第一五一話 内戦の終結
「征伐軍は、内戦の終結を以て解体を宣言します」
アリアベルの言葉に、上座に座る総ての文武の高官と貴族達が平伏する。
宗教的象徴でありクロウ=クルワッハ公爵の娘でもあるアリアベルの序列は、この場にいる最高位の貴族よりも更に上位である為、彼らが首を垂れることは不自然な事ではない。
何よりも停戦協定の内容は既に公開されており、領地の安堵と北部防衛の為の“方面軍”の建軍が示されている。北部貴族としては初期の目的を満たしてお り、経済的な締め付けも解消されるとあって反対するものは一人としていなかった。共にフェルゼンでの市街戦で肩を並べて戦った貴族将校ですら、本質的には
強硬派であるにも関わらず賛意を示すのは、凄惨な市街戦を経て抗戦を続ければ北部自体が再建不可能になるという危機感を受けたからに他ならない。
無論、トウカは停戦協定に難色を示す者を武力鎮圧する腹積もりであったが、停戦を見越したマリアベルによって経済支援という大鉈を振るう事が強硬派の貴族達に示されていたらしく、トウカの出る幕はなかった。
トウカは、最期まで政略面ではマリアベルに及ばなかった。
マリアベルは、トウカがどの様な決断を下し、目標をどの様に設定するかなど容易に見越していたのだろう。彼がアーダルベルトを打てない事すら折り込み済みであったのかも知れない。
敵わないと、トウカは、苦笑するしかなかった。
力なく、己の肩に寄り掛かったマリアベル。そこに生命の息吹は感じられない。
物言わぬマリアベルの肩を、トウカは一層抱き寄せる。
涙は既に出ない。流せるだけ流してしまったのだ。そうでなければならない。
アリアベルもいる中でマリアベルの手を握り、泣き続けたトウカとしては、アリアベルに対して気恥ずかしいものがあった。例えるならば、幼馴染に喧嘩で負けたところを見られたような気分であり、自らの脆弱性を他者に垂れ流す趣味などトウカにはない。
面を上げさせた貴族と諸将に説明を続けるアリアベル。
不意に、アリアベルの視線が、トウカへと向けられる。
トウカは鷹揚に頷く。
「北部統合軍は停戦協定の発効を以て解体となる。北部貴族の領邦軍は治安維持に必要な最低限の数まで縮小を行い、必要以上の軍事費を抑制し、その発展に尽くすものとしたい」
予定と想定がされていたとはいえ、堪えるものがあるのか北部統合軍の将官は遣る瀬無さげな表情をしている。無論、中には政府や陸軍の統制の下で北部護持を実現できるのかという懸念を抱いている者もいるはずであり、トウカとて中央貴族を含めて気を許した心算はない。
故に保険は必要となる。
トウカは、マリアベルの亡骸を抱き寄せたままに、貴族達と諸将を睥睨する。
爛々と戦意を宿した瞳。
これからはマリアベルという強大な後ろ盾がない状況で、この北部を護る為に戦わねばならない。銃後が揺らげば前線に影響が出る。そして、中央貴族も帝国も銃後の隙を座視してくれるような相手ではない事は容易に想像が付く。
トウカは、異論を認めない断固たる口調で宣言する。
「そして、北部貴族は削減により生じた余剰戦力を以て陸海空の諸戦力を再度統合し、ベルセリカ・ヴァルトハイム総司令官の下で、一個方面軍を編制する。この一個方面軍は陸海空の統合編制に鑑みて当面の間は大御巫の直卒となる」
『!!』
トウカの宣言に、爵位と階級、種族に問わず、大きなどよめきが広がる。
端的に言うなれば、北部貴族の各領邦軍を治安維持だけを目的として最低限にまで縮小し、余剰戦力を以てして一個方面軍を編制するという事である。総司令 官はベルセリカであり、総司令部や参謀本部もまたそのまま移籍する形となる。ただ形式上は陸海軍に分かれて所属することになり、予算や武器弾薬などの共通 化が一層図られる事になっていた。
これの意図するところは明白である。
陸海軍に北部防衛のための軍事組織の予算を供出させつつ、その軍事組織の要職を北部出身の人材で囲い込む。それによって陸海軍の指揮系統から離脱する事も容易くはなり、その上、統括者に大御巫であるアリアベルを据える事で責任が生じた際の身代わりとする。
アリアベルもまた軍事力を欲し、帝国との決戦に備える必要性を感じているのだ。
陸海軍の説得とて各種兵器や軍事技術の提供を以て望めば難しい事ではない。大蔵府の官僚も帝国との決戦に備えた再編成だと判断させれば臨時予算を編成するだろう。
双方共に心情はどうあれ、連携する必要性は感じている。無論、最大の問題は、その心情こそにあることはトウカも理解している。
停戦協定の締結に向けた交渉が重ねられつつある現状でも、フェルゼンやその近傍では下級部隊や兵士の独断が絶えず、一個中隊規模の乱闘も報告されている。この鎮圧の為にレオンハルトやフェンリスと今暫くは顔を合わせずに済むことも素直に喜べない現状であった。
故に、アリアベルを新たな軍事組織の名目上の頂点に据える事は、宗教的な統合を図るという意味もある。当然であるが、宗教などという銃弾や食糧の代わり にもならない主義主張は北部で幅を利かせている訳でもなく、効果は極めて限定的であろう事は疑いないが、対外的な印象操作としては悪くない。
こうなると、マリアベルの影響によって残酷なまでに現実主義的な教育制度を主体にしていた事が仇となる形であるが、現実的な彼らは思い知るだろう。帝国軍という軍事的圧力によって。
「諸兄ら、静まるがよい」
ベルセリカが、上座近くに席を移して正座する。
多くの貴族や諸将は、神州国伝統の造りをした広間に配慮して、胡坐を掻いている。
皇国文化は、今は亡き《大帝国》と神州国文化を源流とし、初代天帝の祖国であった文化を取り入れた文明であり、地方や仕える貴族、種族、奉じる神々に よって、実に多種多様な様式と価値観を持つ複雑怪奇な国家と言えるだろう。貴族や有力者の嫡子の教育には、公の場で相手のそうした部分に合わせた対応など も含まれており、嫡子達を日々悩ませていた。
そんな中で、神州国の様式は下座に座る者は胡坐が基本であった。
胡坐という体勢は抜刀などの動作に移るには難しく、自らに叛意がないと示す座法として神州国では一般的であった。そして、その場で正座をするという事は 隔意があると宣言するに等しく、その場で咎められるだけでなく、神州国では斬首という可能性も十分あり得る。しかし、それでも尚、正座を選択し、主君がそ
れを黙認するという事は、それだけの信頼を向けられているという事でありその場で刃を振るう赦しを得たに等しい。
トウカは、ベルセリカを一瞥する。
表情は位置的に窺えないが、その背中は無防備に晒されている様に見え、絶対の信頼をその身で体現している様に見えた。
だが、高位種の能力は座法や立ち位置程度で損なわれるものではなく、だからこそそれは断じて信頼の証足り得ない。ある意味、皇国という国家は、信頼を他 者に示すのがこの世界で最も困難な国家なのかも知れない。その種族的差異ゆえに、命を賭す“程度”では信ずるに値しないと考える者も少なくない。高位種に とって戦野でその身を賭す事すら低位種よりも難易度が低い行いに過ぎないのだ。
強者たる高位種が、弱者たる低位種に信頼を示す事は極めて難しいのだ。
だが、トウカは鷹揚に頷く。
彼は信じねばならない。自らの命令で戦野に赴き、自身に似合わない総司令官職を押し付けたベルセリカに対して、思うところがあるという理由もあるが、自身の命令で多くを斬り捨てた者に対する義務でもあった。無論、軍人としての義務ではなく個人としてのものである。
トウカは、アリアベルに視線を投げ掛ける。
緊張の面持ちで、アリアベルが頷く。
「では、次期ヴェルテンベルク伯爵を、マリアベル様の遺言に基づき、発表したいと思う」
その一言に、広間の空気が震える。
次期ヴェルテンベルク伯爵。
即ち、マリアベルの一切を受け継ぐ者。
強大な軍事力と絶大な経済力、広大な領地……あまりにも多くの権利であり権力である。それを継承する者が誰か、そしてその者がどうした行動を取るのかと いう点には注目が集まっていた。マリアベルが継承者を決めていたという事実や、この問題でヴェルテンベルク伯爵家が割れる可能性と起こり得る混乱に対する
警戒。そして、幾許かの権益が譲渡とされるのではないかという僅かな期待。智謀に優れたダルヴェティエ侯爵などは自身が利益を得られるように動くかもしれ ない。
無論、トウカはそれを許さない。
断じて武力を用い、意思を貫き徹す心算である。
一度、頼ってしまえば、武力というものが恐ろしいまでの即効性を有する事は嫌でも理解できる。そして、それに依存しなければ、この戦乱を生き抜く事はできない事もまた同様である。ならば徹底的に依存するべきなのだ。
その血に塗れた呪いに依存し、酔い、惑うべきなのだ。
「貴官らは何を騒ぐ? これは既に決定していることであり、マリアベル様の決定でもある。貴官らが騒いだところで、この決定に何ら影響を与えるものではない。……それとも、ヴェルテンベルク伯爵家の継承問題に貴官らは干渉する心算か?」
トウカの鋭い視線が無遠慮に広間を睥睨する。
騒乱は許さないし、認めもしない。
トウカの言葉に合わせて、広間に沿って誂えられた縁側と、その先に広がる庭園に、中隊規模の重装鋭兵が雪崩れ込む。
武装に対戦車小銃や対戦車擲弾筒、砲戦型魔導杖などの長物を手にし、魔導甲冑に身を包んだ重装鋭兵は、漆黒の魔導甲冑に顔面を防護するための面具に爛々と光る一対の赤い瞳もあって悍ましさすら感じさせる。
彼らは、マリアベルが保有していた秘匿戦力でもある。
その主任務は、汚れ仕事であり、暗殺や誘拐などの、正規の軍人を投入的できない任務に当てられ、ヴェルテンベルク領発展期を陰から支えた情報部と双翼を成す非正規戦力。それが〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉である。
情報部と類似した任務を帯びる彼らだが、その内容は重武装による制圧や強襲、殲滅行動も含まれており、情報部の実動部隊よりも正規軍よりの任務に投じられる傾向にある。
そして、停戦とマリアベルの逝去に合わせて〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉は、ヴェルテンベルク領内での征伐軍輜重線に対する破壊活動という任務を中断し、このベルトラム島へと馳せ参じたのだ。
トウカは、〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉をこの時初めて知った。
マリアベルの逝去によって、その指揮権が宙に浮いた為、次席指揮官として内々に決定したトウカに指示を仰いできた彼らに与えた命令は一つ。
ベルトラム島内で軍事行動が確認された場合、之を全力で鎮圧せよ。
唯、それだけである。
彼らは任務に忠実である。
マリアベルは、彼らの存在を秘匿していたが、トウカは抑止力として積極的に見せ札とする心算であった。無論、次期ヴェルテンベルク伯が如何様に扱うかは、トウカの知るところではないが。
「……それでは、話しを続けて宜しいか?」
〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉の面々が放つ威圧感によって、沈黙を余儀なくされた面々を今一度睥睨したトウカは鷹揚に頷く。
「大御巫……では、御頼み申します」
アリアベルが発表した方が信頼を得られるとの判断は既に、二人の間で合意が取れている。
騒ぐ莫迦共を黙らせる為、〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉を伏せていたことは教えてはいないが、この程度で狼狽えるようならば脅威足り得ず、またマリアベルの妹として認める訳にはいかない。
アリアベルは、案の定、眉を僅かに顰めただけで感情を揺らす事もない。軽い神輿は担ぎ易いと言うが、七武五公や政府、中央貴族に次期ヴェルテンベルク伯 爵の就任を認めさせ、グロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵領を安堵させるにはそれなりに打たれ強い神輿でなければならないのもまた事実。トウカが勢 いよく担ぐだけで砕けてしまっては意味がないのだ。
宗教的象徴であるアリアベルの権威は、軍の階級序列や貴族の宮廷序列とは別の系統に属している為、こうした場面では非常に役に立つ。
大多数の思考に根差した信仰は、その多寡にもよるが、大多数の行動を画一化させる。
諸将や貴族達が姿勢を正す。
北部の者達の信仰心は他地方の者達と比して幾分かの陰りがあるが、それでも咄嗟に姿勢を正す程の権威は持ち合わせているのだ。
しかし、アリアベルの口から放たれた一言は、広間を再び喧噪の渦に叩き込む。
「次期ヴェルテンベルク伯爵は……天狐族のマイカゼ殿に任せる、と先代ヴェルテンベルク伯よりの遺言です」
青天の霹靂とは正にこのこと。
無論、トウカは事前に知ることが叶った為に驚きはしないが、それでも知った当時は驚いて呆けた顔を晒してしまった。
だが、考えてみれば不思議な事ではない。
ライネケでは、マリアベルもマイカゼも初対面とは思えない会話をしていた印象がある。或いは、それなりの交友関係と、双方が信ずるに値する出来事でもあったのかも知れない。
アリアベルの求めによって広間の中央を歩み、上座へと進み始めたマイカゼを眺めて、トウカは胸中で溜息を一つ。
――マリィ……確かに俺に対する隠し事はしないと言っていたが。
聞かれていない事は徹底的に放置したのだろう。聞かれれば答えたに違いない。だが、聞かれていない事柄は徹底的に隠匿していたに違いない。
〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉にマイカゼとの関係……恐らくは、トウカに伝えていない事は未だ無数に存在するのだろう。そう考える と、己の腕の中で物言わぬ骸となっているマリアベルの表情がしたり顔をしている様な気がして、トウカはマリアベルの前髪を撫で付けて苦笑するしかない。
上座のアリアベルの前で、今一度、座り、平伏するマイカゼ。
「天狐族マイカゼ殿、貴殿にグロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵位を授けます。これを受けますか?」
アリアベルの問い掛けに、マイカゼは頭を垂れたたままに応じる。
「天狐族のマイカゼ、グロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵位、謹んでお受け致します」
即答であった。
本来、爵位の継承は、政府と宮内総監の認可を受けねばならない。それを斟酌した様子もない以上、マイカゼには皇国内の大多数の勢力に、自身がヴェルテン ベルク伯爵位を継承する事を認めさせるだけの自信と手札があるのだろう。天狐族という建国に尽力した種族を邪険に扱えば外聞が悪いこともあるが、それだけ では次期ヴェルテンベルク伯爵の地位を盤石ならしめる事は叶わない。
――後で今後の方針を話し合う必要がある。
方面軍新設での負担や予算配分、編制に加えて中央貴族や七武五公との連携も図らねばならない。挙国一致体制の中で、それなりの派閥として利益と権利を享 受する立場となり、雌伏の時を過ごす事が大前提となるだろう。少なくとも内憂と見られない程度には、利益を他勢力に還元していれば排斥される事もないはず である。内戦の為、資金を浪費した勢力は少なくない。付け入る隙とて十分にある。
「では、大筋の決定を伝えたいと思います。まずは――」
アリアベルの口から数々の決定が伝えられる。
それは眠気を誘うものでもあったが、トウカはこの後に起こるであろうヴェルテンベルク領の取り纏めに加わらねばならないので気が重かった。
「しかし、随分と上手く立ち回りましたな」
初老の紳士然とした将校の言葉に、トウカは苦笑するしかない。
しかし、胸中では茶を啜りながら縁側で老人と二人で会話をせねばならないのかと苛立ってもいた。
マリアベルの逝去に伴うヴェルテンベルク領内の混乱への対策を議論するとマイカゼは、ヴェルテンベルク伯爵家家臣団と政務部、領邦軍司令部の面々を呼び 付けたのだが、トウカは呼ばれず広場でマリアベルを抱き止めて沈黙を余儀なくされた。だが、何故か同じく暇そうにしていた老人の世間話に付き合う事になっ たのだ。
「リットベルク大佐……其方の実情に鑑みた現実的な取引だったと思うが?」
一度、トウカに殺され掛けたことなど思わせない口振りで柔らかく微笑む初老の将校……リットベルクに、トウカは憮然とした表情を向ける。
征伐軍と北部統合軍の利害が一致したからこその停戦であり、内戦の終結によって征伐軍が解体される以上は、方面軍の成立とそれを後ろ盾とする事はアリア ベルにとっても望ましいことである。本来、アリアベルが自前で有している軍事力とは神殿騎士団一個聯隊程度であり、征伐軍は内戦という国難に対して特設さ
れた軍隊である以上、維持し続ける事は難しい。故にアリアベルは自らが影響力を及ぼし続ける事のできる軍事力を欲しているのだ。もし、軍事力が無ければ、 アリアベルはこの内戦に於ける罪を問われた際、これを退け得る事ができず失脚する。
どうしようもない権力闘争に巻き込まれる。
罪を償わず、罰を踏み倒し、利益を貪り、権利を奪う。
醜い舞台に赴かねばならないと考えていたにも関わらず、拍子抜けしたトウカは、物言わぬマリアベルを抱えて、リットベルクと相対する事になった。
正直なところ、トウカは話すことなどない。
トウカは抱えたマリアベルの頬を撫でる。
「俺は軍務から退くべきかも知れない」
ふと、そんなことを思う。
考えてみれば内戦が終結した以上、最大の脅威は帝国となり、七武五公や諸貴族、政府などは同勢力となったに等しい。正面切って敵対する相手が《帝国だけ となり、しかも主要な戦場はエルライン回廊やエスタンジア地方という限定空間である以上、兵力差による一方的な劣勢とはならないだろう。
トウカがいる必要などない。
航空優勢の原則を示し、装甲部隊の価値を知らしめた為に陸海軍でもその分野に対する研究は始まっているだろう事は疑いない。十分に皇国の優位性を確保してくれるだろう事は疑いない。皇国陸海軍司令部の能力は、トウカの見たところ決して低くはなかった。
悪くない、とトウカは思案するが、リットベルクは何とも言えない表情をしている。
「手にした栄光と階級を捨てて隠居すると? それは、なかなか……」
権力によって生かされ、多くを従える立場を易々と捨てることなど、貴族やそれを守護する者達には認め難いのだろう。あらゆるチカラを手に、体制を守護する事こそが彼らの使命なのだ。
だが、トウカは違う。
ミユキの生存圏である《ヴァリスヘイム皇国》を継続させる為なのだ。
マリアベルが喪われた以上、ヴェルテンベルク領に拘る必要もない。
何より、マイカゼであれば政戦で下手を打つとは思えない。
現時点で当初の目標は達成しつつある。北部の政情が盤石となり、対帝国戦役に備えた後方策源地となれば帝国に後れを取る事はない。そして、帝国の情勢を 見るに崩壊は近い。叛乱などの連続で分裂し、皇国の脅威と成り得なくなる可能性が高いのだ。共産主義的な勢力の下で再び一国に統一され、強大化する事さえ 注意していればいい。
トウカは苦笑を零す。
「最早、余程の下手を踏まねば大丈夫だろう……大御巫は兎も角、七武五公もいる」
暗にアリアベルには国政を預けられないと、トウカは言っているのだが、リットベルクは好々爺然とした笑みを浮かべるだけである。
トウカの心配はその点のみであるが、七武五公がそれを許すはずもなく、政教分離の大原則を逸脱したアリアベルに国政を委ねるとも思えない。
考えれば考える程に問題はない。
新設される方面軍は陸海軍と連携しつつ、最終的には高度な紐帯を見せる事になる。アリアベルは最終的には必要ですらなくなる。
決してマイカゼに、ヴェルテンベルク領の運営に関わる事を許されないから拗ねたなどという事はない。ロンメル子爵領の領邦軍司令官として、ミユキの傍で緩やかな日々を送るというのも悪くないと考えているだけである。
マリアベルを喪った為か、トウカの胸中で燻ぶっていた野心は萎えてしまった。
無論、マリアベルが望んだ皇国の保全やヴェルテンベルク領の護持は行わねばならないが、トウカが決定的な立場であり続ける必要性はない。要職にトウカの発言に耳を傾ける者が就けば良いだけである。
権力でもマリアベルを救えなかった事は明白であり、寧ろ寿命を縮める理由となった。ならば北部の安全が確保されたのであれば、身を引くことも一つの選択 肢である。ベルセリカの身の振り方が些か面倒であるものの、元より五〇〇年以上も厭離穢土を決め込んだ人物である。内戦の終了と共に姿を消しても、周囲を 納得させる事は難しくない。
もし、状況が急激に変化したならば、ヴェルテンベルク伯爵となったマイカゼや、ロンメル子爵であるミユキもいる。エルゼリア侯爵やダルヴェティエ侯爵とも面識を持っているので、意見具申くらいは皇国の統治機構に押し込むのは難しくない。
トウカは、マリアベルを一層強く抱き締める。
マリアベルの遺体は焼いた後、シュットガルト湖に灰の全てを撒く事が決まっている。その上、マリアベルの遺品や私物も同様に完全に処分するとの事で、痕 跡を残してはならないという遺言に基づくものであった。自身を偶像化する流れができた際、その憑代となる物的象徴を残しておきたくないという考えからであ
る。同時にマイカゼに対する配慮であり、マリアベルという幻影を追い掛ける者が出る事を可能な限り防ぐ為でもあった。何時の時代も、嘗ての強大な指導者を 賛美し、それを信仰に政治的支持を得る者がいる。マリアベルの懸念は分からなくもない。
死して尚、誰かの為に舞い踊り続ける義務などマリアベルにはないのだ。
だが、在りし日の貴女を思い出す欠片くらいは遺して欲しい。そう、トウカは、切に願う。
トウカは、マリアベルの紫苑色の髪に添えられた桜華を模した花簪を静かに抜き取ると、自身の軍装の胸衣嚢へと差し込む。
その行為を黙って見ていたリットベルクは、話題を変える為か、トウカに訊ねる。
「ところで、貴官に聞きたいことがあったのだが……」
「どうぞ」短く、トウカは承諾する。
恐らくは、これこそが本題だったのだろう。トウカの腕に抱かれたマリアベルに遠慮したのか、或いは縁側の端で控えているベルセリカに警戒していたのかは分からないが、意味のないことである。
リットベルクは、暫くトウカを見つめていたが、ふむ、と頷いて話を切り出す。
「貴官がこの停戦を主導したと聞いていますが、それは事実ですかな?」
「いかにも。幾度か進言してもいます。長期的に見た上で利益を得るのは停戦であった。それだけのこと」
停戦をトウカが主張した事を驚く者は少なくない。
次々と新兵器を投入し、新機軸の戦闘教義で征伐軍を翻弄し、強硬的な発言と何よりもマリアベルに重用された者として名を馳せたトウカは主戦派と見られがちである。完全な派閥を形成していれば、裏切り者扱いを受けていた事は間違いない程の方針転換と見えなくもない。
だが、逆にそう見られていた者が停戦を口にしたからこそ、皆が考える機会を得たのだ。
そもそも、トウカはマリアベルの目的とヴェルテンベルク領の利益が折り合いの付く部分を模索し続けただけであり、決して主戦派であった訳ではない。継戦にしても停戦するにしても、持ち得る全てを投じての全力であっただけである。
「武勇に優れた貴官が武力以外で利益を模索すると? なれば武人としての名誉は何処にあるので?」
リットベルクの言葉に、トウカは騎士の時代が終わりつつあるにも関わらず、騎士としての生き様を貫こうとしているリットベルクを心底と憐れむ。ベルセリ カは既に悟っているのか、機械化と効率化の果てにある騎士の時代の終焉を受け入れているのか、誇りや名誉などと言うものを口にせず、それに行動を左右され ることもない。
だが、皇国陸海軍を見れば騎士の時代……騎士道にしがみ付こうとする者は少なくないだろう。リットベルクは利益に対して一定の理解を示しつつも、騎士道を捨てられない事を自身で理解しているが、大多数はその突然の変化に対応できない。
突然の変化を齎したトウカが、口にすることも筋違いであるかも知れないものの、急速な変化を受け入れられない騎士達は立場を追われることになるだろう。
最早、騎士の時代ではなく、軍人の時代なのだ。
このまま外圧を受け続ければ貴族の権勢が弱まり、天帝を戴く政府に権力が自然と集中するとトウカは見ている。特定の貴族に権力が集中するのは、先の内戦 の様な貴族同士の衝突が発生するという懸念を再び生じさせる理由にもなるのだ。皇国が内戦によって受けた経済的損失は大きく、北部が最大の被害を受けてい
るとはいえ、他地方もそれ相応の被害を受けている。最早、内戦を続けたいと思う諸侯は少ないだろう。
そして、これ程までに北部が抵抗した理由の一端が七武五公や中央貴族の専横にある以上、政府は分散した権力の奪い取る好機であり、多くの諸侯もそれに賛同するだろう。
政府の統制が強まれば、諸侯の尖兵としての側面が強い騎士達の活躍の場は減る。波打つ近代化の流れに、摩滅し往くのは避けられない。それが、統治機構た る国家が選択するに相応しい結果なのだから。もし、それを選択しないというのであれば、それは亡国へと続く事を意味する。
「貴官の思われるところの名誉は今尚、北部統合軍にとって実在し続けています」
真実であるから、それに対応した行動を取らねばならないという訳ではないが。
「ならば、なぜ停戦を?」
決まっている。継戦による利益よりも停戦による利益が上回ったからである。無論、マリアベルの愛すべき我儘と、北部の貴軍官民の意地に付き合った為、些かの妥協があったことも否めないが。
「小官が与えられた任務は達成された」
マリアベルは、アーダルベルトの殺害を望んだが、トウカは重傷を負わせる事が限界でその時点で手札の全てを失った。
トウカの妥協をマリアベルは言及しなかった。寧ろ、重傷を負わせられたのであれば上出来だとすら言い切った。マリアベルもまたアーダルベルトを殺め得る可能性が少ない事を理解していたのだ。
だからこそ停戦は認められた。ある意味、トウカは自身の限界をマリアベルに見透かされていたと言える。
「だが、誇りは如何なる?」
僅かに茶化したかのような雰囲気のあるリットベルクが、髭を撫で付けながら興味深げに訊ねる。
――詰まらない返答ではそれこそ詰まらない。誇りを問うことなど無意味であると知っているであろうに。誇りだと? 莫迦者が。
トウカは、自身の寄り掛からせたマリアベルの頬を撫でる。
慈しむ女性の頬は冷たい。
トウカは、この女性の笑顔を護れなかったのだ。
闇夜に在って、黒に犯されぬ月輪を見上げる。涙が零れぬ様に。
「同じ神龍達から排斥され、それでも尚、辺境の地で咲き誇る一輪の紫苑桜華こそが我が誇りなれば。そして、その紫苑色の主君が微笑む事が叶うのであれば、それこそが誇りに他ならない」
マリアベルが得意げな笑顔で乱世の梟雄であり続ける事こそが誇りであった。トウカだけでなく、このヴェルテンベルク領に住まう者にとっても同様である。
だが、その誇りは喪われた。永遠に。
故に、トウカは隷下の遺された者達を考えねばならない。
「或いは、もし貴官ら騎士達が奉ずるところの誇りとやらが、指揮下の将兵を最も多く救える“戦術”足り得たのであれば従っていたかも知れない」
堂々と言い切る。騎士の誇りなど糞喰らえである、と。そんなもので、女を笑顔にできるのか?と。
近代化の最前列を血塗れで走り抜ける軍人ですらできないのだ。
大御巫の涙に良い様に使われ、無謀な戦いに赴いて勝手に死ぬ騎士共の誇りなど毛程の価値もない。自分の墓穴を掘る為に誇りが必要と考えるのであれば、態々、弾薬を浪費してまで歓迎せねばならない側の身にもなって考えて欲しいものである。
悲しみと怒り。
どう発露させて良いか、トウカには分からない。
「小官にとり誇りや名誉という明確でない、所属する勢力に確実な利益を齎すか否か不明瞭である、それの為に将兵を無為に喪うは恥ずべき行為だ」
当然だ。陸海軍が政府の統制を離れ、宗教勢力に迎合するなど性質の悪い冗談である。共産主義者ですら卒倒しかねない茶番劇ですらあった。否、共産主義自体が政治宗教でもあるので、ある意味、親類かも知れないが。
誇りや名誉などを依って立つところにした指導者層が、軍事行動を行った結果という側面がこの内戦にはある。国家統制を軽視している点は祖国と変わらないが、その軽視している者達が自前の軍事力を持っているとなれば冗談では済まない。
――ああ、どうやら立ち止まるのは、まだ早いようだ。
「例え、国家が刻み続けた久遠の歴史と、そこに住まう民衆が紡ぎ続けた伝統が矜持や名誉による犠牲を赦しても、俺がそれを許容する理由には成り得ない」
マリアベルの犠牲が大多数に赦される現実など、トウカには断じて認められぬ事である。
彼女の死は誰もが赦し難いものであらねばならないが、それを理解できぬ者も多い。
喪った者が多大なるを理解させねばならない。
よって、有象無象の権力者を掣肘せねばならない。
――国家を統制せねばならない。
彼女が愛したモノを護持する為にも。
トウカは視線を月輪から下ろし、リットベルクを見据える。
戦いは、まだ終わらない。