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第一三三話    北部統合軍参謀本部の実情

 

 




「うへへぃ、私ぃ~酔ってないれふぅ~、こんこん~」

 ミユキが机に両手を投げ出して、尻尾を全力で振りながら酒に酔っていないと抗弁する。

 呑み助の否定ほど頼りにならないものはないのだが、トウカはそれを黙殺してミユキを寝台(ベッド)に寝かしつけた。参謀本部の一室で行われている宴会は、当初の予定通り参謀本部所属の高級士官だけで行われていたが、そこに何処から聞き付けたのかミユキが乱入してきたのだ。

 色々な高級缶詰や魚料理を持参していたので、トウカが止める間もなく参謀達はミユキを迎え入れてしまった。

 未婚の中年男性が大半の参謀達と宴会をした場合、どうなるか?

 まず持ち寄ってくる酒やつまみの数々が偏っている。否、寧ろ度数の高い酒ばかりであり、つまみも油分の濃いものばかりで著しく偏っていた。持ち寄った当 人達もこれは早死にするのではないかと心配になる程の偏り具合で、リシアなどの女性士官も少数いたが料理できる者など居ない上にそもそも食材がない。

 つまり、どんよりと男臭い宴会だったのだ。

 そして女性軍人という総じて気の強い傾向にあるリシア達女性士官は、こうした宴会の席では凄まじい連携を見せるもので中年男性には文句を言い難い状況と なる。群れる女性に対して男は無力なのだ。参謀だからと私生活まで理詰めな訳ではない。寧ろ、輪を掛けてだらしない場合すらある。

 そこにミユキが現れた。

 それも“普通”の女性らしく手料理を持参してである。当然ながら大歓迎であった。

 女性参謀の一部(主にリシア)からは僻んだ視線が飛んでいたが、軍人となって女性らしさを損なうのは彼女達の行動によるところであり、トウカやミユキが斟酌する必要のないことであった。

「こんこん~」

 熟睡しているミユキに毛布を掛け、トウカは参謀本部で与えられた小さな個室を後にする。

 参謀達に勧められるままに酒を飲み続けて意識を失ったミユキだが、決して酒に弱いという訳ではなく何人かの参謀を“道連れ”にしていた。種族の身体能力はこうした部分にも差を及ぼす。

「参謀総長、奥方様の様子は?」

 首席参謀であるハインツ・アルバーエル少将が、廊下に出たトウカを迎える。

 飄々としていながらも何処か他者に一目置かれるアルバーエルは、堅実な戦略眼と運動戦を重視した戦術を用いる宿将として、年若い者が多い参謀本部の中でそれを諌めることを期待して首席参謀の任を任されたのだ。

 風貌は嘗ての《大独逸帝国》の陸軍元帥、第一次世界大戦で軍司令官として活躍したアウグスト・フォン・マッケンゼンに似ており、軍国主義を標榜する国粋 主義者であることも類似していると言えた。言動に関しては余裕のある中年男性そのものであるが、その心中に現状に対する狂おしいまでの憤怒と悲哀を潜ませ ていることをトウカは理解している。戦歴は何よりも軍人の在り様を雄弁に語るのだ。

「問題はない。……明日は二日酔いかも知れないが」

「ふむ、天狐でも酔うのですな」

 またひとつ勉強した、と口髭撫でながら呟くアルバーエル。

 二人は特に会話もないままに宴会場となっている一室へと続く廊下を進む。

 アルバーエルを含め参謀達とトウカには軍事以外に共通の話題がなく、今回のミユキの乱入は決して悪いことではないのかも知れない。無論、トウカは其々が最善を尽くしているのであればそれ以外に何一つ求めていないので、今まではそれらを気にしてはいなかった。

「……皆、閣下を信頼しております」

 突然の言葉にトウカは眉を顰める。

 その意図を計りかねたが故に眉を顰めたのだが、アルバーエルは苦笑を零して言葉を続ける。

「いえ、宴会でも表情に起伏がないので警戒なさっているのかと思いまして」

「そう見えたか? 俺は人付き合いが不得手だ。首席参謀には苦労を掛けているとは思っているぞ」

 軍務としては十分に意思疎通ができるが、日常会話や私的な事柄は訊ねることもなく常に消極的であった。軍人としての職務に支障がない以上、トウカは問題ないと放置していたがアルバーエルやリシアがそれを危惧していることは理解していた。

 何より年齢で言えば、トウカは参謀本部の中では最も若輩である。若輩の指揮官を支える宿将という立場は気苦労の多い立場である。一般社会でも年若い者を老齢な者が支えるのは困難なことであった。特殊な職業である軍隊ともなれば、気苦労は更に多いものとなる。

 新進気鋭の年若い指揮官と、今まで冷遇されていながらも突如として退任に抜擢されてやる気をみなぎらせる参謀達の板挟み。アルバーエルの立場は、まさしくそれである。

 調整能力に秀でているとされ、尚且つ、各領邦軍などに対して一定の知名度を持つ宿将を首席参謀に据えるのは、組織運営を潤滑とするには必要不可欠であった。

 相互理解による信頼関係こそが、組織体制を強固にする。それはトウカも理解しているが、組織というのは信頼関係がなくとも回る様に構築されていることが 多い。寧ろ、軍事組織の場合は信頼関係という個人の感情が組織運営を阻害することなどあってはならず、そうした部分に対する配慮も人事面で幾ばくかはして いる。《帝政露西亜》のサムソノフ将軍とレンネンカンプ将軍の様な軍人を参謀に迎えていない以上、間を取り持つ必要などない。

 階級が存在し、命令系統が確立されているが故に積極的に信頼を勝ち得る必要性がない。

 感情ではなく論理で動く部分が大きい軍事組織に所属するからこそ、トウカの人間関係の構築に対する不得手は改善されることがなかったと言える。失態もな く、戦果を叩き出し、将兵の多くを連れ帰るならば否定されようはずもない。行動に依る結果のみを以てトウカは信頼を勝ち得たのだ。

 実力があるからこそ、他者を心服させる手段として言動を必要としないトウカ。

「命令通りに動いてくれるなら構わない。それ以上を求める局面になれば俺は失脚するだろう。まぁ、ヴェルテンベルク伯の後ろ盾とヴァルトハイム総司令官の名声がある限り、余程の失態がなければ排斥されることもないはずだが」

 トウカは己の立場と行動を肯定させる為の方便と正当化を怠ってはいない。そして、常に背後を気に掛けてもいた。

「論理的な推測ですな。……しかし、己の感情を行動の立脚点にする者も居ります。感情は不安定なもので数値化できないものですが、配慮しなければ足元を掬われることもありましょうぞ」

「忠告、感謝する……だが、その辺りの配慮は心配性な首席参謀に一任する」トウカは短く礼を述べると、宴会場となっている一室の扉を開ける。

 リシアを始めとした意識のある参謀達は一斉に立ち上がると敬礼するが、トウカは「構わない、宴会だからな」と片手でそれを遮りつつ、自身に与えられた上座へと座る。席といっても床に絨毯を敷き、小さな机を幾つも並べているという即席のものであった。

参謀達が全員で行動するというのは、もしもの場合に備えての為に警備の厳重な場所でしか許されていない。よって宴会を大きな酒場ですることはできず、そも そも機密保持の観点からも好ましくなかった。よってこの様な有様となるのは当然と言え、急造の北部統合軍は未だ組織として発展と改良の途上にあるのだ。

 席に座ると、リシアが当然の様に隣へとやってきて座る。ミユキがいなくなったので邪魔者がいなくなったと判断したのだろう。

「あら、酔いどれ狐はどうしたの?」

「熟睡している。誰かが飲んでいる果実酒に度数の高い蒸留酒を少しずつ混ぜていたからな」

 リシアによるミユキが早々に“戦列”を離れる様に小細工していたことを指して、トウカは苦笑する。トウカとしてもミユキが他の男性と楽しげに会話している姿を見るのは愉快なものではないので、それを黙認したのだ。二人の利益が一致した結果である。

 トウカに刺さる幾つもの窺う様な視線には、状況を楽しんでいるかの様なものが多い。

 ミユキという恋人がいるにも関わらず、リシアが全力でトウカを射止めようとしていることを参謀達は知っており、数少ないトウカの私的な話題でもあった。

「おやおや……とんでもない策士がいたものですな」

「あら、アルバーエル少将は、恋と戦争においてはあらゆる戦術が許されるということを御存知ないのですか? ……ああ、失礼致しました。婚期を逃されたのですね」

 アルバーエルの言葉に、リシアが笑顔で応じる。

 共に策士であるが、恋に関しては女性のリシアが有利な様子であった。

 軍務経験では恋愛経験を補い得ないという良い証明である。頬を引き攣らせるアルバーエルだが、二人の参謀が駆け寄って彼を慰めていた。その二人は砲兵参 謀のクルツバッハ少将と騎兵参謀のザイトリッツ少将であり、二人は年若い者が多い参謀本部の中でも比較的年配でアルバーエルを合わせて三人でいる光景をよ く目にする。

「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮であるという言葉もある。俺が御前を警戒する理由はその辺りだ」

 少なくとも恋愛に於いて手段を問わないのは、ミユキの行動からも窺い知れる事実である。

 恐ろしいことであるが、後々になって考えてみればベルセリカに会いに行ったことや、天狐族の里に赴いたことなどを筆頭にトウカは自分が外堀を徐々に埋め られていたと取れなくもないと最近になり気付いた。ある意味、マリアベルもそれに利用された部分がある。マリアベルが天狐族を陣営に引き込む為にミユキを 利用しようとすれば、トウカを出汁(だし)にするのが一番であり、対するミユキはトウカとの関係を家族に認めさせる為にはマリアベルの権力を利用できるのではないかと判断したのかも知れない。互いの利害が一致しているのだ。

 全ては想像に過ぎないことであるが、狐が狡猾なことはマイカゼを見ればよく理解できる。しかも、その娘である以上、ミユキがそうした素質を持っていても不思議ではない。

 一番恐ろしいのは、それをトウカに気付かれずに行ったという点である。

「もしかすると一番の策士はミユキかも知れないがな」

「策士? あれは狩りでしょうね。貴方は獲物」リシアが呆れたような声を上げる。周囲でひそひそとしている参謀が鬱陶しい。

「成程、ロンメル子爵は随分と大きな獲物を相手になさっていますな」感心したようなアルバーエル。

 周囲の参謀達も「なんという策士」「しかし、狩りとは恐ろしい」「参謀総長を打倒し得る策士とは」「いっそ参謀本部の末席に加わる様に打診してみて は?」「我が参謀本部の女性連中と違って露骨でないのは良いことだ」「しかし、こうなると情報参謀は獲物を横取りしようとする泥棒猫……ぐはっ」「黙って なさい、締めるわよ」「これはヴェルテンベルク伯でもない限り対抗は……」「狐種に見初められたらならば諦めて婚約するしかないということか」などと呟い ているが、ミユキは良くも悪くも好意的に捉えられている様であった。

 ミユキの話題もあって、トウカに話し掛けてくる参謀も増えた。

 可愛い狐種の女の子を紹介してくださいと泣きながら懇願する酔っ払い参謀もいたが、他の女性参謀に拳骨を受けて沈黙するという珍事もあり場は大いに盛り上がる。今回はミユキに助けられた形となった。

「しかし、人間種の閣下が高位種を射止めたとなれば我々にも機会はありそうですな。航空参謀は地龍族でしたね? その辺りはどうなのですか? 後学の為お聞かせいただきたい」

「いえ、現実は残酷だわ、工兵参謀。縁がないヒトは一生縁がないわよ、覚悟なさいな」

 工兵参謀のゲルステンビュッテル大佐の言葉を航空参謀のキルヒシュラーガー少将がばっさりと切り捨てる。リシアも一目置くほどの姉御肌にして積極的攻勢を得意とするキルヒシュラーガーの言葉に、ゲルステンビュッテルが撃墜された。

 キルヒシュラーガーは新兵種でもある航空戦術……戦闘爆撃騎や軽爆撃騎を統合運用した航空部隊を臆することなく積極的に用いて活躍していた。消極的にな りがちな防衛戦であっても積極的に戦闘を繰り広げる部隊は全軍の士気を維持する為にも重要であり、キルヒシュラーガーはそうした意味で稀有な将校と言え た。保守的な将校との衝突で大佐の階級に留まっていたが、参謀本部に招き入れるに当たって二階級特進させた上で航空参謀に任命し、現在のところその職務に 失敗はなくトウカは満足していた。宴会の席でも皆を引っ張る役割を担っているので、組織を円滑に運営していく以上こうした人材は有り難いとすら考えてい る。

 喧々赫々の恋愛観を語り出す参謀達。

 実に平和である。

 一番多い年齢層が人間種で言うところの三〇前後であり、二〇代の頃を郷土護持に費やしていたからこそ異性に恵まれなかった者は少なくない数が存在する。 貪欲に選り好みしないのであれば領邦軍という安定した職場に勤める軍人、しかも将校となれば相手など容易く見つかるのだが、下手な幻想を抱いていると行き 後れることになる。

 ――そう言えば潜水艦隊構想が本格化すると行き後れる将兵が増えるかも知れないな……何か企画を策定する様に計画参謀と広報参謀に指示しておくか。

 大日連海軍でも一年の三分の一は外洋で活動している攻撃型原子力潜水艦隊や重誘導弾潜水巡洋艦隊などの乗員は婚期を逃す傾向が極めて顕著で、それに対応 する為に潜水艦隊司令や艦長が出会いの場を用意するために多大な負担を強いられているという事実を知るトウカとしては決して座視できることではない。潜水 艦乗員は、海中で活躍する代償に潜水艦から“行き後れ”という呪いを掛けられたのだという噂もある。海魔(レヴィアタン)は近代に在っても健在なのだ。

 世知辛い世の中である。

「……面倒なことだ」

 自分が関われない分野での対処を部下に任せるというのは丸投げという気がして好ましくない。幸いなことに企画参謀はマリアベルが大層気に入っているという“お祭り男”なので問題はないだろうが、ふざけた予算を計上して会計参謀と衝突しかねない怖さがある。

 トウカの溜息を呆れと受け取ったのか、アルバーエルが唸る。

「閣下! 自分は奥さんがいるからと酷くはありませんかな!」

 そんな非難の声に参謀達が続く。

 まずは参謀本部の“行き後れ”に対処せねばならない状況にトウカは再度溜息を吐いた。










「ええい、増援部隊はまだ集結できないのか! これだから盆暗貴族将校はッ!」

 リディアは先程まで背を預けていた装甲車を無造作に蹴る。

 蹴られた装甲車の転輪が空を向き、明らかに車軸(シャフト)が曲がった光景に周囲の将校が恐怖の表情を浮かべるが、リディアの怒りは収まらない。

「しかし、貴族もこの戦に勝てると判断しているからこそ兵を拠出するのですぞ。それに良い弾除けではありませんかな? 正規軍……それも我らが精鋭たる〈第三親衛軍〉の被害を減らす為には数が必要でありましょう」

 貴族に率いられた有象無象の“民兵”を、参謀長を努めているブルガーエフは、静かであるが澱みない口調で使い潰すと口にした。それにも周囲の将校は冷や汗を流す。軍の統制上、極めて好ましくない言葉であるからであった。

 その自身以上に過激な言葉に溜飲を下げたリディアは流麗な金色の長髪を靡かせて思案する。

 当初の作戦計画では既にエルライン要塞攻略を行う為に攻撃発起地点への行軍を開始しているはずなのだが、今回の作戦計画で重要な位置を占める二個戦車軍団……戦車約三九〇〇輌を基幹とした兵員約四六〇〇〇〇名の一大打撃集団が未だに到着していないのだ。

 皇国侵攻作戦……アレクサンダル作戦に於いて重要な部分を担う為に編成された大軍であるが、実情は帝国軍の実情を知るリディアをしても頬を引き攣らせるものであった。

 犯罪者や思想犯を帝国中から集め、そこに根こそぎ徴兵した少数民族の若者などを加えた編成。加えて、各貴族が領地から引き連れてきた私兵を統合して短期 訓練を施した部隊であり、明らかに磨り潰すことを前提にした部隊である。各貴族の私兵が督戦隊となって行われた短期訓練が終了した時点で二〇〇〇〇名近い 死者を出しているというだけでその異常性は窺えようというもので、立案したエカテリーナの狂気を感じさせた。

 しかも、移動時も脱走兵を出さない様に警戒しながらの進軍であり、長期の軍務経験を持った者や有能な将校も配置されていない状況では行軍速度の低下も致し方ないことであった。

 果たして彼らは使えるのか?

 エカテリーナに聞けば「使えるか?ではなくて使い潰すのよ」と返ってきたことは記憶に新しいリディアであるが、南部鎮定軍司令部でもそれを疑問視する意見は多い。

 つまり、リディアが使えるようにせねばならない。

「督戦隊がいるな、それも大規模な」

 その言葉に周囲の将校がざわめく。

 督戦隊とは軍隊に於いて自軍部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却や敵前逃亡、或いは降伏する様な行動を採れば、これに攻撃を 加えることで強制的に戦闘を継続させる任務を持った部隊のことである。兵士の士気を上げる為の手段でいて、文字通り死兵となって戦わせる為の手段であり全 軍から嫌悪と憎悪を一身に頂戴する部隊でもある。

 帝国のような絶対君主制の国家で見られる督戦隊であるが、督戦だけを主任務とする特別編成部隊などは基本的に存在しない。実際に専門の部隊を常設し続け ることは非効率であり、進軍速度も低下して何よりも反感を買う。よって、命令によって臨時的に督戦任務に充てられた部隊を督戦隊と称した。

「止むを得ませんな……では、〈第三親衛軍団〉が妥当でありましょう。状況次第では後詰として運用も可能かと」

「それは駄目だ。有象無象の寄せ集めの壊乱に巻き込まれて、身動きが取れんなんてことは願い下げだ」

 冗談ではないと嫌そうな顔をするリディアにブルガーエフが苦笑し、周囲の将校もそれに続く。良くも悪くも腹は括ったように感じたリディアは満足げに頷いた。

 結局、督戦隊の役目は門閥貴族の中でも比較的大きな権勢を有している貴族将官に率いられた部隊とすることとなった。部隊編成も貴族の私兵を中心にして編制されているので正規軍への被害は最小限に抑えることができる。

 帝国内の各所から不満と怨嗟が上がっている今回の出兵計画。

「バグラチオン公アレクサンダルも草葉の陰で激怒しているだろうな」

 尤も彼のほうが激怒しているだろう、とリディアは苦笑する。

 作戦名となったアレクサンダルとは、帝国の領土拡張政策の黄金期であった二〇〇年前に各地で勇戦を繰り広げたバグラチオン公アレクサンダルの名から採ら れたものである。バクラチオン公は気性の荒い人物として有名で、その死に様も防衛戦の際に敵と怒り狂いながら斬り合うという、戦死とも憤死とも取れる死に 方をした帝国の英雄であった。

「確かに、バグラチオン公なれば激怒しているでしょうな」

 ブルガーエフが上品な笑声を零し、将校もそれに続く。

 冗談を口にしたつもりであるが、リディアとしてはバグラチオン公よりも激怒している人物がいる気がして笑えなかった。


 トウカ。


 深く尋ねることはしなかったが若くして物事の本質を見据える遠く異国の若者。姓を聞くことはなかったが北部征伐軍参謀総長に同じ名が見受けられる。まさ か二十歳にもなっていない人間種の若者がそうした要職を担っているなど有り得ない話であるが、トウカであれば或いはという気がしないでもないリディアは、 それはそれで面白い、と内心で歓迎してもいた。

 リディアの個人的感情からすると好ましくない闘争であったが、トウカがそれに華を添えるというのであればこの世紀末の様な軍勢を指揮せねばならないことに耐えられそうである。

「姫様は嬉しそうな様子で何より。しかし、爺やは不安で胃の腑が痛う御座いますぞ」

 嬉しげに微笑むリディアに、ブルガーエフが腹を抑えて呟く。

 露払いと進軍経路の偵察と保持の為に一部の部隊は既に進軍を開始しているが、エルライン要塞駐留軍の索敵圏内に侵入するまでは二週間近く掛かると予想さ れていた。進軍経路の除雪や橋梁の防衛、空前の規模の軍勢の侵攻に耐え得るものとする為の補強や拡張を行う為の工兵部隊も共に進出している。早晩、皇国側 も気付くことになるだろう。

 こうした作戦計画通りの指揮であっても、史上空前の規模からくる様々な問題は南部鎮定軍総司令部を苦しめていた。帝国軍は伝統的に糧秣を占領地……即ち 掠奪を前提とした輜重計画によって行動しているが故に、後方兵站能力が低いという弱点を抱えている。当初からそれは指摘されていたが、想像を超える物資の 損耗と、例年以上の厳冬がこれに追い打ちを掛けている。

「このエカテリンブルク近郊に展開している八〇万を超える将兵に与える糧秣だけでも国庫は疲弊しましょう」

「莫迦貴族が着服しなければ辛うじて何とかなるはずなのだが……よし、〈第三親衛軍〉で周辺貴族領の“治安維持”を行おう」

 リディアは装甲車に立て掛けていた大剣の鞘を掴み名案だと頷く。

 帝国で貴族の横暴は日常茶飯事であり、特に比較的併合が遅かった南部は治安が安定しておらず必要以上に搾取される傾向にある。

 リディアの考えは単純である。

 周辺貴族の軍を貴族の成人男性諸共に根こそぎに徴兵するのだ。同時に溜め込んでいる資産を総て放出させる。勿論、徴兵した周辺貴族の軍と貴族の成人男性は全員、エルライン要塞攻略に当たっては二個戦車軍団と共に栄誉ある先鋒を努めて貰うことになるだろう。

 邪魔者は消してしまえばいい。

 信用できない貴族の領地が兵站線となるなど確実に横領の温床となるので、考えれば考える程に上手くゆく手段であるように思えた。

「爺や。この辺りのこれまで強欲に資産を溜め込み、民を異常な程に弾圧し続けている貴族を全て作戦対象にして戦場に招待しよう」

「また無茶を……いえ、先行している部隊の資材を横領したとして拘束。無罪放免とする代わりに戦場に放り込んで弾除けとすれば……」

 普段であれば絶対に止めるであろうブルガーエフも乗り気である。

 輜重線の保持は近代軍にとって死活問題である。

 確実ならしめるならば、莫迦な貴族を嵌めて磨り潰してしまっても良い程には重要なことである。リディアとしては同時に貴族の当主がいなくなった領地をエ カテリーナに信用の置ける貴族の所領に挿げ替えるくらいはせねば安心できない。領民も良心的な貴族が治めると分かれば協力的になり、リディアの評価も上が ること間違いなしである。

 俄然やる気が出てきたリディアは、勧善懲悪のついでに貴族の溜め込んだ資金と糧秣を思い浮かべて早足で歩き出す。

 直属の〈第三親衛軍〉に動員を掛けてすぐさま行動に移らねばならない。

 正義は常に優越した武力を持つ者に微笑むが、相手が逃げてしまっては意味がないのだ。








「リディア、頑張ってるじゃないの」

 その楽しげなエリザヴェータの言葉に、エカテリーナは扇子で口元を隠して微笑む。

 勿論、扇子で口元を隠したのは引き攣ったことが分からぬよう誤魔化す為であり、決して優美な佇まいを演出する為ではなかった。

 エカテリーナは現在、白亜都市エカテリンブルク行政府の最上階に位置する自身の執務室で公務をしていたが、伝令から齎された突然の〈第三親衛軍〉隷下の 部隊の出動に頭を痛めていた。同時に届けられたリディアの私信から意図は察することができたが、それの政治的後始末をするのはエカテリーナであり、突然に 押し付けられた以上それらの準備などできていようはずもない。

 しかし、周囲から非凡な才覚を持つ女として認知されているエカテリーナが後手に回ることはない。否、後手に回り政治的に付け入る隙がある様に錯覚させることすら許されないのだ。

「領主や男性貴族を無理やり根こそぎ動員してもその子女は残っているのは厄介ね……。血縁のある貴族や本家に泣き付かれれば話が大きくなりかねないでしょうに」

 特に門閥貴族に所縁のある者がいれば大事になりかねない。

 よって泣き付かれる前に不慮の事故で死んで貰うのが一番簡単であり、不慮の事故は貴族同士の武力衝突鎮圧の為に軍を動員した結果、勝利した側の貴族を鎮圧し双方が全員陰惨な死を迎えたという筋書きで十分である。

 帝国南部は治安が低下している。

 出兵による戦力の動員で治安維持の為の兵力が最低限に抑えられているということもあるが、エカテリーナが統治しているエカテリンブルク周辺の貴族領の繁栄を門閥貴族などが望まなかったからでもある。

 故に犬猿の仲の貴族同士が隣り合う領地に封ぜられ、尚武に偏重した貴族が無数に存在している。

 彼らはエカテリーナが何もせずとも勝手気儘にいがみ合い、資金と人材を浪費することで発展は妨げられていた。結果として、エカテリンブルクが軍事的にも 政治的にも経済的にも独り勝ちでき、尚且つ彼らが門閥貴族の領地との緩衝地帯となっている。エカテリーナはそれを維持するだけでよく、周辺貴族領から職を 求めた難民の流入も受け皿を用意して生産能力の向上に寄与させていた。無論、そこにはリディアの指揮下にある正規軍の一部を利用することで軍事費を削減さ せていたからこそできた芸当でもある。

 止む無し、とエカテリーナは、エリザヴェータに頷く。

 リディアから届けられた通信文を掌の上、火炎魔術で燃やしたエリザヴェータは楽しそうに宙を漂う。

「開戦すれば国内問題に関わってはいられない。ならば周囲の不確定要素は摘み取っておくべきでしょうね……さて、それよりも皇国はどう出るか……いえ、サクラギ・トウカがどう出るか、ね」

 扇子を閉じ、エカテリーナは嗤う。

 彼は新時代の体現者だ。

 空を統べ、五倍以上の戦力差の国内勢力に抗い、そして消え往こうとしている者。

 否、消えはしないだろう。

 断片的に届いた報告を見るに自陣営が敗北した“程度”で諦める男ではなく、そもそも異常な程に合理性を追求している部分を見るに、敵対陣営に上手く合流して利益を貪るに違いなかった。

 帝国陸軍総司令部ではサクラギ・トウカの存在を北部が分かりやすい英雄の形を作り出す為に用意した幻想であると判断している。あまりにも急な出現と台頭 であり、まるで何年も前から用意されていたかのように新兵器が次々と戦場に姿を現すなど都合が良すぎるという点と、軍事でも航空や陸上、海上の各方面に造 詣が深いという事実もそれを後押ししていた。個人でありながらも多面的であり過ぎることを踏まえれば、そうした考えに至ることは間違いではない。

 優秀な人材を集中運用し、その成果をサクラギ・トウカという幻想に集中して投影させている。

 皇国北部の危機的な現状を考えれば、英雄を作り出そうとすることは確かにあり得ることである。危機に対して最も必要なのは攻撃的な指揮官でありそれは得てして英雄の素質と類似している。

 しかし、エカテリーナはサクラギ・トウカが作られた虚像ではないと確信している。

 無論、確証はない。敢えて言うなれば、女の勘である。

 それでも敢えて理由を挙げるならば、まともな指揮官であればエルゼリア侯爵領攻防戦で徹底的に持久したはずなのだ。既に盟主であるエルゼリア侯の領地が 喪われたことで北部貴族の団結は見る影を喪っている。だが、それでも予定調和の様に戦線を縮小させているところを見るに、このエルゼリア侯爵領攻防戦の勝 敗も北部統合軍が意図した流れの一つに過ぎないと判断できる。もし、そうしたある種の博打の打てる者がいるのであれば北部は更に早い状況で現状打開に動い たはず。

 その条件に合うのは、トウカしか居ない。

 あれは、政治的には負けてはならない一戦であった。

 しかし、現実は余力を残して撤退している。それも、征伐軍に考え得る限りの被害を与えて。

「いえ、そこね。それこそがサクラギ・トウカの本質……」エカテリーナは窓から雪の降る空を見上げる。

 エルゼリア侯爵領攻防戦で征伐軍……中央貴族が史上空前の規模の航空部隊を動員したことは既に周辺諸国に知れ渡っているが、エカテリーナはそれ以上に相 対しているはずの北部統合軍が大した迎撃行動を執らなかったことを重視した。一部の部隊が移動を行った程度であり、対空砲火も航空邀撃もないという事実は 驚嘆に値する。将兵が迎撃を開始する前に、攻撃を制止したのだ。

 恐らく、サクラギ・トウカは、その大規模な航空集団に攻撃能力がないことを一瞬で看破した。つまり議論などせず一人で結論を導き出したということに他な らない。空中機動による圧倒的速度に対して瞬発的な決断力を求められるであろうことと、撤退を始めるまでの決断時間を踏まえて考えると、あまりにも迅速で あり他の参謀と議論している時間などないに等しいはずである。

 サクラギ・トウカは間違いなく個人の才覚に依って立つ英雄である。

 多数の将官による合議があれば、それは為せない。

「ああ、欲しい……本当に欲しい」

 あらゆる分野に対して先進的な思想を与え、軍の運用に於いて七武五公に引けを取らない人間種。

 それは、帝国の求めて止まないモノだ。

 高位種に対して軍勢を率いて卓越した指揮統率でこれを討つ。

 《スヴァルーシ統一帝国》の悲願ですらあるのだ。

 リディアは個人戦闘能力で卓越した部分があるが卓越した指揮ができる訳ではなく、寧ろ求められるのはその権威による統率であって実質的な軍の指揮は複数 の参謀によって成されている。無論、それが間違っているという訳ではなく、現にリディア隷下の〈第三親衛軍〉はその体制によって幾つもの戦線で多大な戦果 を上げている。

 しかし、それでは真に英雄足り得ない。

 エカテリーナにとって、英雄とは軍事に関わる総ての分野で勝利を掴み取れる者でなければならない。

 少なくとも、帝国はそうした人物の到来でしか立て直せず、現在ではリディアを旗頭にしているが、未だ十全とは言い難い。

「でも、貴方はフェルゼンに閉じ込められたまま何もできない」エカテリーナは微笑む。

 トウカを真に警戒していたのは七武五公やアリアベルでもなく、エカテリーナなのだ。だからこそフェルゼンで七武五公隷下の包囲戦が開始される瞬間を狙っ てエルライン要塞の攻撃を開始するように調整を続けていた。無論、トウカが玉砕するほど安易な者ではないと確信しているが、もし叶うのであれば、帝国に亡 命して欲しいとエカテリーナは考えている。

「それも悪くないかしらね。……どの道、単一種族国家では首が回らないから、北部統合軍諸共亡命させられるなら……いえ、それは無理でしょう」

 しかし、試してみる価値はあるかも知れないとエカテリーナは執務机に置かれた書類に手を伸ばす。

「カーチャ、楽しいかしら? 最近、良く嗤うわね」

「あら、私、笑っていたの? そうね、楽しいわ、すごく」

 新しい時代の舞台に立つ一人となれることを、エカテリーナは無邪気に喜んでいた。

 

 

 

 

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復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。

      《大独逸帝国》の古典文献学者、哲学者  フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ


恋と戦争においてはあらゆる戦術が許される。

      《英蘭(イングランド)王国》の劇作家  ジョン・フレッチャー


危機に対して最も必要なのは攻撃的な指揮官である。

      《亜米利加(アメリカ)合衆国》 太平洋艦隊司令長官官及び連合国軍中部太平洋方面、陸海空三軍最高司令官 チェスター・ウィリアム・ニミッツ 


 《帝政露西亜(ロシア)》のサムソノフとレンネンカンプの様な軍人……アレクサンドル・サムソノフ騎兵大将とパーヴェル・レンネンカンプ騎兵大将のこと。個人的感情から相手を救援しなかったという噂がある。無論、実際はそうではない……はず。