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第一一三話    天狐族の決断 後篇




「それゆえ天狐族の移住を求めたという訳か」

 シラヌイは娘からの提案に唸るしかない。

 時代の潮流が嘗てない程の規模を以て迫ってきていることは察していたものの、外界の状況がこれほどに逼迫しているとは想定していなかった。天狐族の里が 攻撃目標になることも、対策は講じつつも、確実にあるとは考えていなかったことを踏まえれば、やはり自身の見通しは甘いのだろうと、シラヌイは嘆息する。

 だが、ミユキとエイゼンタールの話を聞けば、事態は更に悪化していることが窺える。

 シラヌイとて既知の商人を通じて情報収集を行っていたが、眼前にいるのは北部統合軍参謀本部が設置されたシュパンダウを治める貴族と、それに関わる情報 部将校である。特に後者は、北部統合軍が集積した情報を総覧できる立場にある。前者も参謀総長であるトウカの恋人である以上、情報取得手段はシラヌイより も確実で強大なものであった。情報という面では、自らが劣る立場にあることをシラヌイは認めるしかない。

「だが、帝国が戦闘能力や支援能力に優れる高位種や中位種の里や町を先んじて攻撃しているなど……参謀本部は帝国軍侵攻の事前手段と考えているのか」

「それは主様も軍機だから教えてくれなかったかな」

 キュルテンから出された黒茶をずるずると啜りながら、ミユキは小首を傾げる。軍務に対して身内にも妥協しないトウカの姿勢は評価できるものであるものの、口にするのは不愉快なので、シラヌイ用意された黒茶を盛大な音を立てて啜る。

 不愉快である。同時に天下の一大事である。

 帝国軍が皇国北部に浸透している。

 元来、そうしたことを懸念した北部貴族の各領邦軍は、憲兵の比率が他地方の領邦軍よりも多い。それでも尚、警務府などは大規模な増員で、不穏分子や匪賊 の捕縛を進めている。内戦の最中でも、中立を維持し続ける警務府は、良くも悪くも皇国の敵を排除し続けていた。無論、ヴェルテンベルク領内に於いては活動 は赦されていないが。

 そんな状況にあっても帝国の影響力が増大したのだ。

 内戦は皇国内の大動脈である主要街道を寸断し、広域捜査を複雑化させた。火事場泥棒を意図した匪賊や傭兵崩れの流入などが起きたことを踏まえれば、処理 能力はとうの昔に限界を超えている。往年の防諜体制を維持していることを称賛すべきか、満足な増強を成せなかったことを不満に思うべきか悩むところである が。

 短時間で推察を終えたシラヌイは、今一度、黒茶を啜る。

「ちなみに参謀本部は、シラヌイ殿の考えられたように想定していますが?」

 黒茶を、ぶっ、と吐き出すシラヌイ。

 無表情のままで、怜悧な瞳をシラヌイに向けたエイゼンタールの一言に、シラヌイは深く唸るしかない。熱い黒茶を浴びたミユキが、狐耳を逆立たせて悲鳴を上げており、慌ててキュルテンが駆け寄る。

「莫迦な。軍機をそう易々と……」

「いえ、既に軍機ではなくなっているかと。時間ですので」腕時計を一瞥したエイゼンタール。

 狐耳に黒茶が入り、何とも言えない不快さを感じているミユキを横目に、シラヌイは北部自体もまた時代の潮流に合わせて目まぐるしく動き続けているのだと悟る。

 ――期限付きの軍機……純粋に公式見解として発表されたのか? 

