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第一四七話    廃嫡の龍姫が願い






 ミユキが後部座席に搭乗する偵察騎には、操縦士として見慣れない銀髪の女性が座っているが、そもそもロンメル領邦軍には航空戦力は配備されていないはずである。翼に記された識別番号以前に、ロンメル領邦軍の識別章を付けた軍用騎自体が存在しないはずであった。

 トウカは、ミユキが何処かで兵士を拾ってきたのだろうと嘆息する中、偵察騎は滑り込む様に緩降下を続けて、半ば垂直/短距離離着陸(V/STOL)機の様な機動で着陸する。かなりの練度である。

 偵察騎が翼を揺らし、広場の中央へと着陸するのを見届けるトウカは、リシアに頷く。

 リシアの命令で、鋭兵一個分隊が着離陸した偵察騎に駆けていく。

 小銃を手にした鋭兵は威圧感があるが、今回ばかりは少なくとも表面上は拘束せざるを得なかった。まさか征伐軍の前でミユキを特別扱いする訳にもいかず、軍の階級という序列より、爵位という宮廷序列を優先していると思われるのもまた失点以外の何物でもない。

 しかし、ミユキはトウカの思惑をいつも通り一蹴する。

 恭しく拘束する構えを見せていた鋭兵を二人纏めて右腕で薙ぎ倒し、追いかけようとした鋭兵の一人を尻尾で足払いしたミユキは、トウカへと一直線に掛けてくる。

 鋭兵としても貴族に睨まれるという面倒に対しては及び腰だったのか、油断していたのだろうとトウカは嘆息する。再訓練が必要であろうとは思うが、ミユキの表情に気を取られてそれどころではなかった。

 泣き顔のミユキ。

 涙どころか鼻水も流しているミユキが、トウカの懐に飛び込む。

 トウカは黙って抱き締める。
最早、誤魔化しようもない。

 レオンディーネなどから、トウカとミユキの関係は露呈しているが、直接目にするとなると話は変わる。トウカに取ってミユキが“特別”であるという確証を得たアリアベルは、トウカにとってミユキが政治的な弱点となり得ると判断するだろう。

「ミユキ……どうした? 今は重要な会議をしている。残念だが……」

 戦争に時間を取られて、ミユキとは疎遠になっていた。マリアベルとの逢瀬もあった為に後ろめたい心情もあったものの、それを表情には出さない。

 あくまでも恋人を相手にする様に、ミユキの目じりに溜まった涙を拭いながら、トウカは優しく言葉を重ねる。

「そうだな、最近は仕事で時間が取れなかった。戦も終わった事だ。後で食事でも……」 

 周囲から呆れと驚きの視線が飛んでくるが、トウカは気にせずにミユキを一層、それでいて優しく抱き寄せる。


「マリア様が……マリア様がっ、死んじゃうの!」


 ミユキの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

 トウカはその一言に、ミユキの肩を掴む。

 周囲の領邦軍将兵からは大きなどよめきが広がり、アリアベルは心底驚いた表情をしている。トウカも笑みを維持できているか確証がなかった。

「病気で、何度も血を吐いてたんですっ……でも、主様には伝えないでって……」

「莫迦な……そんな様子は……」

 龍族特有の病に掛かっているというのは、トウカも耳にしていたが、マリアベルはそうした気配を一切感じさせなかった。元より発症例の少ない病であり、中にはそれなりに長く生きた者もおり、トウカはマリアベルもまた自身よりも長生きするのだと考えていた。

「化粧で顔色を隠したりっ、周りにも何も言わなかったんですっ」

「……そうか。だからか」

 逢瀬に限らず、最近のマリアベルはかなり濃い化粧をしていた事を思い出して、トウカが唇を噛み締める。軍務卿としての責務で蓄積した疲労を隠す為のものだと考えていたが、悪化する病状を隠す為であったのだろうと、トウカは舌打ちを一つ。

「今、凄く血を吐いて苦しそうで……主様に逢いたいって泣いてるんです!」

「っ!」トウカは軍帽の上から頭を右手で掻き毟る。

 ミユキが、トウカに嘘を吐く事など有り得ず、マリアベルがこの状況でトウカを呼び寄せるなどあるはずがない。だが、マリアベルという女性が、例え演技でも人前で泣くという無様をするはずがないのだ。

 マリアベルの涙は、ただトウカの前だけで流される。そう約束したのだ。

 今、ここで全てに背を向けてマリアベルの下へ駆け付けたいという感情と、参謀総長としての責務、そしてミユキにそうした姿を見せるという後ろめたさが脚を荒れた石畳へと縛り付ける。自身が考えている以上、トウカは立場と権利に縛られていた。

 ざわめく周囲。

 中には確認を取る為、通信士に詰め寄っている者も少なくない。破天荒なマリアベルの何時もの突然の思い付きだと考えている者もいるのだろう。真偽を確かめる為、各所へ訊ねるのだろうが、それをしてしまえばこの話が広まる。だが、トウカには止める気力が起きなかった。

 あのマリアベルが死ぬ。

 トウカには想像もできない事である。多くの意味で於いてマリアベルとは絶対的な存在であったし、それが揺らく事など考えもしなかった。

 総てに於いての前提が崩れつつある。軍事や政治、経済や産業、そして恋愛に於いても。

 急に足場が無くなったような感覚に、トウカは石畳に片膝を突く。

 慌ててミユキが支えようとするが、トウカはそれを押し退けると、手にした書類を石畳へと叩き付ける。

「セリカ! 後を任せる!」

 マリアベルはトウカを求めた。
 そしてトウカはそれに応じた。

 だが、実際、トウカは自分が余りにもマリアベルの庇護を受け過ぎていると考えていた。傍から見ればマリアベルのトウカに対する“優遇”は期待という限度 を越えたものであり、見ようによっては“奉仕”と言える程であった。トウカは確かにヴェルテンベルク領邦軍を強化し、北部統合軍を成立させ、引き分けにま で持ち込んだが、それでも尚、似合うだけのものをマリアベルに返してはいない。少なくともトウカはそう思っていた。

 トウカは、銀髪の女性飛行兵と偵察騎へと駆け寄る。

 アーダルベルトを殺害できず、征伐軍を降伏させる事も出来なかった。引き分けならば、一〇年あれば再戦して勝利を勝ち取る事は難しくないと考えていた。その時は、アーダルベルトを惨殺し、アリアベルを傀儡とした国家を、皇国を継承する形で成立させる事すら目論んでいた。

 その時、トウカは初めてマリアベルと対等に立ち得る男となる。

 ヒトの身で高位種を政戦で凌駕し、皇国の諸勢力を武力で短期間に糾合してマリアベルに国体を差し出すのだ。

 そして、トウカは言うのだ。御前は廃嫡の龍姫ではない。建国の神龍で、俺だけの龍だ、と。

 彼女を蔑んでいた総てを打ち滅ぼし、彼女が成したい事を成せる国家。それを成す前に、見る前にマリアベルは朽ち往こうとしている。

「中尉! マリィの下へ! ベルトラム島だ! 急げ!」

 銀髪の女性飛行兵の肩を掴み、抗命する気配すら見せる事を許さない断固とした口調で命じ、偵察騎へと飛び乗る。離陸の為の加速術式が偵察騎の足元に浮かび上がり、揚力を得る為に前方から風が吹き付けた。離陸の挙動に近くにいた鋭兵達が慌てて退避する。

 赦されない。そんなことは赦されない。

 滑走を始めた偵察騎上で、トウカは拳を握りしめた。







「ミユキ……貴女、事実なの?」

 リシアは、えぐえぐと涙を流してベルセリカに抱き寄せられているミユキに訊ねる。聞いた直後に、貴族を呼び捨てにするのは宜しくないと周囲に視線を奔らせるが、マリアベルの生死に意識が向いている為、咎める者はおろか眉を顰める者すらいない。

 ミユキは、涙の滲む目元を擦りながら何度も頷く。

 広場の一角、に集まっている両軍、特に北部統合軍の将官の口元からは悲観と落胆が零れるが、ベルセリカが大太刀の鞘の石突きで石畳をめり込む程に叩いて一睨みすると沈黙する。

 対する征伐軍の将官には、停戦協定がどうなるのかという不安が見て取れたが、レオンディーネが戦斧を振ると沈黙する。

「リシアだって見てたでしょ? マリア様が血を吐くところ……」

 そう、だからこそリシアは周囲のヴェルテンベルク領邦軍の将官達の様に、何時ものマリアベルの冗談だと勘繰る真似はできなかった。トウカには吐血の事を 隠していたとのことなので、別の理由でトウカはそれが真実だと判断したのかも知れないが、リシアにはその理由は分からない。

 恐らくは真実だろう。あと一歩で、アーダルベルトを惨殺できたこの状況で。

アリアベルも停戦の為に前線に出てきたのだ。二人を殺害すれば征伐軍がその体制を維持する事は難しい。残り二人の七武五公も折れるはずだとリシアは考え た。ましてやアーダルベルトの殺害を意図した作戦計画が遂行中である事は、裁可したマリアベルも知っているはずである。それでも尚、逢いたいと、トウカを 呼ぶのだ。虚言とは言い難い。

「……それは。いえ、そうなのね。でも、こんな時なんて――」

「――姉上、の、病状は、それほどまでに差し迫った、ものなのですか?」

 緊張を顔に張り付けたアリアベルの問いに、リシアは舌打ちの一つ。

 征伐軍の将官達からの鋭い視線が飛んでくるが、フルンツベルクが鼻を鳴らすと委縮する。アーダルベルトには手の足も出ない挙句に右手を喪ったフルンツベルクだが、高位種の中でも卓越した戦闘能力の持ち主である事は変わりない。

「貴方の御父上が追い出した所為で重症化したのです。しかし、停戦協定締結の大前提は覆りません。心配は御無用に願います」

 アリアベルの言葉を切って捨て、リシアはベルセリカへと向き直り敬礼する。

 申告せねばならない。この状況で主導権争いなどする訳にはいかない。

 エルゼリア侯は兎も角、ダルヴェディエ侯などは政務卿の地位にありながら、リシアからすると動向が不明瞭で警戒すべき対象である。シュトラハヴィッツ少将などの保守貴族は少なくない数が負傷していることからも、誰が主導権を取る為に動いても可笑しくない。

 北部統合軍が、ヴェルテンベルク領邦軍が強大で勇敢だったのは、マリアベルの権威があったからである。それが喪われつつある今、誰かの下に権力を集中させて主導権争いと組織の瓦解を防がねばならない。

「総司令官閣下、停戦協定の草案は成りました。細部の詰めは政務官僚に、戦後処理と復興は兵站部に指導させ、それ以外の高級将校はヴェルテンベルク伯の下に集結するべきかと」

 この内戦で散っていた北部統合軍将兵の挺身を灰燼に帰すが如き振る舞いには、断固として掣肘を加えねばならない。

「うむ、可及的速やかに現状を確認するべきで御座ろう。……よもや下手な後継者を選んでは居らぬと思うが……」

 ベルセリカは、背後に整列した北部統合軍将校へと向き直る。

 一斉に敬礼して動き出す北部統合軍将校。

「兵站関係者も、この場に。政務官僚もこの場に召集させます。つきましては大御巫には――」「――私も同行いたします」

 リシアの言葉を遮り、アリアベルが動向を願い出る。

 止めを刺しにいくのかと皮肉を口にしようとしたリシアを片手で制止したベルセリカが、鷹揚に頷く。

「構わぬが……護衛は少数。場合によっては某の判断で引き離す、よいな?」

 下手に現状を隠して問題を複雑化させることを嫌った……訳ではなく、その横顔は親族であるならば止むなしであるという憂いと諦めが見て取れた。親族との軋轢はベルセリカも同様であり、思うところがあるのだろう。リシアとしては不愉快だが致し方ない。

「……航空参謀に問い合わせて輸送騎を呼びましょう。征伐軍側の航空管制とも摺合せます」

 リシアは、航空参謀に声を掛け、輸送騎の手配と征伐軍の航空部隊と哨戒網に対する事前通告を始める。既に両軍に発砲禁止が命令されているので、誤射で撃墜される可能性は少ないが、不明騎が飛び交う状況は相互不信を助長させかねない。

 両軍の将官が動き出す。

 停戦協定の交渉の為、周囲には多種多様な効果を持つ魔導障壁が何重にも展開されているが、周辺で警戒する兵士達にも只ならぬ様子であるとは察しているのか落ち着きがない。

 そんな姿を尻目に、リシアは軍帽を被り直す。

 当のリシアでさえ、何処か現実的に捉えられずにいた。










「あくまでも休戦だ! 正式に停戦協定が発布された訳ではない! シュットガルト湖に海軍艦艇を入れる事は罷りならん!」

 シュタイエルハウゼンは、重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉の後部に設置された建造物内の艦隊指揮所で各戦隊司令官に無線越しに命令を飛ばす。

 ――ヴェルテンベルク伯、いや……あの若者はどう動くか。

 北部統合軍最高司令官であるベルセリカより、シュットガルト湖の保全と“内海化”の堅持を伝達されている。戦闘航海が可能な艦艇はフェルゼン沖合に集結させ、再編成を終えて戦隊毎の単縦陣を形成してシュットガルト運河開口部を目指していた。

 重巡洋艦三、軽巡洋艦九、各種駆逐艦一四、特設砲艦五、駆逐艇二、水雷艇一八という戦力だけが、北部統合軍大洋軍艦隊に遺された健在な戦闘艦の全てであ り、それ以外の艦艇は輸送艦や揚陸艦、各種雑役艦など戦闘能力を持たない艦艇や、砲弾を射耗し尽くした艦艇、損傷で戦闘に耐え得るものではないと判断され 回航された艦艇、座礁した艦艇などである。

「シュパンダウに輸送艦二隻が停泊していたな……いざとなればそれを回航させて閉塞作戦を行うしかない」

 海軍が主力艦三隻を喪失したのは、指揮していたシュタイエルハウゼンが一番理解しているが、それ以上に皇国海軍が強大な戦力有している事も理解していた。特に主力艦隊と位置付けられている〈皇海艦隊〉の一部が進出しているという情報もあり、油断できる要素はない。

「シュットガルト湖に侵入されると、再戦した場合、優勢を確保できない、か」

 まだ戦う気なのか、とシュタイエルハウゼンは、ベルセリカを始めとしたヴェルテンベルク領邦軍の軍人の闘争心に呆れるしかない。或いは、自分もそう見られているのかと考えると憂鬱であった。

「中将、右舷空域を友軍の偵察騎が通過します」

 通信士の報告に、シュタイエルハウゼンは舷梯(ラッタル)を登り、後部艦橋へと上がると、双眼鏡で右舷上空に視線を向ける。

 航空騎は速度に優れるという事もあるが、広大な空という完全に把握し難い戦域でもある故に、その警戒に神経を尖らせていた。簡単に敵勢力圏に浸透し、偵 察し、場合によっては特殊作戦を展開するという脅威をヴェルテンベルク領邦軍はどの勢力よりも危険視している。それを実現したのがトウカであるが故に。

「定期哨戒の騎体ではないな……照会しろ」

「中将、恐らくはハルティカイネン情報参謀より情報が上がっている騎体かと」

 艦長からの進言に、シュタイエルハウゼンは眉を顰める。

 トウカが総てを投げ出して、マリアベルの下へ向かっている。

 それは、さぞ忠誠心に厚き忠臣の真の姿として、明日の朝刊の三面記事でも飾るだろう。

 しかし、その後、トウカがどの様な選択をするのか?

 シュタイエルハウゼンは、その点を気にしていた。

 実は、それを気にしているものは少なくない。トウカの動向次第で、多くの者の運命が決まる。場合によっては再戦も有り得るかも知れない。

 トウカとマリアベルの連帯は異質であったが、これ以上ない程に上手く機能していたとも言える。経済と産業、そして一分の隙もない政務で広大な領地を繁栄 させ続けたマリアベルに、卓越した軍事的資質を持ったトウカによる軍事作戦の展開は、斜陽の戦況を支え続けていたと言っても過言ではない。

 それが崩れる事による影響は、シュタイエルハウゼンにも及びも付かない。

 艦隊戦力は、シュットガルト湖内の島嶼の幾つかに軍港を有している為、戦力としての保持はフェルゼンが陥落しても難しくないが、弾火薬の消耗を考えると 水上戦力もまたこれ以上の抗戦は現実的ではない。フェルゼンの市街戦にて、減少した砲兵戦力を補う為に大洋軍艦隊の多くは軍港や湖岸限界まで艦を寄せて艦 砲射撃を行った。これは征伐軍砲兵に甚大な被害を与えたが、大洋軍艦隊もまた半数近い艦艇が大中破することになった。命中精度を上げる為、撃沈を避ける為 に座礁した艦艇も少なくない。代償は征伐軍砲兵隊の重砲との交戦による損傷である。

「……理解していてくれればいいが」

 陸上戦力も最早、限界だろう。

 護るべき領民まで義勇装甲擲弾兵として投じる状況は狂気すら感じる。断固たる意志という次元を超えていた。ある意味では、これこそが正に国民軍と言える 状況で、一切合財の人的資源を消費してまでも抗戦しようとするのは、マリアベルの領民からの圧倒的支持を背景にした上での、トウカの戦略指導という相乗効 果と言える。

 尚も、戦わんとするならば破滅である。

 ヴェルテンベルク伯爵領の。
 《ヴァリスヘイム皇国》の。

 敗北後は、皇国内で北部は更に孤立しつつも、不満が燻ぶり続けるだろう。帝国との戦争での策源地としては使用できず、ある程度の自治が認められるならば帝国の侵攻に内応する可能性とてある。

 最悪、《ヴァリスヘイム皇国》が滅亡する。

 トウカが感情的に抗戦を叫んだ時、一体、どうなるのか?

 農聖レジナルト・ルオ・フォン・エルゼリアは軍事で役に立たず、剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムも、言葉の端々に階級序列を無視して、トウカを上位に置いている節がある。

「破滅か、再生か……」

 偵察騎に巡らせていた双眼鏡を下ろし、シュタイエルハウゼンは軍帽を被り直す。

 もし、征伐軍の後方支援を北部統合軍が担えば、それは極めて強大な軍隊の成立となる事は間違いない。トウカの戦闘教義(ドクトリン)と新兵器、戦略を用い、高位種や中位種を多数含んだ大陸有数の軍隊が、機動力と航空戦力によって電撃的に展開する。それは一つの理想と言えた。

「頼むぞ……悲劇に魅入られてはくれるな」

 シュタイエルハウゼンは、飛び去る偵察騎に敬礼する。

 それに倣い後部艦橋に居た司令部要員も敬礼する……上甲板の見張り員、高角砲や対空機銃に張り付いていた第三種戦闘配置の水兵達もそれに続く。

 彼の双肩に、北部の未来が掛かっているのだ。








「ッ! 航空兵中尉! 後は好きにしろ!」

 大よそ命令とは言えない命令をヴィトゲンシュタインという航空兵中尉に投げ掛けると、トウカは、未だ垂直降下を続けていた偵察騎の後部座席から飛び降りる。

 飛行状態の騎体には魔導障壁が展開している為、それに足を取られて目測を誤り、地面に無様な格好で落ちる。元より魔導関連に明るくないトウカは、崩れたままの態勢のままに地面に投げ出された。

 落下した高さは六mほど。

 背中を強かに打ち付け、肺の空気が吐き出される。

 遠のく意識を、胸板を強く右手の拳で叩くことで繋ぎ止め、トウカは打ち付けた頭を左右に振って上半身を起こす。

 駆け付けたヴィトゲンシュタインが、トウカの軍帽を拾うと差し出してくるが、それを押し退けて痛む体を無理やり立たせる。そして、祖国の建造様式と似た造りの屋敷を見て走り出す。

 先程までは、限界速度で飛行する偵察騎の騎上にあり、寒風が吹き付けていたが、今は肌を刺す様な熱がある。

 トウカは、瀟洒(しょうしゃ)な嵌め込み硝子の玄関扉を押し退けるかの如く開け放つ。

 罅割れたが玄関扉を其の儘に、玄関を土足のままに進む。

 木造の廊下は何処か懐かしく、祖国の生家の屋敷を思い起こさせるが、それすらも過去が追い掛けてきた様で呪わしい。

 若しかすると、自分が持ち込んだ闘争がマリアベルの寿命を縮めたのかも知れない。

 桜城一族の歴史は戦争の歴史である。

 神武東征以前より、祖国の皇を武の面で輔弼し続けた一族の歴史は、流血に彩られた華麗な時代の先陣を担い続けた。だが、後に残ったのは栄光という言葉で塗り潰された血塗れの悲劇でしかない。

 トウカもまた走り続けている。

 遠く異世界に在っても闘争の先陣を担い、戦い続けるは一体、何が為か?
 遠く異世界に在っても闘争の先陣を担い、戦い続けるは一体、誰が為か?

 分からないが、時折、考えるのだ。

 自身の一族は遠く過去から撒き散らし続けた悲劇と怨嗟から逃れ続ける為に先陣たるを務め、走り続けているのではないかと。

 ならば結局、トウカ自身もまたそれを、その身に流れる血筋という歴史を繰り返しているに過ぎない。戦う為に、愛しき者までを犠牲にしようというのだから。

 マリアベルもまた、桜城一族の那由多の葬列に加わり、トウカはその事実から逃れる為に戦い往くのか。

「そんなことがあってたまるかッ!」

 繰り返す事を唾棄したからこそ、祖国で多くの若者の死を許容し、皇国の内戦を戦い抜いた。未来に損なわれるである国民(くにたみ)の生命を一つでも多く掬い上げる為、今、この場で血を流して勝ち得ねばならないものがあるのだ。

 手当たり次第に襖を開けるが、マリアベルの姿は愚か、人影すら窺えない。

 結局、断ち切る為にも血は流されるのだ。

 だが、己の血塗れの刃はマリアベルの病を断ち切ることはできない。

 立ち止まり、一際大きな柱に拳を叩き付ける。


「閣下」


「エイゼンターぁル! マリィの部屋はッ!」

 柱の陰より現れたエイゼンタールに気配がないことを気にすることもなく、トウカはマリアベルの所在を問う。最早、体面を取り繕う気などなく、トウカはエ イゼンタールの襟首を掴む。所詮は膂力に劣る人間種の振る舞いであるが、エイゼンタールは襟首を掴むトウカの手を優しく握る。

「此方です閣下。お早く」

 トウカの手を引いて、エイゼンタールが走る。

 戦狼族のエイゼンタールの膂力に引き摺られるように、トウカは最奥の一室の前へと導かれる。侵入者への対策としてか、同じ襖と柱の乱立する光景に過ぎないが、その一室の前……廊下には、一人の妖精種……セルアノが力なく漂っていた。

「無様な格好ね……サクラギ参謀総長」

「話なら後で聞いてやる。通せ」

 セルアノの言葉に取り合わず、襖に手を伸ばそうとするが、セルアノは素早く宙を飛ぶとトウカが襖へと伸ばした手へと舞い降りる。

 そして、トウカの頬へと手を伸ばす。

 女性の手の感触……ぬるりとした粘度のある液体の感触に、トウカは偵察騎から飛び降りた際に負傷したのだと思い当たった。興奮状態であった為か気付かな かったが、認識すればその痛みを神経が認識し、鈍い痛みがトウカを襲う。無論、斬られた訳でもなければ、被弾した訳でもなく、耐えられない程ではなかっ た。寧ろ、憤怒と羞恥で痛みなど塗り潰さんばかりである。

「配慮のできない男は嫌いよ。マリィを心配させないで。……これでいいわ」

 トウカの頬から蟀谷(こめかみ)へと、セルアノが右手を這わせる。小さいながらも女性らしい柔らかさを感じさせる手先の感触が伝わるよりも、引いた痛みにトウカは驚いた。

 驚いたトウカの表情に満足したのか、セルアノは鷹揚に頷くと、今一度、トウカの爪先から頭頂へと視線を巡らせる。

 顔を顰めたセルアノは溜息を一つ。

「その土足も何とかしなさい……あと、後ろの航空中尉、その軍帽を」

 振り向けば、トウカが落とした軍帽を手にしたヴィトゲンシュタインが息を切らせて立っていた。その行動を年若き乙女の健気と取るか、軍高官の軍帽を放置 する事で咎められる事への予防線と取るかは意見の分かれるところであるが、トウカは礼を述べると差し出された軍帽を受け取り、被り直す。

 そして、軍靴を脱いで廊下の端に投げ捨てると、襟元を正す。

「失礼した、政務官殿……通していただく」

 セルアノは黙って頷くと、トウカから遠のく。

 そして、トウカは襖に手を掛けた。









「マリィ……」

 トウカは、入室許可を得る事もなく、室内へと足を踏み入れる。

 作法など気にする事はなく、それはまた相手も同様であるという確信と、共に無駄を嫌うからこその芸当であった。そして、マリアベルが木材と紙片の複合物 の先にどのような姿であっても、その信頼と信用、何よりも向ける愛情が翳る事はないという確信があったからに他ならない。

 そこは然して広くはない和室であった。

 和室という表現が皇国標準言語に存在しない事は理解していたが、開け放たれたままの庭園の小石で形作られた水面や、咲き誇る季節外れの桜華などの風景 や、室内の衣文掛けや生け花、掛け軸などはトウカの良く知るものであった。祖国の様式に近いものは幾度か目にしたが、現在目の当たりにしているものは余り にも似すぎていた。

 だが、それをトウカは気にも留めない。

 その部屋の中央に敷かれた布団の上で上半身を起こしたマリアベルへと、トウカは近づく。ただ無言で、布団の上で顔を俯かせるマリアベルの脇へとトウカは片膝を突く。

「マリィ……」

 トウカは手を差し出し、マリアベルの頬へと触れる。

 マリアベルの顎に手を添えて、俯いた顔を上げさせる。

 意を決したかの様に、傍で片膝を突くトウカを見上げたマリアベルの(かんばせ)には翳があった。

 しかし、化粧を上手く施しているのか、目元に僅かな隈が見える程度であり、マリアベルの美しさに蔭りはない。マリアベルの顔に触れた手に化粧の粉末の残滓を感じ、小さく息を呑む。

 最早、どうにもならない。軍事力や経済力で克服でき得る問題ではない。トウカには、マリアベルを襲う不可視の理不尽に対抗する術はなかった。

「……トウカ。あまり見てくれるでない」

 マリアベルは恥ずかしげに視線を逸らすと、トウカの胸板へと顔を寄せる。

 顔色を見られたくないということだろうと察したトウカは、黙ってマリアベルを抱き寄せる。これで顔は窺えない。

 言いたい事も、話したい事も無数にあったはず。

 しかし、何一つ口を突いて出ることはなかった。

 喪われ往く事が避けられない姿を見て何が言えようか。

 水に濡れた様に艶が増した濡れ羽色の布地に、銀糸によって縁どられた色とりどりに咲き乱れる桜華、金糸によって刺繍された大きな旭日の紋様に彩られたその着物は、一見すると振袖とも見えたが、掛布団から一回り長めに仕立てられた丈と厚手の裾は、それが打掛(うちかけ)であることを示していた。

 黒を基調とした打掛というのは少ないが、紅蓮の旭日と、この世界の七弁の桜とは違う五弁の形状の桜は忘れようもなかった。

 祖国の軍旗と、祖国の桜華。

 前者はトウカがこの世界で将旗として戦野で掲げているものであり、後者は大山桜を花弁が重ならぬように二重にした桜城家の家紋であった。

「マリィ……似合っている。桜城の花嫁に相応しい」

 トウカは、一層強く、マリアベルを抱き締める。

 打掛は婚礼で新婦が纏うとされる着物である。

 その意図は明白であり、同時にトウカの言葉を封じた。

 痛々しい程の健気に、トウカは体内の血流の乱れを意識した。 

 熱を帯びる目頭と、鼻を突く鈍い痛みを、下唇を噛み締める事で押さえ付けたトウカは、花嫁衣裳のマリアベルの両肩に手を添えて、正面から視線を交わす。

「これ程に嬉しきことがあろうか……妾は御主の横に並び立つに相応しいかの?」

「御前がそうであるからこそ、俺は此処にいる」

 地位も権力も今となっては副次的な要素でしかない。停戦協定の擦り合わせを放棄してこの場に馳せ参じる一歩を踏み出した時点で、トウカは否定したのだ。

 自身とマリアベルの恋が偽りである事を。

打算も思惑もない。ただ男と女の恋に過ぎないと。

「なれば、なれば……っ、妾の最後の願いを聞いてはくれぬかっ!?」

 マリアベルは、トウカの言葉に無邪気な笑みを見せる。桜華の咲くが如き華やかな笑みを湛えた中に、散り往く儚さを潜ませるその姿は、トウカの胸を締め付ける。

 トウカは、涙が零れぬように笑みを顔に張り付け、鷹揚に頷く。

 予想はできていた。

 マリアベルが、確りと、それでいて熱に浮かされた瞳でトウカに願う。

「妾を貴方の花嫁にしてください」

 

 

 

 

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