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第一〇四話    五〇〇年越しの確執

 

 


「貴官がサクラギ殿か?」

 無駄のない物腰で一人の初老の男性がトウカを誰何する。

 リシアが席を立つ頃合いを見計らっていたのか、都合のいい時期(タイミング)であった。

 浅黒い肌に白い顎鬚と口髭を蓄えた、顔立ちよりも若々しく見える体躯を軍装に包んだ佇まい。爛々と輝く眼光は、騎士や軍人と言うよりは洗礼された野獣を思わせる。フルンツベルクとは別の方向性を持つ雄々しいというべき風格には誇りと矜持が滲み出ているかのようであった。

 その野獣騎士の顔を見たリシアは立ち去ることを止めて敬礼する。

 身体的には良い年の取り方とはこの様なことを指すのかも知れない、とトウカは、老いるならば斯ありたいものだと考えつつ、リシアに視線を巡らせる。

 その視線の意図に気付いたリシアは、トウカに向き直る。

「この御方は、ジギスムント・ヴァルター・レダ・フォン・シュトラハヴィッツ少将……先代シュトラハヴィッツ伯爵で――」

「おうおう、嬢ちゃんそんな固いのは無しにしようや。俺ぁ、そういうのは無理でなぁ」

 野太い笑声と共に、シュトラハヴィッツ少将がリシアの尻を軽く撫でる。

 就寝中のヘルミーネを応接椅子(ソファー)に寝かして立ち上がったトウカの背に隠れるリシア。その姿を愉快げに見つめるシュトラハヴィッツ少将に呆れつつも、トウカは敬礼する。

「サクラギ・トウカです。小官も虚飾は好みません。率直な物言いを好みますれば」

「おう、話しの分かる奴で助かった。儂もなぁ、固いのは好かん。気にするな」

 右手を軽く上げて、シュトラハヴィッツ少将は上品さの欠片もない動作で力任せに応接椅子(ソファー)に腰を下ろす。

 トウカとしては考えが纏まっていない以上、何処へなりとも消えてくれと願っていたが、やはりそうはいかない。

 目覚ましい戦果を挙げた新進気鋭の野戦参謀と多くの者には見られているとはいえ、半ば隠居していた貴族が一目見ようと思う程、トウカは己を評価していな かった。寧ろ、容姿に優れたザムエルやリシアの等がより目の保養になるのではないかとすら考えている。何せ、トウカはこの舞踏会の場に在っても領邦軍礼装 ではなく、領邦軍第一種軍装を身に纏うという味気ない服装で、胸に煌びやかな勲章が煌めいている訳でもない。そうした“装飾品”が各領邦軍から送られては 来たが、その一切を着用していなかった。略綬(ローゼット)すら身に付けてはいない。

 壁の華……否、雑草の様に会場の隅で沈黙していれば、気付く者など居はしないだろう。

 皆、服装が個性的なマリアベルや貴族となったミユキ、貴族令嬢に手当たり次第に声を掛けているザムエルに意識を向けている。無論、トウカが舞踏会場で最も注目を受け難い場所にいる為に気付かれないということもある。現に今も一番、他の応接椅子(ソファー)と壁で死角になる位置を選んで座っていた。

 トウカが、中盤に差し掛かりつつある舞踏会で、ここまで貴族の注目を避ける理由は明快である。


 踊れないのだ。


 ヴェルテンベルク領邦軍士官学校では、外交の一手段として、他貴族との関係を考慮して舞踏の練習にも力を入れているが、トウカはそもそも士官学校に入学 すらしておらず、踊ったことなど祖父に手を引かれて連れ出された夏祭りの盆踊りくらいのものである。例え、トウカが《大日連》で陸軍士官学校に進んでいた としても、海軍兵学校でしか舞踏は指導されないので無意味なことであるが、ミユキと踊れないことは悔やまれた。

 ちなみにミユキは何処かで経験したのか踊れるらしく、盛んに尻尾を振って、貴族の小父様方と手を取り合い踊りに付き合わされている。そして、マリアベルは畏れ多いので誘う者はいない。

