第一一四話 老人と女伯爵
「ふむ……これも悪くないの」
紫苑色の髪を靡かせ、その場で一回転すると、姿見に向かって佇まいを正す。
装甲姫とも呼ばれるマリアベルは、今この時、ただ一人の女であった。
貸し切った服飾店の広い更衣室、散乱した衣服の舞台の中央で、マリアベルは深く唸る。
元より服装に気を使うマリアベルだが、普段は華美で花模様の呉服が多く、基本的に神州国に由来する衣服を中心に仕立てており、寝間着すらも肌襦袢である。それを考えれば、今身に纏っている服装はそれらとは趣旨の違ったものであった。
後頭部で纏めた“金髪”に、目深に被った狩猟帽。透鏡の大きな色の薄い斜光眼鏡に、真紅の領帯を締めた褐色の海軍上衣と、活動的に見える膝丈の全襞裳、黒の膝上靴下という出で立ちであり、一目でマリアベルだと気付く者はいないだろうことは疑いない。
「偏光魔術による髪色の偽装……思いのほか使えような」
マリアベルは己の前髪を一房掴むと、金色に輝くそれに小さく笑みを零す。
偏光魔術は極めて高度な魔術として知られているが、他者の視覚の隠蔽でない髪色の偽装に関しては難易度が高い訳ではなかった。そもそも髪色の擬装は単純 なもので、三重構造になっている髪……中心部が髄質で、その周囲を皮質が取り巻き、更にその外側を毛表皮が覆っている。それを毛表皮を術式によって色付け した魔力を流すことによって物質の色素を変化させるというものであった。
元来、光の屈折によって擬装する偏光魔術とは全く原理の違うものであるが、間諜や破壊工作者を取り扱った大衆小説などで、同一視されたこともあり、現在では軍でも偏光魔術は偽装可能な魔術全般を指す言葉となってしまっている。
マリアベルは遮光眼鏡を取り払い、胸衣嚢に差し込むと、格子模様の二重外套を羽織る。本来は男性用の二重外套だが、背がすらりと高いマリアベルには良く映えた。
「爺や、どう思うかえ?」振り返り、両手を広げて見せたマリアベル。
すると、更衣室の扉が開き、一人の老人が入室してきた。
一応、ヴェルテンベルク領邦軍の第一種軍装を身に纏っているが、曲がった腰と突いている杖を見るに、とても現役の軍人とは思えない出で立ちであり、皺だらけの顔に長い眉毛や立派な顎鬚、頭髪は、真っ白に染まっている。見紛うことなき老人であった。
しょぼしょぼと目をしばたたかせた老人は、マリアベルの服装を下から上へと眺めると、深く唸った後に沈黙する。
「………………………………」
「寝るな、糞爺ぃ」
奪い取った杖で、マリアベルは老人の頭を叩く。
決して見た目通りの耄碌爺ではないのだが、恍けた外見と態度は棺桶に片足を突っ込んだ好々爺そのものである。
老執事として長くマリアベルの権勢を支え、今では領邦軍情報部部長の肩書を持つ老人は、起きているのか寝ているのか判断できない表情で顎髭を撫でる。
そして、何かを思い出したかのように告げる。
「このぉ、ラウレンツ・ジダ・フォン・カナリス。女子の魅力はぁ、思い遣りにあると思う次第でぇ……それは姫様にはないもので、土台あの仔狐に抗するなどぉ……爺やは負け戦にぃ、赴くなどぉ……」
布きれ(ハンカチ)を取り出し、突然に「お~いおい」と泣き出したカナリスに、マリアベルは舌打ちを一つ。
カナリスは情報部の事務職員としてミユキを迎え入れていたことがあり、ミユキに極めて高い評価を与えている数少ない人物でもあった。ミユキは情報部で何 かしらの明確な活躍をしたという訳ではないが、日常生活ではものぐさな情報部部員達に変わって清掃や御茶汲み、食事の支度などと大活躍をした。勿論、一番
の活躍は尋問や現場検証の際に発揮される勘の鋭さであるが、それはあくまでも参考意見に留まっている。
「……爺が思いますにぃ、トウカ殿の気を引きたいと思われますならばぁ、狐耳を装着なさるべきかとぉ」
