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第一〇六話    衝突する意思




「……ヴェルテンベルク伯、御呼びとのことですので罷り越しました」

 トウカは一部の乱れなく敬礼すると、マリアベルの正面に立つ。

 ヴェルテンベルク領邦軍の黒を基調とした第一種軍装の階級章や識別章の一切は剥ぎ取られている。ただでさえ簡素な軍装が更に簡素になっているトウカの軍装に、眉を顰めたマリアベルだが、それに対する言葉もなく返礼する。

「よもや、この歳で拳骨を見舞われるとは思いませんでした」

 ヴェルテンベルク領邦軍であることを示す徽章の一切が剥ぎ取られている意味は明白である。

 フルンツベルクに、マリアベルの下に行けと拳骨と共に指示されて御機嫌斜めのトウカだが、早期にマリアベルとの関係を明確にしておかねばならないとも考 えていた為、涙目でそれに従った。直接的に行使された場合、口先(政治)よりも暴力(軍事)がより有効であるということを改めて身を持って理解したトウカ であった。

「う、うむ……そろそろ話し合わねばと思ってな。アレの拳は痛かろう?」

「上官でなくなったが故に、遠慮が必要なくなったのかと」

「やはり彼奴(あやつ)か……まぁ良い」

 呆れた声音のマリアベルに、トウカはこれがマリアベルの意図した展開ではないのか、と内心で思案する。考えてみれば、シュトラハヴィッツ少将とエルゼリ ア侯がマリアベルをトウカへと送り出す際の表情は、腹立たしいまでに笑顔であったことを踏まえると、双方共に意図しての状況ではないのかも知れない、とト ウカは嘆息した。

「現状についての相談でしょうか? ヴェルテンベルク伯」トウカは端的に切り込む。

 舞踏会も終盤に差し掛かり、既に蹶起軍統合などの宣言は迫っており、自身の処遇がどうなるのか気になったのだ。

 トウカは、自身のロンメル子爵領邦軍への編入宣言が蹶起軍参謀総長就任に響くか否か、という点を確認すると共に、有力貴族であるシュトラハヴィッツ少将 とエルゼリア侯が、マリアベルとトウカの関係の破綻を重く見て、二人が意見を交わす場を無理やり作り出したのではないかという推測を確認しなければならな いと考えていた。

 ――シュトラハヴィッツ少将とエルゼリア侯……前者は武門だ。

 フルンツベルク中将も武門の出であり、その辺りの繋がりがあるのかも知れない。

 トウカは、纏まらない推測を中断する。元よりトウカは、一九世紀の欧州情勢よりも複雑怪奇であろう北部貴族の関係を深く理解している訳ではない。何処で誰が連携しているかなど、咄嗟に分かるはずもなかった。

「小官としては、予定されていた蹶起軍参謀総長の地位は頂きたいと思っておりますが、首輪を付けたいと仰られるのでしたら、シュトラハヴィッツ少将殿などを副参謀長に据えて掣肘を加えて戴いても結構です」

 推測は纏まっていないが、マリアベルや有力貴族が問題視している事柄が、トウカが信頼できるか否か、ということであろうことは見当を付けていた。無論、 それは軍事的才覚ではなく、人格的に、若しくは他勢力からの差し金ではないか、という懸念から出たものであることも同様である。過去が分からない、突然現 れた人間を要職に付けるということに対する不安と、マリアベルに対する敵対的な姿勢が、有力貴族達に対しても同様であるか否か判断が付かないという理由も 有り得る。

 トウカが帰還して以降のマリアベルに、目立った動きはない。

 舞踏会の準備は帰還したセルアノを主導に行われ、マリアベルは殆ど関わっておらず、屋敷から全く出ていないことも確認している。ミユキの周囲(リルカなど)で すらトウカの出征中に、マリアベルとは出会わなかったと口にしていることから何かしらの目論見があると、トウカは睨んでいた。周辺貴族を切り崩し、領土と 経済圏を拡大していくマリアベルの遣り方は、謀略としてはトウカでも唸らざるを得ない程のものであり、一流の謀略家と呼んで差支えないものであった。

