第一三七話 シュットガルト湖畔攻防戦 3
「マリィ、〈大洋艦隊〉よ」
セルアノの声に、マリアベルは気だるげに視線を巡らせた。
窓際の寝台から身を起こして窓越しにシュットガルト湖を見下ろしてみれば、嘗て自身の命令によってその成立を見た領邦軍艦隊を基幹とした艦隊が、幾つもの単縦陣を形成し、波を鋭い艦首で引き裂きながら航行していた。
マリアベルは脂汗の浮く表情をそのままに小さく笑う。
ステア島の断崖の端に居を構えたステアの小さな洋館、その一室にはマリアベルとセルアノだけが居た。
護衛として小さな洋館の周辺には一個鋭兵小隊が展開しており、それ相応の警備態勢を敷いていた。鋭兵科とは中位種以上の種族で統一編制された兵科で、総 じて高い戦闘能力を有する種族で統一されている。通常の低位種や人間種だけの兵科が相手である場合、五倍近い戦力差であっても戦線を維持できるとされてい た。少数で護衛を行う場合は鋭兵によって行うことは、皇国内では然して珍しいことではない。
マリアベルは、恐らくは旗艦であろう〈レーゲンスガルト〉型機動巡洋艦〈クラウゼガルト〉を認めて、小さく溜息を吐く。
「シュタイエルハウゼンとやらは、それなりに使えるようであるの……」
トウカの提案を受け入れたマリアベルであるが、敵将であった者に水上部隊の指揮権を預けるという行為に各所から抗議や不満が出ることは当然であり、マリ アベルですらも不信感を抱いていたのだから致し方ないことであった。水上部隊指揮官が少ないからこそ大きく揉めることはなかったが、もし正規の海軍であれ ば人事的な混乱が生じたことは疑いない。
北部には大規模な水上部隊を統率したことのある経験者など居らず、能力はあっても実績のない者ばかりで、多くの条件を満たし得る者を見いだす手間をトウ カは惜しんだ。そうした才覚を持つ者を書類の山から探し出すというのは簡単にできる事ではない。シュタイエルハウゼンが信用できるならば、という大前提が
付くが、トウカの提案は軍事的には間違ったものではない。無論、政治的には大いに間違っているが、今は戦時下であり政治に配慮して軍事が疎かになることは 許されなかった。
結局のところ、一度戦争が始まれば政治など顧みている暇と余裕はないのだ。
トウカの判断は間違っていないのだ。
二度、三度と咳き込み、マリアベルは口元を拭う。最早、隠しようもないほどに袖口は血に塗れている。
「マリィ……」
セルアノの遣る瀬無さそうな表情に、マリアベルは肩を竦めて見せる。
終わりの刻は近い。
だが、何も遺せないままに終わってなるものか。
マリアベルに残された命の灯火は最早、どうにもならない程に小さくなりつつある。
「若き者達も育ちつつあるが……まだまだ脇が甘かろうて」
トウカでさえも貴族の政治を何処か軽視しており、正面戦力としては頼もしいヴェルテンベルク領邦軍であるが、その銃後を統率して政治の横槍を撥ね退ける だけの人材はセルアノしかいない。それは余りにも少なく、また非効率である。そもそも、トウカとセルアノの不仲は有名であり連携など取れるはずもない。
妖精種だけあって羽根の様に軽いセルアノを自らの太腿へと乗せたマリアベルは己の失策に呆れるしかない。軍事ばかりを優先した結果が、大局を見据え得る だけの器量を有した政務官僚の不足である。無論、軍事に多くの資金と労力、人材を割いたからこその勇戦であることも理解しているが、自身の身体の終わりが
予想を超えて早まりつつあったのは誤算である。問題を抱えたまま斃れることは避けたいと、マリアベルは考えていた。
闘争の時代。
マリアベルは叙事詩の様に壮烈で、戦火と流血に彩られたそんな時代を全力で駆け抜けた。無論、後悔は無数にあるが、マリアベルの意志が途絶える訳ではない。
「のぅ、セルアノ……。これからこの国は如何なると思うかの?」
それは多分に曖昧な部分を含んだ問いであった。
ヴェルテンベルク領の未来。
多種族・多民族国家《ヴァリスヘイム皇国》の未来。
否、それだけではない。
時代のうねりは全てが繋がり無関係ではない。その中でマリアベルに関わる全ての要素がどの様に関連し、手塩にかけて育てた多くの者達がどの様な道を進み、その果てに何が待ち受けているのか。マリアベルは知りたいのだ。
人々の未来。
大陸の未来。
世界の未来。
きっと、ヴェルテンベルクの未来はそこへと続くのだとマリアベルは確信していた。
「分からないわよ、私は所詮、文官を統率する政治家に過ぎないわ。……未来なんて貴女のほうが分かるでしょうに」六枚の半透明の羽根を揺らしてセルアノが呟く。
二つに束ねられた深緑の長髪に神州国の着物の様な上衣。皇国の民族衣装でもある無数に“ひだ”の誂えられた足首まで届く全襞裳の出で立ちは幻想的な雰囲気を台無しにしているが、マリアベルに抱きすくめられる姿は幻想種とも分類される妖精種の愛らしさを十分に満たし得るものであった。
「莫迦ね、本当に莫迦ね……死ぬとは限らないわ、その為の“憑代”じゃないの」
セルアノは重力を感じさせない動作で宙に浮かび上がると、マリアベルの手を取る。
妖精の導きに招かれて廃嫡の龍姫は立ち上がる。
皇国に於いて妖精とは来世と黄泉の狭間を揺蕩う存在として神話や伝承に記されている。死者の魂を黄泉から掬い上げ、記憶と想い出を奪って生者を再び現世 という輪廻の一翼に加わらせるという役目を負う種族として扱われている事もある。無論、それはあくまでも空想であり、セルアノは利益の出ないことなどする 女性ではなかった。
だが、彼女はマリアベルという女が自らの盟友であることに誇りを持っていた。
「妖精はね、奇蹟を起こせるのよ」
妖しく嗤う古の妖精。
「はぁ、なに言ってるの? 貴女、莫迦でしょう!?」
セルアノはがりがりと壁を引っ掻く。そこには妖精種としての幽玄たる気配はなく、ただただ何百年も前からの友人に振り回され続ける哀れな妖精がいた。
セルアノとマリアベルは、ステア島の地下に張り巡らされている遺跡を利用して建造された研究施設の最奥で巨大な実験成果の一端を見上げていた。
「妾の意志は変わらぬからの……トウカの背中を押してやるにはこれしかあるまいて」
口元が裂けんばかりに微笑むマリアベル。
明らかに状況を利用して楽しもうとしている姿勢に、セルアノは呆れ返るしかない。
マリアベルは楽しげにしているが、これはある種の裏切りであり、ヴェルテンベルク領の維持という面から見れば不確定要素でしかない。しかし、セルアノは 止めても無駄であると理解しているので、これ以上の説得を放棄する。永き付き合いは如何なる言葉よりも優れた意思の疎通を実現するのだ。
マリアベルが頑固であることはヴェルテンベルク領発展期より、ヴェルテンベルク領民全てが知る事実である。国家権力に噛み付き、周辺貴族を武力で隷属さ せた上で自領として編入してきた暴君に意見しようなどという勇者はいない。勇者が野戦砲の砲列に抗し得ないことをマリアベル自身が証明し続けていた故に。
例外は付き合いの長いセルアノやイシュタル、一風変わったところでカナリス程度と言った程度である。
「まぁ、あの戦争屋が勝手に独り立ちしてくれるなら、私も吝かじゃないけど……いいのね?」
マリアベルという暴君は、良くも悪くも皇国の多くの組織や権力者に大きな影響力を有している。経済力と資源を背景に拡大を続ける権勢に警戒感を抱く者や切り崩しを図ろうとする者は少なくない。
だからこそ、皇国全土にヴェルテンベルク領が有する総てを奪われない様に掣肘を加え続ける為、マリアベルの生存は必須である。特に法的には認可を受けて おらず、違法以外の何物でもない拡大された領地が総て無に帰すことになる。周辺貴族領を経済的にも軍事的にも併呑し、共に繁栄と躍進を実現したが、皇国の 憲法上、それは認められていないのだ。
