので、あまり家族という存在を意識した事はなかった。だが、ミユキの様な少女が家族にいたなら それはさぞかし楽しい生活となっただろう。

「妹が二人いて、私より幼い妹たちしか残ってないんです。いつか紹介しますね。……ハツユキとシラユキは元気にしてるかなぁ」

 楽しそうに語るミユキ。

 ――初雪に白雪……あと、吹雪や大雪がいそうだな。

 ミユキの名前を考えるに大いに有り得る話だった。姉妹で水雷戦隊を編制できそうである。

「では、燻製ができ次第、ここから去りましょうか」

「はいっ!」

 仔狐は異邦人に笑顔で答えた。

 

 

 

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トウカ君を襲うエキノコックスの脅威!