第一〇〇話 装甲姫
「帰還して直ぐにか……」
トウカは招待状を手に呆れ返っていた。
手にした一通の招待状。
舞踏会への参加を促す……命令するものであった。しかも、マリアベルの直筆であるのか、達筆ながらも半ば恫喝に近い文面という始末に負えないもので、とてもだが欠席できるような雰囲気ではない。
軍務や義務として上官や部下と会話するのは然して気負うこともないトウカだが、年頃の貴族の若者や老練な老貴族を相手に雑談をするのは苦痛以外の何もので もなかった。最悪の場合、言葉尻を捉えられた上で言質まで取られかねない。問題があれば後々、物理的に“処理”してしまえばいいのだが、それに生じる労力 は、明らかに利益を保証するものではなかった。
貴族の政治能力がマリアベルを基準とするならば、間違いなく舞踏会は魔窟と言える。
ヴェルテンベルク領、艦隊総司令部の重厚な建造物の最南端に位置する司令長官室で、トウカは嘆息する。
なれど不参加という選択肢はない。ミユキがこれ以上ないほどに乗り気であるからである。
その上、招待状には政治的な統合を図るとの一言が添えられており、トウカの出征中に北部における大規模な政変を行う用意をしていたことは明白である。その変化が自身がいない状況で行われることへの恐怖心もある。蚊帳の外では対応も後手に回りかねない。
「セリカさんはどう思う?」
トウカは招待状を執務机上に投げ、応接椅子に座り黒茶を啜るベルセリカへと視線を巡らせる。
ベルセリカに対する蹶起軍最高司令官就任の要請は既になされているものの、ベルセリカはその判断をトウカに一任している。この点こそがマリアベルに対してトウカが明確に優越している点であり、トウカが決定的に排斥されないと確信する理由でもある。
焼き菓子をがりがりと咀嚼したベルセリカは、詰まらなそうに纏められた鳶色の髪を弄ぶ。
「答えは決まって御座ろう? 最早、後戻りはできぬよ」
トウカは余りにも力を行使し過ぎた。多くを殺し、多くを救った。既に後に引くことはできない。
だが、マリアベルの遣り様では征伐軍を撃破することは難しく、勝利できたとしても致命的な被害を蒙ることとなる。トウカとしては征伐軍にある程度の出血 を強いての講和、そして統合による中央貴族や帝国と相対する道も模索せねばならないと考えていた。アリアベルを弑逆できなかった責任を持つトウカは、征伐 軍の戦力を可能な限り保持したままに内戦を終結させる腹積もりである。
しかし、ここで自領の護持を最優先するマリアベルと、征伐軍撃破を優先すべきとするトウカの主張に齟齬が生じた。
マリアベルは、あくまでも自分が信用できる戦力と領土を拡充しようと考えているとトウカは感じており、シュットガルト運河の航路安全保障を目的とした外 征は達成を見た代わりに防衛区域の拡大による戦力分散を招いた。あくまでも領邦軍指揮権を奪い、自主的な領地運営は保障すべきであるとトウカは考えていた
が、マリアベルは大量の予備役兵員をイシュタルに統率させて占領活動を命令した。その上、政治的隷属まで求め、多くの権利と権益を剥奪し、将来的にはヴェ ルテンベルク領との併合も視野に入れているという姿勢を垣間見せている。
只でさえ覚束ない未来図だが、戦力不足が更なる拍車を掛ける。
暗澹たる未来に溜息を吐くトウカ。
「一度、二人で腰を据えて話してみるがよいで御座ろうな」
「なかなか会い難い。それに会ったとしても腹の探り合いに終始するだろうな」
トウカはベルセリカに敬語を使う努力を辞めていた。
最早、取り繕う程に容易な戦況ではなく、またベルセリカも尊重されることを望まなかった。彼女にとり、主とは配下に対して侮られるが如き振る舞いを続ける者となってはならないと口にしたベルセリカだが、トウカはそこに別の意図を感じた。
トウカがベルセリカを家臣として扱い、ベルセリカはそれを当然として首を垂れる。その構図を周囲に知らしめることで、トウカの立場を盤石とする一手と成す。そうとは明言しないベルセリカだが、トウカはその意思を察した。
だからこそ応じた。
「御前の努力には感謝するが、事ここに及んでは総てが手遅れだ」
本心を悟らせず、自身に有利な条件に持ち込もうとする二人の会話は政務官僚や技術官が呆れるほどに長く何も決まらない。小田原評定と言うには双方の知識 が膨大であり、それを視聴した政務官僚や技術官が職務に役立てるという一面があるので無駄ではないが、根本的な方針に限っては全く決まらない。
元より自身が提出した作戦計画を踏み台にヴェルテンベルク領が拡充する手段とされる以上、そこに信頼など生まれるはずもなく、マリアベルはトウカが反対すると知って状況を意図して伝えずに自らの望む方向に誘導しているのだ。
気に入らない。そうした考えがトウカの胸中にあった。
なまじ頭が回る故に自らの勢力拡大を重要視するマリアベルだが、トウカからすると内戦を今までの北部での権力闘争と同様に考えている節があるように思え た。動員戦力や参加貴族が増大しただけであるといえば確かに権力闘争の延長線上とも取れるが、周辺諸国に与える影響は北部貴族が思うよりも遙かに大きいと トウカは考えている。
しかし、帝国軍侵攻に対する恐怖心と不満による蹶起だが、既に互いに無視し得ない量の血と涙が流れ、既に容易く止め得る状況ではない。
「八方塞だな……まずは我らが暴虐なる義母上を何とかしたいが」
勿論、その様な方策などあるはずもない。
ベルセリカの前では口が裂けても言えないが、長命な者達は揚げ足を取ることに長け、老獪な手段を呼吸をするかのように行使できる面の皮の厚さを持ってい る、とトウカは思っていた。その代表格がマリアベルであり、それに対抗し得る人物は、ミユキの母であるマイカゼしかトウカは知らない。
ベルセリカは、トウカのマリアベルに対する苦心を見て小さく苦笑すると、鷹揚に胸を張り茶目っ気のある表情で提案する。
「ならいっそ抱いてしまえばよい。情に訴え掛けるのも一つの手で御座ろう。どうもあれは男に恵まれぬようであるからして御屋形様にも付け入る隙が――」
「――無いですよね、御師様?」
応接椅子に何処からともなく飛び込んできたミユキがベルセリカの膝上へと滑り込む。甘えるような仕草だが、何処か冷たさを含んだ声音による問いかけに、ベルセリカは苦笑を以てミユキの頭を狐耳諸共に撫で回す。
「どうやら人と龍と狐の三角関係は見れぬ様子。意外と有効やも知れぬと思ったのだが」
肩を竦めるベルセリカの声音はあくまでも本気を窺わせる。
トウカは所詮、異邦人に過ぎない。出自不明の人間種など伴侶に迎えても危険性ばかりが増す。何よりも抱き込まれる危険性がある。
マリアベルは優れた治政により何百年にも渡り発展させ続けた実績があり、異邦人であるトウカが演出した大軍の撃破は規模こそ大きいものの一時的なもので しかない。マリアベルの長きに渡る繁栄という勲功の前では酷霞む。ヴェルテンベルク領の領民は常にマリアベルの齎した繁栄の中で生きているといっても過言 ではなく、二人が衝突した時、どちらに味方するかは容易に想像できた。
そもそもマリアベルの瑕疵は未だに確定的なものと見られていない。否、瑕疵とすら見られていない。
敵対は有り得ない。
あらゆる意味で規模が隔絶しているという事もあるが、一番の理由はベルセリカという抑止力を以てしてもミユキの安全を保障できないからである。
「失礼します、代将閣下」
思案するトウカを余所に、リシアが敬礼と共に入室してきた。その脇には書類が挟まれており、領邦軍艦隊の再編成に伴う案件に関するものだろうと暗澹たる表情を浮かべる。
シュタイエルハウゼンの領邦軍司令官就任は容易く承認されたが、艦隊参謀などの役職にはマリアベルの意図する人物が配された。この状況を元より想定していた為の人材なのか、トウカから見ても有用な者達であった。
「私の顔を見て気を落とされるのは、どの様な意図でしょうか?」
「別に畏まらなくても結構。無任所の将校など敬意を払うに値しないだろう」
若干拗ねた様な口調のトウカに、リシアとベルセリカが苦笑する。
二人は北部の領邦軍が連携することを知っており、そこでトウカが要職に就くであろう事も理解している。しかし、当人にも詳細は知らされておらず、トウカが不安を抱いていることも察していた。
溜息を吐いて頭を掻き毟るトウカを尻目に、リシアは執務机に書類を投げ置くと、ベルセリカの対面に腰を下ろす。
「……明日の夜よ、舞踏会は……ところで相手役はいるの?」
リシアは「そう言えば」という前置きと共に尋ねる。
だが、その瞳に灯った好奇心と熱意は隠せない。否、隠す心算もないのか、その問いかけを爬虫類の如き表情で待ち構えている。
当然ながら野性の獣がそれを許すはずもない。
「私がやるもん! 衣裳とかもマリア様が準備してくれるって……」
「天狐の姫君を貴族にするという話も聞いていますが? まさか叙任式に忙しい御貴族様がその様なことをできるとは思えませんが?」
静かなる火花が散る司令長官室。
部屋の主となったシュタイエルハウゼンは、領邦軍艦隊の練度向上を目的として熾烈な艦隊演習をシュットガルト湖上で指揮しており、健在な艦隊戦力の過半を引き連れているのでフェルゼンの軍港は司令長官室と同様に閑散としている。
シュタイエルハウゼンとしては領邦軍艦隊を指揮してみたいという思惑があったのだろう。戦闘に参加して休息と修理で動けない艦艇を除く艦隊は、再武装を施 された警備艦隊や哨戒艦隊の艦艇を編入しての混成艦隊であり、練度に大きなばらつきがある。シュタイエルハウゼンが今頃、練度向上という課題の為に頭を痛 めていることは容易に想像できた。その点を改善したいからこそ海軍から引き抜いたのだ。
トウカはその役目を押し付けられる可能性を恐れ、何より自信がなかった。
戦闘艦艇の運用は専門技術の複合物であり、トウカはそれに対する知識を万全に持ち合わせている訳ではない。戦略や戦術、予想される水上兵器の進歩の方向 性などは知っていても、練度向上の為の訓練を策定するなど門外漢であった。そして大艦隊となったが、北部には大艦隊を一元化した指揮の下で運用する指揮官 がいないという問題もあった。
監視は付けているが、シュタイエルハウゼンが仕官に応じたのは渡りに船であった。艦船だけに。
満面の笑みでミユキを迎え打つリシア。ミユキは「むむむっ」と唸り、尻尾を激しく振ってリシアを威嚇しているが、理論武装を得意とするリシアの前に旗色は悪い。
「ということで、トウカ……そこから気に入った衣裳を選びなさい。着て来てあげるわ」
視線を執務机に投げて寄越した書類に向けて笑い掛けるリシア。
トウカは軍務の為の書類だと思っていたが、手に取ると中身は様々な衣裳の描かれた宣伝紙の束であった。奇抜なものから如何にも高価そうなものまでが揃っており、リシアの準備の良さを窺わせる。
だが、北部貴族全体を巻き込んだ舞踏会で隣に立つ女性というのは余りにも目立ちすぎるとトウカは考えた。恐らくは事実上の婚約者と見られる事になる。
――俺との関係を見せつけて足場を固める? 俺にそこまでの価値があるとは思えないが、な。
無論、トウカはヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装で参加する心算であり、リシアも同様であるならば副官であると周囲の貴族達は考えるかも知れない。しかし、衣裳を着ているとなれば邪推されることは間違いなく、面倒が生じる恐れがある。
「主様だって活躍したから私の隣に並んでいても可笑しくないですよっ!」
飛び付いてきたミユキを抱き止め、トウカは如何したものかと思案する。
しかし、そこで司令長官室の扉を叩く音が響く。
入れと促したトウカの声に招かれて入室したのは、エイゼンタールであった。
凛々しい佇まいもそのままに敬礼したエイゼンタールは、執務机を挟んでトウカの前に立つと直立不動で口を開く。
「代将閣下、ヴェルテンベルク伯からの召喚命令により、ミユキ殿を御連れしたいと思いますが宜しくありましょうか?」
ヴェルテンベルク領邦軍正式採用の軍用長外套を翻し、トウカに抱き付いたミユキへと視線を巡らせたエイゼンタールだが、逆にミユキが尻尾を振って唸り声を上げるので困り顔である。
ミユキは軍属として編入されていると当人には告げられているが、実際に書類上では軍属としては登録されていない。これはマリアベルの、“まぁ、当人の我 儘を適当に納得できるように計らうが良かろうて”という意向を受けてのことで、軍属として天狐族の姫君を扱うことを危険視したマリアベルが、ミユキを適当
に満足させて御茶を濁しておけと命令したからに他ならならず、これにはトウカも賛成していた。ヴェルテンベルク領で何かしらの立場に就けば注目されること は避けられない。強大な力を持つ種族でありながら、外界との接触を最低限に留めていた天狐族の姫君が、ヴェルテンベルク領で軍務に就くという事実は大きな
波紋を呼ぶに違いなく、それを忌避した形となる。或いは、その事実の使い所ではないと見たか。
トウカはミユキの頭を撫でたままに、エイゼンタールに問う。
「理由は?」
「爵位を得る為の手続きと、明日の為の衣装合わせです。特に後者は小官が同情するほどにヴェルテンベルク伯が全力で待ち構えておりますれば」
自分は無関係で無実ですと言いたいのか、その顔は果てしなく無表情であるエイゼンタールだが、一瞬、リシアへと視線を向けたことを見て取り、トウカは嘆息する。
「セリカ……護衛を。ミユキ、御前の晴れ姿、期待しているぞ」
「む、むぅぅぅ、でもでも主様が直接選んでくれた方が……」
あくまでも抵抗するミユキだが、リシアとエイゼンタールが連携している気配を嗅覚で感じ取ったのか語尾が小さい。
「俺に女性の衣裳を選ぶ才覚などないぞ? 休日も軍装だからな」
トウカは軍装以外の服を僅かしか持っていない。服を選ぶことが面倒であるという事もあるが、被服部清掃課に依頼すると軍装であれば洗濯と火熨斗がけ、糊付けなどをやってくれるという点をトウカは気に入っていた。
「むぅぅぅぅうぅぅ!」
最早、言葉もないミユキは尻尾を大きく振って頬を膨らませている。
ずるずるとベルセリカに引き摺られてゆくミユキを見送り、トウカはエイゼンタールが退出して扉を閉めたのを確認し、応接椅子で満面の笑みを浮かべているリシアへと視線を巡らせる。
「エイゼンタール少佐とも交友があるのか? 困るな、軍の中枢に近い人間が情報部を私的に運用するというのは」
「莫迦言わないで。ただ、マリア様に伝令兵扱いされていた可哀想な情報部少佐に入室する機会を図って貰っただけじゃない。少佐も未来の領邦軍司令官に好印象を与えておけば情報部の予算も安泰だって言ってたけど」
わざとらしい笑声を零すリシアに、トウカは苦笑する。
リシアの立場は確かに次期領邦軍司令官に近いと言っても過言ではなく、紫苑色の髪からくる名声と合理性に基づいた指揮、命令はベルゲン強襲で証明されて いる。トウカの知る軍という組織であれば余りにも若すぎる年齢から環境に反対されることは疑いないが、皇国という多種族国家は年齢という概念に驚く程に重
きを置かない傾向にある。寿命に差のある種族が一組織で共に過ごしている風景が日常となって既に何千年という皇国の風土では、年齢によって役職を決めると いう年功序列の概念は高位貴族家の中に僅かに生存している程度に過ぎない。
才覚さえ示せば、それに応じた地位が与えられる。
それはトウカにとっても好ましいことである。祖国が年功序列によって喪ったモノは余りにも多い。ミッドウェーの大安売りやマリアナ沖の七面鳥パーティー、レイテ旅行などの例を挙げれば限がなかった。
「エイゼンタール少佐は御前が次期領邦軍司令官になると見ているのか」
「そうなのよ。まぁ、ザムエルより“華”があるんだから当然よね」
貧相な胸を張って自慢を並べ立てるリシアに、トウカはそれはどうかと内心で考えていた。順当に考えれば、マリアベルが軍務卿に就任すると同時に、その補 佐としてイシュタルが就き、空いたヴェルテンベルク領邦軍司令官の役職にリシアが就くと見るのはあり得ない人事ではない。
だが、マリアベルは政治的な視野に加え、情報部によって皇国内の情報に精通している。軍事的な目的以外でリシアを利用する可能性も捨てきれない。
「ザムエルは野戦指揮官としては優秀だが、複数の部隊を戦域で指揮するとなると確かに難しいか。まぁ、それだけで十分なのが通常の領邦軍なんだがな」
肥大化したヴェルテンベルク領邦軍は、その指揮系統に於いて軍集団に匹敵する体制を整えている。
特に有事の際は大量の義勇兵を迎え入れて爆発的に兵力を増強させる事を目的として、それに耐え得る指揮系統を整備していたのは正しい判断だったと言え た。軍備を制限されていたが故に、有事の際に短時間で戦力を整えられる姿勢に特化したのだが、それら全てを効率的に指揮できる人材は極めて少ない。大規模
な実戦が、この内戦が勃発するまでなかった以上、匪賊討伐や治安維持活動が主体となっており、戦術指揮能力は判断する事ができたとしても戦略指揮能力を見 極めることは難しい。
だが、鷹揚に頷くトウカに、リシアは小首を傾げる。
「私の領邦軍司令官就任に箔を付ける為、艦隊参謀にしてくれていたのかと思ってたのだけど……違うの?」
トウカは、リシアの能力を頼んで艦隊参謀にしただけであり、それ以降の事は考えていなかった。元よりトウカは海戦の作戦立案は可能であっても、艦艇の実 戦運用経験は皆無であり、事実、号令に関しても間違った号令が幾つもあった。艦長であるリンデマンを介しての伝達であるので致命的な事にはならなかった
が、正規軍であれば許されないことである。貴族の私兵である領邦軍だからこそ許される理不尽と非効率であるものの、勝利が全てを肯定した。
強いて言うなればリシアを艦隊参謀にしたのは、ヴェルテンベルク領出身者ばかりで編成された艦隊司令部で、トウカを支持する者が必要であった為に過ぎな い。つまり、リシアの艦隊参謀着任は出自不明の謎の将官に指揮されて反感を抱くであろうことを見越しての緩衝剤に過ぎなかった。
だが、まさか「緩衝剤だが?」と当人に言う訳にはいかない。
「……こんな衣裳などどうだ?」
トウカは適当に宣伝紙の一枚を手に取り、リシアへと手渡す。
宣伝紙に視線を向けて思案の表情を浮かべたリシアに、トウカは話題を逸らせたと胸を撫で下ろす。
リシアの好意をどう受け止めたものか、という悩みは未だにトウカの心中に燻ぶっている。
特にミユキが恋人であるという事を知っているであろうことは、周辺で噂されていることに加えて、トウカの隠しきれないと判断から最近は隠蔽を諦めているが、リシアからのそれに対する言及はなく告白を撤回することもなかった。
「さて、どうしたものか……」
「ほ、本当にこれでいいのねッ!? 待ってなさい、直ぐ仕立て直させるわ!」
宣伝紙を握り締めて足早に部屋を出ようとするリシアの背を眺めつつ、トウカは溜息を吐いた。
「それで、北部の“名誉”と……」トウカは間の抜けた声音で呟く。
眼前で椅子に座る野獣……フルンツベルクに対し、トウカは眉を顰める。
周辺にはヴェルテンベルク領周辺の貴族領の領邦軍高官達が軒を連ねているが、その顔は一様に紅潮して血気に逸っている。トウカが然して気負うこともなく戦争という消費行動を見据えていることに対し、当事者意識の強い各領邦軍の高官達は不満を募らせていた。
北部貴族領邦軍の戦争であるはずの内戦。
しかし、現状はヴェルテンベルク領邦軍の独壇場であった。
クラナッハ戦線突破とそれに伴う全戦線への大規模航空攻勢。ベルゲン強襲は、その全てがヴェルテンベルク領邦軍主導……独断で行われた。マリアベルの容 認があり、クラナッハ戦線はヴェルテンベルク領邦軍が防衛を担っていた上、航空戦力の運用はヴェルテンベルク領邦軍以外では全くと言っていいほど整備され
ていなかっ為、指揮権についての問題は起きなかった。ベルゲン強襲に関しては、あくまで“積極的防衛”の範疇でしかない。凄まじいまでの方便であるが、そ れを押し通すがゆえにマリアベルはマリアベルなのだ。
ヴェルテンベルク領の公式見解はそうなっている。
無論、北部の各力軍の将校達が納得するか否かは別問題である。
現に眼前で雁首揃えている各領邦軍の将校達は一様に渋い表情を浮かべている。
トウカからしても政治面での折衝はマリアベルに任せており、助言はしても政治的決断を行える立場ではない。だが、そのマリアベルの言い様が他人の神経を 逆撫でする様な文言が乱舞するようなものであり、トウカとしては自分に文句を垂れるのは筋違いだと怒鳴り返したい気分であった。
マリアベルの意図は分かる。
外敵の脅威という一点のみで連帯している北部貴族だが、実際にその“外敵”が北部へ攻め入ったという認識はなく、連帯は統制された国家と比して緩やかなものに過ぎない。
そこで、マリアベルは敢えて傲慢なる女伯爵という看板を以て、”身内の敵“を演じていた。
マリアベルに対抗する形で他の北部貴族は結託し、連帯を強めていくとう筋書きは、トウカも思わず唸る程に苛烈である。
それが、何百年も続いているのだから。
自らに隔意を抱く様に仕向けて北部貴族全体が連帯する事を強めつつも、兵器製造や重工業化による豊富な資金力を背景に依存させるという手法で北部の結束 を強化しているのだ。その上、マリアベル自身は北部貴族の中でも最有力者と目されるエルゼリア侯爵と個人的な交流があり、孤立以上の最悪の事態にはならな い様に手を打っている点は隙のなさが窺える。
鋼鉄の女伯爵という異名は正しい。
周囲を“仮想敵”に囲まれた状況で自領を繁栄させ続けるという綱渡りは、酷く精神的消耗を強いるはずであり、近年は首席政務官であるセルアノが不在であったことも相まって政治的負担が計り知れないということは容易に想像ができた。
「ヴェルテンベルク領邦軍にも足並みを揃える様に――」
「これ以上、防衛線を好き勝手に動かれては――」
「そもそも、他貴族領を無断で通過するなど――」
不満を垂れ流す他領邦軍の高官達の言葉を聞き流しつつ、トウカは考える。
――だが、この男を通してヴェルテンベルク領邦軍に掣肘を加えようとしてくるとは予想だにしていなかった……意外と交友関係が広いのか?
トウカは腕を組んだ野獣……フルンツベルクを見やり、その外見とは裏腹な人望の厚さと交友の広さに首を傾げた。
だが、トウカは延々と名誉についての解釈を垂れ流し続け、そのまま不満までも垂れ流し始めた他領邦軍高官達に内心で溜息を吐いていた。
ヴェルテンベルク領邦軍が越権行為も甚だしい攻勢を仕掛けて、大規模な全面攻勢を誘発させた。故に、これ以降は我々の領邦軍を主体に戦うべきだ。
話の内容としてはその辺りだろう、とトウカは簡潔に纏める。
ヘルミーネの研究開発にも呼ばれているので暇ではないのだが、昇進するとなかなかどうして下らない建前に付き合わねばならなくなる事をトウカは恨んだ。
「蹶起軍総司令部の意向を窺い――」
「団結して事に当たることこそが――」
「足並みを揃えて今後の戦局に――」
適当に言葉を聞き流し、トウカは感情が表情に努めて出ない様に注意する。
――そもそも戦争に名誉? そんな下らないモノを持ち出す屑がいるから部下が必要以上に死ぬことになる。名誉などと自己弁護せずに、敵だから討つ、それでいいだろうに。
戦争は総てが許されて、総てが許されない。
後に罪に問われるのは非道な行いを行使したからではなく、敗戦したからに過ぎず、勝者の政治的演出に敗者が命を以て付き合わされるだけに過ぎない。
それ以上でもそれ以下でもない。
トウカは小さく笑声を零す。
「何が可笑しい?」
それを見咎めたのか、細身の神経質に見える他領邦軍の高官が厳しい口調で問う。
そんなに聞きたいか?
――莫迦者め。綺麗事で戦争がしたいならば従軍神官にでもなればいい。
トウカは壁に背を預け、苦笑する。禍々しく。
「いえ、この程度の“局地戦”で狼狽えるとは蹶起軍総司令部や他の領邦軍も存外、頼りにならない、そう考えただけです」
その場が凍りついた。
そこにいる全ての者が絶句した面持ちをそのままの表情でトウカに視線を向ける。
「貴様、我等のみならず、総司令部まで愚弄するか!」
細身の神経質に見える他領邦軍の高官が激昂する。
「愚弄? 面白い冗談です。寧ろ愚弄しているのはそちらでは? 蹶起軍最高司令官であるエルゼリア侯爵はこの程度のことで悩むような器の小さい御方ではないと思いま すがね。そもそも侯爵閣下ですら口を挟むことがなかった我が領邦軍の戦働きに口を挟むとは僭越が過ぎましょう。……つまり侯爵閣下の御意思に対して他意が あると?」
トウカは、嘲笑と共に他領邦軍の高官達を見据えた。
中々に上手い切り返しだ、とフルンツベルクは内心でトウカの言葉に感心していた。若き日のマリアベルを思わせる舌鋒に、思わず厳めしい表情で腕を組むことで、中立の立場を堅持しようと努力することになった。
細身の神経質に見える他領邦軍の高官が、顔を真っ赤にしたままに口籠っている。
だが、トウカはそこに追い打ちを掛ける。
「侯爵閣下を悩ませているのは頼りにならない何処かの領邦軍でしょう。練度も低く、連携も取れない戦力を統括せねばならない立場を嘆いておられるでしょう。……配下に恵まれなかったこと共々」
「き、貴様ァ……」
「戦争という消費活動に名誉や大義など持ち出して、己の武力行使を正当化する暇があれば、領邦軍間の連携強化や縦深的に対応できる防禦陣地の設営などをするべきかと思いますが」
あらん限りの嘲笑に口元を歪めたトウカの正論と、反論を封じるかのように先手を打った発言だが、フルンツベルクはこれ以上、双方を激発させるわけにはいかんと膝掛を野太い手で叩いて注目を集める。
「しかし、名誉が無ければ兵達は戦野に赴けん。無視はできまい」
頭では理解できていても、やはり若き将兵は名誉や誇り、大義というものに固執する傾向があり、戦場に一種の浪漫や美学を求めている。それを安易に否定すると戦意の低下につながる事を踏まえればトウカの言い様は許容できるものではない。
図らずとも他領邦軍の高官達に助け船を出す形になる。周囲の者達の態勢を立て直して名誉だと言葉を続ける。突破口を見つけたと思ったのだろう。
「名誉? 巫山戯た冗談は止めいただき たい。戦争とは政治的勝利を得る為の手段の一つに過ぎません。名誉など勝てるだけの戦力を掻き集めることも、方策を提示することもできなかった莫迦な指揮
官の言い訳ですよ。歴戦の猛者であるフルンツベルク閣下ならこの程度のことは御理解いただけていると確信しています。小官を侮辱しているのですか?」
トウカが多分に呆れを滲ませた声音で言うと、今度はフルンツベルクが言葉を詰まらせる。そして、莫迦な指揮官と暗に言われた他領邦軍の高官達は再び顔を赤に染めていた。
「歴史が証明する所によると、逃した機会は二度と戻らない」トウカが溜息と共に呟く。
つまりは機会を掴めなかった者の言葉に耳を貸すことは意味を成さないということであろう、とフルンツベルクは理解した。確かに既に過ぎたことであり、そ れに対する苦言など現実主義者であるトウカには何の痛痒も感じるものではないのかも知れない。事を成せなかった者の言葉など耳を貸すに値しないという姿勢
もマリアベルと似ているが、過去の事象や歴史を引き合いに出すこともあり、トウカの言い様は極めて反論し難いものであった。
「これは装甲姫の戦争です」
そう、マリアベルにとって北部貴族は内戦という状況を構成する要素でしかない。どの道、自身が孤立する事で北部貴族の連帯が強固になる以上、言葉を選ぶ必要すらなく、その事実すら認識できない者達を厚遇する程、マリアベルは温厚でも善性でもない。
フルンツベルクは、マリアベルと長い交友関係を持っているが、その複雑な在り様は嫌という程に理解していた。
「“我が”か……」
喧々赫々の論戦を続けるトウカ達を尻目に、フルンツベルクは最近のトウカとマリアベルのすれ違いについての噂が取沙汰されていたが、思いのほかトウカがマリアベルの立場を尊重しているであろうことに安心する。
装甲姫。
一連の戦闘終結後に、その機甲化率の高い軍勢を基幹戦力とした領邦軍を編成したマリアベルに冠された異名であり、それは圧倒的な速度で北部を駆け巡っ た。元より鋼鉄の意志を持つ女性として広く知られていた故に、装甲兵器を纏った姫君と称することに何ら違和感はなかったのだろう。
「装甲姫と異邦人か……」
二人の確かな協力が何を齎すのか。
フルンツベルクには分からない。
だが、かつてない程に可能性を感じさせる組み合わせでもある。
下らない論戦を続けるトウカ達を尻目に、フルンツベルクは静かに笑みを浮かべた。
歴史が証明する所によると、逃した機会は二度と戻らない。
《大独逸帝国》 宰相 オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン