第一二六話 小さな小細工
「押し返す必要はない! 防禦縦深に引き摺りこんで軍狼兵や装虎兵と歩兵を分断しろ! 砲兵部隊は敵の攻勢正面に効力射を続けて侵攻速度を低下させるように留意!」
トウカは戦況が書き込まれ続けて刻一刻と変化する状況に次々と指示を飛ばす。
本来であれば総司令官であるベルセリカが指示を下す状況であるが、当の本人であるベルセリカは前線で盛大に暴れている為に参謀総長であるトウカが臨時で 指揮を執っている。通常なら次席指揮官辺りが指揮権を継承すべきなのだが、総司令部は全科一致で指揮権をトウカへ移譲することを決定した。誰も彼もが郷土 防衛に対して自信を持ち得ないのだ。止むを得ぬことである。
「第二波攻撃の予兆あり。波状攻撃を意図している模様。航空部隊がエルゼリア侯爵領外縁に接近しているとの報告もあり、防空任務に就いていた二個戦闘航空団が航空基地より発進しています」
努めて私情を排したリシアの報告にトウカは野性的な笑みを浮かべて、リシアが戦域図に並べつつあった敵航空部隊を示す駒達を振り払う。
小気味良い音と共に床に散らばった駒。
しかし、誰もがそれを気に止めない。
トウカが満面の笑みを浮かべたからである。
「航空部隊の指揮官は良くやっている。独自裁量を認めた甲斐があるな……出せる戦闘爆撃航空団と爆撃航空団……いや、航空艦隊を全て投入して対地攻撃を実施する」
「宜しいのですか? 虎の子ですが?」
リシアの確認の言葉に、トウカは鷹揚に頷く。
航空戦とは何よりもその意志決断速度が大きく戦況を左右する。海戦で発艦の遅れた航空母艦が格納庫に駐機状態であった爆撃機や雷撃機の搭載弾諸共に吹き飛んだ戦訓を知るトウカとしては、航空戦で後手に回ることは何としても避けたかった。
そして、北部統合軍は指揮官級の将校が前線に進出する風潮がある為に意思決定が極めて早く、また現場指揮官にも大きな権限が与えられていることもあり、 各々の判断で部隊が行動する場合も少なくない。状況が変化する度に上級司令部のお伺いを立てる必要はなく、迅速な行動は極めて高い防禦力を演出して頑強な 抵抗を実現した。
之に加えて絶妙な支援を見せるのが、急降下爆撃騎や戦闘爆撃騎である。
森林地帯に設けられた無数の小道を縫って側面に進出してくる装甲部隊や滑雪兵(スキー兵)に怯えながら幾重にも形成された正面の塹壕を相手にするだけでも十分な負担である状況で、自軍の戦車や装虎兵、軍狼兵目掛けて爆弾が至近に降ってくる状況下となれば混乱は免れない。
「痛打を与えられずとも構わない。敵の航空戦力の総数を確認したい。誘き寄せるだけで十分だ」
大規模な航空攻撃を相手が指を咥えて座視するはずはなく、あらゆる手段、上げられる航空騎の全てを投じて防空戦闘を実施するはずであり、それは予備戦力も動員してのこととなろう。
此方が航空戦力で優勢であることはフェルゼン空襲での大被害と、エルゼリア侯爵領までの侵攻時に近接航空支援をほとんど行っていなかったことを推察すれ ば予想できる。そもそも航空騎の有用性が明らかになったのはベルゲン強襲以降であり、それ以降はクロウ=クルワッハ公爵も龍種の頂点として航空騎の囲い込
みを開始しているとの情報もあるので、征伐軍の航空戦力はそう簡単に補充できているとは思えない。陸海軍もそれ程の数を有している訳ではなく、これ以上の 損耗は有用性が判明した以上及び腰であろうことは間違いない。
然して戦力差がなく拮抗しているならば現状維持。
確実に優勢であるならば近接航空支援を継続。
「機動防禦を実行中の装甲部隊が装虎兵の反撃を受けて被害甚大。これの後退支援と逆撃の為に〈第一三七装虎兵大隊〉と〈第六三軍狼兵大隊〉が独自判断で前進を開始。近隣戦域の砲兵隊もこれを支援」
各部隊の指揮官が最善と思う判断を胸に戦闘を繰り広げている。
トウカは、本来はベルセリカが座っているはずの席に腰を下ろす。
既に一週間近く征伐軍の攻撃を受け続けている征伐軍主力の被害は増大の一途を辿っており、継戦能力を削がれ続けていた。その上、弾火薬の損耗も八割を超え、最早、長期戦は不可能な状態である。
「装虎兵部隊と軍狼兵部隊の躍進を中止させろ。後衛戦闘に留めて敵の火力を削げ。ヴァルトハイム総司令官と〈第一軍狼兵聯隊『ヴァナルガンド』〉にも通達……まぁ、通達したところで後衛戦闘の矢面に立しかないだろうが」
トウカは苦笑する。
ベルセリカは英雄である。
異邦人に過ぎないトウカから見てもそう思えるのだから、この北の大地に住まう者達から見れば正に“雄武英略をもって他に傑出する”という人物像であろう ことは疑いない。軍を率いる才覚に加えて前線で刃を振るう才覚を持ち合わせ、幾多の将兵を隷属させる才覚。他にも多くの技能を持つベルセリカは正に英雄な のだ。無様な後退は許されない。
「できることはした……釣り野伏せに機動防禦、地上阻止航空攻撃に縦深防禦。それでも侵攻を遅らせて一部の戦力を削ぐ程度に留まったが」
だからこそ、ベルセリカの活躍に注目が集まる。
実際、殆ど将兵の注目はベルセリカに集まっていたのだが、北部統合軍によって行われる多才な戦術や臨機応変な阻止攻撃に対して、征伐軍総司令部の面々は憧憬と畏怖を抱いていた。だがそうした征伐軍の内情を、トウカは知る由もなかった。
「一部の砲兵が弾薬の欠乏で継戦不能とのこと。歩兵として戦列に加わる用意を終えているとのことです。如何なさいますか?」
「許可しない。砲兵は技能職だ。歩兵として消耗することは許されない。フェルゼンまで後退して弾火薬の補充を命令せよ」
リシアの言葉に、トウカは命令を下す。
総力を挙げて勝利を希求する状況であるが、戦後のことも見据えねばならない。何より歩兵戦力を充実させたところで戦局を打開する要素足り得ないのだ。
彼我の戦力差は三対一。
戦術規模であれば絶望的な戦力差とは言えないが、戦略規模で言うならば特に練度に差がない近代軍となると覆し難い戦力比となる。防衛戦である為に十分な塹壕や阻害を用意し、複雑な砲兵陣地を形成しているという補正を考慮しても勝利は覚束ない。
「列車砲も限界だろう。迂回させろ……ベスターナッハ伯爵領を経由して下がらせろ。浸透している征伐軍の軍狼兵部隊に襲撃を受けない様に注意……ハルティカイネン情報参謀。貴官がこれの指揮を執れ」
トウカは戦域図の駒の配列を後退させながら重ねて命令を出す。
本来であれば情報参謀が部隊の指揮権を有するなど有り得ないことであるが、最早、師団長の戦死ですら届く戦況であり、余剰の指揮官など存在しない。首席 参謀であるアルバーエル少将に限っては壊乱した複数の大隊を糾合した集成聯隊を編成して野戦指揮官として辣腕を振るっている。最早、各員が持ち場で最善を 尽くすしかない状況なのだ。
不愉快な末期戦に、トウカは凶相を色濃くした。
「それは……。小官の職務を逸脱します。何より、フェルゼンへの後退は――」
「実行しろ。可及的速やかに」トウカは有無を言わせない。
マリアベルも子飼いの部下を喪うのは避けたいであろうという思惑もあるが、既に単純な兵力による解決は予定していない。
あまりにも卑劣な手段なので、女性将校であるリシアを遠ざけたいという思惑もある。
アリアベルを誘引するという目的は成功しているが、今一歩というところで決定打を欠く為に殺害することに失敗していた。一度、軍狼兵と装虎兵、騎兵による突撃を陣頭指揮する機会があったが防禦に徹することが限界であった。〈装甲教導師団〉
や〈第一軍狼兵聯隊『ヴァルナガンド』〉も防禦行動に投入せねばならない程に苛烈なものであり、大御巫という宗教的象徴が率いるという点は参謀本部の予想
を遙かに上回る狂信ぶりを見せた。トウカも怪しげな薬物を使用しているのではないのかと疑う程の狂信的な攻撃であり、騎兵の中には曲剣で戦車に切り掛かる者もいた。装虎兵や軍狼兵などの兵科であれば優秀な魔導士が跨乗しているが、あくまでもそれらの補助戦力でしかない騎兵は低位の魔導士や通常の兵士が運用している為に戦車に斬り掛かるというのは無謀でしかない。
まさか《波蘭共和国》侵攻での〈ポルモスカ騎兵旅団〉の再現を耳にするなど、トウカは予想だにしていなかった。
《波蘭共和国》の〈ポモルスカ騎 兵旅団〉が《独逸第三帝国》軍の機甲部隊に乗馬突撃を仕掛けて返り討ちに遭い全滅したという事例はまさに旧時代と新時代の衝突であった。いずれ何処かで起
きたことであろうが、この世界には陸戦の王者として軍狼兵や装虎兵が存在する。騎兵は既に旧時代の主力ですらなかったことから、トウカはそうした事例など 起きないと踏んでいた。
「忌々しい事だ」その一言に尽きる。
宗教など碌なものではない。人類や民族を向こうに回した詐欺師の集団催眠でしかないのだ。特に西洋の宗教は押し付けがましい事この上ないので、恐らくは天霊神殿も民衆から金銭を巻き上げる集団でしかない。宗教は阿片だと嘯いた共産主義者の首魁の言葉にも頷けるものがある。
戦後、可能な限り権勢を削ぐ事をトウカは決意する。
むすっ、としながらも承知しましたと敬礼したリシアに答礼する。
退室したリシアを見届けたトウカは残存している参謀……男性達に向き直る。
「それで? 誰か勇気のある者は?」笑顔のトウカ。
真っ青な参謀達。
トウカの突然の言葉に対して素早く察するだけの頭脳を持つ彼らだが、それが幸せであるとは限らない。
忠勇無双の北の軍人達であっても凶暴な虎には恐怖を感じるようで、トウカとしても進んで手を下したいと思う案件ではないが行わない訳にもいかない。アリアベルを誘引するには悲劇的な出来事と御題目が必要なのだ。
「作戦参謀。予定通りに戦線を最終防衛線まで縮小するが、暫くは貴官に指揮を一任する。……そう心配そうな顔をするな。ヴァルトハイム総司令官も直ぐに帰還してくるはずだ。それに俺が席を外すのも一時間程度に過ぎない」
突然の大役に緊張の面持ちの年若い作戦参謀の肩を軽く叩くとトウカは楽しげに笑う。総司令官であるベルセリカが戦野で後衛戦闘の指揮を執っている以上、攻撃はそこに集中するはずであり、戦線全体の後退と再構築の難易度は決して高いものではない。
耳を澄ませば大口径砲の重い腹の底に響く様な砲声が幾重にも轟いている。列車砲が残余の砲弾全てを叩き込む心算で砲撃しているのだ。
恐らくはリシアの指示であり、どの道フェルゼンに移動するのであれば砲弾を全て射耗し尽くして身軽になろうという思惑と少しでも征伐軍に被害を与えておきたいという打算からのことであろうが、その無駄のなさは正に参謀として必要な資質と言える。
「豪勢なことだ。では、諸君! 楽しい戦術的敗北にして、悲しい戦略的勝利を始めようではないか!」トウカは叫ぶ。
後世の歴史書に載る様な戦争とせなばならない。その智謀と武勇が後の北部の地位を皇国内に於いて重要なもの足らしめるだろう。
参謀達の戦機に逸る瞳。
そして、咆える戦人達。
『応ッ!!』
本来であれば軍人の返答ではない怒声に近いものであるが、トウカは咎めない。
寧ろ、そのくらいの気勢が好ましい。
最悪の場合、彼らには――
――本当の意味で叛乱軍を演じて貰わないといけないのだから。
『ケーニヒス=ティーゲル公爵令嬢を私の私室に』
レオンディーネは通信機からの無機質な言葉に身を固くする。
副官としてトウカに選ばれた……多分に政治的な意図が感じられるそれは、自身が副官としての役目をなんら与えられずにトウカに与えられている私室の隣室 に押し込められていることからも理解できた。トウカにはレオンディーネを含めた三人の女性士官が副官として配属されているが、同僚とも言える二人の女性士
官の動作の隙のなさは明らかに武術の練達者であることを窺わせ、主任務はレオンディーネの監視であろうことは疑いない。
その二人が早く行けと視線で促してくるのだ。
さり気なく曲剣や自動拳銃に添えられた手が、これ以上ない程に催促するのでレオンディーネは溜息と共に立ち上がる。
隣室と言っても渡り廊下を経由せねば、トウカの私室にまではいけない。
防諜と保安上の理由から区画閉鎖されている為、レオンディーネは逃げることすら叶わないが、個人での行動は許されている。
レオンディーネは背中への視線を感じつつ、扉を開けて渡り廊下へと出る。
渡り廊下は暖房設備が施されていない為に肌寒い。
防寒術式が編み込まれたヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装は、その冷気の殆どを軽減してくれるものの顔や手、足首から迫るものまでは軽減してはくれない。
エルゼリア侯爵邸は嘗ての城郭を流用したものである為に古めかしい造りをしており、防寒設備や暖房設備に関してはおざなりである。そうした部分に税を使 わずに領地発展の為に資金の大部分を投じているという点は素直に好感が持てる。何よりレオンディーネはこうした城郭の佇まいを好んでいた。
襟を引き寄せてレオンディーネは廊下を歩く。
鉄格子の嵌められた窓から見える雪原には、複雑精緻に刻まれた塹壕が張り巡らされて巨大な魔術陣とも思える光景を形作っていた。皇国陸軍の教導内容では 見たこともないほど幾度も折れ曲がり、幾重にも構築されている。恐らくは塹壕内に砲弾が入り込まない様にという工夫と、塹壕内で敵味方入り乱れて白兵戦と
なった際、直線であれば延長線上の多くの友軍将兵が射線を晒すことになる点を回避する為だろう。皇国陸軍では魔導障壁によってそれらを成しているが、魔力 消費を抑えるという点では北部統合軍のものの方が優れていると言える。
北部統合軍は強い。純粋に戦争を行使する為の集団となっている。長年、脅威に晒されていた為、政治などもそれに合わせることが当然となっているのだ。
先軍政治。
トウカはそう評していた。
帝国という脅威がある以上は止むを得ないことかも知れないが、中央貴族や政府が脅威と感じることも理解できるだけの勇戦でもある。三分の一の兵力で、防禦側とは言え、正面から互角に抗戦している様は恐怖すら抱かせる。
初期の征伐軍は文字通りの烏合の衆であったが、ゲフェングニス作戦による被害とそれ以降の陸海軍の制式支援の決定により征伐軍の主力は今や陸海軍であ る。つまりは一国の正規軍であり、大陸有数の練度を誇る世界に冠たる皇軍そのものに他ならず、北部統合軍は質の面では正規軍以上の軍事力を有しているとい うことになる。恐れられない訳がないのだ。
双方に引けない事情があり軋轢が生じた。そして双方の利害調整を行うべき存在も不在となれば武力衝突は避けられない。
レオンディーネは立ち止まる。
正面にはトウカの私室へと繋がる扉が鎮座している。
暫く躊躇うがレオンディーネは意を決して扉を叩く。見た目は木製だが、叩いた音を聞くに装甲板が挟まれていることは疑いない。
「……誰か?」
分厚い扉越しのくぐもった声音の誰何にレオンディーネは応じる。本来であれば扉付近は武装した衛兵が警備に当たっているべきなのだが、トウカは至近で警備されることを嫌っている。
「ティーゲル大尉です、閣下。御呼びとのことで罷り越しました」
入れ、という短い声にレオンディーネは扉を開ける。やはり重く、隷属の枷によって人間種の乙女と変わらぬ程に膂力を制限された身では些か辛いものがあった。
しかし、室内に設えられた無機質な造りの執務席に座るトウカは、それを助けようという気配も見せない。レオンディーネは些か気分を害しながらも中将と大 尉という階級を考えれば無理からぬことであると無理やり納得する。軍は年齢や性別などではなく、階級という序列によってのみ立場が判断されるのだ。
温かい室温を感じつつも室内へと足を踏み入れると、そこには床一面に無造作に書類がぶちまけられ、壁には何枚もの戦域図が張られている。
――ここがトウカの私室……無数の智謀も突然に思い付く訳でないということじゃな。
ある時期からあまりにも急激に変わった北部統合軍の戦術や武装はまさに突然のことで、それに対応できなかったからこそ征伐軍はゲフェングニス作戦やエルゼリア侯爵領までの侵攻で甚大な被害を受けている。
しかし、突然の印象があったものの、やはりトウカもヒトの子であったらしい。
悩みもすれば迷いもするということだろう。
床に散らばった書類を拾い集めながら、トウカの執務席を目指すレオンディーネは妙な可笑しさを覚えた。
サクラギ・トウカは演算機のように効率的な戦術を駆使し、戦略を示すものであるとレオンディーネは考えていたが、やはりヒトの子なのだ。それが酷く可笑しく感じられる。彼もニンゲンだったのだ、と。
執務椅子に深く腰掛けて執務机に両足を乗せ、軍帽の上から頭を掻く姿は何処か笑いを誘うものがある。危機を楽しみ、闘争を慈しんでいるのだろう。闘争を好む虎種であるからこそレオンディーネにはそれを察することができた。
「情けない……本当に情けない。歴史上の英雄達の知識をこれ以上ない程に流用してもこの程度か。いや、時間が足りなかった。せめてあと三年……いや、一年あれば」
トウカの呟きの意味を察することはできないが、一年の時があれば征伐軍に対して優勢を確保できると踏んでいることだけは理解できる。
――世界中の英雄? 確かにトウカの示した戦闘教義は数が多いが……
聞いたこともないものばかりでもあると、レオンディーネは思い出す。
個人が考え得る発想と言うのは無限でありながら有限であるとも言える。何処まで行っても自らが想像できる未来を逸脱する範囲での想像は不可能で、その上、生来の気質が知らず知らずの内に視野を狭める。
真に総てに捕らわれない自由な発想など存在しないのだ。
例えば、レオンディーネであれば気質的に攻勢を好む為、戦術の立案は攻撃的なものに傾倒している。もし戦闘教義を立案したとしても、それは攻撃に関するものとなるだろう。
しかし、トウカは多くの分野で無数の戦闘教義を 立案して軍事技術や政治経済にも造詣が深く、その総てで既存の戦闘教義や軍事技術の先駆者達より正しく先を見据えている。二十歳にも満たない若さで無数の
分野に労力と熱意、時間を向けることなど出来るはずがなく、その点を踏まえればトウカの在り様はあまりにも不自然である。
よって、トウカの気質や性格は未だに図れない。
――分からんのじゃが……
彼は北部の為でも皇国の為に戦っている訳ではなく、至極個人的な理由から戦っているようにも思える。無論、非常に性根が腐っているという点だけは理解できたが。
「書類などどうでもいい。近くに寄れ」
トウカは牛乳瓶を傾けて中身を飲み干すと、そう告げる。
よく見てみれば未開封の牛乳瓶や空の牛乳瓶が執務机の上には何本も並んでいる。トウカは皇国人男性の平均身長からすると確かに低めであるが、それに対して思うところでもあるのか次の牛乳瓶に手を伸ばしている姿は何とも言えないものがあった。
げふっ、と口から空気が漏れ出るトウカ。
自棄糞気味であるトウカであるがその瞳は爛々と輝いており、弱気な様子は見受けられず、立ち上がったその姿をレオンディーネは視線で追う。
窓脇の壁に背を預けたトウカの視線に、レオンディーネは首を傾げる。
ケーニヒス=ティーゲル公爵令嬢を私の私室に、そう呼ばれた以上は副官としてではなくケーニヒス=ティーゲル公爵の娘として利用する心算であることは疑いないが、決戦の最中に人質交渉を受ける程に征伐軍もアリアベルも無能ではない。
「公開処刑でもする気ならば、儂としては遠慮したいところではあるのじゃが」
「莫迦を言え。征伐軍将兵を怒らせては意味がない。……アリアベルだけを激昂させてこそだろう?」
楽しげに嗤うトウカに、レオンディーネは、今日も平常運転か、と口元を引き攣らせる。
無遠慮に自身の身体を下から上に眺め回してくるトウカの視線に不吉なものを感じながらレオンディーネは直立不動で言葉を待つ。
――このまま押し倒されるのじゃろうか?
壁際の寝台を一瞥するがトウカがその様な誰しもが思い付く様な手段を使うとは思えない。可能な手段は可能か限り講じるのが指揮官というものだがレオンディーネを精神的な面で隷属させたとしても最大の効果を得ることは難しい。
「まぁ、これが俺の妥協点だ」面白くなさげなトウカの声音。
トウカの思惑にも意を馳せていたレオンディーネはその声に意識を浮上させる。
しかし、それを迎えたのはトウカが無造作に浴びせかけた牛乳であった。
生臭いそれにレオンディーネは眉を顰めるが、睨み付けようとする前に肩を無造作に掴まれて寝台へと弾き飛ばされる。
思わず寝台に尻もちを付いたレオンディーネ。
隷属の枷によって神虎族としての能力の全てを封じられたレオンディーネに正面切って応じるだけの膂力と魔力は存在せず抗う術などなかった。掴まれた両手は寝台へと押し付けられて、近づくトウカに顔を背ける事でしか抵抗できない。
頬への生暖かい感触。舐められているのだ。
身体が総毛立つ。
顔に滴る牛乳を舐め取られる感触は不快の一言に尽き、何とか振りほどいた手でトウカの背中を叩くがトウカの手が軍装の上衣を掴み、釦諸共に服を剥ぎ取ろうとしたことで危機感は頂点に達した。
「御主にはミユキがいるじゃろうっ!」
愛する女性がいるにも関わらず他の女性に食指を伸ばすという行為自体がレオンディーネにとっては理解し難いものであり、何よりレオンディーネにとってトウカは初めて対等足り得ると感じた異性である。無遠慮であり皮肉屋な男。気になっていないと言えば嘘になる。
下着を剥ぎ取りながら上半身に舌を這わせるトウカに、レオンディーネは言い知れない悍ましさを感じる。
戦野で虜囚となり、見ず知らずの戦塵に汚れた男共に群がれることならば有事となればあり得るかも知れないと覚悟していたが、自身が気に掛けていた男に神虎種としての力を封じられた上で慰み者にされるなど予想すらしていなかった。
柔肌に這う手の感触に身を竦ませるレオンディーネ。
――これでは余りにも惨めじゃ!
生まれて初めて気に掛けた男が敵となった。
それは運命だった。
初代ケーニヒス=ティーゲル公爵は戦野で最愛の人を見いだした。それは敵将でもあったが二人はそれを気にすることもなく、或いは邪魔立てする者を拳で納得させることで結ばれる。
それは憧れである。いつか自分も。そう思っていたこともある。
実際のところは士官学校で教育を受け続ける毎にそうした憧憬は消え失せていった。現実は何処までも残酷であり、戦場は近代化によって浪漫主義と騎士道精神を失いながら見苦しくも効率的な進化を続けている。一分の希望を差し挟む余地もない程に。
しかし、トウカと出逢って敵対した。
腹立たしくもあり、同時に運命を感じた。
だからこそ自らの力で捻じ伏せ、首に鎖を付けて自らのものにしてくれると意気込んだ。仔狐など眼中になかった。
結果として首輪を物理的に付けられたのはレオンディーネであり、返り討ちにあったと言える。なれど処刑するでもなく監禁するでもなく、副官として手元に置いておくという判断を見せたことから嫌われてはいないのだと考えてもいた。
だが、現実は路肩の石を蹴り飛ばすかのような気軽さでレオンディーネを押し倒し、ミユキのことなど然して配慮していない姿勢を見せた。恐らくは一度抱い てその後は使い捨てようと考えているのだとレオンディーネは考えた。末路としては戦術或いは戦略的にも意味のある“消費”だろうことは疑いないが、同時に 自らがその程度で終わってしまうという絶望感。
「酷い……嫌じゃ、嫌じゃぁ……」
牛乳とトウカの唾液の付いた頬に流れる涙。
惨めである。ただ、只管に。
止めどなく流れる涙すらもレオンディーネの心の傷を癒し得ない。
そこで、ふとトウカの手が止まる。
涙に滲む瞳で見上げれば、トウカは疲れたような顔で溜息を一つ。
「まぁ、この程度か」
やれやれと呟いてオレンディーネの頭を撫でるトウカ。寝台の上、レオンディーネの横へと腰掛けたトウカの表情は穏やかであり邪な感情は窺えない。
レオンディーネに敷き布を投げ掛けて立ち上がると、トウカは執務椅子にゆったりと座る。その姿は強姦未遂の変態男には見えないとても尊大なものであった。
執務机の上に置かれた書類の山をがさがさと漁るトウカ。
そして出てきたのは魔導写影機(高輝度の写真機)。
「お、御主……」
盗撮だ。
畜生の所業である。そんなものを撮って何が変わるというのか。
征伐軍は小娘一人の貞操程度でその軍事作戦を変更させる程の無能集団ではなく、そもそもレオンディーネが虜囚となった時点でその程度は予期しているはず である。惨たらしい公開処刑とて可能性の一つとして対抗措置を考えていることは疑いない。近代軍の戦争とは相手に対する対抗措置の歴史でもあるのだ。
「まぁ、大御巫を可愛がってやる手段の一つだ。姑息で小さな小細工は複数を以てして相手の判断能力を削ぎ続ける。さて、アリアベルは今何を考えているのか」楽しそうに嗤うトウカ。
無邪気でいて狂想の入り混じった凄絶な笑みが誘うは新たなる闘争。
《ヴァリスヘイム皇国》に於ける内戦は、未だその解決に多くの流血を必要としていた。
宗教は阿片だと嘯いた共産主義者の首魁の言葉にも頷けるものがある。
みんな大好きレーニン閣下の名言である。本当は悪い意味の言葉ではないのですがね。押し付けがましい宗教が多い西洋であれば致し方ないものがあるのだ。 勿論、仏教も西洋の宗教に負けていないぞ? 僧兵で軍拡! 政治に口出し! 教義を無視して肉を食し女を抱く! 生臭坊主に三日坊主、神主はないのに何故か坊主を揶揄する言葉があるのは御察しだ。共産党のみなさんこっちです!
雄武英略をもって他に傑出する。
島津氏一七代当主 島津義弘