~断章~ 紫苑色の伝承 下
「ステア! いるか! いるな! いたぞ!」
玄関扉が乱雑に開け放たれた音に続いて、マリアベルの声が一階から響く。
マリアベルはせっかちだが、今日は何時にも増してせっかちであった。兵は拙速を尊ぶという、不能男……初代天帝の言葉もあるが、玄関扉を破壊されては叶 わない。最近では、凄まじい軍備拡大を行って、ますます暴れん坊になっているという噂もある。近くを飛んでいる鷲から聞いたので間違いはなかった。
「おお! いたのか! いたなら何故、返事をせん! 一大事ぞ!」
何時にも増して着崩れた着物を気にも留めず、マリアベルがステアの肩を掴み、揺さ振る。確かに、わたしの脳が一大事だと心中で呟くステアの頭部も激しく揺さぶられる。揺り椅子であることも相まって揺れは笑えない規模で、先程食べた大鼠の照り焼きが逆流しかねない。最近は鋼鉄の野獣を密かに飼い慣らそうとしているという噂を近所の川獺から聞いたことがあるが、この様子だと嘘ではないかも知れなかった。
結論として、マリアベルは凶暴になった。
「五月蠅いし、揺らさないで」
読んでいた魔導書の縁をマリアベルの頭部に振り下ろす。
頭を押さえて涙目のマリアベルの脛を蹴り、床に転がすとステアは落ち着くまで紅茶を嗜みながら待つ。不能男の世界の鉄血宰相曰く、“愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”であるが、ステアは、ヒトという生物は、誰しもがその二つの要素を兼ね備えている事を知っていた。
ヒトは優秀にして愚か。だからこそ、マリアベルがそろそろ来ると識っていた。
「貴女に“女神の大剣”の能力を教えなかったのは、こうなると分かっていたから……馬鹿ね」
「……ならばやはり、ならぬか?」
鈍痛のしている頭を押さえて立ち上がったマリアベルが、のろのろ壁際の応接椅子に腰を下ろす。
涙の滲む瞳だが、その視線はステアの心中を探らんと爛々と輝いていた。龍としての輝きがない瞳であっても、それに勝る輝きは確かにある。己に課せられた使命の一端を捻じ曲げる事となっても、叶えてやろうかと思う程には。
「外に大砲を乗せた軍船を伏せているなんて卑怯。どうせ力ずくでする心算だった?」
「……あれは新型砲艦での……知っておったか」マリアベルは詰まらなそうに認める。
その正当性を声高に主張する事もなく、行き成り火砲での迂遠な恫喝から始めるところは、ステアの想像通りという他なく、選択肢など元よりなかった。無 論、軍船の一隻や二隻程度ならば撃破できなくもないが、マリアベルという女性は一つの方法に縋るということをせず、軍事に於いても政治に於いても複数の方 法と手段を携えて臨むことをステアは知っていた。教えた当人がそう断言する以上間違いはない。
不意に咳き込んだマリアベルが、咄嗟に着物の袖で口元を拭うと、舌打ちを一つ。
ステアは、一瞬だけ見えた赤い染みを見逃さない。
立ち上がり、然して広くもない書斎であることも相まって一瞬で距離を詰めたステアは、マリアベルの手を掴み上げる。
「マリィ……貴女……そう、そうなのね……」
掴み上げたマリアベルの着物の袖に付いた赤黒い鮮血に、ステアは顔を曇らせる。
マリアベルの病気も末期となり、残された時は少ない。人間種からするとそれなりに長い時間であっても、長命種からすると一瞬であり、ましてや貴族として 雌伏の時を過ごさねばならないマリアベルにとって、時は千金にも勝る価値を持つ。自身の血を引く後継者がいないことも焦りに拍車を掛けているはずだと、ス テアは遣り切れない気持ちとなる。
――マリィを受け止めるだけの才覚と“広さ”を持つ男性は終ぞ現れなかった。誰も彼も、小さい男ばかり……
