第一一〇話 狐達の思惑
「好き……好き……好き……好き……好き……好き……」
座り込んで花弁を一枚一枚と毟り取っているミユキに、トウカは曖昧な笑みを浮かべる。
見たところ花占いのように見えるが選択肢が一択に過ぎず、余りにも意味のない行為に思えたからこそ尋ねた。
「ミユキ……それだと花占いにはならないだろう?」
「主様は私のこと嫌いだったりしちゃいますか?」
心底、不思議そうに首を傾げて見上げてきたミユキの言葉に、トウカは意味のない質問だったと謝罪する。その点には一切の議論を挟む余地もなく、或いはマリアベルとの関係が露呈しての当て付けではないのかと疑ったトウカは胸中で安堵した。
「なるほど。問題無いな」
「でしょ。合理的な占いなんですよっ」
ミユキの意気込みにトウカは頷くしかない。
一択であれば占いの価値はないのではないのかという疑問はあるが、当人が満足しているならばトウカに否はない。占いや呪いの類は当事者の精神の安定を意図して行われるものであり、それ以上の価値はなく否定する根拠も理由もなかった。
「態々、温室に来てまで花占いとはな」
「えへへ、色んな花が咲いていて楽しいですよ。でも、あの紫苑桜華って凄いですよね。限られた場所でしか咲かないって聞いたんだけど……」
ミユキの視線の先には、一本の巨大な大木が鎮座している。
紫苑桜華。
透明度のある紫水晶……紫苑色の花弁が桜吹雪となって降り注ぐ中、トウカはミユキと共にその巨大な桜を見上げる。
樹齢二千年以上とも言われる神代桜を見たことがあるトウカだが、それを圧倒する規模と神々しさを放っていた。神代桜は日本武尊が東征の際に植えたと言い 伝えられるが、眼前の紫苑桜華にも戦火に消えた女神の右手から種が零れ落ちたという逸話がある。それが事実とすれば、四五九九年以上の樹齢を誇ることとな
るが、事実はトウカにも判断が付き難い。この世界に於ける神話は虚実が入り乱れており、虚飾が前提である地球の神話とは本質的に違う。
「紫苑桜華を護る形で、この温室を作ったらしいが……」
長い歴史を誇る物質が神聖視され、敬われることは決して珍しいことではないものの、巨大な神木を防護するだけの温室を建造し、維持するにはそれなりの資金が必要となる。
「それだけの価値があるのだろう」
「マリア様は北部領民の心の拠り所って言っていました。きっと、みんなの誇りなんですよ」ミユキは花弁の半数が捥がれた花を手に小さく笑う。
トウカも笑みを返す。
利益や権益の拡大や維持の為だけでなく、精神的な支柱の保全にまで資金を回すのは為政者としても立派な行為である。それがもし、何一つ齎さないものであったとしても維持せねばならないものは確かに存在する。
緩やかな時を過ごす二人。
しかし、第三者の声が響く。
「ここにいたの、トウカ。他の将校は再編制に忙しいのに自分は花見?」
不満げな声音に、苦笑しながらトウカは振り向く事もなくその名を告げる。
「リシアか。如何した? 再編制の指示は終えたはず。問題でも?」
横に立ち並んだリシアは、腕を組むと不満げな顔をする。
名を呼び捨て、唇を尖らせたままであるということは、個人的な時間としてトウカと出会っているということであり、軍人として眼前にある訳ではないのだろう。
「別に何もないわよ……私も居心地が悪いから――」
「主様に逢いに来たんですよね?」
リシアの言葉をミユキは笑みを浮かべたままに引き継ぐ。実際、リシアは、逃げてきたのと口にする心算であったのだが、本心ではミユキの口にした通りであった。
顔を引き攣らせたリシア。
負けじとリシアは、花弁の残った花をミユキの手から取り上げ――
「大嫌い」
――と、全ての花弁を一気に毟り取る。
いかにも乙女らしい二人の遣り取りにトウカは苦笑する。
剥れるミユキに、得意げな顔を浮かべるリシアの姿は、二人の容姿も相まって華やかなものであり見ているだけで十分に楽しめるものであった。
早々に喧々赫々の不満合戦に飽きたのか、舞い散る桜の花弁を空中で掴み取りする二人を眺めつつ、トウカは紫苑桜華の根元へと腰を下ろす。緩やかな日々であった。。
それは、トウカが求めたものである。
しかし、同時にこの胸に燻ぶる閉塞感を吹き払い、歴史に名を遺した者達に続きたいという欲求は日常の在り様を変えてしまうのではないかという不安があった。時代の波や歴史の足音が往々にして人々の営みを良くも悪くも変えてしまう様に。
「俺に、できるか?」
既に幾つかの失敗と綻びが出始めている。何より、トウカを忌避する人間も少なくない。
トウカは、この世界の人間から見ると、あらゆる意味で希薄な人間と取られることが多い。
それ相応の時間を過ごせば、それが気の所為であることは分かる……否、苛烈な精神を宿した人物であることはよく理解できるのだが、初見では酷く穏やかで 無欲に見える。これは大和民族の気質である奥床しさや謙遜などではなく、他者に対して弱みを見せない様にと幼少の頃より感情の揺れを表面上に出すことを抑
制していたからに他ならない。恋人であるミユキの前ですら可能な限り、そうと振る舞おうとしていることからもそれは窺える。
その上、情報部や憲兵隊がマリアベルの命令によってトウカの情報を強固に防諜しており、最近でも一線を越える動きをした新聞社の記者を間諜として連行している。あまりにも強引で強固な防諜体制は、トウカの為人が流布することを遮っていた。
その為、初見のヒトは、酷く透明感のある人間に見えるという評価を口にすることが多い。性欲がない、人間味がないと陰口を叩かれることすらあった。尤も、最たる理由は舞踏会での地位に固執しない姿勢であろう。
しかし、トウカとてヒトであり、その胸中には多くの感情を秘めており女性に目を奪われることとてある。そう、この様に。
「貴女は?」
巨大な紫苑桜華の幹の影から現れ、トウカの視界に身を乗り出した女性。
外見は完全に人間種でしかないが、マリアベルに似た厭世的な雰囲気と柔らかな陽光の如き相反する印象を併存させる美しい女性。蒼を基調とした衣裳……控えめな縁襞の付いた白い襯衣に蒼い短外套を纏い、青の長裳は何処かの御嬢様といった風体でありこの場には不釣り合いな女性であった。
外見上は、二〇代も半ばであろう年頃であろう美しい女性。
白磁の様な肌に、神の意図が介在しているのではないかという整った容姿はある種の犯し難い雰囲気を見せるものの、それを思わせない茶目っ気のある笑みを浮かべた美しい女性は、その笑みを湛えたままにトウカの横へと腰掛ける。
「悩んでいるのね、若人さん」
楽しげな雰囲気だが、何処か反論を萎えさせる笑みにトウカは一考した後に口を開く。
「この日常を護る為に、この日常を賭さねばならない不条理を嘆いていたところです」
不条理、確かにそうだろう、とトウカは胸中で呟く。
この世は不条理と理不尽によって構成されているのだ。今更、それを嘆いたところで打破する手段は一つしかない。
「勇敢なのね……女の子達が惹き寄せられる瞳をしている」
「気の所為かと。俺は最善の策を以て未来を掴み取ろうとしているだけです」トウカは苦笑と共に答える。
遠くで尻尾をリシアに引っ張られるミユキの姿を眺めながら、トウカは横に置いた軍刀へと手を伸ばす。
「それでは小官はこれで」立ち上がったトウカ。
午後からはミユキと過ごすと約束しており時間が迫りつつある。懐中時計を確認したトウカは軍帯に軍刀を佩く。
「ふぅん、あれが……似ている、かな?」
桜吹雪に運ばれた美しい女性の興味深げな声音を背に、トウカは歩き始めた。
「紫芋さんが私に意地悪するんですっ」
ミユキはトウカに抱き付くと、頬を膨らませて不満を口にする。
リシアに弄ばれ、ささくれ立った尻尾を揺らしてミユキはトウカの胸板に擦り寄って甘える。
こんな時でもなければ、トウカは避けてしまうのだ。最初は嫌なのかと剥れていたが、暫く経てばそれが照れているのだと気付き、それ以降は頻りに抱き付くようになった。
そんな様子に、腕を組んだリシアが不満げな顔をする。
「誰が紫芋よ! こんな美人を捕まえて失礼なことを……」
