第一一一話 剣聖の懸念
「それで、何故、こんなところで報告を受けねばならないのか……リシア」
トウカは、とある国の軍上層部が露天喫茶で会議をして軍事機密がダダ漏れであった事実を知っている。似たようなことをせねばならないというのは極めて精神を擦り減らす行為であった。その様な間抜けで歴史に名を残すのは時代の波に乗り遅れた内陸国だけで十分である。
「司令部で報告する訳にもいかないでしょう? それに防音魔術はしているから声は漏れないわよ。……ああ、周囲から見ると偏光魔術で恋人同士が語らっている様に見えるから大丈夫」
「直ぐに場所を移すぞ」
即座に立ち上がったトウカに対して、優雅に紅茶を口へと運ぶリシアはあくまでも冷静であった。寧ろ、糸を張り巡らして得物を捕食せんとする蜘蛛の如き油断のなさである。紫蜘蛛である。
「ちなみに立ち上がると、嫌がる私を強引に抱き寄せて唇を強引に奪う様に見えるの」
いいでしょ、と微笑むリシアに、トウカは全力で着席する事で応じる。やはり紫蜘蛛である。
リシアは輸送騎で天狐族の里へと赴き、トウカの親書の受け渡しと撃破、鹵獲された歩兵戦車の調査を行ってきたのだが、まさか二日足らずで切り上げて帰還 してくるとはトウカも考えてはいなかった。偵察騎での移動なので片道半日も掛からないとは言え、これほどに早く帰還してくるということは目ぼしいものは見 つからなかったのだろう。
「やはり、何も見つからなかったか」
「ええ。部品の製造番号まで削り取る遣り様だけど、シュパンダウに持ち込んで徹底的に解体してみれば製造番号を削り取られていない部品もあるでしょうね」
リシアは小さな焼き菓子を咀嚼すると、麦粉の付着した指を艶めかしいまでに朱い舌で舐め取る。マリアベルを思い起こす様な年長の女性の色香の片鱗にトウカは眉を顰めた。やはり紫蜘蛛である。
「あれ程の重量物を持ち帰るには時間が掛かるから、再戦までには間に合わないでしょう。でも、証拠なら“作って”きたわ」
「誠に重畳……して、それは如何なるもので?」
トウカは最悪も場合のミユキへの言い訳を考えつつ、リシアに問う。
差し出されたのは帝国語が書き殴られた書類であった。所々に血痕の後が滲み、一部が炭化しているという“いかにも”なものであり、書かれている下手な絵を見るに歩兵戦車の操縦方法が記されているのだろう。
確かに帝国から浸透してきた者達であれば、皇国軍正式採用の歩兵戦車の運用法を知らない可能性は高く、速やかに稼働させる為には“教材”が必要となる。例え即席のものであってもその有無の差は大きい。
「随分と御誂え向きのものを作ったな」
「他にも幾つかの資料が見つかったことになっていて、それは提出したわ」
活躍したでしょう、と得意げな顔のリシアに、トウカは沈黙をそのままに頷く。
胸中にはやはり遣り切れない想いがあった。
リュミドラ・ケレンスカヤと名乗った《ランカスター王国》がエグゼターの女傭兵。
あれはトウカにとって有り得た未来の一つであった。
もし、ミユキに出会わず、匪賊や傭兵に身を窶し ていれば、限られた情報と脆弱な戦力しか与えられず死地へと赴かねばならないことも有り得ただろう。全ては金銭を得て生き長らえる為に。異邦人でしかない
トウカが閉鎖的な種族も少なくない皇国内で市井に馴染める可能性は少なく、経済的停滞が深刻化している現状では仕事とて見つかるとは思えない。暗雲が立ち 込める時代にあって、突然現れた得体のしれない若者に仕事を斡旋する者ともそう出会えるはずもなく、行き着く先は無法者。
女傭兵とトウカとの違いは一つしかない。救いを得たか否かである。
トウカがミユキと出会えたことは、あらゆる意味で奇蹟であった。
「シラヌイ殿は傭兵の指揮官について何か口にしていたか?」
戦闘に参加した天狐達への聞き取りも行われているはずであり、トウカと女傭兵の遣り取りを目撃した者も少なくはないはずである。何よりも父狐は近くで異邦人と女傭兵の戦いに不粋な横槍が入らない様に最大限の注意を払っていた。話の内容も知っているであろう。
「? 別に特筆すべきことは聞かなかったのだけど……貴方の剣技が人間種としては凄まじいものだったとは言っていたかしら?」
褒められたようね、と邪な笑みを浮かべるリシアだが、トウカはシラヌイの気遣いに感謝した。或いは、トウカが利用するか判断すべき事柄だと考えているのかも知れない。
沈黙するトウカに、首を傾げたリシア。
沈み込む感情を抑え込み、トウカは胸衣嚢を弄り一枚の黄金の硬貨を取出し、リシアへと投げて寄越す。
迫る黄金の金貨を片手で掴み取ったリシアは、それを繁々と眺める。
「これって……帝国の通貨じゃない」
「女傭兵の遺品だ。現場で見つけたことにしておくのがいいだろう。信憑性はないだろうが」トウカは肩を竦めて見せる。
帝国の硬貨など用意しようと思えば簡単に用意できる上、傭兵への報酬として自国の硬貨を使用するなど有り得ない。他国の偽装通貨を用意するのが通常であ る。恐らくは、帝国の影を教える為に自身の持つ硬貨を女傭兵が手渡したのだ。その事実があるからこそ、トウカは北部に於ける一連の無法者の跳梁が帝国の意 図するところであると確信していた。
こればかりはトウカの証拠なき確信であり、女傭兵の死に際の対価だったのだ。
外道の継承者への対価。女傭兵はトウカが今、非道と外道を以て内戦の一翼を担っていることに満足しているだろう。少なくとも己の誇りや矜持ではなく、護るべきものの為に全てを擲つとの信念からであり、虚飾を嫌うであろう女傭兵にとっては好ましいものであることは間違いない。
恐らくは、トウカが撒き散らした死に後悔することこそを女傭兵は嫌うだろう。そんな確信がトウカにはあった。
机の下で帝国の通貨と共に渡された白銀に輝く十字架の装飾品を握り締め、トウカは自嘲の笑みを零す。所詮は想像に過ぎない。
「俺はあらゆるものを薙ぎ払い、進み続けるしかない」
「何を言っているの、戦争よ。当然じゃない」
困惑したリシアの言葉に、トウカは儚げに笑う。
事実とは残酷なものであるが、敢えて非道と外道を両翼に理不尽という重力へと抗い、理想という空を求めた者達に救いや赦しなど用意されていないことは承知している。そんな彼ら彼女らがいたことをトウカは忘れない。
「なら――」
「っ! トウカっ」リシアが驚いた表情で、懐に手を伸ばす。
それを察したトウカも、腰の拳銃嚢に収まったP89自動拳銃の銃把を掴む。
「破られたか?」
「たぶん。やられたわね、服まで焦げたじゃない。これ、高かったのに」
懐から焼け焦げた軍用魔導術符を取り出したリシアだが、それが風に揺れて形を崩した様を見て口元を引き締める。
軍用魔導術符は、世界各国の軍でも運用されている軍用魔術の補助や媒体とすることを目的とした術符である。今回、リシアが使用していた軍用魔導術符は認 識阻害を目的とした偏光迷彩魔術により、トウカとリシアの姿と会話の内容を当たり障りのないものへと変換させるものであった。無論、展開する偽装映像と会
話内容は当初から入力されたものの繰り返しでしかないが、何十分も注視されなければ気付くことは難しい。
気が付けば周囲に人影はない。露天喫茶脇の小さな通りにも不自然な程に人が居らず、リシアと二人だけになってしまったかのような錯覚を受ける。
「……やっと二人だけになれたわ、トウカ」
「この状況で……俺は一人で構わないが?」
P89自動拳銃の撃鉄を起こして見せて、暗に貴様が死ねば一人になれると示すと、リシアは肩を竦めて自身の拳銃嚢に収まったP89自動拳銃の銃把を握り締めて周囲を眺めた。
P89自動拳銃はタンネンベルク社で生産された皇国陸軍正式採用の自動拳銃の一つだが、皇国陸軍では騎兵科の将兵にしか配備されていない。しかし、ヴェ ルテンベルク領邦軍では士官以上の全てに配備されている。拳銃でありながら長い銃身故に遠距離での命中率が高く、大型であることや重量があるという欠点は あるものの総じて好まれていた。
トウカは席に多めの代金を置くと、その場を離れて通りへと飛び出した。
続いたリシアと背中合わせに警戒しながら周囲を見渡すが、シュットガルト湖から運ばれた霧の化粧をした長閑な街の風景は一種の恐怖を抱くに十分であった。人影もなければ雑踏の音もしない。
「大規模幻術……そんな……こんな街中で無意味にそんなものを使うなんて有り得ないわ」
「幻術か。茶番だな」
トウカはP89自動拳銃の長い銃身を空へと振り上げ、引き金を引く。
7.7x33短小弾(Kurzpatrone)が乾いた音を立てて無人の街中に響き渡る。
当然の銃声に背後のリシアから驚きの声が上がるが、それを無視してトウカは気配を探る。ヒトはその場に在るだけで体温を発し、風の対流を変え、音を垂れ流す。
不意に翳が射す。
トウカは振り向きざまにその方角、位置に銃口を向けて引き金を引く。
撃鉄が撃針を介して雷管を叩き、銃声が響くと同時に、その射撃時の反動で遊底が後退する。その後退力で薬室から空薬莢を空へと弾き飛ばし、撃鉄を起こし、撥條によって遊底が前進する動きで弾倉から次弾が薬室に再度、装填される。
それが残弾の数だけ繰り返す。
トウカのP89自動拳銃は速射できるように改修された型式のものであり、試作型短機関銃の機構を参考にタンネンベルク社が独自に技術転用した改良型であった。
「おお、まさか本当に速射できるとはな……速射型の異名は伊達ではないか」
「……まさか、撃ちたかっただけじゃないでしょうね?」
リシアの胡散臭い視線を無視して、トウカは空となった弾倉を振り払うように地面へと落し、次は二〇発入りの長弾倉を装填する。対応した拳銃嚢の製造が間に合っておらず、形状的な制約から収納時は一〇発入り短弾倉なのだ。
トウカは遊底止め(スライドストッパー)を押し下げると、初弾を薬室に装填しながらも思案する。
――上空に魔導障壁があったな。防禦魔術の隔離性……光学偏光魔術の併用か?
それにしては人払いの説明が付かない。元より、この場所が実在しているのかという疑問すら生じる。仮想的に大規模な光景を形成するというのは莫大な魔力を消費する。
魔術に疎いトウカは、その方法の追求の匙を投げる。
しかし、犯人は分かっていた。
「出てきたらどうですか? それとも俺に狐狩りをさせたいと?」
多分に呆れを含んだトウカの言葉に、さざめく様な笑声が周囲を満たす。
急速に遠のく意識。
幻術の類であったと気付いた時には既に無意味。もうこの時点で、トウカもリシアも虚構に引き摺りこまれているのだ。
そして、トウカは意識を失った。
「えっ、お母さんが来ちゃうんですか!? それは大変です! 私、次に合う時は花嫁姿を見せるって約束しちゃったのに……」
ミユキの言葉に、ベルセリカは苦笑する。
隣に引っ越ししてきた新婚が近所に挨拶回りをする様に御裾分けの稲荷寿司を手にしたミユキが、シュパンダウの参謀本部へとやってきたと聞き、ベルセリカ は先程まで頭を抱えていた。運良く北部統合軍総司令部から視察に赴き、出くわしたベルセリカは新婚気分を満喫したいのだろうと嘆息する。
ミユキの母親が同伴生活を送ることが決定したと伝えると、ミユキは更に喜びを露わにする。
保護者同伴の新婚生活を嫌がると思ったが、寧ろ皆で住めることを喜んでいることに、ベルセリカはトウカの苦労を思って顔を引き攣らせる。無論、そうした純粋な部分こそをトウカが好んでいると知るベルセリカは同情しないが。
本来、トウカが座るべき参謀総長席に腰を下ろしたベルセリカは参謀将校達に視線を巡らせる。
彼らは参謀本部付の各参謀としてトウカに任命された将校達で、全体的に階級が低く、若い者が多いことが特徴であった。