マリアベルの置かれた立場を考えれば、尻込みするのは当然だが、それでも尚、何百年も待ち続ければ、そんな男性も一人や二人は現れると考えていたことは 甘かったと言わざるを得ない。神龍族から排斥された龍であり、強権的な姿勢と厭世的な佇まいは、その美しさと妖艶な佇まいを打ち消すほどの印象を多くの者
に与えてしまう。もし、その美しさと妖艶な佇まいを先に感じるとしたら、それは真っ当な人生を送らなかったからであり、同時にマリアベルの横に立つ素質の 第一歩と言える。
――あの不能男みたいに、女性を引き付けるだけ引き付けておいて勝手に死んじゃうのも困りものだけど、良い男性が現れないのも困りもの。
ステアは、マリアベルの手を離すと、月光が降り注ぐ窓際の壁に背を預ける。
マリアベルには多大な恩があり、そして唯一の友人でもある。
だが、女神の大剣の力を隠し、運用する者を退ける、それこそがステアに課された使命。初代天帝崩御の後、この島で女神の大剣を護り続けて幾年月。極稀 に、未だ生存している初代神龍公が時折、顔を見せることがあるものの、それ以外にステアの下に訪れるのは、幾人かの人間と動物以外にはいなかった。
叶うならば、マリアベルの願いを叶えてやりたいと、ステアは思っていた。
しかし、それは初代天帝との盟約に背くことである。
「死ぬ前に……母上の顔が見たい。妾は、母上と違って煉獄に堕ちる身なれば、死んでしまえは二度と逢うことは叶わぬ……」
「それは……」
悲しみに歪んだマリアベルの顔と、予想とは違う言葉にステアは眼を見開く。
エルリシア・スオメタル・ハルティカイネン。
マリアベルの母にして、今代神龍公の正室だった女性。ステアの今は亡き友人でもあり、破天荒な女性であった。だが、それでいて深い包容力と達観した視野 を有する稀有な女性でもあり、優秀な官僚でもあった。その紫苑色の長髪も相まって、求心力があり、時の領主にも絶大な信を置かれている。
だが、今代クロウ=クルワッハ公に見初められたことが運の尽きだった。
一般民衆出に過ぎず、ましてや排他的な傾向の高位種の貴族の妻など耐えられるものではないと引き止めたステアに、眩しいまでの笑顔で応じたエルリシアの佇まいは、今でも鮮明に覚えている。
……大丈夫。私には大剣の加護があるもの。
そんなものはない。
大剣は戦闘兵器であり、ヒトを慈しみ加護を与える機能など付いてはいない。ヴェルテンベルクには女神の大剣を信仰する風潮があったが、それは既に過去のものであり、所詮は機械仕掛け女神という旧文明時代の究極兵器の一武装に過ぎないと知られているからであった。
恋はヒトをここまで変え得るのか、と思う程にエルリシアは熱に浮かされていた。
そして、ステアはその背中を見送ることしかできなかった。
それが間違いであったのか、正しかったのか、ステアには分からない。
「マリィ……てっきり後継者を願うと思ったのだけど……」
「同情も無能な後継者も要らん。血は才能を受け継ぐ要素足り得ぬわ。それに後継者など見つかろうはずもないのでの。それほどに今のヴェルテンベルクは気難しかろう」
マリアベルの言葉は正しい。マリアベルの強権的な手法で領地を統制し、繁栄に導くという遣り方は皇国では異端であり、それを当然としてきたヴェルテンベ ルクの文官や武官は、マリアベルの後任が融和的な政策で自領の繁栄を損なう政策や、過度な他領への支援を行うことを断じて認めないであろう。マリアベルが
下賜された時点では、ヴェルテンベルク領は北部の中でも特に開発の遅延していた土地である。高位種や中位種は現在の繁栄をマリアベルと共に手に入れるまで の苦労を忘れておらず、それは周辺貴族がマリアベルのヴェルテンベルク領拝領の理由を知って距離を取ったことも同様であった。
最早、ヴェルテンベルク領に融和という文字はない。
それを正確に理解した後継者を見い出すのは難しく、また簡単に育成できるものではない。