ヴェルテンベルク領は、マリアベルの統制下に在って一分の隙も見せない団結と軍備の下に繁栄を継続している。
「諄い、妾は私情など挟まぬよ。……ヴェルテンベルク伯爵旗の下で血を流した幾多の者達の為にも、のぅ」
マリアベルは、纏った白衣に眉を顰めながら独語する。
自身に言い聞かせるような物言いであるのは、自身の判断に未だ確信を得ていない為だろうとセルアノは考えた。マリアベルという存在に無意識に依存した形で成立しているヴェルテンベルク領の運営は、表面上は盤石に見えても実態は綱渡りに近い。
「今であれば、剣聖も居れば軍神も居ろうて。最早、ヴェルテンベルク領の依って立つところは妾だけではなかろう……故にこの内戦中に示すべきであろう」
皇国の新時代は高位種の能力ではなく、優秀な最上位組織と隙なき全体主義、確かな技術大系の躍進によってこそ築かれるべきである。
それは、マリアベルが常々口にしていた皇国の在り方である。
英雄などいらない。
唯、《ヴァリスヘイム皇国》に所属する総てが統一された革新的意思を有する指導者に隷属すべきなのだ。
それはセルアノにも同意できる。ヴェルテンベルク領は北部最大の貴族領となり、その経済の中心になった。鉄鉱石産出量と魔導資源産出量、造船総量などで 皇国最大となり、軍需産業の一部を主導してすらもいる上に、そこから生み出される莫大な資金で産業を興し、企業を買収し、権利を奪い続けた。
しかし、そこまでだった。
マリアベルに国体を覆すだけの才覚がなかったとは、セルアノは思わない。
強いて言うなれば国体護持を旨とする貴族や官僚の旧主勢力があまりにも強大で、協力者を得られなかったことが致命的だったのだ。歴代天帝が致命的な失態 を犯さず、国民の衣食住を充足させ続けたが故に致命的な不満が噴出することもなく、動乱を厭わないという姿勢に賛同する者が現れなかった。
脅威か近づいていても日々の日常が変動しないならば、それを感じ取ることはできない。
なまじ統治機構として傑出した能力を有する皇国政府や貴族あるからこそ、マリアベルは勢力を拡大できなかった。多くの者が現状で満足している状況で、進んで戦火に身を投じようなどと思うはずもない。
明確な不満がない現状で、全てが停滞する皇国。
滅亡が始まってからでは遅いのだが、誰しもがそれに目を背けている。
現実を直視した者が滅び往こうとする現状。
《ヴァリスヘイム皇国》は滅ぶかも知れない。
セルアノは、そうした言葉を飲み込む。
そんなことは如何でもいいのだ。
「ねぇ、マリィ……あの男に全てを話さなくていいの? 好いているのでしょ?」
正面切ってマリアベルのトウカに対する心情を尋ねるセルアノ。
こうして正面切って訊ねた者はセルアノが初めてであろうが、流石にマリアベルの心残りを放置しておきたくはなかった。
「抜かせぃ、トウカに甘えてしまえば妾は弱い女子に戻ってしまおぅ。……妾はあれが望み、憧れる強く気高き女でなければならぬでな」
そう応じるマリアベルは、病魔に侵されていても尚、麗しくも可憐であった。
恋が女を美しく魅せるというのは事実のようね、とセルアノは呆れた目でマリアベルを見つめる。
マリアベルとトウカの関係はヴェルテンベルク領の高官の間では既定事実であり、決して口にしてはいけない現実でもあった。誰も非武装で征伐軍に突撃したいとは思わない。
マリアベルならば上手く誤魔化せそうなものだとも思えるが、トウカが屋敷に来ると知った前日には何時も以上に着飾り、同着時刻よりかなり前から玄関に立って待ち続ける。そして、トウカが来ると何事もなく柔らかい笑みを浮かべて迎え入れるのだ。
――初めての恋愛なのでしょうね……そもそも私の恋は何時なのよ。
マリアベルの肩に降り立ったセルアノは、くすりと笑みを零し、その耳元で囁く。
「別に私はサクラギ中将だと言った覚えはないわよ?」
にやにやと馬に蹴られる事なに程かと言わんばかりに、マリアベルの恋路を笑って見せるセルアノ。
同じ女性としてマリアベルの不遇を知る身としても祝福できることであるが、その相手がトウカであるというのは釈然としないものがある。今まで後継者問題 を気に掛けてセルアノとイシュタルは、マリアベルに相応しい男性を軍官民から見出そうとしたが、誰一人としてマリアベルの琴線に触れることはなかった。寧 ろ、顰蹙を買う者が増えただけである。
顔を赤くしたマリアベルは、すかさずセルアノの羽根を掴むと壁に投げつける。
しかし、セルアノは風魔術で壁への衝突を相殺すると研究室内を舞うように飛ぶ。
「貴女ね……もう少し隠すなら上手く隠すべきよ。なによ、これだから生娘は……え」
マリアベルの目が泳ぎ、視線を逸らしたのをみたセルアノは頬を引き攣らせる。
それは非常に宜しくない。病気がちな身体でもし身篭れば大きな負担となる。まず間違いなく母子共に健在などと言うことはなく、下手をするとどちらも死亡 しかねない。無論、高位種である以上、身篭る確率はそう高くないが、可能性は皆無ではない。そうした軽挙によって寿命が縮むような真似は断じて慎んでもら わなければならない。
「ちょっと貴女ねぇ――」
「言うでないわ。妾とて理解しておる。なれど、女としての幸せとやらも一度は、な……」
淡く微笑むマリアベルの横顔に、セルアノは胸を締め付けられた。
何故、そう言い出せば際限はないが、そう言わずにはいられない。
同じ女性としてその気持ちは大いに理解できるものであり、同時に盟友に寿命が縮むような真似をして欲しくないという思いが胸中で鬩ぎ合っていた。これが 運命だと言うのであれば、天霊の神々など奉ずるに値しない邪神である。郷土の最善を希求し続けた女性に与える最期が病死などあってはならないことである。
「一度だけ? 随分と弱気ね。……大丈夫よ、何度でもあの男の腕で啼かせてあげるわ」
トウカのことは不愉快以外の何者でもないが、マリアベルが笑顔でいられならばセルアノは全力を尽くす心算である。
その為にセルアノはヴェルテンベルク領に舞い降りたのだ。
「あ、阿呆めっ! 妾がトウカを啼かせるに決まっておろう! 妾の印象を損なうでないわ!」
マリアベルは貌を朱に染め、握り締めた両の拳をぶんぶんと上下に振って表情と行動で弁解?をしているが、方向性のずれた物言いでしかなかった。寧ろ、そ んな事実はなかったという方向で逃げられるとセルアノは考えていたのだが、トウカと性交渉したという点に関してマリアベルは隠す気配すらない。今まで周囲
の者が、そうした話題に触れない様にしていたのは取り越し苦労だったということになる。或いは逆に訊ねてしまえば延々と惚気られる可能性すらあった。
全力で弁解……というよりは自慢している様にも聞こえる機関銃の様に話すマリアベルに、セルアノは呆れ顔になる。
「抱いた抱かれたより、どちらが啼いて啼かせたが重要なのね……」呆れ果てたセルアノは巨大な硝子容器に背を預けた。
――マリィの惚気は兎も角として、私のやることは変わらないわ……
マリアベルの生存。或いは、その手段の確保。否、既に手段は確保している。成功するか否かは、神々が左右する運命や確率という不愉快なものに委ねねばならないが、用意は終えた。
セルアノが背を預ける巨大な円筒状の硝子容器。
そこに揺蕩う桜色の貴婦人。
そのこの世ならざる美しさにセルアノは目を細める。
目に焼き付く桜色の残光は現実のものではない。ただ、その女性の持つ印象が強すぎ、存在し得ない残光を感じてしまうのだ。
それ程に巨大な円筒状の硝子容器に揺蕩う女性は美しい。否、美しい、という言葉でさえそれを表すには不足している。そう思えるほどに神々しくも神聖性すら錯覚させる美貌を持っている。
妖精のように夢幻的で、天使のように幻想的、女神のように神性的な女性は、ただ化学物質と魔導触媒に満ちた液体の中を意識亡きままに揺蕩う。
現世のものとは思えない圧倒的なまでの存在を前に、セルアノは溜息を吐く。
――私が使っていた身体とはいえ、これ程なんて……よくもまぁ、良い素体が見つかったものね。
美しく在り過ぎた。ヒトとは思えない。否、絢爛華麗と称しても過言ではなかった。
真珠の如き光沢すら放つ桜色の長髪に、純白にして雪色の肌。形の良い薔薇色の唇。大きく鮮やかな黄金山吹の瞳には星々が融かし込まれたような星光が瞬き、幻想的な彩りが添えられている。高貴でいて上品な顔立ちと相まって精霊種と見紛うばかりの佇まいであった。
セルアノは遠く隔たった絶対的な美の在り様に呆れていた。
これ程に総ての要素が違いすぎると羨望や嫉妬、絶望などが入り込む余地すらない。
身体の線は同年代の女性と比しても細いものの健康的な程度に収まっており、骨が浮き出ている程でもない。その脚も長く、発育の良い種族と比較しても長い分類に入る為、全体として細身の印象を与えているだけに過ぎない。
不可視の存在とされ、妖精王に最も近いとされる風の妖精の姿を捉えたならば、恐らくはこのような姿に違いないと思わせるには十分。
惜しむらくは纏っているそれが医用服であるということである。
セルアノは今一度、マリアベルに視線を巡らせる。
「どう? これなら満足でしょう?」
マリアベルの死は避けられない。
だが、それは病に侵された身体的な死であり、付随する精神や魂魄に蔭りはなく、身体的な問題さえ解決できれば全ては丸く収まるということになる。無論、薬や執刀、魔術によって治癒できるものではなく、延命も難しい病であるがセルアノは考えた。
――なら、新しい身体にマリアベルの魂魄を転移……定着させればいい……のだけど。
マリアベルの魂魄と女性の身体が結合するか否かは賭けであるが、試す価値はある。
この桜色の女性を見出した頃は既に精神を喪い、ただ朽ち往く定めにあった小さな少女に過ぎなかった為に身動ぎすらせず、生命活動を継続させることは困難であった。
止むを得ずセルアノがその身体に自身の魂魄を移すことで日常生活を行い、その身体を保全したのだ。あまりにも目立つ容姿で、それが原因で問題も少なから ず起きたが、現在は領内の問題に効率的かつ苛烈に対応し続けた政務官として現在では畏怖を以て接されるか、毒婦や傾城の桜色という異名を頂戴しているもの の、それは然して重要なことではない。
マリアベルは目を細めて、セルアノの苦節三二六年の結晶を見上げている。
「これが妾の新たな器のぅ……彼奴は気に入ってくれるかの?」些かの不安を見せるマリアベル。
その乙女らしい言葉と表情に、セルアノは含み笑いを漏らす。
それを成したのがあの戦争屋であるという事実は気に入らないと思うものの、昔からの友人である自身やイシュタルが成し得なかったことを極短期間で成した ことは認めてやることも吝かではない。セルアノはそう考えて、次からは予算関係の書類を一度目は目を通さずに突き返すことはやめてやろうと頷く。
マリアベルの存続は権力の維持を意味する。
しかし、廃嫡の龍姫の病が完治して新しい身体を得て姿を変え、一人の女性としての生を歩むというのであれば、何一つ障害はないのではないのかという可能性にセルアノは思い至る。
戦い続けた四〇〇年。
サクラギ・トウカが優秀であるというのであれば、総てを丸投げしてしまえばいいのだ。
無論、それは無理な話。
「本当に、ヴェルテンベルク伯爵位の継承は、あのヒトでいいのね?」
既に丸投げの相手は決まっているのだから。
どちらかと言えば友人に近い立場であるものの、潜在的にマリアベルが脅威だとも判断していた彼の人物。
実力を一度も見せたことのない人物であり、自身やイシュタルですら計りかねている、その何処かマリアベルと似た後姿を思い出し、セルアノは誰が後始末をせねばならないと思っているのかと肩を落とした。
「ミユキ……何をしておるのかえ?」
養生中のマリアベルの下に訪れたミユキ。
ミユキが来訪したということで、寝室で酷い顔色を気取られぬように厚めの化粧をしたマリアベルが貴賓室に来てみれば、果実が一杯に入った籠を抱えながら 赤い果実を齧っており、狼種の護衛……エイゼンタールが困惑顔でその背後に立っている。エイゼンタールは、カナリスが重用する諜報部員でもある為にマリア ベルとも認識はあった。
敬礼するエイゼンタールに「面倒ぞ、良い良い」と右手を無造作に振り、ミユキの対面に位置する応接椅子にマリアベルは腰を下ろす。
「えっと……お化粧が濃いです、痛っ!」
第一声から失礼なミユキに、応接机を蹴り、その脛を直撃する。
涙目で脛を左手で抱えるミユキだが、右手の果物が入った籠は離す気配すらない。こうしたところはトウカと似ている気がしないでもないが、ミユキの場合は単に食い意地が張っているだけである。
「何様か。……全く、この戦時下に私情で船舶を航行させよって」
「でもでも、療養なんて聞いたら気になって……」
あ、これ御見舞いの品です、と果実が一杯に収まった籠を差し出すミユキ。先程まで、齧っていた気がするが、それを気に留めるほどマリアベルに余裕はない。
果実が一杯に収まった籠を受け取ったマリアベルは、果実の間に挟まれた書簡に気が付く。差出人を見てみれば、それはトウカであり、態々、手紙という面倒な手段で、しかもミユキに運ばせてくるという迂遠な遣り様にマリアベルは一抹の不安を覚える。
「主様からのお手紙みたいですね?」
マリアベルが手紙を開けている間に、投げ出した封筒を手にしたミユキが首を傾げた。
手紙の内容に目を通すマリアベルに、封筒の匂いを嗅ぐミユキ。ついでにエイゼンタールは溜息を一つ。
内容は至って単純なもので、フェルゼンを巡るこの一連の戦闘が終結するまでミユキを預かって欲しいということと、情報部の中でも手練れであるエイゼン タールとキュルテンを護衛として派遣するとのことであった。ロンメル子爵領は舞い戻ってきたマイカゼを据えて、ミユキはマリアベルの下で御機嫌窺いをさせ たいとの趣旨にマリアベルは思わず苦笑する。
戦時下で療養中の伯爵……軍務卿に唯一、面会が叶えられた天狐族の新任子爵。
これ以上ない程にミユキがマリアベルから重視されていると周辺貴族は判断するだろう。トウカとしてもミユキを安全性の高い場所に置いておきたいという思惑もあるのであろうが、その辺りを記さないところが不器用で可愛く思えるとマリアベルは苦笑を一層深める。
――これ以上ない程に政治的な動きをしおるの。彼奴は……
軍人が政治に関わるというのは皇国では一般的に忌避されており、そうした教育を当然のように受けているからであるが、トウカの場合は違った。
大日連は皇国以上に軍人が政治介入する事を嫌った体制であった。それ故に政治家の腐敗を止めることのできる国内最大の実力集団が不当に貶められ、国体が 損なわれ続けたという点を問題視していた。寧ろ、軍人は積極的に政治に興味を持つべきだとすら考えているのだが、マリアベルはそれを知らない。
正確には最後の一文の、最終的な現状報告を自ら行う為に近日中に赴くとの件に思いを馳せていたからそうした考えを持つに至らなかったのだが。
「御主を預かれとのことらしいの……領内はマイカゼ殿が取り仕切る、と?」
「えっと、私は子爵家当主として領地を離れるのはどうかなと思ったんですけど……お母さんが政務をできるようにマリア様に教えて貰ってきなさいって」ミユキが尻尾を垂らして説明する。
政務が苦手というのはミユキの性格を考えれば予想の付くことであるが、それを教育する人材として貴族として先達であるマリアベルを選択するのは合理的な 判断であり、マリアベルの経験は聞くだけでも無駄にならない。交渉を棍棒外交宜しく押し切り、札束で相手の頬を叩くなどと教えることは多い。
――ふむぅ、あのマイカゼ殿が妾に……何かしら思惑があるのやもしれんの。
天狐族のマイカゼ。
その噂は皆無であるが、眺めていると何処か只ならぬ雰囲気を感じさせる人物にして、逆に北部と中央の長きに渡る対立期間から、この内戦下に至る時まで天 狐族を中立のままで存続させた手腕は、目的が消極的であるとはいえ卓越した政治的視野を持つと言っても過言ではない。隠れ里でひっそりと生活していたとし
ても外部との接触を完全に絶つことは難しく、他の高位種の中には隠れ里の存在を知る者も少数ながら存在しているはずである。
少なくとも皇国政府や中央貴族は知っているはずであり、そうした状況でも中立を事も無げに維持し続けたのならば決して無能とは言えない。一応は、マリアベルにとって友人と評しても差し支えない程には交流のある人物でもある。
――シラヌイ殿は、良くも悪くも一面的な人物であるしの……交渉はできても政治は難しかろうて。
少なくともトウカの天狐族を外界に引き摺り出すという思惑に乗った以上は敵対的ではなく、寧ろトウカやヴェルテンベルク領の前途が明るいものであると判断したが故であろうが信用はできる。下手な交友関係よりも打算的な関係の方が相手の器量を図り易く、本質を窺い易い。
手紙を手元でくしゃりと握り潰し、部屋の隅へと投げ、マリアベルは、まぁ、よかろうて、とエイゼンタールに視線を投げ掛ける。
「エイゼンタール少佐には鋭兵小隊を指揮して貰おうかの」
「了解です、ヴェルテンベルク伯……ではロンメル子爵の護衛にキュルテン中尉を」
エイゼンタールが廊下へと続く扉へと視線を向けると、酷く中性的な士官が入出する。幼い顔立ちと身体つきであるが、マリアベルはそれがヴェルテンベルク 領で定期的に行われている“草刈り”で残虐なまでにその実力を示した人物であると気付いた。マリアベルにまでその噂は届いている。
「ミユキ……妾が御主を一端の領主にしてやろうて……文具をもてぃ」
マリアベルの命令に、エイゼンタールが復唱すると、扉の向こう側へと消えていく。
「私、お勉強は苦手です……」
くぅん、と狐耳を垂らすミユキが全力で嫌がっているという雰囲気を出すが、龍相手にそれが通じるもはずもない。
立ち上がると素早くミユキの横へ腰を下ろして尻尾を掴む。逃亡防止である。無論、隷下の将兵であれば逃亡など銃殺を以て阻むので尻尾を掴む程度は優しいものであった。
「しかし、良い毛並みよのぅ。……これかこれでトウカを誑かしたのかえぃ?」ミユキの尻尾をもふもふするマリアベル。
毛皮にしたら戦車一輌くらいの代金にはなるのではないかと思えるほどの毛並みであり、毛皮を使用した衣装を好まないマリアベルですら唸る程の上質さであった。断髪機で剃って首巻き(マフラー)にしてしまいたいという衝動に駆られるが、それを実行した場合にヴェルテンベルク領に降りかかるであろう惨劇を想像して思い留まる。
「……く、くすぐったいです。尻尾は駄目ですよぅ!」
「ほれほれ、ここかここが良いのかの……ふしだらな尻尾でトウカを誘惑しおって、おうおう」
問答無用にもふもふである。
粛清のふるもっふである。
他愛のない……そう評するには大人げないマリアベルの戯れは、文具を抱えて戻ってきたエイゼンタールの呆れ顔が近づくまで続いた。