「それで。うちの娘は役に立っとるのか?」

「それは、一体、どちらの娘で?」

 シュトラハヴィッツ少将の問いに、トウカは笑顔で首を傾げる。

 無論、ベルセリカのことであろうが、娘はアンゼリカもおり、トウカは後者がクラナッハ戦線でフルンツベルクと共に巧妙な用兵を以て敵を撃破したことを知っている。その上で尋ねたのだ。

 無論、トウカからベルセリカの名を出す気はなく、公式には未だ行方不明ということになっているのだ。御披露目はマリアベルから成されねばならない。

「どっちの娘だと面白いと思う? まぁ、どちらからも嫌われておるのは知ってるがなぁ。……はっはっはっはぁ!」

 置かれた果実酒の酒瓶を手に取ったシュトラハヴィッツ少将に、トウカは失笑を漏らす。

 どちらも戦野では活躍しているが、同時にトウカが頬を引き攣らせるような一面を持っている。眼前の野獣親父の血の成せる業であろう。

 ――互いにセリカを知っているということは確認できた。この場に部外者であるリシアとヘルミーネがいる以上、踏み込んだ話はできないが。

 シュトラハヴィッツ少将が声を大にして、ベルセリカの生存とシュトラハヴィッツ伯爵家への帰順を叫び、済し崩しに外堀から埋めていこうというのであれ ば、正直なところベルセリカの意思に任せる他なかった。マリアベルに相談すれば間違いなく領邦軍情報部実働三課による暗殺を目論むだろう。戦時下である以 上、罪など誰にでも擦り付けられる上、戦況次第では問うている暇すらなくなるかも知れない。

 だが、今のトウカは不明瞭な立場であり、マリアベルに弱点を晒す事はできず、ヴェルテンベルク領邦軍情報部に“御願い”をすることもできない。

 トウカが現時点で有している戦力は、盟約によって主従の関係を持つベルセリカだけである。

 しかし、ベルセリカに父親を殺せとは言えない。

 人道的問題など戦争に携わった以上は最早意味を成さない言い訳であり、トウカは気にしない。なれど、ベルセリカが自身を見限る可能性を考えれば、決して負うことのできない不利益でもあり負い目となる。

 だが、シュトラハヴィッツ少将は、如何なる手段も、今の今まで講じてはこなかった。

 関係悪化に際し、ベルセリカが気負うと考えたからである。

 眼前で、歳経た快男児のような表情で笑っているだけだ。

 娘であるベルセリカに嫌われていると口にしているが、確かに公的……例えば、シュトラハヴィッツ伯爵位への就任を対価に陣営に加わる様に要請したとして も、拒否されれば面子に傷が付く。それは皇国中に親子の不仲を轟かせることを意味する。そもそも、ベルセリカがシュトラハヴィッツ伯爵に就任するならば、 喜んでロンメル子爵家の後ろ盾に使おうとトウカは考えていた。安易に見返りを以てベルセリカを陣営に引き込もうとしないことは間違った判断ではない。

 シュトラハヴィッツ伯爵家としても、これは極めて難しい問題なのだ。

 無論、好機でもあるが、下手に不仲が周囲に伝わると必ず蠢動する者がいるはずであり、婚約や拝領の話が噴出して貴族間で取り込もうという流れが必ず生じる。

トウカとベルセリカ、ミユキの関係は周知の事実であるはずであった。トウカとミユキにも利益が回る様に配慮してくることを考えれば、長期的に見て利益が不 利益を上回るなら話に乗る事も吝かではない。当然、婚約に関してはベルセリカの自由意思に任せるが、初夜で婚約した相手が死にかねないので口は挟めない。 罪科が飛び火しては敵わない。

 だが、下手な手を打つと、ベルセリカが最高指揮官を務める予定である蹶起軍総司令部から冷遇されるという可能性がある。武門であるシュトラハヴィッツ伯爵家にとって、戦野で冷遇されることは不名誉以外の何ものでもない。