「貴女は……諦めているの?」
よくない兆候だと、ステアは思った。それは、諦めた者があらゆるモノに対して執着を捨て続けることを識っているからで、それは多くの場面で周囲の者に不幸を齎す。物事に執着し過ぎることもまた不幸への始まりだが、その逆もまた例外ではない。
マリアベルの願いを聞き届けねばならない。マリアベル自身の為に……そして、エルリシアが愛したヴェルテンベルクという大地の為にも。
蒼の衣裳を翻し、立ち上がるステア。
シュットガルト湖に差し込む月光が差し込み、透明度の高い湖は湖底までそれの侵入を許し、水底に咲き誇る月水華を淡く照らす。島の周囲を席巻する月水華 によって、一番、月光の降り注ぐ時間帯にあって、月明かりの水面に漂う女神の大剣は一層の神々しさを醸し出す。それ故に信仰が生じたのだが、多くの者はそ の一振りに込められた願いすらも知らない。
「……嘗て、機械仕掛けの女神は散り際に涙を流し、この皇国が近淡海を作った。その涙は、悲しみ故に流れたもの。殺戮の女神に課せられた使命は、敵性生物たる神々の殲滅。だから……だから……何か一つくらい生み出すものがあっても良いかも知れない」
一つくらい奇蹟を演出しても良いかも知れない。
ただ、ただ、平和を願って振るわれた大剣は不幸しか齎さなかった。だからこそ、今この時、ナニカを生み出す事があっても赦されるのではないか。
そして、破壊しか齎さなかった女神の大剣は時を越えて、一つの命を紡いだ。
「そうですか……私はマリア様の母君の|生命の二重螺旋(DNA)を元に作られたということですか?」
リシアとステアは、古ぼけた家屋の庭先で夜空を見上げていた。島の周囲の湖底に群生した月水華の輝きで周囲は仄かに明るく、遠方に僅かに見える桟橋に停泊している水雷艇が黄金の波間に揺蕩うようで、現世と幽玄の狭間の如き光景を実現していた。
そして、その光を受けて女神の大剣は闇夜に薄く浮かび上がる。
――この下でトウカに愛を囁けば、押し切れるかも……
などということを考えつつも、リシアは嘆息する。
想像の埒外である事実が無数に散りばめられた抽象的なステアの言葉に、リシアは窓へと逃がす。島の周囲の湖底に咲き誇る月水華が月下にあることで、淡く 輝き始めたのか周囲は決して暗くはない。或いは自分の生まれた……制作された日もこの様な日だったのかも、と益体ものないことを考える。
物憂げな顔をするステアには申し訳ないが、リシアには“驚いた”以外の感情はなかった。もしあったとしてもそれは、利用できるかもしれないという一抹の打算が過ぎった程度に過ぎない。
出自など然したるものではない。リシアは此処に立っている。 それがリシアにとっての真実であり、不変の事実。
「ごめんなさい、何時かは謝らなければならないと思っていたの。わたしたちは貴女を独我論で生み出してしまった」
悔恨の念に苛まれたステアの表情に、リシアは普通に励ましては逆効果だろうと口を挟まない。心優しい女性が巫女であるというのは御約束に思えるかもしれ ないが、女神の大剣を守護してきた者である事を踏まえると、最低でも五〇〇〇歳近いという事になり、それほどの長命を誇る者は高位種であっても極稀であ
る。その上、長命であればあるほどに感情の起伏が乏しくなる傾向がある以上、ころころと表情を変えるステアは極めて稀有な存在と言えた。
「……下らないわ。私は、この脚で大地を踏みしめているの」
リシアは両手を広げる。まるで、トウカが兵士達の前でして見せた様に。
「私は、私の輝かしい未来を疑いはしないもの」
トウカが周囲に常に疑念の視線を向けていることは、リシアにも感じ取れたが、それはかなり危険なことだとも見ていた。リシアとて周囲を信頼していたかと 言えば否であり、トウカと類似している部分は多々あったが、それは目的があるが故であった。ヒトを疑うことを、呼吸をするように常態化させている様に見え
