第七二話 姉姫と堕天使
「くっ、所定の撤退行動だというのに……莫迦共め! 死ね死ね死んでしまえ!」
軍用大外套を翻し、少女は南部鎮定軍司令部の作戦会議室の扉を蹴り飛ばすように開け放つと、不機嫌な表情を隠しもせずに廊下を進み往く。
優れた造形の容姿が鬼気迫るものとなり、廊下を足早に進む少女を将兵達が恐怖に顔を引き攣らせて道を開ける。銀輝の戦帝姫という異名を持つ少女は、安易 に不興を買うには余りにも危険であり、恐怖を掻き立てざるを得ないものであったからである。そうした周囲の態度も少女を更に不愉快にさせた。
「トラヴァルト元帥閣下、御機嫌……麗しくないようですね。ナタリア・ケレンスカヤ少佐、只今、帰還いたしました」
「おお、帰っていたのか、少佐」
軍用大外套を翻し、少女は諸手を挙げて騎士然とした女性……ナタリアを迎える。
久しい盟友の帰還に、少女は万華鏡のように表情を明るいものへと移り変わらせる。悪く言えば気分屋であり、移り気とも取られかねない姿勢だが、その少女 はその自由気ままな在り様がいたく似合っていた。その笑みは咲き始めたばかりの蕾の如く薫り初々しい。花弁の奥から滲み出るような甘く、気品に満ちた色気 が武骨な南部鎮定軍総司令部の一画を満たす。
例え、深緑を基調とした帝国陸軍第一種軍装を身に纏っていたとしてもその美しさには、一片の翳りはない。
そして、何故か暴力的なまでの姿勢すらも似合う。
「少し手伝ってくれ、ケレンスカヤ。少し目障りな来客があってな。途中で匪賊に襲われて行方不明になるのだ。全く以て嘆かわしいことだ」
口元を釣り上げて、佩用している長剣の柄に手を添える少女。ナタリアは、それは嘆かわしいことです、と慇懃無礼に一礼すると、自らも腰の拳銃嚢に収めた輪胴式拳銃に手を掛けて微笑む。
共に生粋の戦争屋であり、問題の解決手段として武力を行使することに対し、然したる忌避感を持たない。ましてや相手が無礼千万な輩であれば尚更である。闘争こそ帝国軍人が本分であった。
「それは勘弁願いたいものですな」
しかし、二人を遮る影が呆れた声を上げる。本来であれば帝国元帥の往く手を遮るなど斬り捨て御免も止むなしだが、当の相手が実質的な育ての親であれば話は変わる。
「爺や……」
「……ブルガーエフ中将」
二人は面倒な者が現れたと顔を顰める。
南部鎮定軍、総参謀長にして第三親衛軍の参謀長を兼任する静かなる英傑は、二人の前に好々爺な笑みのままに敢然と立ち塞がる。
少女は盛大に溜息を吐くと、拳を握りしめ己の胸に押し当てる。
「私は……リディア・トラヴァルト・アトランティスは、帝国が姫にして南部鎮定軍を指揮官たることに誇りを持っている。故に悪戯に兵を損なうことを許容する大莫迦野郎を放置することはできない」
そうなのだ。態々、鎮定軍司令部まで訪れて“予定されていた敗北”に文句を垂れる莫迦貴族など、道程で匪賊に殺されて辿り着かなかった事にしてしまえば全ては解決する。
少女……リディアには赦せなかった。
無論、それは少なくとも帝国の未来に対する布石となる意味のある死を、無駄と断じる莫迦な一部貴族に対してであった。当然であるが、政治に疎いリディア であってもこれが兄でもあり帝位継承権第二位の男の差し金であることは容易に想像できる。唯の嫌味なら良いが、ナニカから目を逸らす為の方策として莫迦貴
族によってリディアの許容量の少ない政治的能力を飽和させる気なのか、それはリディアにも判断が付かない。
そうした場合は、取り敢えず殺してから考えるべきなのだ。
「政治的な連中でも、私の足を引っ張るならばそれは最早、軍事的脅威に他ならない!」
「全てが軍事力で解決できる訳ではありませんぞ。政治的地位の低下は、元帥閣下の権勢にも響きましょうぞ」
「それが如何した! 部下の死に対する侮辱に立ち向かう度胸もない者が帝国元帥足り得るものか!」
ブルガーエフを押し退け、リディアは腰の大剣を引き抜く。
本来、背負うことで装備する大剣だが、リディアはその容姿だけでなく、身体も長身で手足が長い為に容易に引き抜くことができた。当然であるが、それには 相応の練度が必要であり、研鑽の結果であった。そして、それはトウカの用いた抜刀術に対する憧憬から研鑽の始まった戦技である。南部鎮定軍は前回のエルラ
イン回廊会戦に於いて優勢のままに撤退したことから生まれた余裕もあって、個人の剣技に対する研鑽の時間があったことも大きい。
実質、優勢といっても南部鎮定軍の戦力の大半を磨り潰しての勝利は想定されていない。後の防衛で多大な負担を強いられることを恐れ、リディアは予定され ていた期間よりも早く攻勢を断念した。無論、予定通りの被害は与えており、皇国北部での内乱の影響か、砲撃密度は以前の攻勢と比して低下しているとのこと で、軍需物資の備蓄面で支障が出ているのではないかという意見も出ていた。
限定攻勢に於ける戦術的勝利。公式見解ではそうなっていた。
だが、実際は違う。予定された優勢のままの撤退であった。
エルライン要塞に駐留している戦力の損耗を誘いつつ、要塞の備砲を漸減するという目標が軍内部には事前通達されていたが、それは副次目標に過ぎず、主目標は現在、皇国内で行われている内戦の助長であった。
リディアには、その考えを正確に理解できなかったが、エルライン要塞の駐留戦力を拘束することに成功すれば、皇国蹶起軍が後背を突かれる危険性はなくな る。皇国征伐軍は帝国南部鎮定軍による再度のエルライン回廊侵入阻止を意図し、決戦を意図して積極的に動き出す可能性が高い。
より激しく衝突し、血を流し、憎しみを募らせるのだ。
――最も姉上の策である以上、何かしらの思惑もあるだろが。
ナタリアが腰の曲剣を引き抜き、ブルガーエフが止むなしと奪い取った輪胴式拳銃を手にしたことを確認し、貴族がいるであろう応接室の扉の前に立つ。武骨な造りの南部鎮定軍総司令部に在って、豪奢な造りをしている応接室だけあり扉にもそれなりの装飾が施されている。
扉前に立つ衛兵を下がらせ、二人が扉の両端に立ち、頷くのを確認したリディアは扉に容赦ない蹴りを加える。
鉄板の仕込まれた軍靴と魔人族の高い身体能力もあって、扉は蹴破られるに留まらず、破片を撒き散らして砕ける。
突入。
大剣を横一線し、舞い踊る破片を魔術も使わない純粋な剣風……風圧で吹き払いリディアが、部屋へと踏み入り、その左右を護るようにナタリアとブルガーエフがそれぞれ曲剣と輪胴式拳銃を手に展開する。
理想的な屋内制圧戦。
帝国軍将校は常在戦場を基本としているが、それを実施している者は極めて少ない。特に権力によって上り詰めた貴族将校などは、この寒冷な帝国国土にあっても暖かな司令部内で酒精を嗜みながら指揮を執っている。
だが、南部鎮定軍は違う。皇国侵攻という重責と高級将校であっても高い死傷率を叩き出す帝国有数の激戦区であるエルライン回廊を主戦場と定める南部鎮定 軍。有能な将校でなければ勤まらず、無能な上官の指揮によって戦死することを良しとしない下士官や兵士が上官を謀殺するという事件すら起きている。無能が 配属されることは少なく配属を希望する貴族将校もいない。
そして、リディアが南部鎮定軍司令官に着任すると同時にその気風は拡大した。否、させたのだ。
「あ、姉上ッ!?」
室内には、そのリディアの急進的な姿勢を支えた姉がいた。優雅に紅茶を飲む豪奢な純白の衣裳を身に纏う背筋の凍る程に美しい女性。美しい容姿をしているが、何処かヒトとしてのナニカを失っている佇まいをしている。
《スヴァルーシ統一帝国》第五位帝位継承者、エカテリーナ・グローズヌイ・アトランティス。またの名を“白き女帝”
位継承権を持つ姫君の中でも、各々の分野で権勢を誇る二人が政治的、軍事的に競合することで他の帝位継承者から手出しを受ける事のない独立勢力として帝 国内での地位を築いていた。幼少の頃より仲の良かった二人が徒党を組んで、其々の不得意な分野を補い合うことで政戦共に帝国の一翼を担っていることは、此 度の皇国侵攻にリディアやエカテリーナが大きく寄与していることからも窺い知れる。
「ほら、怖い妹が殺しに来た……私の勝ち。孤児院の増設の予算は削減ね」
エカテリーナが虚空に美しい、それでいて底冷えする様な笑みを以て横へと視線を流す。
そこに居たのは、右に蝙蝠の翼、左に堕天使の翼を持ち、淡紅色をした退廃様式の衣裳を纏う堕天使であった。
上衣と足首まで続く長裳部分が一続きになった衣裳。肩の膨袖に、袖がなくも両腕を彩る真紅の袖止めは姫袖の様に喇叭状に広がりを見せている。衣裳全体に縫襞と布寄せ(シャーリング)によって複雑な象意を施されていることもあり、それが酷く手の込んだ一着であると窺わせていた。
無論、大前提として彼女以外にそうした衣裳が似合う者をリディアは知らない。
「もぅ、リディア死んじゃいなさい! 神罰で馬糞を踏むわ!」
犯し難い鈍色の髪に真紅の瞳が、勝気な笑みでリディアを睥睨する。
ふわりと柔らかさを感じさせる鈍色の髪は肩まで届かぬ程度。目深に真紅の大きな蝶結が左に留められた淡紅の睡眠帽を被った姿は酷く人目を惹き付けるだろう。
人間種であれば一〇歳を超えるか否かの身体は当然ながら貧相で、極一部の男性以外には望まれないかも知れない。露出皆無の胸元を真紅の胸飾や、長裳に配された蝶結などは愛らしさを際立たせ、見る者を自然と微笑ませるだろう。
しかし、何処か雌を感じさせる気配を感じさせる。
堕天使と吸血鬼を掛け合わせた旧文明時代の“死に損ない”と自称する彼女は、リディアの言葉では表現し兼ねる要素を多分に有していた。
エリザヴェータ・トラヴァルヴィ。
帝国建国時より暗躍する魔性である。上品に口元を隠して笑うエカテリーナと、愛らしい顔立ちを歪ませて舌打ちするエリザヴェータ。
「カーチャ姉に、天魔殿」
二人の名を呼び、リディアはある意味莫迦貴族を上回る脅威と面倒事がやってきたのだと悟る。英雄とも称されるリディアだが、エカテリーナとエリザヴェー タは共に政略に秀でており、特に前者は謀略と計略によって並ぶ者なしという評価を多くの者から受けていた。対するエリザヴェータも政治権力を有さない立場 であるにも関わらず人心を容易く操る化物である。
「全く以てそうね、貴族の不平すら躱せない妹なんて……姉として恥ずかしいわ」
楽しげに、そして何よりも優美な佇まいで微笑む姿は一枚の名画の如くと称して差し支えない。それはエカテリーナが己の真意を不条理なまでに隠し遂せる精神性を有した稀有な人物であるからである。リディアはその微笑が決して優しさに繋がるものではないと理解していた。
隣に座でふわふわと宙に浮くエリザヴェータは、リディアに視線で座れと促す。その重圧すら伴ったかの様な視線に押さえ付けられるように、リディアは応接椅子へと腰を下ろした。旧文明の神魔大戦に於ける人類側にとっての方面軍指揮官であった彼女には、暴力や権力を超越したものがある。
「さて、貴女の短気を止める心算はない。軍人が己の最も得意とする暴力という手段で問題を解決しようとするのは極めて正常で妥当な判断でしょう」
「でも、相手を確認しなかったのは間違だわ。貴女じゃなかったら無礼討ちよ」
二人の反論に困る言葉に、リディアは冷や汗を流して頷くだけに留める。
しかし、無邪気な暴君とも称されるエリザヴェータは帝族の一部のみが認識しているに過ぎない。自由気儘な暴虐がこの場にいる理由をリディアは気にした。もし、此度の外征に助力を願えるならばこれ以上ない程の増援となる。
「なによ? 私がここにいるのが気に入らないって言うの?」
「いえ、そんな事は……ただ、珍しいと」
リディアの胡散臭い視線を感じたエリザヴェータが不貞腐れる。腕を組んで見下す姿は。何故かのそ容姿に似合うものがあった。生まれながらの支配者階級たるをリディアよりも体現している。
「天に星よ、地には花よ、帝国に私よ。何処に居ても当たり前じゃない。御莫迦さん」
自身が帝国だと断言できる程に、エリザヴェータは建国に深く関わっている。無論、建国後は全く関わらず、時折歴史の影で狂気を撒き散らすだけだ。
ブルガーエフとナタリアは、リディアの背後で直立不動の体勢を緊張の面持ちで堅持している。一瞬で視線を二人の姉へと戻す。それも無理からぬことであっ た。周囲には貴族と思しき者達の遺体が散乱している。見渡しただけでも二〇近い数の遺体。風刃などの魔術で執拗に切断されたのか、正確な数と人相を判別で
きない程に細切れにされていた。ブルガーエフとナタリアの顔面蒼白の主な理由はそれである。リディアも努めて見ない様にしていた。眼前の二人は殺人を行っ たにも関わらず、普段と変わらぬ調子で会話を繰り広げている姿に狂気を感じる。
エカテリーナやエリザヴェータは、眼前に立ち塞がる者が例え貴族であっても雑草のように無造作に刈り取ることができる。反射的な……呼吸をするように人を殺せるのだ。
無論、直接に手を下したのはエリザヴェータである。エカテリーナにも武芸の嗜みはあるが、人間を肉片に変えるほどではない。なによりも周囲の切断遺体には一滴たりとも血液がなく、生臭い鉄の臭いは感じられなかった。
「あら、怖いの?」
リディアの畏怖を気取られたのか、エカテリーナが笑う。あくまでも深窓の令嬢……美しき理想の姫君として。
だが、この惨殺現場に在って、その笑みは恐ろしいほどに不釣り合いであった。リディアとて軍人であり、その膂力と戦技、近接戦闘に特化した魔術大系によ る支援を含めると、それは大隊規模の戦車による機甲突撃と然して変わりのない威力を発揮する。魔人族の中でも“先祖還り”と呼ばれる輝かしき大帝国時代の
ヒトの最盛期を支え、守護した純血の魔人に近い“性能”を誇っているリディアは、帝国内でも卓越した個人戦闘能力を有していた。士官学校を卒業して三年足 らずの期間で陸軍元帥の地位に就いたのは、決して帝位継承権を有しているからではない。寧ろ他の帝位継承権を持つ者達からの妨害などを踏まえると、逆にそ の肩書は軍内部での昇進にあたっては邪魔なものでしかない。
それでもリディアは帝国陸軍元帥になった。二人の姉の政治的後ろ盾もさることながら、戦術的規模の戦闘で圧倒的な戦果を示した事が大きく、リディアが戦野に立つだけで友軍将兵は猛り敵将兵は戦意を削がれる。
エストランテ僭帝大乱では大隊を率いての突撃で一個師団を正面から壊乱させ、敵方の補給線を各所で蹂躙した。敵兵を踏み砕き、魔術によって強化された大剣 で薙ぎ払い、肉片に変え、大地へと撒き散らす。虫の息で大地に伏した兵士の頭部を踏み砕き、脳漿と脳を飛散させる。大剣が一閃すると兵士は臓物や血を噴き
上げて斃れ伏し、帝国の寒冷な気候はヒトの暖かな内容物から湯気を生じさせる。蹂躙を終えた後も周囲を見回せば朱に染まった大地に無数の湯気が立ち昇り、 夢幻の如き光景となっていた。
現世と夢幻の狭間。そうブルガーエフが称した光景を見ても、リディアは恐ろしく感じることはなかった。
だが、眼前の二人には言い知れぬ恐怖を感じた。普段は優しい姉なのだが、政治と軍事が関わるとそこには情け容赦も慈悲もなくなり、死を積み上げる指示を 出すことに何の躊躇いもない。眼前の目障りな雑草を手にした鉈で無造作に刈り取るかのように命を奪っていく。そこに意志などない。
「殺人という行為は、ヒトが近代文明の中で国家を維持するにあって必要最低限の行為よ」
「あら、怖い」
エカテリーナは素早い動作でエリザヴェータの翼を純白の扇子で叩きつつも、壁に半ば拉げたように張り付いて事切れている貴族の遺体を一瞥する。何の感慨もなく、部屋の調度品を眺めているのかと見紛うばかりに自然な動作であった。
「貴女は優しい。それは良いことよ。軍に所属する貴女にとってそれは悲しくも苦しいことかも知れない。でも、私はそれを赦す」
「リディアは単純が一番よ。自由にやればいいのよ。邪魔な奴をぶっ殺して好きに生きればいいわ」
二人からの思いがけない言葉に、リディアは目を丸くする。少なくとも日常では優しい二人だが、この様な話をしている中で優しさを見せることは極稀であった。
そこでリディアは思う。二人は何をしに来たのか、と。共に重責を担う立場にあり、決して暇ではない。政府機関や軍組織内での役職に就いていない大多数の 貴族とは違い二人は、固定した役職はないものの、行わねばならないことに合わせる形で役職を得ており出会う度に肩書が変わっている。
つまりは多忙を極める。その上、エカテリーナは足を引っ張ろうとする他の帝位継承者の揚げ足を取り、罠を逆用し、潰し合わせることも片手間に行っており、帝国南部の公共施設整備の指揮も執っていた。エリザヴェータは何処かで自然災害を演じているのだろう。
「そう言えば、貴女に御土産があったの」
「そうよ、それを忘れていたわ!」
エカテリーナの言葉に頷いたエリザヴェータが、二人が座るソファーの端に無造作に立て掛けられていた鞘に収まっている両手大剣を掴むと、リディアに投げ付ける。
体力のない風体のエリザヴェータだが、身長を越える長大な両手大剣を一切の揺動なく放り投げる光景はどこか浮世離れしたものがある。
リディアは、芸術的価値のある机に傷を付けぬように慌てて掴み取る。受け取り、軍人の癖で刃を鞘から引き抜いてその刀身を確認する。リディアであっても 一息で抜けないような刀身長のある刃。それを十分に生かして相手を叩き斬ることができる様に柄もそれ相応に長く、それだけを見れば実戦的な造りとも取れ る。
しかし、その無駄に幅の広い刀身には無数の幾何学模様が乱立して、儀礼長剣と見紛うばかりに輝いていた。魔導長剣の一種か、と訝しみながらも、軍人の性で珍しい武器に心を躍らせてしまうリディアの内心を見透かしたかのようにエカテリーナが笑う。
「それはね、銀輝の神剣というのよ」
明日の天気を予想するかのように軽い一言。
「「「!?」」」
だが、その言葉は、リディアは勿論、背後で直立不動のままに事の成り行きを見守っていたブルガーエフとナタリアの、声にならない呻き声と乱れる姿勢によってのみ応じられる。
銀輝の神剣。
複数の異名があり、ヌアザ・アガトラムやクラウ・ソラスとも呼ばれる剣である。帝国に於いては建国の租である初代皇帝の一振りとされ、戴冠式や特別な行 事ですら披露されることはない。一部の者は存在すら疑問視してすらいた。建国神話では山を砕き、龍を斬り伏せたとあり、見た目や造りを見る限り素人ならば そう思えても致し方ないという感想をリディアは抱く。
リディアに冠された“銀輝の戦帝姫”という異名は、確かにそこに実在し、 “銀輝の神剣”に匹敵する戦果を期待するという将兵達からの願いが含まれている。そこからも分かる通り帝国に於ける国威の象徴の一つと言えた。
「二人が直接、持ってくるということは贋作……では、なさそうだな。だが、それにしては真新しい……爺ぃ、本物だと思うか?」
「わ、私に話しを振らんでください! 爺やの心臓を止めるお積りかッ!」
国威の象徴を両手で弄びながら笑い掛けるリディアに、ブルガーエフが退く。この老人には何時も小言を言われているので良い薬であるという思惑がない訳で はない。対するリディアは手にしている銀輝の神剣が偽物であるという確信があったので、ぞんざいに扱うことを躊躇わなかった。
リディアは幼少の頃に父である現皇帝ゲオルギィ二世にせがんで実物を見せて貰ったことがある。その際の銀輝の神剣は成金趣味を前面に押し出した豪奢な象意が施されており、今手中にしている両手大剣と大まかな全長と幅は類似しているもの、姿形は大きく違っていた。
「あら、リディアも誤魔化せるなんて天魔殿の改造も無駄ではなかったわね」
「魔改造上等よ! まぁ、外装だけで本質には手を出せないけど」
得意げな表情のエリザヴェータ。そう、リディアの手にしている両手大剣は紛れもなく、本物の銀輝の神剣であった。
それは帝国が有する神剣である。帝国という膨張主義を国是とする国家に在って、権威や風潮などは極めて重視される事柄であり、実在を疑問視されても尚、対応が成されないという点は不可解の一言に尽きる。
それは何故か? 神話に語られる通りの戦術兵器だからである。アトランティス大陸最大の強国である帝国には抑止力としての戦力よりも、秘匿戦力として銀 輝の神剣を扱う事としたのは自然な流れである。リディアもその点については理解していた。何よりも有象無象の貴族の意識が銀輝の神剣に向かうことは軍事的 にも政治的にも好ましくない。
「ほ、本物なのですか?」
リディアは改めて手中の一振りに視線を落とす。とてもそうは見えないのだが、例えそうであったとしても刀剣である以上、運用上は殺人の道具に過ぎない。
「貴女には英雄になってもらうわ」
緩やかな微笑と共にエカテリーナによって紡がれた一言に、リディアは眼を見開く。
帝国に英雄は存在してはならない。それは不文律である。大衆的英雄精神という虚像の英雄的理念の持ち主の存在が許容される範疇で、それ以上の英雄は認め られない。それを中心とした政治的、軍事的勢力として成立することに対する警戒からであり、貴族がそれを利用、或いは迎合する可能性から目を逸らすことが できないからである。
「カーチャ姉、それはッ!!」
帝国に於ける禁忌の一つである“英雄”という肖像。リディアも幼少の頃は憧れた英雄という存在だが、帝国では存在すら許されないのだ。英雄としての要素 を持ち合わせた存在を帝国は決して許しはしない。現在のリディアですら英雄という称号を避ける為に“銀輝の戦帝姫”という異名を二人の姉によって市井に定
着させられていた。皇国に於ける天帝招聘の儀を妨害したという英雄的行為すらも非公開になっている理由は、軍総指令部のリディアを英雄にさせないという静 かなる意思の表れである。
「これから帝国は変わらないといけないの」
「ま、変わらないと帝国は滅亡するものね。……別に国家の命数を使い果たしたというなら構わないのだけど」
至って変化のない声音と表情で言葉を紡ぐ姉と天魔。リディアは耳を疑い、背後に立つブルガーエフとナタリアの息の飲む音が聞こえる。
――滅ぶッ!! この大陸最強の国家である帝国が! 天魔殿は確かにそう言った!!
絶句するリディアとブルガーエフ、ナタリアを見ても、エカテリーナとエリザヴェータには何の変化もない。まるで確定事項を確認するような口調の二人にリディアは上手く言葉を紡げない。
「そう言えば、この都市で今、催し物をしているそうね」
「食い倒れよ! 公費で!」
脈絡のない姉と天魔。
南部鎮定軍総司令部は、今日も平和?だった。
「という訳よ」
「いえ、カーチャ姉、それじゃ分からないです!! ちゃんと言ってくださいよ、私だって一応は一軍を――」
「――五月蠅いわね! リディア面倒臭いわよ、ついでに頭が高いわ! 控えなさい」
リディアの言葉をエリザヴェータが問答無用に遮る。対するエカテリーナは心底、面倒臭いと溜息を吐く。防寒障壁で温度管理された喫茶店の野外席で優雅に茶菓子を嗜む三人。旧《エカテリンブルク王国》の王城を利用した南部鎮定軍総司令部を見上げる位置にある城下町の一角で寛いでいた。
軍事都市という異名を取る程に要塞戦を考慮した都市であるエカテリンブルク。それだけではなく、白亜の建築物を中心にして理路整然とした街並みも維持していた。旧《エカテリンブルク王国》時代の名残でもあるが、それらは未だに毎年予算が組まれ連綿と維持され続けている。
白亜都市エカテリンブルク。
それは白の女帝が居城である。母方が旧《エカテリンブルク王国》の王族であるグローズヌイ王家の血縁である為、元より赤テリーナには縁のあったエカテリ ンブルク。エカテリーナにとっては政治活動の中心であり、帝国南部の政治的、軍事的一大拠点でもあった。他の貴族と違い徹底した実力主義による官僚体制を
敷き、腐敗を防止する為に自前の戦力による統制を強めている。相手の地位や階級に左右されない犯罪者に対する苛烈な対応は、賞賛と恐怖を以て迎え入れられ ていた。
「最近は、ただでさえ厳しい食糧事情が更に厳しくなっている。嘆かわしいことだ」
そう口にして、軍人の食える時に食っておけという姿勢を全力で体現するべく茶菓子を頬張っているリディアに、エカテリーナは笑みを零す。一見すると能天 気な小娘に見える姿だが、エカテリーナの瞳にこの上なく好ましいものに映った。例え、男性ものの私服を身に纏い、口元を砂糖で汚した姿だとしても。
英雄たるの資質。エカテリーナは、リディアがそれを持っていると昔から確信していた。
現在の帝国には余裕がない。街中を往く人々の顔色も白亜都市に不釣り合いな暗いものばかりである。それは食糧事情や政治体制、軍の膨張、貴族の専横…… つまりは世論の失望と怨嗟からきていることをエカテリーナは十分に理解していた。今この場に赴いて確かめようということでもあったが、それはあくまでも副 次的な理由である。主目的は現在の様な息抜きであった。
「問題は国を覆う閉塞感よ。最初は手早く打破する為の開戦だったのだけどね」
エリザヴェータが果実を咀嚼しながら呟く。
「ほら、人間って莫迦じゃない? 敵がいたら叩く事に熱中するでしょ?」と嘯くエリザヴェータ。端的に人間が認めたがらない本質を串刺しにしてくれる堕天使であった。
そう、そして一度の確たる勝利だけでよかった。
初期の作戦計画ではエルライン要塞の無力化という目標だけに過ぎなかった。軍総司令部内が策定し、エカテリーナが手を加えることもなく進んだ。しかし、 帝国内での急速な食糧事情の悪化と噴出する急速な拡大思想を抑え切れず、臣民は閉塞感の、特に経済的閉塞感の打破を願った。
「そう、貴族達は戦争をすれば民衆の不満は敵国に向かうと考えているの。でもそれは違う」
紅茶を嗜む姿から想像できないが、エカテリーナは後悔していた。
民衆は時代という色眼鏡を通した現実しか見ることができない、とエカテリーナは考えており、ならば統治者は自国にとって都合の良い色眼鏡を用意せねばならない。
だが、エカテリーナにその力はない。三人の力を結集しても尚、有象無象の貴族や腐敗した軍上層部を一掃するには届かない。寧ろ、政治勢力や軍事勢力とし て見れば余りにも小規模であり脆弱でもあった。新進気鋭の二人の麗しき帝位継承者と言えば聞こえはいいが、それは同時に新興勢力であるとも言える。一度守
勢に回れば脆弱さが露呈することをエカテリーナは理解していた。帝国内の一勢力として強大ならしめる事を短期間で行うことは、エカテリーナであっても不可 能である。例えそれが叶ったとしても強固な信頼関係を築き上げる事は難しく、勢力内での闘争などでエカテリーナの影響力は低下する。
当初、エカテリーナが舞踏会に躍り出た時、いっそのこと小勢であるほうが必要以上の警戒感を抱かれないとすら割り切っていたが、最近ではどの道帝国の改革は叶わなかったのではないかと思い始めていた。
ちらりと紅茶用の果醤を匙で 掬って口に運ぶエリザヴェータに、エカテリーナはそっと視線を向ける。無邪気な暴君。一部の帝族のみに知られた帝国たる本質の体現者。彼女の支援という名
の殺戮があったからこそ建国まで辿り着いた。再びエリザヴェータの積極的協力を仰ぐことが叶えば、皇国に優位を確保できるのではないかと、エカテリーナは 考えていた。
当然、机上の空論である。彼女は餌場を求めて建国に手を貸したに過ぎない。
人間だって自棄酒するでしょ? 私が血を吸うのはそれと同じよ。
一度、助力を乞うた際、さも当然の様にエリザヴェータは嘯いた。その助力がいかなる方向へと傾倒するか、エカテリーナには想像もできない。御せる自信もなくば、止め得る手段も持ち合わせてはいなかった。無邪気な暴君に縋るという選択肢は元より存在し得なかった。
だが、エカテリーナは帝族である。支配者である。統治を放棄する訳にはいかない。エカテリーナにはどれほどに資金を投入しようとも、情報統制をしようとも変化しないエカテリンブルクの世論を支配する閉塞感に亡国の調が聞こえ始めている気がした。
「国家体制が、政治制度が疲弊している……そう思っていたわ。だから、手段を問わず強制的にでも修正すればいいと思っていた。……でも、違ったの」
この様に催し物を頻繁に行い経済活動を促しても尚、人々の間に漂う閉塞感と言い知れぬ暗い影が付き纏う。そう、違ったのだ。
「本当はヒトの心そのものが疲弊していたの……」
背中合わせの絶望と不可視の未来はヒトの心を著しく疲弊させる。貴族の専横という天災の如き脅威と、軍の肥大化に伴う指揮統制の低下と比例した犯罪率の増加。そして、それらを維持するための重税。
「それは……」
リディアの呻き声に、エカテリーナは微笑む。だから英雄が必要なのだ。鋼鉄の暴風で、この帝国に根差す理不尽と不条理を吹き払う一陣の風。
それがリディア・トラヴァルト・アトランティスという名の風なのだ。
――期待しているわ。銀輝の戦帝姫……帝国の英雄さん。
エカテリーナは改めて微笑む。陽だまりの様な、それでいて何処か毀れたような微笑。
そして緩やかな時間は過ぎていった。
「予想はしていたわよ」
エリザヴェータは嘆息する。ヒトにはよくある光景でも馴れない光景というものがある。それは事象や行動に対しても同様であり、本能や感覚が拒絶するという先天的な苦手意識も同様であった。
エリザヴェータはヒトという生き物が苦手だ。家畜が随分と賢しらに言霊を弄するのだ。食材が捕食者たる己を非難するのだ。嘲笑を以て退けるには、エリザヴェータはあまりにもヒトと関わり過ぎた。
然りとて今更、在り方を変えることもできない。
「待ちなさい……どうどう、ほら、リディア」
エカテリーナに襟首を掴まれていたリディアが頸木を解かれて走り出す。まるで主人が縄を離してしまって走り出した猛犬の様な光景に、エリザヴェータは呆れる。無論、表情には出さないが果てしなく呆れていた。
眼前の二人だけは、エリザヴェータを恐れない。故に共に在るのだ。巷ではこれを友人と呼ぶのかも知れない。遠くでリディアが軟派な男を手当たり次第に殴りつけている光景を横目に、エリザヴェータは周囲に目を配る。
リディアの勇戦に野次馬が沸き立つ。軟派男共が次々と宙を舞う光景。不甲斐ない男は好きではないが、個人で戦況を変えるヒトが眼前にいるのは、元来、ヒトが相対することすら叶わない神々へと挑む為に開発された者として複雑なものがある。
周囲の野次馬の中には軍人も混じっており、顔を引き攣らせている者達はリディアの正体に気付いているのだろうと推測できるが、最早、隠蔽はできない。
呆れる二人がいるのは場末の酒場の隅の席。簡素な造りの席におつまみと何種類かの酒瓶が無造作に置かれている。それは本来、帝位継承者が口にするようなも のではなく民衆が食する安価なものであった。素材の味を安価で自己主張の激しい調味料で誤魔化したものに過ぎないが、上流階級の料理のように上品に食さね ばならない訳ではなく気楽なものがある。
エカテリーナやリディアがよく市井に繰り出すのは、決して精神的負担だ けが理由ではなく、気兼ねなく振る舞えるからでもあった。リディアは軍人であり横柄に振る舞うことも軍人という肩書からすれば不可能ではなく、エリザ
ヴェータも最近は屋敷に引き籠る生活が続いているので気に掛ける者はいない。故に三人の中で一番、この様な時間を好んでいるのは間違いなくエカテリーナで あった。それは対面に座っているエカテリーナの前に転がっている酒瓶の数からも推し測れる。
舞踏会では帝国一の美姫とも賞賛されるエカテリーナが、街娘の格好で出歩いていることなど貴族達には埒外の出来事であろう。無論、護衛戦力としてリディアが付いているのだが、最近は対皇国戦役の再開という国家的大事業もあって時間が取れなかった。
その為、エカテリーナの酒量はいつにも増して多い。
「こうして英雄伝説が築き上げられていくのよ。伝説は場末の酒場から始まると大衆向け小説にも書かれているわ」
「現実と虚構は見分けなさいよ」
そう言うとエリザヴェータはバルディを煽る。
バルディとは帝国の麦酒である。年数によって複数の種類に分けられたもので、エリザヴェータは年数の長いものを好み、喉越しと、次いで麦芽の風味を重視していた。皇国の白麦酒は、
五〇%以上の小麦麦芽を使用した純度の高い明るい色のエールで薄い色の麦酒である為、歴史的に白麦酒と呼ばれている。皇国産の白麦酒には香草や果実皮成分 といった香辛料が加えられ、仄かに芳醇な風味が加えられているものもあった。その多様性とそれの製造を行えるだけの余裕を窺わせる。そして、一地方のヴァ
イツェンという種類の麦酒の中ですら、酵母麦酒は濾過していない白麦酒の名であり、他にも水晶麦酒などに分かれており多様性は他国の追随を許さない。
――そもそも帝国では、酒類製造が国営。これじゃ文化の硬直を招くわね。
嗜好品である種類や煙草の製造まで国営にしてしまっている姿勢そのものが、帝国の傲慢を示していると言っても過言ではなく、同時に視野を狭めていた。
人の数……人口とは力であるが、制御には多大な労力が必要となる。
国力、権力、経済力、軍事力、政治力、武力、兵力、財力、生産力、資源採掘力、市場力……実際的な“力”を増強させる面で重要であるが、最も恐ろしいの は精神的分野に於ける発達の遅れである。多様性を是とする国家は、主義や主張、思想などが乱舞し、鎬を削り、劣るものが淘汰され、翌日には新たな主義、主
張、思想ができることとてある。人口が多い程にそれらの競争力は向上し、闘争も激化するが、帝国は体制の崩壊を恐れてそれを国家権力よって統制している。
エリザヴェータは絡繰りこそ分からないものの、栄華を極めた旧時代を知っている。
――思想や主義が効率的な国家運用へと昇華することを分かっていのよね。莫迦ばっかじゃない。
時として、それは遙かに強大な国家を、古き体制と断じ、容易く崩壊させる。何時、周辺の国家がその潮流の恩恵を受けるか分らない。特に自由主義陣営の盟 主である《ローラン共和国》や、各種族、民族毎に州を形成して緩やかな連立を掲げている《トルキア部族連邦》などは、ヒトの意見や意志が無数に飛び交い、
衝突し、磨き上げられていることは想像に難くない。そして何より、“皇権神授に依る極めて天帝の権限が強い立憲君主制”という独自の国家体制を形成し、強 大な種族を主体とした人間種とは一線を画す精神性の下に統治される《ヴァリスヘイム皇国》。彼の国だけは、エリザヴェータにも方向性が推し量れない。
公式の政治体制が“皇権神授に依る極めて天帝の権限が強い立憲君主制”という類を見ないものとなっており、それは有史以来初めてのもので照らし合わせるべき対象がなかった。
――あの国は、何処からともなく現れた天帝が統治する国。その天帝の動きを初動から予想するなんてできない。あの政治体制を考えた人間は、ヒトの可能性なんて興味もなかったんでしょうね。
天帝候補が現れたという報が届いた瞬間には、《スヴァルーシ統一帝国》も諜報機関を動員して、その為人や能力を探ろうとするが、如何せん突然現れて過去 を語らない者が多い天帝を推し量ることは容易ではない。歴代天帝でその初動から推測が叶った者はいない。挙句に、始末の悪いことに歴代天帝の殆どが優秀で 名君と呼ばれたものも少なくない。
エリザヴェータは、一際大きくなった歓声に目を向けると、リディアが最後の軟派男を長い脚を利用した踵落しで撃破したところであった。
「あら、派手な技ね。正に英雄と言ったところかしらね」
赤みの射した表情のエカテリーナに、エリザヴェータは嘆息する。
「ちょっと飲み過ぎよ。それと英雄なんて居ないわよ」
誰も彼もが口にする英雄が、真に彼らの望む英雄であったことなど一度としてない。エリザヴェータは知っていた。無論、一度は見てみたいとエリザヴェータも考えてはいたが。
「あら、貴女。最近、古の勇者召喚について嗅ぎ回っているでしょう?」
エカテリーナの左手がエリザヴェータの頭部を鷲掴みにする。人間種に過ぎないエカテリーナだが、その笑顔と口調、動作からは抗い難いナニカが滲み出ており本能が危険だと警鐘を鳴らす。
「知ってる? 貴女。次々と破られる帝都の禁書庫の事件。揉み消しているのは私なの」
エカテリーナは酒癖が悪いのだ。幾度、餌にしてやろうかと思ったか分からない。無論、遠いとはいえ天使の血統の血など口にできたものではないが。
腹に鈍い衝撃が走る。危うく逆流しそうになった胃の中の酒を落ち着かせつつエカテリーナを睨むが、そこには上品な笑みを浮かべる街娘の姿しかない。恐らくは爪先で蹴られたのであろうが、予備動作も表情の変化も感じ取れず、周囲の者は喧騒も相まって誰一人気付いていない。
「ねぇ、謝罪と感謝は?」
「うぅぅぅぅ、腹部を蹴るのは鬼畜だわ!」
鈍痛の残る腹部を押さえて恨みがましい目で見据えるエリザヴェータだが、エカテリーナは横の席へと移動すると、悠然とした笑みのままに肩を組んでくる。
「あら、上品な御姉様はお腹蹴ったりしないわよね?」
鋭い眼光。
「…………………………………………………………はい、しないです」
女帝は強かった。
民衆は時代という色眼鏡を通した現実しか見ることができない。
ピンク色のレンズのメガネをかけている人は、世界がピンク色だと勘違いをしている。自分がメガネをかけていることに気づいていないのだ。
アルフレッド・アドラー 精神科医、心理学者