 警戒するに越したことはない。ミユキを貴族としてしまった以上、その進退に対する責任をトウカは持たねばならないのだ。

 二人きりの露天席(テラス)

 マリアベルは手摺りに背を預けて、夜空を見上げている。

 双方に護衛がいないのは相手が望まなかったからであるが、マリアベルからすると、トウカがベルセリカを背後に控えさせれば聯隊規模の護衛でも足りない。 若しくは、護衛を伴わないことで信頼を示そうとしたのかも知れない。実際、トウカは室内が第三者に監視されていると考えており、魔術を使えず、種族的に劣 るトウカはそれを感知できない以上、その辺りの推測は止めていた。

 佩刀するトウカに対し、マリアベルは非武装であり、神龍族であるにも関わらず、龍族特有の病で魔術を行使できない。龍に転化もできない。剣技もそれなりのものを修めていると聞いているが、所作から見るに戦野の剣ではなかった。

 この場では、トウカのほうが直接的手段に於いて勝っている。無論、第三者の可能性を考慮すれば、それはあくまでも表面上の事に過ぎないが。

 ただ、マリアベルの龍眼には、見上げた夜空を貫く星河の輝きを受けて星屑が煌めいている。退廃的な物腰であるものの、その星の瞳や優れた造形の身体は幻想的な振袖に包まれ、地上に堕ちた女神を思わせる佇まいであった。刃を向けが難い程に。

 美しい女性であることは、出会った時より理解していた。

 しかし、今この時、見せる泡沫の様な……儚い姿は、ヴェルテンベルク領への誘いを受けた時以来であった。今でこそ夢幻であったと考えていたが、再びその姿を見るに、そうした一面も生まれ付き持ち合わせていたのだろう、とトウカは考える。

 或いは、追い詰められているのかも知れない。

 今この時、征伐軍の侵攻は完全に途絶している。

 これを奇貨として政治的解決を図るべきだと主張する貴族もいるが、流れた血の量を考えれば双方共に大部分が納得しないことは明白であった。そもそも、征 伐軍が真綿を締めるように戦線全体への圧力を掛けることを打ち切ったのは、征伐軍の一大策源地であるエルゼリア侯爵領やヴェルテンベルク伯爵領を大兵力で 直撃する為である。短期間で陥落せしめる為の兵力集中を行っているに過ぎないとトウカは考えており、これは各領邦軍司令官の間でも最有力の推測ともなって いる。

 トウカが、ヴェルテンベルク領邦軍情報部に依頼して、蹶起軍の弾火薬不足の情報を征伐軍に流したことは決して無駄ではなかった。

 征伐軍もこの情報の裏を取る為か、二週間ほど前線での警戒態勢を維持しつつも、再編成を行うという苦しい手段を講じていた。その間に弾火薬不足の真偽を判断するに値する情報を得たのか、現在はベルゲン近郊までの大規模な撤退を行い、本格的な再編成を行っている。

 弾火薬不足は、蹶起軍との正面決戦を考慮すれば憂慮すべき項目であるものも、征伐軍は国軍が大多数を占めているが、その特性は主君の意志が大いに繁栄される軍である。

 ベルゲン強襲によって征伐軍総司令部は壊滅状態であり、上級司令部が麻痺した状態にある。よって征伐軍総司令部も再編成されねばならないが、それは恐らく上手くはいかない。

 征伐軍編成に当たり、当然のことであるが、アリアベルは自らに対しての忠誠と政治的な色が付いていない将校だけで最善の司令部を作り上げたはずである。

 ならば、新たに再編成し、喪った将校を補充しようとするのは容易ではない。

 最善の征伐軍総司令部を誇っていた頃の将官の多くは戦死し、編成には選考段階で切り捨てた将官をアリアベルは選ばねばならないのだ。能力が低いだけであれば、アリアベルは我慢できただろう。