るトウカは驚異的な才覚で隠れがちだが、その本質は怯えと猜疑心に満ちた怖がりな少年でしかないのではないか。
リシアは、フェルゼンへの帰路で、黙って自分の震える手を取ってくれたトウカの手も震えていたことを知っている。
彼は二面性を持つヒト。
あれは寒さからでも、戦への恐怖からでもないのかも知れない。
トウカはヒトの心の内へ踏み込むことを恐れ、また踏み込まれることを酷く恐れている。嘲笑と冷笑を張り付けたトウカを畏怖する者は少なくないが、それはトウカの自己を保全するための防御手段ではないのかとリシアは考えていた。
――政戦に優れた才能と理論武装に護られたトウカは難攻不落での、攻め落とすはエルライン要塞よりも難しかろうて――
マリアベルはそう笑い、リシアの想いに苦笑していた。
これは全て推論に過ぎない。
だが、だからこそリシアはトウカの心の内へと踏み入らねばならない。
トウカの本心を知ることから始めねばならない。故にリシアは自分の気持ちを偽ることを止めた。だから口にするのだ。本心を。
「女神が戦わぬ者に微笑むことなどありはしない。自身が成立した理由なんて心底どうでもいいわ。ただ、戦うべきなのよ。運命を斬り伏せ、気紛れの女神を無理やりにでも振り向かせる為に……きっと、マリアベル様の母君もそうしたはず」
その結果としてマリアベルという子供を勝ち得たのなら其れは勝利に他ならない。少なくともリシアはそう考えた。愛する者の子を成すことを否定的に捉えるステアは、多くの不幸を見てきたのかも知れない。だが、それでも尚、ヒトは生命を紡ぐのだ。
呪詛にも似た祝福。
「マリアベル様が生まれた事を母君が喜んだか否か、それは私にも分からない。でも、違ったなら私がその分まで祝福すればいい。……いや、貴女を合わせれば十分に母君以上の祝福足り得ることは疑いないでしょう?」
巫女でもあるステアが祝福するのならばこれに勝るものはなく、また、母君の因子を内包したリシアもいる。それで十分……否、マリアベルを慈しむ者は、こ のヴェルテンベルクにあって数多く存在する。辺境と言われた大地を長い時間を掛けて発展させ、近年では重工業と農業を瞬く間に拡大させた領主は多大な人望 を獲得していた。
マリアベルこそが、このヴェルテンベルクの救世主なのだ。
「貴女もフェルゼンに来たらいいわ。案内してあげる。誰も彼もが、戦中にも関わらず輝いて見える。それを成したのはマリア様よ」小さくはにかむリシア。
らしくないことを言っているという自覚は当人にもあるが、ヒトを騙してこその軍人。なればこそ、エルリシアという女性の最期を美化してやることに何の躊 躇いもない。確かに、エルリシアという女性は、最期の刻、後悔を胸に散って行ったかも知れない。その事実を曲解することは当人に対する侮辱かも知れない が、その当人も自らの事柄で死後も友人に悔恨の念を抱かせることは望まないだろう。
だから嘘を吐くのだ。生者の誰しもが救われるような大きくも小さい嘘を。
「ヴェルテンベルクの希望を生み出した母君が、後悔などするはずがないわ。私なら天霊の神々の前で大いに誇ってやるわね。……あれこそが私の産み落とした希望よ、ってね」
リシアは軍用大外套を翻して、ステアに向き直る。
この世界に救いや赦しなどない。
しかし、同時に救いや赦しなどは道端にでも転がっている。故に、ヒトがそれらを手に入れられるか否かは、その当人の意識に依るところであり、究極的には当人を納得させてしまうだけの理屈を用意してしまえば良い。
「さぁ、笑いなさい。大剣の巫女……そんな表情はこの祝福の大地に相応しくないわ」
道化の様に微笑んで見せたリシアに、ステアは呆気にとられたような表情を一瞬だけ浮かべた後に、小さく微笑む。
手を差し出したリシア。
手を伸ばすステア。
重なり合う手。
幾多の時代を越え、今再び重なる手。
魂が変われどもその身体と本質は変わらない。
一つの過去が終わり、一つの未来が始まろうとしていた。
「そんなに嬉しい? それなら、一緒に聞いていたら良かったと思うけど」
ステアは、マリアベルが持ってきたウィシュケをちびりちびりと飲みながら小さく微笑む。
庭先の揺椅子に腰掛けたス テアとマリアベルは、女神の大剣を背に月を見ながら緩やかな一時を楽しんでいた。三つの揺り椅子が並び、右端には既に寝息を立てたリシアが座り、その中央
に座るマリアベルは、リシアに肩に寄り掛かられていた。そんな姿を左端の揺椅子上から眺めてステアは久方ぶりの充足感に包まれる。
母娘の一幕は、見ている限りでは微笑ましいものであった。それが遠き昔に散った母と同じ因子を持った娘であることも大きく影響しているのか、母の眼差しは暖かである。
「そんなに大事なら優しく接してあげればいいのに。不満垂れ流しだった」
「五月蠅いわ、莫迦者。増長させれば、何処かで野垂れ死にかねん。妾の子として育てれば、歪みかねんから孤児院に預けるしかなかった……ラムケは感付いておろうが何も言いおらんかった」
涙の後が頬に滲むマリアベルに、ステアは「意地っ張りな人ね」と苦笑するしかない。
孤児院の委員長が消極的な賛成を示した以上、リシアがそうなる可能性を捨て切れなかったことは理解できる。だが、それがリシアという少女を頑なな性格にした。
気性の荒いことで知られる装虎兵士官学校では、幾度かの大乱闘が繰り広げられるが、リシアはそれらに一切関わることがなかった。その理由が“関われば栄達に致命的な吝嗇が
付く”というもので、ある意味に於いては周囲の者と致命的とも言える隔意があった。リシアは皇都内の有力者との繋がりを幾つも持っており、生活費を稼ぐ為 に皇城で侍女としても働いていた経歴がある。紫苑色の髪を持つという利点を最大限に利用して、有力者の前では気高く振る舞った。その点も同級生からは不興 を買ったことだろう。
ヒトは自らにないものを利用して躍進する存在に寛容ではない。勝者の粗探しをし、敗者を糾弾する誘惑に耐えられる者は少ないのだ。ヒトは自らの正義や大義、正統性を実感するべく他者を貶めることを厭わない。
そうした者が多い中、リシアは別格であったかも知れない。
皇国人は気高く振る舞う者を慈しむ。リシアは媚び諂うことはなく、優しげな笑みで有力者達と会話するだけで良い。本来の気質がそれを良しとする性格だっ たこともあり、リシアは有力者たちの前でも物怖じすることなく、好感を抱かせることに成功した。中には、生活費の援助を名乗り出る者もいたと聞いている
が、リシアはそれを“私の矜持を金銭で解決しようなどと思わないでいただきたい”と一蹴し、それ以来、有力者の評価は鰻登りであった。
装虎兵士官学校の首席は、戦乙女たる資質を持っているぞ、と。
無論、装虎兵士官学校の教官達は、士官候補生であるリシアが有力者……軍高官や文官、そして何よりも貴族や政治家と接触することに忌避感を抱いた。
リシアが皇都の有力者に顔見せを行ったのは、恐らく後ろ盾を欲したからであろうとマリアベルは話していた。だが、リシアは好感を抱かせて自身に肯定的な感情を抱くように仕向けながらも、後ろ盾を願うことはなかった。
信頼の置けるものを見つけられなかったのだ。
装虎兵士官学校なども今代天帝の死後、貴族や政治家の権力争いの場になりつつあり、教鞭を取るべき立場に在るはずの教官達にも政治色が混じり始めた。或 いは、深入りすれば権力闘争に巻き込まれると考えたのかも知れない。政治的視野を持ったというよりも、野性的な勘に近いそれによってリシアは綱渡りに近い 立ち位置を得ていた。
だが、大商家の倅が言い寄った事でその均衡が崩れた。
