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第七三話    白亜都市エカテリンブルク

 

 



「いやぁ、楽しかったですね、姉上」

 リディアは朗らかに告げる。

 精神的負担(ストレス)は、暴力によって発散できるという単純明快な事実を端的に体現し終えたリディアの横顔は、道行く男たちが見惚れてしまうばかりに美しく、麗らかに紅潮している。

 無論、当人はそれに気づきもせずに、肩で風を切り、颯爽と先頭を進む。

 ――カーチャ姉は、私が英雄になることを(ゆる)した。

 最早、何も自重する必要はない。

 姉姫の肯定は、リディアにとって何物にも勝る援軍であり、一個軍集団の戦線到着に匹敵する心強さだった。リディアにとってエカテリーナは方向性は違えども、間違いなく帝国が英雄であり、武を以ての解決しか手段を持たない自身と比して余りにも輝いて見える。

「危ないわよ、リディア」

「私は飛べるから問題ないわよ」

 姉と堕天使の言葉にリディアは振り向いて苦笑する。

 心配してくれる存在がいるということは幸せなことであり、帝国に在ってはそれすらない者も少なくない。リディアは、南部鎮定軍総司令官着任に合わせて布告した宣言の、「“銀輝の戦帝姫”たる私が、配下の戦友の(ことごと)くを慈しみ、心配しよう。今より我らは帝国最大の家族である」という一文からも見て取れる通り、己に近しい意志と矜持の持ち主に対して極めて寛容であり好意的であった。だからこそ、彼女は隷下の戦力に”絆”を求めたのだ。他者を理由に戦えるように、と。

 ――全く、心配なら素直に言えばいいのに。

 三人は酒場で腹を満たし、南部鎮定軍総司令部で就寝した翌日、再び市街へと繰り出していた。実はエカテリーナは、対皇国戦役の終了までこのエカテリンブ ルクに詰めることとなっていた。特に社会的経済基盤と社会的生産基盤を形成するに当たって重要な公共施設設備の増強に関しては熾烈を極めており、事実上、 エカテリーナによる独裁体制の下で多くの優秀な文官を率いて行われていた。経済の活性化だけでなく、大規模な軍の動員によって生じた橋梁、鉄道路線、魔導 車路線、上水道、下水道、電気などの許容量の不足を補う為、陸軍工兵隊までをも総動員した公共事業が続けられている。

 エカテリーナは持ち得る財力の全てを投じて、エカテリンブルクを中心とした旧《エカテリンブルク王国》という己の領域に対する経済的樟脳(カンフル)剤とした。

 軍も再編成と演習を繰り広げている為、旧《エカテリンブルク王国》……グローズヌイ領は、現在、軍官民が慌ただしく動き、経済を強引に循環させ続けていた。

 経済とは高循環率こそが重要であり、己への富の集約のみを考えていては、自身の富の総量は急速な増大を見ることはない。

 ――経済は専門外だ。トウカは戦争と経済の関係を口にしていたから、それなりに知っているんだろうが。

 その時、一人の幼い少女が、エカテリーナを掠めて通り過ぎようとする。

 姿勢の崩れたエカテリーナをエリザヴェータが支えるが、リディアは横を通り過ぎようとした幼い少女の肩を掴む。

「痛い! 離せよ、怪力女!」

「その頭、握り潰すぞ……掏った財布を返せ」

「まぁ、リディア落ち着きなさい。そんな子供相手に暴力なんて振るっても――」

「うっさい! 糞ババァ!」

「……リディア。その、何も詰まってなさそうな頭、高層建築物の屋上から落とした赤い果実のようにぐしゃっとしちゃいなさいな」

 潰せと仰るのか。

「見苦しいわよ。本当の事を言われたくらいで――」

「気持ち悪いんだよ! 恥ずかしい服しやがって!」

「吸血の時間よ! 干物にしてやるわ!」

 三者三様の反応を示す三人と幼い少女。

 姦しい四人だが、天下の往来でそのような事をしていれば注目されるのは必至。ましてや身なりの良い麗しい三姉妹と、薄汚い服装の少女が一緒に騒いでいれば注目されないはずもない。

