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第一〇八話    気高くも可憐



「全く……如何してこうなったのか」

 トウカは頭を掻くと苦笑する。

 ミユキのことを考えれば今の状況が裏切りであると重々承知しているが、それでも悪い気はしなかった。やはり自分はヒトとしてどこかおかしいのかも知れないと喉を鳴らす。

 隣で寝返りを打ったマリアベルの髪を右手で撫で付ける。

 その寝顔は無邪気でありながら愛らしい。何時もの得意げな、人を食ったような表情ではなく、緩やかな微笑を湛えたまま、静かに寝息を立てている。常に周 囲を疑っていれば、気が休まるはずもなく、酒をよく飲んでいるのは、そうした周囲の雑音から逃げる為だったのかも知れない。マリアベルにとって、周囲の囁 きですら暗殺の予兆であると感じられたということもあり得る。

 孤独だった幼少期。そして母を喪い、それが暗殺であると判断したマリアベルは悲しみにくれる暇もなく自存自衛の為に行動しなければならなかった。マリアベルは優秀であったが故に、母の死に疑いを抱き、悲観に暮れるままであることが赦されなかったのだ。

 生き残る為に、最善を尽くした。その結果として、厳格にして強力無比な統制力を持つ装甲姫が誕生する。

 ヴェルテンベルク領や蹶起軍にとっては、それは良いことだっただろう。マリアベルが早い段階で推奨した重工業化と商船建造は、衰退する北部にあって外貨 を入手する最大の手段であり、それにより整えた軍備が北部の治安を維持している。それが無ければ蹶起軍結成による政府と中央貴族に対する異議申し立てでは なく、致命的なまでに悪化した状況下での叛乱による独立運動であったかも知れない。

 それは、マリアベルにとっての不幸でありながらも、同時に北部に好機を与えたという側面を持つ。マリアベルが多くを喪い、北部へと流れ着いたからこそ北部は経済的にも軍事的にも躍進したのだ。

「……我ながら大層な御人好しだな、全く」トウカは、今一度苦笑する。

 放置しておけばいいのだ。決定的に関係が破綻しない様に、いざとなれば不利益なく見捨てられるように。いつものトウカならば、そうしただろう。

 ミユキのお人好しが感染したのか、或いは考えたくもないが、やはり自分は年上の凛々しい佇まいの女性に対して妥協してしまう部分があるのだろうか、とトウカは嘆息する。

 だが、悪い気はしない。ミユキには、とてもではないが露呈する訳にはいかないものの後悔はしていなかった。

「まぁ、一種の裏切り行為と言えるな……」

 トウカは、マリアベルに対して恋心を抱いているかと言われれば、未だよく分からないとしか答えようがなく、実際の恋人であるミユキに対しては明確な裏切りである。

 だが、それでもと思えるだけの女だとトウカは考えていた。

 四〇〇年以上も周囲を疑い続け、己を護る楯として、報復の剣として領邦軍を増強し続けていた。本来であれば過度な軍拡は経済に負担を掛け、停滞させる が、ヴェルテンベルク領は軍拡と経済発展を同時に行った。明らかに非合法な手段が存在するであろうことは疑いないが、本来であれば両立することの難しい二 つの事業を四〇〇年にも渡り、綱渡りの様に続けた点は驚嘆に値する。マリアベルにとって経済発展は、軍備を増強、維持する上での資金を捻出する手段でしか ないことは疑いないが、それが容易いならば、この世には経済難の国などなかった。

 孤独になり、追い詰められ、命の危機に晒されたからこそ、装甲姫は雄飛した。戦乱の時代へと。

 それ以外の未来もあったかも知れない。身の振り方次第では、マリアベルはクロウ=クルワッハ公爵家の末席に名を連ねることは難しくはなかった。

 長女であるマリアベルの母が没した後、新しく迎え入れた妻とクロウ=クルワッハ公爵は、長男のリヒャルトと次女のアリアベルを成しており、リヒャルトが 死なねば公爵位継承を放棄するだけで周囲からの圧力や興味は消え失せた可能性は高い。貴族位の継承は、貴族家内で第一子に継承されることは通常であるが、 子を多く成そうと思えば、複数の女性と関係を持つことも容易な男性の方が好ましかった。長命種は一生で多くを愛することがないという風潮があるが、貴族は 血統を保つためならば風潮や倫理など容易く曲げる。

 リヒャルトの死こそが、マリアベルにとっての分岐点であった。

 マリアベルがそれらを看過したということは、誇りと矜持がそれを許さなかったのだろう。

 母を奪われた。だから奪い返すのだ。

 泣き寝入りすることなく、永きに渡り機会を窺い続けたマリアベルの執念こそが、自身をこの世界に引き寄せたのではないかとすら思える。現に感情や執念が奇蹟を起こした記述が皇国の神話には存在しているのだ。有り得ぬ話ではない。

「だとするなら、御前はとんでもないものを引き寄せたことになるな」

 トウカという異世界の戦闘教義(ドクトリン)と思想、技術を、この世界に持ち込んだことになる。

 そして、トウカはそれらを行使することに何の躊躇いもない。長きに渡る闘争の歴史の総算物である皇国の大地へと招聘されたことは、トウカから躊躇いを消し去っていた。どの道、闘争によって喪われるならば、躊躇う必要などない。

 ならば、盛大に壮烈で華々しく殺し合えばいい。歴史となる様に。

 ヒトが戦争という手段を選択することができるのは幸せなことである。現在の人類が戦争状態を望んでいるのであれば、それを継続するだけの環境と各種資源の余裕が与えられているということになる。それは酷く幸運なことであった。

 大量破壊兵器の到来により、戦争という究極の異文化交流は難しくなり、ただ緩やかに地上の資源を食い潰し続ける、トウカの元いた世界には衰退の道しかなかった。

 人類が未だ終末を招く武器を持たないこの世界では、戦争という手段が許される。激しく干戈を交え、感情を交差させることで、掴める未来もあるかも知れない。

 トウカの知る平和は、過度な人権擁護と腐臭の漂う美麗字句によって衰退を隠し続けた時代に過ぎない。気付いた時には大地の資源の多くを喪い、平時であるが故に緩やかな進歩しかしなかった科学技術は月面の資源にすら手が届かなかっただろう。

 資源枯渇により経済は停滞し、増え続ける人口は空前の食糧難を引き起こすに違いない。最終的に行き着くのは、自国の利益と権益、資源を護る為の戦争である。

 それも取り返しのつかない程に痩せ細った大地の上で、終末兵器を行使するという人類存続には致命的なまでの戦争。熱された鉄板の上で踊り狂う人類。相手を殺しても自身がそう遠くない将来、焼け死ぬことに変わりはないというのに一体何の意味があるのか。

 歴史的に、世界的に見れば、一片の生命に然したる意味がある例は少ない。

 重要なのは歴史であり時代である。人類が如何なる政治形態を選択し、どの様な社会体制、世界情勢を選択しているかすら然したる問題ではない。この世界で 語られている様な神話に於ける神々の戦争は別にしても、少なくとも人類同士であれば、それは文明や国家、組織としての正常な外交活動の一部でしかないの だ。

 無論、それは人類全体の視点であり、トウカ個人の視点ではない。人類全体からすると然したる意味を持たない生命であっても、トウカにとっては喪失が許されない生命も確かに存在する。

 つまるところ、トウカはどの道、戦い続けねばならない。

 護らなければならないモノが増えつつあることを、嘗てのトウカであれば忌避しただろう。

 しかし、今は心地良いとすら感じていた。

 極めて不明瞭な自身の立脚点を、この北の大地に求めることも悪くはないとすら考えていた。

 その中心には、マリアベルがいる。

 隣で寝返りを打ったマリアベルが、自身の太腿へと身を寄せて、緩やかな笑みを浮かべた。静かな愛らしい笑みに、トウカは呆れて小さく笑う。

「そろそろ寝た振りは止めたらどうだ?」

 密着した肌から小さな震えが伝わり、暫くして、さざめく様な笑声が響く。

 隠行でトウカの背後すら取ったこともあるマリアベルだが、肌が触れ合っている以上は分が悪い。鼓動が伝わり、吐息までもが伝わる距離で、マリアベルは笑みを浮かべたままに上体を起こして、トウカへとしな垂れ掛かる。

「……気付いておったか。御主に嘘は付けんのぅ」

 年頃の少女の如く笑うマリアベルは、控えめに見ても可憐であった。しかし、その中に清冽な色香を漂わせており、普段とは似ても似つかない。立場や主張が 人間性や本来の在り様すらも歪曲してしまうのだ。生娘の様な振る舞いは新鮮さを覚えるものであり、女性という酷く多面的な生物の在り様を月下に在って異邦人(エトランジェ)に思い知らせた。

 トウカは、マリアベルの肩を抱き寄せ、その温かさを感じる。

 今、トウカの腕に抱かれているのは、マリアベルという一人の女性に過ぎず、廃嫡の龍姫でもなければ装甲姫でもない。

女子(おなご)を言葉巧みに弄びおって……その癖、何ゆえにあれ程に乱暴なのか。あれかの? 年上の女を組み敷きたいというわけかの?」

「自分の所有物(モノ)を、どの様に扱おうと御前には関係のない話だ」トウカは、マリアベルの肩を一層強く抱き寄せる。

 総てを差し出すと口にしたのならば不満を口にするなと存外に含むを持たせた言葉に、マリアベルは一転して唇を尖らせる。

「初めてであったのだぞ? ……もう少し優しく扱ってくれても(ばち)は当たるまいて」

 やめてと懇願してきても無視して強引に情事を進めたトウカは苦笑するしかない。

 総てを捧げるというのは一種の方便に過ぎないのか、マリアベルはぶぅぶぅと不満を垂れている。無論、そうなると理解していたからこそ寝台の上で優しくし てやる気など毛頭もなかったのだが、不満を口にするだけの余裕があるということは、気落ちするほどではなかったのかも知れない。

「全く……あの泣き顔には心惹かれたんだが。こうも変わり身が早いと謀られた気がしてならないな」

「女心は霊峰の天象の如く移ろい易くあろうて。……ミユキも一〇年も経てば、今ほどに単純ではなくなろうな」マリアベルはころころと笑う。

 屈託のない笑みを前にしたトウカだが、事後に女性の口から他の女性の名前が出てくる場合はどうしたよいのかと顔を引き攣らせる。ミユキには、こんな時に他の女性の名前を出すなんて云々と唇を尖らせるのだが、マリアベルはそんな気配を微塵も感じさせない。

「マリアベル……俺は……」

「マリィ……二人の時はそう呼ぶがよい。妾はそう呼んで欲しい」

 あまりにも唐突であった言葉に、トウカはたじろぐ。

 何時もであれば、本心を隠し、人を誘導するマリアベルが正面切って願いを口にすることは極めて珍しいと言える。だからこそ断り難い。トウカもまたマリアベルと近い本質を持つ故に、偽りのない本心というのは性質が悪い相手なのだ。

 時と場合によっては、百万の言葉に対し、本心に起因する一言は、これを容易く優越するのだ。

 ミユキの偽り無き本心に、トウカが抗い得なかった様に。

「………………マリィ」

何故(なにゆえ)、間を開ける」

 唇を尖らせたままに、マリアベルはトウカの腕ヘと絡み付く。

 ミユキが心を許した者にだけ見せる笑みと同じ笑みを浮かべるマリアベルに、トウカは遊ばれているのか信頼されているのか判断に迷うが悪い気はしない。根 本的にはただの口約束であり、その後に身体の関係が続いたに過ぎないが、それだけで考えを変えた自身に、トウカは現金なものだと胸中で呆れる。決定的なの は、剥き出しの憎悪と恐怖を見たことであるが、そのまま寝台の上まで縺れ込むことは考えていなかった。

「愛してくれとは言わぬ……だが、二人きりの時は黙って抱き締めてくれと願うことは我儘(わがまま)かのぅ」

 周囲が敵ばかりであったマリアベルにとって、心を許せる存在は少なかった。

 一度、天狐族の里で聞いた本音は間違いなく心からのものであった。それをトウカは疑い、利用できると踏んでヴェルテンベルク領邦軍での佐官の地位を引き換えに協力を約束した。

 マリアベルの過去は事実であり、それを最大限に利用してトウカの歓心を買ったのも事実である。その過去時代が拭い難い恐怖と慟哭の産物であったこともまた事実。無論、それを理解した上で、マリアベルはその事実を利用したという点に、トウカは呆れと驚きを感じた。

 自分の負い目と負の感情ですら手札とする点は、端倪すべからざる人物であることを認識させる。

「このまま感情に流されると、御前(おまえ)の思い通りに誘導される気がするな……」

「なに、都合の良い女として扱ってくれて構わぬ。ミユキに関係を持ったことが露呈(ばれ)ては都合が悪かろう?」

 トウカの胸板に甘え、そう呟くマリアベルだが、その言葉は途方もなくトウカに都合が良い様に見えてそうではない。マリアベルは、トウカとミユキの恋愛関係に対する第三者としての立場を持っているのだ。

 ――ミユキに、露呈(ばれ)たらどうなるか……

 実家(天狐族の里)に帰らせていただきます、ということくらいは有り得るかも知れない。シラヌイに伝われば、間違いなくフェルゼンまでトウカを殺しに来るだろう。

 実際のところ、マリアベルはミユキに対してトウカとの関係を打ち明ける心算などなかった。女神の島で、トウカが他の女性と関係を持つことを許してやれ、と発言しておいて、自身が三角関係の一角を担うことになりましたと、流石のマリアベルも口にする度胸はない。

 無論、トウカはそれを知る由もない。

「マリィ」

「なにか――ッ!?」

 胸板で戯れるマリアベルが顔を上げて問い掛ける声を、寝台へと押し倒すことで封じたトウカは唇を有無を言わさずに奪う。

 額、頬、唇、首筋と舌を這わせた。春節を彩る瑞々しい柑橘を思わせる香水の甘く酸味は、トウカの思考を酷く衰微させる。

 両手を絡み合わせると、傲慢に、それでいて情火に浮かされたままに告げる。

「もう一度だ。相手をしろ」

 マリアベルは然したる抵抗をすることもなく、トウカの口付けを健気に迎え入れる。

 マリアベルもまた(かいな)に抱かれることを渇望し、二人は身体を強く寄せ合う。朱の散った互いの柔肌を、求め得る限りに貪り合う。感覚が曖昧となる程に。

 月影が淡く照らす寝台(ベッド)上、雄と雌の荒々しい吐息が響き、交わる影が激しく律動する。トウカの背に両腕を回したマリアベル。抱かれた身体を震わせながら、熱に浮かされた妖艶ながらも甘く、思考を惑わせるかの様な声音で、彼の名を絶え絶えな吐息と共に口遊(くちずさ)む。

 トウカもまた彼女の名を耳元で弄ぶ様に囁く。

 そんな二人を優しく覆い隠すかの様に月影が、小さな部屋の硝子(ガラス)に淡く反射した。








「さぁ、行くとしましょうか、ヴェルテンベルク伯」

 一足先に着替え終わったトウカは、軍刀を佩きながらマリアベルへと向き直る。

 言葉遣いを努めて元へと戻す。一歩外を出れば、マリアベルは伯爵で、トウカは代将に過ぎない事に変わりはない。実情がどうであれ。

 ヴェルテンベルク領邦軍大礼装を身に纏ったマリアベルは、寝台の上に置かれていた金糸によって精緻な刺繍が施されていた二角帽子(バイコーン)を手に取っているところであった。侍女(メイド)に用意させた大礼装はマリアベルを将官として見せている。

 束ねられた紫苑色の髪に、豪奢の一言に尽きるヴェルテンベルク領邦軍大礼装は、ただマリアベルの為だけに誂えられた軍装である。飾章や勲章が上衣の上では輝き、肩から腰にかけて掛けられている懸章(けんしょう)は、金糸で縁取られ、真紅の色をしていた。

 宮仕えの男装麗人とも呼べる姿は、トウカの祖国では有り得ないものであるが、皇国では容姿がトウカの基準とする年齢と合致するとは限らないので皆無ではない。

 二角帽子(バイコーン)を被り、鞘に収まった儀礼長剣を杖の様に突いた姿は、実に様になっている。

 家臣の礼を取り手を差し伸べたトウカ。マリアベルはおずおずと手を伸ばそうとするが、止める。

「行くとしようかの……と、言いたいが」ふむ、とマリアベルは首を傾げて見せる。

 可愛げのある動作に、トウカは左手を自身の胸に当て、右手をマリアベルに差し出す事で行動を促すが、マリアベルは思案顔のままで動かない。蹶起軍指揮系 統統合と、ベルセリカの蹶起軍最高司令官就任などの宣言には二人も立ち合う必要があるので、遅れることは許されなかった。

「臭うの……これでは獣共に察されようて」

 眉を顰めたマリアベルに、トウカは忘れていたと頭を掻く。

 獣種の貴族は勿論であるが、ミユキも臭いで何があったのか察することは間違いない。狐の嗅覚は鋭く、身体を拭いただけでは隠せるものではない。かと言って身を清める時間もなく、そもそも舞踏会場に風呂場など設置されているはずもない。

「香水で誤魔化すのも不愉快であるし、疑われような」

煙管(きせる)なら誤魔化せるかと」

「二、三度、吸えば中の刻み煙草が消えてしまおうて。煙管(きせる)では臭いなど誤魔化せんよ。あれは使い難いし、そもそも臭いはそれ程でもなかろうて」

 煙管の廃れた原因の一つは喫煙時間の短さだった。詰まり、身体の臭いを誤魔化すほど紫煙を出すことはできなかった。そもそも煙管自体が使い難く、常態的 に使用しているマリアベルですら喫煙する場所を選ぶ。小説の様に歩きながらの喫煙など面倒で叶わない。だからこそ紙巻煙草が主流となったのだ。

「ならば、何故、何時も煙管を使っているで?」

「……見た目は重要であろう」

 確かに立ち振る舞いとしては様になったものであるが、まさか外観の為に煙管を咥えているとは思っても見なかったトウカは頬を引き攣らせるしかない。

 女性が外見に拘るということは周知の事実であり、ミユキは尻尾の手入れを欠かさず、リシアは戦野にあっても紫苑色の長髪を櫛で手入れしていた。マリアベルにとっては煙管を含めた鯔背(いなせ)な格好こそが重要なのだろう。

「まぁ、今更、気にする必要も無かろうな……」

 マリアベルは寝台の上に置かれた上質な木箱をひと撫ですると、上蓋を静かに開ける。中には何本もの葉巻が並んでいた。

 上質な木箱は、葉巻を保管する為の葉巻箱(ヒュミドール)であった。湿気や乾燥によって大きく劣化し、風味や薫りの変わる葉巻の保管には、気を払わなければならない為、その管理と維持には専用の設備が必要となる。

 葉巻を取出し、葉巻切断器(シガーカッター)を手に取ると、吸い口を切り落とし、巻き付いていた金属表示(ラベル)を取り払う。

「葉巻か……まぁ、確かにそれなら臭いは誤魔化せるだろうが……」

「本来は此方の方が好みであるしの。トウカが妾好みの渋い男になるのも悪くなかろうし」

 マリアベルは小さく笑うと、手にした葉巻をゆっくりと回しながら、先端部を黒く炭化するまで魔導式の点火器(ライター)で暖め、吸い口をトウカの口へと押し付ける。

 トウカは葉巻を手に持ち、その紫煙を吸い込む。そして噎せ返る。

阿呆(あほ)ぅ、肺まで吸い込む奴があるか」

 マリアベルは自分の葉巻も用意しながら苦笑する。

 紙巻煙草であれば肺まで吸い込むのが普通であるが、葉巻の場合は、口の中で煙りをころがして燻らすように、ゆったりとした気分で薫りと風味を楽しむものである。

「……悪くはない。何より不自然ではない」

 香水などによる露骨な誤魔化しなどは疑われるかも知れないが、喫煙であれば不審に思われる程度で済む。隣のマリアベルに勧められたと言えば誰しもが納得するはずであった。

 扉を開けたトウカに頷いて、マリアベルは部屋を出る。

 総てを捧げると口にしたマリアベルだが、それは二人の時や政治的、軍事的な判断の際に、トウカの意見を尊重するという事に過ぎず、公式の場でそうした姿 勢を見せる訳ではない。伯爵位を持つマリアベルが、その領地運営や軍指揮権を一介の将校の意見に唯々諾々と従っている事が明るみに出れば対外的な信用に関 わる。

「そう言えばの、最近我が伯爵家はちと大きな猫を飼っておっての」マリアベルは紫煙を吐きながら思い出したかのように呟く。

 トウカは、それに対して気のない返事を返すしかない。

 マリアベルが愛玩動物を飼っているなどという噂はなく、その様な性格でもない事も理解しているトウカは、猫の正体に思い当たり眉を顰める。

「そう言えば忘れていた、あの猫」

 トウカは、面倒なという顔をして見せる。

 顔を顰めながら廊下を歩く二人に、侍女(メイド)や執事が慌てて道を譲る。

 レオンディーネ・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲルという名の拾い猫。

 ケーニヒス=ティーゲル公爵の娘であり、公爵家に連なる血縁の女性将校。捕縛したはいいものの、その扱いは極めて難しくあった。下手をすれば征伐軍と中 央貴族の連携理由になる可能性がある為、マリアベルは征伐軍のレオンディーネが捕縛されたという発表に対して、“丁重に遇している”との発表のみに留めて いた。無論、その処遇が今まで曖昧な状態であり続けたのは、マリアベルとトウカの擦れ違いによる方針の混乱も影響しており、関わりを避けたい周辺貴族も、 レオンディーネの処遇に対する提案すら行わなかったことも手伝って半ば放置されている。

「牢屋で餓死させるのも面倒であろうが、扱いにも困る……何とかせぃ」

「それなりの処遇にするべきだろうが……面倒だ。高貴な血縁というのは」

 眼前のマリアベルも高貴なる血縁であるが、複雑な立場ゆえに笑顔で同意する。マリアベルからすると公爵家の人間に対して好意的な感情など抱きようがな く、迂遠に“何故、戦場で殺しておかなかった”と批難されているようで居心地が悪いトウカは、紫煙を吐き出すのみに留めた。

「飢えた虎の飼育は、餌代が掛かって叶わぬ」

「一応は希少だ。買手は付かないので?」

 北部貴族の中の年若い貴族を適当に見繕って婚約させるという手段は、陣営の鞍替えを明確に示す手段としては極めて有効であり、そこに愛などある必要はな い。確信的利益こそが重要であり、必要以上に中央貴族を刺激しない手段とも言える。無論、シラヌイの様にケーニヒス=ティーゲル公爵が大激怒して単騎で攻 め入ってくる可能性も否定できないが、それならばシュットガルト湖付近まで誘導し、戦艦二隻とフェルゼンに展開している機動列車砲部隊による火力集中に よって撃破し得る、とトウカは踏んでいた。

 無論、その程度の愚か者であれば、マリアベルがこれほどまでに中央貴族を危険視することもないはずであり、状況から知ると座視する可能性が高い。

「実は御主がその候補の筆頭に挙げられておったが……妾が頷けば大惨事であったぞ?」

「エルゼリア侯か、シュトラハヴィッツ伯爵家の御隠居か……いや、あの政務官か」

 トウカは、セルアノの澄ました顔を思い出して歯噛みする。

 少なくともマリアベルからすると、現状で起きた事象に対して、素早くその原因や当事者を割り出すことのできるトウカの頭の回転の速さには驚くばかりであるが、セルアノの余計な献策に腹を立てているトウカは気付かない。

「あの女……組み敷いて良いか?」

「御主……近頃、女の扱いがぞんざいではないかの? いくら妾で成功したからといって強引に手を出せば火傷しようて」

 マリアベルの言葉に、トウカは肩を竦める。

 トウカを寝台に引き摺りこんだのはマリアベルであって、トウカではない。少なくとも、そうした状況に持ち込んだのはマリアベルであり、トウカはそれに応じた……流されたに過ぎない。という自己弁護を心中では展開していた。

「冗談だ。心得ている。……これ以上、女性を抱え、護る(かいな)を俺は持たない」

「ふふっ、妾は寝台以外で抱えて貰う必要はない。ミユキと違ごうて大人の女であり、男に護られるばかりではない故のぅ」

 マリアベルは決して弱い女性ではない。

 トウカの腕に抱かれている時は、確かに一人の女性としての一面を、悲劇に満ちた人生の一端を晒したかも知れないが、それと同時に業火の如き苛烈さを秘め た女性でもある。護られるだけであることを恥じ、自ら刃を構え、己を女性として求めた者の横に立ち並ぶだけの覚悟と能力を持ち合わせていた。

 或いは、今の言葉はマリアベルを低く見た言葉だったかもしれない。

 しかし、満更でもなさそうな表情を見るに、気分を害した様子はなかった。明確に“護る”と口にしたからか、目に見えて良さげな気分であり、トウカは理由を尋ねる機会を逸する。

「……では、まず猫に首輪を付けに行こう」

「で、あるかの。何かしらの宣言をするのであれば、纏めてしてしまうのが良かろうて」

 マリアベルは、レオンディーネを手札としてどの様に扱っても良い様に、舞踏会場の一室に監禁していたのだろう。直ぐに切れる手札として、簀巻きにして舞踏会場に運び込んでおくくらいはしても不思議ではない。

 葉巻を燻らせて、二人はとある一室の扉の前に並び立つ。

 ふと、トウカはそこで足を止める。

「どうかしたのかの?」

「いや、そう言えば忘れていた」

 決して独占欲ではないと言い聞かせつつ、トウカは呟く。

「……俺以外の男の前で泣くな。御前の涙は魅力的に過ぎる」

 マリアベルは少し顔を俯かせて了承するだけであった。

 気恥ずかしい空気が二人の間を満たす。一度身体を許しただけでこうも状況が変わってしまうのかという可笑しさと、先程までの行為を思い出して頬が熱を帯びる。

 熱を振り切る様にトウカは、マリアベルを促す。

「では行こう、伯爵(フュルスト)

「うむ、行くとしようかの異邦人(エトランジェ)

 そして、ヴェルテンベルクの……《ヴァリスヘイム皇国》の政戦は動き出す。

 

 

 


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