第一〇一話 其々の舞踏会
吹き抜けの巨大な広間を、トウカは二階から静かに見下ろす。
近年では潤沢な資金力を背景にあらゆる建造物が並行して建造を進められており、北部地域全体では鉄道敷設や道路建設が盛んに進められている。無論、そこには労働を与えることで無為に過ごす者が密集するという潜在的な“脅威”を生じさせないという目的もあった。
舞踏会が行われている場所もそんな大規模公共事業計画の一環として建築された場所である。
アルフレア迎賓館は、ただ只管に壮麗な造りを体現していた。
北部全体の失業率を補う為、専門職の者達に叶う限りの凝った造りをせよ、とマリアベルが命じたことでも知られるだけあり、圧倒されるほどに華美で、自宅が古臭い武家屋敷でしかなかったトウカからすると気後れするものがある。
眼下には思い思いに相手を見つけては談笑する多数の貴族の姿があった。
この場には全ての北部貴族が集結しており、それはエルゼリア侯爵やシュトラハヴィッツ伯爵、マリアベルの連盟による成果である。北部貴族の重鎮であるマ リアベル達の名を無視できなかった者が集まったと言え、そのうちの一人の後ろ盾を持つトウカは爵位を持たないにも関わらず、対等の立場で会話ができる。
それは、ミユキにとっても悪いことではない。
龍の威を借る狐という訳ではないが、マリアベルは自領の一部を割譲する形で領地を与え、子爵位を得る為に複雑な手続きを行うことで天狐族が全面的に支援 しているという風評を演出した。この場の貴族達の多くにも未だ公式に発表されていないとはいえ、その可能性は察しているはずであり、天狐族の姫君であるこ とも相まって容易に手出しする者もいない。
「しかし、シュパンダウ地区まで寄越すとは……」
ヴェルテンベルク領の特殊軍需区画であるシュパンダウ地区は、先進技術開発を担うシュパンダウ社も本社と研究施設を置き、マリアベルの意図した兵器技術 開発の中枢を担っていた。シュパンダウ地区は島であり、シュトガルト湖上の島嶼を一つの領地としている為、シュットガルト湖を擁したヴェルテンベルク領の
中にある。故に防衛はヴェルテンベルク領に任せられる利点があり、治安維持の為の最低限の戦力があれば事足りるという長所がある。
トウカは黄金色の液体が入った硝子碗を片手に、貴族達に囲まれているセルアノを見下ろして溜息を吐く。
ヴェルテンベルク領は領土面積だけを見れば北部だけでなく、皇国最大の面積を持つ領地であるが、未だその多くが未開発であった。マリアベルが防衛戦での 要衝防衛を意図して、策源地となる都市をシュットガルト湖畔に集中させた事も大きい。北はエルネシア連峰に、東はシュットガルト湖に護られ、それ以外の大 地は湖畔や湿地、森林などが多く存在しており事実上の天然の要害となっていた。
重工業化に重きを置いた領地運営をしている為に工業用工水をシュットガルト湖に求め、エルネシア連峰の麓周辺から産出される鉄鋼資源や魔導資源の運搬に 大星洋へと続く運河を利用するという理由もあり、ヴェルテンベルク領がシュットガルト湖の湖畔から栄えたことは何ら不思議な事ではない。
だが、逆を言えばシュットガルト湖周辺以外は発展していないと言える。
――いや、逆に領民の生活圏を集中させることで守りやすくしたのか?
多分にあり得ることだと、トウカは息を呑む。
本来であればそのようなことは不可能で、領民に今まで住んでいた先祖伝来の土地を捨てさせて移住させるという手段は、根強い反発を生むことは想像に難くない。大日連本土でも堰堤を建造するために寒村を廃村にするだけで長い時間が掛かり、否、経済状態によって計画の中止と再開が繰り返す時間を踏まえれば十年以上掛かることとて少なくない。
――長命種が領主ならば、何百年単位で領地発展計画を継続できるということか。
恐らく何世代にも渡って職を求めて流出する若者をシュットガルト湖湖畔の都市で受け入れ続けることによって人口分布を徐々にシュトガルト湖に密集させ、 他の村や町を衰退させることで規模と人口を奪っていったのだ。長い時間を掛けて廃村に追い込んだのだろう。緩やかであれば短命な種族は時代の流れと錯覚す る。批判は最低限に抑えられる。
不意に大きな影が差す。
「おう、若造。難しい顔で唸っておると女が近寄らんぞ」
横に並び立ったフルンツベルクの言葉に、トウカは肩を竦める。
ミユキとの仲を知っている上での言葉である以上、本気ではないとトウカは受け止めた。武断的なフルンツベルクが男女の仲にまで本気で口を挟むようには見 えないという理由もある。逆にザムエルあたりは嬉々として口を挟んできそうなものだが、眼下を見て分かる通り貴族の御令嬢達に声を掛けることに忙しい様で トウカの事など忘れているに違いなかった。
二人は御令嬢達の間を生き生きと飛び回るザムエルを見下ろして苦笑する。
「小官に斯様な勇戦を期待なさりますか?」
「……すまん、俺が全面的に間違っておったようだ」
トウカの嫌味に、フルンツベルクは顔を顰めて謝罪する。ヴェルテンベルク領邦軍の恥を増やすことは、さしものフルンツベルクも躊躇うものがあるのだろう。無論、トウカとてミユキに睨まれるような行為を行う気は毛頭もなかった。
「しかし、随分な数です。多くの貴族はこの御時世に、自領から離れるを良しとするとは思えませんが」
前線での征伐軍の浸透や帝国軍侵攻の可能性が予想される中で、領地を離れたがる貴族はいない。いざ事があった場合、初動が遅れる可能性がある事もある が、何よりも天帝陛下から下賜された領地に対して貴族としての義務を全うしようとするならば、この時期にヴェルテンベルク領に訪れる事は有り得ない。親族 から名代を指名して出席させるだろう。現にそうしている貴族も少数だが存在する。
「ヴェルテンベルクの装甲部隊は蹶起軍の火消し役だ。今も浸透した征伐軍の軍狼兵を撃退しているのは、纏まった高機動戦力を持つ俺らだけだからな。……ふん、打算という訳だ」
〈傭兵師団〉の指揮官であり、古き良き近接戦闘を重んじるフルンツベルクからすると、戦車という兵器が戦争をしている状況が気に入らないのか、その表情が機嫌の悪い熊のように歪む。
「ヴェルテンベルクこそが北部の軍事の中心と言う訳ですか。それは宜しくありますね」
その様な強大な軍事力を有することに成功したマリアベルの手腕は称賛に値するものであるが、ヴェルテンベルクの資源産出量を考えれば不可能なことではない。無論、それを資金力にしているにしても各分野への投資は異常な規模であるが。
「おい、我らが領主様が出てきた……出てきてしまったぞ。何時にも増して気合いが入っとるではないか!」半ば自棄糞気味のフルンツベルク。
重厚な存在感を放つフルンツベルクが、たじろぐほどの存在感を放つマリアベルの佇まいにトウカも頬を引き攣らせる。
「随分と個性的な着物で……」
まるで年末の歌合戦の最後を締めるかのような出で立ちに、会場が一瞬であるが静まり返る。
着こなしは普段の娼婦の如きままであるが、その着物は山吹色の瑞龍が刺繍されたもので、その上から更に桜華の刺繍が散りばめられた丈の長い紫苑色を基調とした羽織を緩く肩に掛けている。豪奢な簪も相まって現実離れしてすらいた。
しかし、似合っていない訳ではなく、妖艶さと可憐さを併せ持った佇まいであり、手に酒瓶さえ引っ下げていなければ文句すらつけられない美しさがある。箱入りの印象がないだけに話し掛け安いものがあり、頼りになる年長の姫君という印象を受けた。
トウカは、この時に抱いた感情を一生、忘れないだろう。
「若造、顔が赤いぞ」
「……飲み過ぎたようです」
鋼鉄の平常心を以て、トウカは肩を竦める。
ミユキに知られてはならない上に、色眼鏡で見てしまえば冷静な判断を下せなくなる可能性がある。私情で政戦の判断を過つ訳にはいかない。
そんなやり取りをしている内に、舞踏会場の中央へと進み出たマリアベルが周囲に視線を巡らせて鷹揚に頷く。
「諸兄らと再び見えることができたことを妾は嬉しく思う。中には戦野で夫や妻子を、親族を喪った者もいるであろう。なれど郷土の為、領民の為、我らは尚も戦い往かねばならん!」
朗々と吟じられた言葉。
目新しさを感じない使い古された言葉であるが、それ故に多くの者の心を捉える。貴族たちの瞳には様々な感情が見て取れるが、そのいずれもが悍ましいまでの輝きに満ちていた。
舞踏会場の気温が上がった事も錯覚ではない。
マリアベルの言葉通り、貴族の義務や天帝陛下より下賜された領地を守護するという信念の下、領邦軍を率い、或いは領邦軍将兵として戦野で散ったものも少なくないからこそ、北部貴族の目的は結果から過程そのものへと摩り替りつつあるのかも知れなかった。
長命種としての高貴なる義務と肉親としての情は、決して取捨選択しなければならないものではない。そして、なまじ人間種よりも永く同じ時を過ごす事が可 能な長命種であればこそ情が深くも狂おしい。長く共に在れば情が深くなることは当然であり、その想いに引き摺られることは個人の範疇に於いて何ら不誠実な ことではなかった。
「闘争を! 我らの心を満たし得る闘争を妾は希求するッ!」
厳然としたマリアベルの言葉に、多くの者が“闘争を!”と雄々しく叫ぶその姿を、トウカは否定する気はない。
何故ならば、北部貴族が上に立つ者としての義務を果たしているからである。
自ら戦野に立ち、領民にその背を持って生き様を示し続けている北部貴族。或いは最善の政治とは言えない領地運営だったかも知れない。不便を感じる領地で あったかも知れない。なれど、全力で命を懸けて領地と領民に対する義務を果たそうとしている姿だけは紛れもない真実である。
健気に民を護り、導こうとしている指導者の姿を祖国で見ることは叶わなかった。
最善でなくとも、そうした行動を熱意を以て目指し続ける者達こそが民を良い方向に導く。故に、この場に水を差す心算などありはしなかった。
「北部の平穏の為とはいえ、妾らは後の世に外道の誹りを受ける事になるやもしれぬ。 だが! だがッ、其れでも未来に郷土の可能性を! 明日に希望を! 紡がねばならぬ!」
怒号とも歓声ともつかぬ大音声が舞踏会場を満たす。
狂気に至る一歩手前とも血気に逸っているとも取れるその姿に、トウカは曖昧な決意表明ばかりで貴族達をその気にさせる扇動家に見えた。
身振り手振りを交えて声を張り上げるその姿は正に独裁者。《第三帝国》の孤独な独裁者を彷彿させるが、麗しい者が多い長命種だけあって、その容姿は比較するべくもない。
檀上へと階段を歩みながらも、マリアベルが歓声を片手で制する。
壇上には初老の気弱そうな男性……エルゼリア侯爵に、タルヴィティエ侯爵、アイゼンヴェルト伯爵、ロートシルト子爵という北部貴族の中でも有力な貴族達 が並んでいた。皇国貴族は、爵位よりも成した偉業によって評価される傾向が強く、一概に高い爵位を持っているということが有力貴族であるということにはな
らない。新参のトウカでは軍の階級の様な単純明快な序列ではない貴族序列は覚える事など出来ていなかった。
「さて、ここで我らの新たな同胞を妾より紹介させてもらおうて」悪戯を思い付いたかのようなマリアベルの微笑。
再びざわめく貴族達。
北部貴族からすると、この劣勢となるであろうと予想される状況下で蹶起軍に合流しようという者が現れるとは蒼天の霹靂に他ならない。少なくとも表面上はそうなっている。
否、だからこそ信用できる。
陸海軍府長官の容認を受けて、極めて優勢な戦力を整えつつある征伐軍が謀略を行使する可能性は低く疑う者は少ない。そして、北部貴族に最も高く売り込む時期が今この時なのだ。この場で爵位を受け取るというだけで抜け目のない人物という印象を獲得できる。
マリアベルが壇上最奥へ、優美な動作を以て手のひらを巡らせる。
同時に、魔導による灯火が壇上の最奥を一際、強く浮かび上がらせた。
そこには紫苑色を纏いし、天狐の姫君が立っていた。
足元まで丈のある衣裳だが、その生地 は紫苑色に染色された神州国の南洲友禅を用いて作られており、金糸で舞い散る桜華を、銀糸でシュパンダウ地区の紋章が複雑に刺繍されている。上半身は袖の
袂が長く、礼装用の丸帯という事もあって、トウカの知る大振袖のような印象を受けるが、下半身は裾の波打っているような広がりのある形の長裳の様な様相を呈していた。晴れ着とは、その土地の伝統を端的に表すものでもあるが、ヴェルテンベルクの質実剛健にはそぐわない衣裳である事は一目瞭然であり、ミユキの為にマリアベルが誂えさせたであろうことは疑いない。
貴族達の興味深げな視線に対して、はにかむミユキの姿にトウカは口元を綻ばせる。
「可愛いなぁ、全く……」
貴族達も落ち着きなさげにしているミユキに好意的な笑みを向けている。自身の初めての舞踏会を思い出しているのかも知れない。若い男性貴族の中には不埒 な目で見ている者がいるように見受けられるが、まさかマリアベルの“お気に入り”に手を出すほど命知らずではないだろう。
「しかし、あの振袖でありながら、胸元が強調される衣裳は……けしからんですね」
「他の貴族の小娘といい、もう少し御淑やかにできんものか。見てみれば、かなりきわどい者もいるな、品がない。やはり女性は心身ともに慎ましやかであるに限る!」
腕を組み、仁王立ちしたままに深い溜息を吐くフルンツベルク。
口にしている言葉は危険極まりないが、その表情は果てしなく真剣であった。冗談として笑って流すべきか、或いは失言として聞かなかった事にするべきかと悩んだトウカは、沈黙を以て応じる。
野獣は幼女趣味なのかも知れない。
そんなトウカの戦慄を余所に、フルンツベルクは野性味溢れる深い笑み……子供であれば熊に相対した時の様に、荷物を置いてゆっくりと後ずさってゆくであろう笑みで、トウカの肩をばしばしと叩く。
「……今日ほど祖国の防ポ法が偉大だと思ったことはない」
遠い目をして祖国の偉大なる法律に思いを馳せるトウカ。
一見すると莫迦らしい法であっても、その有無で変わることは、助かることは確かにある。
皇国には幼女趣味に対する抑止力はないらしく、文明規模を考慮すれば当然と言えるが、逆に考えると現代病に近い幼女趣味を発病しているフルンツベルクは 意外と進んだ感性の持ち主であるかも知れない。無論、外見では年齢を判断できない者が多い皇国臣民に、そういった概念そのものが必要であるかと問われれ ば、トウカも即答はできないが。
野蛮人な見てくれが全てではない。
皇国は多様性を認め、重視する国家であり、覇権国家が多いこの世界に於いては珍しい事である。いずれは、副次文化が《大日連》のように異常な発達を遂げる土壌ができていると言えた。国民の感性も近いものがあり、周辺には文化的影響を及ぼしたであろう国家が複数ある。
「おい、若造。狐っ娘が手を振っておるぞ。返してやってはどうだ?」
その言葉にミユキへと視線を戻すと、両手をぶんぶんと振って仔狐が自己主張していた。貴族達はその行動に呆気に取られており、それを見たマリアベルは離れた位置で苦笑している。
その豪奢な衣装に似合わぬ行動は貴族としてはどうかというものであるが、ミユキが舞踏会での素養を身に着けているはずもない。その上、常に相手が誰であれ好き勝手振る舞うマリアベルのお気に入りであれば貴族が動揺する事もない。
無論、マリアベルという強力な後ろ盾が存在する以上、正面切ってミユキに文句を付ける者はいないであろうが、余り隙を見せる事は好ましくない。
トウカは、それに対して敬礼を以て応じる。
軍装である以上、不自然な動作ではなく、敬礼のままに一階へと続く階段をゆるりとした佇まいを以て下る。
舞踏会場に降り立ったトウカは、自然と注目を浴びる形になるが、様々な思惑の宿った視線を意に返す事もなく歩を進める。若い貴族達が気圧されたように道を開ける。
トウカが、佩刀している事に気付いたからであった。
通常、舞踏会で武装することは認められず、また、警備の兵士達も武器が持ち込まれない様に目を光らせている。しかし、主催者が認めた者だけは例外であ り、ある程度の武装が許された。これは主催者の身を警護する目的に加えて、忠誠に報いる形として、若しくは同格や上位の相手であると示す手段でもある。
トウカはマリアベルより佩刀を認められているのだ。
それはマリアベルが格別の信頼を置き、同時にその庇護下にある事を示していた。
この場に於いて佩刀……帯剣を許されているのは、主催者であるマリアベルと北部蹶起軍の指導者であるエルゼリア侯爵、クラナッハ戦線で著しい戦果を挙げた〈傭兵師団〉のフルンツベルク、有力貴族であるタルヴィティエ侯爵、アイゼンヴェルト伯爵、ロートシルト子爵である事を踏まえれば、トウカが注目されることは避けられない。
ちなみにザムエルも帯剣が許可されていたのだが、“得物を以て御令嬢方を口説けるものかよ。そもそも小官の下半身には、それはもう立派な一振りが帯剣しているからして不要だろう”とマリアベルに進言して、帯剣許可の代わりに拳骨を貰った。ロートシルト子爵が曲剣を杖代わりにしている事からも分る通り、佩刀や帯剣に権威以上の意味はないので、ザムエルには無用の長物と言えなくもない。
トウカは檀上へと進み、でマリアベルと並び立ったミユキに対して、微笑と共に片膝を床に突き、右手を自らの心臓へと這わす。
「格別の御配慮をいただき恐縮です、ロンメル子爵。喉が渇いておられるでしょう。果実酒などを御用意させましょう」
「むぅぅ、そんな畏まらなくても良いじゃないですか、意地悪です。それと、お酒は今も戦っている兵士さん達に悪いです」
トウカの礼を遜ったと取ったミユキが頬を膨らませるが、この時ばかりは仕方がないと諦めて、トウカがゆっくりと差し出した手を掴む。
恐らく、マリアベルはミユキがトウカを壇上へと引き摺りだすことを予想していた。ミユキの紹介と共に自身の御披露目も意図しているのだろう、とトウカは当たりを付けていた。気後れすることもなく、早々に壇上へと降り立った理由はそこにある。
トウカは立ち上がり、内幕の影に待機していた老執事に頷く。
「北の烈士は、麗しき乙女が果実の雫で喉を潤すことに異を唱える程に狭量でも脆弱でもありません。寧ろ、乙女が自らの為に不遇を強いられることを良しとはしないでしょう」
戻ってきた老執事から、淡い色合いの果実酒が注がれた硝子碗を手に取り、ミユキへと手渡したトウカは、もう一つの硝子杯を手に取る。
「乾杯(Prosit)」
そして、二人の硝子杯が軽やかな音を立てて接触する。
「えへへ、私、本当の御姫様になっちゃいましたよ?」
「喜んでいただけると身体を張った甲斐があります」
硝子碗を片手に微笑む二人。
一気に煽るトウカに対して、ミユキは一口だけ口に含む。天狐族の里で酔いどれ状態の醜態を晒してしまったことが、ミユキを酒精に対して奥手にさせていた。対するトウカは戦線を戦略面から支え、ヘルミーネの妄想……奇想兵器の開発の巻き添えを受け、その上、マリアベルの思惑に思考を巡らせねばならないことから酒精摂取量は格段に増えている。
若い貴族から、トウカの飲みっぷりに対して小さな歓声が飛ぶ。
トウカは注目されているこの状況を利用しようと決意する。硝子碗を受け取っているマリアベルを筆頭とする有力貴族を始めとして、北部貴族の多くがこの場に集っており、トウカの立場を明確にするには絶好の場であった。
トウカは、不意に手にしていた空の硝子杯を離す。
それは、重力に従い、壇上の床へと吸い寄せられて小気味良い音と共に砕け散る。
今一度、舞踏会場で注目を一身に受けるトウカ。
壇上に散らばった硝子の破片を気にも留めず、片膝を突き家臣の礼を取る。
「……臣、トウカ・サクラギは、此より、ロンメル子爵領領主ミユキ殿に奉公仕る誉れをいただきたく御座います」
「え、えっと……差し許しちゃいます?」ミユキは首を傾げつつも了承する。
貴族達がざわめく。壇上の有力貴族も顔を見合わせた。
この意味は大きい。
軍事的成果を上げたトウカは注目されているが、マリアベルの庇護下にあると認識されており、今まで他貴族の接触を受ける事はなかった。
だが、名目上とは言え、ミユキの配下にトウカが加わるとこの場で宣言した場合、状況が変わる可能性がある。ミユキに与えられた領地はヴェルテンベルクの内 部にあり、完全に依存する形であることから、ミユキ自身もマリアベルの庇護下にあるが、仕える主君を変えたという事実は権威主義国にあっては額面以上の意 味を持つ。
ミユキが照れながら差し出した手を、トウカは手に取って立ち上がる。
誰が為に戦うか。明確にせねばならない。
マリアベルに対する状況を掻き乱す一手であるが、それ以上に、これからはより明確にミユキの為に戦うという決意表明でもある。
室内にも関わらず、身に纏った軍用長外套を翻し、トウカは壇上より貴族達を見下ろす。
そして、ミユキの腰に手を回して抱き寄せると、今一度宣言する。
「ミユキ・リル・フォン・シュットガルト=ロンメルの御世に繁栄と幸福があらんことを!」
不敬を承知での行いだが、二人の仲を公私ともに明確にしたいという思惑もあった。
引きはしない。手出しをすれば、報復する。
トウカに、これ以上の妥協は有り得なかった。
「私はエーレンベルク辺境伯令嬢、リンデルロット。貴殿の御名前は?」
長い金色の長髪に碧眼。そして、淡い色の舞踏会衣裳に身を包んだ年頃の少女から硝子碗を受け取るトウカ。名乗られて無言を貫くのは失礼だと相対するが……隣で狐耳を小さく揺らして警戒しているミユキが表情を硬くしているので、あまり社交辞令であっても美貌を褒めることは避けたい。
ミユキの御披露目が終わり、各自が他家の貴族との懇親を深めている中、トウカは幾度目かになる呼び止める声に笑みで応じる。
トウカを呼び止める相手は全員が女性であり、しかも美人や妖艶な、という言葉の付くような人物ばかりである。あからさまな、如何にも男性受けが良さそうな女性達の攻勢にトウカは胸中で苦笑する。
どう考えても、“そうした理由”を考慮してのことである。
少なくとも、食い付いてくるということは、トウカやミユキに意味を見い出したということであり、声を掛けてくる女性達の背後にいるであろう者達も、トウ カから抱き込むだけの価値があると判断しているか、或いはマリアベルとの現在の関係がどの様なことになっているか探ろうとしているのだ。無論、次期当主と
なる長女などではなく、次女や三女をぶつけてくる辺りが、如何にも小手調べてあるということを窺わせる。
「サクラギ・トウカです。ヴェルテンベルク領邦軍艦隊、代将を拝命していましたが……これからどうなるかは分かりません」トウカは苦笑を以て呟く。
貴族となったミユキの家臣となるという宣言に舞踏会場は沸いた。それは、マリアベルの庇護を受けて貴族となったに過ぎないミユキに、新進気鋭の若手将校 が家臣として下るという珍事ゆえである。マリアベルの引き攣った顔は舞踏会場の誰しもが目撃しており、その珍事がマリアベルの意図するところでないことを
白日の下に晒したこともあり、ミユキを抱き込めばトウカも付いてくるという構図を理解したはずであった。
ミユキの重要度は否応なく高まりつつある。
元より、皇国建国にも政略面から多大なる貢献をした天狐族だが、長きに渡り隠れ里に引き籠り続け、それ以降、皇国の歴史上に姿を現すことはなった。極稀 に街中で目撃することはできるが、それはあくまでも生活必需品などの買い付け程度で、詰まるところ天狐族ほど不明瞭で不鮮明な種族はいない。
だが、初代天帝の下、建国に手を貸した事実は揺らぎようもなく、それが子爵位を手にして北部で領地を拝領するという事実が、翌日より皇国の朝野を駆け巡 ることは間違いない。皇国で爵位の拝命は当代天帝によって命ぜられるものであり、不在である今は、本来、騎士位などが限界であり、実質的には不可能であ
る。天帝の認可と皇城府儀典局による登録も行われていないので、皇国貴族として正当に認められることは難しい。
しかし、宣言することで建国に関わった種族の姫君が、蹶起軍に加わったという知らしめることはできる。
元より、天狐族は初代天帝だけでなく、幾人かの歴代天帝からも貴族としてその治政を助けて欲しいと依頼を受けている。もし蹶起軍が敗北してもミユキを罰することは難しく、寧ろ不安定化した国情の安定化を図る為に中央貴族は利用しようと試みるはずである。
よって、ミユキの立場を不鮮明にし続けた場合のほうが不利益が大きいとトウカは判断した。あらゆる意味で旗色を明確にしないことは不利益に繋がる。戦乱の時代、風見鶏であることは信頼を得られないことと同義である。
――さて、ミユキの御母堂がなんと言うか。
もし、何かあれば協力するという文言は得ていたが、まさか娘を貴族にしたから影で支えてやって欲しいと言われるとは予想だにしていないはずである。治政 に関わり続けることを忌避し続けていた天狐族が協力してくれるか否かはトウカにも判断が付かないでいた。一晩で考えた政略である。
ミユキから危険を遠ざけつつも、他者の干渉を防ぐ為にトウカも必死であった。
――いや、セリカさんがロンメル子爵家の領邦軍司令官となることを明確にしつつ、統合された蹶起軍の最高指揮官に“出向”するという筋書きならば蹶起軍内での一定の発言権は確保できるはず。
この舞踏会が分岐点となる。
後には、ベルセリカの顔見せと、蹶起軍の軍事面での統合宣言が行われる。
そこで、ある程度の影響力を残したいトウカとしては、あらゆる手段でロンメル子爵家の権威を高めなければならなかった。
最早、マリアベルは信頼の置ける同胞ではなく、利害の一致した協力相手に過ぎないのだから。