 付近で警戒任務に当たっていた騎乗した保安官が近づいてくる。

 帝国では、官憲……保安官という集団は大きな権勢を誇っている。

 制式には帝国内務省の一部門であるの保安局で、国内の治安維持にの一翼を担っていた。この内務省という組織は極めて巨大で、その権力は国内に限ってであ れば陸海軍に匹敵する。その一部は純粋な軍事作戦を任務とした組織であり、下位組織の国内軍などの構成員は国際法規上では軍人である。無論、皇国の国家憲 兵隊や野戦憲兵隊とは異なり、犯罪捜査等には従事しないが、反政府組織の弾圧などにも関わっており、その線引きは極めて曖昧であった。

「御婦人方、如何成された?」

 好々爺とした姿の保安官が馬上から誰何する。

 立派な髭を蓄えた上に、丸眼鏡を掛けた姿は学者の様であったが、その騎兵詰襟長外套(ロングコート)とその肩に輝く肩章、そして何よりも腰に吊るされた曲剣(サーベル)輪胴式(リボルバー)拳銃、手錠などが保安官であることを教えてくれる。馬の鞍に下げられた騎兵銃や背嚢を見る限り、帝国騎兵に装備面では準ずるものに見えた。

「申し訳ない、保安官殿。礼儀のなっていない小娘に、目上の者への口の利き方を教えていただけだ」

 リディアは姿勢を正して、馬上から下りて耳当て帽(ウシャンカ)を取る老保安官に簡潔に説明する。

 耳当て帽(ウシャンカ)とは、大きな可動式の耳当が付いたものである。通常上方へ折畳んだ状態で、左右の耳側に付属している紐を頭頂部で結び合わせることで固定されている為、大きい円筒状の帽子に見える。耳当てを使用した場合、耳や顎、後頭部のほとんどが完全に隠れ、帝国軍の大外套(ロングコート)や野戦外套の襟を立てた場合、顔面以外全て隠れることになる。帝国の伝統衣装の一つでもあった。

 案の定、御忍びの貴族令嬢と判断されたのか、老保安官は好々爺然とした笑みを浮かべると「ふむ、それはよかった」と頷き、歳を感じさせない動作で馬乗へと舞い戻る。

「では、本官は之にて」

 馬上から一人一人に視線を配り、敬礼する老保安官は楽しげに笑う。

 リディアは敬礼する。

 目を丸くした老保安官は「悪くありませんな」という言葉を残し、手綱を握り直して馬を走らせていく。決して帝国も機構として腐敗しているのではなく、あくまでも一部の腐敗であるということを示すかのような佇まいに、リディアは帝国が未だ健在であることを実感した。

「きっと、気付かれたわね」

「でも、黙認してくれたわよ」

 エカテリーナとエリザヴェータも感じ入るものがあったのか、優しげな雰囲気が周囲を満たすが、リディアは逃げ出そうとしていた小汚い少女の襟首を掴み逃亡を阻止する。

「わ、私をどうする気だよ!?」

「保安局に突き出しても邪魔になるからな。まさか、あんな素晴らしい保安官を困らせる事などとてもできない」

 リディアは如何したものかと思案する。

 先程の老保安官は稀有な存在で、他の保安官に渡しても隠蔽……殺害される可能性がある。掏りなどの行為は帝国では然して珍しいものでもなく、ましてや外 見から推察するに捨て子である少女など逮捕しても功績にならないことから、その場で射殺、若しくは刺殺されることが多々あった。それは帝国に在っての日常 で、最早、リディアが止められるものではなく、現在の祖国の潮流なのだ。

 帝国では、弱者であることは罪なのだ。

「まぁ、もういいでしょう。姉上」

「ええ、捨て置きなさい。貴女がいる以上、障害足り得ないわ」

「何なら私が踊り食いしてやろうかしらね」

 リディアが被害者となったエカテリーナに問うが、当人は気にしていないらしく、その横顔に興味の色は窺えなかった。この様な事を想定してリディアがいるのであり、報復があったとしても捨て子など物の数ではない。

