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第七〇話    在りし日の罪

 





「ふむ、それで、前線の情報を寄越せ、と」

 紙巻煙草に燐棒(マッチ)で火を付けたエイゼンタールは溜息を吐く。

 周囲では一個小隊近い非番の兵士達が昼間から豪勢な料理に舌鼓を打ち、麦酒(ヴァイツェン)を胃に流し込んでいる。昼間は飲食店として営業しているはずの有名店は一足先に酒場としての色を帯び始めていた。ハイゼンベルク金貨でかき入れ時の飲食店を借り切り、酒場に変えてしまった仔狐の遣り様に呆れつつも、エイゼンタールは思考を紡ぐ。

 ――恋人の安否を気遣うのはいいが、我らまで巻き込む気か。冗談ではない!

 ミユキの目的は、情報部を用いて前線の様子を知ることであった。

 ミユキ曰く、情報と名が付く組織なのだから前線の情報なんて簡単に掴めるだろうとのことである。

 間違いではないが、居残り佐官如きが領邦軍主力部隊の動向について知るはずもない。

 トウカの安否を気遣うが故の行動であることは、エイゼンタールも理解得きる。確かに情報部は前線の情報を統合し、精査した後に上位組織へと報告すること を任務としている。あくまでも防諜や破壊工作は副次的任務の範疇であり、領民が囁いている様な敵を向こうに回しての派手な戦闘などそうそう発生することで はない。

 実現するには将官……情報部部長のカナリス中将を捕まえねばならないだろう。

「戦力の私的運用は重罪だが……」

「でも、私の護衛ですから、少しくらい我儘を聞いてくれてもいいんじゃないかなぁ、なんて」

期待しているのか狐耳が大きく動く。ふさふさしているので、中々の触り心地であろうことは疑いなく、トウカが人目も憚らずにヴェルテンベルク伯爵邸の大広間で、ミユキの尻尾や狐耳の手入れをしていることは余りにも有名であった。

 トウカという若手将校は、マリアベルに優遇され、穏やかで優しげな風貌と少し不器用なところがある。そして、何気に男女を問わず年配の者達に好かれる傾 向があった。苛烈な姿勢から一部の官僚や若手からは良い顔をされないが、少なくとも約定を違えることはない。舞い込んだ課題を瞬時に解決することから、若 き日のマリアベルを知る者からは似ていると評する声も上がっていた。

 つまり、トウカの安否を気にしている者は非常に多い。

 特に兵器開発で、奇抜にして極めて有効な発想の湧き出るトウカを重用しているタンネンベルク社を筆頭とした軍需産業界からは、戦野に動員する事を不安視する声が大きい。
戦場で死なれてはとんでもない損失、と幾度も安否確認が行われていた。生産した戦車を次々と前線に鉄道輸送しているのは、そんな理由があるのだと噂すらさ れている。中には現場の声を聞き入れるという名目で、修理兵として従軍する研究者さえ居り、トウカの齎した技術躍進は研究者や技術者達を奮い立たせたの だ。

 研究者にとって、己の関わった技術が早々に日の目を見て、新たな境地を忽ちに開くというのは一種の奇蹟に他ならない。

 今では、軍需物資以外の分野に於ける技術で意見を出してすらいるトウカ。ヴェルテンベルク領に訪れて中佐の階級を与えられ、主君の絶大な後押しを得て、 次々と結果を出した。その結果に技術者は酔いしれ、企業は発想と技術、思想を次々と生み出す魔法の壺だと認識するに至る。

 そして、この一戦が終われば軍人達もトウカを重視するだろう。

 よってトウカの状況を知ることは難しくない。有力企業や著名な研究者に技術者、連名での状況確認ともなれば、マリアベルも一考するに違いない。マリアベ ルが誰よりもトウカの栄達を渇望していることは、その偏執的なまでの厚遇からも窺い知れる。そして、その厚遇からくる軋轢ゆえに、トウカは多くの分野で誰 もが認めざるを得ない成果を出す必要があった。状況が長引けば偏執的な厚遇を容認するマリアベルの失点になる。無論、短期間でトウカが成果を出せば、マリ アベルの得点になり、その権威は一層の拡大を見るに違いなかった。

 マリアベルもトウカの成果を流布することを躊躇わないだろう。状況確認は容易いはずである。当然、ヴェルテンベルク領邦軍が圧倒的優勢であるという前提であるが。

 だが、エイゼンタールは難色を示して見せる。

「情報部の仕事ではない。そもそも命令系統の問題がある、残念だが……」

「じゃあ、私が前線に行かないと駄目かな?」

 ミユキが、シュットガルト湖から取れた新鮮な魚類を使った煮物を口に運びながらも呟く。

 これは脅しである。

 ミユキは、エイゼンタールとキュルテンが己の護衛を務めていることに感付いている。先程、口にしていたという理由よりも、話を聞く限りキュルテンがミユ キを護衛していたことは探査魔術によって知るところであった。一週間近くも付かず離れずの距離を保った軍人を探知し続けていれば、その思惑も自ずと導き出 せるであろうことは容易に想像が付く。今更の弁明は顰蹙(ひんしゅく)を買うだけであろうことは疑いない。

「……貴殿の護衛として、それは容認しかねるな」

「でも、行動は制限できないはずです。できるなら私がフェルゼンから出るのを見逃すなんてないはず……かな?」

 自信がないのか首を傾げながらも、エイゼンタールを窺い見る様にミユキが言葉を紡ぐ。

 エイゼンタールは、ミユキが交渉に馴れていないことに気付いた。あくまでもキュルテンが捕捉されたのは好奇心と猜疑心の発露に過ぎない。その護衛任務自体が当初より露呈していた可能性は低く、余りにも見え透いた揺さ振りと言えた。

「下らんな。確かに好きにさせてやってくれとは言われているが、貴殿の保護を大前提にという指示を受けている以上、その願いは聞き入れられない」

 必要なら拘束することも吝かではない。ミユキの保全が大前提にして主目的であり、それ以外は副次的な目的に過ぎない。優先順位は明確化している。議論の余地など一部もない。

「好きにさせてやってくれ……主様から直接言われたんですね?」

 ミユキは嬉しそうに煮物を口に運ぶ。

 常に食い気を優先しているその姿勢。周囲の机で酒を飲んでいる兵士達から、面白可笑しさと好奇の入り混じった視線が送られているのだが、ミユキはそれに 気付いていない。やはり兵士達は、ミユキの大きな胸に興味津々なのか視線は一か所に集中し、ミユキが身動きする度に視線も揺れる。男の一瞥も女性にとって は凝視も同然であるが、見られているミユキはその点に無頓着な為に兵士達は遠慮もなく視線を固定していた。

 思わずエイゼンタールは咳払いをして、兵士達を視線で射竦める。

 慌てて視線を逸らす兵士達に、エイゼンタールは舌打ちを一つ。

 内心では、ミユキへの対応も相まって精神的負担が募っていた。

 ミユキに危険が迫る様な出来事自体を生じさせた事実がトウカに露呈すれば、情報部に大きな不幸が訪れる可能性がある。

 そう、予算削減という名の不幸が。

 トウカは、このヴェルテンベルクに於いてあらゆる運営に介入していた。現状では軍事や技術関連に於いての進言や提言のみに留まっているのだが、追々は行 政にも介入し始めると思われている。あの基本的に極一部を除いて他人を領地運営の一切に関わることを良しとしないマリアベルが、極短期間で信頼した人物と してもトウカは注目されていた。

 領主であるマリアベルが信頼する人物。機嫌を損ねてはどうなるか想像も付かない。

 予算削減。この言葉には如何なる軍人も対抗し得る術を持たない。

「……私って情報部のお仕事に役に立つと思うんです」

 果実酒を喉に流し込んだミユキが尻尾を振って、意気込みを示す。

 自身の売り込みまで始めたミユキ。

 エイゼンタールは頬の古傷を撫でる。関わりたくもない爆弾が自身を目掛けて追いかけてくる。自走式だ。恐怖以外のなにものでもない。

 確かに天狐族であるミユキの価値は、情報部に留まらずその強大な魔導資質も相まって極めて有用と言えた。魔術は《ヴァリスヘイム皇国》に於いてあらゆる 軍事技術の礎となっており、魔導資質に優れている者はそれだけで多くの場面で活躍できる。その中でも天狐族は狐種の中で最高位であり、その隠蔽魔術や偽造 魔術は情報部などの任務では大いに役に立ち、治癒魔術などは衛生兵としても期待できる。その自由気儘な姿勢から狐種は従軍する者が極端に少なく、重用され る傾向にある。狐種最高位の天狐族となるとその価値は計り知れない。

 無論、一番有用なのは天狐族の次期族長であるという点であった。

 相応の権勢を誇りながらも、勢力としては小勢な情報部にとって後ろ盾ができるという事に他ならない。トウカは勿論だが、天狐族の後ろ盾はなくとも、他勢力に対しての威嚇(ブラフ)として一定の有用性を持つことは疑いない。

 それは、ヴェルテンベルク領邦軍情報部、実働一課、課長、セルベチカ・エイゼンタール少佐に訪れた転機。

 異邦人と仔狐の歓心。状況はどちらかを選べと迫っていた。

「ほ、骨が刺さったよぅ」

 煮物の魚の小骨が喉に刺さったのか、涙目のミユキ。

 そんな姿を尻目に、或いは双方の歓心を買うという選択肢も選べるのではないか、とエイゼンタールは考えていた。

 ヴェルテンベルク領邦軍で急進的にその権力を掌握しつつある異邦人(エトランジェ)。 ベルゲン強襲が成功した場合、その戦功は作戦立案者であるだけあって他の追随を許さない。領邦軍司令官を務めているイシュタルに準ずるものとなり、昇進に 合わせて領邦軍艦隊司令官への就任が準備されている。少なくとも、マリアベルが事前に準備を儀典部に伝達していることは情報部も捉えていた。

 対する仔狐も天狐族の姫君であり、高い魔導資質と潜在能力を持つ天狐族の受け入れや、将来的な助力を請う手段として子爵位を与えることが決定しており、 その領地としてヴェルテンベルク領に面している領地が与えられることが決定していた。爵位、それも五爵位の一つである子爵位を与えることに対する難関は無 数に想定されるものの、将来的にはそれを補って余りある利益を見込めることから万難を排して行われるはずである。乱世と言っても過言ではない現状では非合 法な手段の行使も容易に擬装と隠蔽が可能であった。

 つまり、二人は共にヴェルテンベルクの政戦の一翼を担うことになる。

 仔狐は政治に疎いが狐種の象徴としての価値がある。それを最大限利用する形で異邦人が補佐するという方法を採用すれば、躍進の望める政治体制の完成とな る。そして、異邦人がこのベルゲン強襲の立案にあって敵情を把握する為、大規模な諜報、防諜活動を行ったことからも情報戦を重視していることは明白。二人 の躍進は情報部の規模も拡大に繋がることは間違いない。

 その時、エイゼンタールはどの様な地位に就けるか。エイゼンタールは自身と情報部の岐路に立っていた。

 あらゆる利益と不利益を考慮するが、詰まるところこれはサクラギ・トウカという異邦人が栄達するか否かが焦点である。それが叶わなければ新たなるヴェルテンベルク伯爵領の新政治体制の確立は画餅となる。

 ――信じられるか? あの若者を。

 脳裏に浮かぶ出征前の異邦人(エトランジェ)の後姿は、鋼鉄の野獣に囲まれた異質なものであった。採用試験(トライアル)すら終えていない兵器や、運用方法すら確立されていない武装に囲まれた戦闘団(カンプグルッペ)の中央にあった姿。参謀として編制や補給体制確立に労力を割く姿は決して勇猛な指揮官という佇まいではなかったとエイゼンタールは記憶している。

 軍人よりも官僚に近い雰囲気を身に纏った少年。

 笑顔で領邦軍内部の部門の予算を割り振ってゆくトウカ。大幅な予算削減に見舞われた騎兵科の将校が泣き付いている姿を思い出し、自身はそんな真似をしたくはないと嘆息する。

「……良いだろう……」

 情報部室に可愛いお茶汲み係がいないと部長が嘆いていたので丁度いい、とエイゼンタールはほくそ笑む。お茶汲み係も立派な仕事である。そもそも素人を危険な現場に出すことは屍を一つ増やす結果にしかならない。

「あっ、少佐殿、連絡が来ましたよ」

「む、部長からか。珍しい」

 エイゼンタールのいう部長とは、ヴェルテンベルク領邦軍情報部部長であり、皇国北部に於いて諜報の神様の異名を持つ老人で、マリアベルを長年見守る古き 瑞龍でもあった。無論、老化が進み過ぎている為か、縁側で御茶を啜っている姿が先立って浮かぶ。しかし、気が付けばヴェルテンベルクに有利な情報が主流と なっている状況を作り出すその手腕に、エイゼンタールは憧憬と困惑の入り混じった感情を持っていた。

 ――あの老人が一体……

 放任主義にして好々爺な情報部部長が直接通信を送信してくることなど初めてであり、その内容はエイゼンタールの興味を引いた。情報部謹製の結晶端末を民 間人の前で不用意に晒すことは好ましくないが、別段と規制があるわけでもないので、エイゼンタールは懐から出した結晶端末を操作する。構造上、城塞都市内 での運用に限られるとはいえ、こうした場合には役に立つ。

「……元より選択肢はなかったか」

「大勝利だって、よかったな、ミユキちゃん」

 エイゼンタールの独白と、同じように結晶端末を操作していたキュルテンの歓声に、ミユキが小首を傾げる。

 軍事情報は、政戦共に民間よりも早期に伝達可能な様に独自の情報網を情報部は形成していた。特にマリアベルが周囲の諸勢力の動きに敏感であったことか ら、その諜報体制は極めて強大なものとなっている。マリアベルが情報部と憲兵隊というヴェルテンベルクにおける治安維持の二枚看板が不用意に結託して暗殺 集団と化かすことを警戒し、情報部と憲兵隊本部はマリアベルの直属となっている為、領主の個人的情報の伝達も早い。

 そして、その情報はマリアベルから直接、情報部と憲兵隊本部に齎された。

「蹶起軍は、明朝〇九〇〇時より総攻撃を敢行! 各戦線で征伐軍を撃破し、戦果を拡大している! 諸君、大勝利だ!」

 立ち上がり、エイゼンタールは蛮声を上げる。

 一拍の間を置いて、酒場を歓声が満たす。

 耳を澄ませば大通りからも歓声が轟いており、憲兵隊が情報を触れ回っているのだろうと推測する。エイゼンタールやキュルテンは情報部の表の顔として入り 込んだ間諜に対する牽制と誘引を担っている為、情報部として名乗りを上げることは問題ない。他の情報部員はそうもいかず悔しい思いをしているだろうと、そ の分まで声を張り上げていた。

「しかも、我が領邦軍は征伐軍機動師団を撃破。敵をほぼ壊乱状態にしたらしいね」結晶端末を片手に楽しそうに呟くキュルテン。

 ミユキは不安そうな顔を浮かべている。大規模な出征があった時点で、攻勢が開始されることは多くの者が感付いていただろうが、この一戦は負けるのではな いかという噂はかねてより少なくなかった。彼我の戦力差と徐々に逼迫する経済統制と、情報制限の影響であるが、この期に及んでも尚、食糧を配給制に移行さ せずとも領民を飢えさせなかったマリアベルの手腕は卓越したものと言える。

「後から号外が配られるだろうが、サクラギ中佐は無事だそうだ。それも機動師団を無数の新兵器で返り討ちにした挙句、装甲部隊でクラナッハ戦線の敵防衛線を完全に崩壊させたそうだ」

「ほ、本当ですか!?」

 花の咲いた様な笑みに、エイゼンタールは鷹揚に頷く。

 こんな時、号外が配られることが遅いのは苛立たしい思いを感じる。ヴェルテンベルク領は各出版社や新聞社への検閲が徹底されており、領邦軍や領府から領 民に情報が伝えられることが早いのが常であった。常に早く正確な公報を短期間で領民に認知させることで、情報誌の価値を削ぎ、情報による軍官民の暴走を防 止。各情報機関の権力を低下させることをマリアベルが目論んだからこその手法である。《ヴァリスヘイム皇国》に於ける有名新聞社もヴェルテンベルク領内の 政治と軍事に対しては不介入と不干渉を貫いていた。これは、領内の政治や軍事に対する追及を意図した記事を執筆していた記者の悉くが不審死や行方不明と なったことも原因である。

「諸君、どうらや祝いの席に変更のようだな」肩を(すく)めたエイゼンタール。

 顔を見合わせた兵士達は、喜色を浮かべて木製椀(ジョッキ)を手にすると高く掲げた。

 そして、蛮声が轟く。


『郷土万歳(Heil dem Heimat!!』


 トウカが齎した変化は多くを巻き込み、大きな流れを形成し始めていた。









「だから、私は情報部の一員なんですよ? えへへ」

 だらけきった仔狐の横顔に、歌姫は溜息を一つ。

 珍しく雪も降らず雲も少ない快晴のなか、肩に降る麗らかな陽光が眠気を誘うが、強引に手を掴み進むミユキの膂力にリルカは抗う術を持たない。天狐族と人 間種では、その膂力に大きな隔たりがあり、身体強化魔術の補助なくして逃れ得ることは出来ないが、どちらにせよ善意から己を連れ出したミユキの手を振り払 うことは躊躇われた。

 深夜まで歌姫としてその声で聴衆を楽しませていた。酔いどれ軍人達と酒宴を共にすることにもなり、疲れきった身体をふかふかの寝台(ベッド)で癒していた……即ち寝ていたとしても。

 そう、例え疲れて就寝中のリルカに全力で、ミユキが圧し掛かってきていたとしても。

 特に二日前、リルカを良い様に利用したことを、ミユキも内心では気に病んでいるように感じられて余計に冷たくあしらうことは躊躇われた。

 ――愛する人の安否を気遣う為に、本来は取ることのない選択をした……だから。

 ミユキは間違ってなどいない。

 そして、その結果もミユキは掴み得た。

 対するリルカは国を失い、家族を失い、領民を……多くを失った。その淵にあってもただ流されるままにフェルゼンへと流れ着くだけであったリルカとは随分な違いである。その姿勢は大いに称賛に値するものであった。

「貴女が羨ましい……私にもその覚悟があれば……」

 変わっただろうか?

 リルカは自問する。

 もしも、あの時、焼け落ちる屋敷にあって父を説得できていれば自身だけでなく、故郷や盟友を取り巻く状況とて好転したかも知れない、という思いは常にあったが、ミユキを前にしてはその可能性を一層強く感じた。

「服を買っちゃいましょう! ほら、給料を前借りしたから、私がリルカちゃんに合った服を選びます!」

 ミユキの元気一杯な声に、リルカは嘆息する。無論、その理由の大半は、あれ程の策を弄しながらも本質が天真爛漫にして純真無垢な姿勢にあることであった。しかし、情報部への雇い入れの話が出て二日しか経過していないにも関わらず、笑顔で俸給を前借りする(つら)の皮の厚さに対するものも少ながらず混じっていた。

 ――この娘は本当に……

 自然に振る舞いながらも、呼吸をするように最善を嗅ぎ取る嗅覚は天狐族という先天的要素なのか。或いはミユキ個人の持つ後天的要素なのか。リルカには判断する基準を持ち合わせてはいないが、恐るべきものであるという一言に尽きる。

「エルちゃんも、おめかししちゃいましょうね~」

「???」

 へへへっ、と背後に視線を巡らせるミユキに、リルカも釣られて背後に向き直る。

 そこには殺人鬼がいた。

 リルカだけではなく、殺人鬼……キュルテンもその言葉には困惑の表情を浮かべていた。表情が困惑しているとは言え、何処かで買ったであろう揚げ物を買い 食いしながらのその態度は、ミユキの護衛としてどうかと思える。安易に推し量れない闇を感じる少年でもあり、隔絶した戦闘技能の持ち主であることは疑いな く、それらの要素はそれぞれが不釣り合いと言えた。

「な、何故かな、御嬢さん(フロイライン)。私の女装など御目汚しでは……」

 困惑気味のキュルテンだが、リルカは、意外と似合うのではないか、と感じた。

 キュルテンは、陽光に照らされたことがないかのような白磁の如き色の肌。それに迫る程に白色の白金髪(プラチナブロンド)の長髪はぞんざいに纏め上げられて軍帽の中へと消えているものの、伸ばせば十分に女性に見えるはずであった。

「そうね。最近の貴族は、小さな男の子に女の子の服装をさせることが流行りなんてことも聞くから、悪くない提案ね」リルカも同意する。

 友軍のいない状況を察したキュルテンが、護衛対象を放置して逃走しようとするが、護衛対象はそれを見逃すほど甘くはない。

 振るわれるのは、ふさふさの尻尾。

 尻尾に足払いを掛けられたキュルテンがよろめくが、ミユキは容赦なくその肩を軽く押す。本来ならば、耐えられるであろう程度の衝撃であったが、不意打ちであることに加えて、ミユキがそれを見越して第二撃を加えたので、キュルテンの身体が大きく傾く。

 あざとくもキュルテンの倒れる方角には大通りに降り積もった雪が一か所に集められていたので、万が一の怪我をする可能性もなかった。

 そこへミユキの圧し掛かりが炸裂する。

「むぎゅぅ」

 雪とミユキに挟まれたキュルテンの口元からナニカが漏れる声が聞こえたが、リルカはやれやれ、と倒れ伏すキュルテンに腰を下ろす。

「はい、確保」

 そう、世間は厳しいのだ。










「エルちゃん、似合ってるよ!」

 ミユキが両の拳を握りしめて感激している。

 対するキュルテンの気分はこれ以上ない程に急降下していた。角度で表現すると急降下爆撃騎の突入角度に匹敵するほどの角度で降下を続けていた。寧ろ、市 街地諸共爆撃で無かったことにしてしまいたいという思いすら抱いたままに、動きにくい服装の中、試着室から店内へと進み出た。

 ざわめく店内の有象無象の小娘共を無視して、キュルテンは洋袴(スカート)を翻すと、手短な椅子に座る。

 キュルテンは服装に対して決して気を払うような性格ではない。寧ろ対極に位置していると言っても過言ではないが、それは軍人の職業病のようなものであり 必要以上に己の服装に気を使う事はなかった。厳格な規律と道徳心によって維持される軍隊だけあり、その軍装に乱れはないものの休日であっても軍装のままで ある。キュルテンだけでなくエイゼンタールも衣服は軍装以外を持っていなかった。第一種軍装と第二種軍装に加えて野戦服や作業服などの官給品ばかりで、完 全に一人身の職業軍人を満喫しているとも言えるが、その内情は虚しいものがある。

 ――こんな服を着る日が来るとは……私は着せ替え人形では……

 キュルテンは、努めて見ない様にしていた姿見に映る己の服装を一瞥する。

 白を基調とした様々な装飾の咲き誇る華美な洋服と洋袴、靴は編み上げで厚底。そして、髪は長く直線に伸ばし、髪帯(リボン)頭花冠(ヘッドドレス)で飾られている。

 ひらひらにしてふりふりな衣裳(ドレス)であった。

 所謂、退廃的(ゴシック)な服装である。

 ミユキとリルカに、衣服を取り扱う店に引きずり込まれたキュルテンは、当然の如く着せ替え人形となった。そこへ店員まで乱入したことで、その服装は徐々に狂気じみたものへと変わっていった。

 結果としてキュルテンの有様は、大通りを歩けば十人が十人とも振り向くであろう姿となっていた。当人が考えているよりも遙かに似合っている服装なのだが、機能美を重視するキュルテンとしては、無駄な装飾の多い服装は活動の妨げにしかならないとすら思っていた。

「凄く可愛いよ、エルちゃん!」

 背後からキュルテンを抱き締めるミユキ。気付いていはいたが、避けると剥れるので最早されるがままであり、無駄な抵抗はしないと誓っていた。捨て身の無抵抗である。

 身体をべたべたと触られる不快な感触だけでなく、自身の背に押し付けられて形を変える大きな胸に溜息を吐く。

 女狐とは元来、魔性として知られるが、この無邪気にして無自覚な色香があの苛烈にして強権的なサクラギ中佐を惑わせたに違いないとキュルテンは唸る。

「むぅ、やっぱり」楽しそうにミユキが笑う。

 また碌でもない事を考えているのか、とキュルテンは思ったが同時に、ミユキの瞳に困惑の色が見て取れたので口を噤む。

「エルちゃんって女の子ですよね?」唐突な言葉。

 呆気に取られたが、一拍の間を置いてキュルテンは失笑を漏らす。

「御嬢さん、面白い冗談だ。何処で吹き込まれたのかな?」

「そんな格好で紳士的な対応はないと思うんだけど……似合うかな?」

 首を傾げるミユキにキュルテンは表情を引き攣らせる。ひらひらのふりふりの服装を着せた当人にそう言われると甚だ癪に障る上に、わざわざ道脇に集積された雪の山に押し倒して軍服を汚して退路を断つという八面六臂の大活躍をしてみせた相手であれば尚更である。

 キュルテンの内心では、ミユキに対する当初の世間知らずの仔狐という評価は既に修正され、鋭い感覚を持つ女狐となっていた。己の目的の為に手段を問わな い姿勢は呆れるばかりであり、例えマリアベルという強権的指導者の静かなる後ろ盾があるとは言え、賞賛に値するものであった。政治家として大成するかも知 れないとすら思える。

「う~ん、だって不自然なくらい臭いがしないなんておかしいです。最初、会った時は血の匂いで分からなかったですけど……変わった魔術です、私でも術式が見えないですよ」

 ミユキの言葉に、キュルテンは舌打ちを一つ。

 ヴェルテンベルク伯爵領にあって領邦軍情報部は実に多彩な側面を持っており、その一つが魔術研究機関としての一面であった。過酷な諜報や防諜任務に加え て、暗殺や要人警護などを主任務としている為、戦闘単位との戦闘を意図した軍とは全く違う魔術大系による魔術を運用している。情報とは何処から漏洩するか 及びもつかないという点を理解していたマリアベルは、情報部が行う活動で必要な武器、魔術、軍装などを全て組織内で生産、運用することが可能なよう自己完 結型の組織として成立させているのだ。

 そんな情報部が開発した魔術術式の中にあっても、特別な魔術をキュルテンは数多く運用していた。

 その一つが、霧の翳(Nebel Schatten)と呼ばれる認識阻害魔術であった。

 通常の認識阻害魔術は、決して万能なものではなく、小さな疑問や些細な不自然を誤魔化す程度のものでしかないが、霧の翳はその効果が大きく違っていた。 魔力波の透過や光の屈折による必要以上の照り返しを防ぎ、心音や呼吸音を音波で相殺する。細々とした何十という魔術の集合体であり、そこに存在することを 視覚以外の要素で気付かせない……つまりは俗に言う“気配”というものを複合的に構成した魔術によって極限まで低減することを実現していた。

「まるで、死体が動いているみたいです。ううん、動いても微風(そよかぜ)すら起きないなんて不自然すぎるかな。う~ん、微風って相殺できるのかな?」

 頻りに首を傾げるミユキ。

「察しの良い狐なことだ。これは常に脳の演算能力を割かねばならないので、この様ですが、ね」

 立ち上がり、洋袴(スカート)を翻して一回転して見せるキュルテン。

 キュルテンにとって、日々を生き残る為に得た魔術である霧の翳は、決して愉快なものではなく、看破されていたことに対して複雑な思いを抱いた。

「それで、抱き付いてみたと」

「えへへ、分かっちゃいます?」

 照れるミユキに、キュルテンは抱き付かれたことは失敗だったと悟る。霧の翳も決して万能ではなく、直接接触されては誤魔化しようがなかった。魔導障壁による阻止は相手に警戒心と違和感を与える為に運用も難しい。

「直接触られては叶わない……認めましょう。一応、小官は女性ですよ、御嬢さん」

 男性として振る舞っているのは、決して任務だけが理由でなく、物心ついた時、既に荒廃した内戦地帯という地獄に在った身だからであり、己の生命を最大限 保全する可能性を心得ていたに過ぎない。霧の翳の前身となった魔術も、食い詰めて必要に迫られたという理由から研鑽を積んだもの。魔導資質に優れていたこ とに加えて、魔導に対する本質的な理解をその野性的な勘で推し測れていたからこその産物であった。

 言葉の続きを、尻尾を振ることで促す仔狐。

「小官……いや、私は気付いた時には地獄にいた」

 そう、地獄だ。それ以外に表現する言葉はない。

 脳裏に浮かぶ在りし日の記憶。

 己だけが生き残ってしまったという後悔と、心とは逆に身体は生命を明日へと紡ぐ為に最善を尽くそうとするという悍ましさ。

 そこまでして生きたいか? 
 そこまでして戦いたいか?
 そこまでして何があるか?

 後にして思えば、掴み取った奇蹟は永劫に続く贖罪の途だった。

「夜も銃声が絶えず、魔導の気配が周囲に満ちた地獄。生命の営みなんて跡形もなかった。民は女子供も強制的に兵役の任に着かされて、あどけない顔立ちの子供から、杖を突いた年寄りに至るまでが銃を手に取り戦った」

 地獄には正義も人権も倫理もない。

 あらゆる悲劇と悲哀が銃弾と共に飛び交い、人命と共に消費される。当然、そこには年も男女も関係はない。機関砲を操る片腕のない少女や対戦車地雷を背負う幼い子供達。塹壕を掘る老婆に、弾火薬を運ぶ老人。

 まさに地獄だった。

 食糧もなく、犬や猫などの野生動物も喰らい尽くし、そして最後には得体の知れないナニカの肉を兵士達に食べさせられた。唯、ひたすらに“獣の肉”と己に言い聞かせながら嚥下するあの感覚が今でも忘れられず肉など口にすらできない。

 だからこそ十字架を背負う。 

 それは神々への呪詛の様に。
 それは悪魔への祝福の様に。
 それは時代への慟哭の様に。

 最早、キュルテンは人ではなくなった。ただ、死という解放を願い、振り撒くことを己の意味とした。

 それからは多くを考える事を放棄した。

 戦って、奪い、喪い続けた。

 己が心臓はまだ鼓動を刻み続けている。この手は銃を、刃を握り締めている。敵が立ちはだかるのならば殺さねばならない。

 それが義務や使命だと言う気はない。

 どうとでもなればいい。彼の地は地獄なれば。ならば“死者”にとっては、たとえ狂気や悲劇であろうと唯一無二の拠り所に他ならない。名誉や忠誠など元より携えていないが、少なくともあの状況では命よりも軽いものはあろうはずがなかった。

 だが、そんな地獄もキュルテンにとっては地獄ではくなりつつあった。気が付いた時から、この地獄にいたがゆえに地獄という概念すら希薄になりつつあったのだ。それが日常なのだ。

 だが、そんな地獄に天使が舞い降りた。

 長い赤髪を靡かせ、不機嫌な表情を張り付けた年若い女性。

 今にして思えば天使と言うには些か愛想がなかったが、地獄に在って麗しき笑みを湛える者など詐欺師以外の何者でもない。それは例えようもない程に現実的な出会いであると言える。奇蹟は、決して奇蹟らしく勿体ぶった事象として発現するわけではない。

「私は死を振り撒く者。あまり近づいては総てを失うよ」

 死という祝福を振り撒く化物。

 死とは救済である。

 仔狐には……否、大多数の人間には理解できない感情であるが、殺人鬼はそれを不変の真理であると確信していた。現世という地獄にある生命を、長く苦痛の海に沈めさせているならば、痛みを感じさせる間もなく幽世へと誘うことに躊躇い等あろうはずがない。

「怖いかな? 御嬢さん」口元を歪め、殺人鬼は嗤う。

 禍々しくも儚く、狂気と正気の境界線を渡り歩き、何物にも染まらない殺人鬼は両手を広げて狂える瞳で仔狐を見据えた。

 多くの者はその姿に恐怖を覚える。

 特にフェルゼンに潜入している間諜にとっては、月夜に心の赴くままに生命を摘み取るという、情報部の飼う殺人鬼の存在は恐怖以外の何ものでもなかった。 ヴェルテンベルク伯爵領では、情報収集を目的として訪れた者が手当たり次第に惨殺されるという噂は有名である。その噂を以てしての抑止力となっている。 キュルテンの奉ずる真理と、ヴェルテンベルク領邦軍情報部の利益が重なる部分に於いてのみ許された殺戮という名の祝福。

 仔狐がどの様に怯えるか。

 殺人鬼の心を期待と愉悦が満たす。

 だが、仔狐から返ってきた言葉は、予想だにしないものであった。


「思う侭に生きればいいと思うよ。どの道、世界は私達を咎めないもん」


 軽やかに、それでいて咎人の寂寥感の伴う笑みを湛えたミユキが淡く微笑んだ。

 

 

 

 

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