 ――五〇〇年以上も顔を合わせていなければ、娘の為人(ひととなり)も推し測れない、か。

 トウカやミユキなどは、ベルセリカという英傑がそう容易い話に乗る女性ではないと知っているが、シュトラハヴィッツ伯爵家や他の貴族からすると野心や復讐心からその手の話に乗る、或いは利用してくるという可能性を捨てきれないのだ。

 トウカは不謹慎ながら愉快になってきた。

 ――古の英雄に渦巻く陰謀と権力の影。 成程、小説的で歴史的だ。……その中心にいるセリカには同情するが。

 シュトラハヴィッツ少将は果実酒の酒瓶(ボトル)を一瞥すると、木栓(コルク)を鋭い犬歯でいとも容易く引き千切る様に引き抜き、木栓(コルク)を床へと吐き出す。

 そして、トウカに果実酒の酒瓶(ボトル)を差し出す。トウカは、硝子碗(グラス)を手に取る。

「頂戴いたします、少将殿」

「なに、構いやしねぇさ。うちの娘を随分と可愛がっていてくれるようだからな。このくらいはしてやらねぇと……返品してくれてもいいぜ? それとも何か? これから二人で漁りにでも行くか? んん?」

 トウカの手にした硝子碗(グラス)に果実酒を注ぎながら、シュトラハヴィッツ少将は破顔する。

 自分で口にした言葉に自分で大笑する姿に、トウカは祖国の祖父の面影を見た気がして苦笑を零す。

 トウカにとり好ましいと感じられ、不思議と嫌悪できない破顔した表情。隣のリシアは階級が上の人物の会話に口を挟まない様に沈黙しているが、不機嫌の度 合いを増している様に見受けられる。或いは、ザムエルが歳経ればこの様になるやも知れないという粗野な佇まいも、女性には不評であるのだろうと確信させ る。

 トウカは果実酒の酒瓶(ボトル)を受け取り、注ぎ返そうとしたが、ぞんざい手を振って酒瓶に直接口を付けたシュトラハヴィッツ少将に負けじと言い返す。

「それは御機嫌ですね。この会場を見ても分る通り北部には美しい女性が多い。男としては目移りしてしまうのも仕方のないことです。幸いにして女性を閨に誘う肩書には困りませんから……そうですね。二人で舞踏会を抜け出して女神の島にでも」

 下卑た笑顔の二人の言葉の応酬だが、トウカの脇腹をリシアの肘打ちが襲ったことで中断する。

「ふぅん……貴族の御令嬢にも手を出したの? ……最低」

 拗ねたようにそっぽを向いて呟くリシアに、二人は笑う。

「全く同意だ。己でなければ軽蔑していた。だが、一番困ったのは、そんな男に愛を囁いてしまった女性だろう」

 ハルティカイネン大佐もそう思わないか?とトウカは問う。

 内心では、まぁ何と酷い男か、とトウカは己を嘲笑う。

 これでリシアがトウカから離れるのであれば其れまでの関係に過ぎず、そもそも多分に打算的な恋であるようにも見えなくないので引き止める心算も非難する心算もない。

 好きだ。愛しているなどと言うは容易いが、その理由や原理を求めるのは難しい。故にトウカは、そういった感情にある種の幻想を抱いていると言っても過言ではない。

 どれ程に書籍を読み漁ろうとも、そこに確たる理論や合理性が挟まれない以上、トウカにとって恋愛という事象は優先順位が極めて低いものであった。そして同時に理解し得ないものであるが故の憧憬を抱いてもいた。

 だが、ミユキとの出会いで理解したのだ。それは、成程、理論や合理性など何の意味もなさない感情であり刹那的なものなのだと。

 嘗ての故郷でのトウカを知る者達が、今のトウカを見れば人間らしくなったと言うであろうこと疑いないが当人は気付いていない。あまりにもミユキの存在が 行動に影響しているからであり、合理性や理論的でない言動が目立つようになったことに加えて、優先順位にミユキが入ったことが大きく影響していた。

 打算のない瞳で、自身を好きだと言った仔狐を異邦人は受け入れた。

 しかし、リシアには栄達という打算が見え隠れしており、それは酷く人間的であり好ましいと感じるものの、ミユキの純真無垢な恋心と比較してしまうと色褪 せる。リシアとミユキ。出会いが違えば生い立ちも違い、種族も違う。あらゆる部分で違った方向性を持つ二人の少女だが、何故か今、この時代、同じ男に恋を してしまった。

 そして、ミユキという幻想を抱いてしまったからこそ、トウカの理想はリシアという少女から遠のいた。

「……心底、同情したい気持ちだ」

 リシアは、トウカの言葉の意味を察したのか、プイッと顔を背ける。当人にも自覚があるのか反論は返ってこない。

 自分が女性を言葉巧みに騙している様な気がしたトウカは、軽く溜息を吐く。

 リシア……それにミユキには罪などないのだ。

 総ては一時の感情に流されて……否、今も流され続けているトウカにこそ責任は帰属する。どれ程に言葉を重ねようとも、最終的にはリシアの愛の宣告に対する答えを保留にしていることには変わりない。それもまた打算である。

「羨ましいことだな、この野郎め。青春じゃぁねぇか。俺も若い頃は負けとらんかったがなぁ」

「おう、痴情の縺れで刃傷沙汰ならば、うちの娘が圧倒的に優勢だな」と続けるシュトラハヴィッツ少将に、トウカは口元を引き攣らせる。

 剣聖の豪剣が痴情の縺れで振るわれたなどというのは余りにも体裁が悪い。何より、トウカが戦場以外で剣聖に剣を抜かせた女の敵という扱いになる。

「心配なさらずとも彼の気高き女狼の心は、天霊の大地にいる永遠の恋人のものでしょう。その一途な意思を曲げさせる気はないし自信もない」

 そう、ベルセリカとトウカを結ぶ関係は、決して恋心などではないのだ。恋心などであってはならないのだ。

 だが、ベルセリカが何故、今この時、現れたのかという疑問を持つ者は多い。

 北部の危機と知って馳せ参じたというには時期が遅く、堂々とエルゼリア侯の横に立ち、名乗りを上げて蹶起軍をその武威を以て掌握するでもない。ましてや 騎士道相反するマリアベルのヴェルテンベルク領邦軍に同行する形で北部に現れたとなれば、トウカやミユキとの関係を邪推する者は少なくない。特に男性であ るトウカとの色恋に結び付くのは致し方ないことと言えた。

 何より、ベルセリカは常にトウカに家臣としての礼を取っている。

 トウカは、成程と気付く。その点を如何様に解釈するか判断に迷っていると見て間違いはない。

 それは、関係が明確となるまで、如何なる手段が好手であり悪手であるか不明確であることを意味する。戦時下の勢力争いで博打を打つ者はいない。悪化する 戦況によって政争を不得手とする者は、既に比較的に優秀な指導者の下で纏まっている勢力に糾合されてしまっている。流動的な状況を読み切れない者が政争を 乗り切るには纏まるしかなかった。

「ほぅ……では、彼の娘を何と誑かした?」野獣騎士の瞳が形容し難い色を帯びる。

 リシアが机の下でトウカの手を取って心配するが、当人は構わずに涼しい顔である。

 二人の黒い嘲笑と、怒気を滲ませた声音が会場の端に影を落とす。

 しかし、それ以上の大音声と感情の奔流が舞踏会場を満たしたことで、それを気に留める者は現れなかった。

 トウカが視線を巡らせると、そこには人だかりができていた。

 時折、マリアベルとミユキが雑踏の中に見えるが、中心は二人ではない。リシアに視線を向けたトウカだが、首を傾げられる。

「何時ものことね。マリア様に飲み比べを挑んだ莫迦でも出たんでしょう? ……良い歳した大人が(きたな)らしい」

 確かに綺麗な飲み方ではないが、若者の飲み会では常態的に行われ、多くの(酔い潰れによる)戦死者を出している。北部貴族は何時までも若さを忘れないのだ。

 ――これは、あれか。若さ故の……失敗か。

 無論、失敗とは良い歳をしたマリアベルの乱痴気騒ぎではなく、酒量で挑戦しようという挑戦者である。マリアベルの酒量を知るトウカとしては、その様な無謀な挑戦を行う度胸はなかった。

「貴族が一気飲みですか。舞踏会と場末の大衆酒場(ブロイゲラー)の違いなど、ヴェルテンベルク伯には関係ないのでしょう」

「儂もあと三〇〇歳若ければ応じてやったものをな」

 二人は溜息を吐く。

 既に腹の探り合いをしようという雰囲気ではない。無論、二人が矛を収めたのには其々の思惑があったからであるが、打算というものは往々にして破綻するものである。


 そう、こんな風に。


「今日は挑戦者も美人みたいね。てっきり何処かの貴族の次男坊かと思ったのに」

 リシアが、貴族達の隙間から見えた女性を目にして感嘆の声を上げる。

 二人もまた舌先三寸の戦いによって披露した頭を巡らせる。トウカは好奇心から、対するシュトラハヴィッツ少将は下心からであったが、二人の驚きに差はなかった。

 口に含んだ果実酒を吹き出して咽るトウカに、酒瓶(ボトル)注ぎ口を噛み砕いて唖然とするシュトラハヴィッツ少将。

 足元が覚束かず、フルンツベルクに支えられているマリアベルに、悠然と背を向ける長身の女性が、口を開けて呆然としている二人の視線に気付いて深い笑みを口元に刻む。


 皇国が剣聖、ベルセリカ・ヴァルトハイムであった。


 蹶起軍最高司令官就任宣言まで大人しくしているものと思っていた二人だが、剣聖は決して二人が思う程に政治に疎い訳ではなかった。寧ろ、今までは口を挟 む必要がないからこそ沈黙を保っていただけである。彼女の蹶起軍最高司令官就任が決定した状況となった今、沈黙を続けることが得策ではないことは明白で あった。軍事が政治に隷属する以上、銃後の政治状況を推し量ろうと、ベルセリカが貴族達との会話を望むことは何ら不思議なことではない。

 ベルセリカは、嘗ての過ちを再び犯すことのない様、政治への介入を躊躇う心算などなかった。敗北は失うことを意味する。政治力の後退は、軍事力の低下を意味する。ならば、正さねばならない。

 ベルセリカの意思を、トウカは朧げに理解した。

 それは、剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムが全霊を賭して、蹶起軍最高司令官の任を全うするという静かなる意思表示とも言える。トウカの指示に従うだけの 権勢という御飾りではないということに加えて、あくまでも自身が剣聖ヴァルトハイムであると示し、尚且つシュトラハヴィッツ伯爵家に対する一種の宣戦布告 であることも間違いない。

 無論、必要以上に正体が露呈して相手が委縮しない様に、魔術的な光学偏光なのか、いつもは大きな三つ編みにしている長髪を解いた上で冠帯(ティアラ)の如く輝く黄金へと変化させている。翡翠色の象意の少ない、簡素な膝下までの丈しかない饗宴衣裳(パーティードレス)から覗く、長い脚も決して下品ではないが男達の視線を誘って止まない。

 愁いを帯びた優しげな印象の表情に、何処か妖艶さを演出する長脚という佇まいから、トウカは視線を逸らして果実酒を煽る。

 少なくとも酒精(アルコール)が入っていれば、赤らんだ顔であっても言い訳は立つ。

 永く生を紡いだが故の魅力。

 ベルセリカやマリアベルには、ミユキやリシアが未だ獲得し得ない“深み”がある。妖艶さや色香とはまた性質の違う、深く心を侵食して行くかのような魅 力。一度、侵食されれば底なし沼の様に心身ともに溺れていくであろうことは疑いなく、ふとした瞬間に見せる物憂げな眼差しや淡い感情の発露などには例えよ うもない誘引力があった。

 トウカも、ミユキという存在との出会いが無ければ、また大きく違った女性関係を描いていたかも知れない。

 悠然とした足取りに、他の貴族に声を掛ける隙を与えない雰囲気を携え、ベルセリカはトウカ達の座る一角へと赴こうとしていた。

 トウカはそれに気付か振りをするが、無論、見逃してはくれない。

 そして、トウカの座る応接椅子(ソファー)を横切ると、その背後に立ち、その双肩に優しげな手付きで手を置いた。

「御屋形様、何やら楽しげに歓談しておられた様子。某も混ぜてはくれまいか?」

「……勿論だ。俺の為に刃を振るう戦姫を拒む理由を持ち合わしてはいない」

 トウカは引き攣りそうになる口元に懸命に自制を促しつつ、背後のベルセリカに右手を差し出す。

 トウカの右手を取り、その手に誘導されるように、ベルセリカがトウカの右脇へと様になった動作で腰を下ろして長い脚を組む。

 糞親父に対する当て付けに利用されそうだと感じたトウカだが、この期に及んで逃げることは難しく、左脇にはリシアも座っており挟撃された形になる。ベル セリカはトウカの右手を優しげな手付きで……実際はかなりの握力で掴んだまま、リシアもトウカの軍装の上着の端を掴んで離さない。

 これから起こる展開を考えて、トウカは肩を落とす。

 一瞬、視線を交わしたトウカとベルセリカは互いの意思を確認する。

 トウカは、ベルセリカが己の手を振り払いシュトラハヴィッツ伯爵家へと戻ることを恐れ、ベルセリカはトウカが生家と敵対関係になることを恐れていた。

 トウカは手を強く握り返し、ベルセリカもそれに応じる。傍目には、恋人同士の逢瀬にも見えるかも知れないが、その内情は大きく違っていた。

「ちょっと、トウカ。その女性は誰!?」

「……おう、儂も知りたいもんだな」

 ベルセリカと気付いていないリシアと、気付いていながらも敢えて少し思案した後に追従したシュトラハヴィッツ少将の言葉に応じようとトウカは口を開こうとする。

 しかし、トウカの頬を撫でることで制したベルセリカが悠然と微笑む。

「妾は異邦人(エトランジェ)の携えし一振り……否、戦奴隷に過ぎん。奴隷に名など必要で御座ろうか?」

 肩を竦めて苦笑するベルセリカに、トウカは頭を抱えたくなった。

 自身の名を明言することを避けたということは、シュトラハヴィッツ家の人間として振る舞う事を自ら否定しているということに他ならない。その辺りの匙加減は、トウカに任せるというということだろうことは疑いなかった。

 リシアからの再度の肘打ちによって顔を青くしたままに、トウカは諦めの境地に立たされていた。

「まぁ、詰まるところ、この男の玩具に過ぎんよ」ベルセリカがトウカの肩に、しな垂れ掛かる。

 シュトラハヴィッツ少将の表情は笑顔で固定されたままだが、その手にある酒瓶が断末魔の悲鳴を上げている気がした。現に亀裂が走っている。ベルセリカの父親に対する“当て付け”は、十分にその威力を発揮していた。

「如何なる形であれ、愛とは一種の隷属。……御屋形様、某は”何時もの様に”雌犬同然の扱いでも構わんよ?」

 切なげな声音で呟かれた言葉に、トウカは言葉を返せないでいた。

 眼前に父親がいる状況で迂闊なことは口にできない。既に手遅れの感が否めないが、軍人は常に被害を最低限に留める努力を怠ってはならないのだ。

 そうは考えても、何か良案が思い付くでもなく、トウカは果実酒を煽るしかない。

「し、しかし、それでは御両親が納得せんだろう!? わ、儂は認めんぞぅ!」

 魂の叫びと化したシュトラハヴィッツ少将の言葉。ベルセリカの挑発は十全に作用していると言える。トウカとしては真に遺憾であるが。帰って布団に潜り込みたい心情である。

 最早、自棄糞である。

「俺がこの戦乙女を求めた。時代の犠牲となり傷付き、退廃と諦観の海に身を沈めつつあるその手を取って今生へと引き上げたのは“何処か”の父親ではなく他ならぬ俺だ」

 嘘ではない。少なくとも、ベルセリカの諦観を吹き払ったという自負はある。

 トウカは右腕をベルセリカの肩に回し、饗宴衣裳(パーティードレス)の胸元に差し入れると、胸を鷲掴みにする。

 ミユキほどではないが、ベルセリカも十分に豊かな身体つきをしていることを再確認したトウカ。ベルセリカは驚いた表情を浮かべることもなく、頬を上気さ せて蕩けた表情を見せる。演技とは言え、噎せ返る様な雌の臭いに、トウカはベルセリカの胸を跡が残りそうな程に強く掴む。

 トウカは、ベルセリカを侍らせたままに嗤う。

 ベルセリカは、トウカの首に手を回し、愛を囁くかのようにその顔へと擦り寄る。

「某の親は既に死んでおろう。今更、親が現れても困るで御座ろうが……それに、御屋形様が親以上に可愛がってくださる」

 ベルセリカは、シュトラハヴィッツ伯爵家に帰順する心算はないのだろう。

 元より生家を飛び出した理由は、反対された恋愛の末の事であり、騎士としての教育が女性として生きる事を著しく抑圧していたことに対する不満も相まっ て、ベルセリカにシュトラハヴィッツ伯爵位の継承権放棄を決意させることとなった。ヴァルトハイム戦記の序章に書かれている通りであれば、ベルセリカは騎 士としてよりも、女性としての生を望んでいたことになる。

 だからこそ、女性として振る舞うことを、トウカは認めねばならない。

 確かに剣聖ヴァルトハイムの権勢を、トウカは利用する形で自身とミユキの立場を堅持し、拡充しようとしていたが、それはベルセリカを縛るものではなく、 あくまでも権勢を借りているに過ぎない。蹶起軍最高司令官への就任は要請であり、命令ではなくベルセリカの意思を尊重し、最悪の場合はマリアベルが蹶起軍 最高司令官を兼任する事も視野に入れていた。

 頬を優しげ手付きで撫でるベルセリカの手の冷たい感触に、自身の心が冷えてゆくことを意識しつつ、シュトラハヴィッツ少将を見据える。

 我等に肉親など居らず、またそれに縛られることもないという無言の名言である。

 シュトラハヴィッツ少将は、傍目に見ても分る程に脱力した姿で二人を見ている。

「……邪魔をしたな。後は若人達で楽しみな」

 先に折れたのは、シュトラハヴィッツ少将であった。

 トウカが立ち上がり敬礼しようとする暇も与えず、立ち上がり背を向けたシュトラハヴィッツ少将の姿に、ベルセリカは今まで見た事もないような無邪気な笑みを浮かべる。そこには妖艶さなどなく、単に親への悪戯を成功させた子供の笑みがあった。

「見たであろう、御屋形様。あの死に損ないめが、明日には憤死しておるで御座ろうよ!」

 愉快で堪らない、とトウカの肩をばしばしと叩くベルセリカだが、トウカの気分は急降下爆撃の降下角度並みに低下している。

 トウカは、間違いなく恨まれる。胡散臭い負け戦に娘を引き摺り込んだ上に、情婦の如き扱いをしているとなれば、世間の御父様方が寛容であるはずもない。薄暗い夜道で出会えば文字通り木端微塵にされるかもしれない。

 ――だが、人間種に懸想しているとなれば体面を重んじる武門なら手を出し辛い。

 当面はシュトラハヴィッツ伯爵家も沈黙を貫く可能性が高い。

 無邪気に笑うベルセリカを見るに意図して行ったことではないのは明白であるが、トウカとしては悪くない状況である。左隣で顔に朱を散らしたままに、軍装の端を掴んで何かを呟いているリシアを横目に、トウカは溜息を吐く。

 皇国貴族は自身より低位の種族の血が交わり、子孫の能力が弱体化する事を忌避する風潮がある。無論、他種族と交わっても子孫の能力が低下するというのは 確実なものではなく、あくまでも割合として高いという程度ものに過ぎない。しかし、他種族との交配を、世代を重ねる度に行うと種としての能力……特に魔導 資質の低下はやはり避けられない。

 そして、皇国建国時代から続く闘争の歴史は人間種などの短命種からすると神代の時代であるが、長命種には何代か前……否、当事者である者もいる。なら ば、多種族国家《ヴァリスヘイム皇国》の成立後に起きた数々の動乱も当事者であるということに他ならず、少し前の出来事と捉えている者もいるかも知れな い。

 傷付き、或いは淘汰されてきた種族を知るが故に、血統の混血化に恐怖心すら抱いていることは疑いない。

 ――まぁ、血統の保持で科学の進歩に対抗できると思っているならばお笑い草だが。

 対する人間種や低位種は血統を保つことによる能力の維持など考えることはなく、己を護り、意志を貫く手段として科学という技術大系を選択した。

 高位種……特に長命な者達の前では、未だ脆弱な科学技術だが、同時に知識でしかない為に、誰しもが継承する事が出来る上に、その限界は未だ見えず発展を続けている。科学は無限の進歩が許された存在なのだ。

 ――皮肉だな……

 次代の能力を維持する為、ヒトとしての感情の一つを曲げねばならないかも知れないのだ。そして、いつかは科学の進歩に追い抜かれる運命にある。相対的に 力を継承し易い科学が発展し続けるのに対して血統は維持できても全体を底上げし、物量と質量を向上させることはできず、あくまでも維持に留まるだけであっ た。

 極稀に、ベルセリカのように種族の中から傑出した能力を有する個体も生まれるが、全体的に見ると、それはあくまでも例外の範疇でしかない。

 トウカの推察を余所に、ベルセリカが立ち上がる。

「うむ、今日は佳き日であるな。……では、マリアベルに止めを刺しにゆくか」呵々大笑しながら悠々と去って行ったベルセリカ。

 リシアは、一連の遣り取りの意味を理解しかねたのか、渋面を浮かべている。

「俺は望んで女性に不埒なことをした訳ではなく、少将殿を牽制して……痛いのだが?」

 頬をリシアに抓られたトウカは、不満の声を上げるものの、当のリシアはそっぽを向いたままであった。

「説明っ!」

 リシアの問い掛けに、トウカは首を横に振る。

 軍事機密に触れるというわけではなく、強いて言うなれば政治機密というものであり、ベルセリカの過去にも必要以上に触れることになる。額面通りの機密と家出娘の親父に対する当て付けである、と答えたトウカだが、リシアはあからさまに不満だという顔をしていた。

「なによ、貴方の女性関係って機密なの?」

 汚らわしいモノを見るかのような目で、トウカ見据えるリシア。

 是とも否とも言い難い問いに、トウカは沈黙するしかない。口を開けば開くほどに不利な立場になるのは、トウカがこの手の駆け引きに疎いからであるが、現状の打開についての努力は放棄してはいない。

 リシアの頭に手を伸ばす。

 ミユキならば頭を優しく撫でてやり、尻尾を梳いてやれば最初は怒りながらも最終的は機嫌が良くなる。無論、翌日には上手く丸め込まれたと自覚しているのか、再び頬を膨らませているのだが険は取れている。人間種のリシアに尻尾がないことが悔やまれてならない。

 だは、トウカの手は空を切る。

「他の女性の胸を鷲掴みにした手で私に触らないでもらえる? (けが)らわしい」

 ついでとばかりに、トウカの行き場を失くした手を叩き落としたリシアは、溜息を吐いて立ち上がる。

「決着を付けないといけないことは、思ったよよりも多そうね……」

 リシアは、氷水の容器に冷やされていたもう一本の果実酒の酒瓶(ボトル)を引き抜くと、その場を去って行った。

 

 

 

 

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