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第一〇三話    シュトラハヴィッツ伯爵家

 




 漆黒の第一種軍装の襟を正しながら、トウカは壁際へと避難する。

 ミユキは例え相手が初見であっても言葉を交わして笑顔にできるが、トウカはそうした不特定多数の人間に対して敬愛と笑顔を振り撒くという器用な真似を続けることに苦痛を感じる性格であった。

「全く……宣言と関係を深めることだけに、ここまで資金を投じるとは」

「貴族は見栄を張らないといけない生物」

 横に視線を落とすと、ヘルミーネが肉類の料理が並々と盛られた盛り皿を手にして立っていた。喧騒の中とはいえ接近に気付けなかったトウカは、最近弛んでいるとひっそり肩を落とす。

「空腹か?」

 この複数の目的が合流した舞踏会が開かれる前、焼き菓子を頬張っているところを目撃したトウカは、今のヘルミーネがとても盛り皿に乗った量の肉類を胃に収めることができるとは思えなかった。

「むっ、あげない」

「いや、いらんぞ……というより野菜を食べろ」

 見たところヘルミーネの盛り皿には、胸焼けしそうなほ程の肉類以外には何も乗っていない。性格や恋愛は兎も角として、食事に関しては限りなく肉食であるという新事実に、トウカは呆れるしかなかった。

「狼は野菜を食べない」薄い胸を全力で張るヘルミーネ。

「相変わらずの無表情で言われても誤魔化さないがな。狐も虎も龍も食べているのに狼が食べられない訳がないだろう」

 ちなみに同じ狼種のベルセリカも普通に野菜を齧っている。

 如何なる種族も基本はヒトという生物であり、それを元に他生物の因子を組み込まれたに過ぎないというトウカの推論が正しいとするならば、何ら不自然なこ とではない。他生物の因子の影響を受けてヒトよりも劣る点が生じているならば、改良改修の上で“量産”が成されるはずである。

 無論、トウカにも他種族については理解の及ばないところが圧倒的に多い。

 その最たるものが転化である。

 ――仔狐の姿のミユキと狐娘の際のミユキは、明らかに体積に齟齬が生じている。義父上(シラヌイ)もそうだった。

 そう、トウカの世界では当然であった質量保存の法則を無視しているのだ。

 魔術的な力が作用しているのかとトウカは疑ったが、転化後の変化などこの世界に於いては地平線に沈んだ太陽が翌日には再び昇るという事象と同列な程に当 然のことであるらしく、疑問に思う者は少なかった。その様な状況下で、そんな疑問に立ち向かおうとする者などいるはずもなく、この世界には神々が実在する 上、魔界や冥界、神界などの観測にも成功している。旧文明時代には交流が行われていたと断ずる考古学者すら存在した。

「もしや、ヘルの胃にその答えがあるかも知れない。解剖していいか?」

 ヘルミーネの胃が質量や体積の問題を超越しているのならば、盛り皿から次々と消えていく肉類への神秘が解けるかも知れない。転化の現象と同様であれば、そこから関連性を見いだして理論付けしていくことも不可能ではない。

「変態」そう言って、空になった盛り皿で己の胸元を隠すヘルミーネ。勿論、無表情であり恥じらいは一切感じられない。

「中々に余裕なようで何よりだ。俺は舞踏会は初めてなので緊張したのだが」

「緊張している人がロンメル子爵の腰を抱いて蹶起軍の盟主と談笑するはずがない」

 僅かな呆れを含んだその声音に、トウカは自らの振る舞いが思った通りに注目を集めていた様子で安心した。

「美しい御嬢さんに注目されるのは悪い気がしないが」

「皆、珍獣に目が行く」ヘルミーネが小さな冷笑と共に呟く。

 果たして、それが自身であるのか、ミユキであるのか、トウカに尋ねる勇気はなかった。

 その言葉は当て外れたものではなく、そうした側面があることをトウカは重々承知していたが、面と向かって指摘されてしまうと厳しいものがある。

 二人は、舞踏会場の露天席(テラス)に設置された休憩席に向かって歩く。

 舞踏会場とは対照的な落ち着いた造りのテラスに、それに似合った簡素な(テーブル)応接椅子(ソファー)、そして芸術的に盛り付けられた果実の皿。果実酒も氷水で満たされた冷却桶(ワインクーラー)に差し込まれており、硝子杯(グラス)や人を呼ぶための呼び鈴もなども置かれている。喧騒が苦手な者や、喧騒に疲労を感じた者の為に用意されているのだ。