そう口にしたカナリスは、狐耳の付いた頭部装身具を差し出す。どこから出したかすら判然としないそれを、マリアベルは手を振り払って叩き落とすと、げしげしと踏み躙る。その生い立ちから龍種であるということに誇りを持つことなどないマリアベルだが、狐の真似事をして雄の気を惹こうとするほど安い女ではない心算であった。
「阿呆ぅ、なにが悲しくて野生動物の真似などせねばならぬ。この身一つで正面から相対してこその女であろうて!」
「否ぁ、勝利の為に手段を選ばぬのがぁ故の情報部でありましょうぞっ! この爺やの情報部部長としての献策を拒みなさるとはっ!」
かぁ~っ!と気勢を上げて、取り戻した杖でマリアベルをがしがしと叩くカナリス。
主従関係としては些か奇妙であるものの、昔からの遣り取りであり、この場には二人以外は存在しないことから気兼ねする必要もない。
「彼奴は獣耳に騙されるような容易い男ではなかろうて。……それに安易な手段に頼る女を好みはすまい」
「何と惰弱な……そこは健気な女心を魅せることで補ってみせませいっ!」
喝っ、と叫ぶカナリスに、マリアベルは頼る者を違えたかと頭を抱える。
男性に対して然して興味を持たないイシュタルや、自らの美貌さえ政治的手段とするセルアノに、トウカとの逢引きに際しての助言を求めるなど間違いも甚だしいことくらいは理解していた。しかし、カナリスに助言を求めることは、それ以上の間違いであることは気付かなかった。
今では棺桶に片足を突っ込んだ御老体であるが、若い頃は大層な女誑しであったのは有名な話であり、情報部二課のシェレンベルク中佐を凌ぐとの噂もある。否、当時を知る者が言うには遙かに凌ぐそうであり期待していたのだが、今となっては耄碌爺でしかない様子である。
マリアベルは、カナリスの両肩を掴む。
「それより明日は護衛なぞいらぬからな? 分かっておるな?」
余計な事をすれば棺桶に押し込むと言わんばかりのマリアベルの視線に、カナリスはひょっひょっひょと小さく笑う。
「情報部“は”その様なことは致しませぬわい」
「情報部“も”と言うがよいぞ」
「……………………………………………」
「黙るでない、耄碌爺。何としても他の組織の蠢動を防ぐがよい。良いな……勿論、御主が唆すのも許さぬ」
何かしらの思惑を持っているであろうカナリスが、開いているのか閉じているのかすら不明瞭な瞳を全力で逸らす。
当然であるが、その肩を掴んで目を合わさせる。確かにイシュタルやセルアノなど個人的にマリアベルとトウカの関係を訝しんでいる者はいるが、所詮は個人 であり、部下を投じて探ろうとする者はいないはずであった。何より、マリアベルの変装は完璧であり、個人が放つ魔力波形の偽装に加えて、自身に変装した情 報部員が屋敷で領主の真似事をする手筈になっている。抜かりはないのだ。
邪魔をしてくれるならば、鞄に忍ばせた小型自動拳銃で撃ち殺してくれよう、と息巻いているマリアベルの前に立ちはだかろうというものはいないはずであった。
「まぁ、人の色恋に首を突っ込むほど、暇な者も居らぬであろうて」
「征伐軍も再編成を終え、演習を繰り返しているそうなぁ。暫し後には攻め入ってきましょうのぅ」
二人は一転して禍々しい笑みを零す。
アリアベル率いる征伐軍は政治基盤が脆弱であるが故に、確固たる戦果を求めて早晩に北部へと攻めってくるであろうことは疑いない。しかし、征伐軍の指揮権をアリアベルが維持し続けることができるか否かという点は、大いに疑うべきだと二人は考えていた。
アリアベルという宗教的象徴がいなければ征伐軍は維持できないが、アリアベルが征伐軍を指揮しなければならないという訳ではない。
陸海軍府の長官が明確に支持を表明した以上、陸海軍の将官にも協力者が増えることは明白であり、その指揮系統が大きく改善を見ることも疑いない。寧ろ陸海軍府長官が、アリアベルから指揮権の奪取を目論んでいても不思議ではなかった。そう、トウカも断言している。
マリアベルを始めとした北部貴族や各領邦軍の将官の多くは、眼前に迫った絶大な強敵である征伐軍に対し、取り敢えず眼前の怨敵を如何にしてぶん殴るかと いう点のみばかりに気を取られていた。眼前の脅威を排除できなければ滅亡する以上、その点に注力するのは致し方ないが、トウカは征伐軍内の主導権の変化こ そを危険視している。
「ふん、妾があれの生存を望むとはの」
「しかしながらぁ、その“あれ”が斃れれば、報復を大義としてぇ、陸海軍が本腰を入れましょうぉ」
マリアベルは、カナリスの言葉に眉を顰める。
陸海軍府長官が明確に支持を表明した以上、アリアベルを殺害した場合、報復の名の下に征伐軍が継続する可能性が高い。そうなれば、優秀な陸海軍の将官達 に率いられた征伐軍は効率的な運用がなされるだろう。北部蹶起軍の指揮系統は一本化されたが、征伐軍の内部闘争が治まり、正規軍の将校中心に指揮されるの
は、総司令部も参謀本部も面白くないと考えていた。優位性が失われる。癒着した政治から切り離され、純軍事的な行動によって内戦を遂行されることは彼我の戦力差の増大を意味した。
ベルゲン強襲時とは状況が違う。陸海軍はアリアベルを絶対視していない。その指揮下で手酷く敗北したのだから当然である。
元より戦後を見据え、両陣営とも宣伝戦は控えていたが、北部統合軍情報部に限っては、アリアベルの早期失脚を遅滞させる為、特に陸軍の将官に対する謀略を中心とした行動へと切り替えられていた。今、アリアベルの手から征伐軍の指揮権が失われることがあっては困るのだ。
特に陸軍府長官であるファーレンハイト元帥が征伐軍の総指揮を執ることを、トウカは極端に恐れており、その意向を受けた情報部は陸海軍と大御巫の陣営が隔意を抱く様な工作を行った。それが功を奏し、陸軍派は汚職と軍規違反によって失脚する者まで出ている。
無論、その罪を作り出したのは北部統合軍情報部である。
罪を作り出し、扇動し、恫喝し、破壊し、暗殺する。互いが互いを敵と認識する様に仕向ける情報部の跳梁は普段であれば叶わなかったであろうが、ベルゲン強襲などの一連の戦闘によって生じた被害や、多数の実戦部隊が入り乱れる状況であり防諜の面では不備が多い。
しかし、内部崩壊させるには至らない。最善は征伐軍内を二分した状態で内部抗争を起こさせることであったが、それは実現しなかった。
国家憲兵隊の投入である。
野戦憲兵隊と双璧を成す陸軍所属の治安維持部隊であり、その任務は国内での過激な政治活動の監視と取り締まりを主任務としていた。警務府よりも遙かに専 門性に富み、強力な武装と高い練度を持つ国家憲兵隊は、皇国で政治活動や破壊工作を行う者達にとって天敵と言っても過言ではない。
そして、国体護持の為には手段を選ばない戦闘集団でもある。
最終的に情報部は著しい消耗に加えて北部統合軍勢力圏での防諜活動の激化も相まって、その大部分を撤退させざるを得なくなった。
剣と魔術が主体であった動乱期のように、歴史や軍記で語られるような調略などは難しい。
指導者層は高い教育を受け、当時とは比べ物にならない程に、法的にも規律的にも道義的にも統制された国家や組織に所属している。短時間で容易く揺らぐこ とはなかった。ましてや、征伐軍に陸海軍府長官が協力し始めた状況となっては、征伐軍の不利を悟って北部統合軍に与しようという者を作り出すことは至難で ある。
トウカとマリアベルが演出したシュットガルト運河の安全保障獲得の為の侵攻戦の様に、有事下では軍事力を伴わねば政治状況が変わらない事が殆んどだ。そ もそも、情報の伝達速度が速くなり、謀反や動揺などは即座に察知されてしまうこの時代、調略の難易度は著しく跳ね上がっている。
最早、時代は優れた調略による時代ではなく、時間を掛けた宣伝戦と情報戦へ移り変わりつつある。
それは、結果が見え難く、効果を表すにも時間が掛かるものである。
「佳き哉ぁ、佳き哉ぁ……本来、数と質の両面で圧倒されるであろう国家憲兵隊を相手にぃ、同等の諜報戦にまで持ち込めたことは幸運にありますればぁ。これも、この爺やの弛まぬ努力ゆえぃ」
カナリスの言葉に、マリアベルは「抜かせ」と笑う。
情報部が諜報員を送り込む際、ベルゲン強襲で使用された滑空機の使用や、航空部隊による陽動作戦を実施したからこその潜入成功率であり破壊活動であった。中には友軍の航空艦隊の空襲に巻き込まれて戦死した諜報員も居り、それが困難な任務であることを窺わせるが、表沙汰にならない任務であり正式に評価されることもない。
「報いてやらねばならぬの」
「……此度の逢引きも彼らの活躍があってこそでありましょぉ」
恐らくは嫌味であろう言葉を、マリアベルは笑顔で聞き流す。少なくとも、そのくらいには機嫌が良かった。
シラヌイとの会談を後日に控えてはいるが、それはミユキがリシアと共謀して天狐族の移住の話を推し進めようとしている話は耳にしており、娘に弱いシラヌ イは早晩に陥落するであろうとマリアベルは踏んでいた。背後には皇国内の情勢を良く知るリシアや、場合によってはトウカも控えている以上、理詰めで納得さ せることも難しくはない。
――まぁ、マイカゼも、内々に受諾しておるしの。
マリアベルは、ミユキの天狐族を移住させるという目論見を、リシアを経由して聞いており、利益有りと見てマイカゼに協力要請の手紙を送っていた。返答 は、マイカゼがシュパンダウのロンメル子爵邸に同居することを条件に協力するというもので、引っ掛かる部分はあるものの、マリアベルは鷹揚に認めた。マリ アベルもまたマイカゼを必要としているのだ。
――何より、ミユキも近くに家族が居れば、トウカと二人きりという訳にもいかん。
トウカも最近は参謀本部で定時上がりである。父狐と異邦人がいがみ合えば、狐の蠢動も抑えられるのではという淡い期待もあった。
総参謀長をトウカが務める参謀本部は、端的に言えばトウカの提案を実現する為に蠢動する集団である。しかし、トウカの提案は参謀本部設立以前より、早け ればフェルゼンへと現れたその時より実行されていたものもあり、特に兵器開発や戦術研究などは既にトウカの提示した目標に向けて各軍需企業や領邦軍で試行 錯誤されている。
つまり、トウカの参謀本部での職務は書類作業と会議が大半であり、鬱憤が溜まっていることは間違いない。その上、時間も今までよりかは余裕があることは疑いなかった。任務が軍務のみに限定された利点と言える。
「これからは、二人で過ごす時間も増えような」
マリアベルは扇子で口元を隠し、事が思い通りに進んでいる事に禍々しい笑みを浮かべた。
「爺やは、爺やはぁ、この時をっ、どれ程に待ち続けたかぁぁっ!」
喘ぎ声混じりの感動の声に、エイゼンタールは何とも言えない表情を浮かべる。
情報部部長であるカナリスは、見た目も性格も好々爺なのであるが、マリアベルが関わるとなると面倒な親父様へと変わるのだ。しかも、公衆の面前でマリアベルに物申せるだけのナニカを持っており、杖でマリアベルを叩くこともしばしばである。
姫様の子供が見たいのぅぉ、と毎年懲りもせずに新年の集会で臆面もなく口にするのは、この老人……ラウレンツ・ジダ・フォン・カナリスだけである。良くも悪くも周囲の空気を読まない老人であった。
大通りへと消えたマリアベルの方角に対し、男泣きのカナリスに、エイゼンタールは溜息を吐く。
エイゼンタールはロンメル子爵家の家令となったが、ヴェルテンベルク領邦軍情報部の将校の肩書も正式に保持したままである。領邦軍という貴族の私兵であ る以上、その貴族さえ認めれば二重の肩書程度は容易く認められるが、どちらかと言えば天衣無縫にして破天荒なミユキに対する監視という意味合いが大きい。
「上手くすれば来年には赤子を見られるやもしれんのぅ……」
「御身での御出産は多大な負担を強いられます。あまり喜ばしいことではないかと」
エイゼンタールは、カナリスの横に立つと呆れた声を上げる。
龍族特有の病はマリアベルの身体を蝕みつつある。
龍族同士で子を成すことは不可能となり、低位種に分類される人間種であったとしても、可能性があるかも知れないという程度のものでしかなかった。龍族は 一般的に病に掛かり難く、病気に対する治療法も確立されていないものが多い。前者が理由による被験体の少なさと、専門としている医師の数も少ない為であ る。
ごしごしと流した涙を袖で拭いたカナリスが、エイゼンタールを見上げる。
「おぅおぅ、居ったのかぁ。追いかけるでないぞぉ」
杖を突き「うむうむ」と頷いているカナリスの言葉に、エイゼンタールは苦笑する。
主君の恋路に口を挟むのは眼前の老人くらいのものである。マリアベルに対して意見できる者は少ないが、それが恋愛関係となるとイシュタルやセルアノくらいのものであった。無論、当人の前で子供が見たいと口にするのはカナリスだけであるが。
「しかし、宜しいので? ミユキ殿とは正反対のヴェルテンベルク伯が、あのサクラギ中将閣下を陥落させること叶うとは思いませんが」
「男は船で女は港でのぉ……、軍艦の母港が一つでは不安じゃろぉ?」
その言葉にエイゼンタールは道理であると思いはしたが、女性として同意したくはなかった。マリアベルの場合は折り合いを付けたのかも知れないが、エイゼンタールは納得できない。無論、口に出せば築き上げてきた謹厳な印象が崩れる為に口にはしないが。
「不満かぁ? 若いぃ若いわぁ。人殺しの顔つきの癖しおって生娘が如き幻想を抱きおってからにぃ」
物語に出てくるような魔女の笑い声に、エイゼンタールは更に溜息を一つ。
エイゼンタールとしては、己の恋愛に一般女性のような幻想を抱いている訳ではないが、マリアベルにトウカが男性として相応しいかと問われれば、確信を持って否と言える。
エルシア沖海戦は、その熾烈な戦闘によって敵味方双方の艦艇乗組員には少なくない死傷者が出た。海戦後、甲板上の血の海を汲み上げた海水で洗い流し、千 切れた手足を海に放棄するという任務に乗組員は精神的な疲労を強いられたのだ。特に海戦後に大火災を生じていた駆逐艦の消火活動に従事していた僚艦が、火
災を生じていた駆逐艦の魚雷に引火したことで起きた大爆発による轟沈で無数の白熱した鉄片が降り注ぎ、大勢の乗組員が死傷することになった。
トウカは、それを艦橋から見下ろして嗤っていたのだ。
後方で安穏と主戦論を煽る愚物と違い、最前線で指揮を執り、凄惨な悲劇を量産しながらも嗤って闘争を肯定するトウカ。或いは見間違いかも知れない。
しかし、トウカがその内に狂気を宿していることを、エイゼンタールは見抜いていた。
トウカという異邦人は、本質的にこの世界を憎み、軽蔑している。
物覚えの悪い者達を滑稽な振り付けで躍らせるかの様に政戦を弄び、自身はそれを総攬しているかのような瞳で見下ろしている印象を受ける。
或いは自身が誘導した場合、人々がどの様に生き、如何なる時代を形作るのかを試しているのではないかとすら思える。
――強いて言うなれば、私が天霊の神々に抱く嫌悪感と同じ、か。
その能力を持ち、協力しながらも、皇国ではなく己の心を満たす為に他者の心と命を消費する化物。
問題は、それをマリアベルは理解しているであろうということである。
それでいて、それに恋い焦がれるなど正気の沙汰ではない。セルアノが抱いているトウカに対する忌避感と嫌悪感は、何ら理不尽なものではなく、正当なもの であるとエイゼンタールは考えていた。軍人として信を寄せるのは賛成であるが、異性として信を寄せるは素直に賛成し難いものがある。
それでも尚、敬愛すべき装甲姫は、家臣が目にしたこともない女の貌をする。
闘争の野獣。
トウカが今この時、存在を許されているのは今が有事であるからに過ぎない。いずれは火種となるだろう。
「まぁ、そう厳しい顔をするでなぃ。世は乱世……ヒトは如何様にも堕ちるし、如何様にも雄飛しようのぉ」
「失礼ながら部長も状況を楽しんでいるのでは?」エイゼンタールは軽い眩暈を覚える。
誰も彼もが、この乱世を楽しんでいる。
自分の懸念が何ら意味を成さないものに思えるエイゼンタールは諦めた様にうなだれることしかできなかった。
「早いのぅ」
「待たされる方が好みだったか?」
そんなことを口にするトウカに、マリアベルは憮然とした表情をする。
大通りから外れた寂れた通りの横に設置された公園の長椅子に深く腰掛けるトウカは、横に座ったマリアベルに小さく笑う。
トウカの服装は一言で言うと、皇国系暴力団のそれであった。
襯衣に胴衣と、三揃背広という出で立ちで、何処かの若社長と言った雰囲気を出しており、何気に背広も細めのデアルコンチネンタルスーツを着ているところを見るに流行を取り入れているようにも見える。羽織った長外套で多くが隠れているが、領帯や領帯留めも上品なものが使われている様に見えた。
しかし、襯衣以外は全てが黒に染め上げられている。その上で、山高帽を被っているのだから、完全に皇国系暴力団の服装である。
「まぁ……目立ちはせぬじゃろうがの」
マリアベルは、その長外套の袖を掴んで苦笑する。
実は、フェルゼンには皇国系暴力団が多い。
正確には情報部と連携した皇国系暴力団と称するのが正確であり、寧ろ皇国系暴力団を設立したのが情報部であるというどうしようもない理由もある。社会が発生するにあたり、権威主義であれ資本主義であれ共産主義であれ、落伍者は必ず存在し、それらが闇社会や反社会勢力を形成するのは避けられない現実であった。
ならば、率先して闇社会を形成し、それを統制すればいい。
場合によっては、それを統制する情報部や、その上位存在であるマリアベルにまで反社会的な小札を張られかねないが、元より孤立していたヴェルテンベルク領にそうした懸念は意味のないものであった。
今ではヴェルテンベルク皇国系暴力団、狼の砦は、ヴェルテンベルク領邦軍情報部と双璧を成す諜報部隊であり破壊工作勢力であった。
そして街中で、露骨に皇国系暴力団の格好をしている者に手を出そうとは思わないだろう。
「世間的には皇国系暴力団の若様と、その情婦に見えるであろうの」
「それは重畳……では行こうか、マリィ」
立ち上がったトウカが長外套を翻し、差し出した手を取り、マリアベルは引かれるようにして立ち上がる。
優しげに微笑むトウカの顔は何処か強張っている。緊張しているのかの、と思ったが、取った手は震えていることも無ければ血流が早い訳でもない。
「……やはり後悔しておるのかえ?」
舞踏会の夜の一件はマリアベルが誘惑したに等しい状況であり、トウカはそれを理解した上で、その清らかな身体を求めた。貪られるだけで終わっても、一夜だけの過ちで笑って済まされたとしてもマリアベルは不平を漏らす心算はなかった。
良い様に操られてやる心算で抱かれたことをトウカは理解しているはずであり、マリアベルもそれ以上を求めようなどとは考えていない。トウカがこうして個人的な付き合いをしようとすることなど予想だにしていなかった。
若しかすると気を使われているのかも知れないとすら思える。それ故の不器用ながらの謝罪を含ませた問いである。
だが、トウカは苦笑するばかりであった。
「今日は似合わないことを言うな。御前は何時も通り、得意げな顔でいればいい」
「妾は、そんな嫌な女ではなかろうて」唇を尖らせて不満を口にして見せる。
胸中ではトウカが然して気負っている風でもないので、マリアベルは胸を撫で下ろす。或いは、トウカは女性の機微に興味などなく、自身が成したいことをしているだけに過ぎないのかも知れない。
「それで、今日は何処にゆくのかの?」
「さぁ、フェルゼンの地理は良く分からない。他の者に聞こうにも、な」
マリアベルは、トウカの言葉に、仕方がないのぅ、と頬を掻く。
周囲に伏せておきたい関係である以上、安易に他者に尋ねることは憚られる。勘の鋭い者であれば気付きかねず、特にミユキの勘には警戒が必要であった。
「まぁ、こうなるかと思って、それらしい雑誌を買ってきた」
トウカは長外套の懐から、ごそごそと小さな冊子を取り出す。
若者向けの安そうな雑誌であるが、大手出版社の名前がある以上、少なくとも根も葉もない嘘を書き並べている事はないはずである。そもそも、マリアベルは 自領で胡散臭い出版社が書物を生産することすら認めておらず、三流紙が自身を感情論で批判した日には血の雨を降らせる心算であった。
うんうんと唸って、雑誌を捲るトウカ。
「よし、まずはマルクト・プラッツの朝市を見にいこうか」雑誌の記事の一つを指したトウカ。
男女の過ごす場所としては些か色気がないが、要塞都市として建造されたフェルゼンの都市計画は、その大半が有事に備えたものであった。寧ろマリアベルか らするとフェルゼンに在住している年頃の恋人達は、どういった場所で愛を育んでいるのか気になるところである。都市計画を主導した身としては申し訳ない気 持ちとなるのも当然と言えた。
「その後は川の畔を歩きながらプラニーシュトラーセまで行って軽食を取って、のんびりとするか……。午後はマルクト・ハレのマーケットで買い物も悪くない な。一階には食品しかないようだが、二階には日用雑貨を取り揃える店が入っているらしい。特に一階にある肉屋のヴルストは絶品だそうだ……」
詰まることもなく予定を口にするトウカに、マリアベルは笑声を零す。
何気ない風を装って、予定を組み立てているが、次々と容易に予定を組んでいるところを見るに元から予定は立てていたのだろう。あまり用意周到なところを見せては、緊張していることや待ち望んでいたことを気取られるとでも考えているのかも知れない。
――全くもって可愛いのぅ……不器用者め。
聞いた限りでは少し落ち着きすぎている気がするが、仕事でいつも忙しい自分にはちょうどいいと、マリアベルはトウカの案に賛成する。
――それにしても、彼奴は何故こんなにも無駄に高性能なのかの。
無駄に気が回り、気取ったところもない。「なるほど、ミユキやリシアが泣きを見る訳であるのぅ」と納得できる手際である。
「まったく、御主は……」
「ああ、やはり食べてばかりは嫌か? 出逢った頃より痩せている様に見えたんだが」
「そんなところにまで気を回さなくていいわ! 全く……」
女として体重を気にされるのは腹立たしいが、トウカの表情から純粋に体調を心配してのことだと解った。確かに最近は執務も忙しく、更にはトウカとの軋轢により精神的に追い詰められていた為に不健康だったので体重も相応に落ちている。
腕を組んで顔を逸らす。朱の散った顔を見せない為である。
「まぁ、いい。さぁ、行こうか」
トウカは何時も通りの曖昧な笑みでマリアベルの手を取る。
努めて感情を顔には出さないようにしながら、マリアベルは頷いた。