 或いは、当事者達に知らせた方が利益になると判断したという可能性もある。

 恐らくは後者であろう、とシラヌイは独語する。

 自分のような非協力的な族長が率いる種族に危機感を抱かせ、傘下に加えることを意図しているのかも知れない。確実にする為、族長の座の追い落としを各種族内で図っている可能性とて有り得る。天狐族の場合は、それを含めての、ミユキのロンメル子爵位拝命だったのだろう。

「脅しか? あの装甲姫は心まで鋼鉄と見える」

「いえ、危機感を持っていただく為の“好意”かと。この期に及んでも、旗色を明確にしない種族に気を配るだけの余裕が北部統合軍にはありませんので」

 エイゼンタールは、探る瞳でシラヌイを見据える。

 実は、この時、北部統合軍は不確定要素の排除に全力を尽くしていた。

 旗色を明確にしない種族の里や街の防衛も北部全体の治安維持という観点から行わねばならないが、それを放棄して戦力を前線に集中させようと治安維持を担 う各部隊の再編制と前線への再配置を急いでいた。各種族は北部統合軍への協力か、自ら防衛戦力を編成しての防護を迫られており、北部は俄かに慌ただしさを 増している。

 “非協力的な者達を護る必要はない。《ヴァリスヘイム皇国》は民主共和制ではないのだ”

 参謀総長として、トウカが総司令部に戦力増強の助言を求められた際に発した言葉である。

 冷酷な言葉である様にも思えるが、意外なことに反発する貴族や種族は少数に留まった。トウカが重ねて提案した計画によるもので、各種族に対しての各領邦 軍の備蓄している旧式兵器の無償貸与と、自ら防衛戦力を編成する際の助言を行うことで、自力での防衛を可能とさせるだけの配慮を示したからである。各種族 にも退役軍人などがおり、それを基幹とすることで編制を行うことは難しいことではなく、里や街などの拠点防衛程度は可能だと考えられていた。

 寧ろ、戦乱の時代、奪われることを恐れる種族にとって、自前の防衛戦力の創設を強力に支援してくれるとあれば飛び付かないはずがなかった。

 シラヌイもその動きは知っていたものの、それが戦力の引き抜きと同調しているものだとは考えてもいなかった。

「天狐族は退役軍人もいなければ、兵器の操作を指導できる者もいない。……縋るしかないという訳か。不愉快な話だ」

「失礼ながら、北部統合軍としてはどちらでも構いません。邪魔さえしないのであれば、ですが」

「なんか、良く分からないけど、チカちゃん頑張って!」

 シラヌイと、エイゼンタールの遣り取りに、ミユキは自分の提案が受け入れられそうな気配を察し、尻尾を大きく揺らしている。

 実際のところ、リシアの指示により、いざとなれば交渉の一部をエイゼンタールが行う様になっていた。リシアはミユキの性格を理解した上で簡単に丸め込ま れてしまうと考え、元より交渉は任せられないと判断していたのだ。ミユキに頼られたからと言って、ミユキを活躍させるかは別問題であるということであっ た。

「止む無し、か……しかし、望む者だけだ。里を放棄することはできん。祭事は欠かすことができないからな」シラヌイは溜息と共に呟く。

 ミユキを連れ帰る心算でいたシラヌイだが、思いのほか状況が不利であることを悟り、止む無く同意する。

 天狐族の有事の際に北部統合軍から一切の支援が受けられないというのは、余りにも問題であり、天狐族は退役軍人もいなければ、然したる武器も保有しては いない。隠蔽魔術に頼ることで里を護っていたが、今では一度の、襲撃を受けたことで、戦力増強の必要性に迫られている状況である。北部での兵器製造施設の 大半が集中しているヴェルテンベルク領に強い繋がりを持つ者達を敵に回す訳にはいかなかった。

「娘に脅されるとはなぁ……あの若造の差し金か」

「主様は関係ないよぅ。もぅ、直ぐに主様の所為にしないでよっ」

 不満げな顔と口調をして見せるシラヌイだが、ミユキの不平を聞きながらも、娘が北部にとって重要な位置を締めつつあるという状況に悪い気はしなかった。

「まぁ、外界に興味を持つ者も増えすぎた。これ以上、止めることは難しいからな。土地は用意して貰えるのだろう?」

「えっと、シュパンダウ近郊の打ち捨てられた港町を使おうかなって思っているんだけど……魚が獲れれば皆も喜ぶと思うし、シュパンダウの住民とも交流したらきっと楽しいよ」