「ほら、取っておきなさい。負け犬、一生這い蹲って物乞いでもしているのが御似合いよ」

 リディアから財布を受け取ったエカテリーナは無造作に金貨を取出し、捨て子に投げる。顔面への直撃軌道を取っていた金貨に対して、半ば反射的に受け取った少女。

「っ……同情なんてッ!!」

 エカテリーナの飾らない負別の一言に、受け取った金貨を投げ返そうとする難民の少女だが、その手は途中で止まり、金貨が宙を舞うことはない。

 それも当然か、とリディアは思う。

帝国内では民間で金貨が流通することなど滅多となく、銀貨でさえも極稀にであった。主に商会や貴族の大規模な商業活動に使われることが多く、民衆が見るこ となど通常はない。金貨一枚で大家族が半年、食うに困らない金額である以上、降って湧いた大金であっても投げ捨てるなどできようはずもないだろうと嘆息す る。リディアは眼前の少女がこのまま金貨を携えてこの場を去ってくれることを願った。エカテリーナは必要であれば人を殺めることを躊躇わず、邪魔と判断す れば雑草を狩るかの如く無造作に眼前の命を摘み取る。

「あら、如何したの? 矜持を貫く覚悟もないの? なら貴女は死に至るその時まで大地に這い蹲るしかないでしょうね」

 酷な物言いであり、その苛烈な言葉にリディアは、帝国の治政に関わる我々にその言葉を言う資格はないのではと疑問を抱いたが、生まれてこの方、姉の口先に勝てたことはないので無言を貫く。

 しかし、そこで金が舞う。

 難民の少女が金貨を投げ返したのだ。

 それは勇気ある行為。リディアは称賛に値すると深く頷くと共に溜息を吐く。

 ――一枚の金貨……否、例え銅貨であっても、僅かな、一瞬の餓えを満たす程度に過ぎない食糧しか手に入らない。だが、少しでも美味しいものが食べられたら、あと一日生きてみよう、そう思えるかも知れない。

 リディアは帝国の勝利の為に戦っている訳ではない。無辜の民の腹を満たす為に戦っているのだ。元より統治機構として限界を迎えた帝国に未来など求める資格はない。

 多くの民が今日の食糧を求めることに精一杯なのだ。鋼鉄も魔導資源も、ヒトの空腹感を解消しない。今、帝国が求めるべきは食糧と、それを育む穀倉地帯で ある。だからこそ皇国との一戦で優勢に戦局を進めて、肥沃な国土の一部を割譲させ、有利な食糧支援という名の戦勝品を引き出す。

 それが、リディアの望み。

 この難民の少女は、軍人……帝国軍人になる素質があると、リディアは再び声を上げようとしたが、エカテリーナに視線を向けた瞬間、顔色を失い、声が出なくなる。

 掠めた金貨に痛みを感じたのかエカテリーナが己の頬に右手を這わせたのか。

 血が出ていた。

 《スヴァルーシ統一帝国》が陸随一という声もある美貌に付いた一筋の傷。

「あ、姉上……」

 エカテリーナは己の肌に対して特別な偏執があるわけでもなく、その管理に関しては専門の美容師に従うことで保っており、他の貴族令嬢がしている程度のも のに過ぎない。だが、“真白き女帝”の顔に傷が付いたとなれば、邪推する者も現れる可能性があり、エカテリーナも己の美貌を理解し最大限に利用している。

 そんな、エカテリーナの手札である美貌を穢した難民の少女。

 元来、エカテリーナという女性は、自身に纏わることで激怒することはない。美貌が傷付けられたことに対しても女性としての怒りではなく、政治的手段の一つを失ったことに対するものであろう。

 だからこそ止める術はない。

 エカテリーナは政治的生物である。政治活動に於ける無駄を何よりも嫌う。

 咄嗟に割って入ろうとしたリディアを視線一つで一蹴すると、エカテリーナは少女の前に立つ。その瞳は政治的判断を下す際の、一切の感情のないものへと変わっていた。

「薄汚い小娘、何故、受け取らないのかしら?」捨て子の少女の襟首を掴んだエカテリーナが問う。

 臆したと思われた少女だが、次の瞬間には激昂する。

「うっさい、糞ババァ!! 使えない金なんて惜しくないんだよ!!」

 リディアとエリザヴェータが首を傾げる。

 エカテリーナの投げた金貨は帝国銀行が発行している正式なもので、使えないという言葉は腑に落ちない。道路に転がる金貨をエリザヴェータが拾って眺めているが、その様子を見る限り贋作とも思えない上、エカテリーナがその様なものを扱うはずもなかった。

「何故、使えないのかしら?」

「黙れよ! いいとこの御嬢様には分からないかも知れないけどな、そんな大金貰っても換金もできないし、店員に脅されて奪われるのが関の山なんだよ!」

 女帝とも言われるエカテリーナに啖呵を切る姿に感じ入るものがあるリディアは、なるほど、と頷く。確かに薄汚い姿の子供が大金を手にしていても、それを 使うには大きな困難が伴う。店先で金貨を出しても強盗によって得たものだと判断されれば、保安官が駆け付けてくる可能性があり、大金を持っていると知られ れば同じ難民の子供だけでなく、大人に襲われる可能性も増大する。さりとて換金しようとしても、それは類似した状況を引き起こしかねず、少女の言った通 り、金貨は少女にとって使えなくて当然の貨幣なのだ。

「ふふふふっ……貴女、面白いわね」女帝が嗤う。盛大に。

 思わず後ずさるリディア。本質としてエカテリーナが、ヒトとして最も重要な要素を欠いていることは二人の妹にとって周知の事実であり、心の琴線など姉妹であるリディアや人外のエリザヴェータにも分からない。

 エカテリーナは、難民の少女の襟首を離し、石畳の歩道へと突き飛ばす。

 何かを言おうとした難民の少女だが、エカテリーナが先に言葉を投げ掛ける。

「貴女、何を望む? 端金? 衣服? 食糧? 武器? 知識? それとも……」

 興が乗ったと言うには余りにも禍々しいが、安堵することもできない。エカテリーナの興の範疇は国すらも左右することがあり、対抗勢力を惨たらしく排除し た事実を知るリディアとしては、エカテリーナという女帝は機嫌を損ねてはならないが、それ以上に興に乗せることはあってはならない。

「えっと……み、未来だ! 未来が欲しい!」

 臆する事のない瞳で怒鳴る難民の少女。リディアは久方ぶりに、エカテリーナに対して正面から応じる事のできる者を見た気がした。

「……曖昧ね。卑怯な物言い……気に入ったわ」

 気に入った。

 リディアとエリザヴェータは顔を見合わせる。それは幼少の頃、二人も言われた言葉であり、その言葉と共に、言われた者の環境は大きく変わる。

「今この時、よりこの“真白き女帝”たる私が、貴女の艱難辛苦を吹き払ってあげる。だから私に飼われなさい。さぁ、望みを改めて言いなさい」

「未来だ! 仲間の未来だ!」

 仲間の未来。何と美しい言葉か。

 リディアは想う。

 この家族すらも信じられぬ帝国に在って、仲間の未来を己の欲を抑えてつけてまでも乞い願う者などそうはいない。貧しい者であっても仲間を想えるにも関わらず、貴族たちは団結して国難に相対する事も出来ない為体である。

「いいわ。貴女と仲間の未来、私が買い取るわ。さぁ、端的に未来を示しすがいいわ」エカテリーナが手を差し出す。

 それは救いの手。

 この帝国に在って最も高価であろう手であり、最も即効性のある救い。

 だが、それは“白き女帝”に飼われることを意味する。

 しかし、少女は躊躇わない。

 重なる手。

 それは帝国に於ける小さな出会いだった。










「という訳で、リディア。……任せたわ」

「カーチャ姉は何時も私に面倒を押し付ける! 狡いです! 姉上の命令で保安隊を動かせばいいではないですか!」

 エカテリーナとリディアの言葉の応酬を尻目に、エリザヴェータは屋台で買った揚げ物に一心不乱で齧り付く難民の少女の口元を手拭い(ハンカチ)で拭く。成すがままにされるその姿は中々に愛らしく、口の効き方さえそれ相応であるならば極普通の少女である。

ーー別に美味しそうなんて思ってないわよ。

ただ、最近は食糧危機も相まって食指の動くヒトは中々に居ないのも事実である。そうなれば肉質が柔らかく、血が汚れていない子供というのは魅力的ではある。

「なぁ、恥ずかしい服のねーちゃん」

「この芸術的な服を理解できないなんて。これだから素養のない家畜風情は」

 道行く者達が余りの神々しさにそっと視線を逸らしていく光景が見えないのか。エリザヴェータは、自らの退廃(ゴシック)調の衣裳(ドレス)に絶対的自信を持っていた。

「リーザ……強襲よ」

 久方振りに愛称で呼ばれたエリザヴェータ。協力することは吝かではなかった。ヒトの血を統治者の合意の下で啜れるならば酷く面倒が少なくなる。

「カーチャ姉! せめて奇襲に――」

 二人の言い争いに難民の少女とエリザヴェータは顔を見合わせる。

 任せなさいと言わんばかりに、リディアに命令を下したエカテリーナだが、当のリディアが、命令系統が違う、保安隊と行政府に話しを通さなければならない、と突っ撥ねたことで話は盛大に拗れていた。官僚の様である。

「これだから縦割り行政は。使えないわね」

「その縦割り行政の采配を担っているカーチャ姉に言われるのは甚だ癪です」

 国家の重役に付くと立場に縛られて色々と気苦労が多いのだが、エリザヴェータはいかなる権力にも縛られない堕天使である。エカテリーナの心情など露ほども理解できなかった。

 無邪気な暴君は、生まれ落ちた時より無邪気な暴君なのだ。

 皇国の統治機構に携わる熾天使ヨエルとは不倶戴天の仇敵であるが、神々と人々が争う意味を喪った今となっては遠く過去の出来事に過ぎない。

 帝位継承権を持つとはいえ、自身の上に幾人もいる以上、エカテリーナも然して気にしてはいないはずである。それでも尚、自ら苦労を背負う姿勢を見せる彼女をエリザヴェータは好んでいた。

 こんな風に生きてみたい。

 ヒトのように理不尽と限界に挑む意欲など起きもしない。

 在りし日、異世界から旭光を背負って現れた男は、堕天使(エリザヴェータ)ではなく、熾天使(ヨエル)の手を取った。その時より、エリザヴェータは生きる目的を喪ったのだ。故に今となってはあらゆることが惰性に過ぎず、享楽に身を委ねることに何の躊躇いもない。

「面倒よ。武装化した難民の抗争なんてよくあるじゃない。食肉処理してやるわ」

「中々、惨いことを考えますね天魔殿……」

 エリザヴェータの提案に、リディアが顔を引き攣らせる。

 そう、三人は難民の武装集団を撃破し、身柄を拘束されている難民の少女の姉の救出に向かう算段を付けようとしていた。難民の少女の願いとは、難民の武装 集団内で大切な者達を拘束されて汚れ仕事をさせられている者達の解放であった。拘束されている者達を含めれば三〇人近い。救出後の後退戦は不可能であり、 三人で行うとなれば積極的攻勢による敵性戦力の排除しかなく、それは危険の伴う選択でもあった。

「どちらにせよ事を大きくすると、私達の御忍びの行動が爺やに露呈します。軍にせよ保安隊にせよ、動員すれば報は届くでしょうし……怒られますよ」

「それは困るわね。説教長いのよ、あの御老体」

「リディアと私以外は戦力外……言い出しっぺのカーチャ。貴女は邪魔よ」

「恥ずかしい服のねーちゃんだって戦えないだろ?」

 難民の少女の言葉に、視線で存外に追従する姉妹に、エリザヴェータは失笑を零す。

 誰しもが見てくれで判断するが、正体は高位の堕天使である。

 エリザヴェータは、外套(ケープ)を翻し、隠蔽していた(はね)を見せ付けるように開く。既に周囲にヒトの姿は見えない。

エカテリンブルクの隅にある薄暗い倉庫街。そこに黒い天使の翼と蝙蝠の翼を一対とした翼を以て堕天使が舞い降りる。

「ああ、本当にヒトは身の程を弁えないわね」








 エカテリーナは咄嗟に遭遇した人物に曲剣(サーベル)を突き出す。

 狙うは喉元。

 曲剣(サーベル)はその構造上、決して高い抗堪 性を持った武器ではなく、斬り合いに於いては決して有利な武器ではない。だが、比較的軽量であるために先手を取りやすいという利点があった。特に相手の武 器諸共、手首を斬り落すという戦法が取り易く、女性が保有する武装としては一般的でもある。

