第七五話 焦燥のリシア
「うむ、これだ。これでこそ五百蔵の粋」
エップが御猪口を片手に頬を綻ばせる。
優しげな風貌で酒精を楽しんでいるその姿は、縁側で猫を抱いて日光浴を嗜んでいるご老体に通じるものがある。トウカは温くなった御茶を新たに用意する老婆になったかのような気分で、徳利の米酒をエップの御猪口に注ぐ。
その隣では雰囲気をぶち壊すかのように、フェルゼンの酒屋で大量入手した安価なウィシュケの樽を横に侍らせたラムケ。麦酒碗片手に御満悦なのか、リシアの首を片腕で拘束して肺活量を感じさせる腹の底からの笑声を上げていた。中年の脇が臭いとリシアが悲鳴を上げているが、リシアにとってラムケは父親代わりであることから、見ようによっては不器用な義父との交流と見えなくもない。
耳を澄ませると、天井からは他の兵士達の歓声が聞こえる。防音障壁すらない壁や天井だが、これはこれで風情を感じられなくもない。工兵一個中隊は、夜ま でに付近の森林から木々を伐採して兵舎を増設するという難事に見事応えてくれた。兵舎では通信大隊が飛行兵達と共に飲めや食えやの大騒ぎを繰り広げてい
る。輜重大隊がザムエル隷下の戦闘団主力に同行しているので、夕食は通信大隊の女性兵士有志によるものとなったのだが、これが想像以上に食べられたもの だった。
――こう言っては失礼だが、女性軍人がこうも調理ができるとは思えなかったな。
ちなみに通信大隊の女性兵士一同による調理を指揮したのはトウカだった。工兵が兵舎内に設営した料理設備は、即席にしてはかなりの出来栄えで調理に支障はなかった。強いて言うならば、入浴施設が欲しいという女性兵士の要望に、煽てられた工兵中隊が浴場まで設営し、過剰労働で
腰痛の者を多数生じさせたことくらいである。ある程度、女性将兵が配置されている方が、軍務効率が向上するという俗説は事実なのだろう。悲しい男の性で あった。少々の性の乱れも許してやろうという気持ちにならないでもない。無論、限度を超えるようであればちょんぎらざるを得ないが。
「この山菜はいいですなぁ。味が浸みている」
「工兵中隊が伐採のついでに山菜を採取してきたので御浸しにしてみました」
エップの心から滲み出したかのような称賛に、トウカは肩を竦める。
「じじくさい料理ばかりね。若い兵士が腹を空かせるわ」
「まぁまぁ。心配せずとも私の降下猟兵どもが、狩猟で獲物をかなり捕まえていますよ。そう拗ねないで飲みなさい。はっはっは」
リシアの不平に、ラムケが楽しげに捕捉する。リシアの場合は、栄養の偏りが胸囲に致命的な被害を齎している気がしないでもないが、トウカは一瞥するだけに留めた。
それぞれが言いたいことを口にする状況は、正に酒宴。
トウカが預かるのは一個装甲擲弾兵小隊と通信大隊、一個工兵中隊、一個降下猟兵大隊に一個戦闘航空団のみで、それらを率いてトロッケンベーレン航空基地 に駐屯している。陸上戦力としては敵中に孤立している中、実質的な戦闘部隊が一個装甲擲弾兵小隊と一個降下猟兵大隊しか存在しないというのは不安に思える
かも知れない。だが、征伐軍に認識されていない以上、規模としては小さいほうがよく、重要なのは航空戦力であった。
「いや、しかし、我らが中佐殿が、この様な物を持ち込んでおられるとは……出世できるでしょう」
確かに軍では酒の扱いと昇進速度が比例するという噂もある。
もし、平時の軍で能力や才能に差がなかったとしても、ヒトによっては昇進に差が出ることがある。それが正当な理由によるものであれば別だが、判然としない場合は立ち回りの差であった。
軍とて常に公明正大にして、理路整然とした命令と指示を出し続けることはできない。それはヒトによって構成される組織である宿命であり、常に忠実に任務をこなしていても、軍上層部は正当な評価を行ってくれるとは限らないのだ。
故に職務を遂行しつつも慰安行事を積極的に行い、見目麗しい女性士官を連れて来て上層部の御機嫌を伺う。他部隊や他部署から来訪した客人にそれ相応の施 しを行うなどの、賄賂の範疇に収まらない程度の範疇での気遣いを常に欠かしてはならないのだ。それらの行為は、真面目な軍人からすると言語道断という評価
を受けるかも知れないが、大抵の上層部からすれば、仕事も出来る上に気の利く者という評価に繋がる。それが後々に階級差となって現れることもある。そもそ も、その程度の”気遣い”ができない者に多数の人員を率いる資質があるとは言い難い。
何より、優遇の差が戦場で隷下の将兵達を助けるかも知れないと思えば、生真面な物達からの妬みなど安いものですらある。
「いや、何分、急造編制だったから親睦も必要かと思ってな」
ラムケの言葉に、トウカは顔を引き攣らせながらも応じる。
実はエップを酒宴に誘った際、ラムケの酒豪ぶりを聞いて、兵士に振る舞っている安価なウィシュケの樽を部屋に運んでおいたのだが、ラムケはそれを麦酒碗に汲んで水であるかの様に飲んでいた。しかも、その表情は神父然とした笑みのままであり、器量の大きい神父の佇まいに変わりはない。酒臭いが。
「しかし、宜しいので?」
純米大吟醸の酒瓶を手にエップが唸る。
確かに神州国の五百蔵酒造の米酒と言えば高価な一本であるが、マリアベルの執務室から失敬してきたものなのでトウカの懐は痛まない。誰が何と言おうとも 必要経費であり、例え問題があったとしても部隊の最終的責任は指揮官が負うべきである。トウカは指揮官であるザムエルの挺身に頭の下がる思いであった。指 揮官とは責任を取ることが仕事なのだ。
「我らが戦闘団司令殿の懐の深さと挺身に、感涙に咽ぶばかりだ」
座ったままベルゲンの方角に一礼するトウカに、大凡を察した皆が苦笑する。
「私にも寄越しなさいよ。飲まなきゃやってられないわ」
ラムケの拘束から抜け出したリシアが、トウカの手から徳利を奪う。
リシアの立場は、現時点では極めて不明瞭であった。作戦行動中に装甲大隊指揮官から無任所に追い遣られた身としては、立場が明確に定まっておらず、このトロッケンベーレン航空基地設営時も所在なさげな姿が散見された。
「怒っているか?」「怒ってないと思うの?」
打てば響く様なという表現に相応しい即答に、トウカは黙り込む。
精神的負担が凄まじい速度で蓄積されているリシアに対する責任の大部分は、トウカが負っている為に安易な言葉を返すと逆効果となりかねない。
「ふむ、ではここは若い者に任せるべきですな。さぁ、アインハルト、兵達を労ってやろうか」
エップが樽の底を麦酒碗で浚っているラムケの肩を軽く叩く。それにラムケは、トウカとリシアの顔を見比べると、丸眼鏡の位置を直して興味深い顔をする。
「迷える珍獣達に神々の加護が在らぁんことを」
「「失せろ酔っ払い」」
トウカとリシアの言葉に、ラムケは右手を己の胸に当てて何かを祈ると颯爽と部屋を出て行ってしまう。その足取りに酔いが回った気配は見受けられず、エップも「困った人だ」と苦笑しながら後に続く。
そして二人が残された。
リシアは、トウカという軍人が嫌いだった。
第二装甲大隊長の任を解いたということもあるが、その後、リシアに然したる任務を与えなかったということが理由の一つであった。他の首席指揮官や次席指 揮官が慌ただしく部隊の維持や確認に時間を費やしている間、然して任務を与えられず周囲からの冷たい視線に晒された。止む無く通信大隊の通信業務を手伝お うとしたこともあるが、通信士も技術職には変わりなく、リシアに手伝える範囲は限られた。
――楯突いたのは悪かったと思っているわよ。でも、放置されるのは我慢ならないわ! 戦地で解任するなんて経歴の傷よ!