 だが、現在に至るまで、征伐軍総司令部の司令部要員が内定したという宣言は出ていない。

 本来であれば、付け焼刃でも構わず、直ぐにでもその陣容を整えて内外に征伐軍総司令部の権威は未だ健在である、ということを可及的速やかに示さねばならないのだ。

 しかし、それが行えないのは、アリアベルが信用に値する人材を見い出せないでいると取って差し支えないはずである。

 征伐軍の前任軍狼兵参謀が事故死したという情報を得ていたが、その人物は七武五公に近しい立場に有ったこともあり、恐らくはアリアベルによって暗殺され たのだろうと、トウカは見当を付けていた。そして、新しい軍狼兵参謀には政治色のない人物であるヴォルフローレが据えられた。

 恐らく、アリアベルは抜擢した軍狼兵参謀を暗殺することで、外部に通じる者が出ない様に綱紀粛正を図ると共に、中央貴族に“御目付け役”を送れば容赦な く処断するという姿勢を見せたのだ。唯一、政治色のあった将校を招聘し、到着する寸前で事故死するなど都合が良過ぎることを踏まえれば、そう考えるのが妥 当である。

 故に、未だ時間はある。

 アリアベルの前任軍狼兵参謀暗殺を感じ取った将校は、その配下に付くことを躊躇うであろうし、それを気取れない程度の視野の持ち主であれば、然したる能 力は持っていない。だからこそ、人員の手配に手間取っているのだ。何よりアリアベルの指揮下に収まるというということは、七武五公と敵対することと同義で あり、政治的には綱渡りと言える。

 トウカは、マリアベルを見据える。

 マリアベルもアリアベルも、ヒトを信用する事はできても信頼することはできない性格なのかも知れない。貴族の中にあっても格別の立場にある七武五公の一 家として生まれたからこそ、貴族として隙のない遣り取りを幼少の頃から心掛けるように教育を受けていたのかも知れないが、それは他者を容易に近づけること すら難しくしているように思えた。

 ――まぁ、その点については、俺も強くは言えないが。

 トウカは嘲笑を浮かべる。

 マリアベルが自身を理解してくれているという点は、自身の一切の作戦行動の大前提であると考えていた。確かにクラナッハ戦線突破戦では、作戦計画を自身 の一存で変更した挙句、トウカにそれを伝えなかったが、最終的な戦果とマリアベル自らが戦列に加わったことで疑いは消えたと言っても良い。何より、戦果を 拡大し、征伐軍の戦力を削ぐことは間違ったことではない。

 しかし、今回のシュットガルト運河の通商航路を巡る戦闘行動では、トウカが周辺貴族に水上戦力の武力を示すことによって軍事的隷属を求めるだけに留める作戦計画を、マリアベルは事前通告なしで変更した。否、元よりその心算だったのだろう。

 或いは、クラナッハ戦線の様に結果が出ればトウカは肯定すると判断したのかも知れない。

 だが、占領維持には少なくない兵力を長期間に渡って割かなければならない以上、中立という不明瞭な勢力として、シュットガルト運河を脅かす可能性の排除という目的があったとしても、トウカの立場としては断じて許容できるものではない。

 ――シュットガルト運河沿いの中立貴族など、戦艦二隻を浮かべておくだけで沈黙できた。陸上戦力など投じなくともよかったはずだ。

 戦艦一隻の艦砲は、三個師団の火力に匹敵するという言葉があることを踏まえれば、二隻で六個師団もの火力を中立貴族に振り翳すことができるということに なる。敵対すれば運河沿いの都市村落はその火力の前に焼け落ちることは間違いない。砲艦外交だけで沈黙を余儀なくされることは目に見えていた。

 何故、マリアベルが占領に固執したか、トウカにも分からない。

 今までの拡大政策の延長線上として行ったにしては時期が宜しくない。内戦中であり、不安定な領地や勢力を抱き込むことは不確定要素を増やし、戦後処理に は多くの時間と人員、資金を割かねばならない。内戦が総力戦となりつつある現状では、それは大きな負担となることは疑いない。

 トウカは失望した。

 これほどまでに領地を拡大し、繁栄させ、強大な軍備を実現したマリアベルが、この程度の事を理解……否、計算できなかったのだと失望せざるを得ない。

「御前は俺を信頼していると思っていた、マリアベル」

 トウカは、多分に失望の入り混じった声音で呟く。

 今回の出来事は大きな不利益となって、後の決戦に響くだろう。

 マリアベルはその言葉に肩を震わせる。

 或いは、過大評価だったのかも知れない、とトウカは思い直す。

 既にマリアベルに対する敬意はない。

 領地拡大と繁栄を行いながら軍備を増強し、その上で長命種が行える長期的な政策を堅実に継続し続けたその手腕を、トウカは高く評価していた。トウカは四〇〇年も雌伏の時を過ごすなど考えられず、何処かで勝負に打って出ただろう。

