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第一二四話    情報戦争




「前衛の被害は甚大。しかし、彼らは歩みを止めない……予想通りだな」

 トウカは、マリアベルの傾いた着物を辛うじて着こなしているリシアに笑い掛ける。

 常に自分の想定した戦況に推移しつつあるというのは愉快極まりないことである。政治的に追い詰められているからこそ執り得る軍事的手段が制限されるとい うのは、相手に主導権を握られた上で戦略目標と戦術目標を見切られるに等しく、その時点で不利は免れない。無論、相手が容易にそれを覆す物量を有している 現状では元より安心できるものではない。

 ――残念だったな、アリアベル。周囲に認めさせようとするからこそ御前は深みに嵌っていく。……征伐軍など成立させず中央貴族に身を寄せ、その中で派閥を形成するべきだった。

 成立間もない軍隊など隙しかない。

 人間関係に加えて派閥闘争の混乱に始まり、兵器と弾火薬の規格統一に選定などを考えただけでも一〇年は大規模な戦争を出来る組織を形成するなど不可能で ある。北部統合軍は《スヴァルーシ統一帝国》という仮想敵が存在し、各領邦軍時代からの連携がそれなりに成されていた。兵器の規格が製造をヴェルテンベル ク領邦軍に合わせて統一されていた為に容易であったが、征伐軍にはそうした背景がない。主力を陸軍戦力が担っているとはいえ、その数は半数に届かない程 度。限界はある。

 戦域図上に置かれた敵味方の駒を動かすトウカに、リシアが呆れた声を上げる。

「言ってなさい。前衛と兵站を混乱させられたら決戦を急がざるを得ないに決まっているじゃない。鬼畜ね」

「戦争屋に鬼畜という言葉は褒め言葉だがな」

 戦争は騙し合いである。

 騙された方が敗者となり悪となる。だからこそ皆が本気で命を賭け得るのだ。

 二人のいる小さな一室には戦域図が置かれており、時折、通信機から聞こえる報告に合わせて敵味方の駒をトウカが動かすだけである。この部屋に二人しかい ないのは、トウカが一人で試行することを望み、リシアがマリアベルの真似事など限界だと逃げ込んだ結果に過ぎず、決してやましい理由ではなかった。

「敵前衛の拘束を継続中の歩兵部隊に被害が出ているな。……〈第三八歩兵大隊〉が壊乱、〈第九四歩兵大隊〉は軍狼兵の突撃を受けて指揮系統を喪失、〈第一三四歩兵大隊〉は後衛戦闘の為に被害が七割を超えて大隊長が戦死、か」

 トウカは、戦域図上に散らばった報告書を片手に、失われた部隊の駒を取り払う。

 リシアの表情は努めて見ない。

 〈第一三四歩兵大隊〉。

 トウカの記憶が正しければ、リシアが〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉へとマリアベルの命令で送り込まれる以前に率いていた歩兵大隊である。リシアの“栄 転”に伴い副官を努めていた中尉が二階級特進して大隊長に任命されたはずであるが、報告書通りなら戦死しているはずであり定員の七割を喪ってすらいる。そ れは軍の全滅の定義を十分以上に満たしており、主だった中隊長や小隊長などの士官も軒並み戦死していても不思議ではなかった。

 中には友人と呼べる部下もいたかも知れない。

 若しくは幼き日に頭を撫でてくれた近所の年長者か。

 そうした当然のようにあった日常を消費することで軍人は勝利を得るのだ。

 異邦人(エトランジェ)たるトウカには護るべき者は限られているが、リシアにとっては多くの繋がりと(しがらみ)があり、並々ならぬ思いが渦巻いていることは疑いない。軍人の義務として指揮をしていると割り切っているトウカならば兎も角、リシアはこの北の大地で生を受けて生まれ育ったことを踏まえれば生粋の郷土兵(ラントヴェーア)でもあるのだ。