 トウカは応接椅子(ソファー)へと腰を下ろす。

 最低限の顔見せと挨拶回り……静かなる牽制は既に終えているので、トウカに最早することはない。情報収集をしようかと考えたが、老獪な貴族当主が容易く 情報を漏らすはずもなく、その師弟も重要な情報を持っているようには思えない。そもそも舞踏会場で大人気のリシアから後で目ぼしい情報を聞けば事足りる。

 叶うならば、ミユキをテラスに連れ込んで静かな一時を二人で過ごしたいとも考えたが、今晩の主役の一人であるミユキを連れ出すわけにもいかないと自重した。

 ヘルミーネもトウカの後に続いて座る。

「……何故、俺の膝の上に座る、御前は」

 そう、トウカの膝にヘルミーネは座ったのだ。

神州国で紡がれた織物で誂えられたヘルミーネの衣裳は、マリアベルなどと同様に着物に近い造りであったが、黒で統一された色合いに、金糸で狼が刺繍された腰帯、そして淡い白の肩掛け(ストール)が緩やかな夜風にはためいている。上半身が和装を元としている点とは対照的に、下半身は洋装の朝顔形に開いた長裳(スカート)の様な広がりを見せている。それは漆黒の天女を思わせる佇まいをヘルミーネに纏わせていた。無表情でなければ、若い貴族が放ってはおかなかったことは疑いない。

 無論、ある種の幼さを垣間見せるヘルミーネの感触に、緊張はすれども取り乱すことはなかった。

 トウカは、黙ってヘルミーネの頭を撫でる。狼耳の感触も悪くない。

 傍目から見れば兄妹にも見える光景に、目にした貴族などから暖かい視線が向けられるものの、トウカは努めて無視する。

 撫でる度、尻尾の揺れが大きくなるところを見るに、悪い気はしないのか、ヘルミーネは小さく唸っている。

 しかし、よく食べた為か、ヘルミーネはうとうととし始める。自由気儘に食べて、思うがままに睡眠を取るという奔放ぶりは、流石、狼という他ない。

「寝るなら横になりなさい」

「……がうがう」

 返事?をしたヘルミーネだが、今一度、立ち上がると、トウカの太腿に頭からの急降下爆撃を敢行する。慌てて避けるトウカ。男の急所に無邪気な一撃が見舞われるという悲劇は画して事前に回避された。

 だが、自身の膝枕ですやすやと無邪気な表情で眠りに就いたヘルミーネを起こす気にもなれず黙って頭を撫でてやる。

 ヘルミーネは技術士官として複数の軍需企業の間を飛び回っており、連日の研究開発が負担を強いていることは間違いなく、それを指示した当人であるトウカ は睡眠を妨げる事を良しとはしなかった。ヘルミーネによって設計された兵器こそが、この連戦に於ける最大の原動力であること踏まえれば、トウカとしても膝 枕になることは吝かではない。

 ――ヘルがいなければ、中戦車の改修もこれほどには早く進まなかった。

 確かに製造工廠の増設や新規開発の重戦車、兵員輸送車などは実戦配備に早くとも半年から一年以上の時を置かねばならないと判断されている。それでも特筆すべき速度であり、ヘルミーネの技術能力以前に建造速度や迅速な人員手配を理由にしたところも大きい。

 出来の悪い三文小説の様に、いつの間にか設計と開発、生産が済めば翌日には前線で八面六臂の大活躍であろうが、現実としてそれは有り得ない。

 新型戦車が前線に現れるまでの工程を考えればよく分かる。

 設計や開発の方向性は、時代と共に刻一刻と変化し、試作を繰り返し、運用面での不具合や不要物を削り、運用と量産、費用対効果の板挟みに直面しながら最 終試験にまで辿り着く。だが、それ以降も完成後も戦場での運用試験は必要となり、量産後も戦車兵に対する慣熟期間が必要となる。新規兵器に限っては今まで 規格になかった部品や兵器を搭載している為に輜重面での混乱が予想され、その上、前線までは履帯の負担や移動速度を考慮して鉄道輸送が推奨されるであろう ことは疑いない。大雑把に見ても兵器が製造すれば動くというものではないことが良く分かる。内燃機関と違い、空気中の魔力を使う魔導機関であるが故に、燃 料問題がほぼ解決しているとはいえ、製造後の維持は容易なものではない。

 量産する場合は製造工程(ライン)が入る工廠を 建設し、各種専用の工作機械を納入させて、それを扱う工員の手配に育成。場合によっては工員の住居や慰安施設も併設し、それを建設する為の予算や人員を別 で計上しなければならない。無論、それらへの予算配分や計画だけでなく、進むにつれて増大するであろう消耗品と不備改善、突発的な出費、部署間の調整など を行う経理や事務員なども別で用意せねばならなかった。

 大規模な企画が立ち上がり、多数の人員が動員されるということは、それだけで莫大な労力と資金、資源が動き、その利益と損失に合わせて軍官民の間でも駆け引きや打算が飛び交う。それを制して量産を続ける事は並大抵のことではない。

 無論、マリアベルに刃向う者がいないという理由も大きいが、ヘルミーネ卓越した開発速度も大きく貢献している。トウカはあくまでも基幹技術の提案しかできないので、それらを良く理解して形に出来るヘルミーネという存在は間違いなく北部の軍事の一翼を担っていると言えた。

「ヘルはよく頑張ってくれている……」

 再度、ヘルミーネの流れるような黒髪を撫で付ける。

 努力しているのはヘルミーネだけでなく、北部各地の開発施設で、今この時も汗水を流しながら指示を飛ばし、寝食も忘れて図面を引いている技術者の存在も欠かせない。そして、それらが形にした兵器を軍需工廠で生産している動員された工員たちもまた同様であった。

 不特定多数の努力と汗、そして、血涙によって、このヴェルテンベルク、否、北部を護る刃は刻一刻と鍛え続けられている。

 そして、その刃を行使するはトウカら軍人。

 幾多の思いの結晶として生み出された兵器の数々。決して無駄にはできない。

「負けられないな……銃後で其々の戦いを続けている者達の為にも」

「なに、当たりまえのことを言ってるの? 敬語は使わないわよ。貴方はもうヴェルテンベルクの軍人ではないようだから」

 その声に視線を巡らせると、窓枠に背を預けた紫苑色の髪の少女が、皮肉げに口元を歪めて肩を竦めていた。

「リシアか……そうだな、今の俺はただの異邦人。そして、貴官は奇蹟を起こした英雄の一人。寧ろ、敵の旗頭の一つを圧し折り、携えて帰ってきたことを考えれば、貴女の戦果は比類なきものだろう」

 作戦立案者であるとトウカは知られており、それは事実であるが当人はベルゲン強襲が失敗だと考えていた。作戦主目標はアリアベルの捕殺であり、征伐軍司 令部の撃破はあくまでも副次目標に過ぎず、クラナッハ戦線突破もベルゲン強襲を実施する為の事前攻撃でしかなかった。確かに敵策源地を攻撃して敵総司令部 を壊滅状態にまで追い込んだことによる軍事的、政治的混乱という点では大きかったかも知れない。

 しかし、彼我の戦力差が大きく変化した訳ではない。

 全戦線でのなし崩しでの総力戦は中盤までは蹶起軍が火力で大きく優越していた為に優勢であったものの、後半になると加速度的に消費された弾火薬の補充が 間に合わなかった。その結果、皇国陸軍伝統の装虎兵や軍狼兵による突撃を許し、大被害を蒙った上で後退することとなった。

 唯一、再編成不可能なまでに相対した敵兵力を漸減できたのは、敵の戦線の一部を包囲下に置いて壊滅状態に追い込んだフルンツベルク隷下の〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉だけであった。

 ――何が、此方も敵を拘束し続けてやろう。若造共は存分に暴れてこい、だ。

 トウカは、二階席で貴族の歓談など知ったことではない、と白麦酒(ヴァイツェン)を胃に流し込んでいるフルンツベルクを見上げて舌打ちする。

 後になって知った事であるが、マリアベルはトウカが立案したベルゲン強襲とは別の作戦をフルンツベルク隷下の戦力と、アンゼリカ隷下の戦力、保有する全航空戦力を以て実行したのだ。


 ゲフェングニス(gefangnis)作戦。


 牢獄の名を冠した作戦はクラナッハ戦線に展開する征伐軍三個歩兵師団の撃滅と、保有する全航空戦力による征伐軍全戦線に展開する砲兵戦力と魔導戦力に対する空襲が主であった。

 端的に言えば、混乱を助長させつつも敵の反撃を誘発し、戦火と戦果を拡大するというものであった。実情としては友軍の混乱を余所に激しい戦闘によって慌 ただしさを増し、上空から視認できるようになった敵輜重線や物資集積所を次々と空襲するという他の貴族が聞けば噴飯ものの作戦である。

 喪われつつあるとはいえ、征伐軍も前線への輜重を途絶えさせるわけにはいかないと、戦闘前には隠蔽されていた物資集積所や、前線で戦う征伐軍部隊への輜重を怠らず活発に動き、空襲の最中も輜重を継続することになった。

 だが、それすらもマリアベルの目論見の範疇であった。

 征伐軍の長距離攻撃手段である砲兵戦力と魔導戦力、そして物資損耗をマリアベルは狙ったのだ。

 トウカは戦闘団が前線突破後に背後を突かれないよう、フルンツベルクにクラナッハ戦線に展開する二個歩兵師団の拘束を依頼していた。

 急激な友軍の被害の増大と、蹶起軍の圧力を押し返すことを目的として投入されたであろう機動師団だが、トウカはそれらがクラナッハ戦線に到着する前の段 階での突破と離脱を目論んでいた。しかし、マリアベルがトウカの限定的突破を大攻勢にすり替えた為、蹶起軍も過剰に反応した結果、早期に機動師団を投入 し、予想よりも極めて早い段階でクラナッハ戦線に姿を現す。

 マリアベルのゲフェングニス作戦によって綻びが生じた。

 これにトウカは激怒した。

 だからこそリシアに銃口を突き付けたのだ。一歩間違えば、捨石とされる可能性すらあった。

 蹶起軍総司令官のエルゼリア侯が戦線毎に展開する各領邦軍に、その指揮権を認めている為、マリアベルの作戦は合法的なものであり名声は鰻登りである。無 論、戦闘に巻き込まれた各領邦軍は、事前連絡くらいはして欲しいと口にはするものの、手厚い航空支援や火砲と弾火薬を無償で拠出したマリアベルを面と向 かって否定することはない。足並みを揃えての段階的な後退という選択肢しか取れなかった各領邦軍にとって、一時的とはいえど征伐軍に大被害を与えたという 事実は大きい。声高に否定できるはずもなかった。精々が、トウカに皮肉をぶつける程度である。

 マリアベルは腹立たしい程に上手く立ち回っている。

「ちょっと怒らないでよ……別に本気じゃないわよ。何なら私がマリア様との仲を取り持ってあげるから、ね」

「結構だ。誰かを間に挟んだところで、それは問題の先送りにしかならない」ヘルミーネの頭を撫でながら小さく嗤う。

 トウカは間に誰かを挟んで関係を継続することを望まないし、そうした関係を信用しない。それは、マリアベルも同様なはずであり、自らと類似した性質を持つ女性であるからこそ胸中に渦巻く想いと願いは理解できる。

 トウカは、自身を信用しない。だから、マリアベルも信頼しない。極めて簡単な論法である。

 歴史的事象に対する照らし合わせや技術躍進による自身の手段の補強などは、裏を返せば己の能力と決断を病的なまでに信じていないことの反動と言えた。マ リアベルも己の才覚の限界を感じているからこその軍備拡充であり、領地拡大であったはずで、トウカを陣営に招聘したのもその一環であったに過ぎない。

「近い内に決着は付く……結果如何(いかん)に関わらず、な。貴様は黙って見ていろ」舌打ちと共に、トウカは呟く。

 静かなる狂気と、凛冽なる意志を纏う瞳が、リシアを見据える。

「……そう、そうなのね。……なら、二人が手を携えられるように祈っているわ」

 二人の問題が自身が間に入ったこと程度で解決し得る問題ではないと判断したのか、リシアは溜息と共に引き下がる。

 喧嘩した相手と直ぐに仲直りしない子供を見るかのような視線を向けて溜息を吐く姿は甚だ癪に障るが、ヴェルテンベルク領邦軍艦隊帰還後から、この舞踏会 が始まるまで互いに避け合っていたこともまた事実である。無論、周囲では不仲説が囁かれるが、それに対して当人たちに苦言を呈する者はいない。しかし、マ リアベルに政敵が多いことから危惧する者は多く、現状でトウカが排斥されないのは天狐族の姫君であるミユキがその背後にいるからであった。

 話題が宜しくないと見て取ったのか、リシアは話題を逸らす。

「それより私の衣裳(ドレス)はどう?」その場でくるりと一回転したリシア。

 可愛げのある縁襞(フリル)が全体に付いた純白の長衣裳(ロングドレス)が、風を孕んで軽やかに宙を舞う。花嫁の衣裳とも取れるそれを、出来得る限り深く考えないようにしていたトウカだが、感想を求められて如何したものかと口を噤む。

「何よ、その苦々しい顔はッ! アナタが選んだ衣裳でしょ!」

「……ああ、そうだったな。まぁ、似合っているぞ」

「まぁ、って何よ! まぁ、って!」

 まさかマリアベルとは違った方向性で舞踏会の場で浮いているとは言えない。

 主役が自分だと勘違いしている痛い女性という評価を頂戴するのではないかという懸念はあったが、ヴェルテンベルク領から参加している者は一様に衣裳が派 手なので、リシアだけが必要以上に目立つわけではなかった。マリアベルが年末の歌合戦の最後を飾れるくらいの衣裳であることを考えれば、純白の長衣裳(ロングドレス)程度では驚くに値しない。

「なによ、その胡散臭い顔は?」

「……気に入らないなら御前の敬愛するマリアベル御姉様みたいに(かぶ)いた衣裳に変えて来てもいいぞ? まぁ、なんだ……無理はするな」

 トウカは、隣に座ったリシアの肩を優しく叩く。その目は慈愛に満ちていた。

「ちょっと! 貴方が選んだ服じゃない!? なんでそんな評価なのよッ!?」

 激昂したリシアが、トウカの頬を抓る。

 トウカが曖昧な立場であり上官ではなくなった為か、そこに容赦はない。リシアとしては、ヴェルテンベルク領邦軍からトウカが去ることによって邂逅することが難しくなるのではないかという不安を抱いているのだが、トウカがその様な想いを知るはずもなかった。

「あぁ、そうか。花嫁みたいで良いと思う。俺も女を娶る時は、そんな服を用意してやりたいものだ」

 その時、己が立場的にも金銭的にも、それだけの甲斐性を持っているかは分からない。ただ、伴侶を迎えた際に心身共に苦労させないだけの社会的地位と資金 は、手にしているべきだという考えはトウカにもあった。現状では貴族となったミユキに背負って貰っている形になってしまっているが、その状態に甘んじるこ とは、ミユキの信頼と期待を損なうことになるので妥協する気はない。

「そう……花嫁……。悪くないわ……」

「???」

 緩んだ表情のリシアというのも珍しいので、トウカは口を挟まずに黙って見守る。

 気難しげな顔と怒った顔が多いリシアの時折見せる笑顔というのは、中々に破壊力があるとヴェルテンベルク領邦軍では目下のところ噂されているが、トウカは嘘ではなかったと知った。

「何時もそうして笑っていれば男なんて漁り放題だろうに」

「……うっさいわね。私は一途なの!」

 次は鼻を摘ままれたトウカは、鼻を鳴らそうとしたが、当然ながら失敗する。

 〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉がベルゲン強襲を終え帰還するまでの道中、リシアは就寝時に小さく震えていた。優秀な将校だが、同時に年頃の少女でもある リシアは、これほどに大規模な戦闘、それも連戦は初めてであったことを考えるとそうなるのも不思議ではない。それが寒さからくるものではないと判断したト ウカは、黙ってその手を握り締めてやるしかできなかった。それで震えが収まり無邪気な表情で安らいで眠りにつくのならば安いものだとトウカは割り切ってい たのだが、それで軍人としての枷まで外れてしまったのか、トウカに対して花の咲く様な笑みを見せるのだ。