 マリアベルの恐ろしいところは、何百年も機会を窺い続けたところである。

 だが、心ならずとも勝機を見い出せぬまま内戦へと突入し、偶然に出会ったトウカへと助けを求めた。トウカは、それに応じ、内戦に於ける勝利……優勢なままでの条件付き停戦を実現しようと目論んでいた。

 だが、それをマリアベルは難しくしてしまった。

 当事者が増えたのだ。それも相手から見れば、瑕疵が明らかにマリアベルにある。停戦交渉では極めて反論し難い相手となるだろう。征伐軍や中央貴族は北部に対し、これまでの経緯から後ろめたさや妥協の余地があるかも知れないが、今回の相手は違った。

「俺はいい。身を隠せばいいだけだ。ミユキが天狐族の姫君である以上、征伐軍が勝利しても不遇は強いられない。だが、ザムエルやリシアは違う」

 トウカは知っている。否、知ってしまった。彼ら彼女らが心の底から領邦軍軍人であることを。

 正規軍が本来担うべき地方防衛を各貴族に委任したに過ぎず、あくまでも領邦軍は正規軍の補助戦力でしかないと、トウカは考えていた。無論、その指揮権は 各貴族にあるが、貴族は天帝の影響下にあることが常である事を踏まえれば、名目上は政府の統制下にある正規軍と釣り合いが取れる様にと配慮したのかも知れ ない。

 だが、実際、領邦軍はトウカが思っていたほどに脆弱でもなければ、戦意が低い訳ではなかった。逆に郷土防衛に燃えて戦意は極めて高く、装備も決して旧式 なものばかりではなかった。特に後者は、ヴェルテンベルク領の軍需産業によって、各領邦軍全体が底上げされていたと言っても過言ではない。

 寧ろ、正規軍よりも郷土防衛に貢献してきたことから、そこには矜持と誇りがある。我らこそが、国土を防衛しているのだという自負。

 マリアベルのようになるという目標があるリシアは勿論のこと、ザムエルでさえ決して引くことは有り得ない。他の領邦軍でもそれは同様であり、将校だけでなく兵士や領民達にもそういった風潮と気風が感じられる。

 蹶起軍が敗北したとしても、各地の領邦軍軍人や北部領民はそれを認めず、北部各地で熾烈な統制なき蹶起が頻発するだろう。その最中に、この内戦を生き残った者達も大勢が死ぬことになる。その上、解決するには恐ろしいまでの国力と時間を要することになる。

 それこそが、帝国が“人中の龍”の目的ではないのか?

 トウカは当初、その可能性に思い当たり愕然とした。

 帝国南部鎮定軍が、エルライン要塞への攻撃を一時的に中止した時期が余りにも帝国にとって都合が良かった点を踏まえると、皇国内……特に北部にはそれな りの諜報網を敷いているとも考えられなくはない。否、帝国の関係者と思われるリディアが北部に居た事実を考慮すると、帝国の諜報組織は北部に諜報員を送り 込む手段を確立していると見るのが妥当である。

 もしそうであれば、蹶起軍崩壊後に付け入り、北部での“紛争”を激化させることも不可能ではない。そもそも、マリアベルが昔から情報部を動員していたか らと言っても、北部領民がこれほどまでに中央貴族や政府に敵愾心を抱いたのは近年のことである。マリアベルの“貴族も領民も必要以上に周囲を恐れた。妾は 匙加減を間違った”という言葉は、帝国の諜報員もが似た主張を流布させていたからこそ統制できなかったのではないか、という疑念がトウカにはあった。