総司令部には最高指揮官であるベルセリカを頂点として、国防軍最高司令部総長や陸上総司令官、海上総司令官、各兵科の総監や情報部長、中央管理部長、法 務部長などが率いる各部局によって構成されているが、参謀本部とは対照的に高位種や中位種……高齢な将官達でその多くを占められていた。
これは、軍務卿に就任したマリアベルの一計によるところである。
各領邦軍の司令官や武門に連なる貴族は、自身こそが郷土防衛の烈士であるとの自負がある。無能ではなく、寧ろ既存の戦術で交戦を繰り広げるならば粘り強い戦術指揮が期待できるとされていたが、今回、トウカが目論む戦術や戦略は既存のものとは大きく掛け離れていた。
機動力を重視した能動的防衛戦。つまりは機動防禦である。
それは機動打撃に主体を置き、敵を積極的に撃破して防禦目的を達成しようとする戦術である。敵部隊を不利な態勢(地形や輜重面を含める)に誘い込み、装甲兵器を中心とした主力を以て機動打撃を実施し、敵部隊を撃破してその攻勢を破砕する。
積極的防衛である機動防禦だが、その難易度は極めて高い。
積極的部隊運用により敵部隊を奇襲できる可能性が大きいものの、戦闘の推移は急速的かつ流動的である。歩兵や騎兵、砲兵を主体とした戦闘に馴れた将官達が、機動力こそが最大の武器である装甲兵器を使いこなせないとトウカは判断し、ベルセリカもそれに賛同した。
ならばそれ以外の場所に配置してしまえという発想の下、トウカは総司令部や一部の部隊に将官を優先的に配置するようにマリアベルに要請するに至った。
効率的な機動防禦を実行する為には、防禦を行う地域の余裕のある縦深と十分な数の航空戦力及び、地形が機動打撃を担う部隊の自由な機動を許し得る場所で あるかが重要となる。そして、それと共に重要となるのが機動打撃を準備した戦域に、敵に対し優勢な火力投射戦力及び、機動打撃の基点であり敵主力を誘引す る防禦拠点の確保であった。
敵に対し優勢な火力投射戦力。
敵主力を誘引する防禦拠点。
既存の各領邦軍や部門に連なる貴族が指揮する部隊はこれらであった。
防禦拠点は機動打撃部隊の掩護や敵を引き付け、或いは突破されても撃破されないだけの粘り強い戦闘が求められる。拠点防禦であり主体となる戦闘は陣地防衛である為、歩兵や砲兵が主力となるので既存の戦術式でも十分に対応は可能である。
「まぁ、不満が出ん様に配慮するところは流石といえるが……」
ベルセリカはミユキと共に稲荷寿司を頬張る年若い参謀達を尻目に、トウカの配慮に感嘆と不安を感じた。防禦拠点に若干の装虎兵を配置し、敵部隊の後退時 には追撃して戦果を拡大できるようにという配慮は、戦術の多様性を持たせることで自身が脇役ではないと印象付けることに一役買っている。
マリアベルは独断を嫌い難色を示したが、これからの戦場では装虎兵は主役の座から転落するので磨り潰しても構わないと、トウカが冷徹に言い切った為に許可をした。
三人での密談であった故の言葉であろうが、将兵を完全に数や質としてしか判断していないその言動は極めて危険なものに思えた。戦友と共に敵と幾度も直接切り結んだこともあるトウカは指揮下の兵士の生命を重視すると考えていたが、それは少し違った。
トウカは将兵の生命を数や質として完全に把握し、運用することで最小限の損失で最大限の戦果を得ようとしていた。
冷酷だから将兵を死地に送るのではない。死地へ送る将兵を減らす為に冷酷なのだ。
周囲からは誤解される方法であり、ベルセリカや大半の軍人とは相反する考え方ではあるが、トウカは情を捨て、戦野の全てを数値化する事で効率的な指揮を執り結果を残している。
周囲からは冷酷に見える遣り様だが、将兵の戦死者数は減少するだろう。戦場の指揮、統率とは合理性や理論性だけでは割り切れない、情や悟といった部分も確かに存在するが、トウカはその辺りに無頓着である。
何よりトウカは成長という言葉を忌避しているように思える。成長という現象の大半が慣れによる手順の最適化に過ぎないと判断し、誤差範囲のものでしかないと考えているからであろうとベルセリカは予測していた。根本的な許容量の増大のみを、トウカは成長だと頑なに考えている節がある。
それは正しく、トウカは戦略的な視野で作戦計画を構築するに当たって個人の評価の修正を行わなかった。ヒトの本質がそう容易く変わり得ないというトウカ の心底に根差した諦観と、成長という言葉を多用して不適切な人材を矢面に立たせ、難事へ当たることを正当化する現代社会に対する反感からであろう。
だが、それでもヒトは成長する。永く生きたベルセリカは識っている。身体だけでなく、その精神や思考も周囲の影響や状況によって大きく成長することを。
しかし、トウカは成長しない。否、闘争を指揮し得る面で必要な成長の大半を既に終えているのだ。
如何なる教育を受け、如何なる指導を受けたのかはベルセリカの知るところではないが、それは恐らく非人間的で非人道的な成長だったのだろう。トウカは未 だ年若いが、それにもかかわらず、これほどの軍事的才覚を持ち、冷徹な取捨選択ができるようになるのは尋常なことではない。
その歪みは、随所に出ていると言える。人間関係の形成が下手であることや、恋に対するずれた感覚。効率的であるか否かに固執する姿勢に加え、余程の理由がない限り他者を信頼しないという猜疑心。
日常生活に支障をきたすほどのそれらに、ベルセリカがミユキと二人で顔を見合わせたことは一度や二度ではない。表面上や軍務では一見すると問題ないよう に思えるが、暫くの付き合いがある者が見れば一目瞭然であった。トウカは他者を必要以上に近づけることを忌避……否、恐れている。味方であるという確証が ないと、他者の差し出した手を握り返せないのだ。
これは、ヒトの上に立つ者にとって極めて危険なことである。
ゆらい戦勝は人の和により生じ、人の和は相互扶助の精神より生まれる。
そして、不信感による人間関係の亀裂は軍事的間隙を生じさせることも有り得る。無論、ベルセリカの懸念は、軍事に関するものばかりではなく、トウカの将来に関しての危うさという面が大きい。
トウカは、余りにも歪である。
「上手くはゆかぬで御座ろうな。ミユキも食ってばかりおらぬで愛しの主様に付いて行ってやるがよい」
ミユキは、枷であると口にしたこともあるベルセリカだが、同時にトウカの歪みを倒す唯一の特効薬であるとも考えている。現在は稲荷寿司を頬張っている仔狐だが、いつの日かトウカをヒトとして正しく、当然の姿に戻すのではないか、そう期待していた。
「なれば、某はそれまでの時を稼がねばならぬか」
「???」
首を傾げるミユキの頭を撫で、ベルセリカは微笑む。
トウカとの盟約は、所詮、建前に過ぎない。
或いは、北部に於いては種族的な特徴に依存した軍備体制が終焉しつつあるので、種族の思想的、法的隔たりは徐々に霧散するかも知れない。その身体的特徴 こそが精神的な隔たりを生じさせるのだが、それに最も恩恵を受けているのは国防である。膂力と魔導資質に優れた高位種の絶対数を確保し続ける為に異種族間
の恋愛に関する不文律が生まれたことを踏まえると、軍事に於いて高位種の直接的戦力としての重要度が低下すればする程に、その不文律は意味を失い形骸化す ることは疑いない。元より北部に限られるものの、低位種の間では種族間の恋愛も増えつつあるが、トウカによる装甲兵器の多用によって、その風潮が加速され るかも知れなかった。
最早、時代は種族的特徴に頼った兵科の編成にないのだ。その風潮は民間にも伝播するだろう。
「御師様、嬉しそうです」
「そう見えるか? まぁ、不安は在れど前途洋々であることには変わりなき故な」
ベルセリカは自分に用意された稲荷寿司を手に取り、口へと運ぶ。
トウカに教わったという稲荷寿司は些か酸味が強いものの十分に美味しく思えるものであった。戦闘や執務に忙しい軍人は味の濃い料理を好むことが多く、それを踏まえると寧ろ好みの味と言える。
――しかし、握り飯の様に具材を入れるのは如何なもので御座ろうか。
一口食べた後の稲荷寿司から突き出た小魚の尻尾を目にしたベルセリカは何とも言えない表情を浮かべる。参謀達は中の具に一喜一憂しながら、次々と稲荷寿司を口に放り込んでおり、ミユキはそれを嬉しそうに眺めている。
「御主……某らで試したで御座ろう?」
胡散臭い瞳でミユキを見据え、ベルセリカは呻くように呟く。
稲荷寿司の具材にミユキが拘っているという話は困り顔のトウカより聞いていたが、或いは自分たちが新しい具材の実験台に使われたのではないかとベルセリカは考えた。それは間違いではなく、ミユキは手にした用紙に参謀達の稲荷寿司への評価を熱心に書き込んでいる。
「参謀に策を巡らせる狐と……中々、笑えるで御座らんか、ええ?」苦笑したベルセリカ。
ミユキは片方の狐耳を曲げて、聞こえていないですと言わんばかりに顔を逸らした。
そんな姿に、参謀達がどっと笑う。
良くも悪くも参謀本部は平和であった。
ハインツ・アルバーエルは、人間種で四〇代後半のバルツァー子爵領邦軍司令官であった。
しかし、現在は新設された北部統合軍の参謀本部で参謀達を取り纏める首席参謀を任じられ、階級も大佐から少将へと二階級昇進した。名目上は大規模な戦闘 となった征伐軍との後退戦に於いて、友軍の窮地を幾度か救った事がその理由とされているが、恐らくは参謀本部の末席に連ねる為に将官の階級を用意したと考 えていた。
現に周囲で稲荷寿司を頬張っている参謀達も、何かしらの理由を付けて立場に相応しい階級を与えられていた。
そして、それを行った人物が、参謀本部の長であるサクラギ・トウカ中将であることは明白である。
ヴェルテンベルク領邦軍代将から北部統合軍中将へと昇進を果たしたトウカは、既に政治にも介入する気配を見せており、政務卿や軍務卿を相手にした議論を 繰り広げている。参謀本部の充実や各部隊への戦術指導を積極的に行い、戦力の向上に努めてもいた。前線への派遣や机上演習で同僚の実力を図ることなども行 われ、かつてない手応えを感じている参謀も多い。
斯くいうアルバーエルも、軍務に就いて以来久方振ぶりの充実感を得ている。
装甲部隊の指揮官としてはザムエルの名声に霞むものの、投機的で過激な用兵とされるアルバーエルの得意戦術は一撃離脱による奇襲であった。元は騎兵将校 であったアルバーエルだが、タンネンベルク社が発表したⅣ号中戦車の制式配備と共に装甲部隊指揮官へと転身し、戦車を鋼鉄の軍馬として遺憾なく運用すると いう評価を受けていた。
バルツァー領邦軍司令官でもあったが、常に最前線で指揮を執ることから、バルツァー子爵に呆れられることも常々であるものの、呆れつつも不在の際は代理 で指揮を執ってくれるバルツァー子爵には感謝していた。本来、領邦軍司令官とは領主の最後の楯であり懐刀であることを踏まえれば、断ることが筋ではないか ともアルバーエルは考えていたが、それを後押ししてくれたのもまたバルツァー子爵なのだ。
元より根回しを行っていたとはいえ、強引な遣り様で各領邦軍を統合し、北部統合軍を編成した軍務卿であるマリアベルに対する疑念もあった。マリアベルは確かに為政者として優秀であるものの、その指揮下に北部の戦力の殆どを集結させるには不安を覚える人物である。
しかし、その配下にあるトウカの指揮統率能力に疑いは抱けなかった。
北部が強大な中央貴族勢力や帝国に抗戦し得る戦力を、百年単位で求め続けていたことは内外問わずに有名であるが、装虎兵や軍狼兵を大量に保有する中央貴族相手に優勢を確保しようという目論見は困難を極めた。
そして、トウカが装甲兵器の集中運用で現状を打開するまでは装甲兵器は有力視されていなかった。
マリアベルは装甲兵器の可能性を正確に見定めており、装虎兵や軍狼兵は生物に跨乗するという特性上、その運用には数多い不確定要素がある。老化や実戦に 耐え得る生物を維持するということに対する困難も伴い、それを補う形で北部貴族は装甲兵器を周辺諸国に先駆けて積極的に領邦軍に配備していた。
しかし、装甲兵器が装虎兵や軍狼兵の代替として見られていたかと言えば否である。
装虎兵や軍狼兵と互角の戦闘を行ったクラナッハ戦線突破戦後は、その評価は目まぐるしく変化したが、それ以前は実戦証明がないことから不安視されていた。配備は進められながらも数少ない装虎兵や軍狼兵の補助としての立場でしかなかったのだ。
だが、今では北部統合軍にとって装甲兵器は主力となり、各部隊からの配備要請が相次いでいる。前進する歩兵にとって共に進む戦車は装虎兵や軍狼兵よりも大きな安心感を齎す鋼鉄の野獣なのだ。
「まぁ、装甲部隊指揮官が脚光を浴びたのは良いが……」
マリアベルも装甲兵器の更なる増産を決定し、何処にどれだけの資金があるのか尋ねたくなるほどに個人的な資産を投じて戦車や装甲車、自走砲、対空戦車な どの増産と生産工廠への設備投資を繰り返していた。それらが結果として現れるのは先であろうが、“次の闘争には”間に合うことをアルバーエルは祈ってい る。
「しかし、な……サクラギ中将は一体、何者なのか」
アルバ―エルは参謀達から熱心に稲荷寿司の評価を聞き取っているミユキの後姿を横目に捉えつつも、底知れない畏れを感じて肩を震わす。
――装甲兵器が将来的に陸上戦力の中核になるのは、俺とて分かっていた。だがな、生産方法や思想、技術にまで造詣が深い……しかも、その提言の悉くが的を射たもので、改善された案件も多い……いくらなんでもあれは……
秀才や天才という言葉では済ませられない程に多岐にわたる分野……政治や軍事に偏っているとはいえ、全てが正鵠を射ているのはヒトならざる視点を持っているとしか思えない。
ふと、過ぎった疑問を胸に、アルバーエルは本来、参謀総長であるトウカの執務椅子に座しているベルセリカを見やる。
稲荷寿司と御茶に舌鼓を打つ剣聖の姿に、アルバーエルは首を傾げる。
――そう言えば、総司令官も参謀総長には寛容だったな。噂では親しい間柄だと聞いているが若しかすると……
参謀総長は大層な女誑しであると思考を続けることはできなかった。ベルセリカが、此方を見据えたからである。
「そこな男……確か、アルバーエルであったか」
「はっ、剣聖殿。ハインツ・アルバーエル少将と申します。参謀本部にて首席参謀を務めさせていただいております。名高い貴殿の指揮の下で戦えるこ――」
「世辞はいらん。某なぞ時代遅れの騎士に過ぎん。そうであろう?」
楽しげに笑うベルセリカだが、アルバーエルは背に冷たい汗が伝う感触を感じずにはいられなかった。
ベルセリカが北部統合軍総司令官へと任じられたのはその軍事的能力によるところではなく、政治的理由によるところであることは明白であり、参謀本部でもベルセリカの指揮能力を疑問視する声が上がっていた。
トウカは、それに対して――
作戦を立案するのは参謀本部であり、決断するのが総司令官の責務である。指揮とはそれら総てを指し示す言葉であり、その行動目標への手段を提示するのは 我ら参謀本部の責務である。もし、総司令官が参謀本部の作戦指導に沿って指揮を執った結末として敗北があるのならば、その作戦計画を提示した参謀本部こそ に責任は帰属する。
――そう、口にして参謀本部内での疑問の声を押さえ付けた。
この強力な擁護に対し、ベルセリカがトウカの愛人、或るいは逆ではないのかと勘繰る者もいたが、それが事実であった場合、不興を買えば総司令部と参謀本 部の長を同時に敵に回す事になりかねない為、声高に口にする者はいない。無論、参謀本部内では首席参謀であるアルバーエルがその論調を掣肘していた為に左 遷される参謀はいなかった。
「某やヴェルテンベルク伯は、の。いわば操り人形でな。実質、北部統合軍の指揮を執るのは総参謀長となるで御座ろう」
ミユキが共に持ってきた地酒を硝子碗に注ぐベルセリカは、驚くべきことを口にする。
その一言は事実上、自身がトウカの傀儡であると認めたに等しい。
そして、マリアベルの傀儡であるという主流の論調すら否定したも同然の言葉に、耳を澄ませていた参謀達も一様に驚きの表情を浮かべている。マリアベルが 果断に対する批判から己への中傷を避ける為に、新進気鋭の英雄を作り出して周囲の自身への反感を低減させようとしているという考えは有力者の多くに支持さ れているのだ。
異邦人が剣聖を従えている。
問題はその言葉に、ミユキが驚いていないということであるが、二人が特別な関係にあることは有名な話である。否、最近は、その様な気配を匂わせる遣り取 りがあるという噂は聞こえていた。トウカとマリアベルの関係を認めているのか、ミユキは興味なさげに稲荷寿司を頬張っている。そして、何故か狐耳を元気な
く垂らしている。稲荷寿司の具がお気に召さなかったらしい。或いは二人の噂に落ち込んでいるのか。
「そ、それは余りにも……」
「優秀な人間こそが軍勢を率いるべきで御座ろう。それに征伐軍に勝てる、そう断言できる大莫迦野郎などそうは居らん」
アルバーエルの言葉に、地酒の並々注がれた硝子碗を煽り、ベルセリカは呟く。
対するアルバーエルを含めた参謀達は絶句するしかない。
征伐軍に勝てる。そう口にする将校は少ない。
例え、口にしたとしても現実性のないものに過ぎず、失笑の小波に消えゆく程度のものに過ぎない。しかし、トウカには幾つもの実績があり、そんな人物が口 にした勝利の言葉であれば信憑性が生じる。そして、サクラギ・トウカという指揮官が提案した作戦目標を最終的には達成してきたからこそ、アルバーエルも可 能性を感じざるを得なかった。
「まぁ、中央貴族がでしゃばらねばという条件が付くそうであるが、そこはヴェルテンベルク伯の努力次第で御座ろう」ベルセリカが肩を竦める。
参謀達の中には条件付きであったことに肩を落とすものもいるが、アルバーエルは逆に条件付きであるからこそ現実味が増したように感じられた。中央貴族の 介入に対してマリアベルが手を打っているようにも思える発言は、トウカとベルセリカ、そしてマリアベルが強固な関係で結ばれているとも取れる。
否、恐らくはそうなのだ。軍務卿、総司令官、総参謀長という北部統合軍の主要職が一つの派閥によって占められているということは純軍事的に意思を統一す ることができるということに他ならない。政治手腕に優れたマリアベルの演出であろうことは疑いないが、トウカの望む未来をアルバーエルは見極める必要があ る。
其々が意図する未来。
其々が意図する勝利。
其々が意図する戦争。
トウカの望むものは、きっと自身と同じものだろう。アルバーエルにはそんな確信がある。
もし、同じだというのならば、トウカをこの参謀本部の全力を以て担ぎ上げて進まねばならない。
貴様は何とする、というベルセリカの視線。
気が付けば、室内の参謀達の視線はアルバーエルに注がれている。
言動次第では排除されるかもしれず、目の前にいるのは総司令官であり、古の剣聖でもある。圧倒的な存在感と武力を以て歴史に君臨する英雄。ならば堂々と応じるのが筋である。
「我等が、この参謀本部に呼ばれたのは、御国の歴史を紡ぐ為であると確信しております」
戦乱の時代。ならば、歴史の頁を捲るのは軍人の指先であるのが相応しい。
アルバーエルは、総司令官に敬礼する。
後に《スヴァルーシ統一帝国》との大規模な軍事的衝突に対して、迅雷の如く軍勢を運用し続けた《ヴァリスヘイム皇国》国防軍北方方面軍司令部の中核を担う参謀達もそれに続いた。
ゆらい戦勝は人の和により生じ、人の和は相互扶助の精神より生まれる。
《大日本帝国》陸軍、山下奉文中将
国の軍上層部が、露天喫茶で会議をして軍事機密がダダ漏れであった事実を知っており……《墺太利共和国軍》がそうであったという噂がある。