 これにはトウカも戸惑った。

 囃し立てる士官と下士官の頭を片端から叩きつつも、それに対して深く考えることはしなかった。戦場では誰しもが想いを昂らせて一時の感情に身を任せることがあり、一過性のものに過ぎないならば時を置けば元に戻るとトウカは判断していた。

 だが、リシアはトウカの唇を貪り、愛しい人と口にした。

 トウカは、現在それを無かったこととして扱っている。

 戦野に共に身を置いたことによる気の迷いであるという判断もあるが、リシアがその言葉に対して一切の答えを求めず、まるで無かったかのように振る舞っていることから、それに関しては一切考えないようにしていた。

「まぁ、貴女の中で区切りが付いているなら何も言わないが」トウカは、そう嘆息する。

 何かしらの考えを以て一歩引いているならば、トウカが一歩踏み込む必要はない。戦争以外で、そうまで積極的になる必要ないのだ。強いて言うなれば、例外はミユキだけである。

「……なら、不確定要素を今一度、確認しておこうかしらね……こそこそするのも好みじゃないしね」

 リシアが、純白の長衣裳(ロングドレス)の裾を翻して立ち上がる。

 首を傾げながら、その後ろ姿を眺める。

 思うところがあるのか、何かしらの思惑を抱いた表情のリシアを計りかねたトウカだが、リシアという少女が不確定要素を放置できるような性格ではないことは理解していた。そして、公明正大であることもまた同様である。

 相変わらず眠りに落ちたままのヘルミーネの頭を撫で、思案する。

 考えねばならないことは多い。

 素早く、ゲフェングニス作戦に於いて、自身に不利益を齎すであろう事象を洗い出す。

 ――問題はシュトラハヴィッツ領邦軍に助力を要請したことか。

 勝ち戦の主翼を担ったとはいえ、シュトラハヴィッツ領邦軍が明確に支援したという事実は、マリアベルの独断行動であるという側面を大きく薄れさせて、大 多数の貴族にゲフェングニス作戦の成果を受け入れやすくさせていた。実際はアンゼリカが言い包められただけであり、シュトラハヴィッツ領邦軍も巻き込まれ たにすぎないが、勝因の一翼を担ったという事実が転がり込んできた為、沈黙を護り暗に元より協力していたのだという姿勢に表面上は見せかけている。シュト ラハヴィッツ伯爵家は身の振り方に長けていると言えた。

 これからヴェルテンベルク領とシュトラハヴィッツ領は急速に関係を深めることになるかも知れない。ヴェルテンベルク領邦軍の有する軍事力と、その経済力が改めて実証され、それが最大限に活躍する内戦という事態に在っては抗い難い魅力となる。

 だが、トウカからすると大問題であった。

 ベルセリカの生家であるという点が、トウカを不安にさせる。

 ベルセリカの騎士道と忠義を疑う訳ではないが、比類なき戦功を何百年も前から積み上げ続けているベルセリカを、シュトラハヴィッツ伯爵家の当主として迎 え入れる可能性は少なくない。有力貴族の一つであるシュトラハヴィッツ伯爵家が、ベルセリカの蹶起軍総司令官就任を率先して容認したことを踏まえれば十分 に有り得た。

 ベルセリカの胸の内を一度、聞かねばならない。

 借りを作ったと判断していれば、それはベルセリカを取り戻す為の手段として利用される可能性があった。否、それを意図して借りを作ったのかも知れない。 尤も、マリアベルのことなので、発展を手助けしてやったことを忘れたか、や、妾の兵器で戦こうておるくせに生意気な、と恩に着させられても突っ撥ねる可能 性も少なくない。マリアベルは、相手の条件を無条件で飲むことを妥協や敗北と捉えている節がある。

 トウカは、やれやれと溜息を吐く。

「失礼ながら、貴官がサクラギ殿か?」

 そんな時、トウカを呼び止める男性の声が響く。

 それは、新たなる勇将との出会いであった。

 

 

 

 

 

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