トウカはその言葉に、自分で美人と言うのかと呆れつつも、そう言えばと紫苑桜華の幹へと視線を巡らせるが、美しい女性は元より誰もいなかったかのように掻き消えていた。
「うう~、リシアさんなんて芋焼酎になっちゃえばいいんです!」
ミユキとリシアの喧々赫々の言い争いに、トウカは、紫芋の芋焼酎も存在するのかと益体もないことを考えつつ、二人を宥めに割って入る。
「詰まらないことで文句を垂れるな。ミユキも後で尻尾を梳いてやるから剥れるな。リシアは総司令部でエイゼンタール少佐から征伐軍の内情を受け取ってこい。情報部から報告書が上がっているはずだ」
ミユキの肩を抱いて外への道へ促しながら、トウカは溜息を吐く。
リシアは情報参謀として北部統合軍総司令部付……参謀本部に勤務することとなり、同時に幾つかの問題の解決と改善を期待されていた。その問題を提示したのはトウカであるが、それにより情報部と参謀本部は大きく荒れることとなった。
その問題とは、征伐軍内部と帝国の勢力が接触している可能性であった。
それだけであれば情報参謀と北部貴族の中で、唯一対外的な活動を行っていたヴェルテンベルク領邦軍情報部をそのまま移籍させた参謀本部直属情報部の出番なのだが、目を付けた案件に装甲兵器が深く関わっていることで話は複雑化する。
厳密には、天狐族の里で交戦した皇国陸軍正式採用のクレンゲルⅢ型歩兵戦車である。
何故、あの場に皇国陸軍しか正式採用していない型式の歩兵戦車があったのか。戦車は匪賊如きが持ち得る兵器ではなく、その運用には訓練を受けた者が必要 になる。無限軌道式魔導車輛と同様の操縦機構であり、操縦自体は素人にもできなくもなく、搭載砲も野砲と然して変わらない照準と機構を備えているが、整備 だけは訓練を受けた者が必要である。
そして、戦車とは無整備で長距離を移動できる兵器ではない。長距離の移動には鉄道や戦車運搬車輛(戦車トランスポーター)が必要となる。現に〈ヴァレン シュタイン戦闘団〉による長躯進撃は、駆動系と移動距離に優れたⅥ号中戦車が主体であったにも関わらず、戦闘で撃破された車輛よりも駆動系の修理が現地で は不可能、若しくは時間短縮の為に爆破放棄された車輛の割合が遙かに多い。
そして、天狐族の里の周辺は起伏に富んだ地形をしており、戦車での移動は困難を極める事を踏まえると、戦車運搬車による移動でなければ駆動系の損傷する可能性が大きい。例え、魔導技術により他国の戦車と比して総じて高い性能を誇るとはいえ限界はある。
若しかすると移動に使われた戦車運搬車輌(戦車トランスポーター)が放棄されているかも知れない。或いは、脱落を承知で走破し、一部の脱落した戦車が放棄されている可能性もある。
天狐族の里で撃破、鹵獲した歩兵戦車の駆動系と製造番号を調査すれば製造所や所属部隊の割り出しが可能となるかも知れないと期待されていた。
――まぁ、無理だろうが。
しかし、あらゆる手段を以て調べ得る限りの情報を集約しても何一つ分からないという状況が、参謀本部と総司令部に事実を教えてくれる。帝国が人中の龍は侮れない、と。
トウカとしては、真実を知る必要などない。真実を隠し遂せるだけの能力を相手が有していることが分れば良い。
既に帝国の意を汲む者達が暗躍していることは、北部統合軍にとって既定事実であるが故に。
長年、侵略の意思を露わにしてきた帝国が、この好機を座視することなど有り得ないのだ。寧ろトウカからすると、蹶起自体が帝国の手によって演出されたものとすら思える。
「御前に課せられた任務は重要だ。精々、派手に危機感を煽るといい」
トウカは小さく笑うと、ミユキの背を推してリシアに背を向ける。
征伐軍に政治的な致命傷を負わせた上で講和を図る。
それは北部貴族の指導者であるエルゼリア侯の意思であり北部統合軍の基本戦略であった。軍務卿であるマリアベルも既に征伐軍に対する興味を失い、如何に中央貴族を掣肘した上で帝国と相対するかということに注力していた。
元より帝国の脅威から出た不満の発露としての蹶起であり、元来の目的を中央貴族や将校達は、トウカが口にした帝国勢力の皇国への浸透に盛大に怯えた。全 てはトウカの想像に過ぎず物的証拠はないに等しいが、それらしく見える天狐族の里で撃破された歩兵戦車を証拠に仕立て上げる役目をリシアは担うことにな る。
これは、マリアベルとベルセリカだけが知る計画であり、エルゼリア侯や政務卿であるタルヴィティエ侯も承諾していた。皆が長々と内乱で国力を損ない続ける事に対する忌避感を抱いていた為である。
「ミユキ、これから暫くは一緒に過ごせそうだぞ」
「ええっ、忙しくないんですか?」
歩きながら話す二人。
ミユキは狐耳を小刻みに動かして驚きを表現している。それを見たいが為にこの事実を隠していた甲斐があった、とトウカは胸中で安堵する。軍務に就いてい る以上、ミユキと過ごす事のできる時間というのは如何しても限られてしまいそれに対する引け目があったトウカだが、参謀総長に就任したからには総司令部と 参謀本部が近場にあるフェルゼンにいる時間も増える。
優秀な人材を北部中から募り、編成が進む総司令部とその隷下にある参謀本部は続々と北部に集結している。トウカが定時で仕事を切り上げることも夢ではない。
参謀本部は二個指揮通信大隊が展開されていた。
総司令部と各軍集団司令部、各師団司令部との長距離通信網の構築が夜を徹して推し進められており、場所はシュットガルト=ロンメル子爵領である領都シュ パンダウであった。これは、内海の島嶼であり防衛が容易であるという長所に加え、間諜の潜入を防止する事を目的としていた。
つまりは、ミユキの領地に参謀本部が展開されることになる。
元よりヴェルテンベルク領に本社を持つ装甲兵器で有名なタンネンベルク社や銃器生産に強いアイゼンホルスト重工、ブロンザルト化学、フィードラー工業な どの研究開発施設を集中させた特殊軍需区画としてシュパンダウ地区は名声を馳せている。参謀本部の為の施設も地下防空壕として機能する研究施設を流用した
ものとなっていた。市街地から離れた位置である事に加え、大部分が地下にある為、傍目には極小さな規模にしか見えない。
狂科学者の群れが近い場所で軍務に精励しなければならないのは辛いところであるが、歩いて直ぐの場所にミユキが住まう屋敷があるというのは魅力的であった。
新婚夫婦みたいではないか。悪くない。
その考えが甘かったと認識するのは三日後のことであった。
「あらあら、どうしたものかしらね」
豊かな尻尾を振り、和装の女性が困った表情を浮かべる。
ミユキが順調に成長し、奥床しさに加えて佳く年齢を重ねることから生じる老獪さを宿した瞳を獲得すると、或いはこの様な魅力を兼ね備えた女性になるのではないかと思わせるだけの佇まいを見せる天狐の女性は、頬に手を当てて部屋の惨状を見渡す。
手当たり次第に開け放たれた簞笥や押入れは、初めて見る者が目にしたら空き巣だと騒ぐ程に無秩序な状態を晒していた。
床下収納庫から突き出た揺れる尻尾に、天狐の女性は声を投げ掛ける。
「貴方……荷物くらい前日に用意しておいてくださいな」
「ええぃ、五月蠅いぞ、マイカゼ。御前も手伝え!」
天狐の女性……マイカゼは苦笑しつつも頷き、襖の敷居を跨いで部屋へと入る。
夫……シラヌイの部屋の適当な位置で腰を下ろし、近くに散乱している衣類を手に取り畳み始めたマイカゼは、三日ほど前に届いた手紙の文面に思いを馳せる。
――ふふっ、ミユキが貴族になるなんて……楽しくなりそう。
あの領土的野心剥き出しなことで有名であったマリアベルが自領を割譲し、シュットガルト=ロンメル子爵位という新たに新設された領地を与えたという事実 も驚きであるが、北部貴族が領邦軍の指揮権統合に成功したことにも驚きを隠せなかった。手紙には詳しいことは書かれていなかったが、トウカの生み出した戦
果が勲功抜群と称して差し支えないものであることは下界からも聞こえており、その辺りを最大限に利用したとしか考えられない。そして、マリアベルの経済力 と軍事力、そしてトウカの戦略眼が結び付いた結果であろうことは疑いなかった。
「あのマリアに心変わりでもあったのかしら? 天狐族を引き込みたいなら、ミユキを側近にするだけでも遣り様があると思うのだけど……困っちゃうわ」
「何が困っちゃうわ、だ。あの若造の魂胆は見え透いておるぞ! 人間種だと爵位を得て子を成しても継承できんからミユキを貴族にしてその配偶者となる腹心算に決まっておる! けしからんっ!」
床下収納から顔を出したシラヌイにマイカゼは、どうかしらねぇ、と呟く。
成敗してくれる!と意気込みながら床下収納から魔導弩弓を引っ張り出しているシラヌイを横目に、マイカゼはトウカの無機質な横顔を思い描く。
サクラギ・トウカという若者は、マイカゼにとっても初めて見る類のヒトであった。
何処か自身のことすら自身のこととして認識していない危うさ。トウカは恐らく“一人”や“唯一”で完結することを、ある程度は当然として受け入れられる のだろう。そして、ミユキという枷を以てしてヒトとしての心の姿形を形成している様に見えるものの、瞳の奥底には狂おしいまでの野心が燃えている。
だからこそ苛烈。
儚げな風貌に丁寧な言葉遣い。どちらもが本来のものではない。
彼には、この世界で生きる者としての、当事者としての意識が希薄なのだ。遙か蒼空より大地を俯瞰しているかの様な瞳に加え、歴史や時代を総攬しているかのように状況を推察する思考は、マイカゼにとっても初めてのものであり畏怖すべきものであった。端倪すべからざる人物である。
或いは、シラヌイもそんなトウカのヒトとは思えない部分を感じたからこそ忌避感を抱いているのかも知れない。
ヒトではない視点を持つが故に多くの災難に見舞われることになる上、ミユキに対する感情も何処か屈折したものであることをマイカゼも見抜いてはいた。異 種族の恋にして出逢った状況すらも通常ではなかったことを踏まえれば、二人の現在は奇蹟の産物であり安易に引き離すことは憚られる。何より二人は既に権力 者なのだ。
共に依存に近い関係から始まった二人。後のことを考えれば、引き離すことなど出来るはずもない。
マイカゼは、トウカのこれまでの人生が狂騒と狂気に満ちたものであったと確信している。
二〇歳にも届かない少年にあれ程の軍事知識と不断の意思を植え付けるなど並大抵のことではなく、その親族の思惑は狂気に彩られていたのだろう。年相応の 子供らしさやありがちな正義感の発露はなく、勝利できると判断した戦闘だけを最小限……最大効率で実行しようとする姿はトウカ程の若さでは有り得ないこと である。
闘争の申し子。戦争指導の為に生み出されたかのような存在。
シラヌイが、ミユキをトウカに近づけることを嫌悪した最大の理由はそこにあるとマイカゼは見ていた。
「まぁ、それでも気になるのよね……ミユキも放っておけないのかしら」
マイカゼは、トウカが時折見せた儚げな瞳が酷く魅力的なものだと理解していた。母性本能を擽ると言えばいいのか、実に年上の女性に好まれる容姿と性格を している様にも思える。性格は各々の女性の好みにもよるだろうが、周囲の高位種達と議論を交わす姿は必死に背伸びをしている小さな少年に見えなくもない。 議論の内容は極めてえげつないものであるのだが。
――あの儚げな笑顔と野性的な笑みがいいのだけど。
どちらもが似合う男というのは居そうで居ない。ましてや、それが若い燕となれば尚更である。
若い燕という表現は年下の愛人を指す言葉であるが、マリアベルが異常な程に重用している事から言葉が的を射ている可能性も少なくはない。
「私もあんな若い子を囲ってみたいのだけど……貴方、離婚しない?」
「…………泣くぞ?」
不貞腐れた様な表情で呟いたシラヌイに、マイカゼは苦笑するとその背中を抱く。
強情でいて何処か子供っぽい一面を持つ高雅的佇まい(ダンディズム)に溢れた男性、それがシラヌイなのだ。そんな男だからこそ伴侶に選び、こうして軽口を叩く。
「冗談よ、貴方。本気にしないで」