 しかし、軍人でもある。

 泣き喚くことなど許されない。あらゆる犠牲を踏み越えて外敵と脅威を打ち祓う者。そうであるからこそ敬意を払われるのだ。慰めることなどできない。

 報告を垂れ流し続ける魔導通信機の音だけが室内に響く。

 トウカは、リシアに掛ける言葉が見つからなかった。










 ――被害を出すとは思っていた……でも。

 リシアは下唇を噛み締める。

 戦争なのだ。忌々しい皇軍相撃であるとは言え、長年の軋轢から生じた内戦である以上、前線では煉獄の門が開いたかのような光景が量産されていることは疑 いない。特にトウカによって提案された兵器の数々は高威力であるものが多く、それによる死傷者の遺体は凄惨を極めていた。最早、同じ皇軍であるという考え すら抱いていないだろう。

 戦野には慈悲も許容もない。内戦であるという“甘え”は双方共に完全に消え失せている。

「戦争である以上は覚悟していたけど……」

 軍事教義に於ける全滅は戦力の喪失が四割以上という明確な定義があるが、それは継戦能力を喪失する基準であり、文字通りの全滅に近い被害を受けることは 稀である。友軍後退の為、そして航空攻撃を所定の戦域で開始させる為の足止めの意味を持つ弾性防禦を実施する為、多くの歩兵大隊は大きな犠牲を払った。

 弾性防禦という戦闘教義(ドクトリン)を歩兵部隊に提案したトウカだが、戦力差が隔絶していたことに加え、弾性防禦に対して理解の深くない部隊が軍狼兵部隊の突撃を許したという理由もある。

 弾性防禦とは、皇国やこの世界での基本的な防禦戦術である塹壕戦思想を発展させたものであり、トウカからすると勝手知ったる防禦戦術でもあった。内容と しては単純なもので、主陣地前方に哨戒線を設け、縦深のある複雑に折れ曲がり絡み合った二重、三重の塹壕線、そして砲兵部隊を主力とした後方陣地に過ぎな い。

 主陣地を迎撃区域として敵の攻撃を粉砕するのが弾性防禦の基本的な考えで、主戦力としては脆弱である前哨線を展開するのは迎撃区域への敵砲兵支援の妨害を意図し、後方陣地には友軍の砲兵部隊と反攻戦を意図した配置がされる。

 従来の単純な塹壕線とは異なる三段階に目的分担された防衛線が縦深を以て配置されているという特徴は、縦深を深く取ればとる程に有効となる。第一次世界 大戦で《大独逸帝国》陸軍が行った様に、戦車と交戦する為の迎撃区域の縦深をより深く取るようにし、迎撃区域内部で独立行動を取る対戦車用の兵器や火器を 配備した部隊を編成して配置することで敵に少なくない被害を強いた。装虎兵であれ軍狼兵であれ、速度は戦車よりも優れているものの塹壕の突破は歩兵を伴っ たものでなければならず、長所がある程度損なわれる形になる。対応は戦車と然して変わらない。

 しかし、リシアは弾性防禦など知らない。

 有効な防禦戦術であり、それを提案したトウカに瞠目したリシア。

 装虎兵や軍狼兵の突撃などは歩兵からすれば恐怖以外の何ものでもなく、演習でも歩兵が勝利することなど一度たりともなかった。装虎兵は歩兵の戦列を体当 たりも同然に食い破り、軍狼兵は森林地帯などに逃げ込んでも確実に追撃してくるという確信と恐怖は歩兵に深い絶望を与える。

 歩兵で対抗できるならば、とリシアはトウカの弾性防禦による足止めに賛成した。

 しかし、結果は成功と言えるものではなかった。

 相手が予期していなかったこともあり征伐軍に与えた被害は想定を上回っていたものの、友軍の被害も無視し得ないものであった。総司令官であるベルセリカ の命令で、シュトラハヴィッツ領邦軍〈第一軍狼兵聯隊『ヴァナルガンド』〉を動員して征伐軍前衛部隊の側面を奇襲しなければ被害は更に増えていただろうこ とは疑いない。ベルセリカの即応はベルセリカが決して御飾りの総司令官ではないことを示すこととなったが、引き換えに〈第一軍狼兵聯隊『ヴァナルガン ド』〉も少なくない被害を蒙ることとなった。

 兵達は勇敢に戦ったが装虎兵や軍狼兵相手に生身で戦う恐怖は想像を絶する。対抗できる防禦戦術と武装を手にしたかと言って、それを克服するだけの精神は持ち合わせていなかったのだ。少なくない被害を蒙ったのは、そうした理由もあるはずである。

 ――私の賛同した作戦で喪うなんて……

 内戦などで死ぬには惜しい士官達に、そして健気な兵士達。

 中には同じ孤児院出身の若者や近所に住む規律に五月蠅い中年男性、平時には通い付けの病院で医師をしている女性医師などもおり寂寥感は拭えない。郷土護 持という明確な目標と確実に存在するモノの為に戦う郷土兵にとって戦友が戦死するということは自分の世界を削られるに等しい。

 戦争は削り合いなのだ。生命と、資産と、国力と、時間と、誇りと、軍事力と、政治力と、人間性を果てしなく削り合う闘争。

 果たして自分は何処まで削られるのか。そんな絶望にリシアは身を震わせる。

 戦域図に涙の雫が、一滴、二滴と零れ落ちる。

「リシア………嘆く暇があるならば情報を纏めろ」トウカが小さく鼻を鳴らして呟く。

 気負いも労わりもない一言にリシアは一瞬、睨み付けようとするが、その何時もの慇懃無礼なものとは違う粗暴な言葉遣いに視線を緩める。

「怒らせないで………私は大丈夫よ」

 軍人に気遣いなどいらないわ。そう言ってリシアは吹き散る桜華の如き儚げな笑みを浮かべる。

「……本当に年若い子もいた。一六にも満たない、成長期だって終わっていないのに。それなのに、それなのに……不甲斐ないわ」

 それが戦争だ。

 消費される命に例外はなく、ましてや軍人である以上、逃れられない一面もある。有事の際、死地に赴く事が軍人の使命であり任務なのだ。

「リシア………」

「………触れないで。抱きしめないで。優しくしないで。今抱きしめられると、きっと私はそれに甘えてしまう……御願い、触らないで」

「………そうか」

 トウカが差し出そうとしていた手を断り、リシアは上を向く。
涙が零れない様に。

 トウカに甘える訳にはいかない。それが好意でなく、同情と憐憫からであるならば尚更である。共に並び立たんとするリシアにとって、恋する相手が自身に向ける感情が、そうした感情の延長線上にあることなど苛立たしいことでしかない。

 しかし、同時にそれだけの感情を向けるだけの存在であるとは認識されているのだという一抹の嬉しさもあった。トウカが興味のない者には事務的な対応であることが多く、かつてのリシアもそうした対応をされていた為に現状は進歩していると言える。

 零れ出た涙を軍装の袖で拭い、リシアは息を吐く。総てを押し流す様に。

「さぁ、戦争を続けましょう」

 喪われたモノは多い。だからこそそれに似合うだけのモノを手に入れなければならない。

 しかし、戦況はリシアの想像を超えた推移を見せ始めていた。











「カナリス情報部部長……盗み聞きは感心しないな」

 トウカは軍刀の刀身を油紙で拭きながら嘆息する。

 情報部を統率する老人は長い睫毛と髭に隠れた顔に小さな笑みを浮かべている。

 マリアベルの様に表情を偽るのではなく、体毛で物理的に表情を隠蔽するカナリスは妖怪の如き有様で、リシアに限っては露骨に眉を顰めている。情報参謀で あるリシアはカナリスの情報部との折衝がある為に顔を合わせることが少なくないが、飄々とした人物でありながら異様な程に鋭い観察眼は軍務以外では専ら他 者を揶揄(からか)うことに発揮されている為、被害者に名を連ねていた。

「ふぉっふぉっふぉっ……参謀総長閣下の裂帛の意志の前に足が竦んでしまいましてのぅ」

「女性を気遣うことを武勇とされるなら黙って去るのが優しさでは?」

 カナリスの迂遠な物言いにリシアが顔を赤く染める。トウカに手を出されようとしている様に見えたのかも知れないと考えているだろうことは疑いない。


 ラウレンツ・ジダ・フォン・カナリス。


 トウカとマリアベルの関係を知る少ない人物でもある。参謀本部で一席を囲んでいる際、他者に聞こえないように「随分と上手く狐と龍を誑かしましたのぅ」とトウカに呟いた為、口にしていた酒を噴き出す羽目になったことは記憶に新しい。

 いそいそと椅子に座るカナリス。

 歳を取ると立ち続けるのも辛い、と上官であるトウカに断りもなく着席するカナリスだが、当人を前にすると叱責する気も起きなくなるという不思議。

「それで? 情報漏洩は順調で?」トウカは楽しげに呟く。

 驚愕の顔のままに硬直しているリシアをそのままに、トウカは緩やかに笑う。当初の予定通りに思惑が進んだとしても征伐軍崩壊“程度”で終わる。

 それでは面白くない。否、現状を最大限に利用できていない。

 純粋に軍事的勝利と政治的謀略を重ねれば征伐軍を崩壊させることは難しくはないと、トウカも参謀本部も考えていたが、動向が不明瞭な中央貴族や、圧倒的 な動員兵力を有する帝国の蠢動を相手取らねばならない可能性もある。次の戦争の呼び水となりかねない手段や甚大なる被害を蒙ることは避けねばならない。

 そもそも征伐軍を崩壊させねばならないかと問われれば、トウカは否と答える。

 中央貴族も無理して撃破する必要はなく、寧ろ皇国は国内の諸勢力を糾合して国難に当たるべきであり、それが無難な方針である。天帝不在の現状では国内を 纏め得るべき指導力を持つのは七武五公の五公爵や大御巫たるアリアベルしかおらず、皇国内での諸勢力の連立での主導権を北部貴族が得ることは難しい。

 ベルセリカを国事行為の全権を代行する立場に推し立てるという案も参謀本部では提唱されたが、皇国の政治中枢である皇都での七武五公の影響力を考えれば 現実味のない話である。ベルセリカは武の象徴に過ぎず、唯でさえ脆弱な政治的な影響力は五〇〇年以上も厭離穢土を決め込んでいたこともあって完全に喪われ ていた。

「目下のところ“大連立”の障害は諸勢力の軋轢……それと個々人の隔意だが、それを捨て去るには荒治療が必要になる」

「……大連立。そんな基本方針は我が軍に存在しないわ」

 リシアの言葉に、トウカは肩を竦める。

 全くに個人的な懸念からの独自行動であり、方針云々と言う前にこの一件を把握している将校はこの場にいる三人と現場指揮に当たっているシェレンベルク中佐くらいなものである。

 顎髭を撫でるカナリスは唖然とするリシアへ呟く。

「誰しもが憎悪と憤怒に駆られて眼前の敵に向かっておる今この時代。それ以外の敵を警戒して利用し陥れる者が必要となるのじゃよ……皇国の黒幕がのぅ」

 その場の三人は沈黙する。

 カナリスの言葉は絶望的なまでに正しい。あのマリアベルですら、クロウ=クルワッハ公爵を殺すことに固執している。個々人の軋轢に加えて各地域間の領民の認識の差異も見逃せない要素であり、解決には絶大な指導力か、国体が大きく損なわれる程の脅威が必要となる。

 前者は、本来であれば天帝という存在が担うべきものだが不在であり、偽物を擁立するという綱渡りをすることは難しい。天霊神殿に霊的、魔術的に認められ ねばならないという点が偽帝擁立を困難としていた。天帝に宗教的な指導者としての一面がある訳ではないにも関わらずず、宗教勢力の認可を受けねばならない という点は、トウカからすると不愉快なものでしかない。

 後者は帝国という脅威が存在するがあまりにも強大であり、場合によっては介入によって皇国は荒廃する上に占領される危険性がある。思想的に相容れない為 に迎合する勢力は存在しないが扱いを間違うと亡国の可能性がある。トウカの知る歴史では、国内闘争に他国を巻き込んだ末に国土を分断された国家もあるので 可能ならば帝国の介入は避けたい。

 しかし、北部統合軍は追い詰められている。

 短期的に見るならば有望株にも見える北部統合軍だが、それはあくまでも善戦しているという程度のものであり、まさか最大勢力として短期間で急成長するとは考えられてはいないはずであり、トウカも不可能だと判断していた。

 だが、容易に連携できそうな勢力は周囲に存在しない。それでもトウカは、最悪の状況の中で最善の一手を打たねばならない。軍人であるがゆえに。

「俺が皇国の黒幕になれるか否かは別として、だ。皇国の諸勢力は過程がどうあれ、統合はできずとも連立はすべきだろう」

「……現実的だけど現実的じゃないわ。これからの戦乱を考えれば挙国一致は正しいけど、貴族の軋轢はそう簡単には修復できないでしょうね」リシアは不可能だと顔を顰める。


 そうした試みは何百年も前から行われてきたことであり、既に何百年も放置していた軋轢は容易な手段では修復できない。だからこそ内戦が勃発したのであり、血が流れているのだ。

 トウカはその言葉に「下らない」と吐き捨てる。


「断じて戦うところ死中おのずから活あるを信ず」


 まさにそれである。選択肢など、最早ないのだ。

 硫黄島防衛の任に就いていた〈小笠原兵団〉兵団長、栗林忠道中将の言葉である。陸軍の装備や兵器の性能に於いて《亜米利加合衆国》陸軍に劣っている《大 日本帝国》陸軍が、圧倒的な劣勢の中でも三六日間も組織的な戦闘を継続。《亜米利加合衆国》軍の死傷者数は《大日本帝国》軍のそれを上回った硫黄島防衛戦 では、文字通りその言葉が配下の一兵に至るまで実践された。

 よって、皇国臣民が実践するのは総てである。そうでなくては、一切合財悉くが喪われる。

「皇国に住まう総ての民がその意志を以て国難に当たることを俺は願っている」

 他人事であるかのような言葉。

 しかし、乗るか反るかは、全く以て皇国臣民の愛国心が依らしむるところである。

「来るぞ、帝国が。この北部を陥れた帝国が人中の龍が」

 トウカは凄絶な笑みを浮かべ、エルライン要塞……帝国の方角へ視線を向けた。








「痛い……何故、俺は叩かれねばならない。上官暴行は営倉入りでは済まないが」

 全力の平手を受けたトウカは頬を擦りながら呟いているが、リシアはやり場のない怒りを机の脚を蹴ることで発散する。流石にこれ以上顔面に打撃を加えるのは周囲からの追求もあるので控えねばならない。

 上官への暴行。確かに場合によっては営倉入りでは済まないだろう。部下に銃口を突き付けた実績?のあるトウカにそう言われたとしても、リシアとしては片腹痛いという話であるが。

 しかし、敵性国家への情報漏洩に比べれば可愛いものである。

「情報漏洩は銃殺よッ! しかも帝国になんて! 貴方、阿呆ね!」

「情報参謀の責任でもあるな」

 平然と言い返してきたトウカに、リシアは戦域図を掻き毟る。

 理解はできるのだ。納得はできないが。

 そもそも、情報参謀に相談せずに情報部を動員して情報戦を行っているという時点で越権行為も甚だしい。トウカはリシアの上官であり参謀総長であるが、情 報部の運用は情報参謀であるリシアに一任されている。軍の総司令官や参謀長が戦線部隊や運用に口を挟むのは物語の中だけで、寧ろ兵器開発や公共工事にまで に指示と命令を下しているトウカが異常である。マリアベルの特別扱いと、ダルヴェティエ侯の黙認、エルゼリア侯の好意が無ければ叶わなかったことと言え た。

「私は何も聞かなかったわ」

 進退どころの問題ではなく、下手をすれば物理的に首が飛びかねない。マリアベルにも秘密にしているという以上、当人も露呈すれば大きな混乱を招くと理解しているのだろう。

 関われば銃殺刑。

 全力で扉に飛び付くと取っ手(ドアノブ)を掴むが全く動かない。

 考えてみれば室内にいたはずのカナリスの姿が消えている。髭を毟られると判断して逃げたのかも知れない。確かに視界に入っていたならば毟っていたと断言できる。

 蝶番を打ち抜いてやるわ、と拳銃嚢(ホルスター)に収められた自動拳銃の銃把(グリップ)に右手を添えるが、背後から伸ばされた手がリシアの右手を掴み捻り上げる。

 抵抗も出来ず、扉に押し付けられたリシア。

 また銃口を突き付けられるのではないかという恐怖。そして、好意を抱いている男性に近づかれるという緊張に身を固くするが、トウカは然して気負うこともなくリシアを振り向かせると肩を掴んで再び扉へと押し付けた。

「頼む、協力しろ。今、この国を滅ぼす訳にはいかない」

 何処までも透き通る瞳がリシアを捉える。

 卑怯。誑かすかのように退路を断っておいて、”御願い”というのは余りにも卑怯である。何時ものように傲慢に当然のように命令を下せばいいのだ。恫喝や命令を以て人を動かすことを平然と呼吸をする様に行う癖に、今この時だけ“願う”というのか。

 リシアは視線をトウカの胸板へと逸らす。

 これでは自分が特別扱いされている気がしてしまう。トウカの特別扱いは、ミユキだけだというのに。

 勘違いなど許されない。
 軽くみられるなど許せない。

 掴まれていない左手でトウカの胸板を軽く叩く様にして押し退けると、表情を見られない様に俯きながら横を通り過ぎる。トウカは振り向くこともない。

 紫苑色の髪の少女は大きな溜息を一つ。

「……いずれ……形のあるもので返しなさいよ」

 負債ばかりが増えるトウカだが、恐らくは返さないだろうと、リシアは改めて嘆息する。

 ミユキやマリアベル、ザムエルとは個人的な交流を持っているにも関わらず、リシアとは職務上の付き合いに留めているトウカに負債を返す気などあるはずも ない。或いはゲフェングニス作戦終了時の告白が尾を引いているのではないかとリシアは睨んでいる。無論、後悔はしていないが。

 胡散臭いと思われている事を気取ったのか、近づいてきたトウカの気配。

 そして背後から抱き締められる。続けて囁くように耳元で呟かれた。

「なら、今、身体で返してやろうか?」

 不愉快だ。

 トウカの腕を振り払い、リシアは間髪入れずに振り返ると、先程とは反対の頬を引っ叩いた。









「つまり帝国軍の誘引で危機感を抱かせ、皇国内の諸勢力を無理やり休戦状態に持ち込み、北部統合軍はその中で存在感を出すということだ」

 片方の頬を擦りながら、トウカは両腕を組んで座るリシアの説明を続ける。

 参謀本部でも幾度か検討された上で、多くの参謀が、不確定要素が多すぎる、と首を横に振った作戦でもある為にリシアの表情は硬い。

 トウカから見ても投機的な面が多い作戦なのだ。

 しかし、勝算はある。

 だが、それは誰にも理解してもらえない類のものである。

「帝国が人中の龍……」

 即ち、非凡で計り知れない人物。

 まさに人間種が大半を占める《スヴァルーシ統一帝国》が人造の龍。

 隙はなくとも、座しているだけのクロウ=クルワッハ公爵などよりも余程に恐ろしい龍であり、直接的な戦闘能力などよりも遙かに計り難くも対応し難い。

「帝国という専制国家の陰に隠れる知恵深き龍。……来るぞ。軍事力という(あぎと)で食い破らんと、な」

 トウカは確信している。最も効率的な状況で攻め寄せることを。

「だが、それ故に読みやすい。いや、正確に情報を与え、戦況の推移のさせ方次第では状況を作り出すこともできるはずだ」

「危険よ。一歩間違えば皇国は滅亡するわ」

 リシアの言葉に、トウカは何を今更と苦笑する。

 一歩間違えばなどという言葉は帝国成立時の天帝に言うべきであり、その時点で政治的に干渉するか民族闘争の火種を撒いておくべきだったのだ。侵攻する口 実すら構築しないなど腑抜けているとしか思えない。国家間に真の友好関係など有り得ず、そこには利益と経済によって保障された関係があるのみである。当時 の天帝は大虚けとしかトウカには思えなかった。


「権利の上に眠る者は保護に値せず、だ」


 訳の分からない神々に与えられた指導者としての権利を十全に生かし得ない天帝なら弑逆されても文句は言えない。下手に内政での失点が少ない天帝が続いた ことにより、外政で批判される天帝が現れなかったことも少なからず影響していることは疑いない。国民の視線が国内にしか向いていないという現状で、天帝ま でが国民の興味を抱いている問題の解決にしか興味を示さなかった。

 国民を豊かにするだけが指導者の責務ではない。
 外敵を打ち祓うこともまた指導者の責務なのだ。

「今まで帝国の脅威に対応し有効な手を打つことは試みられたが、不和と軋轢によって悉く失敗した。なら、このまま滅ぶというならば、俺が博打を打っても構わないだろう」

 本来、戦略規模で博打によって国の命運を賭けることなどあってはならないことだが、この期に及んでは致し方ない。様子を窺っている中央貴族が最大の懸念 だが、好機を幾度も黙殺している点を見るに、この内戦での勝利者と敵対、或いは迎合する事で国内勢力を統一しようと考えている可能性が高い。

 勝算はあるのだ。

「確かにこのまま不毛な内戦を続けていても仕方はないけど……そもそも帝国は本当に侵攻してくるの?」

「俺を信じろ……とは言わん。冗談だ。拳銃に掛けている手を離せ」

 トウカは、リシア鋭い眼光に冷や汗と両手を上げて応じる。

 リシアの言葉は尤もである。帝国の侵攻がないならば、それはそれで問題はない。

「もし、侵攻してくる気配がないならば、そのまま大御巫の首を取っても問題はないだろうな」

 征伐軍崩壊後に中央貴族と連携して征伐軍の戦力を適切に取り扱いつつ、政府や陸海軍と連携して帝国に当たる。これが無難と言えた。しかし、これは時間が 掛かる策であり、目的の不明瞭な中央貴族との折衝に陸海軍と北部統合軍の連携、若しくは統合。政府の混乱の鎮静化、場合によっては再選挙も有り得ることを 踏まえれば挙国一致体制への移行は一年程度の期間を見なければならないとトウカは考えていた。しかも、最悪の場合は決裂の可能性も捨てきれない。

 強大な敵が必要なのだ。総てを結集せねば勝てない暴虐なる敵が。

「最悪、帝国が内戦の間隙を突く形で侵攻してこなくとも、内戦終結後に時期を見て挑発行動を繰り返して侵攻を誘発する心算だ」

「無茶苦茶ね。……でも、確かにそれなら中央貴族も政府も陸海軍も協力せざるを得なくなるに違いないわ」

 外敵を利用して国内を安定させるという手段に、リシアは活路を見い出したようであるが、トウカとしてはその弊害を考えると暗澹たる気持ちになる。

 ――帝国の脅威を煽られただけで状況打開の為に内戦に踏み切った北部貴族の現状を鑑みれば、何時しかそれは報復を叫ぶ声に変わるかも知れない。


 世論に押し出される形での《スヴァルーシ統一帝国》領内への侵攻。


 悪夢である。

 その状況次第では、その声を押さえ付けるだけの強力な指導者と治安維持部隊が必要となる。

 七武五公にそれが可能か。シュトラハヴィッツ少将以外には、出会ったこともないトウカには判断が付かない部分もある。経歴などで見ると、内戦勃発まで北部貴族との軋轢を放置していた点から、統治者としての資質には欠けていると判断していた。

 故に宗教的象徴としての価値もある大御巫を捕えたいという欲もあるが、それは必須ではない。寧ろ、連携に当たっては邪魔になる。アリアベル殺害によって 額面上の“引き分け”を演出することも有効な一手である。北部の者達は屈辱的な内容での停戦は受け付けないに違いなく、目に見える形での戦果を求めるに違 いないのだから。

「どの道、帝国軍はエルライン要塞で一定期間は押し留めることができる。襲来したならば、要塞に増援を送りつつ諸勢力との交渉になるな」

「まぁ、エルライン要塞の規模を考えるなら、増援さえあれば持ち堪えることはできるでしょうね」

 リシアの言葉は正しい。

 しかし、幾度も侵攻してきた帝国軍が人中の龍がそれに対応していないはずがない。

「それはどうか。恐らく帝国軍はエルライン要塞を高い確率で抜く作戦や兵器を用意しているだろう。だが、エルライン回廊の狭隘な地形が変わる訳ではない。大軍の運用に制限が付き、航空攻撃に対する脆弱性は不変の要素だ」

 最悪の場合でも対応を取れる状況。

 トウカは苦笑と共にそう強調する。

 ――まぁ、酷い男になったものだな。

 狭隘な地形であるということは防禦側も戦力を集中させ易いということでもある。トウカも航空優勢の原則を帝国側が過小評価する様に、情報隠蔽と欺瞞情報を一部の真実を織り交ぜるという複雑な手段で対応していた。

 しかし、情報は流出していると見て間違いない。

 帝国軍は騙されるかもしれないが、人中の龍が騙されるとは思えない。

 恐らくは何らかの手段を講じてくるだろうことは疑いなく、現時点でトウカが予想している手段は、やはり航空騎を帝国中から集結させての防空戦闘であっ た。帝国軍の航空部隊の動向も情報部は目を光らせているが、広大な帝国内に分散している部隊の動向を探るには情報部の陣容は余りにも薄い。

 がりがりと腕を組み親指の爪を齧るリシアに、トウカは追い詰めすぎたのかも知れないと考える。だが、二人は参謀。暖房の効いた一室で北部統合軍の行く末を語るだけの二人に時間を捻出しているのは、戦野で命を擲っている幾多の将兵である。無駄にはできない。

 窓越しに外を見れば再び粉雪がしんしんと舞い降り始めていた。

 雪化粧の施された針葉樹林という植生に馴染みのないトウカからすると、この北の大地に堕ちて以降幾度も目にしているが、慣れることのない幻想的な光景で あった。しかし、降雪など小銃を握り締めて塹壕で緊張状態を強いられている兵士からすれば迷惑なものでしかない。士官からしても、視界が奪われる為に咄嗟 戦闘の可能性が増大する為に負担でしかなかった。

 儘ならないものだ、とトウカは戦域図の上に置かれた無数の書類の山を漁る。

「ハルティカイネン大佐には是非やって貰いたいことがある」

 トウカは目的の書類を見つけ出すと、引き抜いてリシアの前に投げて寄越す。

 眉を顰めるリシアであるが、書類を手に取り幾枚か捲ると小さく笑みを零す。

 御気に召したようである。

 実際に現場で動くのはシェレンベルク中佐であり、統括するのはカナリスであるが、その上位にはリシアが立ち、様々な便宜を図ることになる。

「……つまり貴方が言うところの“人中の龍”を見つけ出せということね?」挑発的な笑みを以てリシアは呟く。

 共に視線を向けるはエルライン要塞……その先にある《スヴァルーシ統一帝国》。

「帝国に意図的に漏らした情報に対して、その確認の為の対応の速度、関連しているであろう言語の盛り込まれた通信内容……これを精査することで“人中の龍”の範囲をある程度は絞り込めたが帝国は広い」

 ある程度の範囲は絞り込めたが、その範囲内に居て尚且つ大規模な帝国北部鎮定軍を動かし得る貴族や軍人、帝族などを紙面化して探し出すのは至難の業であった。帝国の攻勢に間に合わない恐れもある。

「範囲内にはペトラグラードにオルスクシュタット、白亜都市エカテリンブルクなどの大都市も入っている。ある程度で構わない」

 尻尾でも掴めれば“人中の龍”の心胆を寒からしめることくらいは叶うだろうという打算と、帝国の防諜体制を圧迫して皇国内に敷かれているであろう諜報網 から諜報員を漸減することを目論んでのことである。そこには意図的に流出させている情報以外が流れることは避けたいという思惑があった。

「この一件は全てハルティカイネン大佐に任せる。流出させる情報の選択も貴官に一任するが異論は?」

「異論はありません、参謀総長閣下。いえ、ないのだけど……貴方の個人情報の流出は何処まで許されるの? 女にだらしがないなんて流れたら可愛い諜報員が群がってくるわね」

 本気とも冗談ともつかないリシアの言葉に、トウカは言葉を詰まらせた。

 女性の怒りとは、そう簡単に収まるものではないのだ。

 

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 権利の上に眠る者は保護に値せず。

         起源と発言者は不明。法曹界で時折使われる。


 断じて戦うところ死中おのずから活あるを信ず。

         《大日本帝国》陸軍中将、栗林忠道