その時点で、有力者達に泣き付けば、或いは装虎兵士官学校で首席を全うすることも出来たかもしれないが、この期に及んで権力争いに巻き込まれつつあると知り、身を引くことを決意した。そう、マリアベルは語っていた。
孤児院に送り、興味のない風に装いながらも、そこまで情報を得ていたことから内心では、リシアの破天荒に一喜一憂していたことは想像に難くない。
「気になるなら、副官にしたらいいと思うけど」
「同じ紫苑色の髪を持つ者が二人並び立てば、邪推する者が現れかねん。例え、紫苑色が血統によって継承されるものでなくとも、の」
紫苑色は血統によって継承されるものではないが、少なくともその事実を忘却の淵に追い遣る程の神聖性を兼ね備えている。マリアベルは廃嫡の龍姫であると いう短所が、紫苑色の髪という長所を打ち消しているが、それでも年に何件か婿にと御見合いの話が舞い込んでくる。ヴェルテンベルクの財力と紫苑色が目当て
であろうが、マリアベルは当然ながら全てを断っている。そんな中で同じ紫苑色の髪を持つ、リシアが並び立てば邪推する者も少なくないだろうことは疑いな い。
「貴女は弱みを見せる訳にはいかなかった……後悔した?」
「後悔など四〇〇年前からしておる。じゃがな、もし四〇〇年前に戻れたとしても、妾は同じ道を歩んだであろう」
震えることもなく呟かれた言葉に、ステアは「馬鹿ね……」と呆れる。
ヴェルテンベルクは不器用な者が数多く生まれる土地なのかも知れない、とステアには思えた。或いはハルティカイネンの血統だけなのかと考えもしたが、近 年のヴェルテンベルクの武官や文官の活躍を見るに、かなりの強権的な姿勢が窺えることから、不器用な者が多いのは間違いなかった。
「散々に文句を垂れて、先に寝るとは全く大物よの」
リシアの頭を撫でて嬉しげに呟く様にステアは、自分の選択肢が改めて間違いではなかったと思えた。
リシアの言葉は、完全にリシアの視点からのみ語られた言葉であり、エルリシアの心中に渦巻いていた感情など無視した言葉に等しいかも知れない。だが、ス テアとて死に際のエルリシアと邂逅が叶ったわけではなく、マリアベルもその点については語らない。恐らくは強い憤りを抱くようなことがあったのだと理解で きるが、同時にその点についての折り合いが付いているのだとも思えた。
「リシアは優しい子……だから嘘を吐いてまで、私を赦そうとした。意地っ張りで強情って貴女は言うけど心根は優しい子よ?」
「分かっておる。先程の話を盗み聞いて確信したわ。だが、やはり此奴は、政治には向かぬ。才能が在っても、心根が優しすぎれば耐えられまいて」
辛口な言葉だが、その眼差しは優しげで揺らぐことはない。
後継者足り得ないことを嘆いていないのは、サクラギ・トウカなる人物がいるからであるということは、リシアの口ぶりから容易に想像できる。懸想していることも言葉の端端から鬱陶しいくらいに感じられて、微笑ましくもあった。
だが、不確定要素もある。
サクラギ・トウカ。
ステアにとっては、複雑な感情を抱かざるを得ない名であり、正体不明の人物でもあった。
多数の動物と心を通わせる事のできるステアは、島に籠りながらも遠方の様子を詳しく窺い知ることができるのだが、トウカに付いての情報は全くと言っていいほどに入っていなかった。
殺され……否、捕食されるのだ。あの忌々しい狐に。
リシアからその名を聞く以前より、ヴェルテンベルクを掛け巡った騒ぎの中心人物ということと、運よく大鷲の瞳を通して見た遠目の姿に思うところがあった ので、動物達に“御願い”して探ろうとした。しかし、無駄に毛並みの良い狐族の少女が魔力の気配を感じたのか、或いは、ただ単に御腹が空いていただけかは 分からないが、手当たり次第に狩猟するので詳しい事情と動向は不明であった。
――翌日、庭先で干し肉になっていたうっくん(キタミミナガフクロウ♂)の仇を取らないと。
ステアは、ウィシュケの入った硝子杯を傾けつつも、そんなことを考える。
マリアベルがリシアの母であるように、またステアもリシアの母と言えなくもない。女神の大剣の能力の一部を扱ってリシアを創造したステアは、ある意味ではマリアベル以上に母と言えなくもなかった。
「そろそろ私も動いた方がよさそうかな」
「御主……島を離れて良いのか?」
驚いた様子のマリアベルに、ステアはそう言えば伝えていなかったと思い出す。秘密主義という訳ではないが、女神の大剣に関する項目を暈して話す事が当然となっているので忘れていたのだ。
「女神の大剣を巫女が護らなければならなかったのは、その強大な力を誰かに悪用されない為。でも、内包した力はリシアの創造でその多くを使った。紫苑色の髪の再現に多くの力を使ったから、女神の大剣も今となってはただの鋼鉄の塊に過ぎないの」
「そう……であったか、これで御主も自由の身か」
ヒトの悪い笑み……口元を釣り上げたマリアベルに、ステアは顔を引き攣らせる。
どちらにせよフェルゼンには赴く予定であったが、何かしらの企みを思い付いた顔であり、宜しくないことに巻き込まれるのだろうと予想できた。しかし、動 物に友人が多いステアからすると圧倒的な索敵力の前には、マリアベルとて例外なく無力であった。鼠を乗せた大鷲による空挺で、マリアベルの屋敷への潜入に
成功した鼠も少なくない。偶に乳製品の誘惑に負けて仕掛けられた捕鼠器に捕まって救援要請が飛んでくることがあり、他の大鷲や梟、鼠や鼬が救出に向かうこともある。
リシアの創造に関しては、女神の大剣の最後の力を飾るに相応しい行いとして考えており、当人が思っている以上にリシアは高い潜在能力を備えていた。これ はマリアベルにも話していないが、リシアをエルリシアの生命の二重螺旋(DNA)を元にしているが、その先祖が旧文明時代に機械仕掛けの女神の配下の軍勢
に在って、国家及びその指導者層の守護や国家の興亡、悪霊からの守護を司るという権天使であったのだ。
ハルティカイネンの血統が遠く旧文明時代を生き延びた権天使に連なる者である以上、その権能の継承は不当なものではない。無論、混血化著しい上に、当人すらその事実を知らないことから力を振るう機会はないに等しいが。
「私達の天使ね……」
「小悪魔じゃろうて。結構、悪辣での、ティーゲル公の愛娘を簀巻きにして持ち帰るくらいじゃぞ」
元気があって良い子だと、ステアはリシアの頭に手を伸ばす。
流れるような髪質はエルリシアと変わりはなく、歳を重ねていく毎に在りし日の姿に近づいていく。リシアがフェルゼンに舞い戻った時、マリアベルが領軍士 官学校への転入を許可したのは、その一段と亡き母に似た姿で舞い戻ってきたリシアに対して思うところがあったのだろうと考えていた。
「その手、次は放しちゃだめよ」
「分かっておる。放すものか。時を越えて得た家族……最早、偽る必要もない」
それでいいと、ステアは淡く微笑む。
これから新たなる時代が始まることを、ステアは肌で感じていた。幾つもの時代を遠目にとはいえ見ていたステアは、時代の節目を朧げながらに感じ取ることができる。
――似ている。あの莫迦男が現れた時代に。旭日を背にした漆黒の男。大きな海嘯となって海も大地も空をも巻き込んで全てを押し流す……国を彩るは夢か、国を燃やすは野望か……
今一度、月明かりの下で肩を寄せ合う母娘へと視線を向ける。
新たなる時代が、紫苑色を持つ二人にとって生き易い時代であることをステアはただ願うばかりであった。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
《大独逸帝国》 宰相、オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン