第一四五話 女の戦い
「マリア様っ!」
ミユキは、激しく咳き込むマリアベルに詰め寄る。
口元を押さえて蹲るマリアベルに駆け寄るのはミユキだけでなく、セルアノも同様であり、エイゼンタールを呼び付けるとマリアベルの顔に付いた血を拭う。
床に伏したマリアベルを、ミユキはセルアノと共に布団へと移動させる。
ステア島は、フェルゼン近郊に飛行場を設営した征伐軍によって偵察飛行圏になりつつあった為、現在はベルトラム島というシュットガルト運河に近い位置に 存在する島へと身を寄せていた。幸いにしてベルトラム島には、大商人の別荘として利用されていた神州国の建造様式に沿って建築された屋敷があったので、こ こを拠点とすることになった。
既にフェルゼンでの攻防戦は完全な混戦になりつつあり、各々の部隊の勇戦のみによって支えられていると言っても過言ではない。特に弾火薬の欠乏が表面化して次々と沈黙を強いられた砲兵隊の戦力的空白を埋めることができなかったことが戦局を不利なものにしている。
その血戦の最中に、重巡洋艦〈プリンツ・ベルゲン〉も航空攻撃を受けて中破の被害を受けている。大洋軍艦隊も巡洋艦や駆逐艦などの残存艦艇を座礁覚悟で フェルゼンにまで近づけ……座礁させてまで主砲などの備砲を砲兵隊の代わりに運用して火力支援をするという無理まで行っているのだ。
まさに総力戦である。
しかし、ベルトラム島は長閑なもので、砲声一つ聞こえない。
ステア島の古惚けた洋館で護衛についていた一個鋭兵小隊も既に、マリアベルが余剰戦力を嫌ってフェルゼンへと転進させている。
よって本来は無人であるベルトラム島には、この場にいる三人と護衛や身の回りの世話としてエイゼンタールとキュルテンがいるだけであった。
「マリィ……貴女……もうこれ以上は……」遣る瀬無さげな表情のセルアノ。
既に医師や医療魔導士なども匙を投げており、意味があるかどうかも明確ではない医療を受ける心算はないとマリアベルが拒否したこともあって、治療は一切されていない。
ミユキは、それを黙って眺めるしかできない。
トウカは、未だマリアベルの寿命が迫りつつある事を知らないだろう。
施された化粧はマリアベルの表情から病魔の影を完全に隠し遂せていた事もあるが、そうしたことを窺わせる立ち振る舞いを、トウカの前だけでは断じて見せ なかった事が大きい。病魔に身を犯され、立っているだけでも相当な痛みを伴う状況で、人間種の若者としては鋭い観察眼を持っているトウカを欺き続ける点は 女の執念と表現するしかなかった。
そうまでして気取られたくはないという想いに対して、ミユキとセルアノは口を挟む事ができなかった。
間違いなくそうした無理は、マリアベルの寿命を削っているのだが、マリアベルは最後のその時まで病人ではなく、女として生きる道を選択したのだ。
それは、同じ女であるミユキにとって尊敬に値する事である。
しかし、最早これまで。
アーダルベルトを討ったという報告をトウカから直接に聞きたいと、玄関で待ち続けていた為に体調を崩したのだ。無論、それは建前で、一刻も早くトウカの顔を見たかったのだろう。普段の振る舞いからは想像もつかないような健気である。
止むを得ずミユキとセルアノは二人して、マリアベルを私室へと押し込んだのだが、風邪を引いたらしく、時折、血の混じった咳を零していた。
本来、高位種は高い抵抗力を有する為に人間種などが掛かる様な病に掛かる事はないが、今のマリアベルは病によって抵抗力を失った状態である。通常ならば気に掛けることもない病を気にせねばならなかった。
