第七九話 ベルゲン強襲 後篇
「捨て置いて構わない」トウカは短く言葉を発する。
自分でも何を言っているのかと呆れつつも、何故か言葉を止めることはできなかった。愛という数値化できない感情の産物を眼前で体現する者達と初めて相見えたトウカにとって、この邂逅は大いに衝撃を受けるものであり心の内に波風を立てる。
「ハルティカイネン少佐」
「〈中央軍集団〉司令部砲兵参謀オスカー・ウィリバルト・バウムガルテン中将と、同軍の軍狼兵参謀ヴォルフローレ・フォン・ハインミュラー中将」
上官の意図を察したリシアの説明に、トウカは深い笑みを刻む。
征伐軍総司令部の壊滅を意図したトウカだが、逆に完全に殲滅するのは征伐軍が複数の集合体であることを考慮すれば避けねばならないことでもあった。複数 の指揮系統を持つ集団が個別に動き出せば秩序だった戦争はできない。そうなれば北部を舞台にした収拾のつかない戦争……乱戦となる。帝国と中央貴族の動向 を考えるならば真の内戦は断じて避けねばならない。
「これから我々は大御巫を殺しに行くのだ? 司令部まで殲滅してしまっては降伏文章に調印する者がいなくなる」
「剣は理想を語らなければ不満も漏らさぬ。御屋形様の御望みとあらば」
即応するベルセリカにトウカは苦笑する。
トウカの心中など長命なベルセリカには容易く察せる程度ものもでしかない。或いは軍事面での思考をトウカに完全に預けているのか。判断は付き難く、古の剣聖は楽しげに微笑むだけであった。
「衛生兵、適当に手当をして隅に転がしておけ。先に進む」トウカは大外套を翻して歩き出す。
自己満足かもしれない。トウカは自嘲する。
自分でも何故その様なことをしたのか理解できてはいなかった。周囲の降下猟兵達はトウカが両手を広げて歩き出した光景を見て、漣の様に笑いを零して再び 武器を構えると前進を始める。指揮官は時として演技者の役目を担わねばならないという一文を軍事書籍で目にしたことがあるトウカだが、自らが実演せねばな らなくなるとは考えてすらいなかった。
一度、足を止め、トウカはバウムガルテンとヴォルフローレを一瞥する。
壁に体重を預けて座り込み、苦しげな表情の二人だが、その手は固く握られている。それが堪らなくトウカには眩しく見えた。
「サクラギ中佐」
「……甘いと笑うか? 御前は聡明だ」
右隣に並んだリシアとトウカは再び歩き出す。
目指す大御巫の執務室への扉は見えている。多くの降下猟兵が突入時の抵抗を予想して、魔導士の魔導障壁と、総司令部内に倒れている会議机を運び、突入の 合図を待っている。魔導士は、魔導杖の石突きを床に突き前方に先端を指向させ、最大限の警戒を払っている。大御巫は、長命種の中では年齢的に見ると若輩者
に当たるが、優れた魔導資質を持つ人物であるということは、大御巫に就任した事実を見ても理解できる。
「莫迦な男ね……女にそれを聞くの? ど阿呆ぅね、ど阿呆ぅ」
マリアベルの口真似にトウカは苦笑する。
呆れたと言わんばかりの表情を浮かべたリシアに、気が付けば左隣に並んだベルセリカも黙って頷く。
「申し訳ない。所詮は俺も御前ほど実戦を経験した身ではないのでな」
ベルセリカは言うに及ばず、リシアも履歴書が正しいならば匪賊討伐などを含めるとかなりの戦歴を誇り、匪賊の跳梁も手伝ってヴェルテンベルク領邦軍内でも有数の戦果を残している。
他者の甘さに寛容でないことをトウカは重々承知しているが、これからは自身にそんな資格などないのかも知れないと今一度苦笑する。
トウカはそんな思いを胸に秘めて悠然と足を速めた。
――悪くない傾向やもしれん。
ベルセリカは内心で、前途がそう暗いものではないのかも知れない、とトウカの横顔を目にして思う。軍事的な知識と判断に端倪すべからざる才覚を持つトウカだが、一個人として見ると大きな不安が付き纏う。
本質的に他者を信じることを避けているトウカの一面が、ベルセリカにはどうしても気に掛かった。表面上は冷淡ながらも、努めて穏やかに振る舞っている様 に見えるが、ミユキや戦局が関わると周囲に対して静かなる猜疑の視線を向けていることにベルセリカは気付いている。マリアベルが介入した人事であるリシア
の装甲大隊長就任、クラナッハ戦線に於ける突破戦、マリアベルの判断と思われる作戦の変更などに対してトウカは酷く偏執的な猜疑心を見せていた。
ベルセリカ以外は気付かないが、その時のトウカの瞳には呪術の媒体となりそうなほどに猜疑という名の負の感情が渦巻いていた。
或いはベルセリカ自身も疑われていたのかも知れない。なまじ頭の回転が速いことが手伝って多くの可能性の枝葉に思考を巡らせる上に、トウカの場合は悲観的にして否定的な方向へ意識が向かうことが多くそれに際限がなかった。
何故それ程に周囲を疑うことができるのか。
トウカは人間種の少年で年齢的には幼く、ベルセリカからすると赤子も同然であった。そして他者を疑うことを当然とした姿勢を示している点は異常としか言 いようがなく、ベルセリカとしては一体どの様な教育を受けてきたのか大いに気になるところである。一体、何を意図してこうした人格形成を行ったのか。トウ
カが自らの人格と性格に於いて臆するところを見せない点を見るに、彼を教育した者が意図的にこうした人格形成を望んだようにすら思えた。
狂っている。他者を疑い、軍事知識を詰め込めるだけ詰め込んだ肉塊。
まるで戦争を指導する為に作られた人格ではないか。
だが、トウカはつい先程、理よりも感情を優先させた。その一点を以て辛うじて安心することができる。
「悪くなかろうな」
「はい、執務室には兵士が詰めている気配はないとのことです」
見当の外れたトウカの言葉に頷きながらも、ベルセリカはトウカ越しにリシアを一瞥する。
リシア・スオメタル・ハルティカイネン。
どうも才気走るところがあり、トウカとは違う意味で危なげな少女であった。トウカに対しては嫉妬や焦燥も手伝って当初は挑発的な言動が目立ったが、決し てマリアベルのように性根が曲がっている訳ではなく肩の力を抜けば野戦指揮官としては若いものの決して能力に不足はない。先程のトウカの見せた感情の片鱗
を見て小さく微笑んでいる様から見るに、今ではトウカに対して否定的な感情は抱いていない様に見えた。無論、性格ゆえか口調に変化はないが。
年頃の女性は恋愛に対して並々ならぬ感情を抱く生物である。
抱かなければ種の存亡に関わる。無論、長命であるベルセリカやマリアベルはそれに対する渇望が大きく減衰しているが、それでも尚、ない訳ではない。
些か苦しい言い訳であるが、降下猟兵達に気取らせずに茶番を演じて笑みを零させ、異種族の恋人を救ったトウカは軍事的には甘いかも知れないが、その人間 性の一端を垣間見せた。トウカの横顔には赤みが射して恥じているのだと分かるが、人間性の一端を露わにしたことに対してベルセリカは悪い気はしていない。
「ハルティカイネン少佐、突入の指揮を執れ。ラムケ少佐も支援を。望むなら大御巫を絞め殺しても構わない」トウカは立ち止まり指示を出す。
対するリシアは、大御巫への一番槍を務めるという戦功が降って湧いたことに対して心底驚いていたが同時に表情が紅潮してもいた。対するラムケが強く拳を 握りながらも、神父然とした包容力の滲む表情で」神罰の時間ですぅねぇ!」と微笑む光景は何とも言えないものがある。無数の神々が個としても多としても振
る舞う皇国に在って、信仰の対象は綺羅星の如く存在し得ることから他者が口を挟むものではないが、こればかりは口元が引き攣りそうになる。
「一番槍、期待している」
「了解しました参謀殿!」
答礼して降下猟兵達に指示を出し始めたリシアの背を見て、ベルセリカは年寄りの出番はないと小さく笑う。今更、戦果を求める気はなく、領邦軍に於いて公式な立場を得ていないベルセリカにとって昇進という褒賞もない。ならば未来ある若者に譲るのが道理であった。
これからの時代を担う若者達。
異邦人も紫苑色の髪の少女も年若い降下猟兵達も、そう遠くない将来、皇国の防人になるのだとベルセリカは確信していた。
「突入!!」
リシアの鋭い一言に合わせて降下猟兵が執務室へと続く扉を蹴破る。
トウカの知る突入戦闘ならば閃光発音筒や催涙弾などが使用される。扉の破壊ですら専用の爆薬によるものであったが、この世界では未だ運用されていないことに加え、閃光や催涙瓦斯に
対するある程度の耐性を持っている種族も少なくないことから積極的な開発がされる気配はない。扉など容易く蹴破れる種族が無数に存在する以上、扉を破壊す る為に専用の爆薬を開発する必要もなかった。何より魔術という手段を有した者が皇国には非常に多く、催涙瓦斯に関しては風魔術で吹き払われて逆流してくる ことすら有り得る。
降下猟兵が順次突入を開始する。
投射量の絶大な試式短機関銃、若しくは対魔力術式の刻印された曲剣を手にした降下猟兵達と魔導杖で障壁を展開する魔導士を先頭に、遠方の敵兵を考慮して突入発起地点となった扉付近では小銃を構えた降下猟兵が多数続く。
教科書通りの突入隊形だが、その後には対戦車擲弾発射器を構えた降下猟兵が片膝を突いて非常時に備えている。魔導障壁を正面から打ち破ることを意図しての配置だろうとトウカは見当を付ける。
トウカはその突入隊形を見て舌を巻く。
対戦車擲弾発射器は運用する降下猟兵のみにその概要と使用方法が伝えられており運用はトウカが直接指示していた。トウカはリシアに対しても運用を許可したが、それはつい先程のことでありそれを直ぐに積極的に運用するとは考えていなかったのだ。
後方噴流で吹き飛ばされたので初見で“気に入らない兵器”と見なされたと考えていたが、リシアは物事に対して正当な評価を行えるだけの自制心と知識、価値観を有しているらしく積極的運用を行っていた。使える者は全て使うという極めて軍人らしい思考である。
――それだけの観察眼があるならば俺に対する不信感も致し方なし、か。
トウカの持ち込んだ“先進技術”と“効率的戦闘教義”は、そこへと至る過程を無視したものであり余りにも有効であり過ぎた。兵器や戦術の進歩とは苦悩と 渇望の末に辿り着くもので、無数の失敗と敗北の上に実現する一つの集大成なのだ。そして戦闘教義に関しては血涙と戦争の繰り返しと兵器の進歩に合わせて発
展するものである。どちらも国家規模で試行錯誤を繰り返し、夥しい犠牲の上に進歩するものであり国家はそれぞれの正解をあらゆるモノを代償として求め続け ていた。
無論、実戦を経ずして運用を開始した事から不備も少なくないが、それはこれから反映されていくことは疑いない。まずは実戦証明である。
本来は、決して個人がそれらを実現することはない。如何なる天才であっても、あらゆる専門分野の集合体であるそれらの正解を個人で導き出すことは難しい。偶然が幾度も起きることなどありはしないのだ。
であるにも関わらずトウカは幾多の正解を携えて現れた。胡散臭いことこの上ない。
マリアベルはその点を推し量る一端としてクラナッハ戦線でトウカに決断を強いた可能性があった。トウカは周囲から向けられる意識の全てが自身に対して好 意的ではないことを理解してもいる。決して潜在的教に対して無為無策という訳ではない。無論、現状ではベルセリカという後ろ盾に頼りきりではあるが。
トウカの持つ知識という名の刃は余りにも異端であった。目端の利く者であるならば警戒して当然と言える。
「まぁ、当然か……」
執務室内からの抵抗はないのか、リシアが訝しみ、降下猟兵達への指示を躊躇うが、トウカはこうなる事を予期していた。
大御巫は熱烈な愛国者であり、特筆に値する政治的手腕の持ち主である。
トウカはそう確信している。無論、マリアベルの前では二人が姉妹であるので大御巫への評価を口にすることはなかった。しかし、陸海軍を指揮下に加えて無 数の軍事組織の集合体でもある征伐軍を統率し続けているという事実。言い訳じみた論法を以てして政教分離の大原則を抑え込み、失脚が死に繋がる征伐軍総司
令官を兼任しているという事実などを踏まえると、中央貴族や皇城府との軋轢は凄まじいものがあることは疑いない。
個人的な評価だけを言うならばトウカは大御巫……アリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハという少女に対しては好意的な感情を抱いている。
国難に対して断固とした姿勢を取る在り様は、本来であれば慈しむべきものであり臣民の規範とすべきものである。
無論、帝国に対しての評価に甘さが感じられる点から軍事的才能は欠けている感が否めないが、それは軍人の本分であり大きな問題とはならない。
トウカは背後で慌てるリシアを無視して執務室に足を踏み入れながらも嘆息する。
そう、運がなかった。征伐軍にはアリアベルの政治的才能に釣り合うだけの軍事的才能を持った軍人がいないのだ。故に帝国に対しての評価に甘さは、本来軍人が行うべきものであるが当人であるアリアベルが行わざるを得なかった。
その点が明暗を分けた。
認識一つから出た誤差が皇国初の内戦へと至る原因だったのだ。
再び溜息を一つ。
そこで現世のものとは思えない流麗な声音による一言が掛けられる。
「女性の前で溜息を吐くのは感心しませんね」小さく謡うような声音は当然の様に心の内に沁み渡る。
楽しげでいて儚げな口調に思わず苦笑したトウカは、声の掛かった左へと向き直り胸に右手を当てて片膝を床に突くと主君に首を垂れる騎士の様に一礼する。
「御無礼、平に御容赦を……とは言いません。互いに憎しみ合い殺し合う立場なれば」
美麗字句というものが政治的才能を持つ者に対して効果を示さないことは、マリアベルを見ればよく分かる。ましてや姉妹であれば尚更であろう。
「ふぅん、思っていたよりも良い男。……でも、爺やそっくりというのも強ち間違いでもなさそう。意外と貴方に興味を持っている者は多いようね」
アリアベルは執務椅子に深く背を預けてトウカを興味深そうに見つめる。先程まで執務を続けていたのか執務机には多くの書類がぞんざいに置かれていた。
羽根筆を筆置きに置き、アリアベルは立ち上がる。
トウカの背後でリシアやラムケ、降下猟兵達が身構える気配がするが、そんなことなど然して気に留めていないのか、アリアベルは緋袴と千早を翻して立ち上がる。
壁一面に嵌め込まれた巨大な窓から差し込む朝日を受けて、その黄金の長髪が輝く。
旭日の宝冠。
トウカの背後で多くの者が息を呑む声が聞こえた。大御巫という宗教的象徴であることも手伝ってか幻想的な佇まいであり、トウカがそれを責める気にはならないと思う程には嗜好の凝らされた演出と言えた。
「小官を御存知だったことには驚いておりますが、リットベルク大佐が征伐軍総司令部に居られることを考えられると納得できます」
トウカは、アリアベルの背後に控える老人に視線を移す。
クラウス・セム・リットベルク。
トウカがベルゲンに初めて赴いた際に邂逅した老人。正道と外道を併存させ、双方の利点と欠点を客観的に理解しつつも正道に生きる老将。
「あら、驚かれなかったようね」
「そのようで。しかし、爺も自分の若い頃を見ているようで複雑なものがありますな」リットベルクは小さく笑う。
歳経た者だけが浮かべられる深みのある笑みは相変わらず健在で、降下猟兵達の銃口に対する警戒もアリアベルを護ろうという気負いも感じられず泰然自若と いう風体であった。逆にアリアベルを誅すると息巻いていたラムケが毒気を抜かれた表情をしているほどで、戦意が全く感じられずに降下猟兵達も戸惑ってい た。
「さて、では時間がないので死んでいただけますか?」トウカは軍刀の柄に手を掛ける。
情緒も盛り上がりもない唐突な言葉にアリアベルは溜息を零す。
時間がないのは事実で、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉が大打撃を与えたのはベルゲン守備隊の郊外に展開していた戦力のみである。城塞都市ベルゲン内に展開している戦力は未だ健在であり、市民からなる郷土兵部隊を含めれば未だそれ相応の戦力を有していた。
問題は通信網が各所で寸断され、対空部隊や城塞砲部隊を糾合して纏まった歩兵戦力とする将官がいないことであった。ベルゲン内部に展開しているどの部隊 も対空戦闘と焼夷弾による火災に対する消火活動、そして城壁に砲撃を繰り返している〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に意識を取られて、征伐軍総司令部に兵力
を差し向ける余裕も時間もない点も大きい。征伐軍総司令部はベルゲン防衛の指揮も担っているが、トウカ隷下の空挺部隊の突入によって壊滅状態であり各部隊 は独自の判断で動かざるを得なかった。
征伐軍が指揮統制を回復するまでの好機。それが、トウカがこのベルゲンで得た制限時間付の優勢であった。
「貴方、優秀ね」
「残念ながらこの世界では小官以上に戦争を識っている者はいないでしょう。貴女が得られなかった軍事的才能を持っていることになります」
暗に貴方の元には釣り合うだけの軍事的才能を持っている者がいなかったという表現に、アリアベルは口元を引き攣らせる。トウカにとって幻想的な佇まいを 見せる女性であることは舌鋒を鈍らせる理由にはならない。航空部隊の制空戦闘には時間的余裕があるので、ここに守備隊戦力が駆け付けることはない。その事 実がトウカの口を軽くした。
「共犯者である我が主君……ヴェルテンベルク伯は小官の知識……いえ、面倒なので才能と言いますがそれを初見で見抜きました。そして納得できるだけの対価を提示し、小官が力を貸したいと思うだけの片鱗を見せました。失礼ながら貴女にそれが可能ですか?」
結果としてマリアベルはトウカが望む対価を示した。それはトウカのことをそれ相応に理解していたからに他ならず、無理強いするような真似はしなかった。無論、背後に窺えるベルセリカの姿を見れば姑息な手段を用いようなどという気は起こらないだろう。
マリアベルの非凡さはその政治手腕ではなく、長期的視野に基づいた計画を策定できることである。潜在的脅威を草刈りの様に摘み取っていく様はその手段も 相まって狂気じみていた。長命種でありながらも高位種の将来的な限界を見据えている点はその生い立ちが原因であることは疑いないが、特筆に値する長所であ りトウカがマリアベルに最も期待する点である。
「私では不満? 貴方を使いこなせないと?」
「不満以前に依って立つ思想がこれからの時代に対応できないので、長期間に渡り皇国でそれ相応の地位を維持できないと判断しているのです」
中央貴族は国内ばかりを見ているがそれはアリアベルも同様で、周辺諸国を何処か軽視しているように思えた。一〇〇年よりも以前ならば、未だ個人の武勇と 種族の長所を生かした戦闘を一方的に行える多種族国家である皇国は常勝の戦闘国家足り得ただろう。しかし、近年では急速に科学が進歩し、高位種と人間種を 含めた低位種との戦闘能力差は徐々に縮みつつある。
近代軍の装備の進歩を考慮すると高位種の優位性は近い内に崩れるとトウカは見ている。
「貴方の父でもあるクロウ=クルワッハ公爵……いえ、糞親父殿に別れ際のヴェルテンベルク伯はこういったそうです」
トウカは醒めた目でアリアベルを見つめる。
所詮は箱入り娘であり書類の数値上でしか物事を推し量れない。だからこそヒトの感情によって起きる事象を理解できないのだろう。マリアベルの強硬な姿勢 も北部貴族の不満も、《スヴァルーシ統一帝国》の動向も表面上しか見ていないことはその対応からも想像できる。それでも一大軍事勢力築き上げて強固な権力 基盤を形成しつつあったことは称賛に値するが、そこまでが限界である。
「妾こそが皇国の末路なれば……ゆめゆめ忘れぬがよい」トウカは嗤う。
自然と出た嘲笑に背後の降下猟兵達が息を呑むのが分った。
マリアベルが廃嫡となった理由は有名であるが、それを当人が語ることは全くと言っていいほどない。トウカがそれを知っていることに対する驚きと、アリアベルの表情が悲しみに歪んだことに対してであろうが、それらはトウカにとっては心を動かす理由とは成り得ない。
「姉上は皇国の結末をその様なものだと……」
「現状のままでは滅びます。国体を現状のままに維持できるのは長くて五年でしょう」
さも当然のように紡がれたトウカの言葉に、アリアベルだけでなくその場にいた者すべてが愕然とする。リットベルクでさえも目を見開いてトウカの真意を推し量らんとしていた。
トウカの口ぶりは、その言葉をマリアベルが肯定している様にも取れる言い方であり、事実マリアベルはトウカの予想を限定的ながらも肯定していた。
「見ているモノが違うのですよ。貴女とヴェルテンベルク伯は」
そう、違うのだ。
小娘の思い描く皇国の未来など画餅に過ぎない、とトウカは確信している。国家を良く指導するのは何時の時代も否定的で悲観的な現実主義者なのだ。
この場にいる征伐軍将校はリットベルクだけだが、トウカは真実の一端を漏らしておくのも悪くないと考えた。征伐軍の今後の行動に指向性を持たせられるか もしれないという思惑ゆえである。アリアベルにはここで斃れて貰わねばならないが、征伐軍には帝国に対する危機感を持たておくべきかと口を開く。
「北部で起きている匪賊の跳梁。不自然だと思いませんか? 領邦軍が手当たり次第に殺しても次から次へと湧き出る」
「情報が漏れているのね。郷土兵の限界よ」
突然の話題の変更に戸惑うアリアベルだが、最も可能性の高そうな点を挙げる。確かにその可能性もあるが、次々と現れる匪賊の中には他国で猛威を振るっていた集団もあり意味もなく北部に集中するのは不自然と言えた。
トウカは軍装の胸衣嚢から硬貨を取り出すと、アリアベルへと投げて寄越す。それを危うげな動作で受け取ったアリアベルはそれを凝視して首を傾げる。
「帝国の硬貨……」
「匪賊……いえ、匪賊の真似事をしていたエグゼターの傭兵が死に際に私に託した物の一つです。この意味を貴女は理解できるはずだ」
皇国北部の治安悪化を望む者がいる。そして、それは皇国貴族の性格を考えれば、中央貴族では有り得ず、征伐軍が組織される前から治安の悪化は起きていた。
《スヴァルーシ統一帝国》 その可能性が高い。
「襲われたのは天狐族の隠れ里です。他にも高位種の里などを狙った匪賊がいた様ですよ。それも皇国陸軍正式採用の戦車まで保有した。征伐軍は戦場で戦車を放棄する際、機関部を爆破していますか?」
内戦ゆえに、後で回収しようと貧乏根性を拗らせているに違いない。
「…………」
周囲のものが不気味に沈黙したことを確認し、トウカは小さく笑う。
ここにいる全ての者が北部で起きていた匪賊の跳梁の理由を知った。そして、その背後には帝国の影がちらついていることまで。帝国への危機感を煽るには十分と言えるが、トウカは言葉を止めない。
「帝国には中々に某才に優れた者がいるようですよ? 高位種の数の漸減を図っている。侵攻に際して障害となる魔導資質に優れた臣民を減らそうとしているのでしょうね。天狐族など一人一人が小隊規模の魔導砲兵ですから」
「そんな……」
アリアベルの言葉を無視して、トウカは歩み寄ると執務机に寄り掛かる。
帝国はあらゆる手段を用いて皇国の国力と軍事力の漸減を意図した策略を仕掛けてきている。これらが短期間に立て続けに起きたということは、それ相応の“戦果”が得られる算段を付けたから動き出したのだと取れなくもない。
いるのだ、帝国には。それ相応の地位を持ち、政治と軍事の面から皇国を揺さぶれる立場にある者が。
「おかしなことはまだある。何時ぞやに帝国軍がエルライン要塞に攻撃を仕掛けたにも関わらず撤退したあの時。蹶起した北部貴族が増援の通過を認め、それが北部に現れた時点で撤退した」
「帝国軍は輜重面で脆弱な軍隊と聞いているわ。火力を中心としてエルライン要塞を突き崩そうとしていたのなら弾火薬が欠乏したのでしょうね。砲兵の撤退も早かったと聞いています」
アリアベルの言葉にトウカは「それはどうか」と冷笑を漏らす。
砲兵の撤退が早かったのは自走化されていない砲は急な陣地転換ができず、撤退時に放棄される可能性が高いことを踏まえてのことであるとトウカは考えてい た。そもそもエルライン要塞は皇国内の不和もあって、消耗した装備、武器の補充が難しくなっている。千載一遇の好機を見逃すほど帝国は甘くなく、必要なら ば他戦線からでも弾火薬を集積させただろうことは疑いない。
「絶妙な時期……征伐軍が北部へ足を踏み入れる直前の撤退。この為、征伐軍は北部を通過し、エルライン要塞へと赴く理由が消失、蹶起軍も北部へ足を踏み入 れようとした征伐軍を阻む形で展開。両者共に面子に賭けて引くことは難しく、北部地域外周で膠着状態が続き、戦線が形成されました。後は御存知の通り、偶 発的な戦闘から戦果は拡大、兵力差に劣る蹶起軍は戦線を縮小させる一途」
アリアベルからすると、蹶起軍に所属している貴族達が耐えられなくなるほどに領地を占領してしまえば自然と和を乞うてくるだろうと考えていたのだろう が、北部貴族は想像以上に持久した。これは領地を放棄して戦線を後退させねばならない貴族が思いのほか物分かりが良かったからである。征伐軍が臣民から搾
取を行わないことを知っているという点もあるが、それ以上に重要な点は種の存亡を掛けた戦いが後に行われることを理解しているからであろう。
即ち、《スヴァルーシ統一帝国》との戦争。
これもアリアベルの認識不足である。
常に帝国の脅威を感じてきた北部貴族の焦燥感を理解していなかった。現在の北部貴族は、心理的には矜持を曲げてでも主張……軍備増強と北部防衛強化の意思を通さねばならないと考えている。そう簡単に和睦を望むはずがなかった。
「果たしてこれは偶然でしょうか? 帝国からすると両者が衝突し易い環境を整えた、或いは両者の行動を大きく制限することに成功したと言えます。軍を引く だけで皇国内の軍事勢力の二つが争いを始めてくれるのです。要塞攻略戦よりも遙かに効率が良い漸減作戦と言えるでしょう」
トウカもここまで征伐軍と蹶起軍の衝突の道筋が都合よく作られているとなると、第三者の意志を感じざるを得ない。
その時、消去法でそれが成せる勢力は帝国以外にはない。
そもそも皇国内の不和は長い時間を掛けて醸成されたものであり、帝国の脅威が明確でない限りは続いてしまう特性をアリアベルは理解していない。今回の一戦で皇国は戦力を大きく喪失し、不和はさらに拡大する。
内乱とは短期決戦が最も望ましいのだ。
特に指導者の捕殺や主力を決戦で撃破するなどが効果的である。国家というヒトが現時点で形成し得る最大の実行力を有した組織に属さない武装集団は、統率力を持った個人を拠り所にしていることが多く、それを失ったとき短期間で瓦解する。失う時は一瞬で、崩壊もまた急速に進む。
「貴女も短期決戦を意図するべきでした。小官の様に……」有らん限りの嘲笑を込めてトウカは嗤う。
この程度の人間が国家を統率するなど歴史規模の悲劇である。特に皇国は大きな潜在的国力を有する国家であり、それが相応しい指導者の下で振るわれないと なると長期的に見て必ず騒乱の火種となる。トウカとしてはマリアベルの様に状況に対して否定的で悲観的な思考をする者こそが指導者に相応しいと考えてい た。
トウカは、ふと思い出す。トウカの知る歴史上に於いて、最古の名指導者の言葉を。
「人間誰しも総てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思う現実しか見ていない」
ヒトは誰しも、見たくない現実には目を背ける。或いは視界にすら入れることを忌避する。これは“ヒト”という生物の本質であり宿命なのだ。
だが、紀元前羅馬に於いてユリウス・カエサルだけが見たくもない現実を見据えていた唯一無二の人物だった。当時のローマの政治を担う元老院ですら、カエサルの見ていた現実を直視することはしかなった……否、できなかった。
つまり、カエサルには見えて元老院には見えなかった最大の現実。それは民主共和政の限界であり、そして国家再生の為の帝政への政治形態の移行だった。
それ故にトウカはユリウス・カエサルが己の野心からではなく、見たくもない現実の結末として専制国家の指導者とならざる負えなくなったと考えている。
英雄は何時だって時代の犠牲者なのだ。
「時にヒトの世には生まれるのですよ。在り様か、時代か、生い立ちか、理由は往々として違いますが、見たくもない現実を見据えることを当然とする者が」
「……私にその資質はないと?」
トウカは鷹揚に頷く。
それほどに危機的状況なのだ。この皇国という国家は。既にアリアベル程度の者が指導者として擁立できる余地と余裕を残してはない。そして、それに気付いている者は少なく、だからこそ征伐軍はこれほどに大規模な編制を見ている。
「小娘、貴様に国家指導者たるの資格はない」
執務机から腰を離し、トウカは軍刀の柄を再び握り直すとアリアベルの正面に立つ。
アリアベルの瞳に映るのは虚無感。
自らの成したことが皇国の寿命を縮めていたのだ。愛国者として有名であったアリアベルにとってそれは耐え難い事実であったのだろうが、トウカとしては敵勢力の指導者を逃す気はなかった。
「死んで償え。貴様に出来るのはそれだけだ」トウカは軍刀を構える。
或いは、アリアベルとマリアベルが手を取り合う未来があったかも知れない。
だが、マリアベルは一番高確率で叶えられる最良の未来を求め、トウカはそれに応じた。それはアリアベルに対する一切の可能性を切り捨てたという事実に他 ならず、トウカもその点について言及したが、返ってきた答えは、好きにせい、の一言だけである。そこにどれ程の想いが籠っていたかトウカに推し量る術はな
いが、マリアベルは私情を優先させる言動を発さなかったという事実を以て指導者たる覚悟を体現した。
ならばトウカも答えねばならない。
「恨むなら俺を恨め、小娘」
そして、彼女へと迫る。
「人間誰しも総てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと思う現実しか見ていない」
《共和政羅馬》期の政治家 ガイウス・ユリウス・カエサル