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第七一話    黒鉄の城






 仔狐と殺人鬼は相対する。

 自身の表情が決して明るいものではないことを自覚しつつも、ミユキはそれを直すことができない。例え正面に立つ可愛い殺人鬼が異端にして外道であったと しても、それはミユキの《ヴァリスヘイム皇国》にとって最良の未来を奪った大罪には遠く及ばない。殺人鬼一人が殺められる数と比して、ミユキは皇国に住ま う総ての生命にとっての最良の未来を今も尚、奪い続けており、殺人鬼の奪った命など皇国臣民総ての最良の未来に比べれば酷く霞むことは避けられない。

 ミユキは生命が平等ではないことを知っている。

「私も罪を犯し続けている。だって、誰にも知られない罪は罪じゃないから」

 計りかねた顔をするキュルテンに、ミユキは小さな声を上げて笑う。

 幸いにして周囲に人はおらず、遠方では店員とリルカが服を手に取り話し込んでいる姿が窺い知れるのみ。大通りでは戦勝祝いと称して勝手に騒いでいる為に飲食店などは大繁盛だが、服飾店などは閑古鳥が鳴いている。

 そんな古風な佇まいの服飾店の端。仔狐は両手を広げた。

 キュルテンに対する意趣返しという意味以上に、私を罰することができるならば受けて立ちますよという静かなる決意だった。

 罪とは認識されてこそ嫌悪の目標となり、統治機構からの刑罰の対象となる。だが、死体の見つからない事件が殺人事件として成立し難いように、不可視の罪もまた衆目に晒されることなく罪としての追及はない。

 その自信こそがミユキの精神的支柱であった。

 国事行為全権統帥官たる天帝。その宿命を持つ最愛の人を自らの心身を以て縛るのだ。

 代償は己への罪悪感だが、そんな罪悪感などミユキは毛頭も感じていなかった。

 何故、遠い世界から突然に連れられてきた少年が国家を背負わねばならない?

 何故、《ヴァリスヘイム皇国》は一人のヒトの一生を犠牲にしてまで国体護持を図る?

 何故、祝福された大地に住まうにも関わらず、他者の犠牲で生存を成立させる?

 認めない。冗談ではなかった。一人の少年の犠牲で成立を許される国家など滅んでしまえばいい。

 そう、仔狐は考えていた。

 元来、天狐とは国家に帰属する意志の希薄な種族である。ミユキの場合は長旅によって風来坊同然であり、皇国に対する愛着は曖昧なものであった。確かに祝福の大地とも称される皇国に住まう心優しき者達と過ごすことは、ミユキにとって輝かしい日々である。

 だが、その笑顔が最愛の人の人生を犠牲にすることを前提で維持されているという事実に思い当たった時、ミユキには皇国の全てが呪わしく、そして汚らわしいものに思えた。

 心境の変化。

 そう断ずるは容易いが、余りにも複雑な感情を一つの心に併存させるミユキは、次第に苛烈な感情を宿すようになり、そしてその行動もまたそれに引き摺られる。

「殺したいなら殺せばいいと思います……一度きりの人生なんだから後悔はしたくないもん」

「それで貴女の愛しの主様が死ぬことになっても?」

 キュルテンの問いは卑怯なものとも取れるが、この理不尽な現世にあっては皆無とは言い切り難い可能性であった。

「……それでもいいと思う……。でも、仇は取るし、後を追うのは譲れないかな」

 全力で愛し合い、その果てに結末としての死が在るならば、それはまた致し方のないことではないか、ミユキはそう考える様になっていた。これはトウカが死 という事象に対して突撃を行うことが職務であるともいえる軍人の道を選択したからである。愛する者の死が極めて身近にあることを避けられないという宿命の 元に行動しているのだ。選択肢はない。

「私は主様に隣に居て欲しいだけなのに……世の中って、こんなはずじゃなかったってことが溢れているんだもん。きっと私もエルちゃんも、こんなはずじゃなかった人生を歩み続けているんだよ。同じだね」淡く笑うミユキ。

 現世はこんなはずではないことに満ち満ちている。

 それでも尚、ヒトは生き続けるのだ。

 理不尽と向き合い、或いは併存せねばならない。

 ミユキにとってはトウカの宿命であり、キュルテンにとっては死という祝福に対してである。ミユキは己が後悔をしない様に精一杯トウカの宿命を捻じ曲げる心算であるし、キュルテンの在り様を否定する気も資格もなかった。