 ミユキは、やはり他種族との交流に重きを置いていると、シラヌイは嘆息する。

 それは、現在の天狐族とは相対する願いである。変わらねばならない。その気持ちはシラヌイも理解でき、確かに合理的な部分も存在する。それをトウカやマ リアベルが強力に支援しているとなれば、シラヌイが危惧している様な天狐族が不遇を強いられることも事前に阻止されるに違いなかった。

 天狐族は徹底して隠れ里に潜むことで、幾度の戦乱の時代にも人口を打ち減らされることもなく、その出生率の低さにも関わらず緩やかに人口を上昇させ続け ていた。希少な種族であり高い魔導資質を持つ天狐族は重用されることは間違いないが、それが良いことかは分からない。現に七武五公を輩出している種族は、 戦乱に次ぐ戦乱によって最盛期の三分の一程度まで人口を減らしており、未だに回復していない現状を見れば、シラヌイや歴代の天狐族の族長が執っていた方針 は、人口維持の観点から見れば決して間違ったものではなかった。

 しかし、それに対してシラヌイが、後ろ暗い感情がなかったかと言えば、否である。

 国防と政治を放棄し、隠れ潜んだ天狐族に対し、他の種族は歴代天帝陛下の下で、祖国を護る為に血涙を流し、時には命を落としてきた。

 その代償を、ミユキが今この時、突き付けているという事実は、シラヌイの気を重くさせる。

「俺は、ヴェルテンベルク伯と会談した後に里へ戻る……が、それまでは此処に御邪魔させていただくとしよう」

 この後、直ぐにフェルゼンへと連絡船で向かう予定であったが、ミユキからの物言わぬ圧力を感じて逗留を決める。親子水入らずというのも悪くはない。

 一転して花の咲く様な笑みを浮かべ、抱き付いてきたミユキを抱き止めて、シラヌイは天狐族の未来に思いを馳せる。

 或いは、幾多の血が流れるかも知れない。

 しかし、皇国を放浪し続けてミユキが、己の腕に抱かれて無垢な笑顔を浮かべているのもまた事実。

 世界で一番自由な天狐は、信頼できる者を見付け、自らの居場所を獲得した。彼女がそうした様に、今こそ天狐族は総てを賭け、居場所を求める時ではないのか。ミユキが、そうしたように。

 ――若造とも話さねばならんか。

 ミユキを護り、居場所まで与えるように画策した少年の横顔を思い出し、シラヌイは尻尾を一振りするのだった。









長閑(のどか)なところね。実験開発施設を集中させた特区って聞いていたのだけど」

 マイカゼは、シュパンダウの市街地の長閑な様子を目にし、首を傾げる。

 シュパンダウは、ヴェルテンベルク領の重工業や兵器工廠の開発区画を集中させた特区として有名である。経済支援や技術交流を求め、北部中から企業の技術者や研究者が集結し、日夜、研究開発が繰り返されていた。

 マイカゼだけでなく、多くの者はシュパンダウが工場の乱立する工業地帯のような風景であると信じて疑わないが、実際のところは長閑な田園風景と、閑散とした小都市があるだけであった。

 その疑問に、トウカが苦笑を以て答える。

「量産の為の大規模な工場群なら兎も角、あくまでも研究開発と実験の為の地区です。それに、防諜の観点から地下に造られています。発見した地下空間(ジオフロント)を利用する形で開発を進めた結果、この様な形になったとか」

 里から暫く出ていない間に、世間の技術躍進は加速の一途を辿っているように思え、マイカゼは溜息を吐く。

 天狐族隠れ里には外界の最新設備などなく、照明設備や水道設備などもない。魔術によって代替している部分もあるが、炊事洗濯などは完全な手作業である。里の天狐族の者達が、最近、販売を開始し始めたという洗濯機や幾つもの調理器具を見れば驚くだろう。

「買って帰ってあげようかしらね」

「???」

 首を傾げるトウカに無言の笑みを返し、マイカゼは遠方に見える港の方角を向く。

 シュパンダウは、幾つもの島嶼からなるシュットガルト=ロンメル子爵領の領都の名であると同時に、その島の名でもある。そして、島であるが故に湾岸設備 が充実しており、今も戦時下であるにも関わらず漁業が盛んに行われている。現に湖の水平線付近には、何隻もの船が見て取れる。勿論、大星洋での遠洋漁業を 終えてきた大型漁船の姿もある。

 マイカゼは、海産物も土産に買おうと決意する。

 天狐族も里の近くの渓流で魚を取るが、種類は極めて限られており、淡白な白身魚が中心である。たまには赤身の魚を食したいと思うのは当然のことであっ た。ミユキが里へと舞い戻ってきた際、港町での魚の活造りの話を聞き、壁に爪を立てて悔しがった狐もいるほどである。日干ししたものでも、十分に喜ぶだろ うことは疑いない。

「リシア……あれは?」

 トウカは湾内へと侵入しつつある軍艦を見据え、背後のリシアに問う。

「新型防空巡洋艦です。内海での戦闘の為に建造中だった大型巡洋艦を防空艦に改装したものと聞いています。……まぁ、何処かの誰かが、これからは航空騎の時代になるって胸を張って言うから真に受けちゃった可愛い伯爵様が何処かに居たんじゃないの?」

 不満げな顔のままに、リシアが呟く。

 マイカゼには二人の関係は良く分からないが、仕事上の関係だけに留まらない様にも見受けられる。ミユキの恋の好敵手が現れたのだろうか、とマイカゼは歪む口元を懐から出した扇子で隠す。種族が如何であれ、ヒトの恋路ほど楽しいものはないのだ。

 ――でも、リシアちゃんは不利ねぇ。

 ミユキは、マリアベルの信任を得て子爵位を獲得した上に、言動と性格は兎も角としても天狐族の姫君であり、次期族長でもある。一大佐では分が悪い。

「リシアちゃんは、トウカ君の同僚なのよね?」

「ええ、参謀本部で情報参謀を務めさせていただいています。里での調査の際の御協力には感謝しております、マイカゼ殿」

 堅苦しい部分があるが、ミユキと交友関係があるとも当人からは聞いていたので、決して悪い人物ではないのだろうとマイカゼは判断した。ミユキの人物評は多分に勘に偏ったものであるが、野性の勘と言える程に鋭く、マイカゼもその点は大いに信頼している。

「堅苦しいのは嫌よ、リシアちゃん。マイたんで良いのに」

 唇を尖らせて見せるマイカゼに、リシアは躊躇いながらも応じる。

「失礼ながら、建国に携わった高位種一族の要人に慣れ慣れしく接することは憚られます」

「神虎族の姫様を簀巻きにした癖に、今更、取り繕っても無駄だろう」

 畏まったリシアに、トウカが失笑を零す。

 リシアが、レオンディーネを捕虜にしたという話は耳にしていたが、その経緯はトウカから見ると著しく礼を失した扱いだったのだろう。

 実際のところ、リシアはレオンディーネに対して無礼千万な態度を取っていた。

 捕虜にした際の出来事も著しく礼を失したものであったが、連れ帰る際も荷物を扱う様に、猿轡をして戦闘車輛の隅に転がして放置するという有様である。トウカもリシアに曲剣(サーベル)の切っ先を向けられた際、レオンディーネを楯にしたので批判できる立場にないのだが、そんなことはお構いなしである。

「二人とも仲がいいのね?」

「まぁ、上官と部下ですので。信頼関係がなければ務まりません」

 トウカは、真顔で当然のように告げるが、リシアは口元を引き攣らせている。腐れ縁なのだろう。

 恐らくはリシアはトウカに好意を持っているものの、トウカはそれに気付かない風を装っているのだろう。或いは、求愛の言葉を聞こえない風に装っているの か。邪な思いがある訳ではなく、人間関係が壊れることを恐れて、若しくは傷付けることを恐れてだろうとマイカゼは推察する。

「まぁ、優しいこと。……ところで、ミユキの思惑は知っていて?」何気ない風を装ってマイカゼは問う。

 トウカは思案の表情を以てマイカゼの真意を探ろうとする瞳であるが、リシアは僅かであるが眉を一瞬、顰める仕草を見せた。マイカゼはトウカが何かしらの策を講じてミユキが意図する天狐族と外界との交流を図ると考えていたが、その読みは違えていた様である。

 益々と楽しくなってきたわね、とマイカゼは、リシアの肩を掴む。

「あらあら、トウカ君かと思ったのに、リシアちゃんだったのね……詳しい話を聞かせなさいな」

 リシアの肩を掴み、マイカゼは片方の口元を釣り上げる。

 これでも幼少の頃は、シラヌイを差し置いて餓鬼大将だったのだ。狐耳を逆立てたマイカゼの視線に、リシアがトウカへと視線を巡らせて助けを求めるが、リシアとミユキの遣り取りの内容を気にしてか止める気配はない。

 万力の様な力でマイカゼは、リシアの肩を掴む。

 交渉とは武力を伴ってこそ、確実に意味を成すのだ。相手が組織や軍人であれば尚更である。分かり易い武力や暴力は、正面切った交渉では限りなく有効な手札である。

「は、話しますので、離していただけますか?」

「はなしますので、はなしていただけますか、か……詰まらないな」

 脂汗を浮かべて降伏の意を示したリシアの言葉に、トウカが失笑を一つ。すかさずリシアの肘打ちを受けてトウカが呻くものの、マイカゼはそれを無視して尋ねる。

「それで、ミユキの狙いは? やっぱり天狐族を里から引き摺り出すことね?」

「ご、御存知だったのですね……」

 離された肩を擦り、額に汗を滲ませながらリシアが認める。

 ミユキは、ライネケに舞い戻った際、幾度も外界と交流すべきと口にしていたので、その思惑を察することは容易かった。しかし、眼前のリシアは参謀本部付情報参謀であり、それなりの影響力を持つ。影響力を持つ者を巻き込む時点で、それは政治的な蠢動に等しい。

それを己が娘は理解しているのか?

 ――してるはずないでしょうねぇ……もぅ、困った娘なんだから。

 マイカゼは苦笑すると、トウカへと向き直る。

 天狐族は、今まで政治や軍事に対して全く介入をしていなかった高位種であるが、ミユキがロンメル子爵となったことで、北部貴族の政治的均衡が崩れつつあ るとマイカゼは見ていた。高位種は基本的に建国時から皇国の領土に居住していた種族が大半であり、長い時間を掛けて皇国という多種族国家に同化し、複雑に 絡み合っていた。

 権益と高位種、爵位は一つの集合体と言っても過言ではない。

 そして、領土が長きに渡り増加していない皇国に、新たな政治勢力が台頭する余地は少ない。台頭するだけで他の貴族の権益などが減少することを意味する為である。

 熾烈な、或いは水面下での衝突があることは疑いない。

「マイカゼ殿が今考えておられる懸念は問題ないかと……ミユキに渡される領土も権利も家臣団も、全てはマリ……ヴェルテンベルク伯からのものです」

 マイカゼの内心を見透かしたかの様に、トウカの声が響く。

 だから、この少年は怖いのだ。この若さにして軍事と政治に対して造詣があるだけでなく、それらに作用する力学の本質を理解している。

 そうは思いつつも、マイカゼは、まだまだ甘いと思う。

 トウカは、ヒトの感情を理解していない。

 長年、政治と軍事に関わらず、幾度もの皇国の危機を座視してきた天狐族が、何の功績もなく、しかも天帝陛下からの正式な拝命がある訳でもないにも関わらず爵位を得るということ自体に反感を持つ者は少なくないはずである。

 そこに天狐族を自領に集めようとするミユキ。

 露骨なまでの政治勢力としての足場固めと、軍備増強にしか見えないだろう。

 確かに、有事であり、戦力が幾らあっても足りない現状で、魔導資質に優れた天狐族の協力を得る為に爵位を与えるというのは、十分な説得力を持つ理由であり、合理的な判断である。

 しかし、ヒトがそれに納得するかは別問題である。

 天狐族は、そうした問題……種族間の確執や権力闘争を恐れ、皇国史の表舞台から姿を消したのだ。

 今、再び、天狐族がそれと向き合うことができるのだろうか?

 それこそがマイカゼの不安である。

 天狐族というのは、一般的に楽天的で純真な者が多い。ヒトの悪意に弱いのだ。臆病よも言える。

 それ故の攻撃性も持ち合わせているが、冷静に悪意に対処できるのはそれなりの歳を重ねた天狐くらいのものであり、若い者は人見知りも激しい傾向にある。 ミユキのように、誰しもに笑顔を向けられる種族ではないのだ。或いは、狐の因子がそうさせるのか、それはマイカゼにも分からない。

「周囲が納得しないでしょう? 狡猾な狐は警戒されちゃうもの」

 多分に迂遠な言い様をして見せたマイカゼに、トウカが一拍の間を置いて答える。

「これからは、私とヴェルテンベルク伯は派手に動く心算です。狐に対する風評など然したるものではないかと……それに」

「それに?」

 一瞬の逡巡を見せたトウカに、マイカゼは片方の狐耳を折って尋ねる。人間種で言うところの可愛く小首を傾げるような動作である。

 どうせ碌なことを考えていないのだろう、という意味を含めたマイカゼの笑顔であったが、トウカも満面の笑みを返す。狐の花婿はやはり狡賢いのだろう。

「ヴェルテンベルク伯が明確に庇護を宣言しています。政治的にも軍事的も。本来、弱点を極端に嫌うヴェルテンベルク伯が、それを承知で領地や爵位を与え、護ると宣言したのです。信じて差し上げるべきでしょう。彼女は誠意を見せました」

 何時になく饒舌なトウカに、マイカゼは思案する。

 リシアの、トウカが明確なまでにマリアベルを信頼する姿勢を見せたことを訝しんでいる様子を見るに、トウカとマリアベルの関係は非公式なものであることは疑いない。情報参謀も恋愛の情報に関しては疎い様子であった。

 ――そこで関係ができちゃったのね。行き後れは怖いわぁ。

 マイカゼのそうした推測など露知らず、トウカは拳を握って力説する。

「これからは天狐族がそれに報いるべきです」

 長々と講釈を垂れ終えたトウカの耳を引っ張り、二人してリシアに背を向ける。マイカゼはトウカの顔を寄せると、その手を取り自らの胸元へと誘う。

 突然、着物の襟へと誘われた手に身を固くしたトウカに、マイカゼは妖艶な笑みを以て尋ねる。薫り立つ色香は、決してマリアベルに劣るものではないと自負しており、ましてや夫がいて娘もいるマイカゼは、マリアベルと違い男性を深く知っている。

 慌てて距離を取ろうとするトウカを、マイカゼが一瞬の逡巡の後に手離す。

まさか、そこまで分別の付かない狐ではない。分別の付かない狐ではないのだ。断じて。

「……摘まみ食いなんてしないもん」

「ミユキみたいに可愛く振る舞ってみようと思うなら、打算に満ちた表情は止めるべきでしょう」

 トウカは引き攣った表情のままに呟く。対するリシアは首を傾げるだけである。

 肌着である白襦袢を整え、襟元を正し、マイカゼは小袖を翻す。

 良くも悪くも飽きることはないであろうこれからを思い描く母狐。

 想像もできない日常。

 考えてみれば、何時以来のことかとマイカゼは己が生を振り返るが、それは思い出すことも難しいほどに古い記憶であった。今では当然のようになった日常 は、確かにミユキが口にした様な停滞の日々だったのかも知れない、とマイカゼは思う。それに疑問を持つことすらなくなる程に、己の生は摩耗していたのかと すら思える。

 だが、今のマイカゼの先には、未知が広がっている。

 それは抗い難いものだ。或いは、総てを投じて尚も知る価値のあるものかもしれない。否、自身で価値を創造するのだ。

「さぁ、行きましょう……義母上」差し出されたトウカの手。

 マイカゼはその手を掴む。

 先の事は分からないが、不安よりも未知への欲求がマイカゼの心の内を突き動かす。

「そうね、いきましょう。婿殿」

 そして、三人はシュパンダウの表通りを進む。

 

 

 

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