「こ、ここまでか……死にたくは、ないのぅ」やつれた顔を歪めたマリアベル。
布団を押し退けて身を起こした姿は、痛々しいの一言に尽きる。
セルアノが衣文掛けの豪奢な大振袖を手に取り、その重みによろけながらも六枚の羽根を器用に動かしてマリアベルの肩へと掛ける。病人扱いされること嫌うマリアベルは、その衣服もまた落ち着いたものではなく、長襦袢の上から黒の大振袖も金糸で桜華があしらわれていた。
眼を閉じて沈黙するマリアベル。
開け放たれたままの襖の先から吹き込む暖かな朝東風。
温度管理の為の魔導障壁によって形作られた常春の小さな庭園は、マリアベルの私室と縁側を挟んで繋がっており、嵐州藺草によって編まれた畳の鼻孔を擽るような陽光の薫りと共に春を感じさせた。
無論、それは箱庭に作られた小さな紛い物の春。
マリアベルの紫苑色の髪が、偽りの春風に揺れる。
「……ミユキ」
ゆっくりと開かれたマリアベルの瞳が、ミユキを捉える。
優しさを湛えた瞳に見据えられて、ミユキは尻尾を揺らす。
「妾は、っ死ぬ……トウカをっ、残してのぅ」血混じりの咳と共にマリアベルが呟く。
セルアノが顔を俯かせるが、ミユキは黙ってその言葉に頷く。
だからこそ、ミユキはマリアベルがトウカとどの様な事を語らうのか、逢瀬をしているのかという点について気にはしても、見苦しく問い正せずに済んだ。死に往くからこそマリアベルが永続的な恋敵足り得ないと割り切る事ができた。
例え、マリアベルが死に往き、過去となってトウカの傷になっても、ミユキにはその傷を癒す機会が与えられている。そう思う事で耐える事ができた。
無論、マリアベルという名の傷が、トウカから完全に消えるか否かまでは分からない。しかし、十分にそれを成す為の時間が自分に残されている事を知るが故 に、眼前のマリアベルを見てミユキは安堵してしまう。その卑しさは、自分でなければ殺したくなる程に嫌悪する類のものであるが、それ故にミユキはマリアベ ルを非難することができないでいた。
「トウカが、あと一〇〇年……早く現れて、おればっ」
咳き込むマリアベル。黒々とした血が純白の掛け布団に華を咲かせる。最早、素人目に見てもマリアベルが助かる状態ではない。
マリアベルが潰える。
つまり、北部の未来も潰える。
廃嫡の龍姫が望んだ未来が如何様なものであったかは、ミユキには分からないが、それが叶えられていないことは察することができた。
だが、そんなことは然したる問題ではない。
ミユキからすると北部最大の軍事拠点にまで攻め入られた時点で、勝てるとは考えていなかった。トウカが、軍事とは政治的優位を獲得する為の手段で、必ず しも軍事的勝利が政治的利益を得る為に必要とは限らない、と口にしていたので、恐らくは利益のある敗北を考えているのだろうとミユキは考えている。
そうでなければ、フェルゼンまでこうも鮮やかに後退を繰り返せるはずがないのだ。
そして、マリアベルはその結果を見ることなく散り往こうとしている。
天霊の神々は斯くも残酷な現実を用意していた。
北部で天霊神殿の求心力が著しく低下しているのは、間違いなく神々が碌でもない連中であるからだというトウカの何時の言葉は正しかったのだ、とミユキは悟る。
哀れな事である。神々の息吹が感じられない寒風吹き荒ぶ大地で、運命にも見放されようとしている。
総てに絶望され、呪われている。きっと、そう思っている事だろう、とミユキは考えていた。
だが、それは少し違った。
マリアベルは、自らの血によって塗れた右手で、ミユキの頬を撫でる。
生温い感覚に尻尾が総毛立ち、狐耳がぴんと逆立つ。
「憎い……憎い、トウカの横にぃ、当然の様に並び、立っておる御主が憎いッ」
静かな、それでいて確かな憎悪と狂気を感じさせる声音。
それがミユキを責める。
セルアノに助けを求める視線を投げ掛けるものの、それは沈黙を以て返される。
ミユキがマリアベルの立場であれば、それは当然のことだと考えるが故に、マリアベルの憤怒と悲哀に対する言葉が見つからない。
ミユキの言葉は届かないのだ。寧ろ、感情を昂らせ、更に病状を悪化させるだろう。
トウカの番であるが故に。否、恋敵であるが故に。
再びマリアベルが血混じりの咳を、二度、三度と繰り返す。
だが、そこには血だけでなく、頬を伝う涙が混じっていた。
そして、死に際の願いが悲しみの雫と共に零れる。
「トウカに……トウカにッ……逢いたい……逢いたいっ!」
死に際の女の願い。
廃嫡の龍姫が散り際に遺す願いが、一人の男を求めるものであったとすれば、多くの者は驚くだろうが、マリアベルもまた指導者である以前に女なのだ。
こんな結末はあってはならない。
血の咳と共に嗚咽を漏らすマリアベルを見て、ミユキは立ち上がる。
黙って立ちあがった事を不審に思ったのか、セルアノが近づくが、ミユキは黙って廊下へと続く襖へ手を伸ばす。
「貴女、何処へ……」
セルアノの問いに、ミユキの感情の炎が燃え立つ。
――そんなこと、今更ですッ!
知れたことである。
「私、主様、呼んできます!」
戦争も政治も知ったことではない。
襖を開け放ち、後ろから響くセルアノの制止を振り切る。
恋が戦争に劣るというのか。もし、そう断じるのであれば、ミユキはトウカを引っ叩かねばならない。
「恋だって負けられない戦争なんです!」
ミユキは裸足のまま庭園に飛び出すと、空を見上げる。
大空には、一騎の龍騎兵が羽ばたいていた。
「参謀総長まで前に出るのか……聞いていないぞ、これは」
ヴァイトリングは、破壊されて瓦礫となった建造物に埋もれた広場へと繋がる小さな通りから、二人の高位種と高射大隊、トウカによる誘引作戦を、手にした槊杖を握り締めて一心に視線を向け続けていた。
当初は、ベルセリカとフルンツベルクによる誘引とされていたが、何故か毛並みのいい高位種の狼に跨乗したトウカまでもが参加するというのは想定外であっ た。フルンツベルクには動揺した気配があったが、ベルセリカは察していたのか元より知っていたいのか血塗れの儘に嗤うだけである。
――もし、サクラギ中将が戦死なされば、ヴェルテンベルク伯は何と言われるか……
間違いなくこの場にいる将校は死を賜ることになる。そんな確信があった。
トウカとマリアベルの関係が只ならぬも のであるという事は、ヴァイトリングも理解している。当然であるが、マリアベルの側近から漏れた噂という訳ではなく、トウカの要求が全面的に受け入れられ
るという点からそうした関係が囁かれていた。特に北部統合軍体制成立が布告された舞踏会以降のトウカの指示は政務や経済にも及び、軍人の領分を軽々と逸脱 している。そして、それをマリアベルが許すという状況を、トウカの指示によって成されたという事を知らない多くの者は、何処か現実感のない目で見ていた。
だが、ヴァイトリングは怪しむのではなく、確信していた。
要職を担う軍人や重責を担う政務官僚などは、流石に政務や経済に纏わる指示にトウカの介入がある事を察していた。軍事も政務も、やはり組織を運営する為 には管理職が必要不可欠で、それらとの意思の疎通を図らずには事を成せない。そしてその場に、何時もトウカがいれば、ヴァイトリングとて気付く。
トウカとマリアベルは深い関係にある。
それが性的な関係か、共犯者としての関係か、若しくは純粋な恋愛関係かまでは分からないが、マリアベルがトウカに酷く固執している事は隠しようもない事実である。
政戦を壟断する、とそれを危惧する者は多いが、ヴァイトリングの場合は卓越した軍事的視野を持つトウカが、マリアベルと連携する事を大いに歓迎してい た。ついでに子供の一人や二人も成してくれれば後継者問題も解決で万事恙なく収まるとすら考えていた。その頃には領邦軍もトウカに全幅の信頼を置き、後ろ 盾として彼を支援するだろう。
しかし、目前で戦死されれば話は変わる。
砲兵部隊将校である事を示す、今は飾りに過ぎない槊杖を担いで、ヴァイトリングは思考を打ち切る。
マリアベルの死を賜る以前に、この場で勝利できなければアーダルベルトに消し炭にされるのだ。
「中佐殿、例の新型砲弾を装填しました。照準を」
「ああ、承知した……貴官も下がれ。どの道、一発限で済ませる。私が引き金を引くだけで良い」
失敗した場合、間違いなく、アーダルベルトの反撃を受けてヴァイトリングは戦死する事になる。戦争なのだ。希望的観測など不要であり、悲劇と残酷が支配する場所に他ならない。
だが、ヴァイトリングの言葉に、報告に訪れた工兵大尉は肩を竦める。
「これを発案したのは本官ですよ。いくら領邦軍砲兵の神様であっても、これの隣で死ぬ名誉を独り占めして欲しくはありませんな」
工兵大尉の諧謔みに満ちた言葉に、ヴァイトリングは軍帽の上から頭を掻く。
そして、戦闘音が響く中、瓦礫によって小道に隠蔽された“戦友”を見上げる。
九〇口径三〇㎝弾道列車砲(E)。
通常の列車砲と比しても遙かに長大な砲身を持ち、十五軸の台車二両に跨る形で搭載されているそれは、《ヴァリスヘイム皇国》だけでなく、世界最大の射程 を望んだマリアベルの狂気の産物として、産声を上げた現世の怪物であった。使用砲弾の規模を押さえつつも、九〇口径という前代未聞の長砲身を運用すること で長射程を実現し、近隣貴族領に対する心理的優位を狙ったのだ。
しかも、砲弾に回転を与える方法に従来の施条ではなく、精密な指向性のある風魔術を利用するという点に加えて、装薬の燃焼に圧縮した純粋酸素を注入するという新機軸の技術、そして最たる特徴は長大な砲身に隙間なく刻印された術式であり、これによって純粋酸素と火炎魔術を利用した疑似的な多薬室砲となっていた。
その愛称を〈ギャラルホルン〉という。
〈ギャラルホルン〉の笛とは、終末を告げる笛の異名を持ち、神々の黄昏時を告げる為に鳴り響く神器の名である。神龍を討ち斃す兵器としてこれ以上に相応しい名称はない。
ヴァイトリングは「仕方がない奴だな」と苦笑する。
多薬室砲の原理自体は単純であるが、砲弾を撃ち出すまでに砲身内で幾度も加速させるというのは、瞬間的に複数の動作と命令を連続させるということであり、運用は困難を極める。
「なら、第二射の用意を……まさかという事もあり得る」
砲兵が火砲の下で朽ち果てるのならそれは本望である。これ以上ない程に相応しい死に場所であろうことは疑う余地もない。
しかも、最新鋭の列車砲が墓標となるのだ。是非に及ばず、という心境である。
「中佐殿、クルワッハ公が!」
工兵大尉の言葉に、ヴァイトリングは広場の中央へ視線を奔らせる。
アーダルベルトが最期の一基となっても抵抗する対空砲を踏み潰し、軍狼に跨乗したトウカを軍狼諸共に弾き飛ばす。
血塗れのベルセリカによって受け止められたトウカが、ベルセリカを押し退けて軍刀を掲げる。
殺せ!
トウカが、そう叫ぶ姿が遠目にも窺える。
その声は小銃や機関銃の奏でる重低音や、携帯式対戦車擲弾筒の炸裂音による交響曲によって全く以て掻き消されているものの、誰しもが軍刀を天に振り上げて暴虐なる邪龍に不退転の戦意を示す傷だらけ軍神の姿に目を奪われた。
ヴァイトリングは、そう言えば、と円状の広場を取り囲む様に並び立つ建造物群に視線を向ける。
時を同じくして、ベルセリカとフルンツベルク、そしてトウカが命懸けで目標地点へと誘導したアーダルベルトが広場の中央へと足を踏み入れた瞬間、無数の長槍が放たれる。
否、それは大魚を仕留める為の銛に、鋼糸で編み上げられた鋼索が繋げられたものであった。
巨龍と比しては余りにもか細い銛は、射出地点から一直線にアーダルベルトに迫る。
その程度で戦車を砕き、戦線を焼き払う巨龍を撃破できるはずもない。
例え、それが何十万本という数であったとしても。
魔術的処理一つされていないそれに対して、アーダルベルトは然したる動きを見せない。魔導の片鱗の窺えない単純な鋼鉄の塊に脅威を感じないのは転化した神龍に取って当然の事である。ヒトが大地を踏みしめる時、足元に蟻がいる事に注意を払わないことと同様であった。
その慢心に付け入るのだ。
ヴァイトリングは、九〇口径三〇㎝弾道列車砲の横に据えられた掩体……射撃指揮所へと滑り込み、砲手席に腰を下ろす。
打ち出された無数の射出錨(アンカ―)がアーダルベルトを包み込む様に全方位から襲い掛かった。
対するアーダルベルトは思惑に気付いたのか、両翼を羽ばたかせて可能な限り弾こうとするが、あまりにも膨大な数に、大半はその巨体へと到達する。
上方から曲射弾道を描いて命中する無数の射出錨(アンカ―)は、アーダルベルトの身体に巻き付くものもあるが、大多数は射出錨(アンカ―)同士で複雑に絡み合い、巨大な投網となってアーダルベルトを拘束する。
だが、アーダルベルトはその圧倒的なまでの膂力で石畳を踏み締め、射出錨を引き千切らんとしていた。
次々と、引き千切られる射出錨。
建造物に固定されていた固定錨を 引き千切り、射出装置が耐えられずに宙を舞うものもあれば、射出錨を繋ぐ鋼糸によって編まれた綱が引き千切れるものもある。義勇装甲擲弾兵の中には、凄ま
じい膂力によって引き千切られた鋼鉄の綱の直撃を受けて身体を引き裂かれる者もおり、ヴァイトリングはその光景を特設された単眼の砲隊鏡越しに睨んでい た。
怒りや悲しみはない。砲手として砲の下に在る。まるで自分が砲の一部になったかのような感覚。それがヴァイトリングを砲兵の神様と言わしめる程に押し遣った才覚である。
単眼の砲隊鏡に魔術によって投影された照準が揺れる。
拡大されるアーダルベルトの偉容。
皇国が守護龍と謳われた英雄を自分が討つ。
心が躍ることもなければ罪悪感もない。ただ軍人としての義務を果たすのだ。
手にした射撃装置の銃把と、指を掛けた引き金が揺れる。
夜間に小さな通りに軌条を敷設して列車砲を引き込み、建材と瓦礫で建造物が倒壊した様に見えるように擬装した都合上、照準に関しての自由度は低く、微調整しかできない。だからこそ広場の中央までアーダルベルトを誘き寄せ、拘束する必要があったのだ。
ヴァイトリングが引き金を引く。
地響きの如く唸る砲声。
青白く光る長大な砲身。
そして、眩いばかりの閃光。
砲撃工程で無数の魔術が使用される魔導砲でもある為、通常の火砲とは違う感覚に、ヴァイトリングは困惑しながらも砲隊鏡でアーダルベルトの姿を探すが、砲撃によって生じた砲煙と擬装に使用されていた建材などが宙を舞い戦果を確認できないでいた。
ヴァイトリングは「第二射用意!」と工兵大尉に叫ぶと、自らは射撃指揮所から飛び出る。
戦果確認であれば、敷かれている有線通信で訊ねる事もできるが、ヴァイトリングはその目で直接見たいのだ。時代が変わる瞬間を。
近くの士官に一切合切を押し付け、近くの建造物の側面に設置された非常階段を駆け上り、息を切らせて屋上の端へ進み、手摺を掴む。
見下ろす大広場。
そこには想像を超える光景が広がっていた。
「くそっ! 仕留めきれなかったか!」
トウカは悪態を吐く。
将校が悲観的な言動を吐き捨てるなど士気を考えればあってはならない事であり、そうした時間的余裕があるならば的確な指揮を行うべきである。
しかし、それを理解しても尚、悪態を吐かずにはいられない。
『ァァァァァァァァァァァァァッァアァァァッ!』
怒声とも悲鳴とも取れるアーダルベルトの天を突く咆哮。
特殊砲弾……対高位種侵徹砲弾は、その威力を遺憾なく発揮し、アーダルベルトの左手を引き千切り、脇腹を深々と抉った。落ちた左手とその傷口からは滝の 様に朱い奔流が足元の割れた石畳を染め上げるものの、アーダルベルトが斃れた訳ではない。恐らくは、腕の骨か爪に命中したことで心臓から弾道が逸れたの だ。
当初の予定では、心臓を初弾で貫徹する事を意図していた為、広場に続く通りの一つに偽装した列車砲を引き込み、二〇〇mにも満たない至近距離からの砲撃 を実現する事となったが、残念ながら目標を達成できなかった。砲兵参謀の、列車砲を最高速度で突入させて接射を行うという作戦案もあった。しかし、アーダ ルベルトを長時間拘束する事が難しい以上、実現は難しい。
本来は遠洋漁業で白鯨を相手にする為の鋼索と銛である以上、限界はある。軍用ではない。動作を完全に封殺することは叶わなかった。
よって、これが最善なのだ。
石畳の破片の直撃を受けて痛む脇腹を抑え、トウカは片膝を突いたままに、アーダルベルトを見上げる。
「死に損ないめ……マリィの為に死ね」
立ち上がることも億劫なほどに体力を削がれたトウカは、歯を剥き出しにしてアーダルベルトを睨む。
ヒトの視線と、神龍の視線が交差する。
生きるか死ぬかという点など、トウカの胸中から消し飛んでいた。
敵を殺せ。その意志だけが、トウカを満たし、溢れる。
抜き身の軍刀を杖代わりに立ち上がるトウカ。
アーダルベルトの咆哮と、溢れんばかりの青白い魔力が吹き出し、無数の魔術陣が宙を舞う。
ベルセリカは遠くの建造物に叩き付けられたのか、意識はあるものの壁に背を預けて荒い息をしており、何とか斬馬刀を手に走り出すが間に合わない。フルンツベルクは広場の端に伏しており意識がなかった。
間に合わない。
死ぬ。
余りの光芒に霞む視界。
遣り残したこと、言い残したことは数えればきりがないが、自ら戦野に赴いた以上、こうした状況になる事は覚悟していた。ミユキを遺して死ぬ事は慙愧に耐えず、マリアベルは軍人を想うという意味を理解している。心配ではあるが死に往く者に何ができようか。
所詮、この程度で終わる生命であったのかと思うと腹立たしい事この上ない。圧倒的な規模での戦略を行使し、自らが世界に通用するのか試してみたいという 挑戦が、一国家の地方の内乱“程度”で戦死する程度だったのかと思えば、所詮、種族の違う女“二人”幸せにする事などできなかったのだという諦めも付くと いうもの。
だが、そうはならない。
光芒が満ちた視界に躍り出る紫苑色。
リシア・スオメタル・ハルティカイネン。
曲剣を中段に構えた少女の登場には、トウカだけでなくアーダルベルトも驚いた。
「莫迦ね、死なせないと言ったはずよ?」
引き攣った顔だが、曲剣を握り締める手は血が滴る程に強く、血と共に決意を滲ませたリシアの笑みに、トウカは絶句する。何と愚かで意味のない選択をするのか。マリアベルを理想とするならば、勝機を掴めるその時まで雌伏の時を過ごすのが筋であるはず。
トウカは、こうした点でもリシアやマリアベルを理解していなかったと言えた。
女にも引けない戦いがあるのだ。
「莫迦な! なぜ来た!」
この時、背後から近づいたリシアに気付かなかったトウカとアーダルベルトだが、前者は戦闘音で、後者は魔力規模から脅威足り得ない事に加えて眼前のトウカに夢中で、リシアを見逃した。
それは一つの偶然であり、奇蹟であった。
しかし、戦局的に意味を齎すものではない事は一目瞭然である。
《ヴァリスヘイム皇国》の法令上は、人間種に過ぎないリシアに、アーダルベルトを伍する能力などあるはずもない。
なれど、現実は違った。
アーダルベルトの周囲を舞う魔術陣が消え、高密度の魔力の片鱗である青白い光の乱舞も収まっている。そして何よりも、龍に転化したにも関わらず、トウカにも分かる程、アーダルベルトは困惑の表情を見せていた。
アーダルベルトが敵ながらにして有能な指揮官適性を持った貴族であるというトウカの印象は、その行使した戦術や過去の政策を鑑みれば決して間違ったものではないはずで、この場ではリシア諸共にトウカを攻撃するのが最善である。
――リシアを殺すことを躊躇う理由がある?
リシアには、マリアベルとの血縁関係が疑われてはいるが、それはマリアベルがトウカに否定しており、そもそも血縁関係で攻撃する事を戸惑う程に安い覚悟なら、アーダルベルトがこの内戦に参加する事はなかっただろう。
「……エル……リシア……」
「???」トウカは眉を顰める。
自身が知らない“関係”がアーダルベルトとリシアの間にある。リシアの困惑顔を見れば、リシアがそれを理解していないのは一目瞭然だが、今この時ばかりは、この時間が勝敗を分けた。
負傷と疲労からある程度回復したベルセリカが、アーダルベルトに砲弾の如く飛び掛かり、斬馬刀で頭部に一撃を加えたのだ。
「セリカ! 俺の軍刀を使え! 止めを刺せ! 殺せ!」
トウカは抜き身の軍刀を投げ、ベルセリカはその柄を掴み、漆黒の刀身に付いた戦塵を一振りで振り払うと、その意味を察したのか、犬歯を剥き出しにして嗤う。
魔導障壁をその規模や質を無視して切り裂くトウカの軍刀……五二式単分子軍刀。《大日本皇国連邦》陸軍が二〇年の歳月と莫大な予算を使って作り上げた至高の一振りは、国体護持の象徴たるを以て産み堕とされた酷く原始的な武器である。
祖国の軍事的象徴として誕生した武器が、遼遠たる異世界で多種族国家の一地方の意地を貫き徹さんが為に、名のある剣聖の下で振るわれる。
流転する一振りを手に、ベルセリカがアーダルベルトへと飛び掛かる。
軍刀の魔導障壁をその規模や質を無視して切り裂くという特性を利用して二発目の対高位種侵徹砲弾を製造するという案もあったが、一発目の対高位種侵徹砲弾に使用した山の心臓は直剣であった為、撃ち出しても問題はないが、トウカの軍刀は反りがあり重量配分に偏りがある為、抜き身の場合は空気抵抗にも偏りが生じる。弾芯として使用するにしても偏りがあり、トウカは次善の策として残す事を選択した。
負傷しているならば、軍刀を手にしたベルセリカによって止めを刺す。
無傷ならば、遺憾ではあるが列車砲部隊と砲兵部隊による最後にして可能な限りの火力投射によって、アーダルベルトの魔導障壁を上方へ集中させ、広場地下付近に仕掛けた大量の爆薬による相討ちに持ち込む。無論、トウカを含め展開している部隊は助からないだろう。
トウカは、ベルセリカが大地に突き刺した斬馬刀を手に取ろうとするが、人間種に扱える者ではないと諦める。
視界の端には、アーダルベルトの右角を切り落とすベルセリカの姿がある。
尚も抵抗するアーダルベルトが暴れ、広場の兵士達に被害が出始めたので、トウカは後退を命令する。アンゼリカとフルンツベルクは負傷した身体を押してベルセリカに加勢しており、最早、大勢はトウカの制御から離れつつある。
ベルセリカとアーダルベルトの戦闘の余波で負傷したリシアに手を貸しつつ、トウカは後退する。
フェンリスとレオンハルトは間に合わないだろう。
あまりにも短時間の出来事であり、恐らくはアーダルベルトの咆哮から状況は察していると予測されるが、どちらも空中機動できる種族ではなく、フェルゼン 郊外で征伐軍部隊の再編制に忙しくしているだろう。フェルゼンに進出しつつある大規模な部隊が二つあるという報告は受けているが、状況を見るに指揮系統が 二つある。
一つは、陸上戦艦二隻の突入によって、甚大な被害を蒙った征伐軍の再編成を続けるフェンリスとレオンハルト。
一つは、恐らくは自らの手で幕引きを図ることで政治的優位を確保しようという意図を持つアリアベル。
陸を進む巨大な戦艦二隻に蹂躙された軍隊を再び機能するように編成するのは、想像を絶する難事であり、動揺する将兵を纏めるにはフェンリスとレオンハル トという“権威”は重要となる。最短時間で再編成を終える為、二人は各部隊の指揮官や参謀を叱咤し、損なわれた戦意を高揚させるべく忙しくしている事は疑 いない。
それを尻目に、アリアベルは周辺部隊を直接指揮下に加えながら一直線にフェルゼンに突入を果たしつつある。七武五公の合流によって御飾りとなり、指揮権 を喪ったアリアベルだが、アーダルベルトは一人でフェルゼン中央で勇戦しており、フェンリスとレオンハルトは再編成に忙しい。前者は当然としても、再編成
は放置すれば、北部統合軍が戦力を糾合したところで反撃を加えられては堪らないと考えて、フェンリスとレオンハルトは手を離せない。
征伐軍は、北部統合軍の反撃を酷く恐れている。
それは、義勇装甲擲弾兵師団が新たに二つ、シュットガルト湖上の島嶼で編成を終えたという報告が駆け巡ったからだろう。
無論、これをフェルゼンに輸送するだけの船舶を大洋軍艦隊は有しており、恐らくは近郊に陸上され、フェルゼン内の戦力と挟撃されることを恐れているのだ。
否、これ以上、本質的には臣民である義勇兵に銃口を向ける事を避けたいのだ。トウカはその点に付け入る心算であったからこそ、義勇兵の損耗を厭わなかっ た。護るべき臣民が、武装して襲い掛かってくるというのは、国民軍にとっての一つの悪夢であり、その解決は至上命題とも言える。
トウカは、負傷したリシアに肩を貸しながら防空要塞の前まで戻ると、トウカは強固な練石の壁に背を預けて座り込む。
不意に差し込む曙光。
その中に、何騎かの龍騎兵の姿が窺える。
トウカは近くで警戒に当たっていた義勇装甲擲弾兵中尉の手から双眼鏡を受け取るが、その正体は双眼鏡を覗かずとも直ぐに氷解した。
『双方、矛を収めよ! 両軍に大御巫の名に於いて停戦と和平交渉を求めます! 双方、矛を収めよ!』
それは皇国最大にして、公式見解上は初めての内戦の終わりの始まりであった。
是非に及ばず
第六天魔王 織田信長公