「悔しいよね。私達がこんな目にあうなんて……今、外で騒いでいる人達は何も知らないなんて呪わし……遣る瀬無いもんね?」

 そうだよね?と同意を求めるミユキに、キュルテンは無言を貫く。

 あくまでも個人の感情として、任務の範疇で己の悲願を達成すると言うならば、それはミユキにとって許容できることであり止める気にはならなかった。例え それがいかに残酷な行為でも。無論、キュルテンもミユキの顰蹙を買うような行為はマリアベルの不興を買うことに繋がるので、ミユキに近しい者を害する可能 性は限りなく低いという打算ゆえでもある。

 二人は視線を交わす。

 共に相手の異質な部分を知り、その心中に打算が渦巻く。利用できるのではないか、と。

 二人は微笑む。傍目から見ると浮世離れした美しい光景であるが、その瞳には狂気の色が入り混じっていた。

「「じゃぁ……」」

 二人の声が重なる。

 双方共に交渉事に関しては決して玄人とは言えず、できるとしても己の意見をぶつけ合うだけ。ミユキに関しては、エイゼンタールとの交渉からそれ相応の経 験を積んでいるようにも見えるが、実際のところマリアベルに己が優遇されているということを理解した上で、龍の威を借る狐状態で力押し一辺倒に過ぎなかっ た。つまりミユキにとっての悩みどころは、エイゼンタールを交渉の席に就かせるという点だけであったのだ。

 剣呑な雰囲気が撒き散らされる。

 しかし、そんな雰囲気は不意に差した陰によって遮られる。

「へうっ!」「いだッ!」頭を押さえる仔狐と殺人鬼。

 余りの痛みに涙目で蹲る二人が見上げると、そこには笑顔で拳を握り締めた怒れる歌姫がいた。その姿、まさに子供の悪戯に怒髪天を衝いた御母さん。

「くぅ~ん……狐虐待です」

「むぅぅ……公務執行妨害です、御嬢さん」

「貴女達……街中で魔力を無造作に放出しない。空間が歪んでいるわ」

 静かながらも怒気を多分に含んだ声音に、ミユキとキュルテンは肩を震わせて整列する。総員傾注と号令を受けた兵士達のように背を伸ばしての直立不動で あった。本能が抵抗してはいけないと告げる。特にミユキは天狐族の里にいるであろうマイカゼの脅威を連想して背筋と尻尾と狐耳をピンと立てて、反省して御 言葉を傾聴しておりますという姿勢となる。

「そんな表情されると咎め難いわ。キュルテン中尉も軍人なら泣かないでください」

「えぐえぐ……」

 終始、涙目の幼女軍人に、歌姫は溜息を一つ。

 己に鉾が向かない状況に深く安堵するミユキは、リルカの服装に目を向けた。

 青を基調とした首元が深く大きくカットされ、首元や胸元を露わにした形状の衣裳(ドレス)で、リルカに良く似合っていた。材質も上質なものを使用しているのか、無駄な光沢がなく、少ない装飾も相まって大人びた印象を受ける。本来は晩餐会や夜会、舞踏会、演奏会、演劇などの夜の時間帯に着る衣服であり、歌姫として活躍するリルカに相応しいものと言えた。

 手首内側に手を出す為に穴が開けられている晩餐会用の長手袋越しに、リルカがミユキの頬を撫でる。

 怒られているのか慰められているのか判断に迷う状況に、ミユキは尻尾を一振り。尻尾は口ほどにものを言う狐種にあっては、ミユキも例外ではなかった。

 そんなミユキを尻目に、リルカは小さく笑う。

「私も貴女達に言えた義理でもないかもしれない……でも」

 リルカは、ミユキの背後に隠れたキュルテンに視線を向けつつも嘆息する。









「強固な意志は、同等の事象となって返ってくるの」

 リルカは今一度嘆息する。

 確かにリルカは故郷で祭り上げられ、流されるままに生命と親友以外の全てを喪った。誰かの強大な意思が、必ずと言っていいほどに大きな事象を引き寄せる という事実を知る為だけに一体どれ程の生命が喪われたのか。そして。多くが関わり、それでいて誰もが予想し得ない状況へと転がり堕ちてゆく。

 それが歴史。
 それが時代。

 仔狐と殺人鬼……その背後は強大であった。

 どちらもヴェルテンベルク領内の状況をある程度知る者であれば、二人の名は大きな意味を持つ。

 方や新進気鋭の若手将校にして領主が特別に優遇している少年の恋人。

 方や魔窟とも例えられる領邦軍情報部に在って鋼鉄と称される女性の副官。

 リルカはその歌姫という仕事上、多くの者と接することが多く、その中には領邦軍高官や伯爵家官僚なども少なくない数がいる。その者達から漏れる断片的な情報から二人の背後が尋常ではないことは十分に窺い知れた。

 トウカは、ヴェルテンベルクにマリアベルに連れられて訪れた翌日には中佐の階級を与えられていた。ヴェルテンベルク領邦軍の最高階級がイシュタルの中将 であることからも分かる通り上位の階級である。此度の勝利を鑑みれば大佐……否、二階級特進で准将への昇進も十分に有り得、事実上の領邦軍次席指揮官であ る領邦軍参謀長への就任は確実であろうとも目されていた。

 対するキュルテンは、魔窟とも称されるヴェルテンベルク領邦軍情報部の中でも、嘗て行われた反動勢力殲滅作戦……“エイゼンタールの草刈り”で勇名を馳せたエイゼンタール少佐、領邦軍内で最も恐れられる鋼鉄の魔女直属の部下であった。

 二人は理解していない。既に己の主張と行動が多くのモノに影響を及ぼしていることを。

 ――余りにも純粋で……無邪気。

 子供のような雰囲気を纏った二人の言葉は、唯ひたすらに異質であるが、同時に二人が大きな困難を伴う生を歩んできたことを感じさせた。ヒトが敢然と主張 する時、そこには必ず依って立つところがある。二人が過去に依って立つナニカを醸成する状況に直面したであろうことは疑いなく、リルカとはまた違った意味 で苦難の道を歩んできたことは想像に難くない。

 しかし、二人は未だ結果を見ていない。

 即ち、後悔していないのだ。

「貴女達は後悔しては駄目よ」これがリルカに言える精一杯であった。

 後悔していない者に、後悔した者の言葉を受け入れさせるのは難しく、またそれを受け入れさせるほどにリルカは口先が器用ではなかった。

 苛烈なのは、護りたいものがあるが故。

 リルカは護りたいものがあったにも関わらず、苛烈になることを拒んだ。その結果として多くを失った。周囲が倫理を失い、矜持を擦り減らしてまで苛烈に なっていく様を目の当たりにして足が竦むことは決して不健全なことではない。もしも、リルカも苛烈に振る舞っていたとしても、その結果は流れる血量が増え ただけで終わったであろうことは疑いなく、決して事態は好転しなかったであろうことは覆し得ない事実である。

 リルカは政治的才覚も軍事的才能も持ち合わせていないのだから。

 有事に於いて無能は混乱を増長させる不確定要素でしかなく、その上、権力を有しているとなると更に始末に負えない。有能ではない人間が権勢を行使するに あたっては、有能な集団の支援が必要であるが、リルカはそれを有していなかった。華よ蝶よと愛でられるままに有事への対応を怠った結果である。

「さぁ、御飯でも食べに行きましょうか?」リルカは話題を変える。

 敗残者の言葉は、愛しい人物の言葉に遠く及ばない。もし、本当に極端へと傾倒し始めたのならば、トウカやエイゼンタールに注意を促せばいいと考えていた。エイゼンタールは兎も角、トウカであれば聞き入れてくれる余地があるとリルカは踏んでいる。

「ミユキ、エルス、行きましょう」

 二人の手を取る歌姫に、仔狐と殺人鬼は何も言えないままに頷くしかなかった。










「むっ、このお魚美味しいです!」

 もしゃもしゃと調味料(ドレッシング)の掛かった生魚の切り身と野菜を口へ運ぶミユキに、机に肘を付いて優しげな笑みを湛えて眺めているリルカ。ミユキの横では、キュルテンが小洒落た焼き魚と卓上小刀(テーブルナイフ)片手に交戦中である。

 この場がシュットガルト湖に面した食事処(レストラン)露天席(テラス)であるということもあり、和気藹々とした暢気な食事風景であった。凪いだ湖面を見下ろしつつも、時間に追われず食事のできる場所は少なくないが、どちらかと言えば賑やかな食事を好むミユキにはあまり縁のない場所でもあった。

 無論、だからといって遠慮するミユキではなく、それはキュルテンも同様であった。

 適当にフェルゼンの街を遊び歩く内に、三人は友誼を結ぶに至り、名で呼び合うに至る。それは当人達の性格が違う方向性を示している中に在っては極めて珍 しいことと言えた。ミユキとキュルテンが自由に振る舞い、それをリルカが見守る、或いは咎めるという役回りで三人の関係は上手く噛み合い、種族は違えども その姿は姉妹のようで微笑ましいものと言えた。

「でも、リルカがこんな店を知っているとは……男ですかな」

 退廃的な服装のままに問い掛けるキュルテンの姿は、子供が背伸びしているようで微笑ましいものがあるが、ミユキもリルカもそれを言うと怒るのでそれについては見て見ぬ振りをする。

「違いますっ。この店でも何度か歌わせて貰ったことがあるの。それ以来の仲で安くしてくれるからよく来てるかな」

「歌姫って凄いんですね。御食事代が浮いちゃいますよ」

 ミユキもよく食べ歩きをしているので、その代金は決して無視できる金額ではなく、基本的にマリアベルからのお小遣いとして貰ったものを使用している。高 級店を利用しないので基本的に金銭は足りているが、足りない事態に陥った際はヴェルテンベルク伯爵家……マリアベルのツケで清算していることもあった。勿 論、帰るとマリアベルの拳骨が待っているが。

「そんな褒め方をされるのは初めてかな」

「小官は三食全て情報部の食堂なので外食は久方ぶりです。戦野では戦闘食糧ですが、ね」

 ざくざくと卓上小刀(テーブルナイフ)で小洒落た焼き魚を解体するキュルテンの風情のない言葉に、ミユキとリルカは苦笑する。

 当のキュルテンは首を傾げつつも、無駄のない動作で手早く魚を解体していた。刃物の扱いを得意としているという言葉は伊達ではない。キュルテンにとって解体相手がヒトであるか魚類であるかなど然したる差ではないのだろう。

「それで仔狐ちゃんは、あの中佐殿をどうやって捕まえたの?」

 瞳に窺える好奇心を隠そうともせずにリルカが尋ねる。

 婦女子にとって他者の恋とは常に興味の対象であり、年齢や立場、種族、民族さえも超越する可能性を持つ事象なのだ。故にリルカの興味の対象となることは避けられない。

「えっと、普通の出会いだったかな?」ミユキは曖昧に笑う。

 当然であるが皇国であっても戦野で恋人となる人物と邂逅することは滅多とない。その点に於いても二人の恋は稀有なものと言え、決して他者の恋愛の参考に はならないので、ミユキは如何して説明したものかと思い悩む。リルカの感情は、新進気鋭の若手将校と風の様に流離う仔狐の出会いへの純粋な興味でしかな かったのだが、ミユキはトウカに興味を持つ女性を大いに警戒していた。

 ――ううっ、リルカちゃんは駄目です……

 マリアベルの厭世的な妖艶さとはまた違った健全な妖艶さとでも例えるべき、薫る様な妖艶さを発するリルカは天敵と言えた。マリアベルに関しても警戒は必 要だが、トウカがマリアベルに対して、その伯爵と軍人という立場の差からくる警戒感を抱いている。それ故に恋仲に発展する可能性は少ないと見ていた。

 しかし、リルカは別である。

 実際はミユキよりも年下なのだが、年上特有の余裕と歌姫としての名声、そしてなによりも庇護される者としての佇まいをもつ女性。それら全てがミユキにはないものであり、同時に男性に対して極めて有効なものであると理解していた。

「むぅ、あげませんよ?」

「ふふっ、私にはあのヒトは受け止めきれないかな。かなり無茶な性格しているから」

「ふむ、会った事があると? 小官は書類上の記録しか知らないが、中々に皮肉が効いた苛烈な人物らしいね。マリアベル様ともよく衝突していると専らの噂ですよ。エイゼンタール少佐曰く同族嫌悪とか」

 卓上小刀(テーブルナイフ)に付着した油分を舐めとり、キュルテンが思い出したかのように呟く。

 それは、概ね間違っていない評価であり、トウカは良くも悪くも無駄を嫌い廃絶することに腐心していた。特に相手の心情を理解しつつも、対応にそれを斟酌しない姿勢からマリアベルの若かれし頃と似ているという評価は有名で、ミユキの耳にも聞こえている。

 だが、トウカはその姿勢とは裏腹に感情と思想を誘導することにも心血を注いでおり、矛先が自身や統治者であるマリアベルに向けない様に最大限の注意を 払っていた。可能な限り、大御巫に北部の状況に於ける不遇の全てを押し付けようとしているのだが、ミユキはそれを知らない。

「そう言えば、颯爽と街中を視察する姿を見た街の婦女子が噂していたかな」

「えっ、本当ですか?」

 興味津々といった風に狐耳を動かすミユキに、リルカとキュルテンが苦笑する。

 ミユキは、考えていることが表情よりも狐耳や尻尾に出ることを、眼前の二人はエイゼンタールへの対応から理解していた。実はミユキにとって強権的な姿勢 こそが意志を貫く上での正解であり、策を弄せば容易に騙されることは目に見えている。無論、ミユキはその点まで理解した上で行動している訳ではない。実情 としては全くの偶然で、ミユキという仔狐の最大の才能は最良の行動を嗅ぎ取る嗅覚にあった。

「あの近づくと火傷するような雰囲気がいいそうだけど……」

「確かに斬り捨て御免な対応は、軍でも信頼と畏敬の対象ですな……まぁ、女性士官には人気ですが」

 両肘を机に付いたままに困惑のリルカに、食後の紅茶を啜るキュルテン。

 トウカは佐官や役職者からは恐れられているが、下士官や兵士、領民からの評価は意外と高い。階級と比して小回りが効き、細かいところにも気が利くという こともある。優しげな表情を浮かべている分には神州国系の顔立ちも相まって温厚で優しげに見え、特に輜重科の女性士官から圧倒的な支持を得ていた。裏方の 輸送任務や兵站維持に対して軽視する風潮が郷土防衛という観点から根強い領邦軍にあり、輜重科の重要性を正確に理解しつつも、現状を打破できるだけの地位 にある若手将校であるトウカに期待と人気が集中する結果となることは当然と言える。

 そして、銃後を支える後方の兵科という点から、戦闘に寄与する種族的特徴を持たない種族の女性が集中して配属される輜重科は女性の園であった。憧れる男性将兵は多いものの、同時に戦功を立てる機会もなく、短期間での昇進が見込めない輜重科を志す者は少ない。

 つまりは若い男性がいないのだ。

 そこに輜重科を重視する新進気鋭の若手将校が、補給関連の打ち合わせとは言え幾度も足を運ぶ。人気が出ないはずがなかった。

 ヴェルテンベルク伯爵領での有事法発動に伴い、予備役の招集と志願兵によって新設される大隊の数は当初の予定を大幅に上回る。その上、三〇個近くになる 予定だが、それらすべてが機甲化、或いは機械化される予定で、機械化部隊や機甲部隊は重装備となる代わりに定員数が少なく更なる規模拡充が予想された。

そして、機械化部隊や機甲部隊は、消耗品の集合体と言える装甲兵器や火砲によって構成される為、通常の歩兵部隊よりも補給が煩雑になる欠点を抱えている。

 トウカは前線でそれらを十全に運用する為、兵站線と権限の強化を断行した。これは近代戦が消耗戦になるという前提からの対応である。射耗する弾火薬量が 時代の進歩と供に増大し続けていることを数値化し、これを理由に認めさせたのだ。その点もトウカが輜重科の将兵から受けが良い理由である。

「花街の娼婦も噂していたかな? 最近は猛々しい軍人が増えて、娼婦の中にも軍人に恋してしてしまう子がいるみたい……その最大の人気株が貴女の恋人ね」

 次点でザムエルだが、彼に関しては性に対して奔放な部分がある為、早々とトウカにその牙城を崩されつつあった。トウカが軍人として酷く普通に振る舞っているだけで、対するザムエルの品に(もと)る態度が際立つのだ。相対的評価で失墜するのは当然の帰結と言えた。

「そ、それは一大事です!」

「何でも輜重本部に行くと下にも置かれない扱いをされるとかいう噂もありましたな。二人の女性兵士が従兵の様に付き従って、座ると肩を揉まれて、御茶が温くなると直ぐに注ぎ直すなどいう話も……いやはや羨ましいことです」

「むぅぅぅぅぅぅっ!」最早、言葉もないミユキ。

 実際にそれは事実で、トウカはザムエルと共に若手将校の中で人気を二分している。ザムエルが花街を巡回と称して練り歩いていることに比して、トウカは フェルゼン内での市街戦に備えた作戦計画策定や、ヴェルテンベルク伯爵領内の機動防禦の演習などで領内を散策することが多く自然と領民との交流も増大し た。領邦軍は防衛戦闘前提の軍事組織であり、領内での補給に頼り切っており、場合によっては輸送の手間を省く。領内の商会などに現地で買い付けるという手 段も取っていることから民間との協力は不可欠であり、トウカの存在は日に日にヴェルテンベルク伯爵領内に浸透している。

「むぅ、私も連れて行ってくれたらいいのに」突き(フォーク)を齧り、ミユキは唸る。

 軍事行動に恋人同伴というのは部下に示しが付かないということは容易に想像できるが、ミユキは天狐でもあり衛生兵や広域索敵にと大活躍は請け合いであ る。トウカの舌先三寸で周囲を説得することは容易いのではないかとミユキは考えた。決して領内の特産品巡りができると考えた訳ではない。

 そんなミユキの姿に二人は苦笑する。


 その時、汽笛が響き渡る。


 シュットガルト湖畔にあるだけあって、会話中にも幾度か汽笛の音は響いていたが、今回のそれは今までのものに数倍する大きさで響いていた。

 思わず狐耳をぺたんと寝かせて閉じるミユキ。人間と同様の耳をを有しながらも獸耳で反応を示すのは獣系種族の習性である。

 岬の向こう側からの汽笛であるが、その先には軍港が広がっているので軍艦か軍属の艦艇であることは容易に想像できる。しかし、飲食店は周辺の騒音を遮断すべく基本的に防音障壁が展開されており、許容範囲内の音は全て店内へと届かない。

 とすると、本来は想定していない程に大きな汽笛ということになり、ミユキは不自然さを感じた。飲食店内に外からの音が響くというだけでそれは注目に値す る事態なので、その疑念は決してミユキだけのものではない。リルカやキュルテン……店内に疎らにいた他の客達も岬の方角へ視線を巡らせていた。

 すると、岬の端から周辺に浮かぶ哨戒艇や駆逐艦とは一線を画す大きさの艦首が姿を現す。

 小さな歓声が、店内に満たされる。

 ミユキは小首を傾げるが、その間にも増速を続ける艦はその全容を露わにしつつあった。

 洗礼された印象を受ける流麗な艦体に、重厚な上部構造物……全体的に黒色塗装されたそれは美しさと同時に何処か得体の知れぬ禍々しさを内包していた。


 黒鉄の城。


 世紀の海戦とトウカが楽しそうに語った布哇(ハワイ)沖大海戦で、露払いを務めて敵戦艦三隻を撃沈し、友軍到着までの時間を捻出する為、敵大戦艦と壮絶な砲戦の末に波間に姿を没した〈ヤマト〉という戦艦も、或いはこのような戦船だったのだろうかと思わせる程に巨大にして雄々しい姿。

 それは戦艦だった。

 その船体は軍人の視点からすると未だ艤装中であることからみすぼらしく見えるが、ミユキやリルカなどの領民からすると巨大な鋼鉄の城が水面を進み往くようで頼もしく見えた。

 再び汽笛が鳴り響く。

 飲食店内に歓声が広がる。

 『ヴェルテンベルク領邦軍万歳!』『領主様万歳!』『皇国万歳!』……幾多の歓声が閉じているミユキの耳にも響く。それも止むを得ないことで、最近の勝 利に加えて巨大な戦艦までもがヴェルテンベルク伯爵領に姿を現したのだ。前線での勝利を訝しんでいた者達の猜疑も、この黒鉄の城の前に木端微塵に砕け消え ることは確実だった。

「あれって、戦艦ですか? うわぁ、おっきいですね」

「そう言えば、建造が中止されて沖合に係留されていた戦艦が消えていたけど、この為だったの」

 ミユキとリルカは素直に感嘆の声を上げるが、キュルテンは醒めた視線で戦艦を一瞥するだけであった。本職の軍人としては、不確定要素は多分に感じられるのだが、領民がそれに気付くことは難しい。

「御嬢さん方の無駄に大きい胸は別としても、戦艦は兵器や装甲の兼ね合いから体積が増大するのは致し方ないですから」

「「負け惜しみです(ね)」」

 断言するミユキとリルカに、むすっとした顔をするキュルテン。二人の揺れる胸に視線を向けた後、戦艦へ顔を巡らせる。

「艦体と上部構造物、機関部は完成された状態で放置されていたので、あとは火器の装備と内装の手入れを行えば就役可能。しかも、砲身の製造設備なども倉庫に放置されていたので建造再開でも安上がりです。……まぁ、宣伝(プロパガンダ)目的でしょう。シュットガルト湖で水上砲戦があるとは思えないですが、戦艦が沖合に停泊しているという事実は安心感を醸成し、領民の心に余裕を持たせます。目的は経済活動の安定と国威……ならぬ領威発揚といったところでしょうか」

 キュルテンの言葉にミユキは「本当にそれだけかな」と思案する。

 比較的安価で就役できるといっても、巨大な船を動かすには多くの人が必要であることは、ミユキにも容易に思い当たる。その考えは正しく、現に戦闘艦の運 用は通商の船と違い戦闘要員や指揮官、司令部、戦闘時に喪失した乗員の予備などが必要であり、戦艦となれば何千人単位の人員が必要となる。加えて保全設備 や補給項目の増加、他艦と共通性のない主砲砲身の換装などと更に多くの人員を必要とする。

 戦艦とは国威の象徴なのだ。

 それ故に正面装備として維持し続けるには極めて莫大な労力を必要とする。

 大星洋と面している皇国西部の七武五公が一人、レオンハルト・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲル公爵隷下の領邦軍であっても二隻を保有するに留 まっている。他国からすると国家の一有力者に過ぎない貴族が戦艦を私物としていること自体が異質であるが、それほどに戦艦という兵器の維持は費用が嵩み、 周囲に与える影響も大きい。

 ミユキには、トウカが何か大それたことを考えている様な気がしてならなかった。

「確か、あれは〈剣聖ヴァルトハイム(Waldheim der Schwertmeister)〉級戦艦の一番艦〈剣聖ヴァルトハイム〉でしたかな。二番艦の〈猟兵リリエンタール(Lilienthal der Jäger)〉も艤装中だとか」

 形勢不利と見て……被害拡大を恐れて、あからさまに話題を逸らしたエルシェラントだが、ミユキは聞き逃せない言葉を耳にして驚く。

「〈剣聖ヴァルトハイム〉って、御師様ですよね!? 船の名前になるなんて凄い痛痛痛ッ!」

 不意に伸びてきたキュルテンの手が、ミユキの狐耳を鷲掴みにする。

 そこでミユキは、ベルセリカの存在が未だ非公式であることを思い出した。リルカが眼前に居り、他の客も聞いているかもしれない場所では余りにも迂闊な言葉で、ミユキは慌てて口元を塞ぐ。

 ベルセリカは現状、極めて不透明な立場にあり、五〇〇年近く歴史の表舞台はおろか、ヒトとの接触も最低限であった。生存が確認できないとして《ヴァリス ヘイム皇国》政府から正式に死亡扱いされている。本来ならば、剣聖健在なり、と高らかに宣言しても良いのだが、トウカとマリアベルの思惑から未だ非公式の 存在として公にはされていなかった。

「軍機だ……リルカさんも聞かないでいただけると嬉しい」

「そうさせてもらうわ。……まさか、剣聖様が生きているなんて言えないもの、ね」キュルテンが顔を引き攣らせる。

 確かに気取られるに十分な情報がミユキから漏れたが、一瞬で察されるとは思わなかったキュルテンの顔が引き攣る。実際のところ、死んだと思っていた長命 種が、何十年後に突然顔を出すという話も多種族国家《ヴァリスヘイム皇国》にあっては少なくない。些か期間は長いが、決して有り得ないことでも珍しいこと でもはなかった。

「あ、本当だったの? ミユキが優遇される訳は、サクラギ中佐だけじゃなかったのね」

 ころころと笑う歌姫。陰のない自然な笑みだが、何処か計算高さを窺わせるそれは、マリアベルの笑みとどこか似ており、ミユキは肩を震わせた。

「ぐーぜん、です、偶然!」

「手遅れかと思うが、御嬢さん(フロイライン)」

 慌てるミユキに、呆れるキュルテン。

 そんな慌ただしくも楽しい日常。

 戦時であることから一部に暗い影が差すヴェルテンベルク伯爵領にあっても、人の営みは紡がれ続けていた。

 

 

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