<<<前話  次話>>>

 

 

第一一六話    姫君と騎士




「美味かったな」

「そうよの。美味しいとは聞いておったが、ここまでとはの」

 トウカは、マリアベルの言葉に頷く。

 プラニーシュトラーセの一角に古くから店を構える伝統ある喫茶店で、値段も良心的であり紅茶も懐に優しい金額だった。だが、何よりも出される軽食が美味だったことが二人を満足させた。

 日頃から、トウカもマリアベルも北部の味の極端な料理には辟易としていた。特に体力を資本とする軍などの激しい職務に身を投じている職業の者達は濃い味 付けの料理を好む傾向にある。香辛料に塩、油などを大量に使い、肉類や魚類などの栄養価の高い食品を調理する以上、その味は酷く濃いものとならざるを得な い。

 皇国北部に住んでいる者達は、芋地獄と甘藍(キャベツ)の 祟りに悩まされているはずであると考えていたトウカだが、当人達は土着である為に馴れているのか不満を垂らす者は少ない。しかし、マリアベルは大いに不満 がある様子で、屋敷で出される食事は色々な食材に加え、世界各地から取り寄せた調味料や香辛料を使用したものであることが多い。「妾の燃料は酒精(アルコール)での」と事ある毎に口にしているだけあり、マリアベルは味の濃い物を好む傾向にあるが、それは宴席のみである。流石にヴルスト(ソーセージ)ばかりを食べる訳にもいかない。

 無論、トウカも同様である。

 日本は無駄に食への探求心が高く、食文化に関して言えば他の列強より進歩していた。そんな国の人間からすればこの世界の料理は辟易とするものばかりである。白麦酒(ヴァイツェン)やウィシュケは、日本の酒類に比肩し得るものであるが、料理は如何(いかん)ともし難かった。

「良い店で良かった。本当は女を連れ込むのに初めての店を使うのは宜しくないそうだが」

「慎重なことよの……フェルゼンでは自重せい。痴情の縺れになっても助けぬからの?」

 二人は食後の紅茶を楽しみながら、他愛のない会話を続ける。

 そうは言ってもマリアベルの舌鋒は鋭い。その痴情の縺れの一翼を自身が担っていることなど露ほども見せない仕草であるところが腹立たしくもあるのだが、その得意げな笑みを見せられると反論する気は萎えてしまう。

 どうも、トウカはマリアベルの得意げな笑みに弱かった。

 その笑みを好んでいると考えないところがトウカらしくもあり、こうした不明瞭な関係を続ける上での妥協点であるのだが、マリアベルはその様なことは気にも留めていない。

「まぁ、これから暫くは時間に余裕もできる」

「嵐の前の静けさということかの」

 もしゃもしゃと菓子を咀嚼しながら、突き(フォーク)をトウカに向ける。

 実は二人が顔を合わせることは意外と少ない。

 フェルゼンでは仕事上、僅かながら顔を合わせるものの私的な会話はほとんどなく、軍人であるトウカは政治に携わることが少ない為、政治を本分とするマリアベルとは対極に位置する立場となってしまった。

 本来、軍人と政治家がこの様に親しくすることすら好ましくない。例え、その立場が本質的に領邦軍軍人と貴族であっても、各領地の連携が深まりつつある現状では自重を必要とする部分も出てくる。場合によっては背を向けねばならないこともあるだろう。

 それは、情勢もまた同様である。最早、北部は一つの国家なのだ。


 そして、国家に真の友人はいない。


 栄光ある孤立こそが常道なのだ。

いずれ選択を迫られる時が来るかもしれないが、今ばかりは唯の男女として二人は邂逅していた。

「これだけ変装をすれば、誰も気付くまいて……似合っておろう?」

 アップに纏めた金髪に、目深に被った狩猟(ハンチング)帽。透鏡(レンズ)の大きな色の薄い斜光眼鏡(サングラス)。真紅の領帯(ネクタイ)を締めた褐色(ブラウン)海軍上衣(ネイビーブレザー)と、活動的に見える膝丈の全襞裳(プリーツスカート)、黒の膝上靴下(ニーソックス)という出で立ちで座るマリアベルを下から上へと眺め、トウカは鷹揚に頷く。

「傾いた姿で来るかと思っていたが……可愛い気がある。そういった服も似合うのか」

 女性が実に多くの面を持っているということは、この皇国での生活でトウカは学んでいたが、眼前のマリアベル程に多彩なモノを持っている者は初めてである。服装や性格、能力は勿論、その表情や佇まいなどは見ていて飽きることがない。

「そうか可愛いか、可愛いのか」

 うむうむ、と頷くマリアベルの仕草は、本来であればその服装に似合わないものであろうが、マリアベルであると何故か似合うという不条理にトウカは思わず苦笑する。

「何時もの和装も凛々しいが、その服も悪くない。ザムエルそれなら放っておかないだろうな」

「そうか……」

 何故か気拙い雰囲気になる。

 ――ああ、地雷を踏んだな。

 女性の前で別の男性の話題を出すのは厳禁である。だが、ザムエルなので問題ないと、トウカは考えたのだが失敗であった。

 仕切り直しだと、トウカは視線をマリアベルが食べている菓子に落とす。

 牛酪凝乳(バタークリーム)の菓子らしく、マリアベルは頬を綻ばせながら口に運んでいる。

 ――フランクフルタークランツだったか? ……見ているだけで胸焼けしそうだな。

 フランクフルタークランツは、円形の王冠のような形をした凝乳菓子(ケーキ)で、全体が牛酪凝乳(バタークリーム)で塗られ、上部はクロカンと呼ばれる胡桃入りの軍粮精(カラメル)で覆われている。

 ――しかし、女性はなぜ甘いものが好きなのか。

 御品書き(メニュー)の紹介欄を見つつも辟易とする。女性と飲食をする際、必ずと言っていいほど目にする光景なのだ。勿論、馴れているので顔には出さない。

 マリアベルが一般の女性と同じく甘味を好むという事実を、トウカは今日知ることとなった。

普段は酒と味の濃いつまみを好んでいるので甘味を忌避していると考えていたが、実際はそうではなく、午後の一時には甘味を口に運ぶことも多い。無論、それ をマリアベルが他人の前で見せることはない。自身の印象が崩れることを恐れるが故であったが、今この時ばかりは例外である。容姿を偽り、ただ一人の女とし て愛しい人の前に在る以上、隠す必要はなかった。

 ――後に郵送でこの菓子も送っておくか。

 さり気ない配慮である。

 自身ではなく菓子がマリアベルを喜ばせていることが大いに癪に障るが、女性とはそういうものなのかも知れない。花より団子という訳であり、ミユキも甘味を好んでいる。

「それ、美味しいか?」

「うむ、食うかの? ほれ」

 そう言って突き(フォーク)に刺さったフランクフルタークランツの欠片を差し出される。

 反射的にそれを口にするトウカ。

 ありにも自然に差し出されたので、さも当然のように口にしてしまった。マリアベルも半ば無意識の行動だったのか、終わってから気が付いて頬を赤く染め、口元をへの字に曲げる。それを見たトウカは思わず頬を緩めた。

 もっとも、その報復も直ぐに実行された。

 鈍い打撃音。

 机下で脛を蹴られたトウカは顔を顰める。

「年長者を揶揄(からか)うでないわ、莫迦者め」

 先にしてきたのはどっちか、とは言わない。無事なもう一方の脛も蹴られたくはないからである。











「いや、かなり買ったな」

「何故、食材ばかり買うのかの?」マリアベルは気になって尋ねる。

 二人は二階建てのマルクト・ハレ内の店舗を順に回り、今は二階の長椅子(ベンチ)で休息を取っていた。一階を見渡せる位置にある長椅子(ベンチ)に座る二人の脇には食材の入った紙袋が置かれている。マリアベルも日用雑貨を少し買ったが、トウカは食材ばかりで日頃の食生活を心配したくなる状況であった。

 ミユキは食の面では大いに野性的であり、マリアベルですらも顔を引き攣らせるほどの食材を持ち出す事も少なくない。文明が崩壊しても生きていけるだけの野生の勘があることを喜ぶべきか否かは思案のしどころである。

「ああ、言ってなかったか? 夕飯は俺が作るんだよ」

「ほぅ、ならば期待させてもらおうかの」

 市場を上から眺めながら、マリアベルは表情を緩める。

 トウカの手料理を口にすることは何度かあった。呆れるような腕前で、男の癖に料理なんぞしおって、とマリアベルが愚痴を零してしまう程である。ちなみにマリアベルは料理ができない。製図と政務はできても料理はできないのだ。

 マルクト・ハレには様々な食料品店が並んでいる。

 乾酪(チーズ)屋に肉屋、洋餅(パン)屋、 惣菜屋、香辛料屋、魚屋酒屋など様々な店があり、食材の数も豊富で、シュットガルト運河を通して世界各地から寄港する商船によって運ばれてくる品々もあ る。北部中から観光客や料理人などが訪れる一大市場でもあった。トウカであれば、それらを上手く調理してさぞ美味しい料理が作れることだろうと、マリアベ ルは小さく笑みを零す。

「御主は……しっかりしておるよ」万感の思いを込めてマリアベルは呟く。

 トウカの「そうか?」という言葉に、マリアベルは短く頷く。

 見た目と態度からはそうは見えないが、トウカは自らの立場と意志を狂おしいまでに明確にしている。曖昧でありながらもその様な関係が当然であるかのよう に相手に思わせることができるからこそ、愛を囁いたリシアは現状を無理に変えようと動くこともなくある程度の妥協を実現した。結論として、愛の言葉は無き ものとされ、ミユキという根幹は揺るがなかったのだ。

女性からすると、愛の言葉を曖昧にする男性というのは間違いなく敵であるのだが、少なくともトウカは当人同士の間で関係を拗らせることはないので、その点は評価できる。女性関係に問題がある軍人など碌なものではない。正確にはザムエルやザムエルやザムエルなどである。

 一人で飄々と肩で風を切って歩いている。

 マリアベルは、トウカにそうした感想を抱いていた。

 自身のことを含めて考えれば女性にはだらしがない様に見えるが、当人同士の間では何かしらの線引きがあり、或いは女性達はトウカを自らのものにすること を諦めているのかも知れない。ミユキですらトウカとの関係を形成するに当たって、ベルセリカやマイカゼを巻き込んでいる以上、トウカを個人で束縛すること を諦めている様に見えなくもない。

 だが、それでも尚、女性達はトウカと共に在ろうとする。

 ――いや、あの仔狐は本気であろうて。諦めるということを知らぬであろうしの。

 多くの女性を巻き込んだのも、トウカを縛る鎖を一つでも用意しようという考えであるに違いないとマリアベルは考えていた。逆に、そこまでして繋ぎ止める ことを困難だと考えている理由に興味が湧くが、それを追求する気はマリアベルにはなく、今の関係が続くのであれば満足であった。少なくとも自身にそう言い 聞かせている。

 諦めるということを諦めている。仔狐は……ミユキはそんな少女だ。

 ミユキの決意や覚悟がどのようなものか知らないが、その姿をマリアベルは羨ましく思っており、諦めるということを知らない姿勢もまた同様であった。努力する姿勢というのは、当事者でさえさければ微笑ましいものである。

 マリアベルは……マリアベルも、やはり諦めきれないから。

「???」

 首を傾げるトウカを尻目に、マリアベルはトウカの紙袋を漁り、黒麦酒(ドゥンケルヴァイツェン)の酒瓶を手に取って栓を外す。朱に染まっているであろう頬を誤魔化すには白麦酒(ヴァイツェン)が一番である。

「まぁ、悪くないかの……」マリアベルは穏やかに笑う。

 どちらにせよミユキという少女はトウカに良い影響を齎すと確信している。だからといって容易くくれてやるつもりなど毛頭もない。せめて、それ相応の覚悟くらいは示してもらわねば余りにも自分が惨めである。

「その濃麦酒(ドゥンケルヴァイツェン)、そんなに美味しいのかの?」

 勘違いしたのか、マリアベルの持っている酒瓶に視線を向けるトウカ。

「んん、ああ、美味いの。つまみに腸詰め(ヴルスト)があれば最高であろうて」

 ――政戦で凄惨な駆け引きを繰り広げておると、その様な性格になるのも止むを得ん。

 政戦は酷く装飾を嫌う性質を持つ。

 もし、それらを望んでいると考えるなら、その者には政戦を扱う資格はない。装飾は政戦を知りもせず弄ぶ者達が望む外装に過ぎないのだから。

 等々と自分の親父臭さを内心で正当化してみるが、女として何か大事なものを失いつつある気がしたマリアベルは手にしていた酒瓶に視線を落とす。

 木製椀(コップ)ではなく酒瓶を手にしているのは直接飲んでいるからであった。

「まぁ、そう言うと思った」

 少し落ち込んでいたマリアベルを余所に、トウカが食欲のそそる匂いをした容器を紙袋から取り出す。

 視線を上げると湯気を立てた腸詰め(ヴルスト)が二本入った容器を手にしたトウカが、曖昧な笑みを浮かべていた。そう言えば、先程、屋台で腸詰め(ヴル スト)を買っている姿を見た気がしたマリアベルは、用意の良いことよの、と呆れつつも紙に包まれた腸詰め(ヴルスト)を一本受け取る。

「む、気が利くのぅ」

「俺も食べようと思っていたからな」

 トウカはそう口にすると、酒瓶を紙袋から取り出して歯で栓を外す。優男な外見に似合わない野性的な態度に苦笑する。基本的にマリアベルが知るトウカは温 厚な男であるが、それだけではなく軍を指揮する時や、非常時には苛烈な口調と態度になるということは噂で聞いていた。現にマリアベルもそうした言葉と態度 で迫られたことがある。

 ――大多数に苛烈な人間であると思われるのが嫌なのか……本来は斯様な性格なのか。試してみるのも悪くなかろうて。

 トウカが差し出す酒瓶に自身の酒瓶を向けながらマリアベルは、トウカの過去を何も知らない事を思い出した。

「北部統合軍の勝利に」
「ヴェルテンベルクの繁栄に」

 二人はそれぞれの立場からの願いを呟く。互いが互いに対する言葉を紡がない辺りは、妥協でもあり照れでもあった。

 マリアベルの持っていた酒瓶と、トウカの酒瓶が当たり小気味良い音を立てる。

 無駄に様になった二人の姿に、通路を行く人々が足を止めているのだが二人は気付かない。無論、昼間から公衆の面前で飲酒しているというのも大きな原因であったが、それすらも当然のように思える程の自然な佇まいであり眉を顰める者はいない。

 ――曖昧な立場で許される時間は少ないやも知れぬの。

 トウカの周囲にいる女達はマリアベルから見れば、トウカの決意を動かすに値する何かを持っていない。

 だが、ミユキだけはトウカを動かすであろう何かを持っている気がした。

 ――妾は動かせるかの。否、この場で寄り添っているということは動かせたということかのぅ。

 視線を蒼空へと向ける。

 もし、トウカの意図通りに操られていたのならば痛快であり、老獪な龍を相手に良くやったと褒めて然るべきである。しかしながら年長者であり、他者に対して常に優越せんとしてきたマリアベルとしては、些か納得できないものがあるのもまた事実。

 二人で黒麦酒(ドゥンケルヴァイツェン)を飲 み、ヴルストを頬張りながらもその様な釈然としない気持ちをマリアベルは抱いていた。簡単に言えば、年上の御姉様が付き合い始めた弟分に手玉に取られて面 白くない程度の感情と同列程度のものであるが、双方共に弁が立つ為にそれに対する可愛らしい不満が口を突いて出ることはなく、互いにやんわりと主導権を取 ろうと他愛のない会話が続くに終始する。

「うむ、一度、番外地には行ってみたいの」

「あそこは治安が悪いと聞いているが? 女性を連れだって歩くには相応しくないだろう。下らない連中に絡まれても面倒だ」

 トウカの反論は予想していたので、マリアベルは鷹揚に頷く。

 トウカも面倒だとは口にしても、危険だとは口にしていない。マリアベルが小型の自動拳銃で武装している様に、トウカも脇下拳銃嚢(ショルダーホルスター)でP89自動拳銃を隠し持っており、手を組んで歩いていた際の感触を見るに、腰には三本の予備弾倉を収めた弾倉嚢(マガジンポーチ)軍帯革(スイングベルト)戦闘短刀(コンバットナイフ)と共に吊るしている。羽織った長外套(ロングコート)で見えてはいないとはいえ、街中を歩くには重武装に過ぎた。

 良くも悪くも似た者同士である二人であった。

「それは確かに。じゃがのぅ、そんなものを相手にするほど妾は落ちぶれてはおらぬよ」

「出来るだけ大通りの装飾店や高級店を梯子して回ればいいだろう。なにせ参謀総長だからな、俸給はそれなりに出ている。無理をしていかがわしい場所に行く必要はないだろう」

 トウカには俸給が支払われている。

 実際のところ北部統合軍招聘の俸給は揉めに揉めた為にずれ込み、支払われたのは最近である。ちなみに揉めた原因は、北部統合軍の前身となった各領邦軍の 俸給の差をどの様にするかで紛糾した為であった。俸給の差を失くし統一する方向で纏まりはしたものの、それをどこから捻出し、誰がどの様な比率で拠出する かでも大いに揉めることなった。武装や人材面での統合よりも、予算面での統合が困難であったことは、この戦時下にあって小さな皮肉であると言える。近代で は、ヒトは金銭なくして幸福を維持できないのだ。

「むぅ、誰も彼もが危険だと言って遠ざけては為政者としてのぅ。じゃからの、出来るだけ色々な所に」

 下々の生活も見て回らねばならぬと言ってはみたが、マリアベルとしては番外地という自身が引き起こした急速な重工業化と経済発展によって生じた貧民街(スラム)に、一人で足を踏み入れる勇気がなかった。だからこそ、今トウカと二人で赴きたいとマリアベルは考えていた。トウカであれば慰めることもなく、端的に問題と対策を口にするだけであり責められることもない。

 トウカは、思案顔で首を傾げる。なにか思うところがあるのだろう。或いは、察しているのか。

 片目を瞑ったトウカは、茶目っ気のある笑みを浮かべて右手を己の胸へと当てる。

「しかし姫様。貴女のような高貴なる乙女を平民の前に晒す訳には……」

 そう口にしながら膝を床に付いて項垂れて見せるトウカの声音は憂いに満ちていた。皇立大劇場で主役を演じられるかも知れないほどに役者じみた仕草であり、長外套(ロングコート)が汚れる事すら気にしていない。

 そのままの姿勢で「いけませぬ」と芝居がかった仕草で首を横に振って見せるトウカ。

 マリアベルは、小さく笑声を零す。面白い。

「サクラギ卿。これは命令ぞ、妾に外の世界を見せるがよい」

 マリアベルは、トウカの茶番に全力で乗る。

 マリアベルの周りには個性的な面々が多く、姫様扱いする者は皆無に等しい。無論、自身が政戦共に情け容赦のない手段を講じ続けているからこそであることは理解しており、その風評が自身の統制をより強固に見せている事もまた事実。

 しかし、斯様に自身を姫様扱いする虚け者がいるのも悪くはない。

「なりませぬ……職務に御戻りいただきたい」

 騎士(トウカ)の言葉に怒っていると見えるように、頬を膨らませて両手を腰に添えて見せた。気分は御立腹の姫君である。

「今日の職務は全て終わらせておるし、午後より懇親会にも妹を名代をに遣わせて――」

「ならば庭園で令嬢方との御茶会を―ー」伏して言葉を重ねるトウカ。

 その表情は満面の笑みであろう事は疑いないものの、伏したままであり、表情は窺えない。

「もう、妾を籠の鳥とするのは止めるがよい!」

「っ!」

 激発する姫君(マリアベル)に、騎士(トウカ)が息を呑む。

何故(なにゆえ)、貴方は妾を縛り続けるのか!? 妾は、いつまで斯様な籠の鳥で在ればよいのか!?」

 今なら皇立大劇場で主演女優を張れる自信がある、とマリアベルは悲しげな顔のままに、胸中でそのような事を考えていた。トウカと二人で舞台に並び立てば、さぞかし楽しい事になるであろうことは疑いない。

「それは――っ」

「言うがよい! サクラギ卿っ!!」

 悲痛な叫び。周囲の領民の中には足を止めて二人を注視している者もいる。注目されることは、二人の立場上、好ましくないのだが、思いの他に興の乗っている二人は、それを止めることはない。

「殿下……外界は異性に飢えた下種で満ちているのです。殿下が斯様な視線に晒されることが私には我慢ならないのです。……お笑い下さい、私の醜い嫉妬を」

「それも含め、妾は見たいと口にしている! 妾が統治するこの領地を、妾が知らずして何とするのか」

「殿下……」

 驚いた表情のトウカの手を取り、立ち上がらせるマリアベル。

「サクラギ卿――」

 数秒ほど互いを見つめ合い、二人は強く抱き合った。

 互いの背中に腕を回し抱き締め合う若い女性の貴族領主とその騎士。ただの茶番でここまでの接触を許してしまう二人の関係とは一体なんなのか、と考えないでもないが、少なくともミユキでは有り得ない事だろうとマリアベルは笑みを浮かべる。

 トウカの思いのほか固い胸板の感触に、マリアベルは顔に朱を散らす。

 唯一の救いは、正面から抱き締め合っている為に表情を見られないことであった。

 二人の関係は曖昧であるが、少なくとも当人達はその状況もそれなりに楽しんでいたのであった。









 ただ只管(ひたすら)に歓喜の念を醸し出し続けるマリアベルに、トウカは胸中で喪った在りし日常を思い出し、それを慌てて打ち消さんとする。

 押し当てられるマリアベルの女性としての柔らかさは、当然ながら口にするまでもなく、その流れるような髪からの薫りが自身を陥れようと画策しているので はなかいとすら感じられる。無論、マリアベルという女性が、そうした計算のできる女性であることをトウカは理解しているが、同時にこうした場面で無意識に 色香を発する女性であることも知っていた。

 甘いだけではない爽やかな部分もある柑橘類のように、鼻を突き抜け、透明感を覚える気品に満ちた薫り。

 たちまちに男性を性の虜囚にする即効性はないものの、傍にいたいと、共に在りたいと想わせる薫りである。

 自身でも気付かぬ内に、マリアベルを抱く(かいな)に力が入る。

 徐々に顔が紅葉の如き赤を帯びてきているであろうことを思い、離れようかと悩むトウカだが、その時期(タイミング)を逸した気がしてマリアベルをただ抱き締め続ける。

 それ察したのか、或いは純粋に楽しんでいるのか、トウカの背中に回した右手を這わせ、そのむず痒さに思わずマリアベルの顔へと向き直ろうとする。

 しかし、それを見越していたのか、マリアベルはそれを許さず、耳元へと唇を寄せることで応じる。

「のぅ……どうかの? 妾の演技は?」

「随分と似合った女優振りだな。……何人の男をそれで騙したのか」

 貴族の舞踏会で幾多の男性を陥れたと聞いてもトウカは驚かないだろう。現に政治面でも有能なマリアベルは言霊を操る魔女としての側面を持っているはずで あり、トウカはそれを軽蔑する訳ではなく、寧ろ大いに評価していた。つまり、その言葉はトウカにとって褒め言葉であった。

 しかし、女性としてその言葉を受け入れられるか否かはまた別問題。

 がぶっ。

「痛っ!? 耳噛んだ!?」

「ふんっ! 淑女に男性遍歴を聞くなど騎士のすることではなかろうて!」

 御立腹のマリアベルは、トウカを一瞥した後、遠目に見える建造物へと視線を巡らせる。

 自身の緩んでいるであろう顔を、発した怒声と態度で一掃するかのように口元を引き締めたマリアベルは、意識を変える為に別の事を思い出すが、トウカはその言葉に首を傾げる。

「そう言えば、セルアノが今日辺り有給であったの……何をしておるのか。土産でも買っておいてやるかの」

 愛する者がいるという優越感を持って、土産の内容を考え始めるマリアベルであった。










「っ!! 見つかった! ……そ、そんなずないわ……よね?」

「狙撃銃の射程より遠方で我々の居場所が露呈するなら、恋する乙女の力は兵器転用できるでしょう」

 ヴェルテンベルク領政務官は、マリアベルが思っているよりも遙かに近い場所にいらっしゃいました。

 マルクト・ハレが開催されている市場の対角線上にある建造物の屋上に隠れていた首席政務官であるセルアノの言葉に、軍事的見地から恋する乙女の力の利用 を提言する領邦軍司令官のイシュタルという構図。政治と軍事の面からマリアベルを支える女傑二人は、万全の装備状態でことに臨んでいた。

「あの二人……まるで夫婦みたいに。困ったものよね」

 セルアノは、マリアベルが偶然に向けた視線に驚いたが、次の瞬間にはころりと態度を変えていた。同時に遠方ではマリアベルもトウカの一言にころりと表情を反転させていたのだが、セルアノはそれに気付かない。

 セルアノは先ほどからの二人を思い出し、手にしている扇子を強く握り締める。

 何も話さず、黙々とつかず離れずの距離で歩いているのだが、何と言えばいいのか妙に雰囲気があるというか、まるでそうあることが自然であると思えるのだ。

「そうか……私はマリィが泥沼の三角関係を覚悟で、参謀総長を引き込んだと思ったが」

 がすっ。

「……領邦軍司令官さんが悪かったから蹴らないで……その靴、鉄板入っているでしょう」

 イシュタルが脛を押さえながら、抗議の声を上げたがセルアノは全力で黙殺する。

 そもそも、砲隊鏡を覗き込んでいてイシュタルの顔すら見ていない。

 砲隊鏡とは陸戦部隊の砲兵が照準に使用する精密光学機器である。見た目は蟹の目玉のように上に突き出た双眼鏡で、完全に身を隠した状態で目標を観測でき るという利点がある。その利点を最大限に活用して、セルアノはトウカとマリアベルを監視していた。ちなみにこの砲隊鏡は、このイシュタルを経由して、書類 上に履歴を残さず、フェルゼンに展開している第四十九機動砲兵(自走砲)大隊から借りてきた官給品である。職権乱用もここに極まれりであった。

「声が聞こえないわ。……イシュタル」

「……了解した、首席政務官殿」

 イシュタルは背中から降ろした箱状の機械の操作を始める。セルアノは受け取った可聴機(ヘッドフォン)を耳に装備し、再び砲隊鏡を覗く。

 それを尻目に、イシュタルは小型の魔導中空線(アンテナ)を設置する。

 領邦軍憲兵隊御用達の高精度集音機であった。元々は遠方の人間の会話を盗み聞きする装置で、今その能力を遺憾なく発揮しようとしていた。発揮する目的は果てしなく不純であるが。

 二人がこの場にいる理由は至って単純なもので、端的に言えばマリアベルが職務中に無駄に意識が散っているということから調べた結果に過ぎない。以前は手 鏡など持ち歩いていなかった女性が手鏡を持ち歩き、執務室の写真立てに特定の男性の写真が二枚目に隠されていれば嫌でも気付くというものである。 

 それでも当人は隠している心算なのだ。

 なんと可愛い領主様か。

 気付かぬのは当人だけである。周囲は生暖かい目で見守るしかない。なまじ権力者の恋である為に、気付いた側近たちも巻き込まれぬように見て見ぬ振りをする者ばかりである。

「二人が移動を始めたわ。陣地転換よ、早く早く」

 総員撤収(といっても二人だけだが)、と手を上げて指示するセルアノ。

 イシュタルは溜息を一つ。

 荷物を手に歩き出したトウカとマリアベルを認めたセルアノは、砲隊鏡を折り畳むと、折角組み立てた高精度集音機を片付けながら不満垂れ流しのイシュタルを急かして屋上を去った。


 

<<<前話  次話>>>


 

 国家に真の友人はいない。

   《亜米利加(アメリカ)合衆国》 国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官 ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー