第一四二話 誰が為の闘争
「……責任重大ね。私の郷土愛が燃え上がるわ」
紫苑色の髪を揺らして楽しげに笑うリシアに、周囲の士官達が口元を引き攣らせている。
トウカは市街戦に否定的な古典主義的戦術を好む将校に対して、「あの老害共が」と陰で嘲笑しているが、リシアとしては凄惨な市街地の現状を視察してみれば、市街戦に否定的になるのも致し方ないと考えていた。
しかし、そんな事を匂わせる素振りも見せず、リシアは嗤う。
指揮官の狂気が、隷下の将兵の恐怖を麻痺させるのだ。
ましてやこれから、あのクロウ=クルワッハ公爵に楯突こうというのだから正気でいられては困る。トウカは全軍に対して除倦覺醒劑の使用許可を出してすらいたが、既に現場の判断で独自に調達され、多くの覚醒剤や興奮剤が無許可で使用されつつある。総力戦の救いようもない一面が表面化しつつあった。誤射や誤爆が増加しつつあるのは、混戦状態であるだけでなく、そうした理由もあるのだ。
最早、誇り高き忠勇無双の皇軍の姿は何処にも見られない。
――郷土愛にも限界はある……でも、それを覚醒剤で穢す真似は強要したくはないわ。
無論、リシアは使用を拒否した。
自己判断で使用するならば止めはしないが、命令として使用させれば何の為に戦うのか意義を見失いかねない。
何よりも、リシアは信じている。
忠誠心こそが最も優れた興奮剤であり、愛国心こそが最も秀でた覚醒剤である、と。
否、そうでなければならないのだ。
リシアは、決意と覚悟を胸に二人の男へと向き直る。
「フルンツベルク中将、いざという時はお願いします。神龍と素手喧嘩できるなんて素敵ですね」
「こ、小娘ぇ……俺を殺す気か? いや、分かっている。姫様の糞親父を殴れるなら、野郎としては本望だろう」
拳を鳴らして野生み溢れすぎる笑みを浮かべる無精髭……フルンツベルクの戦意に不足はなく、周囲の〈傭兵師団〉の面々も同様であり、軍人とはまた違った猛々しさを感じさせる。〈傭兵師団〉は、大陸各地を転戦してきた精鋭だけあり、フェルゼンを巡る戦闘でも比類なき勇戦を見せ、特に市街地で咄嗟的に起きる近接戦闘では隔絶した戦闘能力を見せ付けた。
この周囲でも〈傭兵師団〉の兵士は縦横無尽の活躍を繰り広げており、派手な戦いを繰り広げる鋭兵とは反対に、泥臭いながらも堅実な戦術で征伐軍将兵を苦しめていた。簡易罠や狙撃、夜襲、伏撃などを徹底して人員損耗を避けつつ、敵に緊張と精神的疲弊を強いり続ける戦術は、トウカの指示したものよりも遙かに徹底されており、そして容赦がなかった。
斃れ伏す友軍兵士の下に設置された指向性対人地雷や、睡眠時間を奪う様に夜襲を繰り返すのだ。特に後者では、音を立てぬように敵陣地へと近づき、刀剣類 のみを使用した近接戦闘で多くの敵兵を斬殺していた。眠りに落ちた敵兵の喉を斬り裂き、燃料油を撒き、天幕に火を放つ彼らは夜を支配していたと言っても過 言ではなく、征伐軍将兵の精神を致命的なまでに圧迫した。
無論、追い詰められているのは北部統合軍将兵も同様であり、市街戦では友軍同士の誤射が続出し、命令違反による銃殺や上官への反抗も多発していた。捕虜 の殺害や捉えた女性兵士への強姦なども後を絶たない。憲兵隊も激しい銃火の中では全く機能していなかった。憲兵隊指揮官のハイドリヒ中佐などは、技能職で
もある憲兵を易々と喪えないとして大多数を比較的安全な砲兵戦力の護衛として運用している為、各員の善意のみに頼るしかなかった。
最早、大陸随一の道徳心を有した皇軍の名誉はそこにはなかった。
ただ、眼前の敵を殺し続け、己の生存を希求し続ける。
「何処かの従軍神官様なら悦んで祈ったはずです。……いえ、しぶとく生きているらしいので、牢の中で祈っているかも知れないわ」
祈るだけならば誰の迷惑にもならない。天霊の神々は、物質主義者のリシアに祈られては迷惑するかもしれないが。
「ほぅ、ラムケの奴は生きているのか? あの莫迦め、貴様といいヴァレンシュタインの小僧といい、随分と奔放な教育をしているな」
フルンツベルクの言葉に、リシアは肩を竦めるに留める。
ラムケが院長を務める孤児院出身の若者は各方面で“勇名”を馳せているが、問題行動も多い。リシアやザムエルの場合は、トウカの派閥に与していると思われている為、場面によっては顰蹙を買う事もある。特にザムエルは〈装甲教導師団〉の編成に当たって、厳しい戦況下で多くの要望が叶えられ、その代償に他の部隊の編成に皺寄せが生じた事もあり逆風も強かった。
育ちの良い女ならば、失神しかねない悪臭に満ちた抵抗拠点の端だが、リシアは寧ろ明るい狂気の滲む声で笑声を零す。
「ええ、フルンツベルク中将、その点については些か自身がありましてよ」
何処かの貴族令嬢の様に、軍用長外套の端を摘まんでリシアは一礼して見せる。
その遣り取りに周囲の下士官と兵士から笑声が零れ、士官が諌めるべきかともに笑うべきかと困り顔になる。
「小娘、御前、参謀総長に似てきたぞ。気を付けるんだな。それでは男が逃げる」
フルンツベルクの言葉に、周囲の兵士から「なら小官が立候補致しましょう」「いやいや、ここは私が……」などという声が聞こえるが、むさ苦しい傭兵はリ シアから願い下げである。無論、トウカの様に、必要以上の筋肉を付けず、外見上は一般人と変わりなく見える様な軍人というのも少数派である。トウカは必要
以上の重量増加を嫌い、瞬発力を重視した身体造りをしているとの事で、厚手の軍装の上からではとても実戦に耐え得るようには見えない。これは、トウカの剣 術が速度を重視したものであるからであるが、当然ながらリシアは知らなかった。
「軍人は、乱暴、粗暴、兇暴が当たり前。そこに陰謀、共謀、密謀が同衾してこその参謀でしょう。今の時代、そうでなくては女の身で参謀たるの頂点に立たんとするは叶いませんわ」
それは、リシアの忌憚なき心情と言えた。
マリアベルにミユキという強大な障害を優越するには、リシアは軍事的に大成するしかない。人間種という短命な種族が短期間で権力と名声を得たいならば、武力か商業しかなく、リシアは前者を選択した。
「その程度の覚悟無くして、参謀総長を組み敷くこと能わないでしょう」リシアは嗤う。
少なくともその覚悟で当たらねば敵わない事であり、今この時、戦野に在って何時命が喪われるかも定かではない状況では心の内を隠す気など起きなかった。
であればこそ、リシアはこの場にいるのだ。
囃し立てる〈傭兵師団〉の兵士達に微笑みながら、リシアは一人の佐官へと向き直る。その佐官、中佐であることを示す肩章と砲兵であることを示す襟章を付けた将校は、疲れた表情でリシアに視線を向けていた。
「ヴァイトリング中佐、外さないで下さいね」
砲兵部隊指揮官として、ヴェルテンベルク領邦軍で最も著名な指揮官であるヴァイトリング砲兵中佐は、その卓越した砲兵運用から領邦軍内では砲術の権威と して勇名を馳せている。領邦軍士官学校砲兵科の教育方針も彼によって策定されたと言っても過言ではない。つまりは、ヴェルテンベルク領邦軍で最も火砲に通 じた者であり、この一戦に於ける重要人物とも言えるのだ。
中年に差し掛かろうとしている精悍な佇まいの金髪のヴァイトリングは、居心地の悪さを感じて咳払いをする。
「まぁ、目標は大きい。足止めが叶うならばば当てて見せましょう」
少なくとも近接砲撃と言える距離からの砲撃を外す心算はないというヴァイトリングに、リシアは大きく頷く。
アーダルベルトを殺害する手段として、英雄を決定打としない。
それがトウカの思惑であり、フルンツベルクと共に足止めに参加するベルセリカですら決定打として用いられる事はない。無論、ベルセリカも連戦によって疲 労しているという事もあるが、トウカの高位種の象徴的存在とも言える七武五公の一角を純粋な兵器によって撃破したいという思惑が見て取れる。
ヴェルテンベルク領で製造される兵器の優位性を示し、戦後の兵器輸出拡大を成そうというのだ。
戦後復興に多くの資金を必要とされるとは言え、戦時下でも金策に尽くそうとする姿勢は、政略家としての側面を窺わせた。そして、それはトウカが後にそれ を成す立場にある事の表れであり、既にヴェルテンベルク領の方針を策定している立場なのだ。だが、マリアベルが黙認している以上、トウカが後継者として指 名されたと見る事もできる。
その時、リシアはどう身を振るべきか。
困ったことに、トウカが貴族と同等の権勢を振るうとなれば、その横にいるべきは貴族となったミユキこそが最善であり、多くの批判や謀略はそれ一つで回避できる。
――それだけはさせない……
燃え上がる野心。飽くなき権力への渇望が、リシアを戦野に縛り付ける。
「ふふっ、神龍の剥製って高く売れるでしょうから、褒賞は望むままですよ、御二人とも」
そして昇進も、と付け加えてリシアは満面の笑みを浮かべる。
戦場に渦巻くのは悲哀と憤怒だけでなく、野心や野望もまた同様である。
しかし、己の野心と野望を満たし得る事に成功する者は少なく、野晒しの屍となる者が大半である。成功すれば多くを手に入れられる代償として失敗すれば総 てを喪う。何とも分かり易い事であり、リシアはそうした部分が嫌いではない。勿論、失敗すれば嫌いになるだろうとも確信はしていたが。
本来は情報参謀であるリシアがこの場にいる事自体が間違いであるが、リシアは望んでこの場に立ち、現場の掌握を独断で行っていた。既に総司令部は指揮統 制が半ば崩壊しつつあることを察して、各前線の大隊指揮官に多大な権限を与えており、後退や奇襲、連携、支援を自らの判断で行えるようになっていた。フェ
ルゼン各地に分散した物資集積所や地下道を利用した輜重網によって継戦能力を維持しつつ、地理に明るい義勇擲弾兵が昼夜問わずに侵攻してきた征伐軍部隊を 迎撃する。列車砲部隊や砲兵部隊、航空部隊などは支援の為に総司令部の指揮系統から離脱していないが、逆を言えば、それ以外の地上戦力は自由気儘に迎撃行 動を行っていると言えた。
なればこそ、リシアが前線に現れて階級を利用して部隊を掌握する事は難しくない。
トウカがクロウ=クルワッハ公爵撃破の為に立案した作戦は事前に聞かされており、その筋書きに従えば戦果を挙げる事は難しくないとリシアは考えていた。
しかし、統率する指揮官はいない。
トウカは、未だこの場に現れてはいなかった。
強いて言うなれば作戦自体が博打に近く、それでいて極めて単純な内容なので必要性が薄いという事も大きい。そもそも、あの強力無比なクロウ=クルワッハ公爵を相手に複雑な作戦は逆に混乱を招きかねず、将兵がそれを実行できるだけの戦意を維持できるかという不安もある。
無論、ベルセリカやフルンツベルクという将星を統率し得る人材がいないという理由もあった。元帥と中将の階級を持つ二人を指揮下に入れるのであれば、元帥か、或いは軍務卿の地位が必要となる。
多くの事情から統率者がいない現状だが、リシアは戦中の混乱に紛れて指揮官“らしい”立場に入り込みつつある。あくまでも助言を述べる立場に留まってお り、成功すれば功ありと判断される様に動き、失敗した場合はあくまでも部外者であるという立場を堅持するという思惑があった。
ベルセリカは、それを察しているのか感心と呆れを含ませていたが、斬馬刀の手入れに忙しいのかこの場にはいない。高火力と純粋な戦闘能力による足止めと、奇想兵器による決定打にはリシアの悪知恵など然したる影響を齎さないとの判断である事は疑いない。
――私の野心の肥しになって貰うわよ、クロウ=クルワッハ公爵。
リシアは、南の空を見上げて野心に染まった笑みを零した。
「マリア様は主様のこと好きなんですか?」
ミユキは首を傾げつつも訊ねる。
マリアベルは葉巻を燻らせて、隣に浮遊しているセルアノに視線を向けるが、望む表情ではなかったのか、手にしていた葉巻を静かに圧し折る。
三日前、マリアベルが態々〈大洋軍艦隊〉の中でも水上から陸海空の総軍の戦力を統率するべく特設された指揮巡洋艦で一夜を共にしたという噂を聞き付けたミユキであるが、直接訊ねたところで簡単に答えてくれるはずもない。
しかし、ミユキの嗅覚は誤魔化せない。
マリアベルにトウカとの情事の匂いがなくとも、情事を行った場所には匂いが染みついているものである。
まさか葉巻如きで天狐の嗅覚を誤魔化せると思ったのならお笑い草である。
狐は狡猾なのだ。
そして恋する乙女は手段を選ばないものである。
だが、ミユキが貴族の特権を振り翳したとして、北部統合軍を水上から指揮している黒鉄の城の、しかもマリアベルの為に改装された長官公室に入室を許され る訳がない。だからこそキュルテンを唆して、変装して共に戦闘航行中の重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉へと潜入を試みたのだ。
そうした理由もあって、ミユキは侍女服のまま縛られて転がされているという有様である。ちなみにキュルテンも同様の姿で隣に転がされている上に、エイゼンタールがその上へと腰を下ろしていた。これでは逃げ出せない。
正直なところ重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉への侵入は簡単であった。
航行中の戦闘艦という水上で独立した空間に侵入者が現れるなど考えていなかったのか、極めて小型の、情報部が使用している特殊作戦用の内火艇である程度 の接近は容易であった。近づいて内火艇を沈没させて証拠を隠滅。そのまま泳いで重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉の舷側に辿り付いたのだ。魔導探針儀も魔術
を使用するか、それ相応の規模の物体しか探知できず、見張り員はシュットガルト湖という閉鎖された一種の内海である事から水上警戒を怠っていた。周囲に護 衛の〈ベルント・ヴェルネンカンプ〉型艦隊駆逐艦六隻が展開し、その警戒線を撃破もせずに突破する事など想像の埒外であったのだ。
結果、対空警戒だけに気を取られていた見張り員は、犬掻きで近づく仔狐に気付けなかった。キュルテンは狼の姿であった為に間違いなく犬掻きである。
という経緯は“建前”である。
つまり、マリアベルにこうした経緯を説明する状況を作り出す事で鎌をかけているのだ。
重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉の長官公室に侵入したのは事実であるが、常態的にマリアベルが葉巻を飲んでいる為、鼻が曲がって匂いを嗅ぐどころではな かった。通常の建造物なら窓が設置され、定期的に換気されているかも知れないが、戦闘艦の、それも本来は水上艦隊の総指揮を執る指揮官の為に設えられた部
屋であるだけであり、構造上の弱点となる窓など設置されているはずもない。空調系すらも独立した設備として設置されているが、それも葉巻の匂いが移ってい る為に役に立たなかった。
つまり、トウカとマリアベルの逢瀬の匂いなど見つけられるはずもなかった。
挙句の果てには葉巻の匂いに気分を害し、抜け出そうとする途中に艙口に尻尾を挟んで悲鳴を上げて水兵に見つかるという失態を犯している。
踏んだり蹴ったり……もとい、濡れたり挟んだりである。
だが、少なくともマリアベルは、ミユキが全てに気付いたと錯覚しただろう。
床に転がされたままに、ミユキはマリアベルを一心に見上げる。
トウカは、ミユキに実に多くの事を語り、教えた。
その中の一つに、ヒトを騙し、嵌める時は善悪の視点を排し、損益の多寡を以て判断基準とする。
自身が正しいと考えれば、正義感は表情に滲み、驕慢が言霊に乗る。
自身の良心が痛む真似は、罪悪感に表情が歪み、悪意が言霊を偽る。
だから、そうした感情ではなく、官僚的に自分の行動によって周囲の者達がどの様な損益を蒙るかという一点を基準にする事で、自らの価値観を抑え込み、曖昧にする。限りなく臆病で消極的な発想と手段であるが、ミユキにはよく合っていた。
ちなみにこの場合の利益とは、ミユキとトウカの関係の継続によって生じる天狐族の立場強化で、損失はマリアベルとの関係悪化による天狐族の政治的孤立で ある。トウカとマリアベルが一体、どの様に一夜を過ごしたのか非常に気になるという好奇心と猜疑心、そして何よりも不安を押し殺して損益だけを考え続ける ミユキ。
激しく揺れる尻尾が色々と台無しなのだが、それも表情で十分に抑え込める。寧ろ、大きく振って威嚇しているように見せればいい、とトウカの助言通りである。……まさか、トウカも助言が、マリアベルへの鎌かけに使われるとは予想していなかっただろうが。
マリアベルは、圧し折った葉巻を専用灰皿に押し付けて、ゆったりとした造りの椅子からミユキを見下ろすだけであった。
青白い顔は、透徹された無表情。
窓際に漂うセルアノやキュルテンを押さえ付けるエイゼンタールも、マリアベルの表情に怪訝な表情を浮かべている。マリアベルという女性は、どちらかと言 えば感情の振れ幅が大きい女性で、交渉の際に感情を露わにする事が多く、長命種の年経た者達とは一線を画する一面があった。
そうした一面があったからこそ、ミユキだけでなく多くの領民や若者達がマリアベルという女性に、気安いままに、気心の知れた様に振る舞えた。共に在るという充足感と、飾り気のない笑みが多くの者を奮い立たせるのだ。
マリアベルとは、そうした女性でもある。
鋼鉄の君主……装甲姫という側面を持ちながらも、そうした正反対にも思える側面を持つマリアベルは、自由気儘に振る舞う無邪気な暴君。
だが、今の様に無表情である事は、ミユキの知る限り皆無である。それは、セルアノやエイゼンタールも同様なのか、怪訝な表情であった。
マリアベルの視線とミユキの視線が衝突する。
しかし、マリアベルの感情が揺れることはなかった。
ミユキはステア島の古びた小さな洋館の一室に連行されたのだが、トウカはいない。トウカが居れば大いに狼狽え、尤もらしく用意していたであろう弁解を幾つも口にしただろう。
トウカが、この場にいないのは、多くの意味で幸運であった。
動揺するか、弁解するかという事を期待していたミユキからすると困惑するしかない。もし、笑い飛ばしてくれるなら、ミユキも自分の想像力の逞しさに笑うだけで済んだ。弁解するならば、強大な恋敵の登場に最大限の警戒と溢れ出さんばかりの嫌味を撒き散らしただろう。
しかし、無表情とは何事か。
トウカならばどの様に判断するだろうか、とミユキは思考を巡らせる。
残念ながらトウカは、この場にはいない。
総司令部として運用されているのであれば、トウカが重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉に座乗しているという期待もあったが、既に前線に“英雄”を必要とす る程に前線は逼迫している。トウカは士気を鼓舞する為、前線付近へと装甲擲弾兵大隊を直卒しつつも、周辺部隊を有機的に運用していた。既に参謀本部などの 存在が意味を成さなくなる程の混戦であり、全体の統率は総司令部が辛うじて行っていた。
参謀本部の将官の多くは、積極的に前線に現れては前線部隊に“助言”を繰り返している。上位者も積極的に危険に対して身を晒す事で前線を支えていた。こ れには周囲に活躍していることを印象付けるというトウカの個人的な目的もあり、内戦後に纏めて昇進させて参謀本部の権勢を確立させようという思惑があった のだ。
当然だが、ミユキはトウカの権力への足固めなど知らない。
よって、トウカがこの場にいない事は当然と言えた。トウカが重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉に座乗していたならば、ミユキがステア島に連行される事はなかっただろう。
「へんと~してくださいよぅ。わたしおこってないですよぉ?」
取り敢えず、反応を窺う。
上ずった声になるが、それは致し方ない事である。
ロンメル子爵領にいるマイカゼに泣き付いても、楽しげな笑みを浮かべたままに「あら、私も囲って貰おうかしらね?」と呟くだけで、この一件では助言すら寄越さなかった。当人同士の問題と考えているのか、或いは嘗て色男として“活躍”していたシラヌイを射止めた練達者であるが故に狼狽えないのか。ミユキには分からないが、この件に関して味方はいないのだ。シラヌイに教えるのは論外であり、他者に相談することは不仲という噂が流布されかねないので難しかった。
「これはゆゆゆしきことですよっ!」
後ろ手に縛られたまま、ミユキは床をごろごろと転がって、一大事だと騒ぐ。大きな胸が邪魔をして非常に転がり難いが、手足を縛られているので身体で表現するにはこれしかないのだ。勿論、尻尾も全力で振っている。
マリアベルは、無表情のままに溜息を一つ吐くと、エイゼンタールへと頷く。
エイゼンタールはキュルテンの押さえ付けを止めて、無言で敬礼すると、ミユキの戒めを丁寧に解く。脱走の構えを見せたキュルテンだが、エイゼンタールは抜き放った曲剣や軍用短刀で問答無用にキュルテンの軍服を床に縫い付ける。
ミユキは床に座ると、上半身を傾いで椅子に座るマリアベルを見上げる。
溜息を吐きたいのは、ミユキである。
もし、トウカとの関係を肯定されれば、寝取られたという事であるのだ。
貴族同士の痴情の縺れなどミユキからすると全く興味のない話であったが、当事者となれば権力を使ってまでも争いたいという気持ちは分からないでもないとミユキは思った。ヒトという生物は、究極的には当事者とならねば、その境遇を真に理解し得る事はないのだ。
狂おしい程に求めるからこそ、自身が行使し得る事のできる手段全てを以てして応じる。単純なことである。故にミユキは引かない。
圧倒的なまでの圧力に、厚みのある存在感が、ミユキの視覚を圧迫するが、何とか姿勢を正し、膝を突き合わせるような位置から、その無機質な瞳を見上げる。
恋は戦争なのだ。
だから宣戦布告もあれば、降伏も同盟もあり得るのだ。
ミユキは訊ねる。
「私は主様が好き……マリア様は?」
だが、戦争をするならば最低限の意思表示は必要であろう。
歓迎すべき友軍か。
唾棄すべき敵軍か。
胡散臭き中立か。
判断せねばならない。
しかし、マリアベルは無機質な表情のままに、椅子から立ち上がると、ミユキの前に立つ。
「まっこと憎い害獣よの……御主さえ居らねば……」苦痛に満ちた声音。
ヒトを呪わんばかりの言動に、ミユキは身が竦みそうになるが、それを表情に出すこともなくマリアベルを見上げる。異邦人の仔狐として、天狐族の姫君として、皇国貴族としてミユキはマリアベルと相対した。
そっと、ミユキの眼前で膝を突いたマリアベル。
無機質な瞳が揺らぐ。
僅かな憎悪に、少しの悲哀……そして、幾多の感情が軋みを上げるかの様な表情。
唾棄すべき敵軍が斯様な表情を浮かべているという現実。
不愉快だ。
被害者は自身であるはずなのだが、双方の表情を見ればどちらが被害者であるかなど容易く逆転してしまうだろう。無論、この場にいる者は皆が状況をよく理 解している為に、ミユキに非難の視線を向ける事はないが、セルアノに関してはマリアベルの”事情を“知っているのか視線を逸らして遣る瀬無い表情をしてい る。
不意にマリアベルは、口元を押さえて咳き込む。
粘着質な音が響き、マリアベルの口元を押さえていた手の指の隙間から、赤い液体が零れ落ちる。
浅黒い色をした血が床を零す。
龍族特有の病は循環器系を侵食する。蝕まれた体内の臓器が悲鳴を上げているのだ。
慌てたセルアノが近づいて手拭い(ハンカチ)を差し出すが、マリアベルはそれを片手で振り払うと、普段着として纏っていた落ち着いた模様の打掛の袖で口元を赤く彩る血を乱暴に拭い、真正面からミユキを見据えた。
「妾は、心も身体も惰弱な龍に過ぎぬ。巷では装甲姫と呼ばれておろうが、今となっては余命幾許もない死に損ないぞ……誰も彼もが勝手に期待してくれおってのぅ」
忌々しい、と呟くマリアベル。
血を口元から流しながらも、懐から煙草箱と点火機を取出し、葉巻の吸い口を噛み切っているマリアベルは、何処か荒んだ、投げやりな気配を纏っている。
否、既に生命が喪われつつあると知っているからこそ、一切合財を着飾ることを止めたのだ。
火を付けて咥えた葉巻を燻らせるマリアベル。
病魔に犯され、それでも尚、葉巻を手放さない光景は、口元の拭い損ねた吐血の跡も相まって鬼気迫るものを感じさせた。
最期が迫りつつある今、好きにさせてもらうという意図を見たミユキは、痛々しいその姿に思わす視線を逸らす。
哀れだ、とミユキは思った。
領地を与えられて神龍族より排斥され、転封された土地は当時、辺境と呼ばれていた痩せ細ったヴェルテンベルク領。発展と繁栄の為、多くの無理を続けたが故に、病の進行は早まったに違いない。
本来ならば、もう少し生き長らえることができたのではないか?
死神にその魂を刈り取られつつあるからこそ、マリアベルは敵足り得ない。
滅びを避けられない敵が、一体、何を求めるか?
軍事学に明るくないミユキには分からないが、女としては理解できるものがある。
――ど、どうしよう……
誰かに寄り掛かるマリアベルの弱さを、ミユキは理解できた。
しかし、認めることはできない。
認めてしまえば、マリアベルは、トウカに自身という存在を一生残る記憶……傷として残しかねない。勿論、それはミユキにとって辛い事であるが、それ以上 にマリアベルという卓越した美貌の指導者と、長きに渡って比較されることに対して臆していた。リシアですらトウカとの恋愛に対して、マリアベルが介入する 事に対して最大級の警戒と懸念を見せていることからも分る通り、ミユキもまた同様である。
マリアベルは紫煙をゆっくりと吐き出すと、葉巻を圧し折り、床へと押し付ける。
「……トウカを貸せ。三日で佳い。それだけで……佳い……」
マリアベルの視線が、懇願する色を帯びる。
「だ、だめです。今のマリア様は、主様の傷になっちゃいます、きっと」
それだけは嫌だ、とミユキは首と尻尾を横に振る。
若しかすると、トウカは後々、自身の遣り様を非難するかも知れない。しかし、それでも尚、合わせたくはないと、ミユキは表情を歪ませる。
マリアベルも悲しげに表情を歪ませているが、ミユキもまた沈痛な面持ちで首を横に振り続ける。流れそうになる涙を堪えて拒む姿に、セルアノが目を背ける。
マリアベルは、これ以上ない程に誠意を見せている。
装甲姫であり軍事力の行使によって身を立てたマリアベルであれば、ミユキを排除する為に鋭兵部隊を動員して拘束すれば済む話であり、それを躊躇わない一面を持ち合わせていることは周知の事実である。
だが、それをしなかった。
あくまでも真摯に、ミユキに願ったのだ。
そんな不器用でいて、正面から懇願を問答無用に拒否することは、ミユキに問とっても耐え難いことであり、心に負担を強いることであった。
同じ女として、マリアベルの心情は察して余りあるものがある。
だから、これ以上、懇願されれば抵抗できない。
しかし、マリアベルは口にする。
「せめて、女として死なせてくれぬか?」
卑怯だ。
狡い。
そんな言い様をされては、頷くしかないではないか。
両目をぎゅっと瞑り、何度も頷くミユキ。
マリアベルは、済まぬ、と立ち上がる。
廃嫡の龍姫の終焉と、自らの恋心の行く末に、仔狐は涙を零した。