 前方にいるリディアに関しては、既に曲剣(サーベル)が折れたのか、何処かで拾ったであろう鋼鉄の角材を手に正視に耐えない凄惨な近接戦を続けていた。騎士の勇ましい戦い様ではなく、野獣に近い戦い方に犯罪者達は恐怖を覚えている。

 そう、犯罪者だ。

 見ただけでも相当数の武器を保有しており、倉庫内には麻薬の原料となる植物や禁制品の品々が見て取れる。エカテリーナは時折、その品々を何食わぬ顔で懐 に収めつつも、戦況を見渡せる位置に立つ。横を見れば少女も、エカテリーナを見習って懐に犯罪者達が放置したとみられる銀貨や銅貨を懐に回収している。勤 勉で宜しいことである。

 エリザヴェータが己の爪と魔術で八面六臂の大活躍をしている為、エカテリーナと少女に視線が向かうことはないので二人は至って暇であった。

 倫理と理論を超越した戦技を見せ付けるエリザヴェータは圧倒的に一言に尽きる。

 腕を振り払えば遮蔽物諸共に敵兵が次々と肉片に変わる。リディアと背中合わせで、肉片と血がぶちまけられた倉庫の一角で佇むその姿、雄々しくも喜悦に満ちていた。

 意識を持った様に床へ流れた鮮血が大地を伝ってエリザヴェータへと駆けていく。足元から吸収され堕天使は悦楽の気配を酷く滲ませた。

 見るに堪えない光景であり、敵も明らかに壊乱状態となりつつある。圧倒的な暴力が迫っているのだ。止む無きことである。

 心臓を抉り出したエリザヴェータに、頭部を踏み砕いたリディア。

 腹部を切り裂かれた敵が腹を庇う仕草を見せる。だが、内圧がなくなったことで腹から腸管が零れ出している。

 血塗れの(はらわた)は肉の注連縄(しめなわ)の如く自己主張しているが、リディアは気付かずに足に引っ掛けると、その感触に気付いで靴が汚れたことに顔を顰める。

 エリザヴェータは安物の曲剣(サーベル)(はらわた)を巻き取りながらも、掬い上げる様にリディアの足元から取り上げる。

「お隣の皇国では(はらわた)が保存食として重宝されているそうじゃない。帝国ならいつでも新鮮なものを食べられるのにね」

腸詰め(ヴルスト)は豚の(はらわた)です、天魔殿」

「あら、私から見たらどれも生き物の(はらわた)よ? 嫌なら芸術的な使い方をしてあげるわよ」

 近くの壁に(もた)れ掛かった遺体の首に、曲剣(サーベル)で器用に(はらわた)を巻き付けるエリザヴェータ。それを見たリディアは天を仰ぐ。

「中々見つからないわね……」

「そうだよ、よく探さないとな」

 エカテリーナと少女は、惨劇を尻目に金目の物を手当たり次第、確保した大きな手提げ(バック)に詰め込みながら会話を続ける。気の抜けるような光景だが当人達は至って真面目である。少女は自身でも使える実用的な物に対して、エカテリーナは小型且つ高額な物品を集中的に狙っていた。

「貴女の言う倉庫一階の角の部屋ってあれよね?」

「ああ、そうだぜ。これだけ大きな騒ぎなんだから、まさか救出だなんて思わないだろうぜ」

「あら、私から言わせて貰うとこっちも本命よ」

 エカテリーナは、戦利品で膨れ上がった手提げ(バック)を示して笑う。

 実は一般民衆が考えているほど、貴族総てが金銭的に余裕がある訳ではない。確かに帝国に無数に存在する放蕩貴族は民衆が考えている以上に腐敗しているも のの、権力基盤を己が手腕で勝ち取った三人に関しては別であった。政治活動や商業活動で入手した資金は全てが公的資金であり、厳格な資金流通の統制はエカ テリーナ自身にも課せられていた。よってエカテリーナが個人的に手にしている資金は、エカテリンブルクの為政者としてのものだけで、継承位が決して高くな いことから帝室の金銭も当てにできない。さりとて配下に綱紀粛正を求めておいて、私腹を肥やす為に犯罪に手を染めているようでは鼎の軽重を問われる。

 しかし、非合法な連中から奪う分には問題はない。

 ――何が”白き女帝“よ。この美貌と衣服の為にどれだけ資金が必要か分かってるわけ? 全く、勝手に憧れてくれる若い貴族には悪いけど楽じゃないの。

 エカテリーナは嘆息しつつも金目の物の回収を続ける。

 だが、何よりもエカテリーナを悩ませていた問題は、捕らわれの難民の少女の姉達が存命か否かであった。突入時に見たところ、倉庫一階の角の部屋辺りに歩 哨はおらず、内部の人間も別段気にしている仕草を見せていなかった。その上、難民の少女が最後に仲間達を見たのは二カ月前であり、余りにも時間が経ち過ぎ ている。

 ――長期間、生かしておく利点がない。……恐らくは死んでいるでしょう。

 少女も生存確認を行おうとしたが門前払いを受けたらしく、或いは難民の少女も気付いているかも知れない。死んでしまったとしても代替の効く人間がいる以上、扱いが常識的なものであるはずがなかった。

 もう死んでいるのだと少女も本能的に気取っているのかも知れない。。ただ、納得できないのだ。ここで納得してしまうと、それは諦めに繋がる。

 分からないではないが、そこを冷徹に現状から解を導き出し、それを受け入れるのが“女帝”なのだ。最早、ヒトの範疇に収まることをエカテリーナは諦めて いるが、それを全ての者に強制する愚を犯す気はない。ましてやヒトなど遙かに超越したエリザヴェータが眼前に存在するのだ。

 だが……

「来なさい。突入するわ」

 現実とは残酷である。

 それ故に“女帝”の配下は、それを直視し得るだけの精神と矜持を持たねばならない。

 手提げ(バック)を置き、エカテリーナは、曲剣(サーベル)を持ち直す。

「やっておしまい」 

 前者はエリザヴェータに、後者はリディアに対する命令であった。

 風魔術で人のみならず、置かれていた貨物や廃材、倉庫の側壁すらも切り裂かれる。そして、リディアが間隙を縫うように吶喊し、物陰に隠れている犯罪者を 鋼鉄の角材で文字通り叩き潰し、或いは踏み潰す。官憲が来る時期までに解決せねばならず、決して無駄な時間はない。エカテリンブルクの支配者として、胡散 臭い犯罪者集団を潰しておきたいという思惑もあって強襲を選択したが、想像以上に数が多く、おそらくは他の倉庫からも増援が駆け付けている。

「帝国の闇は思っていた以上に深い様ね」

 舷梯(タラップ)を駆け降り、エカテリーナも付近に斃れ伏す犯罪者の中で四肢があり、まだ息のありそうな者達に曲剣(サーベル)を突き立てながら進む。背後に難民の少女が続くことを確認しつつ、左右を見るとリディアとエリザヴェータが両翼を警戒するように並走していた。

「着いたわね……リディア」 

 エカテリーナは倉庫一介の角の部屋の前に付くと、リディアに突入を促す。これほどの騒ぎを起こしてもこの部屋の周囲に気を払う者はおらず、そして出てくる者もいなかった。内部が周囲に気を回すことのできない程の状況か、或いは。

 リディアが、鉄扉を蹴破り内部に突入し、エリザヴェータは外敵の侵入を警戒して鉄扉の付近から警戒活動を続けている。

「さぁ、入りましょうか」

 エカテリーナは、小型拳銃の銃把(グリップ)を強く握りしめる難民の少女を促す。

 内部は薄暗く、突入したリディアの戦場音楽はおろか、話し声も聞こえない。つまりは抵抗する存在も、注意を引く存在もいないということである。

 ――これも時代かしらね。

 先に鉄扉を潜り部屋へと入って行った難民の少女の背中を見てエカテリーナは溜息を吐く。

 有史以来、個人の悲劇が歴史的の転換期になることは多々あったが、現実問題としてはそのほとんどが正確無比に次代に伝えられることはない。関係者の心の内で生命の終焉に至るその瞬間まで、蓄積し、倦み、腐臭を放つ。

 そして、それは不意に感情という名の蓋の隙間から漏れる。蓄積した量によっては蓋など容易く吹き飛ぶ。

 それが歴史を動かす原動力なのだとエカテリーナは想う。

 無論、帝国にとって良い結果に繋がるとは限らない。

 そして、エカテリーナの耳朶に幼い少女の慟哭が届いた。

 

 

 

 

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