こうして拗ねるから可愛いのだが、それを口にすると更に拗ねるので言葉にすることはなかった。
シラヌイという夫を信じている一方、ミユキを取り巻く状況を目まぐるしく複雑に、そして危険なものへと変化させつつあるトウカを断じて認めないであろう ことも理解していた。トウカとシラヌイとの間で何が話し合われたかはマイカゼも知るところではないが、一時的にシラヌイが黙認したところを見るに十分な利 益、或いは有利な状況を作り出せると踏んだのだろう。
「貴方、二人の関係を終わらせようとしているの?」
そう、この期に及んでシラヌイがシュパンダウへと赴く必要性はなく、寧ろ天狐族の里を族長が不在にすることこそが問題であった。トウカからの手紙にも、あくまでも天狐族の有力者を招きたいとの言葉が添えられているだけで誰かを指名したものではなかった。
敢えてシラヌイが赴く理由。トウカとミユキの関係を変化させる為であるに違いなかった。
「……気付いていたか。あの若造との”ミユキを貴族にする”という約定は果たされた。これ以上、約定を順守してやる必要などない」シラヌイは断固とした声音で告げる。
それは、高位種として傲慢に、業腹に、強権的に約定を踏み倒すという宣言に他ならない。
トウカと批准された約定は、天狐族に迫る脅威と剣聖ヴァルトハイムの武力を背景に平等の条件を以て迫られたが故に押し切られたものであった。その程度はマイカゼも予想できる。同時にトウカが状況を利用して最大限の利益を得ようとしたことも予想できた。
シラヌイは大激怒したに違いない。
貪欲に傲慢に、ミユキに関わる多くを求めようとしたトウカを、シラヌイは危険視したに違いない。約定が結ばれたのは、天狐族の里を攻撃しようとする勢力 の存在を排除するだけの策をトウカに求め、剣聖ヴァルトハイムという圧倒的武力を欲したからこそであり今ではどちらも決して必要なものとは言えない。
長命種としての傲慢を貫き徹すシラヌイ。
知略と武力を以て野心を補完するトウカ。
共に然したる違いなどあろうはずがない。つまるところ、ただの男の意地の張り合いなのだ。
その勝者を決めるのはミユキ。
腕の戒めから逃れたシラヌイが剥れる姿は、ミユキを見ているかのようである。マイカゼとしては、トウカとシラヌイが連携し、そのままミユキを貴族として盛り立て、皇国で確固たる地位を築いてくれることを願っていた。
「問題は剣聖だな。マリアベルに協力してやることと引き換えに二人を引き離すのだ……いける、いけるぞ!」
何処がいけるのだろうか、と高笑いするシラヌイに、マイカゼは呆れる。
シラヌイは日常では明晰にして明朗闊達な天狐族の指導者として振る舞っているが、娘のことになれば何処か頭の弱い部分が露呈する。娘を心配する父親というのは他の種族でも似たようなものだとは理解しているが、今回ばかりはそれが致命傷となり得る可能性があった。
トウカは、ミユキを奪っていこうとする存在を決して許しはしないだろう。全力で排除してくることは間違いない。
剣聖を従えた上に、廃嫡の龍姫と協力関係にある異邦人が講じることの出来る選択肢は多いが、明らかに致命傷となるであろう排除行動を取ってくるだろう。 シラヌイを殺害し、隠居した、或いは帝国の手の者に討たれたとでもミユキには説明して慰めるなり共に悲しむなりすることは疑いない。
「本当に困ったわねぇ……」
皇国を含めた動乱の季節にあるこの大陸に在って、ミユキはトウカやベルセリカという強力無比な同胞を得た。一介の子爵には過ぎた優秀な人材であり、マリ アベルという庇護者もいる状況を徒に変化させるべきではないとマイカゼは考えていた。シラヌイもトウカと協力し、連携してミユキの立場を確かなものにすべ きである。
残念ながら眼前で気炎を吐いているシラヌイには言えない。だからこそ、マイカゼもシュパンダウに向かうのだ。
「……男の意地に巻き込まれるあの仔はどう思うのかしら」
きっと、喜ぶだろう。それだけ二人に想われているのだから。
マイカゼは深く嘆息するばかりであった。