戦地での解任となると指揮能力を問題視されたなどという風評や、上官と激しく意見衝突したなどという印象を持たれかねない。当然であるが、その様な部下を持ちたいと思う上官はいないので、自然と再配置の際の配属先は主流から外れることとなる。
「私の人生設計どうしてくれるのよぉ~」徳利の米酒に直接口を付け、リシアは唸る。
「なら、聞かせてろ。御前の人生設計とやらを」
トウカは新たな熱燗を作る為に、幾つかの徳利に米酒を注ぎながら訊ねてくる。然して興味もない風な言い様だが、今にして思えばリシアが苦労を吐露した相手はいない。
「いいわ、教えてあげる」
「それは光栄だ」
空になった徳利を置き、リシアは御猪口を手に取る。トウカがすかさず新たな米酒を注ぐ。酒精によって生じた程よく浮ついた感覚に身を任せ、リシアは語り始めた。
リシアの人生は平坦なものではなかった。否、年齢を考えれば十分に波乱万丈と呼べるものであった。
孤児院出身のリシアだが、幼少の頃、匪賊討伐から帰還した装虎兵小隊を見た時より憧憬と羨望に焦がれた。そして、幼年学校で優秀な成績を収めたことから 奨学金を得て皇都の装虎兵兵科学校に入学したが、余りにも虎種貴族の専横が激しく学年主席となったリシアに対する風当たりは強かった。
そして、紫の長髪をしたリシアがとある問題に巻き込まれた。
装虎兵に憧れて装虎兵兵科学校に入学することには成功したが、この限りなく紫苑色に近い髪の為に問題が起きた。大商家の倅に言い寄られた事が発端で、リ シアはこれを素気無く断ったのだが相手は諦めなかった。実はリシアは将来の昇進や立ち回りを考え、大商家の倅に靡いてみるべきかとも悩んだが、同時に予期
せぬ制限が付くのではないかとの懸念から辞退する。恋や愛などという幻想に現を抜かす気にはなれず、基本的に相手が複数の女性関係を持っていたとしてもリ シアはそれを否定する気はなく、ある程度の線引きを弁え、自分に迷惑が掛からないならば問題はないと考えていた。重要なのは大手商家の倅の女性という立場 がどれだけ自分に有利に働くのかという一点のみ。
しかし、大商家の倅の父親が接触してきたことで事態は流転する。
しかも、その内容は別れて欲しいというものではなく、是非結婚してくれとのものだった。これはリシアの紫苑色の髪を利用しようとしたからで、その意図は リシアも察していた。紫苑色とは神聖にして不可侵の色とされ、その恩恵は例え限りなく紫苑色に近いだけだとしても計り知れない。無論、法的な保障が明確に
設定されている訳ではないものの、宗教的起源や天帝大権にも記述されている為に、臣民にとっては憧憬と敬愛の象徴であった。何よりも紫苑色を象徴する存在 の歴代天帝が四〇〇〇年を超える治政を紡いており、特別視されることは避けられない。
それを利用しての商業活動。
冗談ではない、とリシアは思った。
利用してやろうと考えていたリシアであるが、大商家そのものが己を利用するとまでは考えていなかった。最悪、軍など辞めて舞踏会の華となれと言われる可 能性があり、屋敷に鮨詰めにされることも有り得ないとは言えなかった。この大商家が風評で他の商家に押されており、その劣勢を巻き返すための手段としてリ シアに目を付けたことは明白であった。
不穏な空気を察したリシアだが相手も引き下がらない。装虎兵兵科学校の首席であった事も相まって、リシアの利用価値には期待の装虎兵士官という肩書も卒 業と同時に追加され、大商家の影響力を背景に急な昇進も可能となる。しかし、それは安全な銃後で司令部の椅子を温めて得た階級であり、リシアの望むところ ではない。
一番、気に入らなかったのは装虎兵兵科学校の介入が見られなかった事だ。
大商家とリシアの衝突は装虎兵兵科学校も知るところであるはずであり、仲裁や介入があってもおかしくないはずであったが、終始一貫して沈黙を守っていた。それに対する詳しい理由はリシアにも正確には分からないが、主に二つの可能性が考えられた。
一つは、大商家からの経済的、政治的圧力に装虎兵兵科学校の中枢部、特に校長辺りが屈したという可能性。
一つは、虎種貴族が首席の座を人間種に独占されることを忌避して不干渉の圧力を装虎兵兵科学校に掛けたという可能性。
リシアは失望した。
理由がどちらであれ、否、他にあったとしても装虎兵兵科学校が生徒への介入を看過したのだ。それも主席に対してであり、軍が政治的な影響を受けつつある という事実にリシアは愕然とした。中立が当然であった組織が、有事でないにも関わらず外部からの影響を受けること、それは腐敗の始まりである。
――恐らくは大商家の介入だったはず……
明確な理由がある訳ではないが、リシアは状況を考えるにその可能性が一番高いと考えていた。
故にリシアは北部に逃げた。否、帰郷したという方が正しい。
退学届を校長に叩き付けて、夜逃げ同然で逃げ出したリシアは皇都中で噂になったと風の便りで聞いていた。装虎兵学校首席が突然に退学するなど前代未聞で あり、大層な問題となったことは容易に想像が付くが、リシアは同時に陸海軍の腐敗も始まっているのだと考えていた。左翼思想の天帝が幾代も続いたために軍
の権威は低下し、商家の財力による介入などに晒されているのだ。リシアの一件も嘗ての軍の権勢を考えれば有り得ないことであり、商家に対しても強硬手段に よってこの影響力と介入を排除しただろう。
最早、国軍は皇国を護り得ない。
それがリシアの結論だった。
ならば領邦軍しかない。
各貴族の領邦軍は練度や装備で大きな差異があるが、北部だけは例外であった。ヴェルテンベルク領主であるマリアベルが巨大兵器工廠で兵器生産を一手に引 き受けることでの規格化と、領内に大規模な士官学校を開設し、北部貴族領邦軍の士官の育成を行うことにより、北部貴族という枠組みは巨大な一つの軍勢とし て機能し始めていたのだ。
北部へと舞い戻ったリシアは領邦軍士官学校へと転入した。
マリアベルと装虎兵学校の間で、リシアを巡って意見が衝突したとは聞いていたが、最終的にリシアの転入は認められた。経緯は不明であるが、マリアベルが 中央の軍官貴に対して妥協するはずもないことから喧々赫々の遣り取りがあったことは想像には難くない。或いは気に掛けてくれていたのかも知れないという思 いもあった。
そしてリシアは領邦軍士官学校でも首席となった。
ヴェルテンベルク領邦軍士官学校には各兵科が一纏めにされ、他の北部貴族の士官候補生も受け入れていた。正規軍の各兵科士官学校と比して規模も小さいも のの、それは卒業後の部隊での教練を前提にしていたからでもあった。これは実践的技術習得に重きを置いているからであり、座学を中心とした正規軍の各兵科
士官学校とは正反対の練兵方法を実行している。特に匪賊討伐に新兵や新任士官を積極的参加させ、実戦経験を積ませるほどの力の入れようで、マリアベルの危 機感と意気込みが感じられた。
そして卒業後、リシアは装甲部隊に配属された。これは蒼天の霹靂であり、リシアはマリアベルの意図を計りかねたが、それは歳を経ることで氷解した。
北部貴族領邦軍内の編成に徐々に装甲部隊が増え始めたことから、マリアベルが装甲戦力を主体とした戦争を意図していることを察したのだ。何気に弄られつ つも可愛がられているザムエルが、装甲部隊を率いて領内各地で匪賊討伐に活躍していることからも、これからの主流となるよう画策していることは確実であっ た。
「つまり私はそれなりに期待される立場を死にもの狂いで手に入れた」
「装虎兵になることは諦めたのか?」トウカが問う。
対するリシアは「面白い冗談を言うわね」と笑い飛ばす。そんなものは機動師団を壊乱させた際に消し飛んでしまった。それまでは、向上が見込める装甲兵器 であっても、現時点では基礎的な戦闘能力は装虎兵に叶わないという劣等感があったが、それを列車砲と重砲の砲撃支援と機甲突破が一蹴してしまった。
クラナッハ戦域に於ける戦闘の主役は、間違いなく装甲兵器だった。
名実ともに装甲兵器が主役を担う時代が来たとリシアは狂喜した。それはマリアベルが意図した未来であり、その未来の一端を自身が担うように部隊配置されたということは、将来的には領邦軍内の要職に配置するという意志表示とも受け取れる。
それが、リシアには嬉しかった。
孤児院を出て一般人としての生を全うする者も少なくないが、リシアはこの閉鎖的な世界を颯爽と駆け抜けたかった。マリアベルの様に。
それがリシアの目標であった。
《ヴァリスヘイム皇国》は他国と比してその臣民の多種族性から女性の権利が大きい。ほぼ同等と言ってもよく、強大な種族が多く住まうが故の特徴であっ た。龍は女でも龍であり、それは虎であれ狼であれ変わりはない。性別よりも種族などに重きが置かれる為、陸海軍が女性将兵の登用を積極的に行っているのは
その理由に依るところである。無論、混血種でしかないリシアは種族による厚遇を受けることはなく、普通に軍で昇進を重ねることになるが。
だからこそ、閉鎖的な貴族社会を颯爽と駆け抜けるマリアベルは、リシアの憧れであり遙か高みに存在する目標だった。ヴェルテンベルク興亡記に記されてい る通りならば、マリアベルは一からヴェルテンベルク領を作り上げ、北部を影から統率し、中央貴族に対して断固たる対決姿勢を打ち出した。
だが、何よりもリシアが共感した理由は、龍としての能力の一切を使えないにも関わらず、ヴェルテンベルク領黎明期には陣頭指揮を執ったという点である。寿命以外はリシアと然して変わらない身体能力である以上、その道は想像を絶するものであったはず。
「私だって、そんな風に生きてみたい。いえ、できるはずよ……」
「無理だな」
リシアの独白に、トウカが即答する。
余りにも自然体なその言い様にリシアは、最初、何を言われたのか分らなかった。
だが、それを理解すると、「貴方には分からないでしょうね」とリシアは吐き捨てる。
トウカに対するマリアベルの厚遇は、既に厚遇と呼べる次元を超えていた。
行き成り現れた国籍不明の黒ずくめの少年に、士官学校すら出ていない者に佐官の階級を与えるだけでも十分な厚遇だが、作戦立案や間接的とはいえ部隊指揮 まで任せることは度を越している。書類上では〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉はザムエルを指揮官とした戦闘単位であるように見えなくもないが、同階級のトウ
カが戦闘団司令部の参謀を務めていることから、リシアはマリアベルがトウカを指揮官に任命したかったが、領邦軍司令部の反発を受けて妥協したのだと睨んで いた。その推測は正しく、海のものとも山のものとも知れないトウカに、師団に準ずる規模の戦力を与えることを領邦軍司令官であるイシュタルを始めとした領
邦軍司令部が反発したのだ。その反発を逸らす為の手段として、トウカには戦闘団参謀という地位が与えられた。
ここで特筆すべきことは、ザムエルとトウカが同階級であり、ザムエルが戦死乃至重症で指揮不能となった場合、戦闘団の次席指揮官はトウカになるという点 であった。ザムエルとトウカが戦闘団内での最高位の階級である以上は当然だが、恐らくこれはマリアベルが、非常時に戦闘団がトウカの指揮を受け付けなるく
可能性を危ぶんだのであろうと、リシアは推測している。ザムエル以外の指揮官となった場合、トウカの進言を受け付ける可能性は低いのだ。
トウカはそれほどまでに気を使われているのだ。
そして更には列車砲の支援砲撃と特設の装甲大隊による側面支援。
確かにクラナッハ戦線の於ける一連の戦闘は、その途中からトウカの統制を離れたが、マリアベルは己の作戦目標を遂行させつつも、トウカの作戦目標にも最大限の支援を行った。列車砲による砲撃支援などは野戦鉄道聯隊の動員に加え、前線までの軌条の敷設を考えればその労力は計り知れない。その上、寄せ集めの装甲兵器を一纏めに編制した装甲大隊を直接指揮して側面支援までしてみせた。
最早、厚遇の範疇ではない。強いて言うなれば、無条件の愛だ。
「最初から恵まれている人には分からないわ」
「ヒトは平等じゃない。確かに御前が俺を評するのであればそうかも知れん。だが、俺の栄達は御前がヴェルテンベルク伯のように生きるということは然して関係のない話だ」
トウカは疲れた様に薄く笑う。
リシアは、その様子からトウカがマリアベルに関する事柄を詳しく知っているのだろうと思い知った。或いは、マリアベルからすると、今の人生は決して当人の望んだものではなかったのかも知れない。
「御前がヴェルテンベルク伯の様に颯爽と生きたいならば、明確な目標を持つべきだ。颯爽と生きたい、なんてものは明確な目標足り得ない。誰かを護りたい、誰かを殺したい、そうした明確な目標を掲げる在り様こそが躍進への原動力になる」
リシアは、トウカの瞳を見据える。
励ましている風には見受けられない。当人は至って真面目に真実を告げている心算であろうことは疑いない。殺人までも明確な目標として是としている口ぶりは、やはり個性的と言う他ないが。
「そう、恵まれているかなんて貴方には関係なかったのね。状況を最大限利用しているだけ、違う?」
「そうとも言える。ちなみにその点についてはヴェルテンベルク伯も同じはずだ」
やはりマリアベルとトウカの関係は深いものがあるのだろう、とリシアは確信する。それは羨ましくもあるが、同時に同じ在り様だからこそ共感し合い、二人は互いに背を預けるに値する存在だと判断したのかも知れない。
「焦るな、リシア・スオメタル・ハルティカイネン。貴様には嫌でも颯爽と生きて貰う」
「うう~っ、言うじゃない。忘れないわよその言葉~」
不安定な視界の中で笑うトウカに、リシアは唸る。
急速に遠退く意識の中、リシアが最後に見たのはトウカの呆れと困惑の入り混じった表情だった。
「これはこれは……参謀殿も苦労なさっていますな」
エップは思わず苦笑して見せると、トウカは困った表情をして見せた。エップの見たて通り、サクラギ・トウカという少年は、決して多くの領邦軍士官が言うところの厚遇されているだけの将校ではない。
だが、エップ個人としては、マリアベルに対して複雑な感情を抱いていた。
エップ旗下の〈右翼義勇軍〉は 北部全体をみると強大な組織と言えた。有事の際、義勇兵に志願する意志のある若者を定期的に練兵し、各地の領主の要請に応じて正規兵として育成した兵士を
紹介するという性質上、組織は大規模とならざるを得なかった。特に匪賊討伐や魔獣退治などを請け負うようになってからは、その重要性は大きく増した。
だが、肝心のマリアベルは良い顔をしなかった。敵視したと言っても過言ではない。
〈右翼義勇軍〉の当初の目的である、平時の練兵機関、という役目をヴェルテンベルク伯爵家の指揮下にある郷土防衛隊が担っている以上、それは当然の結果であると言えた。自身が設立した組織の職分を犯す組織に好意的であるはずがない。しかも、自らの統制が及ばないのだ。
しかし、エップはマリアベルが〈右翼義勇軍〉を認めなかった……危険視した理由は、自分以外の北部貴族の戦力が増強されることに対してであると見てい た。エップとしては北部全体の戦力の底上げの必要性を痛感していた為、幾つかの商家や貴族からの支援を受けて〈右翼義勇軍〉を設立したが、当初はタンネン
ベルク社からの武器購入すらも簡単にはいかなかった。タンネンベルク社は《ヴァリスヘイム皇国》有数の銃器開発製造企業であるが、完全にマリアベルの影響 下に在った。その製造開発されている兵器もマリアベルの軍事思想に基づいたものであることからもそれは見て取れる。故に兵器購入に関しては明確な拒絶こそ なかったものの、調達は遅延に遅延を重ねた。
だが、一時を境にマリアベルからの圧力は完全に消え去った。
エップは素直に北部貴族領邦軍全体の戦力増強を認められたのだと喜んだ。他の〈右翼義勇軍〉高官の面々も北部に於いて経済的、政治的にも強大な力を持っているマリアベルの暗黙の了承に胸を撫で下ろした。
しかし、それは大きな間違いであった。
内戦気運の高まりである。
この内戦の始まりに伴い、〈右翼義勇軍〉はその戦力の殆どを各領邦軍へと供出することとなった。事実上の解体に近い状況である。これはエップも近い将来 そうなると覚悟していたが、マリアベルは集団として力を振るうことが無くなる〈右翼義勇軍〉に対して興味を失っていただけなのだろう。エップ自身は、マリ
アベルの思惑を推し量る為、ヴェルテンベルク領邦軍に編入できるよう手続きを取ったが然したる情報は得られなかった。
そこに、トウカが現れた。
あのマリアベルから不自然な程に信を置かれて、領邦軍を再編成し、兵器改修や開発、製造にまで手を付ける正体不明の少年。
事実上、トウカの指揮を受けているに等しい〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に自身が選ばれた理由は不明確だが、これは好機でもある。北部に於ける軍事行動の多くに関わる女傑に重用される佐官の行動を注視する意義は大きい。
「失礼ながら貴官は不思議な人ですな、参謀殿」エップはトウカの対面に腰を下ろす。
部屋そのものはトウカの私室として用意されたものである。占拠する以前は駐屯していた航空部隊の指揮官の私室として使われていたのか、部屋の隅には簡素な畳が敷かれ、その上で二人は相対していた。周囲にはラムケの空にしたウィシュケの酒樽や、暖房器とその上に乗った容器の中に満たされた水に浮かんだ徳利などがあり、然して広くない部屋は一層と狭く感じられた。
「……んんっ……っ……」艶めかしい女性の声が響く。
エップは今一度、苦笑して胡坐を掻くトウカの足を膝枕に寝ているリシアに視線を向ける。
リシアという少女は、その領邦軍士官学校への転入理由や髪の色から、それなりに事情を知る人間の内では有名であった。無論、優秀であるが、その妥協しない性格から周囲との軋轢も激しく、匪賊討伐に於ける敵を履帯に掛ける苛烈さは余りにも有名であった。
「焦燥に駆られている、と言ったところでしょうかな?」
「戦闘団司令官殿のような優秀な者が近くにいるとなれば心穏やかではいられない。困ったものだ」
迂遠に、トウカの仕官によって余裕をなくしているのではないか、とエップは口にした心算であったが当人は笑顔でそれを躱す。確かに、領邦軍士官学校で然 して良い成績を残したわけではないザムエルだが、その躍進には目を瞠るものがある。しかし、生来の気質か、ザムエルは周囲から妬みや僻みの対象とはならず
昇進に対する風当たりもない。やることなすこと「彼奴か、仕方がない奴め」で収まるという稀有な人物である。
「酷いお人だ。斯様な気遣いを見せておきながら、己の立場を否定なさるか」
「ヒトは立場の為に戦っている訳ではない。あくまでも立場などは手段に過ぎない。誰も彼も、それが分からないようだ。嘆かわしい」
尤もな言い様だが、それを若者に言うのは酷である。トウカも若者であるはずだが、己の立場に関しては目的に応じて用意するものだと割り切っているのかも 知れない。少なくとも自尊心や稚気を振り翳して兵を率いることはないだろうが、その若者らしさのない在り様には首を傾げざるを得ない。
エップもまたトウカに期待していた。
あのマリアベルが信を置く人物が、北部に対して正しい見識を持っているなら喜ばしいことであり、マリアベルと周辺有力者を繋ぐ緩衝材としての役割を期待できる。
「そういえば、ラムケ少佐は何処だ?」
「兵士達に愛国心を説いているのでしょうな。酒精の入っている時に愛国心を説く神官はあれくらいのものでしょう」
エップは戦友の静かなる破天荒を思い出し、何とも言えない曖昧な表情を浮かべる。従軍神官とは決して兵士の救いだけではなく、その戦意を維持する為の側面を有していた。殺人という行為を遣り取りする軍人にとって神とは縋るべき対象でもある。
「貴官は神の愛を説かないのか?」
「今宵は品切れなれば。作戦日時までには仕入れておくので御安心を」
「それは重畳」トウカはリシアの頭を撫でて苦笑する。
慈しむかのような表情でもあるが、同時に嘲笑しているかのような表情でもあった。軍人として最も忌避すべき精神的不安定という要素を持つリシアに対する憐みか、或いは軽蔑なのか、エップには判断しかねた。
「貴官が私に求めるモノは分からないでもない」
「それは……」
視線をリシアに向けたままに、トウカが告げた一言に、エップは絶句する。確かに、ラムケに要請される形で〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉に配属されたエップだが、〈右翼義勇軍〉の指導者であったことから注目されていた可能性は捨てきれない。
「その期待、この作戦の終結後なら応えられるかも知れないな」
「……その時は、是非、協力させてもらいましょう、参謀殿」エップは応じる。
本当に期待通りの人物であれば協力することは吝かではない。騎士位を持つが、真に仕える者がいないエップにとって、トウカを試すことは大きな意味がある。
老騎士と異邦人の遣り取りは深夜まで続いた。