第一四一話 シュットガルト湖畔攻防戦 7
「ち……いえ、クロウ=クルワッハ公爵は何処へ?」
アリアベルは、征伐軍総司令部として機能していたはずの周囲を見渡して、背後に控えているエルザへと問う。
征伐軍総司令部は、〈装甲教導師団〉 による機甲突破の正面に位置しており、暴風が吹き荒れるが如き被害を受けた。不幸中の幸いであると言えるのは、〈装甲教導師団〉の最大の目的が砲兵戦力の
漸減と、ベルゲンを半包囲している征伐軍部隊の後背を突くことである為、総司令部への攻撃が一撃離脱に近いものとなったという事である。多くの被害が陸上 戦艦や自走砲、突撃砲による事前攻撃によるものであった。幸いな事に主目標がベルゲンを半包囲している征伐軍部隊後衛の重砲戦力であった為、兵員輸送車よ
り降車した装甲擲弾兵部隊と交戦するという状況が実現せず、歩兵戦にならなかった。もし凄惨な歩兵戦が行われれば“引き分け”に持ち込む事すら叶わなかっ たかも知れない。それ程に征伐軍の混乱は酷いものである。
陸上戦艦二隻は、レオンハルトとフェンリスが交戦しており、もし征伐軍総司令部付近での混戦が続いていたならば、アーダルベルトは防戦に徹せざるを得なかっただろう。
しかし、彼らは現実的な選択をした。故にアーダルベルトは遊兵化したのだ。
アリアベルの護衛にはレオンディーネを隷下とした司令部直轄装虎兵大隊がおり、強行索敵軍狼兵中隊や、集成歩兵中隊も周辺の残存兵力を統合し、三個ほど再編制中であり、それらが充てられている。
征伐軍は甚大な被害を受けつつある。
総司令部の壊乱に加え、指揮統制が崩壊した状況での主力部隊への背後からの奇襲。
総兵力では遙かに優越しているはずの征伐軍だが、フェルゼンという巨大な城塞都市を半包囲する為に広域展開されており、広く分散されていた。
各所撃破というには生温い鋼鉄の暴風。
装虎兵も軍狼兵も、跨乗していなければ速度を発揮できず、単騎では統制の取れた反撃や抵抗は不可能である。しかも、既に市街戦となりつつあり、軍狼兵や 装虎兵の出番は少なく気も緩んでいた事に加え、それらに跨乗する魔導士すら市街戦への投入が始まりつつある状況で万全な体制のはずがなかった。
最初に攻撃を受けたのは、陸軍〈第二七歩兵師団『リンダーホーフ』〉所属の〈第四七二装虎兵大隊〉であった。
緒戦で被害を受けたケーニヒス=ティーゲル公爵領邦軍、〈重装虎兵師団『インペリウス・ティーガー』〉の代替戦力として、即応態勢を維持していたが故に真っ先に攻撃を受けた。
包囲作戦の性質上、機動力は重視されておらず、歩兵主体の封鎖が主体であり、しかも防護壁が双方の交戦を限定的なものとしており、外周を取り囲んでいる部隊の大半は防護壁越しの野砲や重迫撃砲による応酬に留まっている。
その状況では、油断することは止むを得ない事と言えた。
北部統合軍最精鋭とされる装甲部隊、〈装甲教導師団〉の奇襲は流れるように無駄がなく、即応態勢に在った、或いは素早く少数での抗戦に転じようとした軍狼兵部隊や装虎兵部隊を優先的に撃破した。
防護壁により北部統合軍がこの好機に挟撃の構えを取れない事が、最悪の状況の中での唯一の救いであった。元より北部統合軍側も、一週間以上も続く市街戦に指揮系統が各所で分断され、大規模な反撃に打って出る程の余裕はないのだが、アリアベルはそれを知らない。
「予想されている通り、フェルゼンの敵軍総司令部への攻撃に向かわれたのかと。例え、ヴァルトハイム卿を討ち取れずとも、総司令部とされている施設を制圧すれば戦意が下がる……という思惑だと思います、姫様」
「その時点で停戦を切り出して有利な条約を強要する……きっと無理でしょう」
アリアベルとしては、トウカが七武五公という強力無比な戦力を見落とし、拘束する策を用意していないと考える程に楽天的ではなかった。無論、アーダルベ ルトを拘束し得る策というのが存在するのかという疑念もあったが、ベルセリカが存在するだけで五分に持ち込める以上、遅滞防禦という可能性とて皆無ではな い。
――時間の捻出……やはり、帝国の介入を待っていると見ていいのかしら?
悩むアリアベルだが、再編制と指揮統制の回復が急がれる状況で、総司令部要員に意見を求める訳にもいかず思考を打ち切る。
「指揮統制を回復させます。総司令部はこれより周辺友軍戦力を糾合しつつ、フェルゼンに陣地転換を」
一切合財、総てを投じて圧力を掛けるしかない。
正門は既に大きく損傷しており、突破口として十分な広さを持つ。アーダルベルトが単騎で向かっているが、後詰めとして総力を投じる事で総攻撃に見立てることはできる。
「……御主、本気か?」
「クロウ=クルワッハ公爵の居ない今が好機でしょ? それに……もう限界よ」
既に征伐軍の被害は、皇国の軍事学に於ける“全滅”の判定損耗率四〇%に近づきつつある。戦線離脱や負傷者を含めた数であるが、それでも“一地方軍”との衝突で生じる犠牲者数ではない。
「御父様が下手を打ったら、直ぐに停戦の使者を送ろうと思うの」
アーダルベルトの圧倒的なまでの戦闘能力が押し切るか、トウカの神算鬼謀と称される智謀が押し返すか。
どちらの展開となっても最早継戦は不可能であり、これ以上の戦闘は皇国の政戦に致命的な傷を残す事になる。問題は北部統合軍が既に私怨での徹底抗戦を決 意している可能性があり、帝国軍襲来まで統治機構が健在であればいいと割り切っているならば軍を磨り潰す事は既に許容済みと考えている可能性がある事であ る。
よって交渉に下手な使者を送る事はできない。
「爺やに任せましょう……ねぇ、爺や?」
視界の隅で女性従兵から黒茶を受け取り談笑しているリットベルクは、未だ自身が怪我人であることを免罪符に総司令部内で仕事もせずにのんびりとし続けて いた。奇襲を受けた直後ですら混乱する女性従兵を呼び止めて、「御嬢さん、もう一杯貰えるかね?」などと言うところは、若しかするとトウカと通じる部分が
あるのではないかとアリアベルには思えるが、皮肉屋がこれ以上増えては叶わないと思考を打ち切る。
「この歳で寒中水泳をさせられた挙句、斯様な重責を任されるとは……爺やは嬉しゅう御座いますぞ」朗らかに笑声を零すリットベルク。
何処までが本気で、何処までか冗談かも計り難い微苦笑に、アリアベルは鷹揚に頷く。これほどまでに皮肉を口にできるのならば、使者としても十分に使えると判断した。
七武五公の居ぬまに停戦を主導すべく、アリアベルは周囲の将官へと次々と命令を下していく。文官がいない為に停戦条項の成立などで苦労する事は間違いな いが、そもそもの内戦の発端が、建前上では皇国内での武装組織による衝突なので、文官が口を挟まないことはある意味当然と言えた。双方の行為は皇国憲法 上、明らかに違法であり、もし政府の文官などを挟んでしまえば面倒が増える事は間違いない。
動乱の時代、統治機構は武勇に秀でた者によって統率されるべきである。即応性に欠ける文官など、今は必要ない。
アリアベルは、エルザによって肩に掛けられた千早の襟を引き寄せ、未だ火種の燻ぶる雪原を歩く。
魔導車輌や火砲、軍需物資などが無造作に雪原へと打ち捨てられ、炎を燻ぶらせて黒煙を立ち上らせている光景は世界の終末を演出しているかの様である。し かし、軍人からすれば然して珍しい光景でもないのか、誘爆する可能性のある対象の優先的な消火や、無事な火器の点検と人員の再編制が慌ただしく行われてい
る。無論、負傷者の治療なども行われているが、本来ならば後送するべきであるものの、後方であるはずの征伐軍総司令部が奇襲を受けたとあっては安易に後送 する訳に行かない。後方と考えていた場所すら北部統合軍の有力な戦力が潜んでいるかも知れない。
アリアベルはふと視界の隅に捉えた、雪原に擱座した装甲車の陰で足を投げ出し、力なく腰を下ろして俯いている兵士を見て足を向ける。
ほんの気紛れである。ここでアリアベルが声を掛けずとも、再編成を指揮している者達が見逃すはずもなく、負傷しているのであれば座視する訳にもいかないという人並みの良心からの行動であった。
「貴方、動けないのですか?」
見下ろす形で問い掛けるが、言葉は返ってこない。
怪訝に思ったアリアベルはしゃがみ込むと、その肩を叩くが、兵士は力なく身体を傾いで雪原へと上半身を投げ出した。
慌てて肩を叩いた手で兵士を追おうとするが、背後からの制止の声に手を止める。
「やめるのじゃ……其奴はもう神々の御許に召されておる」
振り向けば、レオンディーネが力なく首を横に振る。
今一度、兵士を見てみれば、脇腹から少なくない量の失血をしている。触れた手は冷たく、最早その身体に魂魄の息吹は感じられない。この氷雪舞う戦野で は、激しい戦闘が継続されているが故に、双方が遺体を弔う事もなかった。塹壕や遮蔽物では遺体に埋もれながらも小銃や機関銃を手に北部統合軍将兵は抵抗し
ているともアリアベルは聞いており、雨季や夏期であれば腐敗が早い為、伝染病は確実であったと軍医参謀が顔を青くしているという報告も受けている。
不意に、亡骸となった兵士の手から何かが雪原へと落ちる。
「これは……栞?」
アリアベルが拾い上げた栞は、高貴なる白とも称される花を押し花としてあしらった上品な造りのものであった。明らかに女性の手によって作られた手作りのものであり、その柔らかな雰囲気を見るに恋人からのものとみて間違いはない。
アリアベルは、栞を物言わぬ兵士の胸衣嚢に仕舞うと立ち上がった。
「往きましょう……彼らを故郷に送り届ける為にも」
きっと自分は煉獄に堕ちるのだろう。そうした考えを抱くこと自体が無意味であり、非生産的なことであるとはアリアベルも理解しているが、自分を同じ立場にある少年を思い出す。
――あのヒトはどう考えているのかしら?
サクラギ・トウカ。
この内戦は、アリアベルとトウカの衝突でもあった。
実質的に全軍を影響下に置いていた二人の争いは、被害の上では軍事的才覚に勝るトウカが圧倒していたが、総兵力で勝るアリアベルが戦線を無理やりに押し上げることで、戦局面では互角以上に持ち込んだ。
共に多くの将兵に死を齎した。
彼は辛くはないのだろうか?
彼は悩んでいないのだろうか?
彼は後悔していないのだろうか?
アリアベルは、自らの背負う総てが途轍もないほどの重みである事を、この内戦を通じて理解しつつあった。これ以上ない程に《ヴァリスヘイム皇国》という国家を大きく感じ、そして政戦の難しさを知った。平穏を維持するは難く、繁栄を齎すは更に難い。
それらには勇敢であることや果断である事は確実に必要なことではなく、ただ確実な方針とそれを実現する為の頭脳こそを求められる。有能な人材の登用で補い得る部分もあるが、アリアベルにはそれができず、マリアベルはサクラギ・トウカを引き当てた。
――姉様は、どうやってサクラギ中将を配下に加えることができたのかしら?
それは北部統合軍最大の謎である。
マリアベルに迂遠とは言え、軍権の一切を任されたことからもその信頼感は窺える。
軍務卿にマリアベルが就任していることから、トウカはマリアベルの責任によって参謀総長として戦略指導をし、北部統合軍総司令部にすら権勢を及ばせてい る。ベルセリカが征伐軍最高指揮官として就任した背景には、総司令部内にいる他領邦軍の将官を押さえ付け、トウカの作戦指導に対して横槍を入れない様にと の配慮である事は疑いない。
サクラギ・トウカの真価はその軍事的才覚ではなく、政治的強運であるとアリアベルは考えていた。
マリアベルとベルセリカの後ろ盾を得て、短期間で軍権を掌握し、政治的な横槍を一度たりとも受けず、寧ろ、北部貴族内で存在感を示している。その上、軍 事にも造詣が深いシュトラハヴィッツ少将や、政治的に無視し得ない発言権を有するダルヴェティエ侯爵の横槍を受けた形跡が少なくとも公式的にはないのだ。
つまり、完全に政治的な圧力を抑え込んでいると言える。
後背の中央貴族に怯え、ベルゲン強襲以降は征伐軍総司令部内の獅子身中の虫に怯え続けたアリアベルとは対照的である。アリアベルの場合、政教分離の大原 則に対する侵犯がある為、神祇府内での解任を求める動きを自勢力の者達を利用して掣肘し続けねばならなかった。皇国に無数とある勢力の一つを運営するとい う事は、それが当然であるとも言える。彼には清々しいまでに配慮が存在しない。
しかし、トウカにはそうした部分がなかった。
トウカの近辺には腕利きの情報部員が防諜に加わっていた為、その実情は不明であるものの、軍令にも通じ、軍政家としての資質を持つ事は北部統合軍の編成 を極めて短期間に終えたことからも窺い知れる。しかも、その編制は斬新であり、これ以上ない程に有効なものであると、今この時、征伐軍将兵の血涙を以て示 し続けられていた。
――都合が良すぎる……まるで軍勢を率いる為に生まれ堕ちたかのよう。
或いは、総てを率いるだけの才覚も持ち合わせているのかも知れない。
「この内戦が終われば、一度、深く話してみるべきでしょうね……姉様も含めて」
アリアベルは、移動準備を始めた陣地を見渡し、そう呟く。
それが叶わないと知るのは、少し後の事であった。
史上初の陸上戦艦による陸戦が派手に行われているのと時を同じくして、トウカが招集した会議が重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉で開かれていた。
戦闘艦の艦内でありながらも、神州国の城郭最上部に誂えられた天守閣内の如き会議室に、内心で驚いていたトウカは、それを表情に浮かべる事もなく胡坐を掻いたままに一礼する。
「御主……もう一度、言うてみよ」
上座に座るマリアベルから、静かな、それでいて怒気を孕ませた言葉が投げ掛けられる。
右側には武官、左側には文官が並んでおり、ヴェルテンベルク公爵家、家臣団がそこには一堂に会していた。伯爵家としては平凡な数の家臣団と言えなくもな い規模であるが、皇国有数の規模の所領を有する事を踏まえれば小規模と言わざるを得ない。無論、マリアベルが信用するだけあり、その能力に不足はなく、相 応の忠誠心も備えていると見るのが自然である。
武官の筆頭であるイシュタルや、文官の筆頭であるセルアノも上座に近い左右に座しているが、その二人ですらマリアベルの滲ませた勘気に困惑と畏敬を示している。
手元の酒の注がれた酒盃を手にしたマリアベルは、それを一息に飲み干す。
神州国武家の議場の様に前後に長く伸びた木造の下座で胡坐を掻いたトウカは、今一度、頭を下げて朗々と進言する。
「征伐軍との講和の許可をいただきたく御座います」
ざわめく家臣団。
平伏したままに視線を巡らせば、上座のイシュタルは呆れた表情を浮かべ、セルアノは顔色を失っている。マリアベルの勘気に触れたと考えたのだ。
その様にマリアベルに説いたのは、トウカ一人ではない。
寧ろ、心ある家臣達の多くは連日のようにマリアベルにそうした進言をしていた。
領地での激しい攻防戦に続いていの領都フェルゼンでの、本来は守るべき領民を中心に編成された三個義勇装甲擲弾兵師団は、文武に関わらず多くの者の心に 暗い影を落としていた。如何なる理由の為に戦うかという本質を、マリアベルが見失いつつあるのではないかという疑念を抱いている家臣も少なくない。そんな マリアベルを明確に支持していたトウカは、家臣団の中でも孤立していた。
そのトウカが講和を口にしたという事実もまた、家臣団のざわめきを大きくする要因の一つである。
突然現れて軍を操り苛烈な戦争を演出し、軍神とまで呼ばれるトウカが遂に講和に言及したという事実は大きいものであった。一番、戦略を用いて征伐軍に大被害を齎した人間が停戦を口にするという影響は大きい。
しかし、マリアベルは、そうした類の進言を取り上げようとした事はない。
それどころか、進言がされる度に鋭い眼光で睨み、場合によっては勘気を露わにして扇子で打擲するという状況に至る事すらあった。マリアベルという鋼鉄の君主を知る家臣団一同は、トウカの正面切った物言いに、呆れと無謀さ、そして一抹の憧憬を向けていた。
マリアベルの手が咄嗟に大きく動く。
投げ付けられた酒器。
それが自身の額へと当たり、米酒を床へと撒き散らすが、トウカは伏したままで言葉を待つ。
酒器の当たった額の右端から血が、木張りの床へと零れ落ちる。米酒と血が視線の下で混じり合い、不吉な華を咲かせる。
「……征伐軍との講和の許可をいただきたく御座います」
今一度の言葉に、マリアベルが唖然として溜息を吐く。
「普通はここまでやられれば、口を噤もうとするであろうて……」半ば呆れた様子のマリアベルの台詞。
トウカとしては、ここで引く事ができないのだ。
マリアベルも理解しているはずである。だからこそ事前に伝える事もなかった。
「招聘の儀が失敗したという噂が一般市井にまで流布しておる……征伐軍からの合図であろうな」
招聘の儀の失敗が明確となった以上、国内での争いに疑問と懸念を持つ臣民は少なくないはずであり、明確な帝国という外敵が迫る中で、自己の権利の為に国体を損なうのかという意見が出るのは時間の問題であった。
手を彷徨わせて、酒盃がない事を思い出したのか、近くに置かれた徳利を手にするマリアベルは舌打ちを一つ。
招聘の儀の失敗。同時に流れる帝国の破壊工作であるという噂。
情報部長であるカナリスもそれについては多大な関心を寄せており、確かに招聘の儀が行われたとされる最有力日に、霊都の天霊神殿では小規模な爆発事故が 起きている。書類上では精霊魔術実験中に複数の舞姫や祈祷巫女が負傷したと処理されているが、カナリスも不審に思っていた様子である。帝国での諜報活動や
征伐軍への破壊工作で情報部員に余裕はなく、調査は行われていなかった。交戦状態にある以上、戦略や戦術に影響しない可能性が高い情報というのは、優先順 位が落とされる事となっても止むを得ない。
「大御巫が急進的姿勢を示した理由は何か? 御考えになった事はありましょうか?」
「……成程のぅ、急に焦り出した理由はその辺りかの」
マリアベルは得心がいったと、徳利を投げ捨てて嗤う。
次代天帝なる何処かの者。トウカからすると真に胡散臭い指導者が到来しないという事は、皇国にとって非常に不都合な事である。天帝というこの世界最大の 多種族国家を纏め得る権威主義的象徴にして、国事行為を万人に納得させ得る威光というのは他では得られないものであった。無論、マリアベルは軍事力で代用
してしまえという姿勢で、トウカは国家主義的思想の定着を以て、安定的な統治機構へと象徴を移し替えていくべきだと考えている。当然、現状では総てが不足 しているので叶わない事であった。故にこれまでなのだ。
「権威なき権威主義国が如何様な結末を迎えるか、想像が付かぬ訳ではありますまい」
「……大御巫は全ての罪を認めるという訳かの」
胡散臭げな表情のマリアベルに、トウカは首を横に振る。
あの諦めの悪い、強いて言うなればマリアベルの妹であるアリアベルがそう簡単に罪を認めるはずもない。七武五公も権勢に蔭りが見えるとは言え、大多数の 種族に対して有効な宗教的象徴を喪う愚を犯すはずがなかった。次代天帝の招聘の失敗が明確となった以上、派閥色の少ないアリアベルは神輿として利用しやす
い。征伐軍の成立で多くの勢力に貸しを作っており、神祇府の掣肘もそれらを利用すれば容易に押さえ付けられる事は疑いない言わば、費用対効果の高い神輿と 言えなくもない。
結果として敗北でそうなる。
何より、アリアベルが国事行為の中心を担う事で、征伐軍の行動の正当性を目に見える形で臣民に提示できる。無論、北部貴族の反発は凄まじい事になるのは 疑いないが、既に北部統合軍から半数近くが離脱した北部貴族などマリアベルが主張すら許すはずもない。逆に、このフェルゼンで今まさに戦闘を継続している 各領邦軍の領主などは、市街戦の悲惨さに停戦も已むなしという風潮が芽生えつつある。
トウカは、額から垂れる血を拭う事もなく応じる。
「いえ、それはないかと。噂の流布は“帝国の破壊工作による”という部分が強調されているものが多く、恐らくは全ての責を帝国へと転嫁する心算かと」
最早、政治的怪物である。
トウカが言うのも厚かましい話だが、極めて汚く、嫌らしい。
しかし、それは為政者にとって必要な要素でもある為、非難する気はない。
若しかすると、当初から敗北時に責任を躱す手段として用意していたのかも知れないと思える程にアリアベルにとって都合の良い時期であった。征伐軍が帝国 軍が来襲する事を掴んだ可能性とて有り得る。陸海軍を指揮下に置いたのも同然の征伐軍の諜報能力は、その質は兎も角として規模は北部統合軍を遙かに凌駕し ている。対帝国方面に対する諜報行動に対する体制も整っているとみて間違いない。
――そうなると征伐軍も焦っているとも……いや、そもそも北部で帝国暗躍の可能性を示唆したのは俺だ。脅威を正確に認識したからこそかも知れない、な。
多くの要素が絡み合い過ぎたが故に、大御巫の胸中はトウカに推し量れるものではないが、停戦協定の席に着ける機会を逃す事は利益とならない。これ以上の戦闘はヴェルテンベルク領の戦後にも致命的なまでに響く。
しかし、マリアベルは床に投げ出された徳利を握り拳で割り砕くと「ならぬ」と一喝する。
「トウカ、約定を交わしたであろう! クルワッハ公爵を必ずや討ち取るちと! 御主の赫奕たる武威を、怨敵たる征伐軍に知らしめてやるのじゃッ!!」
マリアベルの大音声に、多くの武官と文官が身を竦ませる。
その声には、鋼鉄の君主としての強制力があった。
トウカも継戦を考えなかった訳ではなく、アーダルベルトを殺害してからでも遅くはないとも考えてはいる。無論、それはあまりにも不確定要素が多く、状況を悪化させる可能性すら少なくない。
不確定要素の多い作戦に、将兵の生命を賭す事を避けるのは、軍人として当然の事である。
「しかし、マリアベル様。相手方の策略とも取れます。謀略の一端によるものやも知れませぬ故に、短慮は宜しくないかと……」
「何を言うかッ! 郷土を犯そうとする驕敵に猶予を与えてなんとする! 元々、アリアベルは諸勢力を糾合し、この妾に歯向かった身なれば! 頼みにしてい た陸海軍が状況を打開できず、七武五公に実権を奪われたが故に焦りを生じ、方針を変えて悪知恵を弄したに決まっておろうてッ!」
マリアベルの言葉にも一理ある。
停戦を主導したという事実は、政治的には無視し得ないものがある。
確かに表面上だけを判断すれば、そうした見方も成立する。政治的に手足を縛られた状態を、征伐軍を編成してまで叛乱鎮圧を成し遂げようとした烈女が許容 するとも考え難い。そもそも、目的があるからこそ武装勢力の成立という一歩間違えば国賊になりかねない手段を選択したのではないか。政教分離の大原則すら
破った理由を七武五公が認めたのであれば、七武五公は当初より征伐軍に合流していたはずである。
事実、マリアベルの主張に同意する武官や文官も少なからず見受けられた。
トウカの主張は少数派なのだ。
考えてみれば当然である。彼らはマリアベルの配下として何百年もヴェルテンベルク領を護り、発展させ続けた者達なのだ。劣勢に陥る事など幾多もあり、その都度、多くの血と汗と屍を乗り越えて進み続けてきた猛者達。
彼らは信じているのだ。マリアベルに続けば、活路を見いだせると。
それは理屈ではない。だからこそ停戦への道を模索するべきだと理性が理解しつつも、感情がマリアベルに寄り添うのだ。必要性を説きつつも、マリアベルが 否定すれば彼らはそれに従う。今の今まで大多数の者達が停戦を考えつつも、マリアベルに対して強く求める事をしなかったのは、決してその暴君樽の姿勢のみ に起因する訳ではないのかも知れない。
――成程、これが権威というものか。
ならば、少なくとも征伐軍から有利な停戦条件を引き出させるしかない。
「承知しました。クロウ=クルワッハ公爵を必ずや討ち取って御覧に入れましょう……その暁には停戦を」
一礼するトウカだが、戦争に確実な手段など存在しない。
トウカとしては最善と判断しているが、新しい要素が加わりつつある状況では、征伐軍の行動も変質するかも知れないのだ。
「ふふ、よう言うたぞ、トウカ。では、改めて命じようて。北部統合軍の采配をそなたに預ける。不遜にも郷土に攻め入りしクルワッハ公爵の首級を、妾が前に持ってくるが良いぞッ!」
マリアベルの喜悦の声に、トウカは奇妙に重く感じる頭を下げる。血を流し過ぎたのかも知れない。否、気が重いのだろう。
再度の命令を承ったトウカは、顔を上げてマリアベルの顔を見る。
……違和感を覚えた。
「……?」
何故か、マリアベルの顔が、不自然に青白く見えたのだ。
激務によって身を崩した事を隠す為にしているという化粧の為かとも思ったが、しかし、何かが違う様にも思える。
トウカの怪訝な視線に気付いたのか、マリアベルが睨むように顎で退席を促したので、席を立ち上がってしまった為に、それ以上は深く窺うことができなかった。
「……あれは一体?」
不自然なまでの胸騒ぎに戸惑いながらも、トウカはなす術なく、廊下へと逃げる様に去るしかできなかった。
「ぬぅぅぅぅっ! 妾はやってしもうたぁぁぁっ!」
寝台の上で転げ回るマリアベルに、セルアノは口元を弛ませる。
トウカに酒器を投げ付けた事に対し、全力で後悔している姿は鋼鉄の君主のものではなく一人の女のものであった。身体に障るので激しい動作は控えるべきなのだが、それを止める気にはなれない。寧ろ、恋する乙女の勘気を諭す事の無意味を、セルアノは十分に理解している。
「まぁ、随分と血が出ていた様だから……ロンメル子爵に優しく慰められているでしょうね。男はああした女性に優しくされると心身共に引き摺られるから……」
ウィシュケの中でも比較的強い酒精度数を誇るノルトラント|原産の樽出し原酒を嗜みながら、長年の盟友の後悔を適当に聞き流す。
――あの子、別に然して気にしている様子じゃなかったのだけど、明らかに雰囲気に押し切られたという表情だったわね。
或いは、その流れも想定していたか。
実は、セルアノは会議の場では口にしなかったものの、トウカの提案には賛成であり、これ以上、欲を掻いて兵力と工業力を損耗する真似は避けるべきだと考 えていた。セルアノはヴェルテンベルク領の文官の頂点であるが故に、トウカの報告書や覚書などを一番目にする立場にあり、トウカの懸念を朧げながらに理解 していた。
近代戦は工業力と人的資源の消耗戦であり、潰し合いである。そして、それらが経済を圧迫する、将来の躍進を先払いすることで行われる消費活動であることを深く理解しているのだ。
マリアベルは、経済力が工業力と人的資源を育成し、躍進させる為の土台であり下駄であるという価値観を持っているが、逆に経済が工業力と人的資源の複合物であるという意識に欠けている節がある。
――いえ、ヴェルテンベルクの発展が復讐の為にあるのなら……
恐らく、工業力と人的資源の全てを磨り潰す事は、マリアベルにとって想定の範囲内なのだ。
つまり、トウカやセルアノが考える将来の復興が可能な範疇での講和は認められない。セルアノは朧げながら察していたが、トウカは理解していなかったはず である。フェルゼンの繁栄を見れば、誰しもがこれこそを求めた結果だと思う。決して手段として必要としたなどとは考えない。
だが、果たしてそうだろうか?
会議の内容は途中からアーダルベルトの撃破に内容が擦り替わり、それが叶うなら停戦協定で優位を確保できるのではないかという“憶測”が広がった。最終 的にはアーダルベルトの撃破と停戦交渉が抱き合わせで語られてすらいたが、それこそがトウカも目的だったのかも知れない。
アーダルベルトの撃破など、彼にしか口にできない事である。
その軌跡の対価に停戦を認めさせようとしているのかも知れない。マリアベルもそうなれば納得するに違いない。
「誰も彼もが莫迦をしているわ」
薄暗き戦塵に人々が途を惑う今この時代。其々の求める答えの乖離が著しくなる時代でもある。
そして、その人々の求める答えの隙間を埋めるのは、何時の時代であっても屍山血河なのだ。
だが、それだけではない。
ヒトが死ぬということは、消費者を喪い、生産者を喪い、納税者を喪うということなのだ。それの積み重なりが闘争であり、それは国力を削ぐ行為でもある。
しかし、マリアベルを止める気は、セルアノにはなかった。
こうした結末を迎えることは四〇〇年以上も前より分かり切っていた事であり、逃れられない運命だとも考えていた。トウカであれば、この結末に変化を与え てくれるのではないかと考えていたが、鋼鉄の君主とその家臣は四〇〇年以上も進み続けていたのだ。そして、大組織であればある程、一度動き出せば押し留め
ることは難しい。ましてやそれが四〇〇年。アーダルベルトを、中央を敵視する風潮は北部では平常にして恒久的なものなのだ。戦争屋一人で押し留める事など 出来るはずがない。
だから彼は奇蹟を起こさねばならない。
神罰そのものに立ち向かわねばならない。
天帝でもない限り、それは《ヴァリスヘイム皇国》では不可能な偉業なのだ。無論、マリアベルは敵対するならば、天帝が相手でも隙あれば失脚させようとするだろうが。
「苦労を掛けるわ……」
内戦が終われば、秘蔵の一本でも送って機嫌を取ろうと思う程度には、セルアノはトウカに感謝していた。サクラギ・トウカという傑出した個人が輝いていた御蔭で、人目に触れることもなくセルアノの各種政治工作は極めて順調に進捗している。
「そうじゃ! あれに苦労を掛けておるとは妾とて思っておるが、今は戦時下であろうて! 仕方なかろう……しかし、トウカですら停戦が避けられぬと見ておるとは……最早、これまでやも知れぬのぅ」
乙女が胸中に抱く恋心の二律背反の是非は、共和制と独裁制の優劣を論じる事と同列な程に意味がない。
セルアノは、マリアベルの言葉を黙殺する。
ならば直ぐにでも停戦すればいいとは思うが、それを想定すらしていないのが現在のヴェルテンベルク領である。北部統合軍や、未だ継戦している北部貴族な ども胸中には停戦や降伏の二文字が過ぎっている事は疑いない。しかし、多くの北部貴族が離脱し、北部統合軍を構成している人員が、ヴェルテンベルク領の者
が半数近いとなれば言い出す事は難しい。既にマリアベルだけでなく、ヴェルテンベルク領の軍官民にとってもこの内戦は理屈ではないのだ。
止められない。セルアノは、そう考えた。
だが、マリアベルには違った見解がある様であった。
「……いやのぅ、待つがよい。彼奴は妾にクルワッハ公爵を討つと口にして幾日も経ってはおらん。そこで意見を翻すなど……。もしや、停戦を切り出したという事実を欲しておる?」
「それは初耳ね」
或いは、トウカが戦略に影響するクロウ=クルワッハ公爵殺害を事前に口にしていたのは、マリアベルの意図と許容を窺う目的があったのかも知れない。戦略的視野を持つ者が、戦略に影響の出る要素に付いて口にすると言うことは、何かしらの意図があると取れる。
一端、思考を中断したのか、マリアベルは酷く気落ちした声音で呟く。
「……クルワッハ公爵はなんとしても仕留めたい。じゃが、それが叶ったなら即座に停戦をしてくれようて。その工作はしておるのであろう?」
「……まぁね、でも北部統合軍の内部の……特に合流している貴族達の一部が既に強硬姿勢を見せているのよ? クルワッハ公爵を討ったら更なる譲歩を求めて継戦を主張しかねないわ」
自身の停戦工作が露呈していたという事にも驚いたが、マリアベルが停戦を容認するという発言を口にしたという事実に、セルアノは愕然とした。セルアノの知る限り、マリアベルという鋼鉄の君主が誰かに膝を屈した事などないのだから。
目を丸くしているセルアノに、マリアベルは茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「……ならば妾が死ねばよかろうて」
マリアベルの死。
北部最大の武装集団を率い、軍需産業を取り纏める女傑の死。
クロウ=クルワッハ公爵を討ち、廃嫡の龍姫が斃れたとなれば相討ちに近い状況となるが、北部の場合は、特にヴェルテンベルク領出身の軍官民からすれば拠り所を喪うに等しい。ヴェルテンベルク領を工業地帯に変え、公共施設を中央貴族の領地にも負けない程に充実させたマリアベルは、彼らにとって絶対の存在であり不変の導き手なのだ。
そして、基幹戦力がヴェルテンベルク領邦軍である以上、北部統合軍は確実に戦意を喪失する。
増してや敵に討たれたのではなく、病死となれば仇討を叫ぶ事も叶わない。
目に見える戦果を示し、征伐軍が明確な譲歩を引き出さない限りは停戦など周囲が許さないと考えていたセルアノだが、マリアベルの提案に眉を顰めながらも賛同するしかない。
「死に際まで自由に決められんとはのぅ……」
心底、不愉快そうで、それでいて沈んだ声音。
無論、死なせる気などセルアノにはないが、その表舞台からの退場を利用してナニカを目論んでいるマリアベルにとっては不本意な事なのだろう。
「まぁ、クルワッハ公爵を討てるかどうかも分からないんだから。討ち漏らせば、それはそれで、貴女の言う華麗な死に様を演出できるでしょう?」
「……いや、この状況を利用してくれようて。トウカにも、誰も彼もに安易に夢を見せた代償を払って貰わねばなるまいて」
碌でもないことを思い付いたのか、マリアベルが表情を歪める。
「そうね、全く以てその通りよ、マリィ」
後始末くらいはしてあげる。
そう嗤うセルアノは、咳き込むマリアベルから視線を外すと、硝子碗に残ったウィシュケを飲み干した。
幾多の軍略と謀略、そして何よりも感情が複雑に絡み合い、皇国国内の動乱に於ける最悪の戦いの幕が開ける。
干戈を交えるは、ヴェルテンベルク伯マリアベル。
相対するは、その妹にして天霊神殿大御巫アリアベル。
これが後の世にまで続く皇国北部独立問題の始まりであり、世界に名を轟かせた軍神サクラギ・トウカと、彼を後に輔弼することになる者達が一堂に会することになる闘争として歴史に名を残すことになる一戦となることを。
世界各地で火種が燻ぶり乱世となりつつある今この時代にあって、規模としては皇国一国に収まる小さなものであるが、遙か後世に到るまで皇国臣民が誇りと畏怖を以って語り伝えた、流血と悲劇に彩られた赫奕たる戦記の一幕。
斯くして、賽は投げられた。
戦乱の時代の幕開けにして、総てを照らす黎明となる一戦の火蓋は、切って落とされたのだった。
賽は投げられた。
《羅馬帝国》 終身独裁官 ガイウス・ユリウス・カエサル