 不満を抱く者達と扇動する者達。そして、潤沢な戦力を持つ軍勢。

 暴発する要素は揃っている。


 《スヴァルーシ統一帝国》が“人中の龍”。


 即ち、非凡で計り知れない人物。

 まさに人間種が大多数を占める《スヴァルーシ統一帝国》が、人造の龍。

 無数の付け入る隙があっても尚、座しているだけのクロウ=クルワッハ公爵などよりも、余程に恐ろしい龍であり、直接的な戦闘能力などよりも遙かに計り難く、対応し難い。

 人間種以外の生存を基本的に容認しない帝国では、他種族は一部の例外を除いて奴隷であること考えれば、エルライン要塞を越えて侵攻してくる帝国南部鎮定軍との攻防は、種族の生存を賭した総力戦になることは疑いない。そこにはあらゆる犠牲が生じるだろう。

「喪われる……全てが」

 最悪、ミユキもその戦火の中で命を落とすかも知れない。

 握り締めた右の拳。滴り落ちる血。

 既に北部貴族蹶起から始まった一連の内戦は、皇国の興亡を賭したものに摩り替りつつあるのではないか。ミユキの生存圏確立を意図して参加した内戦は、皇国の運命を左右するものかも知れないのだ。

 睨まれたマリアベルの肩は震え続け、瞳には恐怖の色が見て取れた。

 ――俺を恐れるか、マリアベル。

 無論、擬態という可能性もあるが、自らが演技せねばならなくなるまで悪化する状況を放置するほどマリアベルは愚鈍ではない。聡明さと老獪さを持ち合わせ、それを行使する為の非情さも持ち合わせている。

 互いの立場を考えれば、政治的にも軍事的にもマリアベルが圧倒的優勢の立場にあるが、トウカは蹶起軍で重責を担うことが予定されており、ベルセリカも最 高指揮官に就任する。無論、トウカの排斥だけであれば可能である。しかし、ベルセリカが離反することは避けられず、天狐族の協力も得られなくなることを踏 まえると、それは現実的ではない。

 対して自身はどうだろうか?とトウカは顧みる。

 マリアベルを排斥すれば、ヴェルテンベルク伯爵家行政府や政務部、領邦軍が黙っていないかも知れないが、犯人を別に用意すれば不可能ではない。次期ヴェ ルテンベルク伯爵に、ベルセリカを推せば内外でも一定の評価は得られる。この内戦の勝敗如何に関わらず、剣聖の名声を以てすれば勝利陣営から厚遇されるこ とは間違いない。アリアベルは一枚でも奥の手札を欲している。交渉を持って、ヴェルテンベルク伯爵位の継承を正式なものとすることも難しくはないだろう。

 トウカは、軍帽の上から頭を掻くと、佩用している軍刀の柄を掴んで、軍帯(ベルト)から引き抜く。

 マリアベルは何の反応も示さない。あからさまに怯えることはないが、手摺りに添えられた手は強く握られている。

 軍刀を、トウカはマリアベルの足元へと投げ捨てる。

 軍刀が磨かれた石床の上を滑り、鍔が擦れる音が続く。そして、軍刀はマリアベルの足元で止まった。

「これで満足か? 困る。話が長引くのは……仔狐の御機嫌も取らないとならないからな」

 肩を竦めて見せるトウカに対して、マリアベルは足元に落ちた軍刀を見下ろすだけであった。その表情は陰になって窺えない。

 だが、ある程度の譲歩は引き出せると、トウカは踏んでいた。

 トウカの蹶起軍司令部、参謀総長就任に対する妨害を行わないという点と、叶うならばロンメル子爵家へのあらゆる面での支援という点は是が非でも受けたい ものであった。前者は蹶起軍を効率的に運用するに必要不可欠なものであるが、後者に関しては、天狐族の一部が協力を確約してくれた場合、その居住施設が必 要になると考えた為であった。シュパンダウ地区を含むとはいえ、ロンメル領は経済的には脆弱であり資金に余裕がない。

 トウカは、マリアベルの前へと立ち、手を掴む。


 その時、マリアベルの瞳から零れ落ちた雫に、トウカは気付かなかった。








 リシアは、露天席(テラス)から月を見上げる狐耳の少女の背中を視界に捉えた。

 ただでさえ少ない狐種の狐耳と尻尾は良く目立ち、特に尻尾は背中越しであっても個人を特定するのに大いに役立つ。トウカが尻尾に固執しているということ を知るリシアからすると、切り落としたくなるほどに不愉快極まりないモノであるが、後姿だけで本人確認できるという利点だけは認めている。

 憮然とした顔をそのままに、ミユキの背後に立ったリシア。ミユキは、星河と満月を見上げているのか、リシアに気付かない。警戒心が高く、感覚が鋭いとさ れる狐種だが、所詮は民間人であり、軍人教育を受けている訳でもないと、リシアは自らがトウカに対して持つ、同僚軍人であるという優位性を改めて確認す る。

 と言う訳で、ミユキの尻尾を引っ張った。

「へうぅ!!」

 奇声を上げて、尻尾を抑えて振り返ったミユキは涙目で、狐耳は垂れ下がっている。

 あざといまでの可愛さと振る舞いに、リシアは顔を顰めて舌打ちを一つ。

 士官学校に入学すれば、女性候補生は女性らしさの多くを失うことになる。

 士官学校は年頃の乙女が女性らしさではなく、軍事知識を追い求める場所であり、そこで三年も過ごせば女性として多くを失うことは想像に難くない。簡潔に 言えば着飾り、麗しく在ろうという意識が希薄になるのだ。正式に仕官した後は、その揺り戻しで休日には派手に着飾る者もいるが、それはあくまでも少数であ り、大多数は凛々しく軍装を着こなして世の婦女子から黄色い歓声を受けることになる。

 つまりは一般的な女性とは、価値観が変わるのだ。

 決して、衣類の選択が面倒だとか、洗濯が手間だとかという訳ではない。恐らくは、であるが。

 国体護持の為に青春の多くを引き換えにし、技術と心の在り様を身に着ける以上、そうなることは仕方ないことであり、誰かを責められるものではなく、士官学校の門を叩いたのは自身の拳と意思なのだ。リシアもその例に漏れない。

 最近は、若手将校の間で軍帽を斜に被ったり、高級な素材を使ったもこもとしている付け襟に改造したりする者が多い。領邦軍司令部が黙認しているが、リシ アはあまり肯定的にはなれない。舞踏会場でありながらも、着替えた軍装で軍帽を脇に抱える事もなく被っているのは、それに対する反発もある。

「えっと……リシアさんでしたっけ? 主様の部下さんですよね?」

 上目遣いで尋ねてくるミユキに、リシアは、自分の家臣にしておいてよく言うわね、と苛立つ。

 ロンメル子爵家への臣従を宣言したトウカは、恐らくはロンメル領邦軍に所属が変わるはずであり、ヴェルテンベルク領邦軍艦隊参謀のリシアとは、所属どころか軍そのものが変わることになる。

 その元凶に対してリシアが良い感情を抱くはずがなかった。寧ろ、トウカの恋人であるということは領内では有名な話であったらしく、輜重科の女性陣に聞け ばすぐに分かったことである。こうした情報に疎いのは、リシアに友人が少ないからであるが、出会った時点で後手に回っていたという事実に、リシアは予定を 変更した。

 勿論、諦める心算などない。奪い取るのだ。その覚悟を以て、リシアは今この場に立っている。

 幸いにして二人がいる露天席(テラス)は舞踏会場からは死角になっており、見えない上に二人以外に人影はない。ミユキが舞踏会の熱気と飲んだくれ共の下品な発言に疲れ、人目を避けていることは疑いない。

「リシア・スオメタル・ハルティカイネン大佐よ。今日は貴女に話があったの」

「??? 話……ですか?」腹立たしいくらいに可愛く小首を傾げたミユキ。

 リシアとしては血縁に恵まれただけであり、世間知らずの御嬢様にトウカをくれてやるなど我慢ならないことである。出会いが先であれば、リシアは自分が恋人となれたであろうことを信じて疑わない。機会に恵まれなかっただけで引き下がるなど有り得ない。

 俄然、実力を以て振り向かせるのみである。

「まぁ、噂の御姫様を見ておこうと思ったっていう理由もあるけど、重要なのは宣言しておくことね」

「宣言? えっと、ロンメル子爵家の権利は――」

 利権についての話だと考えたのか、慌てるミユキをリシアは片手で制する。

 その手の話を持ち掛けてきた貴族に対しては、断る様に言い含められているのか、その言葉は何処か機械的であり、先程までの口調ではない。

「そんな下らないことじゃないわ。私が言いたいのは、トウカの事よ」

「主様の? 主様は私の家臣ですから、ヴェルテンベルクの将校さんには関係ない筈ですけど……」

 不穏なものを感じ取ったのかミユキは、予防線を張っている心算か自身とトウカの立場を強調する。しかし、リシアからすとそんなことは百も承知であり、怯む必要もなければ、斟酌する必要もなかった。

「男女の関係に主従関係を持ち出すの? 下らない女ね。……トウカの貴女への感情は極限状況下での依存かしら?」嘲笑を浮かべるリシア。

 ミユキの顔は、驚きと怯えに歪んでいる。

 トウカの、ある一定期間より前の経歴が一切は不明であるということは、マリアベルより聞かされていた。恐らくはトウカは過去を隠す必要性を感じた為に何らかの手段を講じたとリシアは睨んでおり、その正体に対する推測も立てていた。

神州国に在って武門として高名な高円寺家の次男が、後継者争いで行方不明となっている。当初は分家の幾つかを糾合した次男が優勢であった後継者争いだが、 その次男は分家に預けられて半ば監禁状態で育てられて、英才教育を施されていたことと常に顔を隠す面をしていたという点が、リシアの心の琴線に触れた。

 トウカは、高円寺家の次男なのではないか、とリシアは睨んでいる。顔を隠していた為に、その素顔は分からないが、調べた限りでは背格好は類似しており、 容姿は神州国民族のものである。推測でしかないが、容姿に加え、かなりの高等知識を有している点を踏まえるとあまりにも都合が良すぎた。

 そして、神州国の正規軍が介入して、後継者争いで敗北した次男は行方不明となった。正規軍相手に不正規戦を行い、武門に恥じない勇戦を見せたという話は 有名であり、何処かに落ち延びた可能性は高く、その勇戦自体もトウカのベルゲン強襲の手腕を見れば類似している様にも感じられる。不正規戦の本質とは奇襲 の連続性なのだ。

 トウカは放浪し、皇国へと辿り着いた。

 落ち延びたことを踏まえると過去を隠すのは当然であり、恐らくは道中でも少数、或いは一人であったことは疑いない。どちらにせよ最終的には一人になった。権力と資金を喪った有力者に忠誠だけで付き従い続けるには、今の世の中は余りにも寒く厳しい。

 偶然に出会ったミユキに、トウカが依存するのは当然の帰結であるとリシアは考えていた。だからこそ、ミユキには負けるわけにはいかない。

「貴女は何の覚悟も持たない世間知らずの小娘よ。そんな女に、トウカを渡す訳にはいかない……手を引きなさい。それが貴女の幸せの為でもあるわ」

 高位種と低位種の恋愛は往々にして悲劇を生み出す。

 世間に流布する恋物語の様な恋もあるかも知れないが、結ばれた後、寿命や風習、文化、魔導資質、体力の差から問題が起こることが多い。

 恋は天国、愛は地獄。

 高位種との恋をそう例える人間種は多い。

 共に手を携えようと思っても、身体能力が違う為に握り潰される事もあれば、情事の際も力の限りに抱き締められれば背骨が折れる。共に過ごすには、あらゆ る部分が余りにも違いすぎるのだ。容姿の優れた者が極めて多い高位種に憧れから生じる恋心を抱くのは止むを得ないかもしれないが、それが愛に変わり、伴侶 となるのは世間的に忌避される風潮にある。

「高位種の貴女が人間種のトウカに恋心を抱くなんて許されないのよ。トウカが不幸になるのだけは駄目。不幸になるなら、貴女一人でなりなさい」

 依存でしかない関係ならば、先は見えている。異種族との恋は、そう容易いものではない。

 故にリシアは引かない。

 腰に左手を当て、右手でミユキを指差す。

「私はトウカと共に戦場に立って、その横で戦死する覚悟があるわ。……だから、引かないと(うそぶ)くなら、貴女の覚悟も聞かせなさい」

 依存であると判断したリシアだが、それが事実か否かの確認はしていない。無論、依存ではなかったとしても引き下がるつもりはないが、正面切ってミユキから奪い取ってこそ意味があるとリシアは考えていた。

 ミユキは魅力的な女性である。男性からすると魅力的に感じるであろう多くの要素を持つミユキは、余りにも強敵である。

 貴族の婦女子達の中に、トウカに話し掛ける者が少なかったのは、元よりミユキに太刀打ちできないと匙を投げているに過ぎない。確かに数の少ない高位種の 中でも珍しい天狐族の姫君であり、優れた魔導資質を持ち、他者が思わず笑顔になる様な天真爛漫な表情を見せる。その上、身体つきも腹立たしい程に恵まれて いるので、正面に立つだけで不愉快極まりない気持ちになるのだ。本来であれば、リシアも十分以上に容姿に恵まれているが、身体つきはミユキほどではない し、唯一、自他共に胸を張れる紫苑色の髪は、トウカがそれに価値を見い出していない為に意味がない。無論、紫苑色に憧憬を向けないという点こそが、トウカ が皇国の生まれではないという証左にもなるのだが。

 リシアの舌鋒に、ミユキは不思議そうな表情をするだけであった。

 ただ、怯えることもなく、リシアを興味深げに見つめるその瞳は、トウカが戦況を見極める際の無機質な瞳に似ている。

「私は主様が好きです。そこに論理とか難しい考えを挟んだりしないもん。難しいことなんて言わないで、好きだからって理由でいいんですよ。……貴女の言っていることは面倒臭いです。分からないです」

「あ、貴女ねぇ……」

 恋心に忠実なだけで、それ以外の事柄を一切考慮していないであろう言葉に、リシアは絶句するしかない。少なくとも軍人として論理的に考え、道筋を立てる事を当然として生きてきたリシアにとって、ミユキは理解不能な思考によって動いている。

 或いは、ミユキの考え方こそが女性としては正しいのかも知れない、とリシアは思う。一人の女性として好きな男性を追い求め続けるのは、恐らくは正しいのだろうが、二人の立場は単純ではない。それではいけないのだ。

 二人にとって互いの立場は煩わしいものでしかないのかも知れない。闘争を続ける北部の中で重要な地位を占めつつある二人だが、それが当人にとって幸せな 事とは思えなかった。しかし、現状では二人はその立場を捨てるつもりはない事は明白で、逆に立場を強化することに腐心している。

「きっとリシアさんの言っていることは正しいんだと思います。でも、主様の恋心は論理では動かせないですよ?」

 理路整然としているトウカを圧倒できないと考えるミユキは潔いのかも知れない。勝てるかも知れない分野で戦おうとするのは軍事的に見ても正しいが、恋愛においても同様なのかも知れない。


 恋愛と戦争では全ての行為が許されるのだ。


 ならば、きっとミユキの言葉は正しい。

 そして、リシアの言葉も正しい。

 恋は戦争なのだから。

全てが赦されるのだ。

 善悪や好悪の判断など意味はなく、結果こそが優先されるのは戦争と同じかもしれない。

 ならば、リシアがミユキを非難する事など御門違いも甚だしい事になる。

「そうね。そうよね……なら、はっきりと言った方が良いわね」

リシアは溜息を吐く。らしくないことしているという自覚はあった。

 奪い取るのだ。廻り(くど)い論理など必要ない。

 被っていた軍帽を取り、煩わしい長髪を揺らすと、リシアは胸を張って告げる。


 これは宣戦布告である。


「トウカを寄越しなさい……いえ、奪って見せるわ」

「嫌です。ザムエルさんで我慢してください」

 不愉快です、と狐耳を立てたミユキ。

 リシアは、口元を引き攣らせる。

 ――この女狐っ……ッ!

 嫌いだ。やはり、狐は人を化かす生物なのだ。

 早急に、“駆除”しなければならない、とリシアは、ミユキを睨み付けた。

 

 

 

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 恋愛と戦争では全ての行為が許される。

         《独逸第三帝国(サードライヒ)》 空軍元帥 ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング